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映画批評.映画評論

「クローバーフィールド/HAKAISHA」(2008) 映画と権力について 2008.4.23

★「リアリズム神話」

『映画には「過去の画面」や「将来の画面」が無いのと同様に「リアルな画面」も存在しない。在るのはただひたすら「現在の画面」である』

私はいつもこういうことを書きながら、書く度に筆を止め、考え込んでしまうのだが、いつものように、いつもと同じような文をここに続けよう。

『まずもって在るのは「現在の画面」であり、この「現在の画面」がその生成としての持続を継起した瞬間が「リアル」になったりならなかったりするのであって、それ以前に「リアルな画面」などというものが在るわけではない。安易な作家たちは、決定的にこの順序が判っていない。手っ取り早く画面に「意味」を込められる過去的な手法に飛びついてしまう。彼等はそれを「画面そのものの意味」だと勘違いしている点に在る。』

と、こういう流れである。映画の「現在性」に対してチャレンジする精神というものは、「創作」も「批評」も本質において変わりはない。

『仮に映画が「回想」へと流れようが、そこに流れるフィルムの持続は「現在」であって「過去」ではない。映画が「回想」になった事が我々に判るのは「画面」そのものの質に拠るのではなく、画面と画面との前後関係か、或いは経験則に拠る過ぎない。
映画館に中途から入って来た観客には、その「回想」場面が「回想」であるかはすぐには判らない。何故ならば、「画面」そのものはあくまでも「現在」だからであり、画面には言語のように「私は昨日~しました」と「書いてない」からである。
それとまったく同様に「リアルな画面」もまた存在しない。手持ちキャメラを揺らし続けるのは、あくまで「ニュース映像」における「経験則」という「過去」を頼んだ「リアル感」への依存であり、ぶれる画面そのものは「リアル」ではなく、基本的には「リアル感」という「過去」でしかない。』

と書いてからまた考える。

★「現在」
以上は、一般的な議論としては、非常に微妙なニュアンスの議論でもあり、果たして我々が感じる「リアル感」なるものが、「過去の経験則」に拠るものなのか、はたまた「現在性そのもの」から稀有にも獲得されたものなのか、ハッキリとした区分けが存在するものではない。「カメラを揺らすこと」が、経験則から解き放たれ、ただそれだけで「リアル感」を獲得したとしたならば、それは一つの「現在」であり、「映画」であるだろう。

また仮にこの「現在」という現象は、もっと広い意味においての「現在」なのかも知れない。例えば小説には言語としての「時制」が存在するが、だからといって小説を書くという行為が、或いはそれを批評するという現象が、「過去形」であって良い訳はないのと同様に、映画を「撮る」「語る」という行為もまた、そのような意味において「現在」でなければならない。

結局の所この「現在」とは、まず持って「作品」から入るということを意味し、「余」なり「自分」が入ることではない、という意味において語り得るかも知れない。「作品」とは、仮に語られた内容が過去形であれ未来形であれ、画面が、そして語が「あること」において「現在」であり、「余(わたし)」なり「自分」とは限りなく過去に近いところの「何か」なのだ。

★カメラを揺らす
「クローバーフィールド/HAKAISHA」の画面を私は「見ることが」出来ない。構成からして「画面」を「見せよう」とはしていないからだ。
カメラを揺らすという行為は「見せないこと」と繋がっている。カメラがブレることで、「より見やすくなる」ということは在りえない。彼らは何を隠したがっているのだろう。
加えて多くの「カメラを揺らす作品」に共通しているのは、近景が多く、カメラは動き続け、深度は浅く、カッティングが早いという事実である。これ等の全てがミックスされずとも、多くはどれかとセットになって撮られている。
「見えないこと」が「リアル感」へと繋がるこの現象をもう一度考えてみた時、私はいつもある種の重苦しさに囚われる。
何故ならば「見えない事で醸し出されるリアル感」というものは、不可視としての「近代的権力構造」そのものなのである。簡単に言うならば、私は「クローバーフィールド/HAKAISHA」や「ボーン・アルティメイタム」を見た時、即座に「国民国家の権力側」を連想してしまうのだ。これ等の作品の「成り立ち方」というものが、権力の構造そのもの=「隠すこと」に極めてその感覚が似ているのである。

その中でも最大の権力は言うまでもなく「テレビ」である。テレビというものは、我々に何かを見せることで「テレビ」と言われている。だがテレビとは実際は映画の如き視覚的なメディアでなく、実は音声的メディアである。 テレビというメディアこそ「見せること」ではなく「隠すこと」によって成り立っている。
私はテレビのコメンテイターの「紙はがし」の「見せない事性」について書いた。ボクシングやサッカーの開始時間の「隠蔽性」についてもどこかで書いた。「隠すこと」とは、「ある部分だけを見せる事である」とも何処かで書いた。
テレビというものは、特に現在、「局部を見せる事」という「見せる事」を仮装しながら「隠す事」によって成り立っている。みのもんたが紙をはがし、「はい、次、ここ見て」の「見て」は、実は「見て」ではなく、他の部分を「見ない」の裏返しとしてのセットで成り立っている。彼らが「見て」という対象は決まって小さく、部分的であり、我々は小さな部分に「集中」させられることで他の大きな部分を見ることを禁じられる。実際は、禁じられる事に薄々気付いていながら、彼らにコントロールされることを受忍するようになる。テレビのフレームとは「隠すもの」なのである。そうして我々の視野は益々「近視眼的」に侵されてゆくのだ。

これに対して映画のフレームは「隠すため」に在るのではない。映画のフレームは創作活動としての「抽象化」であり、全体からの「切り取り」であり、有体に言うならば、「私は世界の中からこの部分だけを選んでみます」という選択行為に他ならない。「隠す」のではなく「選ぶ」、それが「創作活動」というものの「フレーム」という存在なのである。

ところが「シネコン映画」の多くに感じるのは、フレームとは「隠すもの」であるという、「テレビ的」=「権力的」構造に他ならない。映画が「テレビ化」=権力化しているのである。

どんなに威勢のいい言葉を並べようが「画面そのものが権力的である」という現象を、「創作者たち」はどう説明してくれるのだろう。

逆に言うならば、だからこそ「隠す映画」は「シネコン」で上映される機会に恵まれるのである、という地点へと踏み込んでいかざるを得ない。今や「シネコン」とは「権力の出先機関」なのである。

「シネコン」は、「隠されること」に慣れ親しんだ観客たちを心地よく「誘導」するだろう。シネコンという場は、我々の「見ること」を代行し、「見ていないもの」を「見たこと」にしてくれる介護装置なのである。

★演技
「クローバーフィールド/HAKAISHA」における人物たちは、「フィクション」を「ほんとうらしく」見せようとする点で、ここでもまた「ほんとうらしさ」なる「過去形」に寄りかかっている。
それと同時に「うそ」を「ほんとう」と見せかけようとする演技が、その瞬間、「偽善」という極めて居心地の悪い表情を露呈させてしまうことを知りうるくらいの感性を、「若い才能」は持ち合わせるべきではないのか。
「画面」も、そして「演技」も、この監督は「ほんとうらしさ」なる古臭い神話を信じてはいまいか。

★おわりに
最近の映画は、実はシネコン映画に限らず「権力的」になって来ている。たばこ一本まともに吸えない映画が「黒人解放!」だのやっていると(「ヘアスプレー」)、嘘をつけ、と言いたくなる。そうした点で、いきなり煙草をスパスパやった「人のセックスを笑うな」はそれなりに美しかったし、だからこそ私は、蒼井優にも一服やって欲しかった。
「めしを食う」という行為も今の女優たちはまともに食えず、ひたすら恥ずかしがって食って「めしを食う」ことの持つ本来的な恐ろしさを「隠して」いる。「容疑者 室井慎二」では、そんな娘(田中麗奈)が「私、体育会系です」とか言っていると、「バカ言え」と、それだけでシネコンを出たくなる。
テレビで「アイドル」たちが何かを「隠し」ても何も言うまい。だが、「映画」は「隠す」場ではない。「見せるものを選ぶ」場なのだ。

映画研究塾2008/4/23