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第二回映画論文
映画の寓意シリーズ②
西部劇・その神話的ガンマンと「線」の物語
~「父、帰る」(2003)は「荒野のストレンジャー」(1972)の正統的リメイクである 2006年7月1日
今回は「映画の寓意シリーズ」を論文形式で書いてみました。やはりこれも、書いているうちに結局においては「倫理と視点」の問題へと逆戻りしてしまい、書きながら驚いてしまうという経験の中で書かれたものです。ですから、第一回目の論文や批評共々お読み頂ければより趣旨は伝わるでしょう。ちなみに論文は「父、帰る」を見たことのない人にも分かるように書いてありますので、是非ご覧になられていない方も、お読み頂ければ幸いです。
★「荒野のストレンジャー」
カメラは誰の視線ともなく、まるで陽炎のようにゆらゆらと揺れる水中を漂い、海中深く沈んだボートを映し出す。高台からダイブする子供たちの背後には果てしなく広がる水平線が映し出されている。光線の角度、装置、美術、衣装、地面に撒かれた水などで、見事な「黒」に満ち溢れた、ザラザラでハイコントラスト気味の肌触りの良い画面の中で、突如兄弟のもとへ12年ぶりに「父」がやってくる。弟は兄に、そして母に尋ねる「あの人は、どこから来たの?、、、」こうして始まるアンドレイ・ズビャギンツェフの「父、帰る」は、クリント・イーストウッド「荒野のストレンジャー」(1972)の正統的リメイクである。その理由について以下に述べてみたい。
★ジャンル映画とは
ジャンル映画には約束事がある。SFにはSFの、ホラーにはホラーの、そして西部劇には西部劇の、ジャンルとしての約束事がある。その「約束事」とは、「説明しなくて良いこと」にほかならない。その中でも西部劇で「ガンマン」という人種は(これはカウボーイとは違って、銃で生計を立てている者のことを差す)、説明されない人間の代表といえるだろう。例えば「荒野の七人」(1960)において、埋葬の仕事を片付けたあと、ユル・ブリンナーに「お前、どこから来た」と尋ねられたスティーヴ・マックイーンが自分の背後の空間を無言で指差し、「では、どこへ行くんだ」と尋ねられると今度は自分の前の空間を無言で指差すという有名なシーンが象徴するように、このようにガンマンとは「何処からともなく現れて、どこへともなく去って行く」ものであって、素性の説明は極力排除されるのがガンマンという人種の常なのである。そうして「説明しないこと」の力を得て西部劇はひたすら「運動」という映画的行為に集約され、映画的になってゆく。英雄アンソニー・マンを中心としたB級西部劇に(注Ⅰ)、「西部の人」(1958)「決断の3時10分」(1957)、「四十挺の拳銃」(1957)、その他、数え切れないほどの歴史的傑作が存在するのも、ひとえに「説明しないこと」のもたらす映画本来の運動感の回復がそこにあったからに違いない。「お前、どこから来た?」と尋ねられたガンマンが「はい、わたしの出身はテキサスで、将来の夢は牧場を持って女房と仲良く暮らすことです、そして~」などと説明し始めてしまったら、西部劇はそこで窒息してしまうのである。
ゴダールが、何故「B級ジャンル映画」にオマージュを捧げ続たか、その真意は実際のところ不確かだが、それは「B級ジャンル映画」が、低予算で頑張っているからだけではなく、その上映時間の短さを逆手にとりつつ、「西部劇」「探偵映画」というジャンル性の持つ、探偵なりガンマンなりの素性をいちいち「説明しないこと」によって回復された運動感が、ひたすら映画的であることと無関係ではないだろう。
★たんぽぽ
ここに伊丹十三の「たんぽぽ」(1985)という作品がある。この作品で山崎務が映画の最後、何も言わずに去って行ってしまったことに関して我々は決して「何故?」という説明を求めてはならないのは、山崎が風来坊のトラック運転手だからではなく、彼が「テンガロンハット」をかぶっていたからだ。その時点で伊丹は、つまり「映画狂の伊丹」は、山崎にテンガロンハットを被らせることで、山崎をして西部劇の「ガンマン」に例えているのであって、従って山崎の、安岡力也との「西部劇のような」殴り合いを見るまでもなく、山崎務は「何処からともなく現れて」、そして、「どこへともなく去って行く」に決まっているのである。これがジャンル映画の歴史による「映画的寓意」というものだと思う。「たんぽぽ」の物語構造自体が「ジャンル」映画としての特権である「説明しないこと」に満ち溢れていることを思い出してみたい。最近では「フライトプラン」(2005)が、ジャンル映画としての「説明しないこと」を見事に通した行動の快作であった。それについては後日語る予定である。
「荒野のストレンジャー」(1972)でクリント・イーストウッドが演じたガンマンはまさに「説明されない男」の典型であり、いったい彼は何者なのか、どこから来たのか、それどころか、生きているのか、死んでいるのかすらよく分からない、極めて神秘に包まれた人物として描かれている。
同じように「父、帰る」の父親は、どこから来て、どこへ消えていったのか、何一つ説明されていない。果たしてあの男が本当の父親なのかどうかも映画はハッキリさせていない。ひたすら無口な行動のみを見事な照明、見事な画面で描き続けているのだ。こうした人物描写それ自体が極めて「ジャンル映画的」ないしは「西部劇的」な、「説明しないこと」の香りに満ち満ちているのである。
だが「父、帰る」の「西部劇性」は、視覚的な細部においてより鮮明に刻印されている。
★「広さ」について
ここで「西部劇」について少し考えてみよう。
西部劇の最大の特徴は「広さ」にある。未知、未開、そして未知への夢と挫折、そのすべてを生じさせるのは西部という広大な大地の「広さ」にほかならない。西部劇の原点ともいうべきアメリカ風景画についてマックーブリーは、その中のある作品をして「荒々しい刷毛の動きがキャンパスの端に届いてははみ出しそうに見えるほどであり、果てしなく遠景が続いていること、つまり、広大な空間が背後にあって、この絵はそのほんの一部分であることを暗示している」と述べているのが(西部劇夢の伝説1321)、同時にそれは、映画における西部劇の「広さ」についても見事に言い表している。絵にも映画にも「フレーム」という限界がある。その枠内で、いかにして「背後にある広大な空間」をイメージさせるのか。映画の場合、特に西部劇の場合、絵とは違って「広さ」というものを、アンドレ・バザンが言うように「スクリーンの枠を否定して空間の充実性を取り戻させる移動撮影、パノラマ撮影を好んで用いる」(映画とは何かⅠ192)ことによって実現することができる。ジョン・フォードの「駅馬車」(1939)におけるインディアンとの戦いにおける壮烈な移動撮影を始めとした西部劇の数々のトラッキングの記憶はまさに、西部の広さを我々にイメージさせる映画の技法であるといえるだろう。
★「線」について
しかし絵と映画には、固定した構図の中で、「広さ」をイメージさせる特有の技法と言うものが存在するのである。それは「線」である。地平線、稜線、尾根、といった「線」こそが、その遠近法とあいまって、線の向こうに広がる無限の世界を我々に想像させ、フレームによる映画の限界を想像力で広げて行くのだ。ロングショットのシルエットで地平線上を一列に歩いてゆく騎兵隊の大列や、延々と地平線へと伸びて行く大陸横断鉄道の果てしなき曲線や電信会社の電線、こうした「線」を使った絵や映画の描写を我々は何度目撃したことだろう。「線」によってその向こう側が「見えないこと」が、見えない空間への我々の果てしなき想像力を広げてゆくのである。
「ジョン・フォードの西部劇を浴びるほど見て少年期を過ごした」ビクトル・エリセの(「映画狂人シネマの煽動装置」272)、「エル・スール」(1983)では、地平線まで果てしなく続く家の前の一本道が、その向こう側の世界を少女の未知の世界としてひたすら想像させながら、少女の成長、そして旅立ちという主題と見事に視覚的に関連させて描かれていたし、そのビクトル・エリセに「浴びるほど見られた」ジョン・フォードの「肉弾鬼中隊」(1934)では、砂漠に取り残されたビクター・マクラグレンを軍曹とする英軍が見えざるアラビア兵と戦う恐怖を、終始遥か彼方の「線」だけをひたすら映し出すことによって、その向こう側の敵を不気味なほと際立たせていた。さらにフリッツ・ラングの「ハラキリ」(1919)で、リル・ダーゴヴァーが夫の帰りを待って水平線の彼方をひたすら見つめ続けていたのも、また、グリフィスの傑作「不変の海」(1910)で、リンダ・アーヴィドソンが、帰らない漁師の夫の帰りを待ちわびて水平線を哀しそうに眺めていたのも、彼らは、そして彼女らは、ひたすら「線」の向こう側の広大な未知の世界へと心をはせていたのである。
★「出現」について
さらに映画には絵とは異なった、モーションピクチャー特有の運動としての「線」の使い方がある。ジョン・フォードの「黄色いリボン」(1949)でベン・ジョンソンが、そして彼を追うインディアンたちが、何度も何度も稜線の向こう側から突如出現しては、再び稜線の彼方へと消えて行って我々を驚かせたことを思い出してみたい。西部劇において「線」は、ただの広さとしての線としてのみならず、その向こう側から何者かが「出現すること」の驚きとしてよく使われているのである。
中でもメキシコ人は、何故か西部劇では「屋根の向こう側から突如出現する人種」として何度もその驚きを我々に植え付けてきた。ジョージ・ロイ・ヒル「明日に向かって撃て」(1969)では、ロバート・レッドフォードとポール・ニューマンが最後に追い詰められた街で、屋根の向こう側から姿を現したメキシコの警察隊に包囲されていたし、ロバート・アルドリッチの「ヴェラクルス」(1954)でも、突如屋根の向こう側から出現した無数のメキシコ兵がゲーリー・クーパーとバート・ランカスターを取り囲んだ。トム・グライスの「100挺のライフル」(1968)でも、メキシコ革命軍は穴の中や屋根の向こう側からひたすら出現することを繰り返している。何故、メキシコ人は「稜線」や「尾根」でなく「屋根」なのか。これは実に興味深く、今後の勉強課題にしたいとも思っているのだが、これらのどのシーンもが、屋根の向こう側が見えないことから来る、「メキシコ兵の数が計り知れない」という恐怖と不気味さとして描かれているのである。
こうした場合の「出現することの驚き」とは、例えばスプラッターやホラー映画にありがちな、いきなりオバケや手が「フンギャー~!」と出て来て我々の心臓を止めるしか脳のないサプライズ(ヒッチコック・トリュフォー・映画術60)とは質が違う。西部劇での「出現」は、「線」という「広さ」に「出現」が加わることで、「広さによる人物像の構築」とも言うべき「第四の映画的想像」へと発展させる手法であって、「ワッ!」といきなり脅かすこけおどしとは異質の美学に基づくものだからだ。
★「ガンマン」
では「広さによる人物像の構築」とは何か。それがとりもなおさず「ガンマン」という、神話的な想像上の人物像にほかならない(注②)。
「線」の向こう側から人物が出現した時、出現した向こう側の地域が我々にとって未知で広大な空間であることから、我々は、現われた人間が「どこから来たのか分からない」という、人物の不確定さを想像的にイメージする。「荒野のストレンジャー」で、クリント・イーストウッドがオープニング、陽炎の漂う地平線の彼方から「出現」し、斜面を下り、さらにダンブル・ウィードのような草の中からもう一度「出現」し、またまた、「線」の向こうへと消えてから、町の中へ入って行ったのも、さらに加えてイーストウッドがジェフリー・ハンター等三人組と初めて対峙したとき、カメラはジェフリー・ハンターからの視点のローアングルで敢えて「稜線」を角度で作り上げ、その向こう側のイーストウッドをひたすら隠し続けたのも、まさにイーストウッドが「どこから来たのか分からない」謎のガンマンであることをイメージさせたいからにほかならない。
「線」の向こう側こそ、作家にとって映画の大いなる野望なのだ。「線」→「広さ」→「出現」という、二つの視覚と一つの想像が、「ガンマン」という第四の想像物を作り出すのである。「西部劇」というジャンルは、どこからともなく現われて、どこへともなく去って行く、という、神話的な人物を、その「広さ」を表す「線」によって、想像的に作り出してゆくジャンルなのだ。そうした意味で西部劇の「ガンマン」という人物は、極めて想像的な、神秘に包まれた映画的ヒーローであると言えるだろう。
★「線」とフレーム
このように線は線としてだけではなく、ことさら線の向こう側を「隠す」機能を与えられることにより、様々なイメージを作り出してゆく。「線」はフレームという限界の中に、もう一つの限界(見えない地点)を作り、その見えない部分を我々の想像によって拡大させ広げてゆくのである。よくジョン・フォードやラオール・ウォルシュが、殊更ローアングルで稜線の向こう側を隠したがったのは、まさにそうした「隠すこと」によって、逆に我々の想像力を働かせ、空間を広げる趣旨であったといえるだろう。隠すことで広げてゆく、ここにもまた「倫理と視点」の問題との豊かな戯れが生じているのである。
★「出現」と映画史
時代を映画初期にまで遡り、「広さ」と「出現」との関係についてもう一度考察をしてみよう。1895年12月28日、フランス・パリの「グラン・カフェ」の地下の、通称インドの間で上映された初のシネマトグラフの一本「列車の到着」で、リュミエール兄弟は、近づいて来る汽車を既に地平線の彼方から捉えているのは余りにも興味深く、また、驚きでもある。映画は誕生したその瞬間から、既に「線」を利用していたのである。
初期の西部劇を見ても、例えば「セミノールズ・サクリファイス」(1911)や「ポイズンド・フルーム」(1911)という作品において、既に「線」を使っての人物の出し入れが試みられている。おそらくもっと年代は遡ることができるだろう。
さらに「線」と似通っているものとして、映画初期の短編には共通する「出現」の方法がある。例えばグリフィスの初期の短編では、遠景から近景へ馬や人が向かって来る時、必ずと言って良いほど、彼らはフレームの左右の端から「出現すること」を繰り返している。彼らは必ずや「フレームの外」から入って来るのだ。「フレームの中からフレームの中」へという運動を、グリフィスは頑ななまでに拒絶している。それは取りも直さず、「フレームの外」から彼らが出て来たことをわざわざ我々に持続的に視覚として見せることにより、「フレームの外」という「広さ」の空間が現実に存在しているということを、我々に想像させたいからに違いないのだ。
映画史上の最高傑作とも言うべきムルナウの「サンライズ」(1927)で、路面電車が突如森の中に「出現」した、あの伝説の驚愕のシーンは、あの場所に「路面電車」が「出現した」という驚きだけでなく、あの森の中に路面電車の線路が持続的に敷かれていたという、我々の画面外への想像力が重ねられることにより、初めて画面は想像的な「驚愕」へと発展されたのである。
もう一度グリフィスの初期映画に立ち戻ってみよう。例えば「ピッグ裏通りの銃士たち」(1912)で、チンピラたちが、樽の裏側や塀の陰に、ものの見事に一瞬にして隠れて敵を待ち伏せ、敵が来ると突如姿を現し襲撃するというシーンであるとか、カスター将軍の最期を描いた「マサカー」(1912)で、草の陰に隠れていたインディアンたちが突如姿を現すというシーンにおいて、グリフィスは、ことさら「隠れる」「出現する」という行為に拘っている。私はいつもそれを見た瞬間、画面の豊かさ、広がりを感じるのだが、それは「出現」するという行為が、「出現元の空間(彼らが出て来たもとの空間)」と一体の「想像的行為」であり、「出現」という行為が驚きとなるのは、「出る」ことそれだけでなく、「出現元の空間」への想像と一体化した合成の結果にほかならないのである。例えば「樽の後ろに隠れていた人間が出て来る」という行為を考えると、「あらすじ的な驚き」ないし「視覚的な驚き」は、人が「突如出現」したことに尽きているのであるが、しかし「映画的な驚き」は、それだけでなく、樽の裏側に「現実に人が隠れる空間が存在した」という、二次元空間を三次元的広がりへと導く想像的証明にこそあるのである。二次元の平面体であるスクリーン空間が、「樽の裏側」という空間に対する我々の想像力によって、三次元へと広げられるのだ。
スプラッター映画の十八番である「ふんぎゃ~!」という、いきなり手が出て来て我々を驚かす演出が、何故「非映画的」で、つまらないかと言えば、それはただ「出現」というショックに頼ったものすぎず、「出現元の空間」への想像を働かせる余地のない薄っぺらの力技に過ぎないからである。我々はただそこにおいて「ショック」を受けるだけなのであり、何ものかを想像しはしない。「出ること」は「隠れること」と一体になってこそ、映画空間としての豊かさを視覚と想像との戯れにおいて獲得するのだ。
このようにして「隠れる」「出る」という演出もまた、「線」による「広さ」の拡大の手法と、その根本的な精神においては違いがないと言えるだろう。
こうした映画初期の拡大の手法が、カメラの自由を得ることにより、より洗練された「稜線」や「尾根」として、「フレームの中」に未知の空間を暗示させる手法へと発展し、それが「広さ」の要求される西部劇へと次第に取り込まれていったのではないかと私は考えている。カメラの発展は、「線」をさらに画面の中の「第二のフレーム」として機能させ、敢えて限界をもう一つフレームの中に付け加えることで、逆にあらゆる想像的イメージを獲得していったのだ。
そうした意味で「西部劇」というジャンルは、「映画」という、フレームによる限界のあるメディアの中で、その限界そのものを逆手にとって、もう一つの「フレーム」をフレームの中に構築することで、さらなる想像上の「広さ」を得て、そこに「出現」という視覚的効果を得て「ガンマン」という、想像上の神話的人物を構築するという、極めて「映画的な」、「映画らしい」ジャンルであるといえるのである。
★線・出現と他のジャンル
線と出現による想像的な人物像の構築は西部劇だけで使われる手法ではない。「線」という単純な視覚のみによって「想像」という、なんとも素晴らしい映画的効果を得てしまう、この極めて使い勝手の良い手法を、一流の映画人たちが放っておくわけがない。特にその中でも、映画を「運動」として追及し、「心理的ほんとうらしさ」なるものを極度に忌避する黒沢清は、この「線」の手法を徹底的に活用することで、人物をひたすら暗示の中へと取り込み、映画をB級映画的な運動へと見事に解放しているし、最近では青山真治が「エリエリ・リマ・サバクタニ」(2005)の冒頭で、海岸の稜線から「出現」する二人の人物を映画の冒頭に挿入することで、ジャンルとしてのSF映画的世界観を神話的に作り上げている。その根底にある精神は、「説明しないこと」にあることは言うまでもない。「秘密を守り通すことが出来ず、あまりに早く自らをさらけ出してしまう作品は消滅し、枯れた茎しか残さないという大きな危険を冒している」とジャン・コクトーが言うのもまた(シネマトグラフをめぐる対話29)、決してこれと無関係ではないだろう。
★倫理と視点
ここでもう一度私は、前回の「ある子供」の批評で、そして「あおげば尊し」の批評で引用したゴダールの言葉を思い出さずにはいられない。それは「倫理と美学、その一方をどこまでも選び続けるものは必然的に行き着く先でもう一方を見つけ出すものなのだ」(ゴダール全発言Ⅰ400)、という発言である。倫理とはフレームという限界である。視点とは、視覚を想像へと導く豊かさである。「ガンマン」という人物は、まさに倫理と視点との豊かな戯れによって創造された、映画の賜物ともいうべき想像的神話なのだ。
★総括
エドガール・モランが「運動は映画の魂であり、映画の主観性と客観性である」と語ったように(「映画」162)、「線」という客観的視覚が「広さ」という主観的な想像力となり、そこへ「出現」という視覚的運動が加わることで、「ガンマン」という神話化された想像上の人物が映画的に運動を始める。視覚と想像、客観と主観、現実と幻想、そして偽が真と戯れながら、弁証法的に画面を発展させてゆくことで作られた人物が「ガンマン」という寓話であり、神話なのである。
★結論
では最後に「父、帰る」を以上の法則に当てはめてみよう。。
この作品の中で、父と子三人を乗せた車は何度地平線の彼方から出現し、地平線の彼方へと消え去ったことだろう。そしてあの父は、あの無人島で、何度「線」の彼方へと消えて行き、同時に何度「線」の彼方から出現したことだろう。「どこからもなく現われて、どこへともなく去って行った」謎の男が、「線」を起点に出入りを繰り返す。「父、帰る」そして「荒野のストレンジャー」、そのどちらの人物もが、線の向こう側の未知の空間への想像力によって神話化され、名前のない神秘的な謎の人物として描かれている。
「荒野のストレンジャー」のオープニングは、揺れる陽炎の中から出現するイーストウッドから始められ、「父、帰る」のオープニンクは、揺れる水の中に出現した「父の」ボートから開始される。「父、帰る」のラストはもちろん、ひたすら「水平線」を写し続けるショットで終わり、「荒野のストレンジャー」のラストもまた、イーストウッドが地平線へと消えてゆくショットで終わる。「父、帰る」の弟が父に対して発した最初の感想は「あの人、どこから来たの?」であり、「荒野のストレンジャー」のジェフリー・ハンターの最期の言葉、それはもちろん「Who are you?」である。
私がアンドレイ・ズビャギンツェフ「父、帰る」を、クリント・イーストウッド「荒野のストレンジャー」の正統的なリメイクである、と断定する理由は以上である。
「線」以外にもさらに「父、帰る」の西部劇的要素を付け加えるのなら、無人島の「一軒家」を挙げるべきだろうか。そしてもう一つ、その一軒家の窓をことさら額縁のように切り取って、歩いて来た子供たちを絵画的に描写しているショットもここに付け加えよう。「一軒家を見たならジョン・フォードと思え」、これが蓮實重彦の常識だとするならば、「窓を額縁代わりに使う奴を見たら、ジョン・フォードかジャン・ルノワールと思え」、これが私の常識なのであるから。
このように、物語としては親子の関係を描いた作品が、視覚的には「西部劇」的ガンマンの寓話にもなってしまう。映画は物語だけで消費するのではなく、作品として味わうべきだと蓮實重彦は主張する所以はそういったところにあるのだろう。表面に現われているあらすじだけでなく、二次的に暗示される視覚的な細部を食い尽くすことも映画の大いなる楽しみなのだから。
岡本喜八の「独立愚連隊西」シリーズがひたすら西部劇的なのは、ダクラス・フェアバンクスさながら佐藤允が馬に飛び乗ることもさることながら、果たしてどこから来たのかよく分からない素性の知れない人物像と、大地と雲、舞い上がる砂塵の中、彼らがひたすら稜線、尾根といった線の向こう側から飛び出してくるその驚きが、中国の大地を西部の「広さ」に例えて見せた視覚的な寓意にあるのである。
★未来へ
アメリカ西部劇は滅びている。アメリカ人は「ガンマン」を失ってしまったのだ。「ガンマン」を失うということは、映画の神話を失うことを意味する。ガンマンは、オリンポスの神話上の半神としての想像物から「説明される生身の人間」へと変化してしまったのである(最近ではロン・ハワード「ダヴィンチコード」(2006)によって、キリストですら、より「生身の人間」に近い存在として描かれている。時代そのものが、神話を受け容れなくなったのだろうか)。
撮影所システムが崩壊し、年間の収支ではなく、一本の映画を一本ごとに必ずヒットさせなければならない製作者にとって、最早「説明しないこと」の勇気はなく、肩の力を抜くこともまたできず(注③)、西部劇はひたすら説明され、壮大な叙事詩となる。叙事詩となるからには「本当の人物」を「本当らしく説明する」必要に駆られることになり、人物や出来事は謎めく「ガンマン」である事を許されなくなり、西部劇本来の持つ「線」と省略のスピードが、スローモーションと2時間をゆうに越える上映時間とでひたすら引き延ばされ、小奇麗な包みで包装され、必然的に「運動」から遠ざけられてゆく。同時に映画ファンもヒステリックなまでに「説明」を要求し、それが相乗効果となって映画は益々神話から遠ざかってゆく。「三つ数えろ」「荒野のストレンジャー」「父、帰る」「フライトプラン」、こうした「行動の映画」の傑作は、我々が映画に辻褄を求めた瞬間、抹殺されてゆく運命にあるのである。
そうしたなかで、ロシア人が「西部劇」を撮る。ここでアンドレイ・ズビャギンツェフが、明確に「西部劇」を撮る、と意識していたかどうかは私には分からない。ただズビャギンツェフが、西部劇なり、探偵映画なりの、「説明しない人物像」の背後にある、神秘的な、未知の空間を我々に想像させる謎めいた時間と空間の感覚とを、ジャンルとしての西部劇的な人物像の視覚処理による映画的寓意として実現したことこそが、映画的に面白いのである。
このように「父、帰る」の面白さは、アメリカ人が絶対に撮れなくなってしまった「西部劇」を、ロシア人が撮ってしまったという、西部劇的寓話の現代的皮肉と、そしてその希望にあるのである。
注①
(B級映画とは、正式にはB撮影所で撮られた早撮り、低予算、80分前後で二本立ての添え物的作品を言い、同時に「B」と言うのは地域の名称であって決して作品のレベルの区分けではなく、そのB地点の撮影所が実際に存在したのは1932年から1947年頃までの短期間である。従ってアンソニー・マンの映画は初期のものは別として正式にはB級映画ではなくB級「的」映画ということになる。詳しくは「季刊リュミエール⑨神話としてのB級映画」20ページ以下、ないしは「ハリウッド映画史講義」蓮實重彦)。
注②
ガンマンとは、実際には想像上の人物ではなく、南北戦争後に出現した①雇われ保安官②家畜泥棒を取り締まるために雇われた者たち③用心棒、この三つのタイプの銃使いをいい、実在している (「西部劇を読む辞典」)芦原伸131)
注③
撮影所システムがあり、年間の合計の収支で映画を作っていた時代には、商売としての映画は全体で勝負をすればよいのだから、一本一本の作品を、ある意味において「肩の力を抜いて」作ることができた。これが案外映画製作において重要であることが、最近になって特に認識されてきたというべきなのだが、例えば一つ一つの映画に独自の製作委員会を発足させ、一本の映画にすべてを賭ける「一本必勝主義」で映画を製作すると、人間と言うものは、「これでいいだろうか?」「これで客は分かってくれるだろうか?」と、どうしても何もかもを詰め込みたくなる焦燥に駆られてしまうものであり、その結果映画は必然的に「説明調」になっていくのである。これは映画論ではなく簡単な人間論である。昔の監督は、脚本のセリフをどんどん削っていったものだが、逆に今ではセリフを付け加えている。最近の映画の上映時間が極端に長いのは、こうしたことと決して無関係ではない。同じ理由から製作サイドは「終わる」ことに恐れをなすようになる。「あっけなく終わる」ということが出来なくなってしまったのだ。映画の素晴らしさの一つは、何時終わるとも知れない瞬間瞬間の輝きを瞳に植えつけることにあるにも拘らず、今の映画はデコレーションケーキに包装されあらゆる飾り付けを施され、引き伸ばさないと終われなくなってしまったのである。言葉を変えて言うならば、映画そのものが「善良」になってしまったのだ。今の説明映画は、瞬間瞬間を見逃しても、「ALWAYS 三丁目の夕日」(2005)のように、何度も「善良に」説明してくれるのである。人はそれを「親切」と呼ぶが、私はただ社会全体が「バカ」になったのだと思う。「善良な芸術」など、誰が金を払って見に行くものか。だがこれは映画だけでなく、どの世界にも共通する現象でもある。例えば「ドラゴンクエスト」という人気ゲームがあるが、ゲームが国民的人気を博し、製作会社のドル箱になった時、彼らは「終わること」に恐れをなし始めた。ラストのボスも倒し、もうとっくに物語は「終わっている」のに、ゲームはプレイヤーを、それまで旅をした世界中のすべての国々へ強制的に連れて行き「挨拶」をさせなければ「終われなく」なってしまったのである。これが如何にナンセンスかは説明するまでもないだろう。まさにこれは「終われない病」である。車や電気製品のボタンの数はどんどん増え続け、ゲームのアイテムは多くなり、クリア時間は長くなるだろう。映画もまったく同じなのだ。フランソワ・トリュフォーが、その遺作「日曜日が待ち遠しい!」(1983)を、敢えて「最初から・アルメンドロスが心配するくらいの早撮りで撮った」のは(「季刊リュミエール②フランソワ・トリュフォーとフランス映画68」)、トリュフォーが自らに「説明すること」を禁じた結果にほかならないのである。
映画研究塾 2006年7月1日