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映画の寓意シリーズ映画批評

珈琲時光」(2003)ホウ・シャオシェン~現在の「小津」について 2006年7月3日

これもまた、素晴らしい愛に満ち溢れた寓話の映画である。「傑作」などという種類の作品ではなく、ひたすらオマージュとしての愛の込められた、ある意味で非常に私的な作品とも言うべきものである。

★照明がおかしい?

映画の照明に日頃から気を付けている方ならすぐにお分りになるだろうが、この作品を見てまず最初に気付くことは、小林稔侍の顔に当る照明が何やら露出アンダー気味でおかしいということである。「侯孝賢の作品の照明がおかしい」、、そんなわけはない。侯孝賢は照明出身であり、光の神様のような人である。高感度フィルムを使った「ミレニアム・マンボ」(2001)では、まるで高感度フィルムに甘えたことを埋め合わせるように、見事な照明で我々を楽しませてくれたあのホウ・シャオシエンである。そしてキャメラマンはリー・ピンビン。そんなはずはない。「照明がおかしい」のはどう見ても「おかしい」のだ。

この時点で、この映画は「光の映画」であることが簡単に感じられるように出来ている。人工照明を廃し、自然の光を求めることで、何かをしようとしている。「光を犠牲にして光を得る」、というたとえ話、つまり寓意である。従ってこの映画は最後までアベイラブルライト(その場に初めから存在する光)と自然光で貫かれることもまた、この時点で既に分かってしまうのである

それが画面に露骨に現れたのは浅野忠信の古本屋の場面である。第一回目のシークエンスでは浅野の背後の小窓が夕陽で真っ赤に輝き、店内には、外から発せられる光源不明の光が断続的に通過している。この二つの光線が余りに美しくかつ正確であることから、ひょっとしてこれは「人工光線」ではないかという疑念が走る。仮にこれが人工光線ならば、この映画はただの駄作である。だが二度目の古本屋のシークエンスの時、ホウ・シャオシエンは、わざわざ視点を180度切り返して店の奥から撮ることにより、光源を我々に教えてくれるという、通常の映画であれば絶対にしないような「種明かしショット」を入れて誤解を解いてくれる。その画面には、午後の四時を差す柱時計が映っており、あの店内に入って来る光の正体は、強い西日が外を通過する車に反射し、それが店内へ断続的に跳ね返っていた光であった事が判明するのである。アベイラブルライトと自然光、これがこの映画の一つの主題であることがここでハッキリと再確認される。ただ手を抜いて照明をおろそかにしたのではなく、明らかに意図的な自然光の妙味で照明の不備を埋め合わせ、それを誇示し、同時に人工照明を排除した趣旨を強調している。

★光と音

では何故「アベイラブルライトと自然光」なのだろう。

それはひたすら浅野忠信のマイクによって拾われるあの電車の音、踏切の音、といった第二の主題である「音」と兼ね合わせた時に自然と心に伝わって来る。

ホウ・シャオシエンは、東京の光を求め、音を拾った。「光と音」とは何か。それは「映画」であり、「変わりにくいもの」であり、「現在」でもある。

★寓意

ホウ・シャオシエンは、今はもう外見的には失われた小津東京映画のあの風景、あの佇まいの中に、だが必ずやそこに居続けるであろう「小津安二郎」という巨人を、変わり行く東京の中で唯一不変の「光」と「音」の中に探し求めたのである。自然の光の中、駅のホームで浅野がマイクを差し出し、小津映画お馴染みのあの「ガタンゴトン」という電車の音を拾う。東京は変わってしまった。あの小津安二郎の映画の中の東京はもうここにはない。だが本当にそうだろうか。小津はひょっとして、東京の、この現在の光の中に、音の中に、今も生き続けているのではないだろうか、、、

だからこそ小津を愛するホウ・シャオシエンは、自らの作品を人工照明で彩る美しさを捨ててまで、敢えてナマの光を求め、音を拾う。ホウ・シャオシエンは小津安二郎を探し続けるのだ。この「探す」という行為のなんと言う美しいことだろう。この映画は「過去の小津」のことなどただの一言も語ってはいないし「小津の撮影方法」のことなど露とも描こうとはしていない。この映画が描いているのは、ただひたすら「現在の小津を探すこと」なのだ。私は今も、そして死ぬまであなたを捜し求めています、という、現在の、ホウ・シャオシエンの愛の告白なのである。

★おわりに

この作品の素晴らしさは、光を捨てて光を求め、光と音という映画の二大要素で小津を探すという、シビレル映画的構造にある。「時光」とはトキノヒカリなのだ。だがそれ以上の映画的意味は、何よりも小津安二郎を「現在化」した点にある。小津安二郎を決して「過去化」せず、現在のものとして、まだ小津は生きている、我々はこれから小津を捜し求めるのだ、小津は決して古びる対象ではないという、小津の、そして映画の「現在性」を高々と謳いあげたのだ。これで泣かない映画ファンはまさかいまい。それにしても、「自分の作品の光を捨てる」、という、作家にとって自殺行為ともとれる血を流してまで、小津安二郎への愛を誓った侯孝賢の心の美しさには、日本人として身の引き締まる思いだ。確かに映画に国境はなく、小津は世界の小津であって日本の小津ではないにしても、しかし我々日本人は、この作品に対してある種の敬意をもって接するべきではないだろうか。

映画研究塾 20067月3日