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映画批評
「M:i:III」(2006) その危険性と「ピーター・ジャクソン方式」ついて 2006年7月30日
「この映画にはいったいクローズアップが一時間に何ショットあるだろう。おそらく全体の半分以上はクローズアップで占められているはずだ、」、、こんなセリフを私はこれまで何度書いてきたことだろう。
★クローズアップとは
「美しい顔は、目で見ることのできるものの中のもっとも美しいものなのだ(ゴダール全発言Ⅰ126)」とジャン=リュック・ゴダールは言った。確かにクローズアップこそ映画の醍醐味であり、美であり、夢であるといえるだろう。だが同時に「クローズアップに構図は関係ない。フレームだけだ」と、「未知との遭遇」の名キャメラマン、ヴィルモス・ジグモンドが言うように(マスターズオブライト355)、「クローズアップを撮ることほどたやすい事はない・ロッセリーニ」(作家主義125)のもまた紛れもない歴史的な事実であり常識でもある。
松竹大船の「困ったときはクローズアップに逃げろ」(映画狂人シネマ辞典9)という有名な言葉は、まさにそれを指し示すものであろう。その「クローズアップ」が、画面の半数以上を堂々と占めている映画をして我々はどう対処すべきなのか。現代アメリカ大作映画に限らず、世界の半分以上の映画においてはもはや、「クローズアップの機能は物を大きくするためのものでなく、観客の注意を吸収しそうな要素を除外することである」(映画の言語112)という観点へと完全に転換されているのである。クローズアップは画面を「見せる」ものから「隠す」ものへと転換されているのだ。
★ピーター・ジャクソン方式
そしてこのように、画面を「見せる」ものではなく、「隠す」ものとしての悪しき現代映画の風潮を確立した人間は、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズの監督、ピーター・ジャクソンであると私は考えている。それについては後日詳しく論文で解説する予定である。
「ロード・オブ・ザ・リング」以来のジャクソンの現在の画面には、大きく分けて以下の4つの共通点がある。それは①全体の半数以上を占めるクローズアップ②極端に浅い被写界深度③動き続けるカメラ④1時間1000を超えるカッティングである。
これら四つの要素に共通するのはすべて画面を「隠す」ことに他ならない。①我々の空間の中から顔だけを抽出するクローズアップはそれ以外のものを隠す効果を必然的に持っているし、②「ソフトフォーカスはモンタージュと共に出現した。クローズアップの事物を空間の中に孤立させることで、モンタージュの効果(場面を抽象化すること)を証拠立てる」(映画とは何かⅡ192)とアンドレ・バザンが語っているように、背景をソフトフォーカスにすることにより画面はさらに「孤立化」し、「抽象化」されてゆく。③カメラを動かし続ければ、「構図」を作ることを回避できる。さらにマルチカメラの使用によって、構図はさらに窮屈になる。カメラが複数存在すれば、当然ながら構図は他のカメラが画面に映らないところに落ち着かざるを得ず、必然的に「最高の構図」から離れてゆくのが論理である。さらにカメラを動かし続けることは画面を「動き」の中へと埋没させることに役立つ。加えて①クローズアップは、ロングショットに比べて時間の進行を「速める」効果を持っているのであり、それはロングショットの中で人物が画面の端から端までを横切る速度と、クローズアップの中でのそれとを比較すれば一目瞭然であるのだし、さらに②「視野が深いレンズはロングショットに、浅いレンズはクローズアップと似ている」(映画の言語81)とロイド・ホイッタカーが書いているように、②ソフトフォーカスは、クローズアップと同様に映画の速度を「速める」機能を有している。そこに④一時間1000を超えるショット数が加えられるのである、、、
1970年代までのアメリカ映画の一時間の平均ショット数は、300から500程度であったことからするならば、この一時間1000という数字がいかに速いかは容易に想像できるだろう。徹底的に画面を「隠す」と同時に、高速スピードで画面を動かし続けるこの「ピーター・ジャクソン方式」は、どこをどう見たところで映画を「見せる」趣旨ではなく、画面を「隠す」方向へと向かっているのである。
ここでもう一度上述の「クローズアップに構図は関係ない。フレームだけだ」という、ヴィルモス・ジグモンドの言葉を思い出してみよう。構図とは映画の命である。そして構図にこそ多くの「才能」の有無が見て取れる。その「構図」が存在しないクローズアップが全体の6割を占めている映画とは、いったいなんなのだろう。
そうした映画が世界中で大ヒットしてしまったのである。これが現代映画をさらなる悲劇へと向かわせていることを、果たしてどれだけの映画ファンが正しく認識しているだろうか。映画の画面を見ることの訓練をすると、第一に簡単な画面と難しい画面との区別がつくようになる、と私は藤談義で書いたが、画面について訓練をした私でさえも、この「ピーター・ジャクソン方式」の画面は「見えない」のであり、同時にその中になにかを「探す」ことすらできはしない。だがそれは当然なのだ。何もないのだから探しようもまたないのである。「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズには、「難しい画面」がただの一つも存在しない。そもそも映画を作る上で一番難しいところの「構図」を作ることを徹底的に回避し、ただ強いだけで簡単な照明、ソフトフォーカスで見えない装置、そして半分以上のショットが人間の顔から上しか映していないのだから、「難しい画面」などあるわけが無いのである。彼等はそれを承知の上で、ああしたロボットが撮ったような簡単な撮り方を選択しているのである。
★「M:i:III」
「M:i:III」をもう一度目を凝らしてよく見てみよう。この映画の監督は、雨と地面との関係に関して限りなく無知であるとか、会話に従属しきった切り返しの安直さはいかがなものであるかとか、ラース・フォン・トリアーのように何の意味も無く故意に揺らされる手持ちカメラの意味について是非とも教えて欲しいだとか、女優の毛穴の奥まで見せてくれる超クローズアップの趣旨をお伺いしたいであるとか、そうした質問はここではひとまず脇に置くことにして、だがそれよりも何よりもこの「M:i:III」には、ピーター・ジャクソン四つの方式が見事にそのまま当てはまっていることをまずは簡単に確認しておくべきだろう。それ以上の批評は少なくとも私にとっては無意味である。
★「ポセイドン」(2006)との関連性は
ここに「ポセイドン」という、ペーターゼン監督のスペクタクル映画がある。この映画もまた、最初から最後まで力技の一本調子で、細部のカケラも無い凡作であるが(注①)、ただこの作品が、仮に90分間、あれよあれよと楽しめてしまったとするならば、それは「M:i:III」とは微妙に違った撮り方をしているからにほかならない。「ポセイドン」の場合、クローズアップ過多と、落ち着かないカメラの動きという点で「ピーター・ジャクソン方式」の①と③とに当てはまるものの、被写界深度が深く、カッティングのスピードも落ち着いていて、②と④を回避している。だからと言って「ポセイドン」が誠実というわけではもちろん無い。被写界深度を深くしたところで簡単な照明による簡単極まりないクローズアップに逃げ続けているこの作品を、仮にも「誠実である」などと言ってはならない。だがしかし、被写界深度が深くなることで、「見ること」の楽しみが少し増大するのは紛れもない事実なのである。
★人間論として
人間論として考えて見てもそれは明らかだろう。装置家にしても、美術家にしても、小道具係にしても、映画を愛して一生懸命仕事をしているのである。その彼らの仕事を、被写界深度の極端に浅い「M:i:III」のようなレンズで「隠し」続けることは、スタッフ全員の情熱をドブに捨てるも同然である。映らないのなら、彼等は手を抜くようになる。何処を取ってもこの「被写界深度の浅いレンズ」というものは、現代の映画を決定的にダメにしている元凶であると、経験上いうしかない。
★「トップガン」と視覚的細部
80年代の象徴とも言うべき「トップガン」という佳作が在る。この映画は「ピーター・ジャクソン方式」の①と④とに限りなく接近し、同時に②と③とを免れている。だが被写界深度がそこそこ深いために、そこから美術、装置の楽しみを色々と見せてくれているし、行動や距離感の仕草、セリフによる暗示、風による情感、音声による音声の切断、悪役に真実を言わせることによる画面の発展など、脚本、仕草、音、照明、線、などの映画的細部はそれなりに豊かである。
★ピーター・ジャクソン方式の致命的問題
「ピーター・ジャクソン方式」の最大の「罪」は画面を隠すための「四つの手法」をすべて同時に取り込んでしまった点に尽きている。せいぜい四つのうちの2つまでで通してきた映画史が、ピーター・ジャクソンによって完全に「何でもあり」の世界へと変えられてしまったのである。「ピーター・ジャクソン方式」を完成したのがピーター・ジャクソンかどうかはひとまず別にして、そうした恥も外聞もない撮り方で撮った作品を世界的に大ヒットさせてしまったという「既成事実」こそが、ピーター・ジャクソンが映画全体にもたらしたひとつの悲劇なのである。
「画面を隠す」とは、言い換えるならば「視覚的細部の放棄」を意味している。視覚的な細部とは、人間世界の機微や歴史、仕草や反応などの限りない人間観察力の賜物であり、それによってその監督の才能の有無が決定的に判断されるところの映画の命である。
例えば縦の空間を使ったり、窓やドアを空間の中である種のオブジェとして利用したり、鏡において実体と反映との関係を暴きだしたり、高低差で何かを伝えたり、切り返しに意味を持たせたり、物の形状を主題に反映させたり、、、限りない組み合わせやそれを超えた驚きが映画の「細部」を形作り、人間的な豊かさとして提示してゆく。それはゴダールもヒッチコックもスピルバーグもみな同じである。それだけ映画は自由であり、同時に限りなく不自由なメディアなのだ。
「M:i:III」「ロード・オブ・ザ・リング」などの現代アメリカ大作が、哀しいまでに凡庸なのは、視覚的細部を放棄した安直な画面作りが我々に対して通用するとの感触を、彼等が未だに持ち続けているからにほかならない。「人間が創ったもの」ではなく、ロボットが工作した極めて機械的なインスタント映画が仮に大衆に受け入られるとするならば、映画を露とも愛していないプロデューサーや監督たちにとっては、これ以上に素晴らしい撮り方はないのであるから、飛びつくのは当然の流れである。「ピーター・ジャクソン方式」は、そうした流れを決定的に助長してしまったのだと私は考えている。
では何故視覚的な細部が存在しないのか。
そもそも人間は「顔から上」だけで生きているのではないのだから「、ピーター・ジャクソン方式」のように、その半数以上のショットを「顔から上だけ」で成り立たせてしまえば、そこに人間観察による視覚的な細部などというものが出て来るわけがないのである。
「ピーター・ジャクソン方式」は、5分待って何も出てこなければ、3時間まっても何も出て来ない確率が経験上非常に高い。3000ある全ての画面がその本質において「同じ」であるように撮られているのだから、初めの5分だけを見ればすべてが分かってしまうのである。
★最後に
「M:i:III」やピーター・ジャクソンなりを愛する方を悪いとはもちろん言わない。どの映画を愛するかは個人の自由であるし、現にピ―ター・ジャクソンはその初期において「ブレイン・デッド」のような個性的で愛すべき作品を撮っているのだから。だかしかし、仮に「ピーター・ジャクソン方式」で撮られた映画を傑作だと公の場で宣言し、それだけでなく、煽動するような行為をとることは、極めて映画に対する危険をはらんでいるのではないかと私は危惧しているし、やるからには命がけでやるべきだろう。ただそこで忘れてはならないのは、こうした問題を「好き」とか「嫌い」とかいった個人的な問題へと解消することの危険性について自覚的であるべきということだ。「ショーシャンクの空に」という佳作が、ただ「好き」だからという子供じみた理由で「映画史上の最高傑作」なるものに「仕立て上げられた」ことが、果たして映画にとって何をもたらしたのか、そうしたこととも関連付けながら、我々は静かに自戒すべき時を迎えているといえるだろう。
我々はこの「ピーター・ジャクソン方式」の諸問題を非常に重大な案件として、今後はさらにアベル・ガンス、エイゼンシュテイン、アヴァンガルド等についてのショット率、クローズアップ問題などの考察と絡めながら、同時にピ―ター・ジャクソン「ブレイン・デッド」など初期の個性的で愛すべき作品も含めながら、誠実に探求をすすめてゆく所存である。
★注①
例えば前作の「ポセイドン・アドベンチャー」(1972)の場合、ジーン・ハックマン扮する神父を神の使いである「モーゼ」に例え、彼について行った者たちのみが助かるという、寓意としての構造が映画には存在した。クリスマス・ツリーを逆さにして階段を作り、その結果作られた「上のハックマンと下の民衆との上下の構図」には、明らかに視覚的な上下関係が暗示されていたのを我々は目撃している。ところがリメイク版には、そうした暗示的構造が、物語的にも人物的にも、視覚的にも一切存在しない。登場人物には「元消防士」という、信じられない人種までが名を連ね、90分間「力技」一辺倒で大活躍するのである。まるでアクションゲームだ。そのような細部の乏しいものを「作品」として味わうのは不可能である。
映画研究塾 2006年7月30日