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第13回論文
『D・W・グリフィス初期映画を時系列で見る~モーションピクチャーの進化は1912年に終わる』 2025年9月22日 藤村隆史
この論文はD・W・グリフィスによって撮られた初期映画における「進化」の過程を時系列に見て体験することの試みである。そこに現れた多くの視覚的細部は『視覚的細部表』に書き留められておりここでなされる具体的な検討は常に視覚的細部表に立ち返ってなされることになる
(ウォレス・マカッチョン・ジュニアとの共同監督「The Black
Viper(黒い毒蛇)」(1908.7.21)はひとまず飛ばして製作順に見て行くことにする)。ここで書かれるのは視覚的細部表の掘り下げだが新出の視覚的細部については視覚的細部表と重複することを厭わずここで繰り返し書くことにする。
1908年に起きていること
誘拐された娘が樽の中に閉じ込められて川を流されてゆくこのグリフィスのデビュー作には平行モンタージュも切り返しも撮られていない。
■「ドリーの冒険(The Adventures of Dollie)」(1908.7.18)
★ショット内モンタージュ
第一ショットは陰影に包み込まれた森の中の小さな階段を少女(グラディス・イーガン)が駆け下り母親(リンダ・アーヴィドソン)と共にキャメラへ向かって歩いて来るシーンから始まっている。遠くから人その他物体がキャメラに向かって接近して来る、これがショット内モンタージュであり、リュミエール「ラ・シオタ駅への列車の到着」(1895)、「工場の出口」(1895)は共に汽車、労働者が奥から手前のキャメラへ向かって移動して来るショット内モンタージュによって撮られている。ゴダールが遺作(?)「ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争 奇妙な戦争」(2023)で「アワーミュージック(Notre musique)」(2004.5.19)のオルガという女性がキャメラへ向かってクローズアップになるまで歩いて来るショット内モンタージュを引用しているが、モーションピクチャーの運動はこのショット内モンタージュに始まる。樽が川へ落下した後、次のショットで遠くから樽が流れてキャメラへ接近してくるまでが25秒のショット内モンタージュによって撮られ、さらに樽が滝から落下した後、遠くから流れて来てキャメラの横を通り過ぎてゆく樽が40秒のショット内モンタージュによって撮られ、さらに次のショットでも30秒のショット内モンタージュによって撮られている。13分弱の処女作において樽が流されるシーンが100秒弱のショット内モンタージュが撮られている。
★キャメラの横を通り過ぎること
そのあと少女と母親はキャメラの右側を通り過ぎてゆく。ショット内モンタージュは多くの場合キャメラの前で静止することなく『キャメラの横を通り過ぎること』という運動の過程によって撮られている。ショット内モンタージュによって遠くから接近してきた人物や物体がキャメラの横を通り過ぎてゆくという現象に初期映画はその不自由さと引き換えの運動を見出している。魅入られているように人々はキャメラの横を通り過ぎてゆく。時にキャメラを見据えながら、時に笑いながら、時にクローズアップになるくらい接近しながらそのままキャメラの横を通り過ぎていなくなる。キャメラの横を通り過ぎることはグリフィスのみならず現代にいたるまでモーションピクチャーの基本的運動として踏襲されている。
★落とすこと
娘を抱き上げる時、父親(アーサー・ジョンソン)は持っている包みを意図的にではなく不意に落としている。娘を抱き上げようとして手に持っている包みを握る力が自然と弱まりその結果として不意に包みが落下している。そうすることで娘を抱き上げるという運動が『包みを握ることを忘れた手』という意志から解放された衝動によってなされていることが撮られている。これは常習犯の身に染みついた人間運動を現わす典型であり帽子は脱ぐためにかぶるのと同じように包みは落とすために持たれているのであり機能から運動が取り出されたこの包みはマクガフィンとして露呈されこれを不意に落とすことでいかにこの父親が娘を愛しているかが現されている。
★第一ショット
以上がグリフィスの第一ショットにおいて撮られている視覚的細部である。グリフィスの処女作最初のショットにはショット内モンタージュ、キャメラの横を通り過ぎる、そして常習犯の衝動的運動という、映画史における大きな3つの出来事が撮られている。
★煙 馬車の土煙、水しぶき、波紋、白~グラデーション・ヌケ
ジプシーはたばこの煙を口から吐き出し、疾走する馬車は地面の埃を撒き散らし、馬車が川を渡る時に落下した樽は水しぶきと波紋を派生させている。白と黑しか出ない初期映画は事物をはっきり見せるため(ヌケ)、衣装、装置、動物(ここでは白い馬)などスタッフの創るもろもろの出来事、役者の大きな演技などの他に、土、水、炎、煙、木々などの自然現象を人間の目に見えない光、風と関係させることで人間が創り出すことの出来ない明暗、濃淡(グラデーション)、揺れ、起伏などの運動を現わすようになる。樽がゆらゆら揺れながらひたすら川を流れて来る運動はキラキラ光ってはその都度消えてゆく水面の波紋と水しぶきにより「ヌケ」ることで初めて現わされる。撮られているのは『美しい風景』ではなく白と黑しか出ないフィルム的限界によって導かれる運動である。運動は限界から生み出される出来事であり、たばこは煙を吐くため、馬車は土煙を撒き散らすため、樽は波紋を派生させるため、という逆転の出来事が『機能の中から運動を取り出す』というマクガフィン的回路となって初期映画の限界から運動を引き出すことになる。以下、このような自然現象による「ヌケ」が目指された出来事をまとめて「煙」として視覚的細部表に記す。
★同じ場所は同じ構図で撮られている。
ジプシーと格闘し樽が流れつく川べり、ジプシーの馬車が置いてある空間、などの同じ場所が同じ構図で撮られている。これは意図してそのように撮られているのではなく初期映画において採られている「中抜き」という方法による結果かとしてそう撮られているのかもしれない(これについては後に再検討する)。中抜きとは同じ場所のシーンだけを続けて撮る方法であり、物語の順序とは関係なくまず同じ場所のシーンをすべて撮ってしまおうというインスタントの方法と言われているが物語の因果から時空を解き放つ上で有意義な方法でもあり熟練した技術と能力なくして撮ることのできない高度な方法でもある。中抜きによって撮られているとするならば同じ場所は同じ構図で撮られていて当然となる。後に検討する「AN AEFUL MOMENT(ひどい瞬間)」(1908.12.19)、「THE GIRLS AND DADDY(姉妹とパパ)」(1909.1.30)においてグリフィスの初期映画は中抜きで撮られていることを検討する。
★気づかないことにする
娘が誘拐される時、娘の真後ろのジプシーに娘は気づいて然るべきなのに気づかない。初期映画は固定されたキャメラで正面から1シーン1ショットのロングショット(フルショット)で撮られているためにキャメラのアングル等によって隠れる場所を空間的に創出することができずその代わりに人物の視界を限定させ『気づかないことにする』ことで人が隠れる場所を創り出している。以降、こうしした約束事は長きにわたって受け継がれることになる。ハワード・ホークス「港々に女あり(A GIRL IN EVERY PORT)」(1927)ではヴィクター・マクラグレンとロバート・アームストロングの2人が昔の女に会いにアパートを訪ねた時、最初に間違えてドアをノックした家でドアを開けて出て来て真後ろに立っている女に2人は気づかず、次の部屋の中でも背後の子供に気づかず、その後、ドアを開けて入って来た女にも気づかない。キャメラが自由になり隠れる場所を創り出すことができるようになった20年後半においてもなお『気づかないことにする』は初期映画の限界の記憶としてモーションピクチャーに現れている。
★追っかけ
ジプシーが誘拐した少女を抱いて斜面を駆け下りて来てキャメラの横を通り過ぎてゆくと、ジプシーを追いかけて来た父親たちが山の上から出現しそのまま斜面を駆け下りて来てキャメラの横を通り過ぎようとしているシーンが1ショットで撮られている。これが「追っかけ」であり「追っかけ」はキャメラの横を通り過ぎることとセットになって初期映画の一時期を席巻している。「追っかけ」については「BALKED AT THE ALTER(祭壇で思い止まる)」(1908.8.29)において検討する。
★泥棒はナイフを逆手に握っている
機能的な順手の握りではなく反機能的な逆手にナイフを握って上から振りかざすことで運動が過剰となって露呈する。ヒッチコック論文では巻き込まれ運動ではナイフは逆手に握られ人間運動では順手で握られる傾向について検討しているが初期映画においてナイフはそのどちらにおいても逆手に握られる傾向がある。順手で垂直に刺すよりもヒッチコック「サイコ(PSYCHO)」(1960.9.8)のバスルームの殺人のように逆手に握って上から振りかざす方が運動感がありアクションが分かりやすい。グラデーションの乏しい初期映画においてアクションの大きさはフィルムの「ヌケ」を実現するためにも重要となる。
★1シーン1ショットか
樽が馬車から落下して川を流れ滝を転げ落ちさらに流れて釣り人に拾われるまでに全13ショットの短編の6ショットが費やされている。樽が川を流れる出来事を1シーンとした場合1シーン6ショットで撮られていることになるが1シーンとは同一空間におけることとし例えば瀧から樽が落下するシーンであれば同じ空間をアングルを変えて数ショットで撮れば1シーン数ショットとなるがここでは滝を含めて同一空間におけるアングルの変化はないのですべて1シーン1ショットで撮られていることになる。初期映画においては1つの空間を1ショットで撮ることしかできないことから1つの空間を基準としてショットの数を計ることで初期映画の進化の過程を見ることができる。今後、この論文においてなされる数多くの定義もまた初期映画における1シーン1ショット等の限界を前提として検討されている。
★巻き込まれること
グリフィスは巻き込まれ運動から始まっている。この作品は娘が入っている(とされる)樽が延々と川を流されてゆく運動でありジプシーも誘拐も馬車も川もすべて樽が川を流されるためのマクガフィンとして撮られている。ここにあるのは樽が流されるために誘拐されるという因果的連関を逸脱した巻き込まれ運動特有の荒唐無稽な運動の起動と遂行であり人間運動にあるような『盗む』→『逃げる(追いかける)』といった常識的因果連関とは異質な動物的運動が撮られている。この点については「BALKED AT THE ALTER(祭壇で思い止まる)」(1908.8.29)で検討をする。
★「駅馬車(STAGECOACH)」(1939.3.3))
少女の入った樽を乗せたジプシーの馬車が川を横切る時のショットはジョン・フォード「駅馬車(STAGECOACH)」(1939.3.3))で馬車が川を渡る時のショットと構図その他がよく似ている。
★帰郷
ラストシーンで誘拐された少女が帰って来るという帰郷の物語が撮られている。
★字幕なし
グリフィス映画で字幕が付き始めるのは1909年の中盤頃からでありこの時期の多くの作品に字幕はついていない。誰しもが見ればわかるように映画が撮られなければならない時代である。以上が処女作「ドリーの冒険」において初めて撮られたことの検討である。
■「A CALAMITOUS ELOPEMENT(悲惨な駆け落ち)」(1908.8.8)
これ以降、主に新しく撮られた出来事ついて作品を時系列で見て行くことにする。
★斜めの構図
路地は斜めから撮られている。初期映画のこの時期のロケーションでは斜めの構図が基本となる。ロケーションにおいてはキャメラを置く場所が自由なので路地などにおいてはより多くのものを見渡すことのできる斜めの構図によって撮られているが室内ではロングショットやフルショットで正面から撮ることしかできないので壁を斜めに造ることでドア、窓などの出入り口が正面から見えやすいように撮られている。室内撮影における『正面から撮ることしかできない』という現象はあとあとまで初期映画の進化に立ち塞がることになる。
★鏡
ホテルの部屋で泥棒が鏡で自分を見て驚いているが彼の姿は映ってはいない。初期映画においてはキャメラが室内に入り込むことができないことから鏡の角度をキャメラで調整することはできず鏡の方を調整するしかないので物語に合わせて鏡に人を反射させることはできないことになる。ここでもまた『キャメラが室内に入り込むことができない』という限界が初期映画の進化を妨げている。
■「THE FATAL HOUR(運命の時)」(1908.8.22)
★クロス・カッティングの「起源」
2分弱見ることのできるこの作品では終盤のクロス・カッティングの部分だけが残っている。グリフィスのクロス・カッティングの「起源」であり、拳銃の時限装置を仕掛けられた家の中で縛られて猿ぐつわを噛まされた女刑事(マリオン・レナード)を警官二人が白馬に牽引された馬車に乗って救出に向かうというもので画面は馬車→女刑事→馬車→女刑事→馬車とリズムよく編集されておりこの時期において少々信じがたき程のリズムでもってクロス・カッティングが撮られている。『信じがたい』とはこのあとクロス・カッティングが撮られるまでには次の年の「THE CORD OF LIFE(命綱)」(1909.1.23)まで待たなければならないからであり、未だグリフィスにおいて根付いていないクロス・カッティングがどうしていきなりこのようにスムーズに撮れてしまうのかという意味合いにおいてである。ちなみに当論文はグリフィスのすべての作品を見て書かれているものではなくYouTubeで見ることのできる作品についてのみ語られているのでこの作品以降、「命綱」以前にもクロス・カッティングが撮られた可能性を当然の前提としながらここでは『「命綱」まで撮られていない』と断定調で書いている。この論文はグリフィスが最初に何をしたかの起源を探るものではなく見ることのできる範囲での最初の出来事を「起源」としそれがどのように変化しあるいは進化したかを見て行くものである。グリフィスの妻であり「ドリーの冒険」以来グリフィス映画の主役を多く務めるリンダ・アーヴィドソンはその回顧録で「FOR LOVE OF GOLD(黄金を愛するゆえ)」(1908.8.21)において初めてグリフィスがクローズアップを撮ったと回顧しているが、彼にこれがグリフィスの撮ったクローズアップの起源だとしても1908年のこの時期にグリフィス映画においてクローズアップはまったく根付いてはおらず仮に撮られているとしてもそれはモーションピクチャーの進化の過程において撮られたものではない。ジョージ・アルバート・スミス「Grandma’s Reading Glass(おばあちゃんの老眼鏡)」(1900)は初期映画の最初の時期におけるクローズアップとして紹介されることがあるがこのクローズアップは別の場所で撮られた技術的なクローズアップでありモーションピクチャーの進化の過程で撮られたクローズアップではない。この論文で検討するのはそれがクローズアップならば進化の過程においてクローズアップがどういう経緯で根付いたかでありそれはグリフィスにおけるクローズアップの起源を特定せずともシステムの経緯と「起源」によっておおよそのところを特定することができる。起源は探り当ててもまたその先の起源が現れ本物の起源を探り当てることは極めて困難であるばかりか仮に起源を確定したとしてもそれは映画史論であって運動論にはならない。進化にはその反面として「忌避」の時間が併存しその忌避を克服してゆくことで進化は少しずつ形となり現れてくる。リリアン・ギッシュ自伝には、グリフィスがある作品でキャメラを役者に接近させようとすると、役者の全身に金を払っているのだから接近されては困ると重役たちに否定され、キャメラマンのG・W・ビッツァーにも接近すると背景がぼやけるから駄目だ、と言われた経緯が詳細に書かれているが(76頁以下)、重役たちの反対はクローズアップに対する忌避でありリリアン・ギッシュがデビューしたのは「見えざる敵(AN UNSEEN ENEMY)」(1912.9.7)であることからするならば1912年にすら未だこうしたクローズアップに対する忌避が継続していることを意味している。それが『1908年に「黄金を愛するゆえ」でグリフィスによって初めてクローズアップが撮られた』で終わってしまうのがこれまでの映画論でありこの論文はこうした起源重視の映画論の進化を目指して書かれている。映画の起源はクローズアップ、平行モンタージュ、切り返し、どれをとってもグリフィスの発見したことではなくその厳密な起源はずっと遠くまで遡ることからひとまず見たことを「起源」として指摘することで少しずつ映画の進化を見て行く、それが本論文の方法である。
■「BALKED AT THE ALTER(祭壇で思い止まる)」(1908.8.29)
初期映画において一世を風靡する「追っかけ」は運動論的に多くの示唆を与えてくれる。
★追っかけ
映画初期では逃げた者を追いかける、という現象がよく撮られていて「ドリーの冒険(The Adventures of Dollie)」(1908.7.18)では1ショットだけ撮られていることを検討したが、遠くから人がキャメラへ向かって走って逃げて来てキャメラの横を通り過ぎてゆくと、しばらくして遠くから彼を追いかける者がフレームの中に入って来てキャメラへ向かって走って来てキャメラの横を通り過ぎてゆく。これを1ショットで撮るのが初期映画における「追っかけ」でありその特徴は逃げることと追跡することとが延々と1シーン1ショットの中で撮られていることにある。
★みんなで追いかけること
「追っかけ」において逃げる者は多くの場合一人であるのに対して追いかける者はこの作品のように1人ではなく多人数であることを常としている。
★キャメラの横を通り過ぎる
追っかけはキャメラの横を通り過ぎる運動と直結している。この作品では追っかけの最中4回キャメラの横を通り過ぎその内3回は走ってキャメラの横を通り過ぎている。
★ショット内モンタージュ
さらにキャメラの横を通り過ぎる運動は遠くから人が逃げて来てキャメラへと接近しまた遠くから人が追いかけて来てキャメラへ接近するというショット内モンタージュとも直結している。「追っかけ」=キャメラの横を通り過ぎる=ショット内モンタージュという3つの運動が融合している。
★障害物競走
ここでの「追っかけ」は、窓から飛び出る、柵を乗り越える、斜面を駆け下りる(転げ落ちる)、木によじ登る、といった障害物競走となり人にぶつかったり転んだりすることでスラップスティックコメディとなる。
★職業運動と巻き込まれ運動
「追っかけ」は「追いかけること」と「逃げること」とをその主要な運動とするが、刑事が犯人を追いかける、というスキル型職業運動と、この作品のような結婚式の参列者が新郎を追いかける、という職業的スキルを有しない者たちによる巻き込まれ運動へと枝分かれしてゆく(これについては次の論文で検討)。職業運動は「捕まえること」が目的となり巻き込まれ運動は「追いかけること」「逃げること」が目的となる。職業運動は「捕まえること」も「逃げること」もその道の専門家によってなされるが巻き込まれ運動の「逃げること」は子供とか馬とか犬になり「追いかけること」も警官、保安官などは除外されこの作品のように結婚式の参列者たち、犬、などとなるか、仮に警官であっても「捕まえること」を放棄した滑稽な警官たちとなる。人間運動は人間的に、巻き込まれ運動は動物的に遂行されることになる。
★マクガフィン
職業運動は「泥棒した」→「よって刑事が追いかける」という常識的因果関係によって運動が起動するが、巻き込まれ運動の「逃げること」を起動させるマクガフィンはこの作品のように「結婚すること」などとなり「結婚する」→「よって追いかける(逃げる)」という荒唐無稽の流れとなる。この両者の因果連関が弱いほど運動は荒唐無稽となり動物的になる。
★ヒッチコック
ヒッチコックのスキルを喪失した動物的主人公たちによる巻き込まれ運動がひたすら「逃げること」と「追いかけること」をしているのは「追っかけ巻き込まれ運動」の名残にほかならない。
★ラストシーンだけ異質のショットの「起源」
ラストシーンが背景を暗くした女のウエスト・ショットで撮られている。当時、エドゥイン・S・ポーター「大列車強盗(The Great Train Robbery)」(1903.12.7)のようにラストシーンだけ近景から異質のショットが撮られる傾向が見られている。これについては「1908年を振り返る」で検討する。ウエスト・ショットの「起源」でもある。
→「PERSONAL(交際欄)」(1904.8.8)~ウォレス・マカッチョン・シニア
「祭壇に吠えた」の4年前に撮られているこのバイオグラフのウォレス・マカッチョン・シニア監督による「交際欄」は金持ちの男が妻を募集する広告を新聞の交際欄に出したところ余りに多くの女性が来たため逃げ出したので女たちに追いかけられるという内容であり「キートンのセブン・チャンス(SEVEN CHANCES)」(1925)などによって「リメイク」される「追っかけ」の「起源」的作品でありキャメラマンはその後グリフィスのキャメラマンとなるG・W・ビッツァーである。「交際欄」では逃げる男をみんなで追いかける女たちがショット内モンタージュとキャメラの横を通り過ぎる「追っかけ」を1シーン1ショットで反復させながら、叢の中を走り抜け、直線の下り坂を駆け下り、小さな橋を綱渡りのように渡り、柵を乗り越え、カーブする下り坂を駆け下り、崖から飛び降り、みんなで転んでおしくらまんじゅうになる、、という障害物競走がスラップスティックコメディとして撮られている。
★マクガフィン
「交際欄」で「追っかけ」を起動させる原因が「新聞に花嫁募集の広告を出す」という、通常なら「追いかけること」「逃げること」を起動させることのない原因であり巻き込まれ運動特有の荒唐無稽なマクガフィンがここに見られている。この新聞広告による結婚募集のマクガフィンは翌9月に公開されるエドゥイン・S・ポーター「How a French Nobleman Got a Wife Through the New York Herald Personal Columns(フランス貴族がニューヨーク・ヘラルドの個人コラムを通じて妻を手に入れた方法)」(1904.9)」、11月公開ジークムント・ルビン「Meet Me at the Fountain (噴水で逢いましょう)」(1904.11.5)によって早くも「リメイク」されている(この論文で引用する作品はYouTubeで視聴可能)。グリフィスが「祭壇で思い止まる」(1908.8.29)を撮る当時には既に『追っかけ障害物競走』の雛型は出来上がっていることになる。
■「BETRAYED BY A HANDPOINT(手形に裏切られた)」(1908.9.5)
★分離の「起源」が撮られている。
手形は占いのためではなくフローレンス・ロレンスの分離として彼女の犯行を証拠立てるマクガフィンとしてありその分離たる手形がクローズアップで撮られている。
★クローズアップと1シーン2ショット
グリフィス初のクローズアップが石鹼とその中にネックレスを隠す手のクローズアップで生々しく撮られている。クローズアップは基本的に1つの空間の中の事物、顔、などにキャメラを寄って撮られていることから必然的に1シーンが数ショットとなる。
★原初的寄る・引く
クローズアップはキャメラを寄る・引くというアクションによって撮られるが固定されたキャメラで正面から1シーン1ショットのロングショットで撮ることしかできない初期映画の室内撮影の限界からこの時期に事物のクローズアップを撮るときキャメラを寄ることはできず別の場所で撮ったクローズアップを編集によって挿入することになる。この石鹸のクローズアップも背景が暗くなっていて前後のショットとの画調が違うことから別の場所で撮られているように見える。今後こうした、撮影現場でそのままキャメラを寄ることによって撮られている体裁で実際は寄らずに別の場所で撮られているクローズアップにおける寄ること、引くことを『原初的寄る・引く』として検討する。これは指も一緒に撮られているなど現場で撮られた(体裁の)事物のクローズアップであり、明らかに別に撮られている手紙のクローズアップ等は除いている。
★改心については「1908年を振り返る」で検討する。
■「WHERE BREAKERS ROAR(砕ける波の轟くところ)」(1908.9.26)
グリフィスにおける切り返しと平行モンタージュ(クロス・カッティングと区別された)の「起源」が撮られている。
★切り返しの「起源」
①強盗が浜辺で娘をさらって小舟で海へ逃げそれを追う友達集団→②小舟の中で娘にナイフを(逆手に握って)振りかざす強盗→③浜辺で小舟をくりだし追いかける友達集団、という順に撮られている。これがD・W・グリフィス単独監督で初の切り返しが撮られたシーンであり①は同一画面、②は切り返しのように見えるが②は強盗の乗った小舟が①の空間から②の空間へ移動したに過ぎず(移動行為)、さらに③へと転換されて初めて切り返しが成立する。さらに②の強盗は浜辺の方を見て驚いて逃げるように舟をこぎ出し、そこから切り返された③の友達集団もその船を指差し視線を向けている。以下、このようにして切り返しの双方の視線が絡み合っている場合を『見つめ合う視線の切り返し』として検討する(「起源」)。切り返しとは視線の通じている1つの空間を分断し交互に撮る1シーン2ショットのコミュニケーションであるが見つめ合う視線の切り返しは一方的視線によって始まった切り返しに双方の視線を絡ませる切り返しの発展段階であり、一見何の変哲もない切り返しに見えるもののその後のグリフィスは見つめ合う視線の切り返しを撮ることのできない時期が長く続くことからすれば、この時期にいきなり撮られた見つめ合う視線の切り返しは「THE FATAL HOUR(運命の時)」(1908.8.22)においていきなり見事に撮られたクロス・カッティングのように、システムの進化する以前に偶然撮られた時系列のショットが結果として見つめ合う視線の切り返しとなった可能性を否定できない。
★切り返しとは
切り返しとは視線の通じている1つの空間を分断し交互に撮る1シーン2ショットのコミュニケーションをいう。この定義もまた固定されたキャメラで1つの空間を正面から1シーン1ショットのロングショットで撮ることしかできない初期映画の限界から来ているが、ここから初期映画は『1つの空間を2つに分断する』という切り返しの条件を基本的に欠くことになる。一見切り返しのように見えても空間が2つだったり、視線が通じ合う空間ではなかったりするのであり、この時期の切り返しにはこの定義のどれか一つを必ず欠くという現象が決まって起きている。だからこそここでいきなり見つめ合う視線の切り返しという上級の切り返しが撮られていることに驚きを隠せない、ということになる。
★切り返しと時系列
ここまで初期映画の限界として固定されたキャメラで正面から1シーン1ショットのロングショットで撮られることを挙げられているが『時系列』という出来事もまた初期映画を縛り付ける大きな障壁として立ち塞がっている。モーションピクチャーとは現在のメディアであり映画を撮れば必然的にそれは時系列となり、切り返しもまた基本的には構図→逆構図という時系列によって撮られる方法であり結果として時系列となって当然ではあるものの切り返しには時系列を超え『敢えて空間を分断し』それによって『空間を拡げること』という意志と効果が包摂されているのであるが、そうしたことを抜きにしていきなり撮られている切り返しは初期映画における時系列という限界をそのまま背負って撮られた偶然であり未だ進化の前夜にある出来事として捉えることができる。「砕ける波の轟くところ」における見つめ合う視線の切り返しが「偶然撮られた」という推察もこのような観点からなされている。多くのデータを寄せ集めることによりそれが初期映画の限界から偶然撮られていることかそうではないかを見極めなければならない。
▲平行モンタージュ
映画が始まってから①友達集団→②強盗→③友達集団と遠距離の空間同士が交互に編集されている。救出のクロス・カッティング以外ではこれがグリフィス初の平行モンタージュとなる。平行モンタージュとは離れた場所同士を時系列ではなく同時間(あるいは時間の前後なくして)で平行させて編集する方法であり仮に場所的に離れていても時系列として編集されているものは平行モンタージュではない。例えば遠く離れた者同士の電話の会話を交互に編集してもそれは時系列の因果に支配された会話であり平行モンタージュではない。
▲平行モンタージュと時系列
初期映画における時系列という限界は切り返しのみならず平行モンタージュにも降りかかっている。未だ平行モンタージュの根付いていないこの時期に撮られている平行モンタージュには時系列という初期映画の限界と隣り合わせの原初性が常に付きまとっている
▲平行モンタージュとは
このように平行モンタージュを『離れた場所同士を時系列ではなく同時間(あるいは時間の前後なくして)で平行させて編集する方法』として時系列から区別して定義しているのもまた初期映画における時系列という限界から区別させるためであり切り返し同様、多くのデータを寄せ集めることによりそれが初期映画の限界から偶然撮られていることかそうではないかを見極めなければならない。
▲平行モンタージュと1シーン1ショット
初期映画の限界として1シーン1ショットがあるが、平行モンタージュのそれぞれのショット自体は1シーン1ショットであり1シーン1ショットで撮られたショットを編集でつなげてゆけば平行モンタージュとなることから平行モンタージュは1シーン1ショットの延長(応用)であり、だからこそ1シーン1ショットしか撮ることのできない初期映画において平行モンタージュは切り返しよりもずっと早く使用されるようになり切り返しが根付き始めるまで平行モンタージュはモーションピクチャーの時空を広げる役割を引き受けることになる。
▲限界を突き破る
初期映画は1つの空間を1ショットで時間の順番に撮って行くことが基本となる(1シーン1ショットと時系列)。1シーン2ショットの切り返しが成立しているとしても、また同時間の平行モンタージュが編集されているとしても、それが1シーン1ショットの時系列の結果に過ぎないという事態がこの時期には常に付きまとう。進化とはこの1シーン1ショットと時系列を打ち破る力であり、だからこそ切り返しの判断においては視線の通じている同一空間(1シーン)を2つに分断することが重視され平行モンタージュにおいては同時間性が重要となる。
■「A SMOKED HUSBAND(燻製にされた夫)(1908.9.25)
この時期のグリフィスは毎作品、新しいことを撮ってくる。
★原初的音声空間の切り返し
居間の妻たちと暖炉の煙突の中に隠れている夫とのあいだがA居間→B煙突の中で聞き耳を立てる夫→Cメイドが居間で暖炉に火をくべる→D煙突の中ですすだらけになり煙に巻かれる夫→E居間、と交互に編集されている。まずこれは平行モンタージュではない。平行モンタージュとは2つ以上の空間を同時間ないし無時間によって交互に編集してつなげることであるが、ここでは特にC→Dで時系列が撮られているからである。さらに切り返しとは視線の通じている1つの空間を2つに分断しその空間を交互に撮る1シーン2ショットのコミュニケーションであるところここでは視線の通じていない区切られた2つの空間がそれぞれ1シーン1ショットで撮られていることからそれを交互に編集しても切り返しではない。ただ夫は煙突の中で聞き耳を立てており居間で暖炉に火をくべているメイドは煙突の中に誰かいるとの気配を感じている。音声・気配というコミュニケーション通路によって居間と煙突は通底していることから、これは本来の切り返しではないものの切り返しへと発展する過程のコミュニケーションツールとして重要であり、今後こうした、視線は通じていないが音声・気配によってコミュニケーション可能な空間同士の交互編集のされた場合を『原初的音声空間の切り返し』としてコミュニケーションツールではない平行モンタージュとは区別して検討する。『原初的』とは視線ではなく音声と気配によるコミュニケーションものであること、1つの空間を分断するものではないことにより「切り返し」の前段階、という意味合いにおいてである。
★平行モンタージュは何時成立するか
煙突の中の夫と隣りのビルの屋上の紳士たち(マック・セネットとジョージ・ゲブハート)とのあいだが、A煙突の中の夫→B隣のビルの屋上の2人の紳士→C2人の紳士の上に夫が落下して同一画面、、という流れで撮られている。ここではA→Bのみで平行モンタージュは成立するかという問題がある。離れた空間AとBとが交互に編集された場合、それが同時間であるならばこの作品のようにA→Bで平行モンタージュが成立しそうであるが、その場合時系列による場面転換である可能性が高くそれだけで平行モンタージュとすることはできない。よって今後平行モンタージュはA→B→A と戻って来て初めて成立とする。数え方としてはAを原ショットとし、Bで1回、ここで終われば平行モンタージュではなく時系列の場面転換、もう一度Aに帰れば2回となり平行モンタージュとする。この定義もまた、時系列の場面転換に過ぎない編集がたまたま平行モンタージュのように見える場合を平行モンタージュから区別して定義することに意義がある。
■「THE CALL OF THE WILD(野生の叫び声)」(1908.10.31)
★トラッキング
7分過ぎ、女の家へ向かうインディアンをキャメラが右への横移動とパンを交えて捉えながら、そのまま家の中から出て来た娘と彼女を迎えに来た男をパンで捉え、今度は左へ歩き始めた娘と男、そして柵の向こうのインディアンを左へのパンと横移動で捉えている。トラッキングの「起源」が横移動で撮られている。
■「THE SONG OF THE SHIRT(シャツの歌)」(1908.11.17)
★時系列と平行モンタージュ~原初的平行モンタージュ
A会社でミシン縫いの布地をもらった姉→Bレストランで女たちと贅沢をしている男→C帰宅して妹の横でミシン仕事をしている姉→Dオフィス、と編集されている。この編集では貧困と贅沢の対比という、時系列からは離れた出来事が撮られ、さらにレストランで贅沢をしている男たちに時系列的意味はない。しかし空間がABABと交互に編集されるのではなくA~Dとすべて違う場所が編集されている。人物を基準とした場合ここでは姉→レストラン→姉となり平行モンタージュが成立しているように見えるが場所を基準にした場合①会社②レストラン③家、となり、会社にいる姉が家に帰った、という移動行為としての時系列を見ることもできる。ただ平行モンタージュとは離れた空間同士の時間の前後関係を無化して時系列を打破するシステムであるところ、離れた空間としての姉とレストランとの関係は時間の前後関係が不明でありCの時点で平行モンタージュが成立していると見ることもできる。AとBふたつの離れた空間があるとして、A1→B1→A2→B2と交互に編集される場合、A!→A2、B1→B2は映画が現在のメディアである以上当然時系列となるが平行モンタージュにおいて重要な「同時間性=時間の前後が不明」とは、AとBとのあいだの無時間性であることからするならば、A同士、B同士の時系列性は当然の出来事でありさして重要ではないかも知れない。だがこの時期、未だ時系列から抜け出せてはいないグリフィス映画における移動行為を含む交互編集は時系列の感覚でなされる傾向がありそのひとつの手がかりとして以降、場所の移動を伴う交互編集を『原初的平行モンタージュ』として検討する。その後もAオフィスから追い出される姉→Bレストラン→Cもう一つのレストラン→家の姉妹、とつながれている。ここでも姉の場所がオフィス→家と異なっているので移動行為として見ることもでき原初的平行モンタージュとなる。
■「The Curtain Pole(カーテンポール)」(1908/1909.2.13)
★「追っかけ」
「BALKED AT THE ALTER(祭壇で思い止まる)」(1908.8.29)に次いで撮られたグリフィス2作目の「追っかけ障害物競走」でありパーティでカーテンのポールが折れたので買いに出たマック・セネットが帰り道、そのポールで通行人をなぎ倒しみんなに追いかけられるというこの作品は逃げるマック・セネットとポールでなぎ倒された通行人たちがショット内モンタージュでキャメラの横を通り過ぎながら1シーン1ショットで逃げて追いかける典型的な「追っかけ」が撮られている。
★みんなで追いかけること
老若男女、大人も子供もみんなで追いかけている。その道すがら被害を被った者たちが加勢して追いかける者がどんどん増えてゆくアクションはアリス・ガイ「Course à la saucisse(ソーセージレース)」(1907)、ルイス・J・ガスニエ「Le Cheval emballé(逃げた馬)」(1908.2.8)などによって撮られている。
★笑って追いかけること
女や子どもたちは逃げるセネットを追いかけてキャメラの横を通り過ぎる時、笑いながら通り過ぎている。これは「捕まえること」という結果を目的とする職業運動ではあり得ない「逃げること」「追いかけること」という過程が自己目的化された巻き込まれ運動だからこそ起こり得る動物的で過剰な細部としてある。巻き込まれ運動の追っかけを撮った「祭壇で思い止まる」はフィルムの状態が悪いため表情が見えないがおそらく追いかけている者たちは笑っていると推測される。
★障害物競走
セネットが逃げるとき、通行人をなぎ倒し、バーの中を通り抜け、階段を滑り落ち、馬車に乗った後は、乳母車、商品を乗せた手押し車、鉄塔、露店の屋台、ポールにぶるさがった人々をなぎ倒し、ふるい落しながら走っている。追っかけとは基本的に障害物競走であり、西部劇でガンマンが馬に乗って小川を横切るのは「追っかけ障害物競走」の名残りにほかならない。
★巻き込まれ運動とマクガフィン
パーティでカーテンのポールが折れたことがマクガフィンとなりマック・セネットの運動を起動しているがそのマクガフィンは他の男がカーテンポールを持って来ることで無意味と化している。マクガフィンに意味はないとヒッチコックは語るが『カーテンのポールが折れること』とマック・セネットが『逃げること』とは因果的に何の関係もない。ここに撮られているのは『泥棒する』→だから→『逃げる(追いかける)』等の職業運動における追っかけに見られるスムーズな機能的因果関係①→②の持続性ではなく『カーテンポールが折れる』→だから→『人をなぎ倒して逃げる』という、前者は後者を起動させることにのみ意義がある逆因果関係②→①であり『カーテンポールが折れる』こと自体にはまったく意味がないことからそれによって起動した『逃げること』という運動②はあとから来る起動の理由①を失って(理由があとから来るわけがないので)因果関係を逆流し過剰で荒唐無稽なばかばかしさとして宙吊りとなる。では①をどうするかという問題が残るが『逃げること』②さえ起動させてしまえば『カーテンポールが折れること』①それ自体にはまったく意味がなくなることからここでは他の者が代わりにカーテンポールを買ってきたことが平行モンタージュによって示されることで『カーテンポールが折れること』はその使命を全うし消されている。ちなみにヒッチコック的巻き込まれ運動は動物的コメディではなく人間運動を仮構したサスペンスであるため最後まで意味のないマクガフィンの存在を匂わせることで観客の物語への興味をつなぎ留めておく必要があり映画の途中でマクガフィンが消されることはない。マクガフィンは無意味であればあるほど=荒唐無稽であればあるほど=因果連関を欠けば欠くほど=巻き込まれ運動は露呈する。ヒッチコックの『マクガフィンに意味はない』とは職業運動ではなく巻き込まれ運動の、消えてなくなっても構わないスマクガフィンを意味していると見るべきである。この作品の脚本にはマック・セネットが関係しているがこうした極限の荒唐無稽の発想はグリフィスではなくセネットによるものと推測される。職業運動においても追いかける→泥棒するという逆因果関係は存在し映画の運動とは基本的にこうした逆因果関係によって起動するものだが、職業運動の場合、常に泥棒→追いかけるという「正常な」因果関係が併存することから巻き込まれ運動のようなバカバカしさが露呈することはない。
★逆回し
馬車が逆走する逆回しはルイス・J・ガスニエの追っかけ巻き込まれ運動「Le Cheval emballé(逃げた馬)」(1908.2.8)にも見られるが逆因果関係による追っかけ巻き込まれ運動に逆回しは違和感なく挿入されている。
★クローズアップとカッティング・イン・アクションの「起源」
ラストシーンでカーテンポールをかじるマック・セネットのクローズアップへとカッティング・イン・アクションで寄っている。これもまた「BALKED AT THE ALTER(祭壇で思い止まる)」(1908.8.29)同様、ラストシーンだけ異質のショットによって撮られておりこれについては「1908年を振り返る」で検討する。
■「MONEY MAD(金の亡者)」(1908.12.5)
★キャメラを正面から見据えることとバスト・ショットの「起源」
守銭奴のチャールズ・インスリーがショット内モンタージュでバスト・ショットになるまで接近し、その時に一瞬キャメラを正面から見据えている。これはバスト・ショットの「起源」でもある。
■「AN AEFUL MOMENT(ひどい瞬間)」(1908.12.19)
★中抜き
YouTubeで見ることのできるバージョンは物語の順序ではなく同じ場所で撮られたシーンがそのままの順番で提示されている。グリフィス「THE GIRLS
AND DADDY(姉妹とパパ)」(1909)、「THR TRANCEFORMATION OF MIKE(マイクの改心)」(1911/1912.1.27)には『SCENES IN ORDER AS PHOTOGRAPHED(撮影順)』と『SCENES AS EDITED(編集済み)』の2つのバージョンがYouTubeにアップロードされているが『撮影順』では同じ場所で撮られているシーンだけが順番に提示されているのでこれが中抜きで撮られていることが分かる。この「AN AEFUL MOMENT(ひどい瞬間)」もYouTubeのバージョンが『撮影順』のものであるならばこれもまた中抜きで撮られていることになる。週に数本撮らなければならない初期映画の監督は中抜きの技術を身につけていたと推測される。また中抜きで演じている役者たちは因果的経路とは違った順番で演じてゆくことから自分の現在の心理状態を現すことが困難となり結果として演技から心理的なものが排除されることになり役者に限らずその場そのものが前後の因果から解き放たれることになる。初期映画における早撮り大量生産という限界がモーションピクチャーから心理的なるものを除外している。
★同じ場所は同じ構図で撮られている
グリフィスについてはよく同じ場所は同じ構図で撮られていると指摘されるが中抜きで撮られているなら同じ場所が同じ構図で撮られていて当然ということになる。
■「Mr. Jones Has a Card Party(ジョーンズ氏はカードパーティを主催する)」(1908/1909.1.21)
★主観ショットではない
帰って来た妻たちとそれをカーテンを開けて窓から見ている男たちとのあいだが2ショット内側から切り返されそのまま終わっている。窓空間における切り返しの「起源」となる。また、カーテンを開けて「見ること」が撮られていることから主観ショットのようにも見えるが「見たこと」は撮られていない。「THE VOICE OF THE VIOLIN(バイオリンの声)」(1909.3.13)で検討するが主観ショットとは「見ること」→「見られる対象」→「見たこと(見たことの反応)」が順に撮られている場合をいいここでは「見たこと」が撮られていないので主観ショットではない。
★窓空間は切り返しか
切り返し①によって窓空間における切り返しが撮られている。切り返しとは視線の通じている1つの空間を分断し交互に撮る1シーン2ショットのコミュニケーションであるが窓空間の場合、室内と室内が仕切られていることから『1つの空間を分断し』と言えないのではと問題なる。確かに窓空間は壁や窓によって外部と仕切られていることから室内と外部とは『1つの空間』ではないものの窓空間における撮り方は窓の中と外との2つの空間が前提であり初期映画のみならず現代映画においてもそれ以外の方法はあり得ないことから原初的音声空間の切り返しのように映画の進化により撮られなくなる出来事ではない。切り返しの定義である『視線の通じている1つの空間を分断し交互に撮る1シーン2ショットのコミュニケーション』は初期映画における固定されたキャメラで正面から1シーン1ショットのロングショットで撮られること、という限界から逆に導き出された定義であり窓空間のように仮に映画が進化しても2つの空間で撮る以外にはあり得ない出来事はここに含まれていない。よって窓空間は定義上の切り返しではないものの以降、それ以外にはあり得ない、という意味において「切り返し」として検討する。では覗き穴からの(主観)ショットはどうか。これについては「LONELY VILLA(淋しい別荘)」(1909.6.5)で検討する。
★巻き込まれ運動のマクガフィンの無化
『男たちが妻たちのいない間に羽目を外す』という運動は『妻たちが旅行に行くこと』というマクガフィンによって起動する。だが平行モンタージュ②によって妻たちは汽車に乗り遅れているので起動因が無効化されている。『妻たちが旅行に行くこと』は『男たちが妻たちのいない間に羽目を外すこと』とは因果的には何の関係もないことから後者を起動させてしまえばその後に無化されても不都合はない。これが逆因果関係であり、巻き込まれ運動におけるマクガフィンは多くの場合逆流する性質を有しているゆえにあとから来る運動を起動させてしまえば先行するマクガフィンは消えてなくなっても構わないという性質を有している。そのマクガフィンが『女たちが列車に乗り遅れる』という、それだけでは意味をなさない平行モンタージュによって無化されることにより離れた場所で動き出してしまった男たちの運動が起動因を失い宙吊りとなって哀愁を帯びてくる。
1908年を振り返る
■人間運動・巻き込まれ運動表を提示する(今年度はここにも提示する)。
巻き込まれ運動 7
「ドリーの冒険(The Adventures of Dollie)」(1908.7.18)
「A CALAMITOUS ELOPEMENT(悲惨な駆け落ち)」(1908.8.8)
「BALKED AT THE ALTER(祭壇で思い止まる)」(1908.8.29)追っかけ
「A SMOKED HUSBAND(燻製にされた夫)(1908.9.25)
「Mr.JONES AT THE BALL(舞踏会のジョーンズ氏)」(1908.12.25)
「The Curtain Pole(カーテンポール)」(1908/1909.2.13)追っかけ
「Mr. Jones Has a Card Party(ジョーンズ氏はカードパーティを主催する)」(1908/1909.1.21)
人間運動 12
「Deceived Slumming Party(騙されたスラム街のパーティ) (1908.7.31)
「BETRAYED BY A HANDPOINT(手形に裏切られた)」(1908.9.5)
「WHERE BREAKERS ROAR(砕ける波の轟くところ)」(1908.9.26)
「THE ZULU‘S HEART(ズールーの心)」(1908.10.10)
「FATHER GETS IN THE GAME(父はゲームに参加する)」(1908.10.10)
「ROMANCE OF JEWESS(ユダヤ人のロマンス)」(1908.10.24)
「THE CALL OF THE WILD(野生の叫び声)」(1908.10.31)追っかけ
「TAMING OF THR SHREW(じゃじゃ馬馴らし)」(1908.10.10)
「THE SONG OF THE SHIRT(シャツの歌)」(1908.11.17)
「MONEY MAD(金の亡者)」(1908.12.5)
「AN AEFUL MOMENT(ひどい瞬間)」(1908.12.19)
「The Salvation Army lass(救世軍の娘)」(1908/1909.3.6)
1908年に撮られた作品のうち、巻き込まれ運動7に対して人間運動11と拮抗している。その内、追っかけと融合している巻き込まれ運動は「BALKED AT THE ALTER(祭壇で思い止まる)」(1908.8.29)「The Curtain Pole(カーテンポール)」(1908/1909.2.13)の2作品であり人間運動では「THE CALL OF THE WILD(野生の叫び声)」(1908.10.31)の1作品となる。
■巻き込まれ運動
巻き込まれ運動とは人間運動ではないことであり人間の内から込み上げて来る愛、友情、忠孝、憎悪、等とはかけ離れた動物的、物的運動であり、人間運動である帽子を脱ぐこと、落とすこと、退出すること、などが巻き込まれ運動で現れることはない。巻き込まれ運動の「ドリーの冒険(The Adventures of Dollie)」(1908.7.18)で「落とすこと」が撮られているのは娘を探すことという人間運動をしている父親であり巻き込まれている娘ではない。『論文ヒッチコック第二章』において
『ヒッチコック的巻き込まれ型の主人公たちは驚くべき頻度において帽子を脱がないかそもそも帽子をかぶってすらいない。ジョン・フォードのあらゆる映画にほぼ100%起こりうる「敬意を払って帽子を脱ぐ」という動作をヒッチコック的巻き込まれ運動の主人公たちは絶対にしない。~ヒッチコック的スリラーの主人公は「動物」なのだから人間的な身に染みついた運動をしない。犬や猫は帽子を脱がない。あまりにも当然の摂理である』
と書かれているが、動物や物は帽子を脱がない。こういった出来事はグリフィスの撮っている巻き込まれ運動にも当てはまる。「The Curtain Pole(カーテンポール)」(1908/1909.2.13)のマック・セネットは何度も帽子を脱いでいるがそれは帽子の人間的な使い方を知らないセネットが帽子を動物的に脱ぐことで帽子の使い方を知っている人間を混乱に陥れるスラップスティックコメディであり人間運動としてではない。スラップスティックコメディとは道具の使い方が分からない者たち、機能的な生き方のできない者たちによる荒唐無稽の運動であり「カーテンポール」のセネットはカーテンのポールにカーテンをつなぐという機能的な使い方ではなくポールで人をなぎ倒しているようにヒッチコック論文で検討した「機能の中から運動を取り出す」というマクガフィン的逆流がスラップスティックコメディの運動の基本となる
★「A CALAMITOUS ELOPEMENT(悲惨な駆け落ち)」(1908.8.8)
カップルが駆け落ちをする人間運動が撮られているようでありながらその人間運動は『駆け落ちしようとしているカップルが梯子を掛けて二階のバルコニーから鞄と恋人を降ろしていると泥棒と間違われて警官に捕まりその隙にかばんを本物の泥棒に奪われその中に隠れた泥棒に家財道具を盗まれる』というマクガフィンに巻き込まれているのであり、それはあたかもヒッチコック「ファミリープロット(FAMILY PLOT)」(1976)のバーバラ・ハリスとブルース・ダーンの2人が自分たちは探偵行為をしていると思っていながら実は知らないうちに凶悪な誘拐事件に巻き込まれているのと同じように、駆け落ちをしていると思っているカップルが実は泥棒事件に巻き込まれているのでありだからこそ人物たちはみな人間性を喪失し動物的に撮られることになる。さらに泥棒がかばんの中に隠れたりそのかばんを廷吏のロバート・ハーロンが階段で転んで転げ落としたりするスラップスティックコメディでもあり、どちらも因果関係を逆流させて撮られる巻き込まれ運動とスラップスティックコメディとは親和性が極めて高い。
★逆因果関係
巻き込まれ運動についてはヒッチコック論文の主題であることから詳しくはそちらに譲るが、ここでは逆因果関係について検討してみたい、成瀬己喜男の論文で④→③→②→①の逆因果関係について検討しているが、職業運動の場合、『泥棒する』→『追いかける(逃げる)』というとき、この『追いかける』という運動は『泥棒する』というマクガフィンによって起動することから『追いかけるために泥棒する』という逆因果関係も成立しているが、同時に『泥棒されたから追いかける』という正常な因果関係も存在している。ところが巻き込まれ運動の場合「The Curtain Pole(カーテンポール)」(1908/1909.2.13)ならば『カーテンポールが折れる』→『逃げる』となり、『逃げるためにポールが折れる』という逆因果関係は存在しても『ポールが折れたから逃げる』という正常な因果関係は存在しない。『カーテンポール』という物体と『逃げること(追いかけること)』という運動はどうしても結びつかない。巻き込まれ運動の神髄はこの荒唐無稽にある。だからこそこの『カーテンポールが折れる』というマクガフィンはのちの平行モンタージュによって無効化されても既に『逃げること』は起動しているのだから問題はなく映画は持続してゆく。だがこれが職業運動の場合、泥棒を「捕まえること」が目的となることから「追いかけること」をしたあとに泥棒が消えてなくなってしまえば困ったことになる。ヒッチコック的巻き込まれ運動は動物的コメディではなく人間運動を仮構したサスペンスであるため最後まで意味のないマクガフィンの存在を匂わせることで観客の物語への興味をつなぎ留めている。
■人間運動
人間運動とは人間としての起源=過去、善悪、罪の意識、などを有する者による運動であり起源に接近すると初犯、起源から遠ざかると常習犯となる。これについてはヒッチコック論文で検討している。
★改心表を提示する。
グリフィスには主人公が改心する作品が多く撮られている。その改心の質を検討することはグリフィス作品の運動の質を知るうえで重要であることからここに改心表を提示しその改心について検討をする。モーションピクチャーにおける人間の改心には常習犯の改心と初犯の改心がある。常習犯の改心は2-A、2-B、3-A、初犯の改心は1-A、1-B、2-Cであり常習犯の改心は衝動的、初犯の改心は知的である。
1知的に改心する初犯の改心
A考えるシーンが撮られているケース
頭で考えて知的に改心する事例であり知的に考えているので改心の結果、初犯となる。ハワード・ヒューズ「ならず者(THE OUTLAW)」(1941)、フレッド・ジンネマン「真昼の決闘(HIGH NOON)」(1952)などでありグリフィスの作品にはこの「考えて改心する」というシーンがまったく撮られていない。
B考えるシーンの撮られていないケース
考えるシーン無しに突然悪人が善人へと変化するケース。「シェーン(SHANE)」(1953)のベン・ジョンソンなどがここに入る。
2改心に1クッション入る
A分離した物を見ること、触ることによって衝動的に改心する。
グリフィス作品の改心の多くはこれであり、人形、ペンダントなどの分離された物体を見ること、触れることによって改心する事例である。分離とは本体=全体の物語=から分離され他の物や出来事に転化された物、ことであり、人形に亡き娘を感じたり(亡き娘そのものではなく形を変えたなきむすめ)、白い花に「しろ」を見たりする、機能的な物語(全体)から分離した異質の物、出来事であり、それを見ること、触れること、等の運動は全体を見ること、触ること、の知的な因果関係から逸脱することになる。
B顔、背中、動作、声など物以外の(分離した)出来事その他を見たり触れたり聞いたりして衝動的に改心す。
分離した物を介することなく直接「そのこと」を見たり、触れたり、聞いたりすることによって衝動的に改心する事例。
3 行動だけ変化し改心していないケース
A (3にはAしかないが便宜上3-Aとする)
ジョン・フォード「三人の名付親(3 GODFATHERS)」(1948/1949.1.13)、「捜索者(THE SEARCHERS)」(1956.5.26)などが典型であり前者は銀行強盗が赤ん坊の世話をし後者は殺そうとした娘を保護して家に帰す、という運動だが、外形的行動は変化(改心)しているように見えながら改心したり反省したりするショットは一切撮られずまた人間もちっとも変っていないケースである。悪人が善人へと豹変するわけでもなく人格的にはまったく齟齬を生ずることのないこうした変貌なき変貌は常習犯には善も悪のないことの現れであり残虐の映画史に通じる恐ろしい領域でもある。
以下、個別の作品で検討をする。
1知的に改心するケース
A考えるシーンが撮られているケース
なし
B考えるシーンの撮られていないケース
★「BETRAYED BY A HANDPOINT(手形に裏切られた)」(1908.9.5)の占い師は、泥棒をしたフローレンス・ロレンスを捕まえて非難しておきながらその後、突然優しくなり金をやり解放している。ロレンスを捕まえ糾弾している時の強硬な占い師と彼女を許す時のしおらしい占い師とは人格に齟齬を生ずるほどの落差があり悪人から善人への劇的な変貌として初犯的なメロドラマが撮られている。
2改心に1クッション入る
2-A分離した物を見ること、触ることによって衝動的に改心する作品
★「THE ZULU‘S HEART(ズールーの心)」(1908.10.10)
娘を亡くしたばかりのインディアンが誘拐した白人の少女を刺し殺そうとするとき少女の差し出した人形をじっと見つめたあと振りかざしていたナイフを不意に落とし人形を手にして改心し少女を解放している。インディアンは亡きインディアンの娘そのものを見たり触れたりするのではなく亡き娘とはまったく異質の物体である人形(にんぎょう)を見ること、触れることによって改心している。インディアンの因果の流れを中断させたのはインディアンの亡き娘と面と向かって対峙するという常識的因果関係ではなくインディアンの亡き娘が分離して化身した「にんぎょう」という異質の因果関係であり、それによってこの改心が知的な因果によることではないことが撮られている。さらにインディアンが娘を刺そうと振りかざしていたナイフを不意に落とすことでこの改心が衝動に依ることが強調されている。
★「ROMANCE OF JEWESS(ユダヤ人のロマンス)」(1908.10.24)
妻が死ぬとき、妻のペンダントを娘に授けた父親はその後駆け落ちした娘を勘当し、時が経ち、孫娘の持ってきたペンダントを見てそれが娘の物だと悟り、瀕死の娘のもとへ駆けつけるという物語だが、ここで父親は孫娘の持ってきたペンダントを見て触った後、孫の頭を撫でたその手を自分の頭に当てふらつくという衝動的運動が撮られている (その後のニューヨークの路地では父親は小走りに走っているので老齢からくるふらつきではない)。娘本人がやって来て言葉で和解するという常識的因果関係ではなく、娘に授けたペンダント=分離を見ること、触ること、頭に手を当てふらつくこと、という通常の因果関係を逸脱した衝動的な運動によって改心している。
B顔、背中、動作など物以外の分離した出来事を見て衝動的に改心する
「THE CALL OF THE WILD(野生の叫び声)(1908.10.31)ではインディアンが神の分離たる天を仰ぎ見て改心するように、物以外(の分離)によって改心するケースである(ここでは天を仰ぎ見たあとしゃがみ込み頭を抱えてふらつくという過剰な細部が撮られている)。顔の場合、人の顔を見るだけでは人の識別、特定、表情という知的な出来事を読むことに過ぎずそれで改心したとしても知的で初犯的な改心に過ぎない。だがその顔をまじまじと見つめるとき、それは過剰(因果の流れから逸脱する出来事)であり意味を読み取ることとは異質の衝動が露呈する。見られた顏はもはや「顔」ではなく意味を剥ぎ取られた剥き出しの「かお」であり因果から逸脱した「かお」をまじまじと見つめることによってその改心が衝動によることが現わされる。
★「TAMING OF THR SHREW(じゃじゃ馬馴らし)」(1908.10.10)
ラストシーンでは他の男と逃げようとしているカタリーナに向かってペトルーチオが大きく手を広げるとまるで何かに引きつけられるようにカタリーナは彼の顔をまじまじと見つめたあと彼の胸に飛び込んでいる。ここではカタリーナがおよそ10秒ものあいだペトルーチオの顔を驚いたようにまじまじと見つめるという過剰な視覚的細部が撮られそれによってカタリーナの改心は知的な因果から逸脱した衝動によることが現わされている。『まじまじと見つめること』とは知的な了解作用から逸脱した過剰な細部でありデビュー当時からグリフィスは過剰な視覚的細部が衝動を惹き起こすことを反復させている。「The Salvation Army lass(救世軍の娘)」(1908/1909.3.6)で男は救世軍の支部で『神は私の光』と書かれた神の分離としてのボードを見て不意に帽子を脱いでいる。だが未だ改心はできないでいる時、救世軍の行進を見て不意に何かに突き上げられるようにしてその行進を追いかけている。まるで「ヒート(HEAT)」(1995)のロバート・デニーロの車線変更さながらのこの衝動的行動のあと字幕に『ボブは信念と魅力に圧倒され再び救世軍の女を追いかける』と入る。神の分離たるボードを見ることと帽子を脱ぐことだけでなく『圧倒される』というもうひとつの衝動によって男は『行進を追いかける』という改心をしている。分離に注目するなら2-A、行進を「見ること」を重視するなら2-B、どちらでもないデニーロ的衝動なら3-Aとなり、どちらにしても衝動が撮られていることに変わりはない。
C1クッション入るが衝動を惹き起こすまでには至らず知的な領域に留まるケース
1908年にこれに該当する作品はない。
3 行動だけ変化し改心していないケース
A 1908年の時点ではあからさまにこの3-Aの撮られた作品は存在しない。
グリフィスのここまでの作品は基本的に2-A、2-Bでありその常習性は3-Aに劣っている。しかしそこにまじまじと見つめること、触れることという過剰な細部と帽子を脱ぐこと、落とすこと、など過剰な常習犯的細部を幾つも交えることで初犯的で知的なメロドラマではなく衝動的なエモーションを惹き起こそうとしている。改心とは多くの場合「考えを改める」という知的な出来事でありながらグリフィスはデビュー当時から改心を衝動として捉えている。
★エモーション
「ドリーの冒険(The Adventures of Dollie)」(1908.7.18)から既に連れ去られた娘を『探し続けること』、そして娘が『帰って来ること』という帰郷の主題がエモーショナルに撮られている。だが多くの場合、エモーションは「THE ZULU’S HEART(ズールーの心)」(1908.10.10)でインディアンが少女の差し出した人形を手にした時、「ROMANCE OF JEWESS(ユダヤ人のロマンス)」(1908.10.24)で父親が娘のペンダントに触れた時、「The Salvation Army lass(救世軍の娘)」(1908/1909.3.6)で男が帽子を脱ぎ、不意に娘の行進を追いかけ始めた時、といった衝動によって人物たちが改心する作品と結びついている。エモーションとは過剰な視覚的細部によって生ずる常習犯的衝動によってもたらされる出来事として撮られている。
■母親の不在~「ROMANCE OF JEWESS(ユダヤ人のロマンス)」(1908.10.24)
オープニングで母親(妻)が死に、母親代わりとなった父親が娘の結婚に介入して勘当するという、ドライヤー論文においても検討した母親不在の映画の特徴が早くも現れているが、母親の不在という不可視の細部が父親の運動によって可視化され妻を失い娘も失った父親のエモーショナルな瞬間をフィルムに焼き付けている。
▲平行モンタージュ
1908年において平行モンタージュは時系列の制約から自由にはなり切れてはいないものの「THE SONG OF THE SHIRT(シャツの歌)」(1908.11.17)「Mr. Jones Has a Card Party(ジョーンズ氏はカードパーティを主催する)」(1908/1909.1.21)などにおいて時間の前後を喪失したカットバックが見られていて少しずつ進化の兆しが見えている。
▲クロス・カッティング
平行モンタージュの一種であるクロス・カッティングは早くも「THE FATAL HOUR(運命の時)」(1908.8.22)において完成された形で撮られている。
■切り返し(原初的を除いた切り返し)
切り返しは以下の2作品だけとなる。一つの空間を二つに分断する本来の切り返しが撮られているのはロケーションにおける「WHERE BREAKERS ROAR(砕ける波の轟くところ)」(1908.9.26)だけであり、もう一つは「Mr. Jones Has a Card Party(ジョーンズ氏はカードパーティを主催する)」(1908/1909.1.21)切り返し①の窓空間における切り返しとなる。室内になると「A SMOKED HUSBAND(燻製にされた夫)(1908.9.25)、「Mr.JONES AT THE BALL(舞踏会のジョーンズ氏)」(1908.12.25)、「Mr. Jones Has a Card Party(ジョーンズ氏はカードパーティを主催する)」(1908/1909.等、原初的音声空間の切り返しばかりとなり平行モンタージュに比べて切り返しは殆ど進化を見せないままこの年を終えている。切り返しも平行モンタージュと同じように時系列の感覚から自由ではなく原初的を含めてどの切り返しも時系列の結果として偶然に撮られているように見える。また「WHERE BREAKERS ROAR(砕ける波の轟くところ)」(1908.9.26)において切り返しが成立しているのはその空間が室内ではなく外部のロケーション空間だからであり無限の広さを有するロケーション空間はひとつひとつが同じ大きさで仕切られている狭い室内空間とは違い自由に分断することができ視線も通じやすくキャメラの位置も縛られることはない。それに対して室内はキャメラを寄って1つの部屋を2つに分断することが初期映画においては極めて困難でありそこには技術上の困難を超えたある種の忌避を見ることができる。こうしたことも相まってこの時期においては視線よりも音声、気配によるコミュニケーションが主とされている。
■寄ること
キャメラを人物に寄ることはロケーションよりも不自由な室内において意味がある。室内でキャメラを寄ることによってもう一つの空いた空間が作出されそこへキャメラを向けることによって切り返しが生まれる。寄ることは切り返しの前提となり切り返しが根付くためにはその前に寄りが根付くことが必要となる。鏡もまたそこに人物を物語と融合させて反射させるには自由な角度でキャメラを寄ることが必要となり寄ることが根付かない限り鏡が有効に活用されることはあり得ない。1908年、一般的な距離であるロングショットないしフルショットからの「寄り」が撮られているのは
「BALKED AT THE ALTER(祭壇で思い止まる)」(1908.8.29)ウエスト・ショットの「起源」
「The Curtain Pole(カーテンポール)」(1908/1909.2.13)クローズアップとカッティング・イン・アクション
「AN AEFUL MOMENT(ひどい瞬間)」(1908.12.19)寄りとカッティング・イン・アクション
の3作品でどちらも室内であるものの『ラストシーンだけ異質のショット』として撮られている。「祭壇で思い止まる」ではそれまでは終始ロングショットないしフルショットで撮られていたショットがラストシーンだけいきなり背景を暗くした女のウエスト・ショットで撮られ「カーテンポール」のラストシーンもまたその直前のショットから背景が暗くなりカッティング・イン・アクションでキャメラがカーテンポールにかじりつくマック・セネットへ寄り「ひどい瞬間」のラストシーンではやや軸はずれているもののカッティング・イン・アクション気味にキャメラが寄っている。ラストシーンだけ近景に寄るという傾向はエドゥイン・S・ポーター「大列車強盗(The Great Train Robbery)」(1903.12.7)のラストシーンのクローズアップなどによってなされているが、おそらくこれは背景の違いからしても物語のシーンとは別々に撮られており室内の撮影中に寄ったり引いたりしているようには見えない。これ以降、人の顔のクローズアップどころかウエスト・ショットすらまったく根付いていないことからすると人物に寄ることには『ラストシーンに別の場所で撮ることしかできない』というある種の忌避を見出すことができる。
1908年に撮られていないこと
★照明
照明についてはこの年、目に見えるような効果としては撮られていない。
1908年に根付いたこと
★キャメラの横を通り過ぎること
これは既に根付いている。「ラ・シオタ駅への列車の到着」(1895)以来、物体がキャメラの横を通り過ぎる現象は現代にいたるまでモーションピクチャーの基本的運動としてあり続けている。キャメラの横を通り過ぎてゆく物体をパンで追うことができない初期映画における固定されたキャメラの限界がこの運動を活発化させているのかも知れない。キャメラの横を通り過ぎるという運動は次第にクローズアップへと発展してゆく過程において現れてくる。
★ショット内モンタージュにおけるクローズアップへの接近
「MONEY MAD(金の亡者)」(1908.12.5)では守銭奴のチャールズ・インスリーが路地でショット内モンタージュでバスト・ショットになるまでキャメラに接近して静止しキャメラを正面から見据えてそのままクローズアップになりキャメラの横を通り過ぎている。これは人物がはっきりとキャメラを正面から見据える「起源」でありバスト・ショットの「起源」でもある。だがクローズアップは静止しておらずキャメラの横を通り過ぎる過程において一瞬撮られているに過ぎないことからこれを「クローズアップ」とすることはできない。そのままキャメラの横を通り過ぎることでクローズアップを無化させているからである。ここにもまたクローズアップに対するある種の忌避を見出すことが出来る。
★同じ場所は同じ構図で撮られている
「AN AEFUL MOMENT(ひどい瞬間)」(1908.12.19)の中抜きのフィルムを見ると同じ場所はすべて同じ構図で撮られている。大量生産の初期映画において中抜きとそこから生ずる『同じ場所は同じ構図で撮られている』とはセットであり既に根付いている。
★斜めの構図
多くの作品で路地などが斜めから撮られているがこれもまた初期映画の通常でありグリフィスに限られたことではなく既にこの時期には多くのロケーションにおける路地などは斜めから撮られている。「A CALAMITOUS ELOPEMENT(悲惨な駆け落ち)」(1908.8.8)で検討しているように室内の壁やドアが斜めから撮られているのはキャメラが室内のさらに中に「寄ること」ができないリアクションでもありキャメラがだめなら壁を曲げてしまえ、というような発想でないかと推測できる。
★ナイフを逆手に握っている
これも根付いている。ヒッチコック論文において、巻き込まれ運動においてはナイフは逆手に握られ人間運動においては順手で握られていることを検討しているがグリフィス作品においては巻き込まれ運動、人間運動の区別なしに基本的にナイフは逆手に握られている。この時期は「ヌケ」の観点からもダイナミックな逆手から振り下ろされる運動が選択されているのかもしれない。
1909年に起きていること
新しく起きていることを基本に検討していく。
■「THE GIRLS AND DADDY(姉妹とパパ)」(1909.1.30)
★上下の切り返し
切り返し②で屋上へ逃げた妹が泥棒と鉢合わせする、そこから二階で強盗の侵入を防ぐ姉→屋上→二階で強盗がドアを破り姉に襲い掛かる→屋上、、と4回カットバックされている。これは切り返し①とは違い屋上の強盗は下を覗き込みそのまま飛び降りているので空間が通じていることになり上下の切り返しとなる。ただこの上下の空間は上と下が天窓によって仕切られた2つの空間であり『視線の通じている1つの空間を分断し交互に撮る1シーン2ショットのコミュニケーション』という切り返しの定義の『1つの空間』という要件を欠いることから実質的には上下における『原初的二間続きの切り返し』(後述)となる。原初的二間続きの切り返しについては「The Cricket on the Hearth(暖炉のコオロギ)」(1909.5.27)で検討するが、これは横における二間続きの部屋における切り返しの限界を前提とした概念でありまた上下の切り返しは画期的な出来事でもあることからここではひとまず「切り返し」として検討を進めてゆく。尚、切り返し①で『持続による同一存在の錯覚』が撮られているがこれは多分に『分断の映画史』において重要となる現象であり今回の論文では『分断』はやらないので記述だけに留めることにする。
■「EDGER ALLAN POE(エドガー・アラン・ポー)」(1909.2.6)
★照明の「起源」
妻のベッドが置かれた暗い部屋の中に窓の外から光が差し込んでいる。それによって暗い空間に黑が出て陰影が現れている。照明とは狭義には全体ではなく部分における光の在り方であり、強弱、陰影、点滅、方向、などによって部分を物語の因果から逸脱させて撮ることの総称である。このあたりからグリフィスとG・W・ビッツァーとの共犯関係が顕著に現れて来る。
■「THE VOICE OF THE VIOLIN(バイオリンの声)」(1909.3.13)
★カッティング・イン・アクション
家の中でバイオリンを弾いている娘を切り返し②の主観ショットで覗いた後、教師が階段を降りる時にカッティング・イン・アクションで大きくキャメラが引かれている。「The Curtain Pole(カーテンポール)」(1908/1909.2.13)で撮られているカッティング・イン・アクションは『ラストシーンだけ異質のショット』として撮られているがここでは運動の中の流れの中でカッティング・イン・アクションの「起源」が撮られている。
★主観ショットとは
切り返し②において家の中でバイオリンを弾いている娘とそれを窓の外から見ている教師とのあいだが2ショット内側から切り返されている。ここではA窓の外から中を見ている教師→B家の中でバイオリンを弾いている娘→Cそれを見て驚きのけぞる教師、という順序で撮られている。Aが「見ること」、Bが「見られた対象」、Cが「見たこと」、として、今後、主観ショットとは「見ること」→「見られる対象」→「見たこと(見たことの反応)」が順に撮られている場合を指すこととして検討する。通常、主観ショットはAとBだけで成立するがこの時期には偶然撮られる主観ショットもあることからそれと区別するために「見たこと」という反応も定義に入れることで差別化を図ることにする。この切り返し②の主観ショットは角度的にも洗練されているがこれが偶然かも知れないことは後に検討することになる。
■「A DRUNKER‘S REFORMATION(酔っぱらいの改心)」(1909.3.27)
★切り返し①
酒癖の悪い夫アーサー・ジョンソンが娘と2人で舞台を見に行ったときの観客席の観客たちと舞台の上の劇とのあいだが19ショット内側から切り返されている。これは1つの室内を二つに分断して切り返されているので「FIGHTING BLOOD(戦う血)」(1911.7.1)で検討される『近代的切り返し』のようにも見えるが近代的切り返しとは1室内の一角にキャメラが入り込みそれによって余った空間へキャメラを切り返すことであるところ、この切り返し①は通常の室内空間ではなく特別に作られた舞台と観客席という広い空間であり(いつも撮られている)1つの空間にキャメラが入り込むという近代的切り返しの趣旨を逸脱している。だが『視線の通じている1つの空間を分断し交互に撮る1シーン2ショットのコミュニケーション』という切り返しの定義には合致していることから「切り返し」として検討を進める。これは室内における切り返しの「起源」となる。
★平行モンタージュと主観ショットの混同
序盤、夫の帰りを待っている妻が窓から外を見ると、酒場で飲んでいる夫のショットへと転換されている。酒場は離れた場所にあることからこれは主観ショットではなく平行モンタージュだが、撮り方は主観ショットに接近していて平行モンタージュと主観ショットとの混同が見られている。この時期における主観ショットはある種のイメージショットとしての性質を有していたということだろうか。
■「The Cricket on the Hearth(暖炉のコオロギ)」(1909.5.27)
★『原初的主観ショット』とは
切り返し②では二間続きの部屋において妹の夫と隣室の兄妹とのあいだが2ショット目に同一画面に収められるまで内側から切り返されている。『二間続きの部屋』とは室内撮影において1部屋がドアやカーテンを挟んで隣りの1部屋とつながっている部屋をいう。切り返し②はドアを開けて視界が通じており夫は「見ること」と「見たこと」をしているので二間続きの部屋における主観ショットとなる。しかし隣室の兄妹は夫の見た目の角度ではなく正面から撮られている。初期映画においては1つの部屋を正面からのロングショットの1シーン1ショットで撮ることしかできないので仮に主観ショットの趣旨で撮られていても見られた対象は正面からのショットとなり見ている者の見た目からは大きくずれることになる。今後、そのような正面から撮られている主観ショットを『原初的主観ショット』として検討する。
★『原初的二間続きの切り返し』とは
さらに切り返し②は、仕切りのドアが開いていることにより視界の通じている二つの隣接する部屋同士が正面から交互に撮られている。1つの空間を自由に分断して撮られる「切り返し」ではなく1シーン1ショットで正面から別々に撮られた二つの空間を編集でつなげているだけであり方法としては1シーン1ショットの平行モンタージュに接近している。二間続きの空間ABを1シーン1ショットで別々に正面から撮ることしか出来ないこの時代にはAとBとを同一画面に収めることができず(不可能ではないが仕切られているため同一画面に収めてしまうとドアなり仕切りを無化してしまうことになる)、『視線の通じている1つの空間を分断し交互に撮る1シーン2ショットのコミュニケーション』という切り返しの『1つの空間』という要件を欠いている。以降、このように扉やカーテンの開かれて視線の通じている二間続きの部屋同士の正面からの切り返しを『原初的二間続きの切り返し』として検討する。二間続きの部屋を1つの空間として撮るためにはキャメラが部屋の中に入り込みドアを挟んで二間続きの部屋を縦断(横断)させて撮る必要があるがこの時期にキャメラは部屋の中に入り込めないことから正面から二間続きの部屋を別々に1シーン1ショットで交互に撮るしかない、という意味合いにおいて原初的である。
★前と奥とで別々の演技の「起源」
宿屋で青年が変装する時、奥の道化師と手前の青年とが縦の構図で別々の運動が撮られている。こうした縦の構図は次第に縦の長さを増していきその後の大作路線へとつながるひとつの傾向となる。
■「WHAT DRINK DID(飲酒は何をもたらしたか)」(1909.5.29)
★平行モンタージュと主観ショットの混同
家で窓の外を見ている妻から酒場の夫へとカットバックされている。場所的には平行モンタージュでありながら主観ショットのように撮られていて「A DRUNKER’S REFORMATION(酔っぱらいの改心)」(1909.3.27)と同じように平行モンタージュと主観ショットの混同がなされている
■「HER FIRST BISCUITS(彼女の最初のビスケット)」(1909.6.12)
★平行モンタージュ
やや時系列が混入しているものの家と会社の2つの場所に固定されてカットバックされていることに進化が見られている。またこれまでにない14回ものカットバックがされているのはこのビスケットが平行モンタージュを撮るために考案されたマクガフィンであることを示唆している。この時期にきて平行モンタージュが物語を主導する事態が起こり始めている。
■「THE VIOLIN MAKER OF CREMONA(クレモナのバイオリン製作者)」(1909.6.5)
★照明
ラストシーンで部屋の照明が少しずつ暗くなり窓の外からフッリッポに光が差し込める。照明がエモーショナルに撮られた「起源」でもある。みずから身を引き愛する娘に幸せをもたらした男を称賛するかのようにラストシーンで窓の外から光が当てられている
■「TWO MEMORIES(二つの思い出)」(1909.5.22)
▲平行モンタージュ
死にゆく男とパーティではしゃいでいる女とを平行モンタージュさせているこの作品は「HER FIRST BISCUITS(彼女の最初のビスケット)」(1909.6.12)と同じく平行モンタージュを撮るために考案された物語のようにも見える。遠距離間の設定が貫かれ双方の場所が固定され編集がリズミカルになりショット数も多くなり主観ショットとの混同もなされていない。
■「LONELY VILLA(淋しい別荘)」(1909.6.5)
★「Le médecin du château(城の医者)」(1908.3.28.パテ)
1908年に撮られている監督不明の作品「城の医者」と似通っている。夫を偽の手紙でおびき出すこと、車で家を出る夫を強盗団が身をかがめて見ていること、そこで切り返しが撮られていること、屋敷の妻たちが机や椅子をバリケードにして立て籠もること、妻が夫に電話で助けを求めること、など、ほとんど「剽窃」している。違うのは「城の医者」にはクロス・カッティングがないことである。著作権の確立していない初期映画は剽窃の歴史でもあり有名なエドゥイン・S・ポーター「アメリカ消防夫の生活(Life of an American
Fireman)」(1902.1)は前年に撮られたジェームス・ウィリアムソン「Fire! (火事!)」(1901.10.15) の剽窃であるように枚挙にいとまがなくまた前者が「起源」であるという保証もどこにもない。これについては次回の初期映画の論文で検討することになる。
★鍵穴からの覗き見は切り返しか
切り返し③では鍵穴からの覗き見が撮られている。窓空間については「Mr. Jones Has a Card Party(ジョーンズ氏はカードパーティを主催する)」(1908/1909.1.21)において切り返しであるとしたが、鍵穴からの覗き見も同じように切り返しの定義における『1つの空間』という要件を欠いているが、これもまた窓空間と同じように仕切られたドアを挟んで撮るしかなく「これしかない」という撮り方なのでこれについても「切り返し」として検討しそれがこの切り返し③のように主観ショットなら「主観ショット」として検討する。
★遠距離での電話は平行モンタージュか
このカットバックでは夫がかけてきた電話を妻が受けて通話する姿が交互に編集されているが、電話は時系列がはっきりしているので同時進行が原則である平行モンタージュではない。確かに平行モンタージュであれクロス・カッティングであれ時間の観念を完全に無化することは不可能だが平行モンタージュは時間を分節化させないことに意義があり明らかに時系列とわかる電話は時間が「読める」ことから平行モンタージュではなく時系列に撮られたショットの連続に過ぎない。
★この作品もまた「HER FIRST
BISCUITS(彼女の最初のビスケット)」(1909)、「TWO MEMORIES(二つの思い出)」(1909)のように『2つの空間の距離を置く」という平行モンタージュ、クロス・カッティングを撮るために考案された物語であり、そのために夫を誘い出すという明瞭なマクガフィンが設定されている。初期の時系列的、隣接的な交互編集が結果として平行モンタージュとなっているのとは違い、明瞭な(露骨)なマクガフィンと連動することで平行モンタージュ、クロス・カッティングが意識されて撮られている。そして平行モンタージュよりもクロス・カッティングの方が上手く撮られているのはクロス・カッティングの時系列性が初期映画の傾向により合っているからと推測される。
■「THE PEACHBASKET HAT(ピーチバスケットハット)」(1909.6.18)
★追っかけ 5ショット
誘拐犯と間違われ赤ん坊を抱えながら逃げるジプシーたちを親たちが追いかけてゆく「追っかけ」が5ショット撮られているが、逃げているジプシーに逃げるスキルなどあるわけもなく、また追いかける集団も赤ん坊の両親、出前持ち、知らない子供に女たちと、追いかけるスキルなどまったくない者たちがどんどん多くなり(みんなで追いかける)、加わった警官もまた滑稽な警官たちで到底「捕まえること」のスキルを有する警官として撮られておらず、また何人かの男と女は走りながらキャメラの横を通り過ぎる時に笑っていることから「捕まえること」ではなく「追いかけること」と「逃げること」を目的とした「追っかけ」巻き込まれ運動として撮られている。
▲平行モンタージュ
外でジプシーを追いかける集団→家の赤ん坊の入った箱→集団→箱→集団→箱→集団→箱→集団、と8回カットバックされている。箱はただ揺れるだけで時系列的意味はなく巻き込まれ運動としての「追いかけること」と「逃げること」もまた「捕まえること」へと向けられていないことから時系列的意味はなく、ひたすら運動だけが時間を無化して持続する純粋な平行モンタージュが撮られている。
★マクガフィン
大きな帽子(ビーチバスケットハット)は帽子箱が赤ん坊を隠すためのマクガフィンでありジプシーたちは「追いかけられるため」のマクガフィンとして存在している。そうして始まった「追っかけ」もまた、家の中の帽子箱と距離的に離れた「追っかけ」を平行モンタージュで撮るためのマクガフィンでありさらにメイドがジプシーたちをカーテンの裏に隠すのはカーテンと風を意識させるためというマクガフィンも加わっている。ここにきて平行モンタージュは原初的で結果的なものからそれを撮るために脚本が練られる意識的で新しい段階に入っている。
■父親の不在~「HIR DUTY(彼の義務)」(1909.5.29)
警官の弟が母親の前で泥棒の兄を逮捕するというこの作品の兄弟には父親がいない。それについて映画の中では言及されておらず父親の不在は不可視の細部としてそこにあるに過ぎない(父親の不在の「起源」)。だがオープニングの兄の誕生日のシーンで兄弟と母親とのあいだが過剰なまでに仲良く撮られラストシーンでは目の前で兄が弟によって逮捕されるのを見た母親が打ちのめされているとき1人で息子たちを育てた母親のエモーショナルな瞬間が父親の不在とともに可視化されフィルムを揺らしている。
■「THE COUNTRY DOCTOR(田舎の医者)」(1909.7.3)
★パン
オープニングで奥に川を見た小高い丘の小路からキャメラはゆっくりと右へパンして医者の家の前で止まり医者の家族たちがショット内モンタージュでキャメラの横を通り過ぎるまでを1ショットで捉えラストシーンではその医者の家の前からキャメラは逆にパンして最初の小路のところで停まる。この作品のキャメラマンでありグリフィス映画を撮り続けているG・W・ビッツァーはウォレス・マカッチョン・シニア監督「The Lost Child(ロストチャイルド)」(1904.10)で同じようなパンニングのシーンをオープニングとラストシーンで撮っている。
★風に揺れる草花
ロケーションはこれまでも撮られているが風に揺れる草木などの自然が瑞々しく撮られ始めるのはこの頃から。物語が自然を撮るためのマクガフィンにすら見えるほど自然を意識して撮っている。
■「SWEET AND TWENTY(美しい二十歳)」(1909.7.17)
▲追っかけ平行モンタージュ 池へと向かう青年と青年を追いかけるピックフォードとがピックフォード→青年→ピックフォード→青年、と交互に編集されている。逃げる者と追いかける者が持続している1ショットで撮られていれば「追っかけ」であり視認できる空間同士であれば切り返し、そうでなければ平行モンタージュであり、以降、こうした平行モンタージュを『追っかけ平行モンタージュ』として検討してゆく。ここでは、2人のあいだは視認できる範囲外のように見えるので追っかけ平行モンタージュとする。追っかけ平行モンタージュは「追っかけ」の進化系であり1ショットで撮られている「追っかけ」が追われる者と追う者との距離と時間が分かるのに対して追っかけ平行モンタージュは両者の距離と時間がわからずハラハラのサスペンスを醸し出すことになる。(追っかけ)平行モンタージュが「追っかけ」や切り返しと異なるのはこうした距離と時間の不明確性であり明確な時系列を超えたところにその意義がある。
■「THEY WOULD ELOPE(彼らは駆け落ちするだろう)」(1909.8.14)
★鏡
2人が駆け落ちするために家を出る時、2人の姿が構図を意識した鏡にしっかりと映っている(「起源)」。しかしこれは鏡台を斜めに設置することによって撮られたショットでありキャメラが部屋の中に入り込んで作られた構図によるものではない。キャメラが室内に自由に入るようにならない限りこうして鏡の角度を調整することになる。
■「The Indian Runner’s Romance(インディアンランナーのロマンス)」(1909.8.28)
★ラストシーンが後ろ姿の「起源」
ラストシーンで2人は後ろ姿で山の方を見つめている。後ろ姿とは背中であり背中については成瀬己喜男論文第二部の第一章で、多くの成瀬映画の開始のショットやラストシーンが背中というずれた部位によって呈示されていることについて、映画はリュミエール兄弟の「列車の到着」と「工場の出口」から「奥から前へ」という運動(ショット内モンタージュ)によって始まり以降映画の運動は前へと均質化されてゆくのに対して背中という部位はそのまま歩き出せば奥から前へではなく前から奥へと逆流するずれた部位でありであり均質化に逆らう過剰である、と書いている。
さらにその後に
『人は「あらすじ」を書くとき、「歩いて立ち去った」とか「走り去って行った」とか書くが、決して「背中を向けて去って行った」とか書かない。「あらすじ」にとって重要なのは、言語という均質化された遠近法で説明されるところの物語の継起であり、「去ること」という「意味」であって、決して「背中」という「なまもの=無意味」ではないからである。「なまもの」とは、物語からの「過剰」であり、「無意味」であり、したがってそれは「読むこと」という論理の連鎖では露呈しないところの「ずれ」であり、「見ること」によって初めて露呈する視覚的(聴覚的)細部である。』
と書いている。背中とは光に対する影であり「裸の窃視」を撮らない西欧映画において背中という裸の部位が撮られていることもまた逆流である(欧米系映画は「裸の窃視」という意味の剥ぎ取られた盗み見を撮ることを基本的にしない)。後ろ姿は限りなく物語性の削ぎ落された過剰な細部であり2人で同じ方向を見つめる過剰と相まってラストシーンをエモーショナルなものにさせている。
■「OH、UNCLE!(ああ、おじさん!)」(1909.8.28)
★叔父(ジェームズ・カークウッド)からの手紙に『結婚していなければお前に遺産をやる』と書いてあり驚いた甥(ビリー・クィルク)は妻(ピックフォード)を家政婦に変装させて叔父を家に迎えるというコメディであり、遺産と結婚が関連付けられている「起源」である。遺産と結婚をテーマにしている作品では「キートンのセブン・チャンス(SEVEN CHANCES)」(1925)が有名だがグリフィスは「The Awakening(覚醒)」(1909.9.30)でもこのテーマを撮りアラン・ドワンは「Three Million Dolars(300万ドル)」(1911.9.7)で、エルンスト・ルビッチは「花嫁人形(Die Puppe)」(1919.12.5)で同じテーマを撮っている。結婚以外でも遺産をマクガフィンとした作品は初期映画に多く撮られている。
■「The Sealed room(封印された部屋)」(1909.9.4)
★『原初的二間続きの平行モンタージュ』
切り返し⑥以降は密室の2人と外の王様とが交互にカットバックされているが、壁で隔てられているので切り返しではなくセメントで固めて音も聞こえない設定なので原初的音声空間の切り返しでもなく隣室同士の平行モンタージュとなり以降これを『原初的二間続きの平行モンタージュ』として検討する。キャメラが部屋の中に入り込むことができないため中から四方八方を塞がれた空間を撮ることが出来ず二間続きの部屋を壁のない正面から交互に編集することしかできないという意味合いにおいて「原初的」である。
★二間続きと原初的
原初的二間続きの切り返し、原初的音声空間の切り返し、原初的二間続きの平行モンタージュといった二間続きの部屋同士での交互編集が初期映画における基本(限界)であり同時にそれは切り返しの「起源」でもあることからここに敢えてこのような定義をして書き残している。ロケーションにはない室内撮影における区切りのある1つの部屋という狭い空間が越えがたい密閉性となって襲いかかっている。
★気づかないことにする
隣でコンクリー工事が行われているのに気づかないことにする。これもまた二間続きの部屋におけるコミュニケーションの限界としてある。本作品で「音がするのに聞こえない」という状況を撮るためには距離を伸ばして三間続きの部屋を撮らざるを得ないがそうすると1シーン1ショットで正面から3つの空間をカットバックさせる必要がある。三間続きの部屋は「Mr.JONES AT THE BALL(舞踏会のジョーンズ氏)」(1908.12.25)などで既に撮られているがそこでは離れた部屋同士をカットバックさせているのに対してコンクリー工事の場合三間続きの部屋の中央の部屋を「防音堤」のようにして撮らざるを得ずなんとも間の抜けたカッティングになってしまう。そこで二間続きの部屋で撮るよりなくそうすると「音がするのに聞こえない」という状況が必要となり「気づかないことにする」というカードを切らざるを得ないことになる (原作では男を鎖で縛りつけて壁を塞ぐので「音がするのに聞こえない」という状況を作る必要はない)。空間的限界が『気づかないことにする(見えないことにする、聞こえないことにする)』という映画のルールを生み出しキャメラが自由になりある程度の視野の自由を拡げたあとも『気づかないことにする』は受け継がれることになる。「キートンの探偵学入門(SHERLOCK JR.)」(1924)でキートンが男の真後ろにくっついて尾行しても男がまったく気づかないのはこうした映画史のパロディでもあり映画史そのものでもある。
■「COMATA.THE SIOUX(コマタ、スー族)」(1909.9.11)
山に住むインディアンの女が谷からやって来た男と結婚し谷へ降りて子供を産むが男は白人の女と浮気しインディアンの女は山へ帰ってゆくというこの作品には、山=誇り高き場所、谷(町、平地)=不純な場所、という対比のテーマが撮られている。ただ、谷の家の前には花が咲き乱れていて荒涼とした山に対して花の咲く谷、というイメージも共存している。こうした、どちらが善なのか悪なのかはっきりしないという複雑さは「THE MOUNTAINEER’S HONOR(山岳民の誇り)」(1909.11.27)などによって反復されることになる。
■「THE BROKEN LOCKET(壊れたロケット)」(1909.9.18)
▲長い時間の平行モンタージュの「起源」。
田舎で男を待つ娘と都会の男とがどちらも長いスパンにおけるゆったりとした時間の流れを伴いながら9回ほど交互に編集されている。平行モンタージュされる回数が増えることによって時間の前後が希薄になり、長い年月が平行モンタージュされることでより無時間性が際立っている。
■「PIPPA PASSES(ピッパが通る)」(1909.10.9)
★照明
朝、暗い部屋に次第に光が差してきて明るくなり夜は逆に暗くなる。スライドパネルの向こうに強力なライトを置きパネルをスライドさせて光を差入れ、また暗くしているとのこと(リリアン・ギッシュ自伝79頁)。
■「FOOLS OF FATE(運命の犠牲者たち)」(1909.10.9)
★同じ場所は同じ構図で撮られている。
妻が夫を助けた男と偶然出会った雑貨屋の前、小高い丘の柵の道など、同じ場所は同じ構図で撮られている。中抜きによって同じ場所は同じ構図で撮られることは既に根付いていることを検討したが、ここでは中抜きの結果としてだけではなくことさら印象的な場所が想い出の場所として同じ構図で撮られている。
■「LINES OF WHITE ON A SULLEN SEA(暗い海の白い線)」(1909.10.30)
★平行モンタージュ
漁に出た婚約者と彼を待つ女という、遠距離にある二つの空間の長い時間の経過をゆったりとした時間の流れでカットバックしている。場所的に遠く離れた2つの空間を交互にカットバックさせるために男は猟に出る、というマクガフィン的志向が強く見られている。
★待ち続けること
恋人からもらった腕輪を身に着け狂人と揶揄されながらも浜辺で海の彼方を見て婚約者の帰りを待ち続ける女エミリー(リンダ・アーヴィドソン)が多くのショットによって撮られている。待ち続けること、探し続けること、という主題はジョン・フォード「馬上の二人(TWO RODE TOGETHER)」(1961.6.28)、「捜索者(THE SEARCHERS)」(1956.5.26)、クリント・イーストウッド「チェンジリング(CHANGELING)」(2008.10.31)等でも反復されているが物語の因果とは直結しない過剰な出来事を短編の限られた時間の中で幾つものショットで撮ることのできる資質がここにも見出されている。
★父親の不在
待ち続ける女エミリーには母親(ケート・ブルース)はいても父親はいない。ひょっとして彼女は小さい頃、帰ってこない父親を浜辺でずっと待ち続けていたのかもしれない。父親の不在という不可視の主題と待ち続けることという可視的な主題が時間の流れの中で現在を揺さぶり続けている。極めて多くの視覚的細部に満たされたエモーショナルな瞬間が撮られている。
■「THE LIGHT THAT CAME(やって来た光)」(1909.11.13)
★平行モンタージュは原初的で切り返しもクローズアップも撮られておらず「1909年に新しく撮られたこと」など何一つないこの作品はなだらかな時間の流れの過程に決してあらすじに書かれることのない過剰な視覚的細部が散りばめられている。
★退出の映画史
右頬にあざのある女が盲目のバイオリニストと恋に落ち、手術をして目が見えるようになったバイオリニストが初めて自分の目で彼女を見つめ2人が抱擁し合うと、医者と母親以外はみな速やかに部屋を出て行き若い医者も老医師と握手をして退出している。常習犯的衝動の典型としての「退出すること」が2人のプライベートな抱擁にエモーションを授けながら映画は終わっている。
■「THE MOUNTAINEER‘S HONOR(山岳民の誇り)」(1909.11.27)
▲追っかけ平行モンタージュ
「SWEET AND TWENTY(美しい二十歳)」(1909.7.17)では原初的でしかなかった追っかけ平行モンタージュがここでは追われる者と追う者たちとのあいだの追跡運動において反復して現れている。追っかけ平行モンタージュが現れ始めるということは「追っかけ」が衰退し始めていることでもある。
★それでもなおかつ
誇り高き山岳民と不純な谷(街、平地)という主題は「COMATA.THE SIOUX(コマタ、スー族)」(1909.9.11)において撮られていて「イントレランス(INTOLERANCE)」(1916.9.5)の古代篇におけるコンスタンス・タルマッジ扮する『山の娘(The mountain girl)』というキャラクターもこのような意味合いにおいて撮られているのかも知れない。だが「コマタ、スー族」ではラストシーンでインディアンの娘が谷に絶望し山へ帰って行くのに対してここでは谷の男に弄ばれた娘が彼女を愛する詩人と2人で谷を目指して山を降りてゆくシーンで終わっている。オーウェン・ムーア扮する花を手にした詩人が谷を意味するのかもしれず、荒涼とした山、花と詩に満ちた谷、という対比もあるようにも見える。「LINES OF WHITE ON A SULLEN SEA(暗い海の白い線)」(1909.10.30)で見られた「それでもなおかつ待ち続けること」という主題がここでは「それでもなおかつ谷へ降りること」という主題として反復されている。
■「Through the Breakers(困難を乗り越えて)」(1909.12.11)
★この作品も「THE LIGHT THAT CAME(やって来た光)」(1909.11.13)と同じように「1909に新しく撮られたこと」は何もなく平行モンタージュがあるだけで切り返しも撮られていないが多くの視覚的細部によって満たされている。
★倦怠期の夫婦
妻は病気の娘がいるにも拘わらずパーティへ行って娘の死に目に遭えないことで夫に非難されるが単純な二項対立の善悪では撮られていない。最初、妻は娘を看病しようとするがそこにパーティの誘いが来る。だが娘の容態を見て家に残ろうとしている所へ『またパーティに行くのか!』と夫に非難されたことで売り言葉に買い言葉、ではパーティへ行ってやる、という演出がなされている。妻の一方的悪ではなく夫婦の倦怠期が妻の不在を招いたことが繊細に撮られている。
■「小麦の買占め(A Corner of Wheat)」(1909.12.18)
★長回しの「起源」
種をまいている農民たち(ジェームズ・カークウッドとその父親W・クリスティー・ミラー)が遠景からずっと歩いて来てキャメラの横を通り過ぎて画面から消えてゆき再び画面の中を引き返して遠景まで歩いてゆく。長回しとは意図的にそうして撮られることであり初期映画において1シーンを1ショットでしか撮ることのできない限界とは異質の意図をもって撮られるのが長回しである。このラストシーンにはそのような意図を感じ取ることも可能である(長回しの「起源」)。
1909年を振り返る
■人間運動・巻き込まれ運動表を提示する。
巻き込まれ運動は11作品、人間運動は49作品撮られており1908年には拮抗していた両者が人間運動へと大きくシフトしている。1シーン1ショットの「追っかけ」と融合している巻き込まれ運動は「THE PEACHBASKET HAT(ピーチバスケットハット)」(1909.6.18)、「GIBSON GODDES(ギブソンの女神)」(1909.11.6)の2作品であり、人間運動では「THE MENDED LUTE(繕われたリュート)」(1909.7.31)、「1776.OR THE HESSIAN RENEGADES(1776年、またはヘシアンの反逆者)」(1909.9.6)、「NURSING VIPER(毒蛇の看護)」(1909.11.6)の3作品となる。人間運動が多くなっているのは多くの視覚的細部によるエモーショナルな作品の増加とも呼応している。
■巻き込まれ運動とマクガフィン
★「THE PEACHBASKET HAT(ピーチバスケットハット)」(1909.6.18)
巻き込まれ運動が「追っかけ」と融合した1909年唯一の作品でありさらにそれが平行モンタージュと結びつけられた贅沢な作品でもある。運動を起動させるマクガフィンはピーチバスケットハットという大きな帽子と赤ん坊を抱いたジプシーであり、前者はその帽子箱で赤ん坊を覆い隠し後者は赤ん坊を誘拐したと勘違いされてひたすら逃げる。大きな帽子はその帽子を入れた帽子箱で赤ん坊を隠すために存在するので母親のフローレンス・ロレンスに一度かぶられたきり二度と映画の中に姿を見せることはなくジプシーは逃げるためと平行モンタージュを撮るために存在するので散々逃げたあと捕まることなく解放されていなくなる。こうした『マクガフィン(帽子とジプシー)が消える』という現象こそ巻き込まれ運動における逆因果関係の最たる出来事でありジプシーの場合「逃げること」が目的で「捕まえること」が目的ではないことからこうした荒唐無稽な出来事が日常的に惹き起こされることになる(仮にこれが「捕まえること」が目的とされる職業運動なら「泥棒が消える」ことに相当しあり得ない事態となる)。1909年になり巻き込まれ運動が減少しているのはグリフィスにおける作品の傾向が巻き込まれ運動の荒唐無稽から人間運動のエモーションへとシフトしつつあることを指し示している。逆因果関係という非人間的な回路に包まれた巻き込まれ運動は映画が進化し物語の語り方が進化すればするほど忌み嫌われる運命にある。
★「OH、UNCLE!(ああ、おじさん!)」(1909.8.28)
叔父に内緒で結婚した男が『お前が独身なら遺産をやる』という叔父からの手紙に驚き妻を家政婦に変装させて来訪した叔父を騙そうとするが叔父はその「家政婦」を口説き始めて手に負えなくなったので遂に真実を告白すると実は叔父は何もかも知っていてからかっていたという、夫婦が叔父に翻弄される巻き込まれる運動だが、この作品には字幕がなく叔父からの手紙のクローズアップも撮られていない。見えるのは手紙を読んだ夫婦が慌てていること、妻が家政婦からエプロンと帽子を借りて身につけること、手紙の差出人が来訪したこと、その差出人が部屋に置いてある女物の日用品を手に取って女の存在を疑うと慌てて夫が隠し言い訳すること、差出人がキャメラを見て笑うこと、キッチンで妻と抱き合っている夫を差出人が盗み見してほくそ笑むこと、差出人がベルで「家政婦」を呼び出し口説き始め夫はそれを制止できないこと、とうとう夫が真実を告白すると差出人はポケットから新聞を取り出し「知ってたよ」とネタをばらすこと、、などである。さて、これだけ見ていて果たして妻が家政婦に変装した理由がわかるだろうか。この時代の観客はこれを見ただけでその理由がわかったのか、あるいはパンフレットのようなものが別にあったのか、それとも当時のフィルムには字幕が入っていたのか、あるいはそんな理由など気にしないで映画を見ていたのか、憶測は尽きないが、ここで省略されているのは物語そのものではなくそれを起動させる『お前が独身なら遺産をやる』というマクガフィンであり、巻き込まれ運動の場合特にマクガフィンに意味はないのだからもともと消されても然るべきものであり、ここでも「叔父は甥の結婚を知っていてあの手紙は嘘だった」というようにマクガフィンは綺麗に消されている。これは「家政婦」にちょっかいを出す差出人とそれを止められない夫の巻き込まれ運動を「見ること」の映画であり逆因果関係②→①における①をひたすら「見ること」をしながら消えてゆく理由なき理由の②を感じてゆく、それが巻き込まれ映画を見ることの楽しさでもある。遺産について知らない子供たちにこの作品を見せて『どうしてこの夫は妻に手を出す差出人を撃退できないか』と質問すれば子供たちの口からそれは面白いマクガフィンが発せられることだろう。
★「LUCKY JIM(ラッキージム)」(1909.4.24)
うら若き乙女のガートルード(マリオン・レナード)を争い時間を隔てて彼女と結婚した2人の男ジムとジャック(バリー・オムーアとマック・セネット)がそれぞれ妻の手料理に文句をつけたところ殴る蹴るの暴行を受けラストシーンで亡きジムの肖像画に向かってジャックが「(死んだ)君はなんてラッキーなんだ、」と呟いて終わるので「ラッキージム」となるのだが、この混じりっけなしのスラップスティックコメディは「散り行く花(BROKEN BLOSSOMS)」(1919.5.13)と二本立てで上映してほしい一本でもある。
■人間運動
人間運動とはグリフィスの場合、常習犯の運動でありそうあるために衝動的な過剰な細部が幾重にもわたって撮られている。その中でも悔い改めること=改心=の撮られている作品については分離で1クッション置かれたり、見ること、触れること、帽子を脱ぐこと、落とすこと、などの過剰な視覚的細部が撮られることでその改心が心理ではなく常習犯としての衝動によることが現わされている。
★改心表を提示する。
常習性は維持しつつも改心による劇的な変化が撮られている。仮に常習犯的であれグリフィス作品では頻繁に改心を生じている以上常習性は弱まりメロドラマへ接近する。そうした危うい領域を知的な因果性から遠ざかる衝動的で過剰な細部を撮ることによって常習犯のレヴェルに留めること。多くの場合、それは見ること、触ること、などの五感の作用によってなされている。
★2-A 物の分離の1クッションによる改心の撮られている作品
「The Golden louis(黄金のルイ)」(1909.2.20) 靴と金貨
「THE VOICE OF THE VIOLIN(バイオリンの声)」(1909.3.13)バイオリンの音
「RESURRECTION(復活)」(1909.5.15) 聖書
「THE VIOLIN MAKER OF CREMONA(クレモナのバイオリン製作者)」(1909.6.5) 白い花
「TWO MEMORIES(二つの思い出)」(1909.5.22) 自分の写真
「THE SON’S RETURN(息子の帰還)」(1909.6.12) ベンダント
「THE BROKEN LOCKET(壊れたロケット)」(1909.9.18)ロケット
「THE SLAVE(奴隷)」(1909.7.21)白い花
「The Awakening(覚醒)」(1909.9.30) 白い花
「PIPPA PASSES OR THE SONG OF CONSCIENCE(ピッパが通る、または良心の歌)」(1909.10.9 )歌声
★「THE VIOLIN MAKER OF CREMONA(クレモナのバイオリン製作者)」(1909.6.5)
バイオリン製作コンテストで勝った者がバイオリン職人の娘と結婚することになり、職人の2人の弟子はどちらもその娘を愛していたが、弟子のひとりでクレモナ一番のバイオリン製作者であるフィリッポは娘がライバルの男を愛していることを悟り衝動的にバイオリンの交換を思い付いて(これについては後述)いざ交換しようとする時、自分の製作したバイオリンが恋しくなって逡巡するが、ふと目の前に生けてある白い花に目をやりそれを手に取ると気が晴れたようにバイオリンを交換している。この花はメアリー・ピックフォードの記念すべきこの初主演作品の出のショットで窓から顔を出したピックフォードがフィリッポに投げ渡したあの白い花であり、窓から人が顔を出すこと、物を投げ渡すこと、といういずれもグリフィス「起源」の演出によって撮られた劇的なショットであり、その白い花を手にしたフィリッポはその衝動に打ちのめされバイオリンを交換している。「THE SLAVE(奴隷)」(1909.7.21)「The Awakening(覚醒)」(1909.9.30)のラストシーンで続けて撮られているこの白い花は純潔を意味する白いバラらしいが、大切なのはこの白い花の持つ意味ではなく白い花の「しろ」の衝動であり「覚醒」のラストシーンの照明にしても「しろ」を際立たせながら撮られている。
★「THE SON‘S RETURN(息子の帰還)」(1909.6.12)
髭をたくわえた息子をそうとは知らずに「殺して」しまった(実は生きていた)両親はその男の持っていたペンダントの母親の写真という分離した物を見ることで殺した相手が息子だと分かり、母親は手にしていたペンダントを不意に落とすと(忌み嫌って故意に落としたようにも見える)立ち上がり父親はテーブルクロスを握りしめ天を仰ぎ机にひれ伏しその机を投げ落としている。考える間もなく悲嘆に暮れうろたえる両親は「息子だと分かる」という知的な認識にはほど遠い衝動を惹き起こしている。息子を「殺して」しまった両親が息子から分離したペンダントを見る、触ることによってそれが息子だと分かる驚きは息子の死体を直接見て驚くのとはまったく異質の衝動としてあり、そのために分離という1クッションを置きながらそこに衝動的な細部を加えることで知的な認識とは違った運動を露呈させている。
★「マーニー」(1964)から「気狂いピエロ」(1965)へ。
以下は『論文ヒッチコック・ホークス主義・第三章』からの引用である。
『幼少時、母の売春相手を火かき棒で殴り殺してしまったことがトラウマとなって盗みを繰り返す女ティッピ・ヘドレンは、殺した男、ブルース・ダーンから流れ出た血の印象が強烈に残っていたために、赤い花、赤いインク、赤い洋服、そして雷光までもが赤く見え、それが「起源」となって過剰反応を繰り返してゆく。そして映画終盤ヘドレンの回想が流されるとヘドレンに殺されたブルース・ダーンから流れ出した真っ赤な血が画面一杯に映し出される。彼女が過剰反応し続けたのは花、インク、衣服、雷光、血といった背後にあるもの=「であること」ではない。インク、衣服、雷光そして血に共通「すること」=「赤」なのだ。~翌年、ゴダールは「気狂いピエロ」を撮りインタビューで『「気狂いピエロ」では血がたくさん見られます』と聞かれてこう答えている。
『これは血ではない、赤だ!』(「ゴダール全評論・全発言Ⅰ 」606)
これは分離をほかの面から述べた文章であり「奴隷」のあの白いバラは「ばら」として、あるいは「しろ」として露呈したとき映画は因果から解き放たれ異質のエモーションを得ることになる。ゴダールの言説は分離について違う言葉で述べられているに過ぎない
★2-B 顔、背中、など物以外の(分離した)出来事を見て衝動的に改心する場合
顔、背中、体、仕草、などを見ること、触れること、聞くこと、嗅ぐこと、、等五感の作用によって改心を惹き起こすケース。ここで『論文ヒッチコック第一章』で「フレンジー(FRENZY)」(1972.5.25)と「裏窓(Rear Window)」(1954.9.1)について書かれたところを見てみたい。
『同じくスキル喪失型のヒッチコック的巻き込まれ運動の主人公の協力者で恋人の●「フレンジー」のウエイトレスのアンナ・マッシーは、殺人の罪で逃亡している恋人のジョン・フィンチと一夜を共にしたその後、彼に元妻を殺した嫌疑がかかっていることを知って執拗に彼をなじり彼の言い分などちっとも信じようとはしない。精根尽き果てたジョン・フィンチに『俺があんな変質者に見えるか?』と聞かれた彼女は彼をまじまじと見つめた後、安宿で宿泊したという彼のアリバイ主張に対してシラミの付いた服の匂いを思い出し『そういえば少し匂ったわね』といって初めて彼を信じ始めている。言葉で何を言っても信じてもらえなかったジョン・フィンチが最後に頼ったのは「見つめる=視覚」「匂う=臭覚」という五感であり、「見つめる」「匂う」という現在の感覚が彼女をして彼の無実を信じさせた大きな要因となっているのであって、決して彼女は恋人「であること」という過去の身分によって彼を信じたのでもなければ「読むこと」という分節化された出来事によって彼を信じたのでもない。加えて『おれがあんな変質者に見えるか?』と尋ねるジョン・フィンチはその服装から性格から行動からどう見ても変質者にしか見えないように撮られており、ここでもアンナ・マッシーの信頼は真実、理性といった社会通念からかい離した「見ること」、「嗅ぐこと」によって感じられる不確実な現在の直感でしかない。』
以上が「フレンジー」についてであり、また「裏窓」と「見ること」についての最後には
『「裏窓」の作品の証拠すべてが決定力を欠いているのはそれが「(隣のアパートから)見ること」という不確実な出来事によってもたらされているからであり、だからこそ「裏窓」は最後まで豊饒なサスペンスを醸造し続けることができるのである。』と書かれている。
見ること、嗅ぐこと、触ること、などの五感作用は分節化された物語的因果とは異なり不確かで曖昧でありながら、それを見た者、触る者に言葉を超えた衝動をもたらす出来事でありそれによってグリフィスはエモーションを生じさせヒッチコックはサスペンスを生じさせている。それと融合するように、落とすこと、帽子を脱ぐこと、ふらつくこと、退出の映画史などの「不意に~すること」という衝動を露呈させるための細部が多くのシーンで撮られている。
★「THE VOICE OF THE VIOLIN(バイオリンの声)」(1909.3.13)
この作品では爆発物を仕掛けようとしているバイオリン教師が家の中から聞こえてくるバイオリンの音(声)に驚いて窓辺へと走りその声の主が教え子であるとわかり改心するという出来事が撮られている。グリフィス「嵐の孤児(ORPHANS OF THE STORM)」(1921)で窓の外から聞こえてくる生き別れになった妹ドロシー・ギッシュの歌声を聞いた姉のリリアン・ギッシュがその声に驚愕し窓辺へ駆け寄るシーンが撮られているが、それはバイオリンの「声」の衝動に驚き窓辺へ走り声の主が教え子であることが分かり改心したこのバイオリン教師の運動と通底している。
★「THE GIRLS AND DADDY(姉妹とパパ)」(1909.1.30)
「姉妹とパパ」では泥棒が仲のいい姉妹を30秒強見続けることによって改心し「THE DRUNKER‘S REFORMATION(酔っぱらいの改心)」(1909.3.27)では酔っぱらいが舞台劇を19ショット内側から切り返されて見ることで改心している。さらに「TENDER HEARTS(優しい心)」(1909.7.10)ではピックフォードが3ショット50秒に亘って青年を見続けることで彼に思いを寄せ始め「SWEET AND TWENTY(美しい二十歳)」(1909.7.17)でもまた窓から青年を見つめたピックフォードが不意に本を落として青年を追いかけ「The Awakening(覚醒)」(1909.9.30)では落下した妻を夫が抱きとめることでエモーションが惹き起こされ「THE BROKEN LOCKET(壊れたロケット)」(1909.9.18)では手を握ること、見ること、胸に手を当てることによって男は改心して去って行き「Through the Breakers(困難を乗り越えて)」(1909.12.11)では娘の墓にすがりついている妻を夫が見つめ不意に帽子を脱ぐことで変化が生じている。過剰な視覚的細部が撮られていない改心は殆どなくこの時期から既にモーションピクチャーの世界では、あるいはグリフィスに限定されたことなのか、心理的な出来事から距離を置くことにエモーションを求める傾向がはっきりと見られている。
★「THE VIOLIN MAKER OF CREMONA(クレモナのバイオリン製作者)」(1909.6.5) 2-A、3-A
この作品の白い花については検討したが実はその前にフィリッポはバイオリンの交換を衝動的に思い立っている。それは娘がライバルの男を愛していたと分かった直後であり、彼は内から込み上げて来る衝動に突き上げられるようにバイオリンの交換を思い立っている。このあと彼はもう一度思い直して葛藤に悩むことになるのだが、ここだけ見れば、見ることも触れることも聞くこともせず、まるで「ヒート(HEAT)」(1995)のロバート・デニーロのように内から込み上げて来る衝動のみによって改心しており、それはもはや改心なき改心にも似た強い常習性による過剰な視覚的細部として撮られている(3-A)。
★「FOOLS OF FATE(運命の犠牲者たち)」(1909.10.9) 3-A
1909年も終盤になって人格に殆ど祖語の生じていない改心なき改心のような出来事が撮られている。川で溺れているところを助けた男の妻とそうとは知らずに付き合っていた恩人が、自分に銃を突き付けているのが助けた男だとわかって改心し女との交際を放棄している。恩人は銃を突き付けられて恐怖で改心したのではなく付き合っている女が助けた男の妻だと知って改心している。これはみずからの強い道徳的な意志による初犯的な改心のようにも見えるが恩人は身を引く前と後とで人格的齟齬を生じているようには見えずまた心理的な仕草もショットも撮られておらずただ「付き合う」から「身を引く」へと外形的行動が変化しているに過ぎない。これまでも身を引くという改心は「THE VIOLIN MAKER OF CREMONA(クレモナのバイオリン製作者)」(1909.6.5)、「THE WAY OF MAN(人の道)」(1909.6.26)によっても撮られているが、そこで撮られているのは人間の苦悩に満ちた改心であり葛藤であるのだがここでの終始一貫し毅然とした恩人の態度は改心すら生じていないように見える。遡って見ると、この作品では男2人の友情が強くフィルムに焼き付けられている。川に落ちた男が救出されたあと、奥に谷の川の見える森でキャンプをして二人で眠り、肩を叩き合い、フェイドアウトで画面が暗くなる。翌朝、固い握手をして別れた後、再会した時も握手をし、肩を叩き、手を振って別れている。グリフィスとG・W・ビッツァーにより過剰なまでに撮られているのは変わることのない男同士の友情でありだからこそ恩人の男は付き合っている女が助けたあの男の妻だと知って「変わることなく」身を引いているのであり夫もまた苦渋にまみれながらも変わることなく恩人を許している。「クレモナのバイオリン製作者」と「人の道」は恋愛の映画であることから「身を引くこと」というメロドラマが露呈するのに対してこの作品は友情の映画なので「身を引くこと」は露呈せずひたすら貫かれる変わらない友情のみが現れて来る。
■エモーション
「The Golden louis(黄金のルイ)」(1909.2.20)
「THE VIOLIN MAKER OF CREMONA(クレモナのバイオリン製作者)」(1909.6.5)
「A STRSNGE MEETING(奇妙な出会い)」(1909.7.31)
「THE SLAVE(奴隷)」(1909.7.21)
「THE BROKEN LOCKET(壊れたロケット)」(1909.9.18)
「The Awakening(覚醒)」(1909.9.30)
「LINES OF WHITE ON A SULLEN SEA(暗い海の白い線)」(1909.10.30)
「THE LIGHT THAT CAME(やって来た光)」(1909.11.13)
「THE MOUNTAINEER‘S HONOR(山岳民の誇り)」(1909.11.27)
「Through the Breakers(困難を乗り越えて)」(1909.12.11)
動物にエモーショナルな瞬間は訪れにくく基本的にエモーショナルな瞬間は人間運動を衝動によって惹き起こす常習犯によってもたらされる。常習犯とは「起源」という知的な領域から遠いところにある者たちでありその運動は理由から遠ざかった掴み所のない衝動となり物語の「あらすじ」から離れた過剰な視覚的細部によって現れて来る。不意に持っているものを落としたり不意に帽子を脱いだりする出来事、退出の映画史などは常習性の典型的な現れであり物語的因果から解き放たれた視覚的細部として画面に幾重もの層を生み出しエモーションを画面に焼き付けることになる。出来事を見ること、触ること、によって改心することができるのは常習犯だからであり物事を知的に理解することで行動する初犯は「読むこと」はできても不意に帽子を脱ぐこともまじまじと見つめたり触れたりうろたえたりすることもない。
■帽子を脱ぐこと
「RESURRECTION(復活)」(1909.5.15)
「THE HOUSE WITH CLOSED SHUTTERS(シャッターの閉ざされた家)」(1910.8.13)
「LINES OF WHITE ON A SULLEN SEA(暗い海の白い線)」(1909.10.30)、
「Through the Breakers(困難を乗り越えて)」(1909.12.11)
「小麦の買占め(A Corner of Wheat)」(1909.12.18)
■落とすこと
「THE VIOLIN MAKER OF CREMONA(クレモナのバイオリン製作者)」(1909.6.5)
「TWO MEMORIES(二つの思い出)」(1909.5.22)
「THE WAY OF MAN(人の道)」(1909.6.26)「FADEDLILLIES(色褪せたゆり)」(1909.6.12)
「SWEET AND TWENTY(美しい二十歳)」(1909.7.17)
「The Sealed room(封印された部屋)」(1909.9.4)
「The Awakening(覚醒)」(1909)「FOOLS OF FATE(運命の犠牲者たち)」(1909.10.9)
「THE LIGHT THAT CAME(やって来た光)」(1909.11.13)
「A TRAP OF SANTA(サンタの罠)」(1909.12.25)
■退出の映画史
「THE CORD OF LIFE(命綱)」(1909.1.23)、
「LINES OF WHITE ON A SULLEN SEA(暗い海の白い線)」(1909.10.30)、
「THE LIGHT THAT CAME(やって来た光)」(1909.11.13)、
「Through the Breakers(困難を乗り越えて)」(1909.12.11)
帽子を脱ぐこと、落とすこと、退出の映画史、といった身に染みついた運動は巻き込まれ運動では撮られず人間運動についてのみ現れている。多くの場合エモーショナルな出来事は改心によって撮られているが「LINES OF WHITE ON A SULLEN SEA(暗い海の白い線)」(1909.10.30)、「THE LIGHT THAT CAME(やって来た光)」(1909.11.13)などは改心に依らずエモーションをフィルムに焼き付けている。改心はひとつの方法でありエモーションを惹き起こすために改心が必要ということではない。
★「LINES OF WHITE ON A SULLEN SEA(暗い海の白い線)」(1909.10.30)
漁に出た婚約者の帰りを海風の吹く浜でひたすら待ち続ける女を撮ったこの作品は、平行モンタージュに乗せてゆったりと流れる時間と少しずつ暗くなる浜の光線に包まれながら『それでもなおかつ待ち続けること』という過剰な運動をひたすらフィルムに焼き付けている。映画は物語がすべてではないという確信がここに現れている。「それでもなおかつ」という運動はジョン・フォード「馬上の二人(TWO RODE TOGETHER)」(1961.6.28)「捜索者(THE SEARCHERS)」(1956.5.26)クリント・イーストウッド「チェンジリング(CHANGELING)」(2008.10.31)などによって「それでもなおかつ捜し続けること」という運動として反復されているがグリフィス自身も「THE MOUNTAINEER‘S HONOR(山岳民の誇り)」(1909.11.27)によって谷の男にだまされた山の娘が「それでもなおかつ谷に降りること」という運動を撮っている。「それでもなおかつ」の運動は善と悪をはっきり対立させることなく一見「悪」に見える場所を、人を、あるいはもう誰も探そうとしない者たちを、それでもなおかつそこへ向かい、また探し続けることであり、インディアン化した子供たちをそれでもなおかつ連れ戻し、誘拐された息子の痕跡を求めてそれでもなおかつ探し続ける運動にはグリフィスの痕跡が深く刻まれている。「暗い海の白い線」のラストシーンは男を待ち続けて死んだ女に対して漁師たちが全員で帽子を脱ぐというジョン・フォード的運動によって終わっている。
★「THE LIGHT THAT CAME(やって来た光)」(1909.11.13)
盲目のバイオリニストが右頬にあざのある三姉妹のひとりの女に恋をする。バイオリニストは手術をすれば見えるようになると医者に言われ女は自分のあざを見られてしまう葛藤に揺すぶられながら手術代を工面し見えるようになったバイオリニストは女を探す。三姉妹が一人ずつ前に出るが『違う、、』『彼女も違う、』、、そして最後に出て来た女を見てバイオリニストは女の手を握り抱擁する。彼は女の頬のあざを以前に触って知らされていたが、そのあざ見て彼女だと分かったのではない。彼女は向かって右側から姿を現しバイオリニストは左側にいる。あざは女の右頬にあるのでバイオリニストからはあざは見えない。これが初期映画の鉄則であり『観客に見えないことは登場人物にも見えない』。バイオリニストは女の頬のあざを見ることなく女そのことを見て一瞬で「彼女だ」と直感している。ここにあるのは分節化された人物特定ではなく見たこともない女を初めて「見ること」による振動であり、不意にバイオリンを落としたことで彼女と出会いその手に触れられその息遣いを感じ過ごした盲目のバイオリニストの五感の衝動が彼女を初めて「見ること」によって呼び覚まされその振動を彼に伝えている。だからこそ彼は盲目のバイオリニストであり、同時に彼が気配で人を感じることのできる稀有なアーティストであることを現している。抱擁する2人を前に人々が次々と退出しながら終わるこの作品は、見過ごしてしまえばいくらでも見過ごせてしまう細部が重畳的なエモーショナルを呼び興しながら、初期映画がモーションピクチャーへと進化してゆく過程をフィルムに焼き付けている。
★2人で同じ方向を見つめること~過剰な細部
「THE VIOLIN MAKER OF CREMONA(クレモナのバイオリン製作者)」(1909.6.5)をその「起源」としながら「A STRSNGE MEETING(奇妙な出会い)」(1909.7.31)、「THE SLAVE(奴隷)」(1909.7.21)「The Indian Runner’s Romance(インディアンランナーのロマンス)」(1909.8.28)によって踏襲されている2人で同じ方向を見つめるという細部はニコラス・レイ「夜の人々(THEY LIVE BY NIGHT)」(1947/1949.11.5)でファーリー・グレンジャーとキャシー・オドネルの2人がこれから向かう簡易結婚式場をじっと見つめながら歩き続けたように、小津安二郎「早春」(1955)のラストシーンで池部良と淡島千景の夫婦が外からの光に包まれた二階の窓から走りゆく汽車を2人で見つめながら映画は終わったように、その後の映画史によって幾度となく踏襲されている過剰な運動として現れている。
★後ろ姿で終わるラストシーン
「THE MOUNTAINEER’S HONOR(山岳民の誇り)」(1909.11.27)で谷へと降りてゆくピックフォードとオーウェン・ムーアの後ろ姿で終わるラストシーンは「The Indian Runner’s Romance(インディアンランナーのロマンス)」(1909.8.28)「THE REDMANS VIEW(インディアンの目の届く所)」(1909.12.11)「小麦の買占め(A Corner of Wheat)」(1909.12.18)によっても撮られている。後ろ姿=背中という部位は顔という物語から逸脱した過剰な細部であり、後ろ姿で歩き去るままに終わる無色透明の背中たちはその都度そこに違った物語を露呈させながら歩き去る者たちへ未来の道を開いている。
■帰郷の物語
「The Cricket on the Hearth(暖炉のコオロギ)」(1909.5.27)
「THE SON‘S RETURN(息子の帰還)」(1909.6.12)
「THE SLAVE(奴隷)」(1909.7.21)
「1776.OR THE HESSIAN RENEGADES(1776年、またはヘシアンの反逆者)」(1909.9.6)
「COMATA.THE SIOUX(コマタ、スー族)」(1909.9.11)
「LINES OF WHITE ON A SULLEN SEA(暗い海の白い線)」(1909.10.30)
★「THE SLAVE(奴隷)」(1909.7.21)
帰郷がエモーショナルに撮られたのはこの作品からであり、貧困のためみずから奴隷として身を売った妻が家に帰って来ると娘はすでに死んでいて夫にも不貞を理由に殺されそうになる。だがそこに差し出された白いバラを見た夫は改心し妻と二人で病気の娘が横たわっていた寝床にすがりつくと突然あたりが真っ暗になり外から差し込んできた光の空を2人で見上げて終わっている。帰郷、分離、照明、視線、、極めて多くの過剰な細部が重畳的に画面にエモーションを焼き付けながら、映画はこれでいい、このラストシーンでいい、というグリフィスの息遣いが聞こえて来そうな終わり方をしている。
■照明(視覚的細部表参照)
1909年に始まり劇的に増えている出来事に照明がある。「EDGER ALLAN POE(エドガー・アラン・ポー)」(1909.2.6)あたりから暗い照明が撮られるようになり「The Cricket on the Hearth(暖炉のコオロギ)」(1909.5.27)では光を消すこと、「THE VIOLIN MAKER OF CREMONA(クレモナのバイオリン製作者)」(1909.6.5)では愛する女のために身を引いた男に暗くなった部屋の外から光が差し込むラストシーンが撮られ、そうした光は「A STRSNGE MEETING(奇妙な出会い)」(1909.7.31)「THE SLAVE(奴隷)」(1909.7.21)によって反復されている。「The Awakening(覚醒)」(1909.9.30)ではラストシーンで白い花が光に照らされ「PIPPA PASSES(ピッパが通る)」(1909.10.9)では朝、暗い部屋が明るくなると、夜にはその部屋が暗くなり「LINES OF WHITE ON A SULLEN SEA(暗い海の白い線)」(1909.10.30)では女が婚約者の帰りを待ち続けている浜辺の光が女の時間を現すように少しずつ暗くなる。これらの照明はすべて人間運動に対してなされていて巻き込まれ運動には見出されていない。ここにはグリフィスよりずっと早くデビューし様々な視覚的効果を実践してきたキャメラマンのG・W・ビッツァーの存在も大きく関わっていると見るべきだが、照明=人間運動のエモーションという連想が2人の方法としてあるように見える。照明とは全体ではなく部分が照らされることであり因果的な全体とは異質の過剰がそこに投射されることになる。
■風(視覚的細部表参照)
1909年から画面の中に見えるかたちで風が吹き始める。風もまた巻き込まれ運動ではなく人間運動の抒情的細部として撮られている。巻き込まれ運動で風が吹いているのは「THE PEACHBASKET HAT(ピーチバスケットハット)」(1909.6.18)くらいだがそれは室内に吹き込んだ風が帽子箱を落としてその下にいた赤ん坊がすっぽり隠れてしまうというマクガフィンとして吹いておりロケーションでの路地、林は実に荒涼としていて風に揺れる木々などの抒情的シーンは撮られていない。
■孤児
「CONFIDENCE(信頼)」(1909.4.1)
■母親の不在
「THE GIRLS AND DADDY(姉妹とパパ)」(1909.1.30)言及在り。子供は女
「A STRSNGE MEETING(奇妙な出会い)」(1909.7.31) 子供は女
■父親の不在
「HIR DUTY(彼の義務)」(1909.5.29)、子供は男
「THE COUNTRY DOCTOR(田舎の医者)」(1909.7.3)、子供は女
「THE BROKEN LOCKET(壊れたロケット)」(1909.9.18) 子供は女
「LINES OF WHITE ON A SULLEN SEA(暗い海の白い線)」(1909.10.30)子供は女
「THE LIGHT THAT CAME(やって来た光)」(1909.11.13)壁に肖像画あり。子供は女。
★母親の不在、父親の不在
母親の不在、父親の不在とは人間の「起源」であり動物に想起すべき「起源」はないのだから巻き込まれ運動には基本的に父または母の不在は問題にならず、すべて人間運動において撮られている。母親の不在、父親の不在という細部は言及されないことを常とする不可視の細部であり、ドライヤー論文においても検討されているが、父親が母親代わりをして子供を育て、母親が父親代わりをして子供を育てる。そこには両親の揃った親子とは異質の歴史と絆がある。母親、父親の不在自体は不可視だがその不可視の細部は存在する父親、母親、子供たちの運動によって可視化される。最初に母親の不在が撮られたのは1908年の「ROMANCE OF JEWESS(ユダヤ人のロマンス)」(1908.10.24)であり母親の死から始まることから母親の不在の言及ありの作品だが、ここでは娘の結婚に反対して娘を勘当し、時は流れ、娘を失い悲嘆にくれる父親がラストシーンで撮られている。1909年になり「THE GIRLS AND DADDY(姉妹とパパ)」(1909.1.30)では娘たちと異常なまでに仲の良い父親が娘たちの救援に駆けつけ、父親の不在の作品では「HIR DUTY(彼の義務)」(1909.5.29)のオープニングで母と息子たちとのあいだが過剰なまでに仲良く撮られラストシーンでは兄が弟に逮捕され悲しみに打ちひしがれる母親のシーンで終わっている。「THE BROKEN LOCKET(壊れたロケット)」(1909.9.18)では盲目となった娘に母親が寄り添い続け「LINES OF WHITE ON A SULLEN SEA(暗い海の白い線)」(1909.10.30)でも娘の最期に打ちひしがれる母親が撮られている。帰ってこない婚約者をひたすら浜辺で待ち続けることを反復させる彼女の現在の運動は、ひょっとして彼女は帰ってこない父親を浜辺でこうしてずっと待ち続けていたのかもしれない、という想像を掻き立てながら、父親の不在と待ち続けることの主題とが時間の流れの中で現在を揺さぶり続けている。中には「A STRSNGE MEETING(奇妙な出会い)」(1909.7.31)のように母親不在の娘が父と兄の犯罪に加担させられる作品も撮られているが、不在であることが現在に生きる者たちの運動によって可視化される『不在の映画史』はグリフィス映画のエモーションの歴史とも重なり合っている。
■フェイドアウトフェイドアウト
「FOOLS OF FATE(運命の犠牲者たち)」(1909.10.9)ラストシーン
「THE MOUNTAINEER‘S HONOR(山岳民の誇り)」(1909.11.27)ラストシーン
「小麦の買占め(A Corner of Wheat)」(1909.12.18)ラストシーン
「TO SAVE HER SOUL(彼女の魂を救うために)」(1909.12.31)ラストシーン
フェイドアウトはすべて人間運動の撮られた作品のラストシーンになされている。フェイドアウトもまた人間的エモーションのひとつとして捉えているのかもしれない
■巻き込まれ運動とエモーション
以上のエモーショナルな細部は人間運動としての常習犯的細部としてありマック・セネットやキートンの動物的巻き込まれ運動では、2人で空を見上げたり、ラストシーンが歩いてゆく後ろ姿であったり、外から光が差し込んできたり、バックライトで照らされたり、という(考えただけでも笑ってしまう)細部はパロディでもない限り撮られることはない。
■「追っかけ」から追っかけ平行モンタージュへ
「追っかけ」は、「THE PEACHBASKET HAT(ピーチバスケットハット)」(1909.6.18)「THE MENDED LUTE(繕われたリュート)」(1909.7.31)で5ショット、「1776.OR THE HESSIAN RENEGADES(1776年、またはヘシアンの反逆者)」(1909.9.6)で3ショットとなり、「GIBSON GODDES(ギブソンの女神)」(1909.11.6)ではいよいよ走ることをやめて歩いて追いかけることになり、「NURSING VIPER(毒蛇の看護)」(1909.11.6)でも2ショットしか撮られていない。それに代わって「SWEET AND TWENTY(美しい二十歳)」(1909.7.17)では追っかけ平行モンタージュの「起源」が撮られ、「THE MOUNTAINEER’S HONOR(山岳民の誇り)」(1909.11.27)ではリズムよく追っかけ平行モンタージュが撮られている。「追っかけ」は1ショットの中で延々と追う者と追われる者とが走り続けるのに対して平行モンタージュは追う者と追われる者とが別々に撮られるために自由なリズムで編集することができ、また「追っかけ」が追われる者と追う者との距離と時間が分かるのに対して追っかけ平行モンタージュは交互にカットバックされることで両者の距離と時間がわからずサスペンスを醸し出すことになる。映画の世界は撮影の限界から導かれる持続の世界からリズムの世界へと移行しつつある。それに伴い「BALKED AT THE ALTER(祭壇で思い止まる)」(1908.8.29)、「The Curtain Pole(カーテンポール)」(1908/1909.2.13)のような純粋な『追っかけ障害物競走』は撮られなくなり、また撮られる気配もない。古き良き「追っかけ」の時代は終わりを告げようとしている。
■キャメラの横を通り過ぎる~ショット内モンタージュ
だが追っかけと融合している『キャメラの横を通り過ぎる』というショット内モンタージュを包含する持続の世界は未だ滅びることなく撮られ続けている。映画の限界が克服されつつある環境においてなお生き残り続けるショット内モンタージュについては来年以降も検討を続けることになるだろう
▲平行モンタージュは根付いたか
消えゆく『追っかけ障害物競走』に対して平行モンタージュは進化してゆく。「THE GIRLS AND DADDY(姉妹とパパ)」(1909.1.16)において屋上という質的に離れた空間を平行モンタージュの一方に設定し「THE CORD OF LIFE(命綱)」(1909.1.23)、「At The Alter(祭壇にて)」(1909.2.20)あたりから少しずつ平行モンタージュの空間同士に距離が置かれるようになる。「A DRUNKER’S REFORMATION(酔っぱらいの改心)」(1909.3.27)、「WHAT DRINK DID(飲酒は何をもたらしたか)」(1909.5.29))では平行モンタージュと主観ショットの混同が見られ「The Cricket on the Hearth(暖炉のコオロギ)」(1909.5.27)でも時系列の感覚が残されてはいるものの「HER FIRST BISCUITS(彼女の最初のビスケット)」(1909.6.12)では平行モンタージュされる回数が14回にものぼりまたこのあたりからは『平行モンタージュを撮るために物語が作られる』というマクガフィン的回路によって物語が語られるようになる。そういった出来事は「TWO MEMORIES(二つの思い出)」(1909.5.22)、「LONELY VILLA(淋しい別荘)」(1909.6.5)、「THE PEACHBASKET HAT(ピーチバスケットハット)」(1909.6.18)、「THE COUNTRY DOCTOR(田舎の医者)」(1909.7.3)といった、2つの空間の距離を置くために考案された物語によって5月から7月にかけて立て続けに現れ始め、停滞期間を置いた後、8月に入って「THEY WOULD ELOPE(彼らは駆け落ちするだろう)」(19098.14)、「THE MENDED LUTE(繕われたリュート)」(1909.7.31)「The Indian Runner's Romance(インディアンランナーのロマンス)」(1909.8.28)、「1776.OR THE HESSIAN RENEGADES(1776年、またはヘシアンの反逆者)」(1909.9.6)、「THE LITTLE DARLING(小さなダーリン)」(1909.9.4)等では平行モンタージュが無時間的になり、「THE BROKEN LOCKET(壊れたロケット)」(1909.9.18)では長い時間の平行モンタージュが撮られ、「The Awakening(覚醒)」(1909)でも無時間的に、10月に入り「FOOLS OF FATE(運命の犠牲者たち)」(1909.10.9)でもスムーズに、そして「LINES OF WHITE ON A SULLEN SEA(暗い海の白い線)」(1909.10.30)に至って長い時間の平行モンタージュが再び撮られ「THE MOUNTAINEER’S HONOR(山岳民の誇り)」(1909.11.27)では『追っかけ平行モンタージュ』が、「Through the Breakers(困難を乗り越えて)」(1909.12.11)「小麦の買占め(A Corner of Wheat)」(1909.12.18)でもスムーズに撮られている。並行される2つの空間に距離が取られるようになり物語もそれを前提につくられるようになる。それぞれのショット数が増加しまたカットバックされる双方の時間が長くなることで時系列性が弱くなり意味の世界からリズムの世界へ変化してゆく。1909年の中盤以降、平行モンタージュはほぼ根付いている。
▲クロス・カッティングは以下の作品で撮られている。
「THE CORD OF LIFE(命綱)」(1909.1.23)、
「At The Alter(祭壇にて)」(1909.2.20)
「LONELY VILLA(淋しい別荘)」(1909.6.5)
「THE MENDED LUTE(繕われたリュート)」(1909.7.31)
クロス・カッティングは平行モンタージュに比べて救出される側は場所的に固定され、救出する側も馬なり馬車なりを走らせる空間に固定されていることから撮られることは決まっており、それらが「救出すること」という最終時間へと向けて編集されていくので平行モンタージュに比べてより時系列性は強くなり、時系列に慣れ親しんでいる初期映画においては平行モンタージュよりも撮りやすいように見える。グリフィスのデビュー間もない「THE FATAL HOUR(運命の時)」(1908.8.22)でいきなり完成されたクロス・カッティングが撮られているのもクロス・カッティングが時系列の要素が強いことと無関係ではないかも知れない。救出される者とする者とが交互に編集されるクロス・カッティングは救出隊が助けに向かっているという時系列的安堵感と、今、どこまで救出隊が来ているか分からないという同時間性(無時間性)による焦燥が合わさることによって「追っかけ」では不可能なサスペンスをもたらすことができる。
■原初的寄る・引く
「POLITICIAN‘S LOVE STORY(政治家のラブストーリー)」(1909.2.20)漫画
「The Golden louis(黄金のルイ)」(1909.2.20)靴の中の金貨
「At The Alter(祭壇にて)」(1909.2.20)時限装置
事物のクローズアップが撮影現場でキャメラがそのまま寄ることではなく別の場所で撮られているように見える場合を『原初的寄る・引く』として定義したが、その趣旨は撮影の過程でキャメラを一室の中に寄ることができない原初的な限界がいつの時期まで続くか見極めることにある。1909年においてクローズアップはすべて未だこの原初的寄る・引くによって撮られている。
●切り返し
切り返しとは視線の通じている1つの空間を分断し交互に撮る1シーン2ショットのコミュニケーションをいう。原初的二間続きの切り返しは「1つの空間を分断」していないので切り返しではなく原初的音声空間の切り返しは「視線の通じている」という要件を書くので切り返しではない。
★室内における切り返しを撮るには
切り返しの定義からして室内における切り返しを撮るには1つの室内を2つに分断しなければならない。1909年に室内における切り返しが撮られたのは以下の3作品である。
① 舞台と観客席との切り返し
切り返し(視線の通じている1つの空間を分断し交互に撮る1シーン2ショットのコミュニケーション)の撮られている作品に「A DRUNKER’S REFORMATION(酔っぱらいの改心)」(1909.3.27)と「TO SAVE HER SOUL(彼女の魂を救うために)」(1909.12.31) がありこれは区切られたいつもの狭い一室を2つに分断して撮られた近代的切り返しとは異なりいつもの1室を舞台と観客席という大きな連続している空間へと拡げそれを分断することによって撮られた切り返しである。この切り返しは広大なロケーションにおける切り返しと質的には同じであり近代的切り返しのような進化ではなくその前段階と見るべき出来事としてある。
② 小麦精製器
さらに室内同士の切り返しとして「小麦の買占め(A Corner of Wheat)」(1909.12.18)の切り返し①があり、小麦精製器とそれを見ている見学者たちが室内同士で切り返されている。これも窮屈な1部屋の内部における近代的切り返しではなく、また二間続きの部屋でもなく、おそらく精製器は別の場所で撮られていると見られる。方法としては別の場所で事物をクローズアップで撮りあとから挿入する原初的寄る・引くと同じでありキャメラを狭い一室の中へ切れ込んで撮られた近代的切り返しではない。
③ 上下の切り返し
室内同士の切り返しとしてこうした窮屈な室内の空間を上下に広げて切り返しを撮っているのが「THE GIRLS AND DADDY(姉妹とパパ)」(1909.1.30)の切り返し②と「1776.OR THE HESSIAN RENEGADES(1776年、またはヘシアンの反逆者)」(1909.9.6)の切り返し②であり、後者は原初的音声空間の切り返しであり実質的には「姉妹とパパ」の切り返し②が室内での上下の切り返しということになる。ただこの上下の空間は上と下が天窓によって仕切られた2つの空間であり『視線の通じている1つの空間を分断し交互に撮る1シーン2ショットのコミュニケーション』という切り返しの定義の内『1つの空間』という要件を欠いていることから実質的には上下における原初的二間続きの切り返しとなるが、原初的二間続きの切り返しとは横における二間続きの部屋における切り返しの限界を前提とした概念であり縦の広がりを前提としておらず、また上下の切り返しは原初的二間続きの切り返しにおける限界を克服する方法でありそこに原初性を前提とした切り返しの定義をそのまま当てはめることはできない。上下の切り返しは近代的切り返しではないものの窓空間や鍵穴ショットと同じように「切り返し」として定義し検討を進めていきたい。
★検討 以上の3つの切り返しに共通しているのはいつもの狭い1室の中にキャメラを入れて切り返すことのできない限界を、空間を横、上、別の場所へ拡げることで克服しようとする試みであり、横でダメなら縦で行け、ではないにしても、この上下の切り返し、舞台と観客席、精製器などにおける切り返しは1室の中にキャメラを入れて切り返すことがいかに困難かの裏返しとして見ることができる。
★その外の切り返しは以下の通り
「バイオリンの声」切り返し②窓空間。主観ショット。
「淋しい別荘」切り返し①ロケーション③室内と室外、鍵穴による主観ショット。
「美しい二十歳」切り返し②窓空間、原初的主観ショット。切り返し③ロケーション
「繕われたリュート」切り返し①ロケーション
「1776年、またはヘシアンの反逆者)切り返し①室内と室外、主観ショット
「ピッパが通る」切り返し①室内と室外、
「LINES OF WHITE ON A SULLEN SEA(暗い海の白い線)」(1909.10.30)の切り返し①室内と室外
「運命の犠牲者たち」切り返し①ロケーション
「THE MOUNTAINEER’S HONOR(山岳民の誇り)」(1909.11.27)の切り返し①室内と室外
「室内と室外」とは例えばドアの開いている玄関の中と外との切り返しでありこれもまたこうして撮るしかないことから「切り返し」に含めることとする。ここに挙げた切り返しはすべてロケーションか窓空間、室内と室外における切り返しであり室内同士の切り返しは上述の3つのケースしか撮られていない。室内の絡んだ切り返しで共通するのは1つの狭い空間を縦横に拡げるか、あるいはもう一つの空間を家の外に求めるかであり、ここにも1室内における近代的切り返しの困難さが露呈している。
★原初的二間続きの切り返し
4箇所撮られている(視覚的細部表参照)。原初的二間続きの切り返しは近代的切り返しの代用のようなもので近代的切り返しが撮られるようになるまでは原初的二間続きの切り返しを撮るしかない時期が続くことになる。
★見つめ合う視線の切り返し 室内ロケーション含めて1ショットも撮られていない。仮に見つめるとしても未だ片面的(一方的な)視線の切り返しに終始している。
★寄る
近代的切り返しを撮るためには室内でキャメラを寄る環境が整わなければならないがカッティング・イン・アクションを含めて室内でキャメラが寄ることのなされたショットはひとつも撮られていない。「At The Alter(祭壇にて)」(1909.2.20)で撮られた「寄る」はロケーションにおいてであり、またカッティング・イン・アクションとして撮られた「The Awakening(覚醒)」(1909.9.30)のラストシーンの「寄る」もまたロケーションでなされていて未だ室内空間の分断としての「寄る」は撮られる気配を見せていない。
★カッティング・イン・アクション
寄ること自体が少ないのだからカッティング・イン・アクションも少なくて当然であり3箇所しか撮られていない(視覚的細部表参照)。未だカッティング・イン・アクションは未開のままであり人が立つ→引く、座る→寄る、などの典型的なカッティング・イン・アクションもまた撮られる気配はない。
★クローズアップ
顔のクローズアップについては切り返し以上に停滞しておりまったく撮られる気配がない。キャメラの横を通り過ぎる過程における近景はそれなりに撮られているが静止したクローズアップについては依然として忌避されている。
■縦の構図
★「これらのいやな帽子(Those Awful Hats)」(1909.1.23)
★「The Cricket on the Hearth(暖炉のコオロギ)」(1909.5.27)
★「LONELY VILLA(淋しい別荘)」(1909.6.5)
「FOOLS OF FATE(運命の犠牲者たち)」(1909.10.9)
「ギブソンの女神(GIBSON GODDES)」(1909.11.6)
「THE MOUNTAINEER’S HONOR(山岳民の誇り)」(1909.11.27)
「小麦の買占め(A Corner of Wheat)」(1909.12.18)
★「THE REDMANS VIEW(インディアンの目の届く所)」(1909.12.11)と大作路線
縦の構図によって撮られているこれらの作品の中で★の付いた作品では縦の構図の前と奥とで別々の演技がなされている。特に「インディアンの目の届く所」では死にかけた酋長を前に部族の者たちが死の歌を歌って踊る時、左後方で踊っているインディアンたちは手前のインディアンたちから10メートル以上離れており、不必要とも見えるこの距離における具体的な演技がさらに奥へと拡げられた時、「イントレランス(INTOLERANCE)」(1916.9.5)のように100メートルくらい先の人物たちと手前の人物たちとが別々の演技をする大作路線へと流れることになる。
★字幕
1909年の中盤あたりからちょくちょく入るようになり終盤には既に根付いている。字幕は運動の説明でありモーションピクチャーの必然としてあることではないが物語を求める人間の習性からしてこれを入れないわけにも行かず人はこれを映画の進化として受け容れている。