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映画批評
「カミュなんて知らない」(2005)柳町光男~映画は映画である 2006年6月19日
「カミュなんて知らない」、この映画が「映画的」なのは、これが「映画を撮る映画」だからではない。映画の中の映画を撮っている人物たちの生き様そのものが「映画的」だからだ。この映画で柳町監督がオマージュを捧げているゴダールは「私はいつも、二つのものの間を揺れ動いてきた。映画と言うのは、一つの極から別の極へ揺れ動く何かである」(ゴダール映画史Ⅱ278)と語っているが、動機なき殺人、という、この映画の映画内映画のテーマ自体、正常と異常という「一つの極から別の極へ揺れ動く」、極めてゴダール的な、つまり「映画的な」テーマだといえるだろう。映画内映画を撮るにつれ、若者たちは正常と異常、日常と非日常という二つの極の狭間へ放り込まれ、悩み、何かを体験してゆく。人生が映画に呑み込まれてゆく。映画を撮ることで映画が人生になり、人生が映画になる。「ゴダールの映画とは、人生の断片の偉大なる集積にほかならない。複数の人生の断片が同時に交ざり合って絶えず表情を変えてゆくのである」と蓮實重彦は書いているが(ゴダール革命24)、この映画が極めて「ゴダール」的なのは、決して作中人物がゴダールの「男性女性」(1965)について言葉で言及したからではなく、画面そのものが、現実と幻想という二極の間を人生そのものの断片として不確かに揺れ動き、人生と映画とが混ぜ合わされ、衝突し、運動し「複数の人生の断片が同時に交ざり合って絶えず表情を変えてゆく」からに他ならない。映画とは「まるで人生のように」不確かに揺れ動くものであり、人生とは「まるで映画のように」不可解に進行していく何かなのだ。
橋本忍は「原作は一撃の下に倒すことが大事。二度と読まない」(橋本忍の世界168)と述べているが、前田愛は原作に拘泥し、「カミュなんて知らない!」、と割り切ることができない。若さゆえ映画について悩み「無動機殺人」の「動機」を知りたがる。映画とは運動する影だ。映画が「心理的ほんとうらしさ」という「動機」に支配され、運動が動機に従属するとき、運動は論理に支配され、言語的になり、死んでしまう。若者たちが映画内映画の殺人の動機について考えれば考えるほど、映画のほうが若者たちから逃げていく。しかし柳町はそれを否定するどころか、若さゆえの特権として温かく見守り、逆に自分も年甲斐もなく「ベニスに死す」(1971)さながらの白いタキシードの分身と共に映画の中へと入り込み、若者たちと共に混乱し、日常的なものと非日常的なものとの狭間で可愛い子ちゃんにコケにされて楽しんでいるのである。こうして映画内映画が幻想と現実との二極の狭間で混乱すればするほど、本編の「カミュなんて知らない」は人生の活力に満ち溢れて映画的になる。対極を揺れ動き、映画が動機という罠から解き放たれて断片化し、運動する。「映画内映画が混乱すればするほど、本編の映画は逆に力を増して映画的になって行く」というこの構造は、トリフォーの「アメリカの夜」(1973)の構造そのものとも言えるだろう。若者たちの揺れる心を映画の心で例えて見せた素晴らしい作品である。ひたすら言葉だけで安易なオマージュを捧げたがる昨今の作品群とは違い、柳町監督は、物語の構造と画面そのものの力によってゴダールに、そして「映画」そのものに対して映画的なオマージュを捧げている。勿論それは、薄暗い校舎の階段の踊り場で各自練習をする吹奏楽部員たちの、違った楽器の奏でる異なる音色の不協和音を幻想的衝突へと発展させた感性の素晴らしさであったり、持続した空間のなかの現実と幻想とのアンゲロプロス的(溝口健二的)揺れ動きであるといった、視覚的、音響的感性の豊かさがあってのことであり、同時に塀と壁の狭い空間を利用した夜のラブシーンの場所的、光線的感覚であるとか、風の吹き荒れる木陰のキスのロングショットに差し込む光線の絵画的美しさだとか、夜の校舎の裏庭の宴会の見事な手前の暗、奥の明という光のコントラストの配置であるとか、はたまた吉川ひなのの屋上での神秘的なスローモーションのクローズアップであるとか、極めて豊かな視覚的、聴覚的な力が画面を力付けるのであって、決して「無動機殺人」という不可視のテーマそものから即映画は運動を始めたわけではない。ともすれば我々はこういう作品を目の当たりにした時「動機なき殺人とは何か、、」という不可視の言語的なテーマについて語ってしまう傾向があるが、それは犯罪論なり心理学であって「映画論」ではないのである。映画は人生であり、映画とは人生と同じように、不確かに極の間を揺れ動く何かなのである。
映画研究塾 2006年6月19日