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映画批評
「ある子供」(2005)ジャン=ピエール・ダルデンヌ・リュック・ダルデンヌ フレームの外の物語について 2006年5月16日(提出は6月17日)
「倫理と視点とは、芸術家に不可欠な二つの特性である」ゴダールはディドローを引用し述べているが(ゴダール全評論・全発言Ⅰ121)、まさにこの作品は「できること・しないこと」という倫理の問題を、視点の選択による抽象化作用と戦わせながら、その瞬間瞬間の画面において見事に答えを出しつつ実現している作品である。グリフィスが、ひたすらリリアン・ギッシュの顔に近づきたいという純粋な接近の欲望からクローズアップを映画的に完成したのと同様に、ダルデンヌは被写体に、顔に、事物に本能的に接近している。だが「接近」には当然ながらリスクが伴う。「クローズアップを撮ることほどたやすい事はない」とロッセリーニが述べているように(作家主義125)、また、「心理的説明を誇張するクローズアップは映画を堕落させた」と蓮實重彦が語るように(映画狂人シネマ辞典9)、あらゆる歴史がクローズアップの素晴らしさと同時にその弊害を指摘している。「事物のクローズアップは空間の中にあるが、顔のクローズアップは、空間との関係を考えずとも表現となり意味となる」とベラ・バラージュは述べているように(映画の精神23)、どんなに美しいクローズアップであれ、被写体への接近は、空間からの孤立という大きなリスクを伴うことになる。人物は空間の中で生きているのだから、空間を描かずして人物を描くこともまた不可能なのは言うまでもない。ここにクローズアップの問題がある。ことにダルデンヌ兄弟の作品には非常に接近したショットが数多く存在するのだから、当然、接近によって失われた空間を、どこからか拾ってくる必要が生じる。それをダルデンヌは、フレームの外の空間の徹底的な活用と、時間の持続の相乗作用という高度なテクニックによって見事に実現しているのである。ではこの作品で、どれだけフレームの外の空間が活用されているか具体的に列挙してみよう。①アパートに保健所の係員が来た時、キャメラは台所の男をミドル気味で捉え、居間の女たちの会話はオフの音で聞かせている②男が赤ん坊を廃墟に置いて部屋を出た後、誰かが赤ん坊を連れてゆくシーンはすべて足音、物音というオフの空間の音で想像させている③男が倉庫で赤ん坊を取り戻すシーンでも、倉庫の外の人間の行動はすべてオフの音のみで想像させている④ひったくりのあと川の中へ隠れるシーンでも、追跡音をすべてオフの音で聞かせている、、、挙げればきりがない。つまり、全ての接近したショットで、フレームの外の空間を活用しているといっても過言ではないほど、人物の配置、動き、キャメラの動きによって、フレームの外の空間を巧みに我々に意識させ続けているのである。
「ロードオブザリング」シリーズを始めとした現在のハリウッドの凡庸な大作の発想が、被写界深度の浅いレンズに簡単なクローズアップを掛け合わせることで「被写体の背後を隠す」こと、空間を放棄する発想に基づいて撮られているのに対して、ダルデンヌ兄弟の画面は、「被写体に近づけば近づくほど、フレームの外の空間は大きくなる」という逆転の発想に基づいて作られている。ダルデンヌにとってフレームの外の空間はフレームの中と一体化したものであり、従って必要とあらば被写界深度を広げながら、いつでも我々にフレームの外の空間をカメラの方向を変えて見せてくれる。その新しい空間をダメデンヌは、しばしば持続した時間の中で呈示する時、それは大きな驚きとなって我々を打ち抜くのだ。その典型的な例を挙げてみよう。ひったくりの後の、スクーターでの逃走と車の追跡のシーンだ。まず、バイクで逃げる二人を最初はひたすら横からの寄りの狭い空間のショットで捉えながら、突如「Uターンだぞ!」という警鐘を合図にキャメラはバイクの前に回り込んで縦の空間を一気に広げながら、対向車線からUターンしてこちらへ向かってくる追跡者をそのまま持続した時間空間で捉えているのである。ハリウッド大作のように空間を狭くするだけでなく、同時に空間の外をも音や視線で想像させながら、一気にカメラの向きを転換して空間を拡大し、それまで想像によって我々がイメージしていた空間を「持続した時間空間の中で」突如提示するのである。想像的なものと現実的なものという二極の対立を、同一の時間空間での一瞬の戯れで見事に衝突させているこの一連の運動の映画的豊かさを、ここで敢えて説明するのは野暮というものだろう。
こうして考えてみると、先ほど私はダルデンヌ兄弟の被写体への接近をして「グリフィス的な本能的接近」と書いたのだが、実はその逆で、ダルデンヌにとっての被写体への接近は、逆にフレームの外の空間を目いっぱい使いやすくするための方便に過ぎないのかもしれない。そう勘繰りたくなるほど、この兄弟はフレームの外の空間に対して大いなる野望を抱いているのである。そしてまた、こうしたことを可能にしてくれるのが「手持ちカメラ」であるのは言うまでもない。三脚から開放された手持ちカメラは自由の象徴であり、振るも揺らすも投げるも回すも自由自在である。だが映画とは果たして「自由な」メディアなのだろうか。果たして「限界」に対して働きかけないものを芸術と呼べるのであろうか。ダルデンヌ兄弟は、ラース・フォン・トリアーのようにカメラを故意に揺らしたりズームを多用したりはしない。それはトリアーがまず「手持ちカメラ」から画面を考えてゆく傾向があるのに対し、ダルデンヌは視点から手持ちカメラへと流れてゆくからだ。機械からイメージへと流れるトリアーと、イメージから機械を選択するダルデンヌ。ダルデンヌが「映画」から「機械」へと入ってゆく点において、「機械」から「映画」へと逆流するトリアーに対して決定的に優位にある。そしてこれが「視点」の問題であると同時に「倫理」の問題であることは言うまでもない。手持ちカメラという非常に自由な機械を利用しながら、逆に手持ちだからこそ成し得る事を極力差し控え、「しないこと」を画面の上に充満させている。例えば二人が公園で追いかけっこをしてじゃれ合うシーンでは、カメラは被写体に接近することを止めロングショットで静かに遠くから捉えているし、ひったくりの仲間を網越しのバスケットボールの空間で呼び出すシーンを始め、豊かな遠景から近景への接近を、まるでリュミエールの「列車の到着」(1895)のように取り入れている。会話を捉えたショットでは、会話をする者を構図逆構図の切返しで捉えて画面を会話に従属させることはせず、ここでもまた言語に対する「空間と時間の優位」を貫いている。カメラを故意に揺らすようなこともしない。一見手持ちで「自由」を謳歌しているように見せかけながら、実は画面は「しないこと」との葛藤によって満たされているのだ。「視点」と「倫理」の問題とが、まるでニワトリと卵の問題のように衝突し、発展をしている。「視点」が先か、「倫理」が先か、「倫理と美学、その一方をどこまでも選び続けるものは必然的に行き着く先でもう一方を見つけ出すものなのだ」、とゴダールは述べているが(ゴダール全発言Ⅰ400)、ダルデンヌ兄弟は、視点の豊かさが倫理の問題へと戯れを演じる極めて映画的な作家なのだ。
映画研究塾 2006年6月17日