映画研究塾トップページへ

「家族の波紋(archipelago)」(2010英 ジョアンナ・ホッグJoanna Hogg)~10年に1度の未公開映画に誘われ  2024年8月1日

この作品は未公開でありWOWOWで放映されただけでこの批評を読む人の多くが未見であろうことから、物語の順を追って、その都度批評を書きながら進めてゆくことにする。
藤村隆史。2024.8.1

■鳥の鳴き声

映画が始まると真っ暗な画面にタイトルとスタッフのクレジットが映し出されながら、鳥の鳴き声と風、波の音だけがどこからか聞こえてくる。暗い画面を支配するようなその音はさらに何か得体の知れない音を伴い、しばらくして画面が明るくなるとキャンパスに絵を描いている画家(クリストファー・ベイカー・以下、画家)の右手が映し出される。あの得体の知れない音はキャンパスに筆がこすれる音だった。そこから引かれたショットには、キャンパスへ向かっている画家の後ろ姿と、右には海に囲まれた白い海岸、左には小高い森が映し出されている。画家はキャンパスを背中にくくりつけて自転車で小路を下ってゆくと、しばらくして轟音が鳴り響き上空右からヘリコプターが画面を横切ってゆく。

★検討

①鳥、風、波、筆のこすれる音、ヘリコプター、、オフ空間から聞こえてくる『音だけ』から映画が始まっている。音源から音声だけが『分離』されている。

②画家が既に絵を描いている最中(モナカ)から映画は始まっている。出来事の始まり(はしっこ)を撮らず既に始まっているところから画面が始まっている。

■自転車

ヘリコプターから降りて来た一人の青年(トム・ヒドルストン・以下、弟)を彼の母親(ケイト・フェイ・以下、母親)(リディア・レオナルド・以下、姉)が自転車を押しながら出迎えている。その後、自転車で森の中の道を走っている母と姉を正面からの後退移動で捉えた後、トラックの荷台に座り、追いかけて来る母と姉を笑って見ている弟へと内側から切り返され、再び自転車の2人へ内側から切り返されると、その次のショットには建物の白い壁に立てかけられている二台の自転車が映し出されている。

★検討

①ヘリコプターの中から出て来た弟を見て母と姉が喜ぶという劇的なショットは撮られず、既にヘリコプターから出て来て2人のそばまで歩いて来ている「最中(モナカ)」の弟からショットは始まっている。

②自転車に乗って漕ぎ始めるショットは撮られず既に疾走している「最中(モナカ)」から撮られている。

③自転車を走らせている2人とトラックの荷台の弟とは2ショット内側から切り返されそのまま終わっている。別々に撮られている。

④建物の白い壁に立てかけられている二台の自転車を捉えたショットは、その自転車に乗っていた母親と姉という持ち主から『分離』された所謂『空ショット』であり、その直前の森の中を自転車で疾走する2人のショットからいきなり転換されたこのショットは白い壁とけたたましい鳥の鳴き声に包まれて「自転車」ではなく機能不在の「じてんしゃ」と化している。『分断の映画史・第二部』で言及した「その人」と「そのひと」の関係に等しいこの空ショットは、「自転車」という機能的な乗り物から分離された物体としての「じてんしゃ」が露呈している。最近の素晴らしいモーションピクチャーの大きな特徴として、機能から分離された空ショットが多く撮られていることが例外なく認められている。

■部屋割り

家族は部屋割りを始めそれぞれの個室に入ってゆく。母親は弟に『あなたの旅よ』と二階の部屋に入ることを勧めるが弟はみずから屋根裏部屋を選んで入ってゆく。その後、家族は台所で軽食を作っている。

★検討

①鳥、風、波、海に囲まれた陸、ヘリコプター、森を走る自転車、立てかけられた自転車、部屋割り、、こうした断片的ショットの積み重ねによって家族は諸島の避暑地に来ていることがそれとなく撮られている。

②部屋割りは、既に始まっている「最中(モナカ)」から撮られている。

③部屋割りをしている時の『あなたの旅よ』、、という母親の言葉によって家族は弟のためにこの別荘に集まったのだと推測される。断片の積み重ねが「さき」にあり、物語は「あと」から来る。

④軽食は作られている「最中(モナカ)」から始まっている。

■一日目の終わり

母親は居間のライトを消してから『パパはくるかしら』とオフ空間の姉に話してから二階へ上がっていき、そのオフ空間からは姉に『彼女に会っていくの?』と尋ねられた弟が『出発の前日の夜に会うつもりだ』と答えている。その後、弟は二階の部屋の中にいる姉と母にお休みの挨拶をして屋根裏部屋に入る。外からは誰かの足音が聞こえてくる。

★検討

①台所で弟が後片付けをしている「最中(モナカ)」から始まっている。

②家族の会話から、父親が来るらしいこと、弟には彼女がいて、かつ弟が何かの旅に出発するらしいこと、その前に彼女に会う予定であることが、会話の過程においてさり気なく語られている。物語は会話の「さき(中心)」ではなく出来事の「あと(周辺)」から来ている。

②キャメラが居間に固定されているので台所にいる妹と弟の話し声はオフから聞こえてくる。この作品のキャメラは最初の自転車の移動撮影以外すべて固定されていることから、多くの音がオフ空間からの『声だけ』、『足音だけ』として聞こえて来ている。キャメラを固定することは空間を拡げることでもある。

■コック

次の朝なのだろうか、右手の指に煙草を挟み左手を真っ青なエプロンのポケットに入れた『胴体だけ』がまず撮られている。キャメラが引かれると、タバコを吸っている雇われコックの女(エイミー・ロイド・以下コック)が映し出される。それを居間の窓からさり気なく見ていた姉はコックの影口を母と弟に言い、そこへコックが入って来ると弟がさり気なく雑談を始める。その雑談では、この別荘に来たのは姉弟が子供の時に何度も来て以来であること、壁の色が違うことからそこに掛けられていた絵が外されたままになっていること、コックの出身地などが話されている。コックが出て行ったあと姉は弟に声を潜めながら『気を使わなくていいのに』とコックと雑談をして場を持たせた(と姉は思っているらしい)弟に皮肉を言う。それを聴いた母親は姉に『声を潜めることはないのよ』と軽口でやり返す。

★検討

①タバコは既に吸われている「最中(モナカ)」から撮られている。

②コックの出のショットは『胴体だけ』から始まっている。それによって青いエプロンと右手のタバコが人の全体から『分離』されている。

③コックと雑談をする弟、それを皮肉る姉、という差異が撮られている。

④声を潜めて話す姉と『声を潜めることはないのよ』という母親の軽口は、オフ空間から聞こえてくる声、足音、ドアの音、など、この家の音が『筒抜け』であることをそれとなく映画的に表している。

■食卓その1

夜、テーブルには左側の手前に姉、奥に弟、そして右側に母が座り、奥の台所ではコックが仕事をしている。姉が弟に『もっと前にやっていれば人生を踏み外すこともなかったのよ』と不満を吐露し始めるが、どうやら弟は働くことをやめ、理念に向けた何かをしようとしてもうすぐ旅立つらしく、姉にはそれが気に入らないらしい。だが終始、ナイフとフォークをカチャカチャ鳴らして魚料理を口に運び身振り手振りを交えて話している姉の不満とは、あくまでも「食べながら不満」であって正面からの衝突というよりも小さな「波紋」が立った程度のことに過ぎない。

★検討

①ディナーは既に食べられている「最中(モナカ)」から始まっている。会話も話題の「最中(モナカ)」から始まっている。

②薄紫のクロスに彩られたテーブル空間と、奥の淡いブルーに包まれた台所空間とが、配光と美術装置による遠近によってパンフォーカス気味に映し出されている。キャメラは固定され縦空間のピント送りもカットもなされていない。

■自室で

その後、弟は自室でパジャマに着替えて布団に入って日記らしき冊子を開いている。コックは台所で片づけをしてから(台所のショットその1)屋根裏部屋の自室でタバコを巻いている。

★検討

①パジャマの繊維がこすれる音、日記のページがめくられる音、外からは波の音、コックの部屋には外からドアがパタン、と閉まる音が『分離』して聞こえている。音に関して極めて鋭利な感覚で終始撮られている。

②弟のパジャマは着替えている「最中(モナカ)」から撮られ、台所のコックは食器をふいている「最中(モナカ)」から始まり、自室でのコックはタバコを巻いている「最中(モナカ)」から撮られている。

■階段

朝、階段を降りてゆくコックの足音が鳴り響いている。コックは白い壁に立てかけられた「じてんしゃ」に跨りどこかへ出かけてゆく。弟はいなくなったコックの部屋の中の小物を手に取ったりしたあと、自転車を走らせてゆく。母と姉は別荘の庭のテーブルで画家と話し、コックは台所で鳥をさばき(コックと台所その②)、テーブルでは家族と画家が食事をしながら話している。動く雲、夕陽の森などが空ショットとして撮られていて鳥はずっと鳴き続けている。

★検討

①すべて「最中(モナカ)」しか撮られておらず、会話の始まりと終わり、鳥をさばき始めるシーンとさばき終わるシーン、昼食を食べ始めるところと食べ終わるところは一切撮られていない。

②弟はすでにコックの部屋に向かって歩いている「最中(モナカ)」から撮られている。弟はコックの屋根裏部屋に勝手に入り込んであれこれと手にとっている。なぜだろう、、、

■野外テーブルの会話

外に置かれたテーブル席の弟と立っているコックが雑談を交わしている。弟には「クロエ」というコックの姉の名前と同じ恋人がいること、コックの父親は昨年亡くなったことなどが話されている。そこへ姉がやって来て話は中断され、これからピクニックに行くのに母親が寝不足で行きたがらないなど姉はやきもきしている。

★検討

①弟とコックの会話は既に始まっている「最中(モナカ)」から撮られている。コックの父親の死の話は淡々とした会話の過程においてロングショットで撮られていてコックの心理は読むことができず、またすぐに姉がやって来るので死の話はその余韻を排除するように終わっている。

②ピクニックの準備がうまくいかない姉が神経質そうに撮られている。母親は何事もなかったように降りて来てピクニックに行っていることから、物語の因果からするならば「母が寝不足でピクニックに行かないと言っている」ことはまったく無意味な出来事でありハリウッド映画なら間違いなく削除されるエピソードでありながら、ここでは姉の神経質な性格を露呈させるためのマクガフィンとして撮られている。物語の起伏からは重要ではない平坦な出来事(姉の神経質はすぐに重要な出来事を惹き起こすわけではない)をわざわざマクガフィンによって起動させている。

■ピクニック

画家とコックを引き連れ、歩いてピクニックに出かけた一行は小高い山を登り、海岸へと向けて歩いている。そこでは姉が弟に、もう少し仕事を続けていればよかったのに、『パパも恥ずかしいはず』と愚痴をこぼすと弟は姉から離れて行ってしまう。岩肌に囲まれた草地の上でみんなで弁当を食べていると、弟は帽子をかぶって父親の物真似をし、母と姉は笑っている。波音を立てる海を見ながら弟が話し始める。どうやら弟はアフリカの子供たちがエイズにならないように性教育を施すために仕事をやめてボランティアでアフリカに行くらしいことがここでわかってくる。母と画家とが2人で話しているショットが撮られたあと、コックが洞窟の中から滑らないようにゆっくりと出て来る様子が撮られている。

★検討

①歩くことはすべて「最中(モナカ)」から撮られ、どの道を行くかについても迷った瞬間は撮られておらず道の指示をしている「最中(モナカ)」から撮られ、昼食もまた食べている「最中(モナカ)」から撮られている。

②弟がエイズの話を始めるシーンはまず家族たちから海のショットへと転換され、そのショットに弟の話の出だしをオフの声で入れてから (ずり上げ)、家族の映像に切り返されている。話の「はしっこ」は『分離』された「声だけ」によって開始され、話している弟へとショットが転換された時には既にエイズの話を始めている「最中(モナカ)」からとなる。

③弟が帽子をかぶり、狩りをしている父親の物真似をしている。似ているかどうかが分かるのは家族だけで画家とコックにはわからず、ただそれとなく笑みを浮かべることしかできない。分からない者の前で物真似をするという出来事は、ぎこちない時間をもたらし、「波紋」を生じる前兆でもある。

④コックが洞窟から出て来るシーンは「滑らないように足場を確かめながら恐る恐る歩いている最中」のみが撮られ「無事に出終わったシーン」は撮られていない。

■父親からの電話その1

窓から差し込める薄暗い光線のシルエットに黒く塗られた母親は電話で父親()と話をしている。みんな元気であることを伝え、すぐこちらに来て欲しいと伝えている。

★検討

①父親はどうしてここへ来られないのか、父と母とは未だ結婚状態にあるのか、それとも離婚しているのか、そういったことはこの会話からはわからない。

②すでにかかってきている電話をやって来た母親がとるところ(はしっこ)から撮られている。しかし話し始めた母親は窓の外からの光を逆光に受けて真っ黒に塗られたシルエットのロングショットで撮られており母の表情その他心理的な出来事を見ることはできない。聞こえてくる声だけが身体から『分離』している。

■雨

森に横殴りの雨が降り始める。弟は自転車を走らせ、歩いて見晴らしの良い丘の上へ行き絵を描いている画家と話している。

★検討

①弟が自転車に乗るところ、降りるところ、降りて歩き始めるところ、画家のいる丘の上に到着するところはすべて省略されていて「最中=モナカ」しか撮られていない。

■ボート

モーター付きの小舟に乗ってやってきた漁師が船着き場でコックに二匹のエビを届けてから雄と雌の見分け方を教えている。

★検討

①コックはやって来るボートを待っている「最中(モナカ)」から撮られている。

②砂浜ではなくではなく海水の満たされた船着き場で撮られたこのシーンは、風に波立つ濃紺の揺れる海面と波音がもはや海面ではなく「かいめん」として振動し二人の存在とその会話をその瞬間として露呈させている。

35ポンドを請求されたコックが40ポンド払うと、漁師は釣りは後でちゃんと渡すと言って帰ってゆく。その後、釣りが返ってきたところは撮られていない。まったく無意味なシーンだがほんとうに無意味なのか。

■台所その3

台所でコックがエビを茹でている。やって来た弟にコックは『エビの正しい茹で殺し方(安楽死のさせ方)』について教えている。

★検討

①既にお湯を温め始めている「最中(モナカ)」から撮られている。弟は既にやって来て鍋の中を覗き込んでいる「最中(モナカ)」から撮られている。

②エビの茹で方について延々とコックは話している。白い壁と青いタイルの貼られた台所を固定されたキャメラで撮り続けたこのシーンは『長回し』という『長』という言葉で定義されるべきではなく『キャメラを固定して撮られた』とだけ定義することが正当である。

③コックは仕事で雇われたコックでありながら弟が雑談(コミュニケーション)を交わす存在として撮られている。たばこ、青いエプロン、仕事、家族や弟との雑談、屋根裏部屋、、撮られることによってコックは物語られようとしている。

■食卓その2

漁師が獲って来た二匹のエビをコックが料理して食卓に出すと、息子が『コックを呼んで一緒に食べよう』と提案している。それに対して母と姉、特に姉が冷ややかに対応し、衝突が生じることになる。と言ってもそれはコックを食卓に呼ぶ、呼ばない、という何の変哲もない出来事であり、物語からするならば、これもまた対立、というよりも「波紋」を生じさせる程度に過ぎない(この作品の原題は「archipelago(諸島)」であり「家族の波紋」はまったき邦題である)

★検討

①食卓は、すでに料理を食べ終わったところから、かつ、コックをテーブルに誘うか誘わないかの話が既に始まっている「最中(モナカ)」から撮られている。

②テーブルについている家族三人と奥のキッチンでちらちらこちらを見ているコックとが縦の構図で撮られているが、ここでの固定されたキャメラによって撮られた役者たちの余りにも生々しい対話のやり取りとそれに対する反応、表情、仕草の数々は、いったいどうやったらこのように演じられるのか、想像もできない、見たこともない「リアル」に包まれている。『食卓その1』のテーブルとは異なり照明の落とされたテーブルを3本のローソクとおそらく補助された光でしっとりと照らされた空間は、姉のやや汗ばんだおでこによって感光を助けつつ、「登場人物になりきる」などという役者たちの「外部」の模倣によってもたらされる「リアリズム」ではなく「役者本人そのもの」でしかあり得ない瞬間の醸し出す「コメディ」が発散し続けている。このシーンに限らずすべてのシーンにおいて役者たちは「内部的リアル」によって演じ続けており、それが固定キャメラによって持続して撮られた時、そこに露呈するのは「らしさ」という分節化された観念ではなく「コメディ」というリアルのおかしみであり、いったいどういう「演技指導」をすればこういうことができるのか不思議でならない。

③エビは夜のテーブルの家族たちに「波紋」を生じさせるためのマクガフィンとして撮られている。そのマクガフィンを、ボートで猟師がやって来てエビを渡すシーン、台所でコックがエビを茹でながら弟と話し込むシーンと、延々撮り続けている。これについては「食卓その4」で検討する。

④姉と母は、彼女はコックであり仕事で来ている、仕事は仕事よ、と繰り返しコックは雇われただけであることを主張している。

■日記を書く弟

ベッドに入った弟が日記か何かを書いている。波の音と、ペンが紙にこすれる音が聞こえている。

★検討

①日記は既に書かれている「最中(モナカ)」から撮られている。

②静かであるから、遠くの波の音、ペンと紙のこすれる音が聞こえる。「静けさ」とは無音ではなく小さな音が聞こえることによって感じられる出来事であり、この作品は「静けさ」によって支配されている。

■ベッドの姉

朝、カーテンを開けはなった姉は、けだるそうに再びベッドの中へ入ってゆく。鳥の鳴き声と、下の方から弟とコックの話し声が聞こえている。

★検討

①カーテンは姉によって既に開けられている「最中(モナカ)」から撮られている。

②現実ならばただの話し声がこのように下から聞こえてくることはないはずである。先に『この家の音が『筒抜け』であることをそれとなく映画的に表している。』と書いた『映画的』とは、聞こえるはずのない音を聞こえていることにする、という「お約束」を意味している。

■台所その4

台所でコックと弟が雑談を交わし、そこでコックの父親はレースの事故で死んだことが明かされている。泣くでも取り乱すでもなくコックは淡々と話し続けている。

★検討

①弟とコックは既に話している「最中(モナカ)」から始まっている。

②最初に窓の外の様子が撮られ、その画面に『父はレーサーでレースの事故で死んだ』とコックの声だけがかぶさって聞こえ(ずり上げ)、その後、コックと弟が映し出されている。『死んだ』というドラマチックな出来事が話される時、コックから『分離』された「声だけ」が撮られることにより、『死』という物語よりもそれが発せられる声の振動が撮られている。『野外テーブルでの会話』でコックが初めて父親の死について話す時はさり気ない会話の過程のロングショットであり、かつその会話はすぐ姉の登場によって中断されていたように、物語性の強い出来事は『分離』されるか即座に中断される傾向が顕著に現れている。

■記念撮影

樹木園へ出かけた一行は小高い斜面の彫像の前に立ち、コックが記念写真を撮る。姉は『あなたはパパ役よ』と画家を招いて家族の横に立たせる。

★検討

①樹木園はガイドが木の説明をしている「最中(モナカ)」から撮られている。

②記念撮影は既に家族が並んでいる「最中(モナカ)」から撮られている。

③不在の父親についてはここまで何度か話題にされ、弟によって物真似もされ、父親からの電話も撮られている。だがそのどれもがさり気なく流され、雑談の過程に埋没されている。コックは父親を失っている。だがそれも雑談の過程に埋没されている。

■食卓その3~レストラン

一行はレストランへと向かう。混み合わない時間帯なのか、照明の落とされた薄暗い大広間で、姉が主導権を握りテーブル選びをすることになる。だがなかなか決まらず、席順まで決めて座ったテーブルも「やっぱりだめね」と変更されやっと一同はテーブルに就くことになる。その後、一同は食事を始めるが、ここで姉が『私の鳥、生焼けよ』と文句をつける。『25分も待ったあげくにこれよ』、、。それに対して母と弟は薄暗いテーブルのロングショットなのではっきりと顔を見ることはできないが、なんとか穏便に収めたがっているようである。姉はウエイトレスを呼んで文句を言い、厨房からやって来たシェフに『「ホロホロ鳥」は少し半生で出しています』と言われても引き下がるでもなく、かといって喧嘩になるわけでもなく、最後は挨拶をしてそのままシェフとは穏便に会話を終えてはみたものの、オフから聞こえてくる母の「美味しかったわ」という静かな声が姉にやんわりと突き刺さり、弟は黙って席を立って出て行ってしまう。弟は森の木の下で雨を凌ぎながら掌で目をぬぐっている。

★検討

①すでに姉がテーブルを見回している「最中(モナカ)」から始まっている。

②「テーブルが決まらない」という出来事は「女コックをテーブルに呼ぶ、呼ばない」同様、実に些細でどうでもいい出来事にも関わらず、姉以外は誰もどのテーブルにするか主張をしないことが大きな居心地の悪さとなって跳ね返って来る。「強引な姉の性格」を撮るのなら最初に姉の指定したテーブルに座ればいいところを、そうはならず、テーブル選びは実にぎこちない運動によって吃音的に進められてゆく。物語の起伏の小ささが却ってそれぞれの異質さを際立たせちくちくと人々に突き刺さり始める。料理が生焼けなこと、「私は美味しかったわ」という母の言葉。弟が黙って席を立つこと、、こうして家族の関係は直接語られることのない現在の「逸れた」出来事が少しずつ積み重なって「波紋」はさらに拡がってゆく。

③レストランに夕暮れ時に行くのは一人の客も座っていない時間帯に「テーブル選び」をさせるためであり、マクガフィン性が際立っている。樹木園そのものも、日が暮れる前にレストランへ行くためというマクガフィン的回路から撮られたのかもしれない。

■父親からの電話その2

姉が父と電話で話し、その後母と交代する。母は電話の部屋のドアを閉めてから話しはじめ『少し険悪になって来たわ』と初めて因果性の強い言葉を発し『早く来て欲しい』と頼んでいる。

★検討

①姉も母親もロングショットのシルエットで表情を見ることはできず、ここでも「声だけ」が『分離』されて撮られている。

■泣く姉

姉はベッドの中で泣いている。

★検討

①弟が森の中で掌で目をぬぐい、母親が夫に助けを求め、姉も泣き始める。家族の「波紋」が大きく広がっているが、それがどうしてなのか因果的な理由ははっきりしない。

■自転車

画家のキャンパスが映し出されたあと、自転車で角を曲がって来たコックが自転車から降り自転車を押してあの白い壁に立てかけて家の中へ入ってゆく。すぐあとから自転車でやって来た弟もまた自転車から降りその自転車を立てかけられているコックの自転車に寄り添うように重ねて立てかけ家の中に入ってゆく。

★検討

①「自転車」を中心に撮られたとした場合、ここでは「自転車から降りる」という「はしっこ」が撮られている。

2人が同時に入って来るのではなく、敢えて別々に入って来て重ねられた2台の自転車は、その周囲に立てかけられた母と姉の自転車と共に「じてんしゃ」として露呈している。『露呈している』とは重ねられて立てかけられたコックと弟の自転車に「愛」とか「恋」を読み取ることではない。ただひたすらそこにあることを驚きとして「見ること」である。仮に来るとしても「愛」とか「恋」は「あと」から来るのでありそれを「さき」として語ってはならない。「じてんしゃ」として見るならばこのシーンに「はしっこ」は撮られていない。

■台所その5

弟とコックが鳥の鳴き声の聞こえる陽光の差す台所で雑談を交わしている。『私の仕事です』と食事を作ろうとするコックを制して弟は自分で朝食を用意し、『遊んだことある?』と膝でスプーンをリズム良く鳴らしている。弟はその後、寝ている姉をおこしてサイクリングに誘うが断られ、母の部屋で昨晩かに見た父親の夢の話をしてから一人で自転車を走らせてゆく。

★検討

①台所での会話は既に始まっている「最中(モナカ)」から撮られている。おそらくあとから編集で「はしっこ」をちょん切ったのだろう。

②弟は、食卓その2でコックを食卓に呼ぼうとし片付けを手伝ったように、コックの仕事を分担している。主人と使用人の境界線を敷いている母親と姉にはすることのできないコミュニケーションがここに撮られている。

■狩り

森の中で猟犬を連れて狩りをする男たちがしばらく撮られてから、猟師は猟犬を引き連れて別荘に獲物のキジを持ってきてコックに調理の仕方を教えている。

★検討

キジ狩りは2人のハンターが既に獲物の気配を察知している「最中(モナカ)」から始まっている。狩りについてはあとで検討する。

②白い壁に囲まれた玄関を裏庭から撮ったこの空間は「うらにわ」という驚きを伴った場所として撮られている。猟師はキジの羽のむしり方を延々とコックに教え2匹の猟犬たちはコックを気にしながらもあたりを探索している。

■台所その6

コックはライトを消した薄暗い台所でキジの羽をむしっている。

★検討

①コックがキジの羽をむしっている「最中(モナカ)」から撮られている。

②薄暗い台所は、窓の外の光とその左側の壁、そして左端の柱とキッチンの上部、そして椅子のほんの左端に当てられた光だけで感光させ撮られている。

■絵を描く母と姉

居間では画家に指導されて母親と姉が談笑しながら絵を描いている。コックが飲み物を持ってきて、弟もやって来る。

★検討

①『生焼け事件』があったにも関わらず、妹も母親も、画家の言葉に耳を傾けながら絵を描くことに集中し、弟がやって来たあとも時にユーモアを交えながら絵を描き続けている。あの気まずい空気はここに持ち越されてはいないように振舞われている。すまして絵を描いている姉の姿がコミカルにも見えてしまう。

②居間は窓から差し込む陽光によってほんのりと照らされている。

■コック

コックが自室の屋根裏部屋でたばこを左手に挟みながら窓の外を見つめている。外からは鳥の鳴き声が聞こえている。その鳥を見ているのか、コックは上を見上げ始めて何かを見つめている。しばらくするとたばこを挟んでいる左手の親指で目を押さえ始める。薄暗い部屋のロングショットでコックの顔は見えず、聞こえて来るのは鳥の大きな鳴き声だけでしかない。

★検討

①コックが窓の外を見ている「最中(モナカ)」から撮られている。

②コックは鳴き始めた鳥の声に呼応するように顔を大きく上の方へ向け直している。2階の窓の外にわずかに見える枝の位置からして彼女は鳴き声の「もと」である鳥を木の中に探しているようにも見える。

②コックは泣いてのか、、仮にそうだとしてその理由を画面は語っていない。父親の不在と家族の「波紋」が父を亡くしたコックに波及したのか、そうではないのかを読むことはできない。「最中(モナカ)」によって「はしっこ」を切り取られた現在の時間は「見ること」でしかない。その結果として「ありもしないであること」が「あと」からやって来る(ように読める)。それは『コックは亡き父親のことを考えて泣いていた』とか『コックは鳥を見ていた』という感想に過ぎない。これを断定してしまうと「ありもしないであること」を無理やり「さき」に読み込む「誤読」となる。

■母親と画家

ソファーで母親と画家が話し込み、そこへ台所から姉と弟が飲み物を持ってきてそれぞれ違うソファーに座る。ここでもまた弟は父親の真似をして母親を笑わせるが、ピクニックでは笑っていた姉はニコリともせず、画家はただほほ笑んでいる。

★検討

①母親と画家とは既に話し込んでいる「最中(モナカ)」から撮られている。

②弟の物真似は二度目。ここでも彼の物真似は場を和ませてはいない。

③窓の外では鳥たちが勢いよく鳴いているが誰も外を見ようとはしていない。

■食卓その4~キジ

エビのあとはキジである。猟師が仕留めたキジがコックによって調理されて昼の食卓に出されている。画家も呼ばれての食卓で弟がアフリカの恐ろしい習慣の「ナイトダンサー」の話をすると、姉は弟の恋人の話をし始め、11か月も恋人に会わないでいられるならあなたたちはそれだけの関係ね、とヒートアップし始めたその時、姉が口を押さえ「なにこれ」と口の中から散弾を取り出し、『ほんとに痛かった、、』と頬を手で押え、一同が黙っているともう一度『ほんとうにほんとうに痛かった!』と席を立ち出て行ってしまう。

★検討

①食卓は既に食べ始めている「最中(モナカ)」から始まっている。会話は「ナイトダンサー」の事件を話し始めるところから撮られているが、既に会話は始まっている「最中(モナカ)」のように見える。

②キジは姉が歯を痛めるためのマクガフィンなのだから、キジ狩りに意味はない。その「意味のない」キジ狩りをしばらく撮り続けている。マクガフィンの中身に意味はないのだからマクガフィンのキジ狩りを延々と撮り続けることには「現在」以外の意味はない。ヒッチコックの『マクガフィンに意味はない』の「意味」とは分節化された意味のことであり、例えば「カバン」がマクガフィンだとして、カバンの中を開けてその中身を知ることは意味を知ることになる。だがカバンそのものを撮ることはマクガフィンの「外」を撮ることであり意味を撮ることではない。この場合、どうして狩りをするかと尋ねることはマクガフィンの中身を知る行為だがキジ狩りは2人のハンターが既に獲物の気配を察知している「最中(モナカ)」から始まっていて「何故狩りをするのか」の理由は撮られていない。ジャン・ルノワール「ゲームの規則(LA RÈGLE DU JEU)(1939)にもキジ狩りのシーンが延々と撮られているが、狩りは浮気をしている夫を妻が望遠鏡で盗み見をしたり、招待客の運動を惹き起こすマクガフィンとして撮られているのであり、そのキジ狩りは2人の招待客が「あのキジを撃ってすまなかった、あんたが撃つべきキジだったのに、、」と既に狩りが始まっている「最中(モナカ)」から撮られているように、何故狩りをするのかの理由については撮られていない。ルノワールは敢えて「はしっこ」をカットした撮り方をしている。出来事が「はしっこ」から始まっているか「最中(モナカ)」から始まっているのかを見極めることは極めて重要である。

②キジの中の散弾で歯を痛めるという出来事は家族の衝突を通常惹き起こす出来事ではない。

③画家は色々と機知に富んだ話をしている割には家族に「波紋」が生じると一切口を挟まずただ見ているに過ぎない。画家は家族間に欠如しているコミュニケーションを媒体するためのマクガフィン的人物であり、マクガフィンが家族のプライベートな出来事に口を挟まないのは当然でもある。

■姉と母の怒鳴り合い

母に言われて姉を探しに出た弟は波と風の轟音に包まれた夜の森を探したが見つからず、居間で母親と二人で姉の帰りを待っていると、オフからドアの開く音がして、入って来た姉が階段を上ってゆき母親が追いかけてゆく。居間に座っている弟には二階からの母と姉の怒鳴り声が聞こえてくる。弟のくだらない話を聞かされて怒らないママがおかしい、否、ママも怒ってる、じゃあなぜ弟じゃなくて私に矛先を向けるの。バカな弟のためにこの旅行を組んだのよ、、、そうした怒鳴り声を屋根裏部屋のコックもベッドで聞いて顔を覆っている。

★検討

①母親と弟は、既に姉を待っている(待ちくたびれている)「最中(モナカ)」から撮られている。

②母と姉の大喧嘩の会話は最初から撮られているが、それは居間に座っている弟にオフの「声だけ」として聞こえてくるだけで音源の姉と母から『分離』されて始まっている。コックが父の死を弟に話すシーンと同じように「はしっこ」が「声だけ」によって『分離』されている。その後の2人の怒鳴り合いもずっと「声だけ」によって『分離』され続けそのまま終わっている。聞こえてくるのは内容(物語)よりも振動であり、その余りにも通りの良い大きな声に、この姉と母を演じた女優たちは舞台出身に違いないと姉(リディア・レオナルドLydia Leonard)と母(ケイト・フェイKate Fahy)サイトで調べてみたところ、2人とも即座に「舞台出身」と書かれており、役者の選定それ自体が既にマクガフィンであるというこの作品は、多くの「波紋」を生じさせる出来事がマクガフィンによって引き起こされているのであり、だからこそ出来事の発端の理由を失った「最中(モナカ)」となって解き放たれ自由になって振動する。

③姉の帰りを母と弟が待っている居間は、奥のランプシェードと左手前のほのかな光の二点によって感光し、その後の弟とコックの屋根裏部屋は一つのランプシェードのみによって感光されている。そのため人物の顔は薄暗く、ハリウッド映画のようにぴたっと光が当てられることはない。

④母と姉の怒鳴り合いによってはじめてこの旅行が弟のために組まれたことが明らかになる。物語は「あと」から来る。撮られているのは現在の出来事なのだから。

■父親からの電話その3

朝の散歩から帰ってきた母親は、コックが受けた父親からかかってきた電話を引き継ぐと「もう耐えられない」と切ってしまう。

★検討

①ここで初めてコックが父親からの電話を受けている。ここでも母親はシルエットによって黒く塗られその「声だけ」が『分離』として聞こえて来ている。

②「波紋」が少しずつ広がっている。「家族の波紋」の原題はarchipelago(諸島)であって「家族の波紋」は邦題だが、この邦題は映画の運動を的確に表している。

■姉の部屋へ

画家と話した後、弟は山を駆け登ってゆく。ベッドの上に横になっていた姉は、鳴り響くドアの音と階段を駆け上がる音を、身を起こして聞き耳を立てている。ベッドにもぐりこんでしまった弟は、やって来た画家の問いかけに答えられず、察した画家はそのまま帰ってゆく。母親は雷と風の音に包まれた夜のランプシェードの暗い部屋で絵を描きながら風の吹き荒れる外の様子をチラリと見ている。

★検討

①天候が崩れ窓の外から差し込んでいる弱まった光線を右頬にけだるそうに受けながらベッドで身を起こし外から聞こえてくる弟の音に聞き入っているこの姉は、これまでの神経質な「そのひと」とは異質の「そのひと」として撮られている。「波紋」が逆方向に収束し始めている。

②足音、弟を呼ぶ母親の声、画家の声、木々、風、波の音はすべて音源から『分離』されてオフ空間から聞こえている。

③雷と風の音に包まれた薄暗い部屋で母親は絵を描きながらふと窓の外を見ている。家族が窓の外の反応するのはこれが初めてであり、姉のあのベッドの上のショットのように、何かが動き始めている。

■台所その7

初めて黒い服を着てディナーの用意をしているコックを弟はキッチンに寄りかかり腕を組みながらじっと見ている。するとコックの胸に付けられている赤いバッヂがポロン、と転げ落ちる。コックが拾ったバッヂを『僕がやる』と代わりに弟が付けてから、コックは準備を終えて、弟が二階の家族たちを呼びに行く。残ったコックは深くため息をついている。

★検討

①バッヂはまるで何かに引っ張られたようにポロン、と見事に落ちている(おそらく糸か何かで引っ張っている)。弟がそのバッヂをつけ直すとき、この映画で初めて弟とコックの体が触れ合っている。

②これが弟とコックとの台所での最後のシーンであり、ここで初めてコックは黒いドレスのような服を着ている。

■アナグマの謝罪

ベッドに座っている姉の部屋のドアがノックされ、少しだけ開いたドアの陰から手袋のぬいぐるみアナグマが顔を出す。アナグマは『僕は悪いアマグマだったよ』と姉に謝罪し、その後、顔を出した弟は、夕食ができたと姉に伝え、すぐ行くわ、と姉は答えている。

★検討

①面と向かった会話による謝罪ではなく弟をアマグマに『分離』させて謝っている。

②弟は姉に「本当に」謝ったのか。撮られているのは『分離』された謝罪であり現在の「見ること」によってなされた「あなぐまのしゃざい」である。それを見た姉はなんとも言えない笑いを浮かべている。

■食卓その5+父親からの電話その4

姉と弟がテーブルで向き合って食事をしていると、父親との電話で怒鳴っている母の声が聞こえてくる。やってこない父親を罵倒して電話を叩き切る音が聞こえたあと、母はテーブルにやって来て弟の横に座る。

★検討

①母親の電話は既に父親を罵倒している「最中(モナカ)」から始まっている。ここではシルエットによる『分離』ではなく「声だけ」の『分離』によって母親の声が食卓に聞こえている。

4回の電話のなかで父親の声がほんの少しだけ聞こえてきたのか「電話その2」で姉が話している時であり、それ以外に声は聞こえることもなく父親の存在は電話で話している相手(母親、姉、コック)のリアクションのみによって極限まで『分離』されている。

③これまでとは違い、オフの空間でわめき散らした母親がやって来てテーブルについてもさほど気まずい空気は流れていない。それどころか姉は「おいしいわよ」とナイフで母の料理を差し、母の目を見て「大丈夫?」と尋ねると、母はしっかり姉の目を見つめてうなずいている。弟も母の目を見つめ母も見つめ返している。ここで初めて家族のあいだにコミュニケーションが成立し「波紋」は消えかかってゆく。

■台所その8

黒い服に赤いバッヂを胸につけたコックは包丁を拭いてからそれを包丁専門のカバンに詰め込んでいる。ふと後ろを振り向いてからカバンのチャックを閉めカバンを畳んでベルトを締めた後、もう一度振り向いて台所を見渡している。それからコックは布巾を二枚畳み。もう一度、台所の中をゆっくりと見まわし、かばんを肩にかけ、台所の電気を消し、玄関のテーブルの上を整理してランプシェードを消してから、家を出て行く。

★検討

①初めて台所の電気が消えて真っ暗になる。

■置き手紙

朝、鳥の鳴き声のする台所にコックの置き手紙を見つけた弟は、遠くの何かを追いかけるように木々が強い風に揺れる樹木園の道をひとり歩き続けている。

★検討

①遠くからキャメラの近くまで歩いて来る弟の姿が初めてのショット内モンタージュによって撮られている。弟は遠くを行く人の姿を目で追い続けているように見えるが、その姿はコックではないように撮られている。弟は歩き続けている。

②樹木園では、その前で家族の記念撮影を撮った彫像が森の風の中に揺れている。弟はその前を通って歩いたのだろうか。

■画家との別れ

弟はベンチに座って画家と話し、そのあと、母親もまた丘の道端に座って絵を描きながら画家と話している。母親と画家が自転車で帰って来ると、2人は自転車を壁に立て掛けて家の中に入ってゆき、画家は家族に別れを告げ、再会を約束して、去ってゆく。

4台の自転車が壁に立て掛けられているが一台の自転車が欠如している。

■外を見る

ソファーで話しをしていた母親と弟は、ふと鳥の鳴き声に反応するように外を見上げている。

★検討

2人の会話は話している「最中(モナカ)」から始まっている。

②ほかのシーンでは2人の見つめた方向には窓が撮られており、ここで2人は途中から大きく鳴き鳴き始めた鳥の声に呼応するようにそちらを見ていることから『鳥の声に反応して窓の外を見た』と書けるのであるが、窓も撮られず、鳥も撮られていないこのシーンは極めて『分離』の強いショットとして撮られている。ちなみにあれだけ鳴き続けた鳥は最後まで一度も撮られていない。

②この映画の中で人々が鳥の鳴き声のしている窓の外を見たのは、コックが屋根裏部屋で窓の外を見上げていた時と、これが二回目である。今までは鳥の鳴き声に見向きもしなかった人々が窓の外を見つめている。

■壁に絵を描ける

居間の壁の色が変わっていたところに弟が絵を描けている。大きな波のうねりの描かれたこの絵は誰が書いたのか誰も口にしない。欠けていた何かが埋められたあと、家の中に清掃チームが入って来ると、家族は彼らに挨拶をし、慌ただしく忘れ物がないか確かめている。風に揺れている屋根裏部屋のレースのカーテンが撮られてから、家族たちはヘリコプターで島を後にする。

  壁の絵は弟が立てかけている「最中(モナカ)」から撮られている。

  レースのカーテンが揺れている屋根裏部屋はコックのいた部屋だろうか。揺れているカーテンが固定キャメラでしばらく撮られている。

  ヘリコプターは既に飛び立っている「最中(モナカ)」から撮られている。あの中にこの家族が乗っているという証拠はどこにもない、、、おわり

■分離

鳴いている鳥の姿ではなく鳴いている鳥の「声だけ」から始まるこの作品は、怒鳴っている人間ではなく怒鳴っている人間の「声だけ」が、タバコを吸っている人間の姿ではなくタバコを持っている人間の「胴体だけ」が撮られる映画でもある。鳥、人間の全体像(物語)の中から「声だけ」「胴体だけ」という部分として取り出されそれがずっと撮られ(録られ)続けることによって物語から分離され解放された細部が「そのこと」として現れ始める。

★空ショットと『分離』

映画の冒頭、森の中を自転車で疾走する2人のショットの次に撮られた、壁に立て掛けられた二台の人間不在の自転車のショットは、白い壁とけたたましい鳥の鳴き声に包まれながら8秒間ずっとそのまま撮られている(空ショット)。自転車という機能的な乗り物が持ち主の人間から『分離』されて解き放たれ人間不在の静けさと白い壁と鳥たちの鳴き声によって「自転車」から「じてんしゃ」として、あるいは「その空間」ではなく「そのくうかん」として露呈する。ここに露呈しているのは、その「じてんしゃ」に乗っていた持ち主の名残といった「外部」への郷愁ではなく、あるいはそれ以上に、機能という物語から自由になった空間、物体そのものの振動である。そのしばらくあと、自転車で角を曲がって来たコックが自転車を白い壁に立て掛けて家の中へ入ってゆき、すぐあとから自転車でやって来た弟もまたその自転車をコックの自転車に寄り添うように重ねて立てかけ家の中に入ってゆく。弟の手が自転車から離れたあと、固定されたキャメラは8秒間この人間不在の自転車を撮り続けている。さらに画家が別れを告げるために母親と二人で乗って来た自転車を壁に立て掛けた時にも、自転車は画家の手を離れてから8秒間撮られ続けている。空ショットとは『分離』された出来事がある時間持続して撮られることによって露呈する「ショット」であり『分離』の一形態と見ることができる。

★機能・運動連関表と『分離』

ヒッチコック論文における『機能・運動連関表』に提示されているのは『機能の中から運動を取り出す』出来事であり、「裏窓(Rear Window)(1954)でジェームズ・スチュワートが向かいのアパートを覗くために使ったキャメラが一度もシャッターを機能的に押されることなく、それどころか家政婦のセルマ・リッターに『ポータブルキーホール(portable keyhole=持ち歩き式のぞき穴』と言われているように、我々の慣れ親しんでいる機能(キャメラ)から『分離』された物体(持ち歩き式のぞき穴が「そのもの」として露呈している出来事、それが『機能・運動連関表』に書かれている出来事であり、これもまた『分離』の一形態と見ることができる。

★「その人」と「そのひと」と『分離』

『分断の映画史・第二部』で言及した「その人」と「そのひと」との関係は、人間という全体とそこから『分離』された運動との関係であり、空ショット、『機能・運動連関表』と同じように『分離』の一形態と見ることができる。

■マクガフィン=開始点における心理的ほんとうらしさの除去

家族の出来事は直接の因果関係ではなくピクニック、エビ、キジ、レストラン、そして食卓など、、マクガフィンによって弾かれて開始されている。マクガフィンは出来事を起動させるきっかけでありそれ自体には意味はなく意味のないマクガフィンによって起動する出来事はその始動の原因(はしっこ=心理的ほんとうらしさ)を欠いた状態で開始されることになる。

★マクガフィンと『分離』

「エビ」はマクガフィンでありその後の食卓における家族の「波紋」を惹き起こすための出来事なのだから「エビ」は「エビ」でなく「えび(abi)」とでも

なるのであり、マクガフィンもまた機能の中から運動を取り出す『機能・運動連関表』の一形態であり『分離』の一形態となる。

■「最中(モナカ)

マクガフィンによって理由なき運動として始まった出来事であってもその出来事の始まる地点が心理的に撮られたのでは意味はない。この作品は『★検討』で非常に多くの「最中(モナカ)」の文字が見出されるように、出来事がすでに始まっている時点から撮られている。映画が始まって、ヘリコプターから降りてきた弟を母と姉が出迎えるシーンなどは、他の乗客たちがヘリコプターから降りているところなのに弟だけが1人そこから数十メートル離れた地点を歩いており、そうした「おかしな」ことをしてまで「ヘリコプターの中から出て来た弟を見て喜ぶシーン」を撮らないという「最中(モナカ)」を貫く確固たる意志が伝わって来る。出来事の始めと終わりから「最中(モナカ)」だけを撮り出すこの撮り方もまた、全体の中から運動だけを取り出す『分離』の一形態であり、それによって惹き起こされる衝突が「コックを食卓に呼ぶか否か」「料理が生焼け」「散弾を噛んで痛かった」という「逸れた」衝突に過ぎないのは、因果から解き放たれた現在という時間によって引き起こされる出来事は「波紋」に過ぎないからである。母親との怒鳴り合いで姉は弟を非難しているが、ボランティアのために会社を辞めることは日常的因果関係からすれば大声で非難するようなことには見えず、姉の弟に対する非難の矛先は微妙に「逸れて」いる。それ以外の何か、弟に対する姉の期待を裏切られたせいなのか、父親の不在なのか、それともそもそもこの旅行を組んだのは家族が集まって弟のアフリカ行きを思い止まらせるためだったのか、それにも関わらず父親が来てくれないので彼に対する怒りが爆発したのか、、それらしい動機は思い浮かんでは来るものの、「最中(モナカ)」という現在を持続した固定キャメラで撮り続けるこの映画にはそこに現れていること以外の物語が現れることはない。

★照明

ネストール・アルメンドロスは『私はいつも、主要な光源を画面に入れるように努めてきた。視野の中に少なくとも一箇所、明るい点があれば、俳優を含め、他の部分がすべて暗がりの中にあっても。そのショットは露出不足には見えないものだ。拠り所となるこの光の点がなかったら、ショットはただぼんやりと暗いだけの、平板なものに見えてしまうことだろう』(「キャメラを持った男」244)と語っているが、この作品の照明は基本的にこの方針で感光されている。ハリウッド映画はスターを中心に光が当てられそこにクローズアップ、切り返し、カッティングといった方法が加わることで画面に物語の因果的起伏が刻み込まれる。しかし「家族の波紋」における『一箇所』の光源は分散されその場に特権的な拠り所を創り出してはいない。「最中(モナカ)」によって撮られた出来事は因果から解放され持続する。こうした照明の方法がハリウッド映画とは異質の現在を撮ることを可能にし、また、この方法でなければこの作品は撮られることはない。

★固定キャメラによって距離を置いて撮られ続けること

ほのかな光に包まれた空間が固定キャメラによって距離を置いて撮られ続けることによって「最中(モナカ)」によって撮られた出来事は心理的なショットから自由になって持続する。短くも長くもない「現在」の時間は『長回し』という言葉で表すことはできない。

★物語の拒絶

弟が仕事をやめてアフリカでボランティアをすることになり見送りを兼ねて家族が諸島の別荘に集まった、という因果的な理由がすべて分かるのは『バカな弟のためにこの旅行を組んだのよ!、、、』という姉の叫びが母親との怒鳴り合いでオフから聞こえてくる時になってであり、それをこれまでの会話や出来事の断片とつなぎ合わせて初めて「あと」から分かるに過ぎない。反物語映画なり物語を拒絶する映画とは、可視的な運動が先行しその「あと」から不可視の物語を感じられる映画のことであり、まったく物語が存在しない映画ではない(それは絶対映画というジャンルになる)

■「見ること」と「聞くこと」

「最中(モナカ)」によって撮られた分節化されていない現在の時間は善悪等の価値の挿入を拒絶する無色透明な出来事であり「見ること」「聞くこと」によってしか画面に現れることはない。

■想い出

家族のあいだのコミュニケーションは常にぎくしゃくしている。怒って電話を切った母がテーブルについて初めてコミュニケーションの端緒が開かれるまで、家族におけるコミュニケーションの相手は画家とコックしかいない。彼らは家族にコミュニケーションをもたらすマクガフィンであり、マクガフィンである彼らは延々と撮り続けられているものの、マクガフィンに意味はないのだからマクガフィンの中身はわからない。画家は弟や母親との会話で美術学校へは行かなかったこと、展覧会をしていることなどを話してはいるもののそれ以外のことは何もわからず、コックもまた自分の姉妹と父親の話をしているくらいですべては現在の時間に過程に委ねられている。あの押し潰されるような屋根裏部屋の窓辺で外を見上げ目を押さえているあの姿も瞳の記憶として留まることしかできない。8回撮られた台所のシーンのうち4回、コックの横には弟がいてコミュニケーションしている。コックの落とした赤いバッヂを弟がつけ直したとき、初めて2人の体が触れ合っている。「見ること」によって満たされたとき、時間は瞳に焼き付いて離れることはない。メリー・ゴーランドのアジトから女と出て行くとき、戸口で振り向いて中を見渡した■「スティング」(1974)のポール・ニューマンのように、コックは3回という異常ともとれる回数において台所の中を見回したあと、電気を消して去ってゆく。固定されたキャメラで4回にわたって撮られた2人きりの時間はまるでDW・グリフィス「厚化粧したレディ(THE PAINTED LADY)(1912)で何度も同じ構図で撮られた中庭のショットのように想い出となって刻み付けられている。コックが去った後、記念撮影を撮ったあの彫像に吹き荒れる風の小道を弟は歩き続けている。10年に1本の未公開映画、そんな映画を見ることができた悦びを言葉にはしたくない。