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映画批評、映画評論
「ヘアスプレー」(2007) 雨に濡れた地面と映画史について 2007.10.25
雨に濡れた地面は、映画空間の地面を底なしの神秘空間へと変貌させる。雨に濡れた地面は、そこへ当てられた光線を一部反射し、また一部吸収することで、何とも形容し難い明暗の神秘のキラキラ世界を作り出すのだ。
山中貞雄の「人情紙風船」(1937)での、雨上がりの長屋の路地に敷かれた残り雨の醸し出す白と黒のモノクロ映像の空間は、ただその露呈だけで私の瞳を打ち抜くし、ロバート・シオドマク「幻の女」(1944)でエラ・レインズがバーテンを尾行するシークエンス、フリッツ・ラング「飾窓の女」(1944)で死体を車のトランクに乗せて処理しに行くシーン等に見られる雨に濡れたアスファルトは、月明りや街灯、そしてヘッドライトの光を吸収することで、見事に「ノワール」の暗黒の世界を構築している。「飾窓の女」のシーンで車を運転していたエドワード・G・ロビンソンは、ヘッドライトの無灯火で警察官の「検問」に遭うのだが、何故ロビンソンがヘッドライトの付け忘れに気付かなかったかといえば、それは雨に濡れたアスファルトとは本来光を吸収する「暗黒の世界」を作り出すものであるが故に、ロビンソンは自分の車のライトが点いているものと勘違いし、その無灯火に気付かなかったからだと、私は推測している。
「雨に濡れたアスファルト」とは、「ノワール」の暗黒の象徴でもあるのだ。そしてその「ノワール」にいつも決まって出て来る「運命の女(ファムファタル)」をもじった内田けんじ「運命じゃない人」(2004)においても、多くの舗道が雨に濡れていたことは、決して偶然ではないはずである。
その他にも「第三の男」の広場のシーン、同じキャロル・リードの「落ちた偶像」で子供が夜、街の中を逃げるシーン、「12人の怒れる男」での、密室の議論から解放されたラストの裁判所の階段シーン、そしてアンゲロプロス「狩人」で、秘密警察がデモ隊を車に乗って検挙に行く長回しのシーンなど、「雨に濡れたアスファルト」の美しい映画史は、その枚挙に暇が無い。
だがこの「ヘアスプレー」という作品は、こうした「映画史」というものに関して、限りなき無神経さと鈍感さを露呈させている。
オープニング、主人公の娘が歌いながら、ハイスクールに登校するシーンの「雨に濡れたアスファルト」が、どうにもこうにも「汚らしい」のだ。
そもそもこのシーンは「朝の雨上がり」による濡れたアスファルトであり、夜とは違って、光線の強さなどの調整も必要となると思われるのだが、例えば登校途中、キャメラがクレーン上昇して、俯瞰からアスファルトを見下ろすシーンの地面など到底見るに堪えない。
この映画のスタッフは、美術装置の形状と、そこに敷かれた雨、そしてそこに当てられる光線、という条件を何も考慮していない。ただ、水を撒いて光を強く当てているだけなのである。その結果、俯瞰から映し出された「雨に濡れたアスファルト」は、無残な「シミ」となって我々の前に露呈している。夜、交差点で踊るシーンにおいても、まったく「雨に濡れたアスファルト」は、美として昇華されていない。
この時点で既にこの映画は「アウト」である。小さな部分への、手抜きともいうべき無神経さの露呈の数々は、それだけで、情熱も才能も欠いた淋しい人格の露呈なのだから。
こういう人々は、ひたすら「大きな物語」で我々を求心しようとする。現にこの映画を見ていれば、視点も構図もまったくなっておらず、照明もなおざりで、小道具の撮り方もまったくサマにならず、殆どを安直な近景の数々で映画を作っているにも拘わらず、演出は大袈裟で、「人種差別反対」などという大きな善意の物語で我々を求心しようともしてくる。その前に、この映画は時代物なのだから、せめてたばこくらい堂々と吸いなさいと言いたい。余談だが、このような、たばこ一本堂々と吸えない、体勢寄りの優等生が、「人種差別反対」などという「抵抗」を気取ること自体、大いにシラケル。嘘をつきなさんなと。まさに現代は、身も心も退屈なブルジョアたちの「革命ごっこ」で満ち溢れている。
現代映画は、「大きな物語」でひたすら我々を興奮させ、盲目にさせ、その反面「小さな物語」で手抜きをする。だが才能を要するのは「小さな物語」であることを、我々は決して忘却すべきではないだろう。その「小さな物語」について、無神経さを露呈させ続ける「大きなアメリカ映画」について、彼らの提示する「大きな物語」に求心されることなく、人間の人格がそのまま露呈する「小さな物語」を「見る事」で、適切な批判能力を身に着けることが、あらゆる批評家を始めとした現在の我々に求められている。
映画研究塾2007.10.25