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映画批評
洲崎パラダイス 赤信号(1956)川島雄三 2006年8月9日
映画の「映像」とは、画面の基本的連鎖と物語、そしてそれ以外の細部が複雑に絡み合った混合物であり、従って画面は物語等との微妙な戯れを演じてこそ「映像」となるのであり、よって「映像は素晴らしいが、ストーリーが今ひとつ」という映画は存在しない。「映像の素晴らしい映画」とは「良い映画」以外に有り得ないのである。そもそもフィルムが上から下へと流れる運動そのものが「物語」なのだ。さて、そうした点でこの「洲崎パラダイス」や「幕末太陽傳」における川島監督の「グランドホテル形式(的)」作品は、画面構造と物語、主題との関係を捉える上で非常に興味深い。基本的にこのグランドホテルは、小さな物語が水玉のように配置され、それが時に隣の水玉と交じり合っては再分裂し、最後は一つの大きな水溜りになり終結する、そんなイメージなのであるが、ここで通常の映画と決定的に異なるのは、その小さな一つ一つの水玉に於いては、決して物語(不可視)は分かり易い起承転結の構造を為してはいないという点である。そうすることで言わば画面が不可視の物語への奴隷化から解き放たれ、逆に埋もれていた様々な可視的細部(雨、風、人物配置、衣装、季節、様々な行事、事物=この作品では橋、仕草、瞳、そして音声などの、視覚的、触知的な主題、そしてそれらを映し出すカメラの手法)が息を吹き返し、物語にとって代わって「語り」始めるという、まさに可視的な文化たる映画に躍動感を与える素地が整うのである。「人情紙風船」にしてもある種のグランドホテルなのであるが、それぞれの水玉の物語性は限りなく希薄である。そうした点でこの「洲崎パラダイス」も例外ではない。轟夕紀子、三橋達也、新玉三千代ら、複様の独立した水玉が、付いては離れを繰り返し、最後は妙に心地よい、だが決してそれは不可視の物語により与えられたものではなく、可視的な画面により与えられた根源的な力強さを獲得し、その清清しさは明らかに「幕末太陽傳」へと通ずる、厭世的でありながらも、真実の消去点を求める永遠の旅立ちとしての感動を画面の上に露呈している。そこで呼び覚まされた記憶の跡は、ルノワールの「ゲームの規則」へ、「トニ」へと遡る、映画を見るという悦びの記憶である。
映画研究塾 2006年8月9日