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映画批評

「河内山宗俊」天才・山中貞雄、行動と分離の美学  2006年5月28日(提出は6月17日)

「お静は俺の女房だ。河内山の女房だ」、、、この一言がお静(山岸しずえ)の運命を変える。これは心理的ほんとうらしさではなく、行動そのものの美学によって人々の運命を鮮烈に描き出した山中貞雄の傑作「河内山宗俊」の一コマである。場面は終盤、敵の一群に取り囲まれた賭場の中から山岸しずえ一人が表へ出てゆき、戸を閉め、敵を食い止めるシーンである。自分の男(河原崎)が娘(原節子)に惚れたと誤解し、娘を悪い奴らに引き渡してしまった山岸が、ここで何ゆえ一人表へ出てバリケードとなったのか。惚れた男を守るためか、自暴自棄か、どちらにしても、信頼と疑念とが画面の中で衝突し弾けあっている山岸の心の中で、この山岸の行動は、現代のほとんどの映画に見られるような、誰から見ても分かる単純な心理的動機付けになされたものではなく、非常に不確かな、本能的なものが優先した行動の画面であることに違いはない。行動から内面へ、運動から心理へ。

賭場の中では、山岸を助けに出ようとする中村翫右衛門を河原崎が引き止める。そこで冒頭の一言が河原崎の口から中村翫右衛門へと吐かれるのである、、、

「お静は俺の女房だ。河内山の女房だ」、、この言葉は、河原崎から山岸に対して吐かれたものではない。河原崎から中村翫右衛門に対して吐かれた言葉である。山岸は、隔てられた外の戸口でその言葉を静かに聴いていたに過ぎないのだ。だがこの瞬間、疑念と信頼との衝突を続けていた画面は一気に弾け、エモーションと共に映画は活劇となり、怒涛のごとくラストへと突き進むのである。

これが山中貞雄の、実体と声との「分離」であり、私はこうした手法を、声の分離の中でもさらに特別な「裸の声」と名づけている。声と実体との「分離」の手法は今回のグリフィスの論文の「嵐の孤児」のドロシーの歌声と実体との分離において考察したとおりだが、同じ声と実体との「分離」でも、こちらの分離は効果が違う。グリフィス的分離が、音源を「捜すこと」の感動を与えてくれるとするならば、山中的分離は、音源を「信頼すること」の感動をもたらしてくれるのである。山岸に聞かれていることを意識せずに吐かれた河原崎の「お静は俺の女房だ。河内山の女房だ」、というフレームの外から聞こえてきた台詞は、山岸の疑念を吹き払う。聴かれていることを知らない人間の声は「裸の声」として、聞く者にその真実性を誇張させるのだ。この「裸の声」は、言い方を変えれば「盗聴」の効果と同一のものであるが、そもそも映画とは、目の前の観客に見られていることを前提に演技をする「露出狂」の演劇とは異なり、スクリーンの中の人物が、我々に具体的に見られていることを知らない「盗視」なり「盗聴」のメディアである以上(注Ⅰ)、こうした「裸の声」の手法もまた、極めて映画的な手法と言えるだろう。河原崎の「裸の声」を聞いた瞬間、それまで信頼と疑念との葛藤の中で揺れ動いていた山岸の心情が一点へと集中し、次の瞬間、見事なタイミングで山岸のクローズアップがサッと入る。やや下を向き、微笑むでもなし、悲しむでもなし、山岸はじっと無表情に一点を見つめている。その大写しに描かれたものは、女が女であることが叶った瞬間の、ただそれだけの、静かなる悦美なのである。「一つの写真にアップが一つあればそれだけ効果があるのや。二つあれば、それが半分になる訳やろ」(映画監督山中貞雄269)   

注Ⅰ
ヒッチコックの「裏窓」を見て、「のぞきなんて下品ね」と眉をひそめる映画ファンは、そもそも自分が「裏窓」という映画を「覗き見している」ということを知らないのである。映画というメディそれ自体、暗い映画館の中で他人様の生活を「覗き見する」典型的な「盗視(のぞき)」の文化なのだ。(詳しくはクリスチャン・メッツ「映画と精神分析」参照)

追記
書き終わってもう一度冷静に作品を考えた時、山中貞雄という人間の映画的センスの素晴らしさに改めて驚愕する。こうした「分離」の手法、ないし「裸の声」の技法というものは、たかだか「技術」に過ぎない。しかしそれは人間に対する豊かな観察力なくして決してなしえない魔法でもある。現在の映画はすべて行動に「動機」を求めている。何故か。どうしてか。しかしそれは「サイトの趣旨」や「嫌われ松子の一生」で書かせて頂いたように「不可視の」観念にほかならず、可視的な文化である映画の本質ではない。山中は動く。山岸は疑惑と信頼の狭間でもがきながらも動くしかないのだ。最近では「単騎千里を走る」や「フライトプラン」が、子供のためにひたすら動く父・走る母を意識的に描いていたのが非常に印象的であったが、そうした映画は、映画に動機を求める映画ファンの格好の標的にされやすい。何故だ。どうしてだ。おかしいじゃないか、、、そうした点でこの「河内山宗俊」は、何かにつけて原節子が強調される作品ではあるものの、現在の動機中心主義の映画環境からすれば、山岸しずえの「理由なき抵抗」こそ映画論として語るには面白い。

まず山中は「行動」という映画的運動から亀裂を生じさせる。そこから生じた衝突を見事なタイミングでモンタージュされる「裸の声」によって急転直下の運命へと融和させ、とどめの「一発クローズアップ」というシビレにシビレるエモーションで一気に映画を高揚させ、ラストまで怒涛のごとくに突っ走るのである。山岸は男のために死んだのかもしれない。しかし「男のために」という動機は「裸の声」という技法の効果によって一部「あとづけ」されているに過ぎず、山中がここで描いたのは「動機」ではない。女なのだ。この見事な「女のモンタージュ」よ。この一連のモンタージュはすべて山岸が「女であること」一点に向けられているのである。豊かな観察力に基づく映画的技法の数々を駆使し、行動を見せ、そこから人間を解きほぐす。

これが「行動の映画」であり、人はそれを「活劇」とも、「探偵映画」とも、はたまた「西部劇」とも、「B級映画」とも、そして「映画」とも呼ぶことだろう。動機が優先される映画は必然的に言語的になり、エモーションを失わせてゆく。犯人の割れていないミステリー映画がつまらないのは、それが行動の「動機」の辻褄合わせに過ぎないからであり、逆に犯人が割れているテレビ「刑事コロンボ」が映画的なのは、「動機」よりもコロンボの「行動」が豊かに描かれているからだ。山中はまず行動を描き、行動から人間を描いてゆく。山中貞雄、活動の天才である。

©映画研究塾 2006年6月17日