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映画批評

ミリオンダラー・ベイビー
(2004)クリント・イーストウッド
 20067月5日

これは書かずにはいられない。アカデミーは「安楽死と人間の尊厳」などというテーマの社会性からこの作品に賞を与えたのであろうが、勿論この映画の真のテーマと美しさはそのような安直な地点に存するのではない。「陰から光への転化」これこそが核心である。夜一人でスピードバッグを叩く娘とそれを見守るフリーマン、イーストウッド、彼らは徹底して逆光の陰の中で、真っ黒な名も無き存在としてうごめいている。陰=社会の底辺に在る者達への惜しみない賞賛とアメリカ、と言うジョン・フォード的構造と、試練を乗り越えた者のみが仲間になれる、というハワード・ホークス的構造がここに隠されているのだが、この余りにも象徴的、造形的とも言えるローキィの「陰」の描き方に私は戦慄を覚え、その瞬間、映画の序盤にしてこの映画の構造上のラストが完全に読めてしまい、思わず気が動転したのであるが、それはまさしく「イーストウッドが陰の中へと去って行く」という考えたくもない、だが明らかに感動的な結末であり、この映画のもう一つの、そして決定的な構造でもある。この「イーストウッドが遺言を込めて」と言う私的な構造は、言わば「クリント・イーストウッド自体」が去り、陰となることで、この若い娘の試練を「光」へと転化させるという二重の意味があり、この幾重にも張り巡らされた豊かな映画的構造が、映画の力を弁証法的に押し上げている。徹底的に陰の中に描かれたこの「名も無きウエイトレス」が横たわる病室に、映画の終盤、窓の外から、この映画で唯一の美しい意図的な自然の光が、彼女の「右の頬」に当たっていたのを我々は決して見逃してはならない。この娘の「光」とは、勿論彼女が自ら死を選んだという尊厳に在るのであろうが、だがそれ以上の感動は、「決して涙を見せてはならない」という「ボス」との約束を、このどうでもいい小さな約束を、健気にも死の直前まで守り続けたこの娘が、遂に涙を流し、その気高き涙が、光の当たっていた「右の頬」に流れ落ちる、その比類なき映画的暗示の美しさにこそあるのである。その瞬間、彼女の試練は終わる。イーストウッドは陰の中へと消えることで光を遺し、人生の敗北を、美しい愛へと弁証法的に転化させた。この複雑な、だが、遥かに美しい映画的な構造は、我々の映画的記憶をアイルランド民謡に乗せながら、映画が映画であった気高きジョン・フォードの時代まで送り届けてくれる。

映画研究塾 20067月5日

■これは当時「ベストテン」に入れた時に書かれた批評だが、しばらくしてから見直し、余りに心理的なのでワーストへ入れ直した、という作品である。批評はそのまま掲載する。2024.7.3