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「靖国 YASUKUNI」  映画への飛翔 2008.5.28


「映画的人種」とはいかなる人種を言うのだろうか。例えばこの映画で靖国刀を作る刀匠の仕事に思わず見入ってしまい、それをひたすら撮り続けてしまう人たち、「主題」を忘れ、ひたすら目の前の出来事に引き込まれてしまうに任せてしまう人たち、こういった「恍惚症」とも言える人たちは、まずもって「映画的人種」というに相応しい。

この映画の監督は、「恍惚」とまでは行かないにしても、刀匠の仕事をじっと追い続けるだけの豊かさは持ち合わせている。


映画館でしか見られないシーンで満たされているので、おそらく地上波での放映はないだろう。
ところで「映画館でしか見られないシーン」とは何だろうか。私は満員のシネモンドでこの映画を見て、久々に、「映画館」を感じたのだが、それは「制度」が隠したがる「何か」を暴き出しているからだ。

その「何か」とは「地上波」の検閲とは「質的に」異なる持続でもって、我々を不意打ちにする画面の数々であるだろうし、靖国刀を作る刀匠の仕事そのものに露呈した「美」としての恐ろしさでもあるだろう。この作品は、多くのシネコン映画の画面がまったくもって「地上波」のそれと「均質」であることに対する、ある種の提言としても成立している。さらにその上で、靖国反対派、賛成派という、これまた「質的に」異なる二派を、交互に露呈させていることもまた、「映画」としての生成を達成している。

ラストのモンタージュは、まさに「モンタージュ」の名に相応しいモンタージュなのだが、刀を振りかざす兵士たちを何度もそれと分かる逆モーションで流し続けたその感覚は、まるでリーフェンシュタールそのままに、「美」としての器械体操の幾何学的狂気を「質的に」露呈させてしまっているし、神社という祀る場所と軍人の制服を着たコスプレ達、星条旗をかざし小泉総理を支持すると誇示する不敵なサングラスの出所不明のアメリカ男、彼を巡る靖国賛成派同士の内部分裂、さらには「中国人は帰れ!」と袋叩きにされた「中国人」が、実は「日本人」であったという混乱は我々を宙吊りにして已まず、かくして「靖国問題」は「靖国反対派対賛成派」という単純な二項対立から、正体不明の「質的対立」=「映画」へと上昇してしまったのである。「靖国問題」とは、「映画」なのだ。

この作品を「上映中止」に追い込みたい人々が仮にいたとしたならば、それはあくまで我々の慣れ親しんだ地上波の画像との「質的差異」から来る不安感、違和感ではないだろうか。そもそもこういう映画を日本人が撮れない、という事実こそが、見事な「質的差異」として露呈している。「質的差異」は、人々を不意打ちし、驚かせ、そのまま「映画」へと飛翔するのだ。