映画研究塾トップページへ
映画批評
「ゆれる」(2006)西川美和 私は何を見たか。2006.10.7
★視覚的細部とは
今回の批評は、この「ゆれる」という映画の画面の中で私が「見た」こと、つまり画面に現れた客観的な出来事=視覚的細部について、箇条書き形式で簡単に書いて行きたい。そうすることで、私が良く使うところの「視覚的細部」という言葉が具体的にどういうものを指すのかを、みなさんに判りやすく提示できればと思っている。
★場所
この映画は「場所」に大きな特徴を持たせた作品であることから、便宜上、映画の中に具体的に現れた「場所」を基準にして書いてゆくことにしたい。
この映画の中に現れた場所は、大きく分けて以下の14箇所である。
Ⅰオダギリジョーの事務所 Ⅱオダギリの事務所の暗室 Ⅲ香川照之の経営するガソリンスタンド Ⅳ実家(父、伊武雅刀の家) Ⅴ自動車の中 Ⅵ真木よう子のアパート
Ⅶ蓮見渓谷 Ⅷ病院 Ⅸ警察 Ⅹ蟹江の法律事務所 ⅩⅠ法廷 ⅩⅡ面会所 ⅩⅢファミリーレストラン ⅩⅣ刑務所の門からバス停まで(ラスト)
この一つ一つの場所で、画面の中に視覚的細部=「特筆すべき何か」が起きていたかを書いてゆくことにする。従って「特筆すべきでない出来事」はすべて省略する。
★Ⅰオダギリジョーの事務所
①最初のシークエンスがここから開始する
②長回しがある。但しワンシーン・ワンショットではない
③照明が暗すぎて装置と人物との場所的関係の豊かさが構築されていない(照明論)
★Ⅱオダギリの事務所の暗室
①兄弟の幼少時代の八ミリを映写する。手と手を繋ぐ映像は説明調である。オダギリの号泣は過剰(演技・心理論)
★Ⅲ香川照之の経営するガソリンスタンド
①オダギリが、車のフロントガラス越しに、窓を拭く真木を注視する。この時点で両者の関係は不明(遮り論)
②葬式の翌日、香川がチンピラに謝るショットがガラス越しのロングショットだけで処理されている(遮り論。フレームサイズ論)。
③香川がオダギリに、真木との夕食代をさり気なく渡す。オダギリは断るが香川は押し通す(出来事性)
④後日オダギリがスタンドの前を車で通りかかると、香川がこの前のチンピラに襲い掛かっているショットが、オダギリの見た目の主観ショットで、
かつスローモーションで入る。ここでは、投げ出されたホースから水が噴出し、まるで香川のやりどころのない気持ちを反映したかのように、
ホースが放水の惰力で左右に首を振っている。
これは私が「グリフィスとフレームと分離の法則」で指摘したところの「分離」であって、やり場のない香川の気持ちをホースに分離させている。もちろん、
深読みの可能性あり(分離論)。ちなみにスローモーションは全体を通じて2、3箇所。ズームは使っていない。
⑤香川逮捕の日、伊武雅刀がテレビの野球中継を見ているが、テレビの画面は直接には見えず、ガラスに反射したテレビ画面のショットのみで処理されている(照明論)
⑥香川釈放の日に、オダギリがエンストすれすれの車で到着したときの俯瞰ショット(構図論)
★Ⅳ実家
①葬式の読経のシーンで、子供がはしゃいでいる(人間観察論)
②伊武とオダギリが喧嘩をし、香川が二人を止める(省略論→喧嘩を止めに入る、という香川の性格が、この時点では人物像として省略されているという意味で)
③香川とオダギリの土間(?)での会話の構図の的確さ(構図論→全般的にクローズアップが少なく、構図自体も悪くはない)
④オダギリが真木のアパートから帰った時に、日本間で洗濯物をたたむ香川と会話する。このショットは襖をコーナーに取っている(構図論・空間論)。 香川もオダギリも、香川が「洗濯物をたたんでいる」、という役割分担における人物像を口にしない(省略論)。オダギリは、真木が酒に強くて参ったと言い訳をする(後に法廷で真木は酒に弱かったと香川が言う)
⑤事件当日、帰宅した香川がベッドで寝ている。部屋は暗い。オダギリが香川の部屋の扉を開ける。すると廊下の光線が香川の部屋の中へ差し込む。香川が身を起こすと、そのちょうど顔の部分に外から差し込んだ光がドンピシャと当たる(照明論)
⑥事件後、親子三人で食事をする。だが誰が食事を作ったのか、作る場面が省略されているので不明(省略論)
⑦裁判後、実家に蟹江が来訪し、伊武と喧嘩になり、蟹江は帰ると言い、オダギリが泊まっていけと止める。次のショットではオダギリは、暗くなった縁側に一人座っている。オフの空間から、伊武と蟹江のいびきが交互に聞こえて来る。これは蟹江が折れて泊まったことを暗示している。縁側という場所的空間も楽しい(省略論・空間論)
⑧洗濯物を乾す伊武に、オダギリが法廷で被害者から預かった包みを渡す。おそらく示談金をつき返されたか何かなのだろうが、その包みの正体については一言説明されていない(省略論)。
★Ⅴ車
①オダギリと真木とのデートの夜、車の中の人物の顔に、ネオンや街灯の光が断続的にしっかりと当たっている(照明論、
感光論)。
★Ⅵ真木のアパート
①真木の作った料理を、オダギリが食べずに帰ったことが、切りかけのトマトのショットによって暗示されている(省略論)。
②後に入るオダギリの個人的な回想で、真木の死体に付いていたアザは、香川が付けたものではなく、オダギリがSEXの最中に付けていたことが明示される(省略論)
★Ⅶ蓮見渓谷
①まずこの「蓮見」という地名が極めて怪しい。当然「あの先生」に対する何かであると勘ぐるのが自然な成り行きというものだか(オマージュ論)
②香川が川に入り、オダギリと真木とが川原で話すシーン。二人がシビアな話をしていると、画面の外から「魚だ!」とかいう香川のはしゃいだ声が入ってきて二人の会話は中断し、画面は川で遊ぶ香川を捉えたショットへと180度切り返される。しばらくして再び画面はオダギリと真木のフルショットへ切り返されるが、再び二人を呼ぶ香川のはしゃいだ声が画面の外から入り、画面は再び香川へと切り替えされて二人の会話は中断する。明から暗への転換が、画面のオフのからの声を起点として二度成されている。もちろん西川美和は、これを意識的にやっている(空間とコントラストにおけるカッティング論)。
③橋の上の人物を徹底してロングショットや、それにプラスした縦の空間で大きく撮っている(空間論・奥行き論)
④オダギリが事件を目撃した場所には花(マーガレット?)が咲いているが、後の刑事の現場検証の時にはその花が枯れている。意味は不明。
★Ⅷ病院
①香川が被害者の母にひたすら土下座して誤る(出来事性)
★Ⅸ警察署
①香川が逮捕されたシークエンスで、刑事からキャメラはずっと横移動すると、取調室のドアをコーナーに取りながら
香川が座っている。持続したワンショットの空間における人物待機型の長回しは溝口的である (トラッキングと空間論)
★Ⅹ蟹江の法律事務所
① 事務所の二度目のシークエンスで、昼、蟹江が窓の外を見つめている時、遠景の右上から左下に向かって電車が通過し、
次の瞬間、逆方向からの電車が交錯しながら通過している。
②裁判終了後の、三度目の事務所のシーンでは、時間は夜に設定され、ここでもまた右から電車が通過するが、しかし左からの列車は通過していない。
この二つのシーンを比較して、兄弟二人の関係が終わった、という解釈も出来なくはないが、大切なのは、製作サイドが敢えて電車が来る時を見計らってフィルムを回している情熱である。
それ自体が映画的には大きな意味なのであり、それ以上の解釈は主観的なものに過ぎない。
★ⅩⅠ面会所
①あるシーンでは、ガラスにオダギリと香川の顔を並べて反射させている(照明論)。
②高揚したシーンでは、手持ちカメラを故意に揺らしている(倫理論)。
③ここで香川は初めて、父親の面倒をすべて自分で見てきたことをオダギリに抗議を込めて告白する。ここで、Ⅳの③の「洗濯物をたたむシーン」とⅣの⑥の「誰が食事を作っていたか」という光景が、初めて言語によって説明されることになる(省略論)。
★ⅩⅡ法廷
①全体として、人物のクローズアップは拝し、徹底して縦の空間が構築されている。手前の香川と奥の検事、手前の香川と傍聴人席のオダギリ、といった具合。特筆すべきは、手前の香川の姿が裁判中盤までは、ほとんどピントの合わされていないぼやけた状態のまま放置されていること。特に第一回の公判時に香川が自分の心情を告白するシーンでは、香川のクローズアップが一つもなく、すべてロングショットかフルショットによって処理されている。裁判官の田口トモロヲは、「大停電の夜」での、まばたきオンパレードの心理的演技が嘘のように、すべての法廷を通じて一度もまばたきをしていない。香川も同様に極力まばたきを回避している。こうしたことから、特に公判序盤においては、心理的な部分を謎にしようとする作り手の意図が伺われる(心理的ほんとうらしさと演技、クローズアップ論その他)。
②香川は、死んだ真木が、酒に弱かったことを証言する。この時点で、Ⅳの④の、オダギリの嘘が、最初から香川にバレていたことがオダギリに分かる。ここで「分かる」のはオダギリにだけ分かるのであり、この法廷は、実は兄弟間にのみ分かる事実を観客の前で暴いてゆくことが目的であり、事件そのものの真実性は曖昧に処理されている(省略論、脚本論)
★総括
一度しか見ていないので、細かな部分において間違いがあるかも知れないが、一度見たところとして現れた視覚的細部は、
おおよそこのような感じであった。二度、三度見直せば、さらなる発見が出来るであろう。
私がここで挙げた事項は、すべて視覚的に画面の上に現れたものであり、その数からして少なくともこの映画は、視覚的細部
という観点からするならば、非常に豊かな映画であるということが分かる。
例えばⅣの⑤の、香川がベッドで体を起こすと、顔の部分にちょうど外からの光が当たるように調整してある照明など、最近のあらゆる映画で決して見ることの出来なくなってしまった光への拘りであるし、Ⅶの②のリアクションショットでは、これを二回続けることで兄弟間のコントラストを際立たせるという、空間術の、単純だが主題的に見事と言うしかない繊細さを露呈させている。全体を通じて成されているあらゆる省略の精神によって「ミステリー」という「心理的な辻褄合わせ」の物語の、肝心要の「説明」という言語的な部分を悉く曖昧にしてしまうという大胆さによって、ミステリーを説明しないことでミステリーにするといった面白さもある。
だが本当に「説明していないのか」というと、実はそういうわけでもなく、例えば演技論にしても、真木よう子は一人序盤から心理的な説明演技を繰り返しているし、また法廷シーンの序盤のピントのボカシが、終盤ランダムに変化するといった、「心理」の問題が、ピント送りの問題へと安易に置き換えられているようなところがなくもない。映画とは例え「心理劇」であれ何であれ、心理を直接的に説明するような安易なショットは撮るべきではないのであって、何故ならば、得てしてそうしたショットは「画面」という可視的なものの美しさではなく、「論理・意味」といった不可視のもので驚かせてしまう危険が常につきまとうからであり、それを西川美和は分かっているはずなのに、この作品においては、その大部分を占める非心理的な演出の数々とは裏腹に、8ミリで手と手を繋ぐ子供たちにしても、それを見て号泣するオダギリにしても、真木の演技にしても、やや心理的なものへと傾いた説明的なショットが幾つか見受けられ、それが作品の一貫性に水を差している。
また、吊り橋の事件の偽りの(?)回想シーンにしても、確かにこれを挿入すれば我々は混乱するかもしれないし、驚くかも知れないが、だがそれは「画面の美しさ」による驚きであっただろうか。こういうショットで観客を簡単に驚かせることが出来ることが分かるとクセになるので注意すべきだ。映画というものは、作り手が主導権を握っているのだから、やろうと思えば観客というものは簡単に騙せてしまう。だからこそ、そこに「倫理」の問題が絡んでくるのであって、面会室で手持ちカメラを故意に揺らしたことについても、私の感覚からすれば安易さは拭いきれない。「ゆれる」とはそんな簡単な「ゆれる」であって良いものだろうか。
こうしてもう一度作品を思い起こしてみると、全体の流れとしてやや「数学的な映画」という印象がしないでもない。知的過ぎるというか、「計算」という文字が頭の中に浮かんできそうな映画であって、ルノワールよりもヒッチコック寄り、だがヒッチコックに比べて意味の度合いが非常に強い。「テーマ」にやや拘りすぎ、画面の自由奔放性、豊かさにやや欠けている。簡単に言うならば「辻褄を合わせないための辻褄を考えている」という感じであり、言うならば「マクガフィン」の中身をどうしても考えてしまうような作品であり、結局のところ「ミステリー」という「心理ゲーム」を根本において打破し、映画的運動へと到達するにあと一歩、といった感の作品ではなかったろうか。私としては、もう少し「バカ」になった方が映画は豊かになると思う。
しかし120分、ただ見せるしか能のない現代映画に毎日付き合っている私としては、この作品の「視覚的細部」の豊かさは、それだけで語り甲斐のある喜びであり、十分に楽しむことの出来る作品であった。
映画研究塾 2006年10月7日
■追記 2024年7月9日 最後の「★総括」に『一度しか見ていないので、、、』と書いてあるのを見て驚きました。よくこれを一度の鑑賞で書けたものです。今の私にはちょっと無理かもしれませんね。