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映画批評

「グエムル・漢江(ハンガン)の怪物」(2006)ポン・ジュノ その簡単な凡庸性について 2006.9.10

★書くこと

「画面」というものは、客観的なものであるものの、それは、「見る」という困難な作業を伴って始めて「見る」ことのできるものであり、極めて職能的な経験が必要なところの訓練の賜物である。私も日々、「見ること」の足りない部分をあらゆる経験のなかから発見しようと努めている。

画面を見ることで何よりもまず到達できるのは「難しい画面」と「簡単な画面」との識別である。そうした観点から、どこまで伝わるかは分からないが、とにかく「画面」という客観的なものからこの「グエニル・漢江の怪物」が何故問題なのかを指摘してゆきたい。

★画面が明るい

画面が明る過ぎる。これはどなたが見ても簡単に感じられるであろう。これは光線の明暗の問題なのであるが、映画というものは、スクリーンという限られた空間の中で何かを暴き出すものなのだから、当然そのスクリーンという限界に働きかけ、「何かをする」、それが映画であり、映画史100年はまさにその歴史であるといっても過言ではない。ペラペラの平面体のスクリーンに映し出される画面をいかにして豊かにしてゆくか、その一つの手法が光における明暗であり、コントラストであり、それによって画面は「差異」というフィルム的豊かさを得る。

★コントラスト

画面の中にコントラストを配置するということは、照明のみならず、例えば装置の構造と光の角度との関係であるとか、太陽と人、衣装、美術、そして現像処理と、あらゆる技術と情熱によって初めて達成される困難な映画的仕事である。

例えば机の下でも箪笥でも何でも良いが、そこに正面からではなく、他の角度からライトを強く当てれば、その空間なり平面だけは暗くなる。そうすることで一つの空間の中に明るい部分と暗い部分とが配置され、それが差異となり、美を生むのである。しかもその「暗さ」は、ライトを当てることによりもたらされる暗さゆえ、露光不足にも見えないのである。

ところが「グエニル・漢江の怪物」には、画面の明暗がない。特に病院や、遺影の飾られている体育館など、多くがペラペラの一本調子で簡単に撮られている。さらに問題なのは、照明なのかフィルムの性質なのかは今ひとつ定かではないが、とにかくそうしたことによって光のソフトさを極めて欠いているがために、まるでテレビのような硬質の、カサカサした無機質の画面になってしまっていることである。実はこれだけ見た時点でこの映画はダメなのである。

このように、映画を豊かにする空間作りにおいて限りなく「何もしていない」か、それとも才能を欠くが故に「何も出来ない」か、あるいは「失敗した」かのこの作品は、どちらにしても、それだけで早くも非常に危うい状態にある。

★光の当て方と「赤」と「黒」

結局のところ、「光」なのである。ここまで話してきたことは、装置、衣装、人物配置、照明その他の関係と、フィルム自体の肌触り(明暗・ソフトさ)の問題だが、そのすべてに「光の当て方の問題」がかかわっている。この「グエニル・漢江の怪物」は、光の「当て方」に決定的な問題があるのだ。

例えば序盤、怪物が初めて出現し、トレーラーの中に人々を追い詰めたときの、トレーラーから地面へとポタポタ流れ落ちる血の「赤」という色が、光の当て方ないし液体の選択を誤ったがためにまったく「赤」になっていない。仮にそれが「赤」でなく、リアルな「どす黒さ」を出したかったのだとしても、矢張り「黒さ」という「色」も光を的確に当てなければ映画のフィルムの感光として豊かな「黒」は出ないのであり、事実この映画の数箇所で流れ出す血は、露光不足気味なのか液体の選択などの問題なのか不明だが、「色」をまったく出せていない。こうした「色」というものに対する無神経さがこの映画の全編を支配していて、「色」とは映画において、装置、道具類その他と「光の当て方」の問題なのだから、結局のところ、「色」について問題を露呈するこの映画の「光」自体が、極めて安易に処理されているということが、画面上の上に露呈しているのである。

「水面」というものへの光の当て方、「雨に濡れた舗道」への光の当て方なども同様である。

★黒

以下は私の見た映画のなかで素晴らしい「黒」が出ているもののほんの一例であり、脈略もなくランダムに挙げたものであるが、是非御自分の目で見られて、素晴らしい「映画の黒」の歴史をその目で確認していただき、「グエニル・漢江の怪物」と比較して頂きたい。

「運命じゃない人」、「白い刻印」「アメリカン・バレエ・シアターの世界」「人生劇場・青春・愛欲・任侠篇」「荒野のストレンジャー」「父、帰る」「ポルノスター」「ボビー・フィッシャーを探して」「回路」「花嫁の父」、、、

★画面を「見る」ということ

映画の画面を見る、ということは、何千本もの映画を、その画面の中で起きていることをすべて見てやろうという姿勢と共に、画面の「差異」というものを経験上瞳に植え付けてゆく作業でもあり、従って昨日まで画面を見ていなかった方が、今日になって「はい、わかりました、見てみましょう」といって見られるほど生易しいものではない。まずは「良いもの」を見て、そのフィルムの感覚を瞳に焼き付けるしかないのだ。

★簡単なクローズアップの多さ

この作品の問題は「明る過ぎる画面」だけではない。それ以前に一言で言うならば、画面を見ていて「難しい画面」がどこにも見当たらない、ここが決定的に問題なのである。

この映画は韓国で大ヒットしたようだが、なるほどポン・ジュノは「大ヒット」するような「俗」の方向へと首尾よく回避している。

その「俗」というものは、背景をソフトフォーカスで隠してから、簡単なクローズアップに逃げ続ける画面を見れば一目瞭然であり、移動撮影を初めとして、豊かな遠景から構図を決めて撮ったショットが極めて少なく、照明、また照明と装置、人物の関係において情熱を発揮することなく、ふた呼吸目には、極めて安直なクローズアップへと逃避している。

クローズアップという手法の問題については「M:i:III(2006)その危険性と「ピーター・ジャクソン方式」ついてなど、当サイトで何度も繰り返し書いてきているのでここでは敢えて繰り返さないが、ソン・ガンホがビニール袋の向こうで携帯電話を吐き出すシーン、父がソン・ガンホの過去を語るシーンを始めとして、コントラストを欠いた見るに耐えない安直なテレビ的ショットで画面は処理され続けている。

★スローモーションと近景

映画が高揚を迎えると、ほとんどの場面が簡単なスローモーションと簡単な近景によって処理されている。スローモーションが悪いとは言わない。ジャン・ヴィゴ、ジャン・ルノワール、シュトロハイム、ヒッチコック、ゴダール、クレール、イーストウッド、パブスト、コクトー等みんなスローモーションを使っている。だが、アクションが高揚するとすべてがスローモーションというのは話にならない。

縦の構図は簡単なピント送りで簡単に処理され、距離という空間も簡単なレンズの選択によって簡単に処理されている。視覚的な細部がほとんどなく、脚本も構造的に単調で、アメリカの悪いところをすべて吸い込んだという感じの、私の感覚からすれば、ポン・ジュノのような作家が「絶対に撮ってはならない」作品と言うことになる。

この映画はCGを駆使した所謂大作であり「大きい」映画である。CGそれ自体が悪いとは言わないが、しかしこういう「大きい」映画を作るとき、その大きさ故に、逆に「小さな」部分への心を砕くということこそが倫理の問題であり、豊かさの問題である。だがこの「グエニル・漢江の怪物」は、大きな事には手を入れながら、小さなことに心を砕いていない。

★現代映画が欠いているもの

このように、現代の悪しき映画に共通する問題をこの「グエニル・漢江の怪物」も持ち合わせている。それは「倫理の問題」に簡単に背を向ける姿勢に他ならない。人が見ていないと思わしき部分に心を砕こうとしない「大作主義」の悪しき風習が、紛れもなくこの作品の「画面」という人格に露呈している。

「面白ければいい」などという一言ですべてを解決しようとする人々に我々は背を向けながら、「映画の倫理」のしがらみの中へと心地良く身を任せ、右往左往しようではないか。

そうした「倫理」の中へと足を踏み入れたときこそ、初めて我々は「ゴダール」であり「黒沢清」であり「イーストウッド」なり「小津安二郎」なりと、真の友人足りえるのである。

★テレビとの関係

以上、私がここで故意に題材として選んだ事柄は、映画とテレビとの差別化を図る上で重要なものでもある。

★映画と黒との関係

蓮實重彦は、最近は映画から「黒」が失われたことを嘆きつつ「ハメット」「ペイルライダー」の「黒」の素晴らしさを指摘している(映画狂人シネマ辞典29)

映画初期のモノクロ時代においては、映画の画面は白と黒という二色ですべての差異を表さざるを得なかった。映画初期の短編の女優の口紅が真っ黒に見えるのは、そうしたことの反映である。だが徐々に技術が発達し、それまでの、赤い色の光に感光せず、白黒のコントラストの強いオルトクロ・フィルムから、どの色の光にも感光し、灰色のニュアンスが豊かなパンクロフィルムの登場によって、映画はグレーの幅によるグラデーションという第三の差異を獲得し、それによってさらに豊かな奥行き、幅、といった差異を職人芸ともいうべき装置、照明、衣装などの妙に表し始めた。

中でも「黒」は、映画の差異を表す基調として長く映画史を支えてきた基本色である。映画がカラー時代になると、画面の「差異」は白黒グレーではなく、あらゆる色彩によって作られるようになり、照明や装置の関係にさしたる努力をせずとも、誰でもただ撮りさえすれば遠近なりなんなりの差異が簡単に出せるようになる。それでも真面目な映画人は豊かな黒に拘りながら、時にカラー映画を「モノクロ映画のような丹念な配光で差異を出す」、というようなことをしながら画面の美を求めて来たのである。モノクロでれカラーであれ、差異を表す上で「黒」ほど美しい色は存在しないのだから。

ところが映画界が斜陽になると、映画はテレビで放映されることが多くなり、現在ではテレビ放映の収入を見越して映画が作られるという状況に至っている。ところでテレビの画面は本質的に映画のスクリーンよりも小さく出来ているのであるから、画面が黒を基調に作られると、小さな画面のテレビでは、暗くて良く見えなくなる、という事態が生じてしまう。よく「画面が暗くて見えませんでした」という「テレビファン」の苦情を耳にするが、それはまさに、「映画」を「テレビ」で見ることから生ずる現象なのである。

そこで映画はどうなったかと言えば、映画の「黒」を捨て、テレビ放映用に明るい画面で撮り始めたのである。映画から「黒」が失われる。それについて「テレビファン」ではなく「映画ファン」である我々は何を言うべきなのか。

「グエニル・漢江の怪物」の明るいだけコントラストの欠いた画面を見た時、我々映画ファンは、面白い面白くないという以前に、そこに映画的記憶を欠いた極めてテレビ的な画面を発見し、指摘すべきなのだ。この映画は、カラー映画特有の安直さで撮られていて、丹念に差異を出すという作業を怠っているのである。

同時にクローズアップ過多という現象も、「小さな画面のテレビ」放映用の問題と切り離せないことは、ここで繰り返すまでもないだろう。「驚き」や「発見」のために追及されてきた映画初期のクローズアップが、現代においては「つなぎ」なり「逃避」の手段でしかないことは、「グエニル・漢江の怪物」を始めとした大作映画の安直極まりない簡単なクローズアップを見さえすれば、誰でも分かる簡単な事実である。

★映画なのか

私はこのように、「映画」が「映画」であるために必要なものを述べてきた。つまり私は、映画が映画で在るためのものを安易に放棄したこの「グエニル・漢江の怪物」は限りなく「映画ではない」と言いたいのであって、「いい映画か悪い映画か」などという、一昔前の呑気なレベルの話をしているのではない。

★ポン・ジュノは終わった

この作品によって、前々から感じてきたポン・ジュノに対する疑問が一気に解決したような感があり、彼のキャリアにとってもこれは致命的な作品となることだろう。

終わりに

くどくどと書いてきたが、矢張りこの映画に対する批評としては、私の感覚的なものとしては「5分でダメ」、これに勝るものはない。

映画研究塾 20069月10日