映画批評
サマリア(2004)キム・ギドク 2006年7月6日
この映画は凄い(カモシレナイ。笑)。これで照明さえしっかりしていれば、、、極めて映画的な痺れる作品である。売春をした娘の相手に復讐をした父親が自首をするという、実に単純な物語であるのだが、紙面が無いので第三話に絞る。ここで父と娘は母の墓参りに山に登る。その頂上に娘の母の墓がある。その何と粗末な墓だろうか。その帰り道、ここからラストに至るまでに提示された見事な暗示の数々は、この映画の真の主題へと通じる凄まじいまでの弁証法と言うべき切れ味なのだが、まず車がエンコした時、娘が必死になって邪魔な石を取り除く。父が放棄したこの「単調な労働」(この労働の「単調さ」こそ意味を持つのだ)を、娘は最後までやり遂げた。この無言のワンショットが意味するものは「単調な仕事をやり遂げた娘は純粋さを失ってはいなかった(子供だった)」という、この映画の最大の主題であるのだが、老人との会話に心が洗われた父は、その夜、娘の涙を目撃し、翌朝、助手席から物欲しそうにハンドルをクルクル回す娘の姿を目撃する。私にも明らかに覚えのあるこの助手席からのハンドルいじりは「子供の好奇心」そのものである。父は娘に無言で詫び、自首の電話をかけたあと、最後に娘と「遊んで」やった。親と子の別れの遊戯。連行される父とそれを追う娘の下手な運転のショボ車。ここで入る俯瞰のロングショットは、キム・ギドクの映画的才能を一発で世界中に知らしめたであろう見事な暗示なのだが、これはいなくなった父親を、赤子がハイハイして探し回る姿に見えてならない。この人は、ロングショットの持つ映画的寓意を見事に使いこなしている。ここで娘が「子供」であるという主題が映画的に完結する。すべての主題が言葉でなく視覚的に暗示されている。結局のところキム・ギドクは、大人びた娘が実は「子供」であるという第一の主題を示す事で、こうした子供を食い物にする社会全体を第二の主題として陰で告発したのだろう。あの一連の視覚的ショットで父親は、援助交際が「子供」の問題ではなく「大人」の問題である事を悟り、静かに責任を果たすべく「社会」へと向かったのだ。
映画研究塾 2006年7月6日
■2024.7.3 少し画面に意味が有りすぎるとも言える。