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映画批評
「武士の一分」山田洋次(2006)「つなぎ」のためのカットとその問題について 2006.12.6
★カット
映画で「カット」をする場合には色々なケースがあるだろう。視点を変えたい時、空間を変化させたい時、時間を転換させたい時、様々である。
だがカットしたあと、そのままカメラを動かさず、次のカットを開始すると、映画は「ジャンプカット」といって、違和感が出てしまい、つなげなくなる。例えばタバコを吸っている人物のシーンをいきなりカットし、また撮り始めると、明らかに時間空間の狭間が出来てしまい、いわば動作がジャンプしてつながらなくなってしまう。そういう時に映画人はどうするかというと、カットせずにそのまま長回しで撮り続けるか、それでも矢張りカットするかの二つに一つである。
★カッティングイインアクション
後者の場合、動作の中でアングルを変化させたり、クローズアップに寄ったり、またロングショットに引いたりすれば、二つのカットはつながっているように見えてしまう。これが「カッティングインアクション」という便利な方法であり、動作の中でカメラの位置を変化させてカットをつなぐことで、我々観客は二つのカットが違和感無くつながっているような「錯覚」を起こすのである。例えばタバコを取り出し、口に近付ける瞬間でまずカットして、次にクローズアップに寄ってタバコを口にくわえる瞬間のカットにつなぐと、我々は一連の動作が繋がっているように錯覚してしまう。
つまり映画で同一の人物被写体に対するカットが変わった瞬間、そこではほぼ100%の確立でこのカッティングインアクションが為されているのであり、そこでは例外はあれど、アングルにせよポジションにせよフレームサイズにせよ、必ずやそれらを変化させてカットをつなぐことで一連の動作の連続を錯覚させているのだ。問題なのは、この「つなぐこと」の意味なのである。「何故つなぐのか」であり「何故カットするか」である。
★問題のシーン
この「武士の一分」に、木村拓哉が毒に当たり、運ばれた後、残った侍たちに、上役が沙汰を言い渡すシーンがある。このシークエンスは始め、やや斜めからのローポジションのフルショットの長回しで撮られている。その後、仲間が木村の容態を尋ねた時、上役がさっと振り向き、ここでカットが変わり、次のカットへとつながれる。上役が「振り向く」のは、「動作」の中でカットをつなぐ、カッティングイン「アクション」の趣旨に他ならない。さて、ここで二つのカットがどうつながれたかと言うと、カメラが少しだけ左に動いてつながれたのである。ここが問題である。
私は正直にいって、こういうつなぎを見たことはほとんどない。私が疑問に思ったのは、この、右から左へのカメラポジションの変化に、何の意味も感じられないことだ。
★カットの意味と「視点」について
さて、さきほど私はカットを「つなぐ」と書いたが、その理由については深く考察しなかった。ここで改めて何故「カットを変化させるか」、を考えてみたい。
映画とは「創作」であるとすれば、そこには必ず「視点」というものがある。こういう観点から撮りたい、ああいう観点から撮ってみたい。視点の無い創作など在る訳が無い。当然「カット」というものにしても、「カット」は「カット」そのもののためにのみあるのではなく、「視点を変化させるために」あるのである。それが映画を「創作する」という行為に他ならない。
ではさきほどの「武士の一分」のあのカメラの変化に「視点の変化」なるものが存在しただろうかか。私は無いと思う。ただ少しカメラを横へずらしただけで、人物の角度も空間の全体像もほとんど何も変わってはいないのだから。では何故、そのような「無意味なこと」をするのか。それは、カットを「つなぎたい」からではないか。
★つなぎのためのカットとは
前述のように、一つのシークエンスを完全に長回しで撮らない限り、作り手は必ずどこかで「カット」をしなければならない。だがカメラも人物もそのままの状態でカットすると連続性に問題が出る。そこで山田洋次は「仕方なく」カメラを動かしアングルやサイズを変化させる。山田洋次の「カット」とは、限りなく「つなぎを滑らかに見せるためだけに」存在するのであり、そこには限りなく「視点」の変化がない。長回しで撮られた多くのシークエンスを良く見てみよう。役者なり場なりの「息切れ」を合図に「カット」され、次のカットへとつながれている。
蓮實重彦が指摘するところの、松竹大船の撮影方法の悪い癖として有名な「クローズアップに逃げる」という言葉の、この「逃げる」の意味は、おそらくこういった趣旨のことだと推測される。
山田洋次の映画をもう一度良く見直してみよう。まず長回しが多く、その後、意味も無くアングルが変化する。例えば「武士の一分」からしても、一人の人物の最初は右側から、次に左側からという、何の意味があるのかまったく不明のつなぎが幾つかあるし、冒頭、木村拓也が飯を食うクローズアップのあとでも、まず斜め前から、次に後ろから、再び斜め前から、次に縁側の外から、その次にさらに遠くからと、ただ座っているだけの木村を撮るのに目まぐるしくアングルを変えている。「視点」が余りにも多すぎる。山田洋次の映画には、極めて視点が多い。つまり「視点」がない。これらの多いアングルは積極的な「視点」ではなく、ただカットを「つなぐ」という消極的行為の「結果」に過ぎないのではないだろうか
★グリフィス、黒沢清
D・W・グリフィスのクローズアップを見てみよう。そのほとんどが時間空間から「亀裂」している。分かりやく言えば、ほとんど物語とは何の関係も無いようなところで、或いはまったく逆にドンピシャのタイミング(視点)で、物凄いバックライトに照らされて詩的に入ってくる。「つなぎ」の感覚がまったくない。ただ「撮りたい」という欲望にのみ任せ、それを美しく撮ることそれ自体が目的となっているようなクローズアップである。
「勝手にしやがれシリーズ」で、黒沢清が、物語の設定からは殆ど何の関係も無く、脇役の洞口依子をして何度も美しく振り向かせながらのクローズアップを撮り続けたのも、「洞口依子は特別」(黒沢清の映画術92)だからに他ならず、ただ洞口依子を美しく撮ることの欲望のみに身を委ねた結果であって、決して「つなぐため」に撮られたものではない。
カットとカットのつなぎ目を分からなくするという消極的な目的のために入るのが「つなぎのクローズアップ」であり、そこには「撮る」という欲望もなければ目的も視点も無い。それを「クローズアップに逃げる」と言うのであり、現代映画の多くはこの病に、多かれ少なかれ感染している。
「武士の一分」のすべてのカットが「つなぎのためのカット」だとは言わない。だが余りにも「つなぎ」を思わせてしまうカット、つまり「視点の変換を伴わないカット」が多すぎるのである。
だが一つのカットがつなぎのためなのか、そうでないのかは、一つの趣旨の問題であり、それを断言することは不可能である。たった5センチカメラをずらしただけでも「視点を変えたのだ」と言われれば、それに反論するのは難しいかもしれない。以上はあくまで画面を見つめて来た私の経験上の感覚である。
だが、山田洋次は限りなく「視点」を欠く作家である、という点については、少なくとも証明はできるだろう。余りにも視点が多すぎるからだ。
私が「武士の一分」で「視点」を感じたのは、壇れいがお百度を踏むシーン、壇れいが家出をするシーンの雷鳴雷光の中での横移動、木村拓哉が笹野高史に家で最後の別れを告げるシーンの長回しとトラックアップ(ここはこの映画の中で初めて意義のあるワンシーン・ワンショットで撮られた、照明を含めて素晴らしいシーンである)、決闘の屋根の上と下との縦の構図、その他少々に過ぎない。折角作られた幾つかの縦の空間は、いつものように、小津安二郎のキャメラマン厚田雄春氏の言われるところの「野暮ったいピント合わせ」によって破壊されている。
あとは我々が画面を見つめることで、果たしてこの山田洋次の「武士の一分」のカットの多くが、ただの「つなぎ」のためから成立っているのか、そうでないのかを感じてゆくしかない。
映画研究塾 2006年12月6日