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映画批評
「火火(ひび)」(2004)高橋伴明 「マディソン郡の橋」(1995)的落下と雨に濡れた舗道 2006年6月27日
★病院の床
病院の廊下というものは、日常的にも、映画的にも、何とも味気ない空間であり、殺風景で面白味がない。そしてその床は、どういう訳だかどの病院もまったく同じ材質の、あの白く、テカテカと光った、そして波を打ったような起伏がある、「あの床」なのである。
問題なのは光である。あの白い床に光を当てた空間が、どうにもこうにも絵にならないのだ。おそらく「白」系統の明るい色が勝ち過ぎていて、映画的コントラストが欠けてしまうからではないかと思われるのだが、例えば三谷幸喜の「THE 有頂天ホテル」では、ギターで歌う香取慎吾をクレーン上昇して捉えたショットがあるのだが、そこで白い床の上に、設定上はアヒルの小便なのか何なのかはよく分からないが、水が撒かれていて、その濡れた白い床に当てられた光線の感じが実に汚くて、思わず閉口した記憶があるのだが、どうも光というものは、白とのある種の関係においては極めて相性が良くないらしいのである。病院の床も、白っぽい地面の、特にあの地面が波打っている表面に、上から強い光がまともに当る時、屈折した数々の光が露骨に反射してしまい、画面全体の「黒」が失われて空間は明るさに包まれ過ぎてしまうのである。だからこそ、病院を上手く撮れる人は一流だとも言えるのではないだろうか。
ところがその病院の殺風景な空間が、光の処理との関係で突如輝き始める瞬間がある。
廊下の光が落され、外から差し込んできた光だけで廊下が逆光に照らされると、あのどうにもならなかったテカテカの床が、まるで「雨に濡れた舗道」のような見事さでもって輝きを始め、素晴らしい神秘の空間へと表情を変えてしまうのである。蓮實重彦は「アスファルトは雨で濡れていなければならない。雨が降らぬのであれば、水がまかれていなければならない。しかも、あたりには夜の闇が支配していなければならない。雨に濡れ、外灯の 光を反射しているアスファルトの大通りは、映画のもっとも美しいイメージの一つである」とした上で、シドニー・ルメットの「十二人の怒れる男」(1957)を、二流映画ではあるものの、そのラストシーンの雨に濡れた舗道の素晴らしさを、キャメラマン、ボリス・カウフマンと共に賞賛しているが(「映画狂人シネマ辞典」13)、あの病院の廊下の白い空間が、光を落とすことで黒へと変化し、波打った床が、外からの逆光で照らされることでまるで雨に濡れた舗道のようにキラキラと反射し、白と黒との美しいコントラストの映画的空間へと変化するのである。映画は不思議だ。
神代辰巳の「一条さゆり・濡れた欲情」(1972)では、同じようにテカテカ地面の警察署の床の上を伊佐山ひろ子が抱えられてゆくシーンで、廊下は光を落とした見事な逆光で彩られており、神代辰巳、姫田真佐久、直井勝正の、予算の少ないポルノ映画における、光を落とすことでもう一つの光を得るという、映画感覚の素晴らしさに私は思わず感動したが、絵にもならない空間を、光の選択によって絵にしてしまう、そうした意味では「病院」という空間は、作家たちの創作意欲をそそり続ける何かなのかもしれない。
ちなみにスピルバーグの「ミュンヘン」(2005)も、ほぼ全編露骨なまでに地面がしっとりと雨に濡れていたが、雨がいつ降ったのかはよく分からない不思議な映画でもあった。「雨に濡れた舗道」で私が思い出すのは、キャロル・リード「第三の男」(1949)での夜の追跡シーンや、テオ・アンゲロプロスの「狩人」(1977)で、車で集会の周囲を回るシーン、あるいは溝口健二「祇園の姉妹」(1936)で、梅村容子が夜、帰って来る時の路地、など挙げればきりがないが、矢張り「雨に濡れた舗道」は、フリッツ・ラング「飾窓の女」(1944)でエドワード・G・ロビンソンが車で死体を隠しに行く時や、オットー・プレミンジャー「歩道の終わる所」(1950)のオープニング、さらにはロバート・シオドマク「幻の女」で、エラ・レインズがバーテンの男を尾行するシーンなど、フィルム・ノワール(暗黒映画)における憂鬱の印として、より画面によく生えるのではないだろうか。
★「火火」の光
さて、「火火」に戻ろう。
この映画でも、オープニングの病院の廊下を人が歩く。光は落とされ、外からの逆光で床はキラキラと輝き、人物はシルエット状に抽象化され、悲しみが美へと転化されてゆく。これを見ただけで、この作品が「光の映画」であるという趣旨がなにかしら伝わってくる。
田中裕子が「借金返済踊り」をする場面は外からのシルエットで滑稽さを際立たせ、二間続きの部屋の、手前の部屋の電気をわざわざ消させることで、襖で仕切られた二つの空間を、「手前→暗、奥→明」という、理想的なコントラストで映画的に彩ってみたり、誕生パーティでの消灯、釜の中の炎の顔への反射、作業場の裸電球の美しさ、など、極めて光で楽しませてくれる作品であることは、冒頭の「雨に濡れた舗道」で既に暗示されているのである。
★細部
この作品は、非常に「細部」が豊かなので、それをここで少し挙げてみたい。
★田中裕子の落下の意味
中盤、黒沢あすかと屋根に上り、仕事をしていた田中裕子が屋根から落下してしまうシーンがある。その直後、窪塚俊介が発病して倒れるのだが、どうもおかしい。この映画は実話なのかも知れないが「脚本・高橋伴明」とちゃんとクレジットに書いてある。つまり「脚色」されているわけだ。骨折した田中裕子は、倒れた窪塚に、実に滑稽な、見ていて笑うしかない歩行姿勢でもって接近し、そのまま窪塚の体の上に乗っかってしまう。私はここで笑ってしまったのだが、ここは確かに白血病が発病した深刻なシーンではあるが、しかし断じてここは笑っていいはずなのだ。つまり「脚本家・高橋伴明」は、ここでわざわざ田中裕子を落下させ、滑稽な歩行体制を取らせることにより、発病という深刻なシーンを、ユーモアと衝突させ、発展させたのである。この作品は全編田中裕子のユーモアが支配しており、そのユーモアが田中裕子の力強さとなって画面を支えることで、決してただ善良なだけの、感傷一辺倒のものにしたくない、という「脚本家・高橋伴明」の趣旨が伝わって来るのであり、そうであるとするならば、当然あの「落下」も、そのような意味のものとして発展的に捉えるべきだろう。どなたか高橋伴明に聞いていただきたい。
この「落下」のシーンで思い出すのは、クリント・イーストウッドの「マディソン郡の橋」(1995)のとあるシーンである。序盤、イーストウッドが花を摘んでメリル・ストリーブにプレゼントしようと差し出すと、ストリーブが「毒草をありがとう」とからかい、ビックリしたイーストウッドが花を落としてしまうというシーンである。二人はしゃがみこみ、花を拾う。このシーンの「花を落とす」という落下行為は、間違いなく「二人がしゃがみこむ」ことを可能にするために、逆算的に書かれた脚本であるに違いない。しゃがみこむことで空間が変わる。空気が変わる。二人はしゃがみこみ、花を拾いながらふと見つめ合う、、、
見事というしかない。サッとしゃがみ込んで、空間を上から下へとさり気なく変化させることで、まるでそれまでとはまったく違う空間に移動したかのように、二人の間の空気が微妙に変化するのである。こういう演出の出来る人を私は心から尊敬するし、嫉妬すらする。
あらすじ以外の、こうした作り手の思考回路の過程を辿ることも、まさに映画を「作品」として味わうことの大きな楽しみの一つであろう。「あらすじ」は、花を落とす→しゃがみ→見つめあう、という流れだが、イーストウッドの思考回路は、空間を変えたい→しゃがませる→何かを落とそう→花を摘めばよい、という流れに違いないのである。そこにメリル・ストリーブの「毒草よ」というユーモア、花を摘むイーストウッド=繊細な男、という「人物描写」までもがいっぺんに詰め込まれているのだからたまらない。映画的脚本とはこう書くものだ、という見事な画面の流れである。
こうしたものもまた映画の「視覚的細部」であって、素晴らしい映画というものは、あらすじ以外の細部がはちきれんばかりに画面の中で衝突を続けている。クリント・イーストウッドの、この大男の繊細な神経に乾杯したい。
「火火」の田中裕子の「落下」もこれと同じように、「落下」自体が目的でなく、落下は次の何かを引き起こす引き金として使われているという点において両者は共通するのである。仮にこの田中裕子の落下→窪塚発病の部分の流れが「実話」だとしたら、それはまさに「事実は小説より奇なり」ということになる。脚色している方に私は500円賭ける。
★通行人のおじぎについて
中盤、骨髄提供呼びかけのために、村長が街頭で町の人々に呼びかけをするシーンがある。ここで村長が、通行人に「こんにちは!」と挨拶すると、通りがかった女子高生二人組が、恥ずかしそうに、チョコっとおじぎをしながら通り過ぎてゆく。私はこれを見て思わず「なるほどねぇ、、」と呟いてしまったのだが、東京の街頭演説で、いちいち東京都知事の挨拶に応じる高校生はまずいないだろう。いるかも知れない。しかし「映画的には」いないのである。
女子高生二人組のあのさり気ないおじぎは、映画の舞台が滋賀の田舎の小さなコミュニティであることを、見事に、そしてサラリと現しているのである。豊かな細部だ。
★クローズアップ
こういう話になると最早感覚の問題になってしまうのであるが、高橋伴明は、クローズアップを「意味のあるもの」として撮ることに、相当気を使っていたはずだ。つまらないクローズアップは撮らない、そんな合言葉が、画面の上から伝わって来ている。付け加えると、切返しは会話ではなく、空間を軸にしてなされている。カッティング・イン・アクションは使われていない。
★総括
手前の柿のクローズアップと奥の田中裕子との縦の構図ではピント送りをすべきではないのだし、次第に大きくなる講演後の拍手の露骨さ、寡黙の中に時々飛び出す説明調の台詞、上映時間など、マイナスも多い。しかしながら、作り手の「趣旨」というものが細部となって見事に伝わる、心を揺らした枠物語であった。
³映画研究塾 2006年6月27日