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2番館 2025年版

2番館。2025年以降に映画館以外で見た作品の批評です。更新は下から上へと順次なされます。基本的に見た順序で書かれていますが書きたい作品があるとき時間が前後することはあります。藤村隆史 2025年1月5日。

評価 照明 短評 監督、スタッフ、鑑賞日、その他
落下の解剖学
ANATOMIE D'UNE CHUTE
2023イタリア
40 50 監督脚本ジュスティーヌ・トリエ

実社会での才能をそのまま映画に持ち込んでも通用しない。

映画学校に入った100人の生徒のうち100人の生徒が撮るように撮っている。画面は存在せず物語だけが進んでいく。

カンヌは堕ちてない。一貫している。
悪は存在しない
EVIL DOES NOT EXIST
2023 日
30 50 監督脚本濱口竜介、撮影北川喜雄

典型的な演出の映画。役者が死んでいる。

頭だけで映画を撮っている。

あられもなく善悪をでっちあげている。映画に対する姿勢が余りにも甘い。

最初の説明会の終盤、立ち上がった大美賀均が帽子を脱ぐ、こういうバカみたいな演出は決してしてはならない。そういうことがまったく分かっていない。

その前、空に鳥を見つけた女の子が走り出す、その走り出す瞬間=はしっこ=を撮っている。こういうのが『心理的ほんとうらしさ』。『僕はイエス様が嫌い』にもまったく同じショットが撮られている。そのあと、鳥とその女の子を同一画面に収めている。これが外部へ逃げる傾向。クロサワみたい。

すべて外部へ流れてゆく。

善良さは映画を撮る資質としてまったく必要ない。

ヴェネチアも堕ちたね。
瞳をとじて
CERRAR LOS OJOS
(2023)
100 100 監督・原案・脚本ヴィクトル・エリセVíctor Erice撮影(フィルムとデジタル)バレンティン・アルバレスValentín Álvarez、役者マノロ・ソロ(ミゲル)、ホセ・コロナド(フリオ=失踪した俳優)=Jose Coronado、アナ・トレント(アナ=俳優の娘)=Ana Torrent、ペトラ・マルティネス(施設のシスター)=Petra Martínez、マリア・レオン(ベレン=施設で働く女性)=María León、マリオ・バルド(マックス・映画の仲間)、ヘレナ・ミケル(マルタ=リポーター)=Helena Miquel、ダニ・テレス(トニ)、ロシオ・モリーナ(テレサ)、アレハンドロ・カバジェロ・ラミス(デカ足)。

中盤、海辺のバンガローのテーブルを囲んでミゲル(マノロ・ソロ=Manolo Solo)とトニ(ダニ・テレス=Dani Téllez)が「リオ・ブラボー(RIO BRAVO)」(1958)『ライフルと愛馬』をギターで歌うシーンが撮られている。テーブルではトニの身重の妻テレサ(ロシオ・モリーナ=Rocío Molina)と友人の自称「デカ足」(アレハンドロ・カバジェロ・ラミス=Alejandro Caballero Ramis)を交えながらテーブルの上に設置されたカメラによって四人が代わる代わる映し出されている。このシークエンスで4人のあいだは、最初のショットでテーブルに就いている4人が同一画面に収められたあと67ショット目でトニと歌い終わって彼にギターを返すミゲルの「右手だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、78ショット目にはトニと彼の後ろを通って帰ってゆく「デカ足」の「影のみ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、88ショット目にはトニと彼の前で席を立って帰ってゆくミゲロの「後ろ姿の影のみ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、そのまま終わっている。最初の同一画面から88ショット、1ショットも4人は『正常な同一画面』に収められておらず『奇妙な同一画面』が3ショット、それ以外の85ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。

映画とはこういうものなのだろう。なぜこんなことをするのか、それはわからない。

『分断の映画史』はヴィクトル・エリセの画面を覆い尽くしている。『分断』によって奇跡をおこしたCarl Theodor Dreyerのように。

これだけのクローズアップと切り返しを撮りながら画面が弛緩しない。キャメラマンの名前はバレンティン・アルバレスValentín Álvarez。

高齢者施設の庭先でミゲルが2人のシスターと職員のマリア・レオンを交えて4人で話をしているシーンで最後にシスターのペトラ・マルティネスが左の眉毛を吊り上げる。映画とはコメディであるという作り手の叫びが聞こえてくるショット。ここにおける4人のあいだは、最初のショットで同一画面に収められたあと23ショット内側から切り返されそのまま終わっている。

4人は近距離で向き合っているので仮に小型キャメラで撮っているとしても職員のマリア・レオンの照明が修正されている(自然光なら時間を置いて最後のショットで彼女の右の髪に夕陽が当たるまで待っている)ことを含めて『別々に撮られている』ように見える。

施設の屋上から地上で作業をしているフリオを見下ろすシーンにおける2人(ミゲルと職員の女性ベレン)と地上のフリオとのあいだは、8ショット内側から切り返されそのまま終わっている。エスタブリッシング・ショットなし。おそらく別の場所で撮られている。

どうしてこんな撮り方をするのか。

鶏の骨を食べているとミゲルとそれを見て「ください」と吠えるワンコ(カリ)とのあいだは、『正常な同一画面』に収められたあと1ショット内側から切り返されそのまま終わっている。

どうしてこんな、名犬リンチンチンですらやらないことをエリセは撮るのか。わからない。

自室でたばこを吸っている時に入って来たシスターとミゲルとのあいだは、最初の原ショットと最後の8ショット目で同一画面に収められているものの2人とも真っ黒なシルエットで「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、2ショット目でシスターとミゲルの「手だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、その外の6ショット内側から切り返されている。

『奇妙な同一画面』が3ショット、あとはすべて内側から切り返されてい『正常な同一画面』が1つも撮られていない。どうしてか。、、

瞳をとじてそれぞれが思い浮かべる。そのあとは。、、
僕はイエス様が嫌い
2019日
40 70 監督撮影編集奥山大史

典型的な演出の映画。

演出に縛られた子供たちが老人化している。計算通りの映画。一片の驚きもない。
メドゥーサ デラックス
MEDUSA DELUXE
(2022)英
40 40 監督トーマス・ハーディマン撮影ロビー・ライアン

全編1ショットで撮られている。

映画撮影に「難易度」があると信じているバカがこういうのを撮る。

説話論的持続しかない。
「バスカヴィル家の犬 シャーロック劇場版」(2022) 50 76 監督西谷弘、撮影山本英夫

最初の1時間は最高、あとは最低。ぶちこわし。

最初の1時間→今、この環境でこのレヴェルで撮れることは奇跡的。役者ひとりひとりを「そのひと」として1つ1つの短いショットをその都度照明を修正しながら丹念に丁寧に撮り続けている。ミステリーでありながらコメディでもあり信じられない1時間。山本英夫と実にいい感じで撮れている。

あとの1時間→見ることから読むことへ。物語を説明することしか撮られておらず画面が死に絶える。よくこんなくだらないメロドラマを書けたなと。撮りようがない。バカ丸出しの感傷癖。民度が余りにも低い。
ナミビアの砂漠
2024
 50 60 監督山中瑶子、撮影米倉伸

内容で撮っている限りリアルは訪れない。

ショットが撮れていない。
オッペンハイマー
OPPENHEIMER
2023 米
60 60 監督クリストファー・ノーラン撮影ホイテ・ヴァン・ホイテマ役者キリアン・マーフィ

取り立てて何かが特別に悪いわけではない。外部を忠実に内部へ移行させ大衆社会の共感を得ている。

主人公のキリアン・マーフィは目を逸らしては合わす、逸らしては合わせるアクターズ・スタジオ演技を反復させているが賞を頂くにはこのバカでも出来る演技が一番だろう。

仮に物理的に一台のキャメラで別々に撮られているとしても画面は「ずれ」てはいない。会話が画面を先導する「同じ写真」の繰り返しで「ずれ」ることはない。

決して悪くはない。一抹の淋しさが漂い続けるが決してひどいわけでもない。
関心領域
THE ZONE OF INTEREST
2023 米英ほか
69 69 監督ジョナサン・グレイザー撮影ウカス・ジャル

キャメラの性能で撮っている。テレビならそれでいい。だが映画をキャメラの性能で撮ると甚だ視点を欠いた「美しい画面」で終わる。視点さえ確保できればどんなキャメラでも映画は撮れる。その逆ではない。