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映画批評

「運命じゃない人」(2004)内田けんじとフィルム・ノワールの世界へ 2006年8月13日

★黒

「黒」の映画である。ハイコントラストのフィルムの豊かな「黒」の肌触りに思わず我を忘れて見入ってしまう。

まず、中村と霧島とが一度レストランを出たあと、道路の反対側からレストラン前での二人の会話を捉えた空間の美しさに見とれる。夜、という「黒」の世界を画面手前に配置しつつ、レストランの中から歩道の二人へと差し込む光と、レストランの赤い装置の醸し出す遠景の明るい空間のコントラスト、この理想的な「手前・暗」「奥・明」というコントラスト空間は、何よりも手前の「黒」の豊かさが、奥の「明」を引き立てながら、奥の「明」が手前の「黒」を「黒」として照らし出している。

さらに見ていこう。

中村と霧島とが自転車でマンションへと向かう途中の、階段を始めとする夜の空間の光は、画面の中に、小さいながらも強いしっかりとした光が、夜の画面を露出アンダーから救出するばかりか、美学的な暗さとして見事に画面を彩らせている。

★感光させる

「私はいつも、主要な光源を画面に入れるように努めてきた。視野の内に少なくとも一箇所、明るい点があれば、俳優を含め、他の部分がすべて暗がりの中にあっても、そのショットは露光不足には見えないものだ。拠り所となるこの光の点がなかったら、ショットはただぼんやりと暗いだけの、平板なものに見えてしまう」
(キャメラを持った男244)とネストール・アルメンドロスが言うような「一箇所の明るい光」の基本が同然のようにして貫かれているばかりか、さらに「映画における夜は、約束事の夜、美学的夜で、そこではいつも明るさが薄暗く、暗さが明るく見られるのである。ろうそくを灯すと部屋は明るくなる。ともども誇張され、様式化されて光と影は経験的真実を大いに損ねてはいるが、受け入れられるのだ」(映画・あるいは想像上の人間198)とエドガール・モランが言うように、映画は「フィルム」であり、フィルムは感光させなければ「黒」も「夜」もないのであるから、当然映画の「黒」なり「夜」は「光を当てた黒」「光を当てた夜」であるところ、このシーンでは街灯の一点の光が映画の「黒」を際立たせ、美学的な「黒」として画面を抱擁しているのである。

さらに見て行く。

「手前・暗」「奥・明」のコントラスト空間への拘りは、中村と霧島のマンションでのシークエンスで決定的となる。ここではマンションの廊下、あるいは二間を巧みに使いながら「手前・暗」「奥・明」の美しいコントラスト空間を構築し、同時にまた映画的な「黒」を照らし出している。この素晴らしい「黒」は、いったいどうやって出したのであろうか。

★ザラザラのフィルム

「運命じゃない人」のフィルムは非常にザラザラな粒子から成り立っていて、それが16ミリを35ミリに引き伸ばしたからなのか、或いは高感度フィルムによるものなのか、はたまた増感現像によるものなかは分からないが(このあたりに関しては「映画の教科書」ジェイムズ・モナコ87以下を参照下さい)、とにかくこうしたことによってフィルムがザラザラになり、それによって画面は、まるで1950年代アメリカフィルム・ノワールのローキイ画面ようなハイコントラストになって、豊かな「黒」を醸し出しているのである(照明や装置、美術、衣装、現像の力はもちろんである)

「暗黒」の「黒」である、、、、そう、まさにこの映画の「黒」は、「暗黒」と言わんばかりの、まるでジョン・オルトンの「暴力団」のような、ジョセフ・ラシェルの「歩道の終わる所」のような、レオ・トーヴァーの「大いなる別れ」のような、ハリウッド194050年代モノクロ・ローキイ・フィルム・ノワール・ハイコントラストの画面を髣髴させる見事な「暗黒」の「黒」なのである。

★運命の女

そうしてハタとこの映画の題名を思い出してみると「運命じゃない人」とくる、、、「運命じゃない人」とは、もちろん「運命の女」の逆であり、「運命の女」とは、「深夜の告白」のバーバラ・スタンヴィックから「飾窓の女」のジョーン・ベネット、「ギルダ」のリタ・ヘイワース、さらに「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のラナ・ターナーへと連なる「ファム・ファタル」のそして「フィルム・ノワール」の「暗黒映画の女たち」に他ならない(山田宏一「映画的な、あまりに映画的な美女と犯罪」参照。ノワールの女たち、こういうことを語らせて山田宏一の右に出る者は世界にはいない)

「運命じゃない人」の暗黒の画面は、「フィルム・ノワール」の「暗黒の世界」への淡いオマージュではないのだろうか、、、

★フィルム・ノワール

こうしてこの映画を見てみると、探偵、車の多用、ガソリンスタンド、雨に濡れた舗道、アタッシュケースという、「フィルム・ノワール」の必需品が次から次へと炸裂し続けるのであり、またこの物語の時間展開それ自体も、タランティーノからキューブリック「現金に体を張れ」へと連なる犯罪映画の記憶へと遡っている。

だが「運命の女」とは、男が「その性的魅力の虜になって死に至るまで宿命的に逃れられない、、、、」と山田宏一が言うように(フィルム・ノワールの手帖2)、ここに出て来る霧島れいかは、どう見ても「運命の女」には見えず、だからこそ霧島れいかは「運命じゃない人」なのであり、従って中村は「死に至る」こともなく、現代的ノワールとして生き続けていくしかないのである。

★暗黒映画

ハリウッドの古き良き「暗黒映画」に目配せをしながら、それを内田流に「現代的ノワール」として創造し直す、こうした映画的記憶の豊かさこそが「運命じゃない人」の豊かさなのである。

キューブリック的な脚本を視点の豊かさで味付けしたり、細かな仕草やユーモアのセンスで細部を彩った点も確かに素晴らしい。

だが何よりも素晴らしいのは、フィルム・ノワールの「暗黒の世界」へのオマージュを、フィルムそれ自体の「暗黒」によって映画的に的に語りしめている点にあるのだ。

★「黒」

蓮實重彦は「1970年代から、シネマスコープの消滅と平行して映画から黒が消えた。テレビを前提としたビデオ販売の障害になるから。ブラウン管の小画面の鑑賞に耐えうるためには、照明を明るくして影を廃さなければならない。フジカラーの青みが強いネガが世界的に普及したことが、その事態に拍車をかけた(映画狂人シネマ辞典29)」と語っている。

「真夜中の弥次さん喜多さん」に代表されるような、まるでテレビとしか思えない、明るくペラペラな画面に辟易し続けてきた時だからこそなおさら、豊かな「黒」を主題論的に出すことに拘った「運命じゃない人」を、私は支持したいのである。

映画研究塾 
20068月13日