映画研究塾トップページへ

2番館 2025年版

2番館。2025年以降に映画館以外で見た作品の批評です。更新は下から上へと順次なされます。基本的に見た順序で書かれていますが書きたい作品があるとき時間が前後することはあります。藤村隆史 2025年1月5日。

評価 照明 短評 監督、スタッフ、鑑賞日、その他
地獄の掟
PRIVATE HELL36(1954.9.3)
84 82 監督ドン・シーゲル脚本アイダ・ルピノ製作脚本コリアー・ヤング役者アイダ・ルピノ、スティーヴ・コクラン、ハワード・ダフ、ディーン・ジャガー、ドロシー・マローン 上映時間80分

物語が運動に追いつかずそのまま終わる。ほんの一言逃しただけで物語は霧散する。ラストシーンにアイダ・ルピノがいない。ドロシー・マローンがいない。急に終わる。すべてが少しずつ足りない。あと10分長いと整合する物語は決して実現されずにいきなり終わる。

競馬場のロングショットでアイダ・ルピノが観客の中に紛れている。おそらくこれは制御なしにいきなり入って行った「飛び入り」で撮られている。A級ではこういうことはあり得ない。

画調はドキュメンタリー。谷に転落した車の死体とハワード・ダフをロングショットの俯瞰から撮りそのままキャメラはパンして到着した4台の警察車両が連なって止まるところを撮り再び谷の俯瞰へと戻る、という撮り方は「長回し」と断ずるよりも「持続」としてのリアルである。

ニューヨークの強盗事件はマクガフィンに過ぎない。大きなマクガフィンをポンっと冒頭に持ってきてあとは職業運動に任せて挿話を並べてゆく。脚本に前年「ヒッチ・ハイカー(THE HITCH-HIKER)」(1953 RKO)を撮った主演のアイダ・ルピノが絡んでいるのもBの怪しさに包まれている。

『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』が69ショット撮られているが、ドラッグストアの銃撃戦とラストシーンの銃撃はどちらもエスタブリッシング・ショットを撮らず、前者は内側からの切り返しのみによって、後者は『切り返し無き内側だけ』によって撮られている。『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』によって撮られるシーンは会話だけでアクションになると『分断』される。エスタブリッシング・ショットを撮る時間もない。
CATTLE DRIVE
牛追い
(1951.8.1)
84 84 監督カート・ニューマン(Kurt Neumann)、撮影モーリー・ガーツマン

鉄道の社長の役ちゃな息子(ディーン・ストックウェル)が汽車に乗り遅れて荒野を彷徨いカウボーイ(ジョエル・マックリー)に拾われるという物語。

子役時代のディーン・ストックウェルは決して子役らしくなく子役の善意を借りたようなショットは撮られていない。

ラストシーンの口笛はまるで「リオ・ブラボー(RIO BRAVO)」(1958)。父親(レオン・エイムズ)が同行するB級的「いい加減さ」がたまらない。

『西部劇パーフェクトコレクション・復讐の荒野』、、このボックスはタイトルになっているアンソニー・マン『復讐の荒野』(1950)すらかすんで見える『当たりボックス』だ。

「砂漠の生霊」(1930 ウィリアム・ワイラー)はジョン・フォード「三人の名付親(3 GODFATHERS)」(1948)の前の映画化でこれもいい。アラン・ドワン「フロンティア・マーシャル(FRONTIER MARSHAL)」(1939)、これまたジョン・フォード「荒野の決闘(MY DARLING CLEMENTINE)」(1946)の前の映画化で同じ原作者、脚本家でこれもいい。
赤い空
Red Skies of Montana
1952
86 84 監督ジョセフ・M・ニューマン撮影チャールズ・G・クラーク脚本ハリー・クライナー原作アート・コーン、98分

落下傘消防隊長のリチャード・ウィドマークが火災現場から1人だけ生き残ったものの記憶を失い死んだジョー・ソーヤの息子の消防士ジェフリー・ハンターに逃げたのではないかと疑われるという物語だが、ウィドマークが記憶という「起源」を回復しても運動が停止することもなく特に終盤の消火活動の運動性はスクリーンプロセスに頼ることのない(ように見える)カラーフィルムの赤と相まってBとしての活劇に満たされている。

ホークス的男の世界のくだらない掛け合いが延々見られる。

物語をほどよく語るがそれ以上語るには時間が足りない、語る必要もない、語ればAになる、という瀬戸際のラインを漂い続ける。

ジェフリー・ハンターにはトム・クルーズの「原型」的なシーンを見出すこともできる。

チャールズ・ブロンソンがちょい役で一瞬だけ出て来る。

私の現時点での1952年のベストテンは順不同でこうなる
赤い空

静かなる男 
五本の指 
その女を殺せ  

ぼくの叔父さんの休暇 
快楽 

エル 
西鶴一代女 
お茶漬けの味 
稲妻 
おかる勘平 
おかあさん 
お國と五平 

勇魂よ永遠に
ROCKY MOUNTAIN
195011.11
88 80 監督ウィリアム・キーリー原作脚本アラン・ルメイ(「捜索者(THE SEARCHERS)」1956など)脚本ウィンストン・ミラー(「香も高きケンタッキー」(1925)出演、83分。

南軍のエロール・フリン等7人の精鋭がロッキー山脈を越えて援軍と合流する過程で北軍のフィアンセの中尉(スコット・フォーブス)に会いにやって来た女(パトリス・ワイモア)と御者を助けさらに女を追ってやって来た中尉と仲間のインディアンを捕虜にすることでまったく違った闘争に巻き込まれてゆく。

残虐の映画史に名を連ねるでろあうBであろうからこそラストシーンで北軍が谷の頂上に南軍旗を立てそこにディキシーが流される荒唐無稽なエモーションが当然のように現れて来る。
二つの季節しかない村
2023 仏・独
50 86 監督ヌリ・ビルゲ・ジェイラン

義足の女の家に行くまではベスト、それ以降はワースト

確かに我々の実社会にはこの主人公の教師ようなくそ野郎はどこにでもいる。だか映画は実生活ではない。この主人公が、またこの義足の女に、何の魅力も感じないのは彼らが道徳を欠くからでも無神経だからでもない。端的に彼らが知的に過ぎるだからだ。映画が悪くなる最大の理由はそこにある。
「雪の轍(KIS UYKUSU)」(2014)の終盤にもあったことだが、映画がまるで脚本家が変わったかのように幼稚になる。序盤、中盤までの作者と、義足の女の家に行ってからの作者に統一性がない。ラストシーンの雪合戦などまるでバカが撮ったのかと唖然とするほどくだらない感傷癖に包まれている。
HOW TO HAVE SEX
2023英ほか
20 60 監督脚本モリー・マニング・ウォーカー

映画的な下品さと実生活の下品を混同している。
金髪乱れて
Me And My Gal(1932.12.4)
90 84 監督ラオール・ウォルシュ(Raoul Walsh)撮影アーサー・ミラー役者スペンサー・トレイシー、ジョーン・ベネット、J・ファレル・マクドナルド、ヘンリー・B・ウォルソール

トーキー移行への好奇心と戸惑いの未だ残るスローな音声優先が次第にリズムを得てモーションを獲得する。中盤、ベネットをトレイシーが口説こうとしているときに心の中の言葉がモノローグで録られているが、これはトーキー移行期におけるあだ花でその後根付くことはない。どうして根付かなかったのか、それこそが意味を成す。

目鼻立ちの整う以前の映画史~ジョーン・ベネット
レストランの小娘を演じるジョーン・ベネットは「大地の子守歌」(1976増村保造)の原田美枝子のように、「肉弾」(1968岡本喜八)の大谷直子のように、さらにまた「網走番外地 北海篇」(1965石井輝男)の大原麗子のように、そして山中貞雄「河内山宋俊」(1936)の原節子のように、はたまた「幕末残酷物語」(196加藤泰)の藤純子のように、目鼻立ちがはっきりして「女優」となる直前の一瞬のうごめきをフィルムに焼き付けられている。

下品の映画史
「下品の映画史」を語る時、Raoul Walshという名前を最初に挙げないことは失礼に値する。
■初級 
①飲んだビールを人の顔に吐きかける。★コメント これはチャップリンなどもよくやっている。
「決斗!一対三(THE LAWLESS BREED)」(1952/1953.1.3)のジュリー・アダムスがスカートのあいだから脚を出しガーターに挟んであったお札をロック・ハドソンに渡す。★コメント よく見るシーンではある。
■中級
A
「金髪乱れて」のジョーン・ベネットがスペンサー・トレイシーの前でお尻を振る。
Bベネットがガムを噛んだままトレイシーとキスをする。
Cベネットが噛んだガムを口から出して手すりにくっつける。★コメント Bまでがぎりぎりの許容範囲。
「私の彼氏(THE MAN I LOVE)」(1946)のアイダ・ルピノが歌いながらたばこの煙を鼻から吐き出す。★コメント こういうのは初めて見た。
■上級
「白熱(WHITE HEAT)」(1949.9.2)のヴァージニア・メイヨが口を開けてクチャクチャ噛んでいたガムをペッ!と吐き捨てたその口でジェームズ・ギャグニーとキスをする(95分過ぎ)。★コメント あり得ない。
■メガトン級
「大雷雨(MANPOWER)」(1941.8.9)のマレーネ・デートリッヒが口先にためて丸めた白いつばをペッとコンパクトに吐きつけ刷毛でならしてまつ毛につけ始める(22分過ぎ) 

ヘイズコードをかいくぐり生き延びて来た「下品の映画史」は決してクローズアップで強調されることもない1ショットの速射砲で撮られているがゆえに今日まで「見なかったこと」としてひた隠しにされ続けている。

ヘンリー・B・ウォルソール
ラストシーン近くでスペンサー・トレイシーがヘンリー・B・ウォルソールの座っている車までわざわざ走り寄り礼を述べている。半身不随で言葉を発することのできない役柄=「サイレント」の彼に対する必要以上ともとれる賛辞を送るこのシーンはかつて「国民の創生(THE BIRTH OF A NATHION)」(1915.3.3)で主役を演じたヘンリー・B・ウォルソールと暗殺者を演じたウォルシュとのプライベートなテクストの交換に見え.る。

キャメラを正面から見据えること~J・ファレル・マクドナルド
J・ファレル・マクドナルドがキャメラを正面から見据えながら映画の映画は幕を閉じている。
バジーノイズ
2024 日
80 82 監督風間太樹、撮影片村文人、美術伊藤圭哉、照明太田宏幸、役者川西拓実、桜田ひより、井之脇海、栁俊太郎。

終盤間延びする。25分長い。特に最後のシークエンスは不要。なぜならば、もう既に語り尽くされているから。ホークスを引用するならすきっとしないと。

外側からの切り返しの配置でピント送りしないガッツはある。ただ、内側から切り返された画面の方が「ショット」になっている。

おでこを出した桜田ひよりの映画となり前髪を垂らした川西拓実と井之脇海に映画的光線が当たらない。2人で初めて海へ行く直前の木陰の木の葉のあいだから太陽を浴びたショットにしても桜田ひよりのために撮られている。

とはいえ、こういう風に映画が撮れる。誰に習ったのか。

桜田ひより、そうめん食べろ食べろと思って見ていると音を出して食べたのでほっと一息。これも切り返しは外側から。

川西拓実が清掃している夜のビルディングの廊下のロングショット、夜の歩道橋(?)で赤い服着た桜田ひよりが手招きする時に大きく引いたロングショット。こういうロングショットがモーションを力づける。

夜の路地で桜田ひよりが川西拓実の首に腕を巻いて抱きつくシーンの外灯の光をうっすらと浴びた鉄格子とその下のコンクリーの陰影に瞳が惹きつけられる。その直後の『古典的デクパージュ的人物配置』からのクローズアップと外側からの切り返しで消されることが惜しい。

とはいえ、ベストテン入り。期待料込み。
越境者たち
LES SURVIVANTS
2022仏
70 72 監督脚本ギョーム・レヌソン撮影ピエール・メリス=ラヴァル役者ドゥニ・メノーシエ、ザール・アミール=エブラヒミ、

近景に難あり。雑っぽいがモーションピクチャー。それ自体が珍しい。

1人の傷ついた男と女のフィルム。省略されたその「傷」はその顔を見ることによってしか現わされていない。極限まで単純な語り口。

暗いシーンは部屋のライトを消さないと見えない。
ラルジャン
L' ARGENT
1983 仏=瑞西
100 100 監督脚本ロベール・ブレッソン

殺人者は人を殺し、しかもそれは、どんな意図によるものでもない、というゴダールの原則通りのモーションピクチャー。
シビル・ウォー アメリカ最後の日
CIVIL WAR
2024 アメリカ・イギリス
88 88 監督脚本アレックス・ガーランド撮影ロブ・ハーディ役者キルステン・ダンスト、ケイリー・スピーニー、

こういう映画は多くの場合、マスコミの中継を撮りたがるものだがオープニングの大統領の演説とカーラジオ以外撮られていない。基本的にB級の精神を持ち合わせている。

ピント送りはゴダールもヒッチコックもやっている。要は、どうやってやるか。

外側からの切り返しが基本だが照明を修正しながら撮っている。真逆からの切り返しも多い(真逆からの切り返しはキャメラが1台)

ブティックに入ってケイリー・スピーニーが値札の付いたグリーンの服を試着しているキルステン・ダンストの写真を撮る、この時点でおおよその結末は見えてくるが、物語の結末自体はさして重要ではない。このブティックの、頬杖をついて本を読んでいる女店員のロングショットが最初に撮られた時に既にこのシークエンスは無意味なマクガフィンとして8割方成功している。

少女と香港人が捕まって処刑されそうになるシーンはタランティーノ的に引き伸ばしすぎている。真似しなくていい人は真似してはならない。ちなみにこのシークエンスの起動は追って来た香港人の車に娘が乗り移るという実にばかばかしいアクションによってなされている。そもそもこの人質のシークエンス自体、物語の因果としては必要ない。ブティックのシーンも物語の因果としてはまったく必要ない。その後の、クリスマスのレジャーランドで地面に這いつくばっているスナイパーのシークエンスも必要ない。だが運動論的にはすべてが「見ること」のシーンとして記憶に残る。

少女が殊更幼い顔をしている。「ラスト・シューティスト(THE SHOOTIST)」(1976)であり「グラン・トリノ(GRAN TORINO)」(2008)のような「見ること」を伝える者たちは幼くなければならない伝統。「アパッチ砦(FORT APACHE)」(1948)のジョン・エイガーのように。

実際何台かは不明だが、外側からの切り返しを含めてキャメラは一台、という撮り方をしている。これが映画の撮り方だ、という撮り方をしている。

一つのテーマを題材として映画を撮っている。題材はマクガフィンに過ぎない。例え話。

タランティーノについて一言。彼は才能ある人たがそれは彼一代限り。真似ることはできない。タランティーノは映画そのものではなく映画とはちょっとばかり違うことに興味を持っている。真似るとさらに映画から遠ざかることになる。

内戦ほど恐ろしい戦いはない。法がなくなるから。だが映画にとっては自由。そこに縛りをかけるのは映画のルールだけ。
落下の解剖学
ANATOMIE D'UNE CHUTE
2023イタリア
40 50 監督脚本ジュスティーヌ・トリエ

実社会での才能をそのまま映画に持ち込んでも通用しない。

映画学校に入った100人の生徒のうち100人の生徒が撮るように撮っている。画面は存在せず物語だけが進んでいく。

カンヌは堕ちてない。一貫している。
悪は存在しない
EVIL DOES NOT EXIST
2023 日
30 50 監督脚本濱口竜介、撮影北川喜雄

典型的な演出の映画。役者が死んでいる。

頭だけで映画を撮っている。

あられもなく善悪をでっちあげている。映画に対する姿勢が余りにも甘い。

最初の説明会の終盤、立ち上がった大美賀均が帽子を脱ぐ、こういうバカみたいな演出は決してしてはならない。そういうことがまったく分かっていない。

その前、空に鳥を見つけた女の子が走り出す、その走り出す瞬間=はしっこ=を撮っている。こういうのが『心理的ほんとうらしさ』。『僕はイエス様が嫌い』にもまったく同じショットが撮られている。そのあと、鳥とその女の子を同一画面に収めている。これが外部へ逃げる傾向。クロサワみたい。

すべて外部へ流れてゆく。

善良さは映画を撮る資質としてまったく必要ない。

ヴェネチアも堕ちたね。
瞳をとじて
CERRAR LOS OJOS
(2023)
100 100 監督・原案・脚本ヴィクトル・エリセVíctor Erice撮影(フィルムとデジタル)バレンティン・アルバレスValentín Álvarez、役者マノロ・ソロ(ミゲル)、ホセ・コロナド(フリオ=失踪した俳優)=Jose Coronado、アナ・トレント(アナ=俳優の娘)=Ana Torrent、ペトラ・マルティネス(施設のシスター)=Petra Martínez、マリア・レオン(ベレン=施設で働く女性)=María León、マリオ・バルド(マックス・映画の仲間)、ヘレナ・ミケル(マルタ=リポーター)=Helena Miquel、ダニ・テレス(トニ)、ロシオ・モリーナ(テレサ)、アレハンドロ・カバジェロ・ラミス(デカ足)。

中盤、海辺のバンガローのテーブルを囲んでミゲル(マノロ・ソロ=Manolo Solo)とトニ(ダニ・テレス=Dani Téllez)が「リオ・ブラボー(RIO BRAVO)」(1958)『ライフルと愛馬』をギターで歌うシーンが撮られている。テーブルではトニの身重の妻テレサ(ロシオ・モリーナ=Rocío Molina)と友人の自称「デカ足」(アレハンドロ・カバジェロ・ラミス=Alejandro Caballero Ramis)を交えながらテーブルの上に設置されたカメラによって四人が代わる代わる映し出されている。このシークエンスで4人のあいだは、最初のショットでテーブルに就いている4人が同一画面に収められたあと67ショット目でトニと歌い終わって彼にギターを返すミゲルの「右手だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、78ショット目にはトニと彼の後ろを通って帰ってゆく「デカ足」の「影のみ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、88ショット目にはトニと彼の前で席を立って帰ってゆくミゲロの「後ろ姿の影のみ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、そのまま終わっている。最初の同一画面から88ショット、1ショットも4人は『正常な同一画面』に収められておらず『奇妙な同一画面』が3ショット、それ以外の85ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。

映画とはこういうものなのだろう。なぜこんなことをするのか、それはわからない。

『分断の映画史』はヴィクトル・エリセの画面を覆い尽くしている。『分断』によって奇跡をおこしたCarl Theodor Dreyerのように。

これだけのクローズアップと切り返しを撮りながら画面が弛緩しない。キャメラマンの名前はバレンティン・アルバレスValentín Álvarez。

高齢者施設の庭先でミゲルが2人のシスターと職員のマリア・レオンを交えて4人で話をしているシーンで最後にシスターのペトラ・マルティネスが左の眉毛を吊り上げる。映画とはコメディであるという作り手の叫びが聞こえてくるショット。ここにおける4人のあいだは、最初のショットで同一画面に収められたあと23ショット内側から切り返されそのまま終わっている。

4人は近距離で向き合っているので仮に小型キャメラで撮っているとしても職員のマリア・レオンの照明が修正されている(自然光なら時間を置いて最後のショットで彼女の右の髪に夕陽が当たるまで待っている)ことを含めて『別々に撮られている』ように見える。

施設の屋上から地上で作業をしているフリオを見下ろすシーンにおける2人(ミゲルと職員の女性ベレン)と地上のフリオとのあいだは、8ショット内側から切り返されそのまま終わっている。エスタブリッシング・ショットなし。おそらく別の場所で撮られている。

どうしてこんな撮り方をするのか。

鶏の骨を食べているとミゲルとそれを見て「ください」と吠えるワンコ(カリ)とのあいだは、『正常な同一画面』に収められたあと1ショット内側から切り返されそのまま終わっている。

どうしてこんな、名犬リンチンチンですらやらないことをエリセは撮るのか。わからない。

自室でたばこを吸っている時に入って来たシスターとミゲルとのあいだは、最初の原ショットと最後の8ショット目で同一画面に収められているものの2人とも真っ黒なシルエットで「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、2ショット目でシスターとミゲルの「手だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、その外の6ショット内側から切り返されている。

『奇妙な同一画面』が3ショット、あとはすべて内側から切り返されてい『正常な同一画面』が1つも撮られていない。どうしてか。、、

瞳をとじてそれぞれが思い浮かべる。そのあとは。、、
僕はイエス様が嫌い
2019日
40 70 監督撮影編集奥山大史

典型的な演出の映画。

演出に縛られた子供たちが老人化している。計算通りの映画。一片の驚きもない。
メドゥーサ デラックス
MEDUSA DELUXE
(2022)英
40 40 監督トーマス・ハーディマン撮影ロビー・ライアン

全編1ショットで撮られている。

映画撮影に「難易度」があると信じているバカがこういうのを撮る。

説話論的持続しかない。
「バスカヴィル家の犬 シャーロック劇場版」(2022) 50 76 監督西谷弘、撮影山本英夫

最初の1時間は最高、あとは最低。ぶちこわし。

最初の1時間→今、この環境でこのレヴェルで撮れることは奇跡的。役者ひとりひとりを「そのひと」として1つ1つの短いショットをその都度照明を修正しながら丹念に丁寧に撮り続けている。ミステリーでありながらコメディでもあり信じられない1時間。山本英夫と実にいい感じで撮れている。

あとの1時間→見ることから読むことへ。物語を説明することしか撮られておらず画面が死に絶える。よくこんなくだらないメロドラマを書けたなと。撮りようがない。バカ丸出しの感傷癖。民度が余りにも低い。
ナミビアの砂漠
2024
 50 60 監督山中瑶子、撮影米倉伸

内容で撮っている限りリアルは訪れない。

ショットが撮れていない。
オッペンハイマー
OPPENHEIMER
2023 米
60 60 監督クリストファー・ノーラン撮影ホイテ・ヴァン・ホイテマ役者キリアン・マーフィ

取り立てて何かが特別に悪いわけではない。外部を忠実に内部へ移行させ大衆社会の共感を得ている。

主人公のキリアン・マーフィは目を逸らしては合わす、逸らしては合わせるアクターズ・スタジオ演技を反復させているが賞を頂くにはこのバカでも出来る演技が一番だろう。

仮に物理的に一台のキャメラで別々に撮られているとしても画面は「ずれ」てはいない。会話が画面を先導する「同じ写真」の繰り返しで「ずれ」ることはない。

決して悪くはない。一抹の淋しさが漂い続けるが決してひどいわけでもない。
関心領域
THE ZONE OF INTEREST
2023 米英ほか
69 69 監督ジョナサン・グレイザー撮影ウカス・ジャル

キャメラの性能で撮っている。テレビならそれでいい。だが映画をキャメラの性能で撮ると甚だ視点を欠いた「美しい画面」で終わる。視点さえ確保できればどんなキャメラでも映画は撮れる。その逆ではない。