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「九龍猟奇殺人事件(踏血尋梅)」(2015香港・フィリップ・ユン・未公開)~荒唐無稽とはなにか

■見たくない、、、

猟奇的シーンを見たくない、という人は60分過ぎから10分ほど続く裁判シーンは飛ばして見る。映画は断片的な出来事なのでそういう見方もあり得る。この作品は現在と過去とが断片によって集積化しそれを「見ること」によって「あと」から語られる物語をつなげてゆく映画なのでどこから見てもモーションピクチャーを見ることにはなる。

■ジェシー・リーの物語

15歳の娘ジェシー・リーは、家族の住む香港へ越して来たものの学校は退学になりモデルになる夢を持ちながらも背が低く「私は美人じゃない」と告白するようにモデル事務所に採用されても雑用係でモデルにはなれず、売春で知り合った彼氏には彼女がいて裏切られ、初めての客に殺されバラバラにされて海やトイレに棄てられる、享年16歳。

■真横からのクローズアップ

序盤、娘(ジェーシー・リー)が母、姉と3人のテーブルで食事をしている時、真横からのクローズアップが撮られている(A)。クローズアップの撮れない監督が世界の9割を支配しているとき、光と構図の点でさらに難しい真横からのクローズアップがジェシー・リーに何度も撮られている。「女と男のいる舗道(VIVRE SA VIE)(1962)でゴダールはアンナ・カリーナの真横からのクローズアップから映画を始めているが、その横顔は首筋が光源となって顔の表面の輪郭がうっすらと照らされたシルエットで撮られているのに対して、ジェシー・リーの真横からのクローズアップは顔の表面にペタッと光が当たっていてそれがしっとりと汗ばんだメイクによって艶々と光っているものの、顔面以外には影が落ちている点でアンナ・カリーナのクローズアップと共通している。その後、授業で隣の女子生徒が手首を切った後に入って来る真横からのクローズアップと(B)、その直後に教会でソーシャルワーカーに呼び名を聞かれた時に入る真横からのクローズアップ(C)もまた同じように教会のステンドグラスを光源とし顔の表面だけに光を当てたクローズアップとして撮られている。そして真横から撮られたジェシー・リーの3つのクローズアップはその直前のショットから「ずれ」て入って来る。ドアを手前に取り込んだ食卓のロングショットからいきなりキャメラが寄って入って来るこの真横からのクローズアップ(A)は、物語の持続を破壊させる無意味なショットであり、教室からいきなり教会へと場面転換されて撮られた真横からのクローズアップ(B)と、その直後に教会でソーシャルワーカーに呼び名を聞かれた時に入る真横からのクローズアップ(C)また、その直前の物語的持続とは画調も光線もサイズもまったく違ったショットとして撮られており、もう一度入る真横からのクローズアップ(D)もまた急に明るくなる光を頬に受けながら「ずれ」て入って来る。教会という場所はステンドグラスからの光線をジェシー・リーに当てるために選ばれたマクガフィンとしての度合いが強く、だからこそジェシー・リーのクローズアップは「そのために撮られた」こととして露呈する。この映画の最初のクローズアップは未だ香港へ出て来る前の田舎のアパートで一人でご飯を食べているジェシー・リーのうなじから撮られたクローズアップであり(E)、ご飯を食べながらうっすらと汗ばんだ肌に外からの光がほんのりと当たっているこのクローズアッもまた、直前のショットからの物語的持続を不意に壊し、前のショットから大きく「ずれ」て入って来るのであり、箸に盛った飯を見事にするりと口の中に入れて見せる真横からのクローズアップ(A)と、小粒の飯を口の中に滑り込ませるこのうなじからのクローズアップ(E)における食事という出来事は、ジェシー・リーの真横からのクローズアップを撮るためのマクガフィンであることは、これらの真横からのクローズアップが見事なまでに「ずれ」ていることから伺える。この5つのクローズアップは前後のショットとは「別々に撮られている」のであり、物語を進行させるために利用されるクローズアップとは質的にまったく異なっている。
10年に一本のシークエンス

「女と男のいる舗道」が声の映画でもあるのに対して「九龍猟奇殺人事件」は顔の映画である。母親からもらったイヤリングをとある事情で取り上げられたジェシー・リーは自分のイヤリングを買うために宝石店へ行く。ここで店員の差し出している鏡から放たれた光線がきらきらとジェシー・リーの顔に反射するクローズアップが入って来ると、バックからメロディが流れて来て鏡の中の自分の姿を見たジェシー・リーがはにかむのだが、鏡からあのような光線が放たれることはあり得ず、何かの細工によってあのような大胆な光線をジェシー・リーの顔に投射しているに違いないのだが、その鏡をジェシー・リーの前に差し出したあの店員の女は、ジェシー・リーが店に入る時、誰も客がいない店内のショーケースにそっくり返って寄りかかっているのであり、その女が何食わぬ顔で近寄って来て「やぁ」と右手を上げて挨拶しジェシー・リーの顔に鏡の光を反射させるという、まったくもって荒唐無稽なショットの連鎖によってイヤリングを耳に付けているジェシー・リーのクローズアップが映し出されてから、自分の姿を見たジェシー・リーがなんとも言えない視線を店員の女に投げかけた時、不意に携帯電話の着信音によってそのクローズアップは即座にカットされてしまう。ショーケースの上に散乱した綺麗に折り畳まれた紙幣にしても、大きな鏡を見てちょっとほほ笑むジェシー・リーにしても、すべては一瞬で霧散してしまう出来事がそのために撮られているのであり、母親にイヤリングを取り上げられること、店員の女の存在は、すべてこの一瞬を撮るためのきっかけであり(マクガフィン)、前後の細部がマクガフィン性を強めるほどそのショット(クローズアップ)はそのために撮られている度合いを強めてゆき現在性は際立つことになる。

その後、なおもメロディが続けて流れている過程で、まるで鈴木清順が撮ったような、歩いているジェシー・リーの青いハイヒールのショットが撮られてから、駅の地下通路のポスターのモデルが「君そっくりだ」と彼氏に言われ「人違いよ」と答えるジェシー・リーのクローズアップもまた「ずれた」クローズアップであり、さらにその直後、並んで歩いている彼氏に「いい写りだ」と言われたジェシー・リーのクローズアップもまた思いきり「ずれた」クローズアップとして画面を揺らしている。天井の蛍光灯を光源として薄暗い顔にほぼ正面から撮られた2つのクローズアップは、駅の地下通路のポスターのモデルの娘とジェシー・リーがそっくりだという彼氏の言動(マクガフィン)を照れくさそうに否定することによって起動するのだが、だからこそポスターのモデルがジェシー・リー本人なのかそうではないのかは明らかにされないまま終わっているのであり、だからこそジェシー・リーのクローズアップは理由のないマクガフィンによって起動することにより「そのために撮られた」ことによる強度を増し「ずれ」を生じ露呈するのである。

さらに場面は転換してルームランナーに乗りながら弁当を食べている男と彼から離れて窓辺に立っているジェシー・リーのフルショットのあと、左へと振り向いたジェシー・リーの汗ばんだ右頬にうっすらと光の落ちたクローズアップが入って来るのだが、男はジェシー・リーが振り向いた横顔のクローズアップを撮るために離れた場所でルームランナーに乗りながら弁当を食べているのであり、その荒唐無稽さが際立てば際立つほどジェシー・リーのクローズアップはそのために撮られている強度を強めて輝きを帯びることになる。

宝石店のきらきら光るクローズアップから挿入された静かなメロディをバックにして撮られたこの4つのクローズアップは撮られるために撮られたクローズアップであり、前後の物語からの逸脱、照明の修正、ショットサイズの変換、等によって直前のショットとは異質のそれへ転換され、「その人」を「そのひと」として撮られたクローズアップとして強度を増している。

■荒唐無稽とは

まるで鈴木清順が日活時代に撮ったような荒唐無稽な現在の出来事が順不同で断片的に撮られているこの作品の中でも序盤に面白いシーンが撮られている。逃走した赤毛の男によって鍵の掛けられたビルのドアを刑事が銃で撃ち壊そうとしていたところ、何の関係もない女が突然路地を歩いて来てドアの鍵を何食わぬ顔で合鍵を使って開けて中に入ろうとしたところを刑事たちが押しのけて入って行った、というシーンである。仮にこの女が『刑事さん、私が開けます!』と走って来て鍵を開けたのなら「ほんとうらしい」運動なので荒唐無稽に感じることはないが、何の前触れも理由もなしに突然現れ銃を撃とうとしていた刑事の前で平然と鍵を開けて中に入ろうとしたのであり、「刑事が銃でドアを撃ち破る」あるいは「事情を知っている女が協力して鍵を開ける」という、慣れ親しんだ因果関係とはまったく矛盾するこの女の「ほんとうらしさ」を欠いた行動は、「鍵がかけられる」というマクガフィンによって起動した理由のない行動であり、無色透明で理由が無く価値の混入がなされていない。運動とは無色透明で理由が無く価値の混入を拒む出来事なのだから、この女の行動は「運動」そのものであり、「運動」とは基本的に荒唐無稽なものであることを有らしめている。

ジェシー・リーの真横からのクローズアップが前後の物語の時間から突然見事な光線でもって不意に入って来たとき、それは「現在」という時間に魅入られた者たちの時間、シチュエーション、荒唐無稽なクローズアップ=「ショット」となって見る者を驚かせ感動させるのである。この作品の猟奇的シーンは見たくないかもしれない。確かにジェシー・リーが仮に順風満帆の人生を送っているとしても彼女のクローズアップは「ずれ」ていたかもしれない。だがジェシー・リーは既に「死んでいる」からこそ、そのクローズアップは真横からのクローズアップとして大きく「ずれ」て荒唐無稽に入って来るのであり、だからこそこの映画は最初にジェシー・リーの死を明かし、その後に母親、姉、義父、そして犯人の証言による回想によってジェシー・リーの「現在」が撮られてゆくという、オーソン・ウェルズ■「市民ケーン(CITIZEN KANE)(1941)と同様の枠物語として撮られている。クローズアップが周囲の出来事からずれればずれるほど、逸脱すればするほど、周囲の出来事はマクガフィン性を強めてゆくのであり、マクガフィンとしての猟奇殺人が猟奇的であればあるほど、クローズアップは荒唐無稽の現在性を強めてゆく。もしこの作品の物語が猟奇殺人ではなかったとしたならば、あのジェシー・リーの真横からのクローズアップは撮られることはなかっただろう。