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映画批評 STING大好きの部屋
「妻の心」(1956)成瀬巳喜男 2006年6月22日
最近私は「会話を促進するための構図→逆構図の切返しの連続」という、古くから伝わる映画的手法がつくづく下らないと思っているのだが、機械的写真映像による空間の一部切り取りという映画空間を極度に抽象化するこの手法は、クローズアップと連動することで凡庸な現代の作家たちの逃げ道として多用されている。小津は会話の視線をずらし、フォードやヒッチコックは常に空間との連動において模索し、溝口に至っては殆ど存在すらしないこの「会話のための切返し」という手法、一流の作家は必ずやこの手法への答えを出している。成瀬作品の人物の視線を見ると、有名な成瀬目線(人物が、画面の外の人物の動きを目線で大きく追いかける手法。成瀬が発見した訳ではないが、世界でもこれだけ多用する作家はいない)はもとより、人物はよく上下に配置され、一人は見上げ、一人は見下げる。さらに人物は、ショットの開始時点ではそっぽを向いていることが多く、そこから相手へ顔を向けるという動作(振り向き)からショットは開始される。常に切返しという平凡な手法に視線の動きを取り入れて運動を豊かにし、空間(上下、画面の外の広い空間)を最大限に我々に想像させ、活用している。この映画では終盤、小林桂樹が薬屋の新装開店を羨ましそうに見つめている。それまで見せたことの無い「裸の視線」である。この視線が極めて美しいのは「見られていることを知らない純粋な視線」だからだ。その視線を遠くから高峰秀子が「盗視」している。視線は交わっていない。だがこの瞬間、高峰は小林の人生を「引き受けた」のだと思う。言葉や喧嘩では一切解決し得なかった夫婦の問題が小林の裸の視線それだけで見事に解決しているのだ。二人はT字路で合流し、そのまま今度はこちらへ向かって無言で歩き始める。ここでも視線は交わらない。感傷的に見つめあう事よりも、二人で同じ方向を見つめる事がこの状況では重要だからだ。「同じ方向を見つめる」それは「共有」を意味する。「静かなる男」(52)でジョン・ウェインとモーリン・オハラが雨宿りの中、不意に二人で遥か彼方の大空を見つめた時、「東京物語」で防波堤の笠と東山が空を見つめた時、その小津を敬愛するカウリスマキの「浮雲」(96)のラストで二人が空を見上げた時、そこには「人生の共有」への決意と郷愁がある。交わらない視線、そこに大いなる映画的意味を書き加えたこの作品は極めて独創的な傑作である。
映画研究塾 2006年6月22日
■追記 これは「みんなのシネマレビュー」という投稿サイトに書いた初期の批評です。2006年6月22日は映画研究塾での提出日で、実際に書かれたのはもう少し前です。「みんなのシネマレビュー」に書き始めたのはおそらく2002年の後半くらいだと記憶しますが、ここで沢山の批評、、というよりも感想文を書けたことが批評の訓練になっていたと感じています。当時のコピーを見てみるとマイケル・マンの「ヒート」(1995)に2点、とかを付けていて、悪びれることなく、堂々と書いていて、自分が「犯罪」を犯していることにまったく気づいていないその晴れがましさは羨ましい限りです。管理人のたかさんには大変お世話になりました。ありがとうございました。2024.7.17
藤村隆史。