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パッチギ!(2004)井筒和幸 2006年6月22日

思わず「ゴダールだ、」と叫んでしまった。「万事快調」でゴダールは、ストライキの労働者が資本家を監禁した場面から映画を開始させ、あたかも労働者を加害者のように見せることで我々が安直に労働者へと感情移入することを禁止した。井筒和幸も最初、弱者である朝鮮人をあたかも強者として描くことで敢えて朝鮮人への敵意を煽り(日本人がボコボコにされる場面を何度も見せられて嬉しい日本人などいない)、日本=加害者・朝鮮=被害者という安直なメロドラマへの感情移入を逆転させることで、観客をブレヒト的に映画と戦わせ、その裏に配置された第三のテーマへと発展させている。尾上寛之がトラックのパイプで死ぬ時などがその典型で、その「ギャグ」に笑ってしまった我々を後悔させるような後ろめたさをもって観客を映画に参加させている。戦わせ、参加させ、発展させる、それがこの映画の思想の根底にある。それにしても井筒監督は子供社会の描き方が天才的に上手い。実際は大人が支配している「社会」というものを、まるで「クーリンチェ少年殺人事件」のように、敢えて不良学生こそが支配者であるかの如くに世界を極端に抽象化して描きながら、だが少しずつ彼らが子供であること、同時にその青春の終わりのある事を暗示してゆき、子供の遊戯の、その限りある切なくも弾ける美しさを画面いっぱいに描きながら、最後は彼らが一生懸命大人へと旅立って行く姿をとっておきの応援歌でもって送り出すのである。強者であったはずの朝鮮人の若者が弱者としての苦悩を露呈させ(棺桶すら入らない小さな家。坊さんが遅れて来る朝鮮部落)、遂には朝鮮人が朝鮮人を(真木が高岡を)、日本人が日本人を(大友が松澤)を殴った時、階層と対立が画面から消滅し、映画は清清しく第三の地点=融和へと発展するのである。照明と演技とカッティングで映画を作るという、まるで1940年以降のハワード・ホークスのような透明さで我々を画面の中に引き込んで来る。役者は弾けるような瑞々しさで映画の中を生きている。映画を見終わった瞬間、もう一度彼らに会いたくなり切なさに襲われる、そんな感覚の映画をして我々は今後「パッチギ的」と呼ぶことにしよう。素晴らしい映画。

映画研究塾 2006年6月22日