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映画批評
「ユナイテッド93」(2006)ポール・グリーングラス 倫理と映画について 2006.8.17
ポール・グリーングラスは、この「ユナイテッド93」の物語が「真実だ」と言っている。それはパンフレットにそう書いてあるからではなくて、画面そのものが「真実だ、」と必死に語ろうとしている。ではポール・グリーングラスは、どのような方法でこの「ユナイテッド93」の物語を、「真実の物語」として語ろうとしたのか。
★映画における真実とは何か
この「ユナイテッド93」は「ニュース映画」ではない。仮に「ニュース映画」だとしても「ニュース映画」も「映画」であり、「映画」は「視点」があり、時間にしろ空間にしろレンズにしろ、あらゆる取捨選択が為されるメディアである以上、リアリズムであれドキュメンタリーであれ、映画は現実そのものではなく、あらゆる「映画」はその抽象化作用によって「ウソ」と「ほんとう」との間を不確かに揺れ動いている何かである。
★映画の「うそ」を暴く
カッティングインアクションや切り返しというメロドラマ的手法で、あらゆる「うそ」を隠し、あるいは現実を「分析」して来た古典的なハリウッド映画の「うそ」の部分、つまり語り手の痕跡を隠し、映画を本当らしく見せる手法に対して、語り手の痕跡を画面の上に敢えて残すことで、映画の「うそ」を告白し、その上で「真実」を画面の上に露呈させようとする試みがある。
それはジャン=リュック・ゴダールが「勝手にしやがれ」でやったジャンプカットであったり「万事快調」での、装置を敢えて観客にさらすことであったり、ウディ・アレンが「カメレオンマン」の中でした、現実と虚構との戯れであったりする(「映画記号論入門」435)。このように、映画の「うそ」を積極的にさらす行為、その中に「カメラを故意に揺らす」という手法があるのではないか。
★手持ちカメラを故意に揺らすことの意味
ポール・グリーングラスは、手持ちカメラを故意に揺らしている。「恋に揺れる松山千春」は許せるとしても「故意に揺らすポール・グリーングラス」は許したくない。
第一に何故カメラを故意に揺らすのだろうか。
おそらくそれは、故意にカメラを揺らせばまるで「ニュース映画」のように、そして「ドキュメンタリー映画」のように「真実性」を観客に感じさせることが出来るとポール・グリーングラスが考えているからだろう。例えばテレビで、スクープの報に現場に駆けつけたキャメラマンは、手持ちカメラで走り回り、その結果画面は揺れる。そうした光景を見慣れている我々は、カメラが揺れると、それは「ドキュメンタリー的である」、つまり「真実らしそうだ」と感じやすいのである。
★経験則
ではその「真実らしさ」とは何によって生まれるかといえば、それはあくまで「経験則」であって、映画というメディアそのものから発せられるメッセージ性との戯れによって 生まれた技法ではない。
しかもニュース映画なりドキュメンタリー映画では、そもそもキャメラマンはあそこまでひどくカメラを揺らすほど下手ではないし、それよりも何よりも、彼等は「故意に」カメラを揺らしているわけではない。
★ゴダールと映画のうそ
ここにジャン=リュック・ゴダールのこんな言葉がある。
「私はいつも真実を伝えようとしてきたが、それは言われた事柄の真実よりはむしろ、言われた瞬間が真実なものであると思われようとしてきた(ゴダール映画史Ⅱ254)」。
ジャン=リュック・ゴダールのこの言葉は何を意味するのだろう。
それは、映画の中で語られている言葉の内容、物語なり事物なりの内容の真実を映画の中で求めるのではなく、その語られ方の倫理性からくる映画そのものの真実、あるいは人生そのものの真実性を「露呈させる」ことを目指している、というようなことを意味しているのだと私は思う。
「あらゆる美学、芸術は、それが現実的なものの幻覚を創り出す事を本質的に意図している時、不可避的に救い上げられるに値するものや、失われるに値するものや、あるいは拒否されるに値するものの中で、選択を行う(映画とは何かⅢ27)」とアンドレ・バザンが言うように映画とは、あらゆる取捨選択を通じて撮られる主観的な抽象化作用であるという側面を否定することは絶対に不可能なのであり、だからこそ「映画の中で語られる物語」は、ドキュメンタリーであれ、フィクションであれ、「一つの真実」なるものには決して成りえないか、非常になりにくいものであり、描き方によって100通りの真実にも成りうるのであるのであって、従って映画の中で語られる「物語の内容」を「真実である」として語る行為の中にはどうしても「うそ」が介在してしまうという危険がつきまとう。
「映画とは、現実の複製であるかに見えて、その再現には決して行き着くことのない、裏切りの映像であり音響である。であるが故に人類はある時期、文化に逆らう不自然さとして、つまり「消費」しがたい芸術として、映画を必要としていた(ゴダール革命208)」と蓮實重彦が語るように、映画というものは、機械による芸術である点において限りなく現実的でありながら、言語とは違った主観性にも支配され、「真実だ」といえば「うそ」になり、逆に「うそ」だといえば「真実」になるという、非常に面白いメディアなのであって、だからこそ逆に映画そのものの「うそ」を受け止め、映画そのものがメディアとして本質的に抱えている「うそ」という「限界」と向き合い、「現実」との戯れを生じさせながら、「言われたことや物語の内容の真実」ではなく、「言われた瞬間の真実」を露呈させる、それが「倫理的な態度」である、というようなことを、ゴダールは言いたかったのではないか、、、
★ハリウッド映画ですら「うそ」を告白している
古典的なハリウッド映画ですら、西部劇であれSFであれスクリューボールコメディでさえ、メロドラマであれ、何であれ、徹底的に「うそ」の物語を演じ続けたのであって、彼等は決して「このスクリューボールコメディの物語は真実である」などという滑稽なことは言ってはいないのである。
それとは逆にポール・グリーングラスの力説するところの「真実」とは、「物語の真実」であって、撮られた瞬間の画面は、後述するように極めて安易な構図、光線やモンタージュに支配されている。
さらにポール・グリーングラスの主張したいところの「真実」とは、本人が見てもいない物語の真実に過ぎないにも拘らず、何故にポール・グリーングラスというフィクション映画の監督が、ここまでも強硬に「見てもいない物語の真実を伝えたい」などと言う伝道師まがいの心境になってしまうのかが第一に摩訶不思議ないかがわしさなのであるが、「物語の内容の真実」を伝えたいという態度は、それは例えばハリウッドのスクリューボールコメディの物語が「真実である」などということとその本質において同じくらい滑稽な態度であって、そのようなことをするくらいなら、今、目の前に俳優が現前し、息をし、人生を生きているという可視的な出来事それ自体の「真実」を見つめるべきではないだろうか。
しかしポール・グリーングラスは、そういったものからは一切目を背け、彼らを凝視するどころか、揺れるカメラでひたすら俳優や出来事から目を背けている。そのような「対象を捉えようとしない画面」に「真実」なるものの断片が露呈するわけもないではないのであって、そこからポール・グリーングラスの目指す「真実」とは、可視的な「出来事」の中にではなく「物語の内容」という不可視的なものの中にあることがそれとなくわかるのであり、だからこそ逆にポール・グリーングラスの画面は、映画は「うそ」であるという「真実」を「隠す」方向へと向かわざるを得ず、従って彼の画面がその言語的真実性とは裏腹に、「うそ」へ「うそ」へと非倫理的に流れてゆくのは当然の結果なのである。
★ラース・フォン・トリアー
ここに「カメラを故意に揺らす」という問題性を抱えたラース・フォン・トリアーという一人の作家がいる。私は彼をあまり好きではないが、しかしそのラース・フォン・トリアーですら、映画は「真実だ」などという「うそ」を付いていないことは、彼の「ダンサー・インザ・ダーク」の幻想的なミュージカルのシーンや「ドッグヴィル」の非日常的な装置を見れば明らかだろう。
★構図からの逃避
加えてそもそも「カメラを故意に揺らすこと」という行為は、体力さえあれば「誰でも出来る簡単な」行為であり、美学的な面から言えば、「カメラを故意に揺らす」という行為は、映画にとって一番難しいところの「構図」を作ることから逃げることを意味している。揺れ続ける「ユナイテッド93」には「構図」が存在せず、逆に被写体に近づいて「カメラを揺らす」という、「簡単な行為」によって撮られた「簡単なショット」が1500程度続くに過ぎないのである。そのような映画のいったい何が「真実」なのだろうか。
★引用
「不自由さに徹することで、体系としての言語なり映画なりの限界をきわだたせることもなく伝達しうる思想など、あえて表現されるに値しない」(監督小津安二郎増補版131)と語る蓮實重彦の言葉を引用するまでもなく、また「映画作りは、9割の倫理(固定ショット)と1割のユーモア(移動ショット)である(われ映画を発見せり153)」という青山真治の発言を引用するまでもなく、「映画は真実だ」として「カメラを故意に揺らす行為は」は「真実」どころか、それとは正反対の、倫理上極めて問題をはらんだ行為なのだと私は思う。
★照明
さらにポール・グリーングラスは、管制塔のシーンを始めとして「照明」を徹底的に無視している。それも良いだろう。ハリウッド的な人工照明を廃して「真実の光」でもって映画を撮る。だが「真実の光」は「白痴の光」であってもよいという訳ではない。「真実」とは、仮にそのようなものが存在するとしても、探求するものであり、生涯追い求めるべきものであって、決して「何もしない」ことではない。
ところがこの「ユナイテッド93」では、俳優の顔を時に露出アンダーで真っ黒にさせておきながら、それに対して何らの方策も講じていなかったり、役者の立ち位置、動き、お構いなしにフィルムは回され、ポール・グリーングラスは「それが真実だ」と言いたげである。その結果として、彼の言う「真実」とは「露光不足」であり、「簡単な照明」であり、「気を使わない光」となって画面の上に反倫理的に露呈している。
フレデリック・ワイズマンの「ドキュメンタリー映画」は見事に映画的な「黒」をフィルムの上に露呈させ、素晴らしい照明で我々をうそとまことの神秘の只中へ招待してくれる。
対してポール・グリーングラスの「劇映画」のフィルムの上に露呈したのは、コントラストも何もないペラペラの画面であり、装置であり、映画の命である光に対して何の答えも探そうとしないポール・グリーングラスの「怠惰」でしかない。
★人間論
以上は映画論であるが、映画とは人生なのであるから、簡単な人間論として冷静に考えてみたい。
仮に我々が、花であれ、人間であれ、自動車であれ、何であれ、その対象の「真実」なるものを真摯に捉えたい、として対象にカメラを向ける時、カメラを故意に揺らす人間がどこにいるだろうか。カメラを故意に揺らすシーンを頭の中でイメージしてみよう。それはただの滑稽でしかない。
ポール・グリーングラスの「故意にカメラを揺らす」行為の最大の非倫理性は、「うそ」を経験則によって「真実に見せよう」とする欺瞞的な態度にあり、決して彼の態度は、真実を「求めている」者の誠実な態度ではないのである。
繰り返すが、ラース・フォン・トリアーのカメラ揺らしが、好き嫌いは別として、ギリギリの線において議論の対象になりえているのは、彼が映画の「うそ」を露呈することによって「真実を求めている」からであって、仮に彼がカメラを揺らすことで「物語の内容の真実を見せよう」とするのであれば、その時点で彼は限りなくアウトである。
★テレビ
確かにポール・グリーングラスは色々と取材もしたのだろうし、役者の動かし方に才能を感じさせる場面もなくはないが、その努力なり才能は、極めてテレビ的なものに近いのであって、そもそもこのポール・グリーングラスという人は、典型的に「テレビ」で仕事をするタイプの画面作りをする人なのである。
★泣くこと
では、この映画は「泣けない」のか?、と尋ねられれば、悪質なまでに「泣ける」ように出来ているのであって、もちろん私は泣かなかったが、これを見て泣かれた方は正常だと思うし、だからこそ、余計に居心地の悪さを感じるのである。画面が素晴らしければ、いや、例え素晴らしさを欠いていたとしても、そこに「誠実さ」と戯れるところの倫理的な何かが露呈していれば、私はこのようなことは絶対に書かない。
仮にテレビでテレビとして見ていたなら私も泣いたかも知れないが、映画として見るときの私の瞳には常に強固な「映画バリア」が張られているので、間違ってもこの平凡な画面で泣かされるということはない。
★どう撮るべきか
ではどう撮るのか、、私なら、まず映画が始まる前に「この映画はフィクションである」という「言わずもがなの真実」を恥かし気にテロップなどで流して告知しながら、画面を固定し、装置とフィルムとで幻想的なコントラストを構築してから、管制塔のシーンは一切撮らずに飛行機の中の人間関係のみに焦点を当て、あとはひたすら何かが露呈するのを待つしかない。最後はハイシャック犯へと立ち向かう男たちを、うそのような人工照明で華麗に振向かせてから、「もちろん」ハッピーエンドで終わらせる。これぞ「夢の工場ハリウッド」の輝かしい復活である!
当然ながらこのようなものを作ったら、「不謹慎」であり「ウソつき」であると叩かれるに違いない。だが「不謹慎」とはなんだろうか。「フィクション」とはそのように「不謹慎」なものだろうか。
★「ホテル・ルワンダ」
「ホテル・ルワンダ」という映画がある。この作品は、切返しや編集において古典的ハリウッドのデクパージュによって撮られ、ドラマチックなハリウッド的演出を施し、ハリウッド的なスローモーションや、ハリウッド的な雨を駆使して撮られた、それなりに出来の良い「娯楽映画」である。さきほどのジャン=リュック・ゴダールの言葉を借りるなら、撮られた瞬間に「娯楽映画」としての精神が画面に露呈している、そういった感じのフィルムである。
ところが人々は「ホテル・ルワンダ」を重く深刻に見る。なぜであろうか。それは「物語の真実性」なるものを、映画の重要部分として置いているからではないだろうか。
だがそうした「物語の真実さ」を重視する姿勢は、映画とは限りなく遠い箇所に位置する「政治的な」態度のように思えて私はならない。本来的に「うそ」にならざるを得ない映画というメディアの物語が、真実であるがの如くに語られることに対して、それを理由に評価するという姿勢は、危険であるように私は思う。
だからこそ私は、「ホテル・ルワンダ」を政治的な理由から日本へ輸入しようと努力された方々を素晴らしくないとは言わないが、だがそれ以上に、映画的な理由から、金沢21世紀美術館に、鈴木則文の成人映画を上映されようと努力をされた人々を賞賛したいのである。
★「シンドラーのリスト」
私が「シンドラーのリスト」に感じた「真実」とは、決してシンドラーはこんな人物であった、という物語上の真実さではなく、撮られた画面の美しさの醸し出す、映画そのものの持つ不可解さと、恐ろしさと、グリフィス的記憶を呼び覚ます驚きであった。
★映画の真実とは
映画という「うそ」のメディアにおいて、物語上の真実という、極めて不確かなものを強く求めるというのは危険な兆候であり、この批評文の主眼はまさにそこにある。仮に「この物語は真実である」などというテロップが映画の冒頭なり終わりなりに挿入されたとしても、我々は惑わされることなく、映画そのものの真実と真摯に戯れたフィルムと、そうでないフィルムとを、感じてゆくしかないのではないだろうか。
★事件の風化
以上の批評は、この「ユナイテッド93」の題材が余りにも生々しく、事件からの時間も短く、風化されていないにも拘らず、ポール・グリーングラスが撮ってしまったということに対する批判ではない。それが問題になるのであれば、ほとんどすべての映画が「不謹慎」ということになりかねないのであり、確かに余り気持ちのいいものではないにはしても、今回の批評の論点はそこなはない。
★最後に
色々なことを考えさせてくれたという点で、「ユナイテッド93」は有意義でありました。大切なのは、もちろん私の書いたこの批評?が「真実である」などという「うそ」ではなく、映画の「うそ」と「まこと」との関係について、みなさんと一緒に考えてゆくことが出来たということに尽きています。
拙文失礼致しました。
映画研究塾 2006年8月17日