1910年に起きていること
■「FAITHFUL(誠実)」(1910.3.26)
▲報われないクロス・カッティング
報われないクロス・カッティングが初めて撮られている。火事のあと、消防署→火事の現場→消防署から出発する馬車→現場→消防車→現場、と交互にスムーズにモンタージュされているがフローレンス・バーカーを救出したのはマック・セネットで消防車は役に立っていない。このような救出のクロス・カッティングで救出班が功を奏さない、という出来事を『報われないクロス・カッティング』として今後検討する。グリフィスは「THE CALL TO ARMS(軍隊への招集)」(1910.7.30)「わがままペギー(WILFUL PEGGY)」(1910.10.23)、「死のマラソン(DEATH’S MARATHON)」(1913.6.7)などでも報われないクロス・カッティングを撮っている。
■「AS IT IS LIFE(人生であるように)」(1910 4.9)
★母親の不在 『母が死んだ』という字幕から始まるこの作品は父親が再婚を断念して娘を育てるという母親代わりの父親の半世紀が12分の短編に込められている。
★同じ場所は同じ構図で撮られている~思い出の場所
家の前、養鳩場、崖の下の小路のベンチは時を超えてすべて同じ構図で撮られている。中抜きによる機械的な同じ構図を超えて父親と娘、フィアンセとの思い出の場所がまさにそれとして現われている→「FOOLS OF FATE(運命の犠牲者たち)」(1909.10.9)。
★ロケーション 瑞々しいロケーション。鳩の養鶏所の舞い上がる白い鳥たち。
★帰郷の物語 ラストシーンでピックフォードが父親のもとに帰って来る。人が帰って来ることのエモーションが撮られている。
■「不変の海(The Unchanging sea)」(1910.5.7)
▲平行モンタージュ
遭難して島に流れついた夫と彼を待ち続ける妻とが8回ほど交互にモンタージュされている。男は少しずつ年を取り、妻には赤ん坊が産まれ、少女になり、成長し、結婚する。長い時間を平行して撮られたモンタージュは娘の成長に合わせて時系列に撮られているようでありながら、平行する夫のモンタージュとの具体的な時間の前後関係の不在によって妻の時間は分節化されることなく常に夫の時間と共有されている。ここにおいて平行モンタージュはひとつの完成に接近している。
★同じ場所は同じ構図で撮られている
家の前、浜辺、漁師たちの集まる場所、時が経ってもすべて同じ構図で撮られている。時間が分節化を免れながら留まり続けている。
■「LOVE AMONG THE ROSES(バラに囲まれた愛)」(1910.5.14)
★原初的切り返し
場所的関係が不明確な切り返しを以降『原初的切り返し』として検討する。この作品は場所的関係が非常にわかりづらいが、場所的不明確性は主にロケーションで現れる傾向であり、狭すぎる室内と広すぎる屋外との狭間で未だ切り返しは原初的地平を彷徨っている。
■「RAMONA(ラモナ)」(1910.5.28)
★視点転換
娘がみずからの血統について母から聞かされたあと鉄格子にしがみつくとキャメラは家の外から鉄格子にしがみついている娘を捉えている。これは切り返しではなくまた異なる空間なので1シーン1ショットではあるものの窓格子にしがみついているピックフォードは、同じように窓の外と中をカットを割って撮った「BETRAYED
BY A HANDPOINT(手形に裏切られた)」(1908.9.5)、「THE CORD OF LIFE(命綱)」(1909.1.23)を超えた、カットを転換させることによる感情の現れとして撮られている。
★俯瞰の「起源」
山の上で襲われるインディアンと遥か下の谷で襲撃され煙を挙げているインディアンの故郷の村とがロングショットの俯瞰による縦の構図(パンフォーカス)で撮られている。小高い丘から撮られた俯瞰の「起源」であり、こうした構図は後にインディアンたちに囲まれた一軒家を撮るショットなどで反復されている。
■「MUGGSY‘S FIRST SWEETHERT(マグシーの最初の恋人)」(1910.7.2)
★1ショット10秒。1ショットが初めて10秒に突入している。
■「THE CALL TO ARMS(軍隊への招集)」(1910.7.30)
●窓空間と見つめ合う視線の切り返し
切り返し②は城の外で寝転んでいる伝令(ピックフォード)と彼女を2階の窓から呼んだ新妻とのあいだで2ショット内側から切り返されそのまま終わっている。窓の内側と外側で視線が通じているような設定なので見つめ合う視線の切り返しとなる。二間続きの部屋同士ではここまで一度も撮ることのできていない見つめ合う視線の切り返しが、一方に窓を挟んだ外の空間(窓空間)へ設定することで撮られている。
■「WHAT THE DAISY SAID(雛菊はなんといった?)」(1910.7.16)
★キャメラの横を通り過ぎる 29ショット
追っかけは衰退してゆくがそれに付随しているキャメラの横を通り過ぎることは勢いを増している。
■「THE HOUSE WITH CLOSED SHUTTERS(シャッターの閉ざされた家)」(1910.8.13)
●1シーン数ショット
砂袋をバリケードにして敵と撃ち合う戦闘シーンでは1シーンを横から、後ろから、と何度も分断されて撮られている。大作における戦争の撃ち合いシーンなのでマルチ・キャメラかも知れない。
▲平行モンタージュと主観ショットの混同
最初にテントでウォルソールが酒を飲んだ後、遠く離れた家のドアを開けて外を見ている妹のドロシー・ウエストのショットへ転換されている。「A DRUNKER’S REFORMATION(酔っぱらいの改心)」(1909.3.27)、「WHAT
DRINK DID(飲酒は何をもたらしたか)」(1909.5.29))においても見られているが、ここでも平行モンタージュと主観ショットとの境界が曖昧に撮られている。
★馬上から投げ棄てること
ウォルソールは馬上で酒を飲みそのまま酒瓶を遠くへ投げ棄てている。ジョン・フォードの西部劇でよく見る光景だが西部劇では飲み終わった瓶や水筒は遠くに投げ棄てるのが鉄則でありその「起源」が撮られている。
★旗
ドロシー・ウエストが南軍の軍旗を縫っているシーンから始まるこの作品は、戦地で戦死した騎手の落とした旗をドロシー・ウエストが拾って掲げた瞬間、撃たれて死ぬ。『旗を受け継ぐこと』というジョン・フォード的主題の「起源」が撮られている。
「THE SORROWS OF UNFAITHFUL(不誠実の悲しみ)」(1910.8.27)
●切り返し①
漂流するいかだとそれを浜から見ているウォルソールとのあいだが3ショット目に同一画面に収められるまで内側から切り返されている。「見ること」と「見たこと」が撮られていて角度はずれているので原初的主観ショットであり、これがロケーションによって撮られた主観ショットの「起源」となる。ここでは3ショット目の同一画面で、主観ショットで見た画面と同じ画面の中にウォルソールが入って来る。見た目のショットの中に見ている本人が入って来るのはあり得ないという意味でも原初的である→「SWORDS AND HEARTS(剣と心)」(1911.9.2)切り返し③
●切り返し②
ラストシーンで海の中に入ってゆくウォルソールとそれを窓から見ているピックフォードとのあいだが1ショット内側から切り返されている。おそらく窓空間。「見ること」しか撮られておらずそのまま海の中へ入ってゆくウォルソールで映画が終わっているので定義上主観ショットではないがこればどう見ても主観ショットであり「THE VOICE OF THE VIOLIN(バイオリンの声)」(1909.3.13)で検討しているように主観ショットの定義は原初的で不確かなものを除外するためになされていることからして、このようにはっきりと主観ショットとして撮られている場合には「見たこと」が撮られていないとしても「主観ショット」として検討する。
■「IN LIFE‘S CICLE(人生の輪の中で)」(1910.9.17)
★風
この作品あたりから故意に木や木の葉を揺らすようになる。もともと風の強い地帯でのロケーションでもあり断言はできないが。
★なめる
画面の手前に木の葉などをなめる「起源」。
■「THE MODERN PRODIGAL(現代の放蕩息子)」(1910.9.3)
★キャメラ
膝上くらいまでキャメラが近づいている。
●切り返し②
川べりを逃げる囚人から彼に発砲する警官(アルフレッド・パジェット)へと切り返されている。特にこの切り返しは囚人を見つけ彼に狙いを定めてキャメラへ向けて発砲する警官の瞳と視線を膝上くらいの近景からはっきり捉えた切り返しであり、これまでの切り返しとは明らかに異質の「見ること」のショットが撮られている(見つめ合ってはいない)。
■「THE OATH AND THE MAN(誓いと男)」(1910.9.24)
▲追っかけ平行モンタージュ
逃げる2人(貴族と調香師の妻)とそれを追いかける群衆とのあいだが追っかけ平行モンタージュで撮られている。→「THE MOUNTAINEER’S HONOR(山岳民の誇り)」(1909.11.27)参照
■「THAT CHINK AT
GOLDEN GULCH(黄金渓谷のあのチンク)」(1910.10.15)
●切り返し②~ロケーションにおける主観ショット
小さな木の下で着替えて酒を飲み木に寄りかかって眠っている強盗と叢の中から彼を見ているチンクとのあいだが同一画面に挟まれた6ショット内側から切り返されている。場所的関係がやや不明確だがチンクの「見ること」と「見たこと」がはっきりと撮られていることから原初的主観ショットであり、ロケーションの主観ショットは「THE SORROWS OF UNFAITHFUL(不誠実の悲しみ)」(1910.8.27)切り返し①で初めて撮られているがここではより「見ること」と「見たこと」がはっきりと撮られている。
■「THE FUGITIVE(逃亡者)」(1910.11.5)
★バックライトの「起源」
ルーシー・コットンのふわふわの髪に自然光のバックライトが当たっている。
■「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)」(1910/1911.1.7)
1ショット9秒
一気に13箇所で44ショットの切り返しが撮られ、1ショット9秒となり、「MUGGSY’S FIRST SWEETHERT(マグシーの最初の恋人)」(1910.7.2)で突入した10秒の壁を破っている。スムーズな平行モンタージュと多用される切り返しがリズムを生みショットのスピードを早めている。
★成瀬目線の「起源」
切り返し⑧では2階の窓から顔を出したバッハ(デル・ヘンダーソン)と窓の下を偶然通りがかった酔っぱらっている風変わりな青年とのあいだが4ショット内側から切り返されそのまま終わっている。4ショット目にバッハは成瀬目線を使っていて成瀬目線の「起源」が撮られている。また窓から顔を出した人物と窓の外の人物との切り返しの「起源」でもあり、見つめ合う視線の切り返しでもある。
1910年を振り返る
■人間運動・巻き込まれ運動表を提示する。
1910年に撮られた作品において人間運動は29作品撮られているが巻き込まれ運動は初頭に2本撮られて以来撮られず、また「追っかけ障害物競走」が撮られた作品は巻き込まれ運動、人間運動含めて一本も存在しないことから、いよいよグリフィスは人間運動を撮ることに軸を移している。
★巻き込まれ運動の衰退
マクガフィンは無意味であればあるほど=荒唐無稽であればあるほど=因果連関を欠けば欠くほど=巻き込まれ運動は露呈する。その点「THE NEWLYWEDS(新婚夫婦)」(1910.3.5)は古き良き巻き込まれ運動の荒唐無稽さとバカバカしさに包まれており、だからこそ物語映画が台頭するとき巻き込まれ運動は衰退することになる。
■「HER YERRIBLE ORDEAL(彼女の恐ろしい体験)」(1910.1.15)
★聴覚の優位
巻き込まれ運動であるこの作品では序盤、やって来た顧客が恋人を口説き始めたので社員のオーウェン・ムーアがすぐそばでケースを振りかざして殴ろうとしているのに顧客も恋人も気づかない。しかしそのケースを地面に投げ捨てると2人はその音にびっくりして気づいている。視覚よりも聴覚が勝るこの傾向は初期映画にとって「見ること」は「聞くこと」よりも不自由であり見つめ合う視線の切り返しよりも原初的音声空間の切り返しが圧倒的に多いことによっても指し示されているが『気づくこと』においても聴覚の優位は変わっていない。
★「THE USURER(高利貸し)」(1910.8.20)
強欲な高利貸しが金庫に閉じ込められて窒息死するこの作品は同じく秘書が金庫に閉じ込められた「HER YERRIBLE ORDEAL(彼女の恐ろしい体験)」(1910.1.15)と同様の巻き込まれ運動のように見える。だがこちらは債務者たちを自殺に追い込みながらみずからはパーティで楽しむ強欲な高利貸しの人間運動の撮られた作品でありただの秘書が金庫に閉じ込められる「彼女の恐ろしい体験」とは運動の質を異にしている。
■人間運動
改心表を提示する。巻き込まれ運動に改心は生じないのですべて人間運動の中の出来事となる。初犯的な改心が減少し常習犯的改心が多くを占めている。
★「THE TWO BROTHERS(2人の兄弟)」(1910.5.14)~2-B
ナイフを振り上げて兄を殺そうとしている弟をウェディングドレスを身にまとった兄の花嫁マリオン・レナードが止めに入った時、弟はナイフを振り上げたまま彼女の顔をおよそ12秒間まじまじと見つめている。彼女はこの弟を以前助けた恩人だが、兄の花嫁がその彼女だと確認する知的作業に12秒要することはない。この「まじまじと見つめる」という出来事は顔から意味を読むことではなく意味から分離した顔を「かお」として見つめる過剰な視覚的細部であり(あるいは『まじまじと見つめること』によって「顔」が「かお」になるのであり)、過剰である以上そこには成瀬己喜男の「裸の窃視」と同質の、或いはジョン・フォード「アパッチ砦(FORT APACHE)」(1948)のジョン・ウェインから「ノークエスチョンズ」という言葉を引き出した「見ること」のように、見た者が物語の因果を逸脱したナマの衝動に引きずり込まれることであり、ウェディングドレスをまとった女をまじまじつ見つめたあの弟は「あの女だ」と識別したのではなく『まじまじと見つめること』により「あのおんな」の振動に打ちのめされている。この場合あらすじには「彼はその女が自分の恩人だと分かり兄を解放した」と知的な分別行為だけが書かれることになり『まじまじと』という過剰は書かれることはない。「iN THE BORDWE STATES(境界州で)」(1910.6.18)における南軍兵の改心においても少女を『まじまじと見つめること』という過剰な細部が撮られているがこの場合にも「男はこの少女が以前自分を助けた恩人のあの少女と分かりその父親を見逃した」と書かれることになり過剰な細部はあらすじに吸収されることなる。
■「A Child Of The Ghetto(ゲットーの子供)」(1910.6.6)~2-B
この作品の警官は逃亡犯の娘の顔を『まじまじと見つめること』のみによってそのまま彼女を逮捕することなく解放している。彼女が警官の恩人であるとか肉親であるという理由は一切なく『まじまじと見つめること』のみによって警官は娘を逮捕することをやめている。2人の背景で木の葉が風に揺れ井戸の桶が慣性で左右に大きく揺れている。物語からほぼ完全に逸脱した細部が物語を道連れにして進んでいる。
★笑顔を学ぶ 貧困の中、母親に死なれて孤児となりアパートを追い出されやっと見つけた仕事先で無実の罪を着せられ逃亡中の孤独な彼女は見知らぬ農家に辿り着きそこで『SHE LEARNS TO SMILE(彼女は笑うことを学ぶ)』という字幕が入ったあと楽しそうに遊んでいる子供たちの姿を見て彼女が初めて笑うまでのシーンが3ショットにわたって撮られている。わずか10分強の短編の中で孤児の娘が笑顔を取り戻すまでのシーンが3ショット撮られたあと、たまたまその村へ釣りにやって来たあの担当警官によって彼女は発見されたものの見逃されそのまま映画は終わっている。冤罪の証明は撮られておらずそれよりも大切なこととして『笑顔を学ぶこと』が撮られている。処女作「ドリーの冒険(The Adventures of Dollie)」(1908.7.18)で川を流れる樽を延々と撮り続けて以来このような過剰な視覚的細部はグリフィス映画の基本的な出来事としてあり続けている。
★まじまじと見つめること
ここでもう一度、あの警官が改心したシーンを見てみると警官は娘の顔をまじまじつ見つめたあと突然彼女を解放して去っている。彼は笑顔を取り戻した彼女の「かお」をまじまじつ見つめたあと、去っている。映画はこれでいい、モーションピクチャーはこれでいいという確信がない限りこのような終わり方はできないはずである。
★巻き込まれ運動か 孤独で誰の助けもなくスキルもない娘が無実の罪を着せられ逃亡する巻き込まれ運動が撮られているが「笑顔を学ぶ」という極めて人間的なテーマと警官によるエモーショナルな改心の撮られているこの作品は人間運動としてのテーマが際立っている。
★「THE MODERN PRODIGAL(現代の放蕩息子)」(1910.9.3)~3-A
川で溺れた息子を助けたのが脱獄囚と知った保安官は握手をしたあと即座に彼に銃を突き付けて逮捕する。その後保安官は脱獄囚を家に連れ帰ると、用事があるからと妻に見張りをさせていなくなり、その間に妻は寝たふりをして脱獄囚を逃がし、保安官は戻って来ると脱獄囚が逃げたことを知り妻を非難するが妻の顔をまじまじつみたあと妻と抱き合い笑い出す、、という流れだが、どこでこの保安官が改心したのかよくわからない。確かに脱獄囚が息子を助けたという1クッション入るがそれを知った時にも銃を突き付けて逮捕しておりこの1クッションは改心へと繋がっていない。すると用事があるからと出かける時なのか、それともラストシーンで妻の顔をまじまじつ見つめたからなのか、そもそもこの保安官は改心しているのか。保安官が脱獄囚を逃がすという出来事は確かに外形的には改心ではあるだろうがこの保安官は序盤、農民にお宅の息子が盗みを働いたと訴えられた時、保安官の立場を利用することなく息子を折檻するようなフェアな人間として撮られている。ジョン・フォード「駅馬車(STAGECOACH)」(1939.3.3))ではラストシーン、保安官のジョージ・バンクロフトと医者のトーマス・ミッチェルがお尋ね者のジョン・ウェインとその恋人クレア・トレヴァーの2人を逃がしているが、いったい彼らが何処で改心したのかよくわからない。そんなことよりも映画を通じて彼らがどういう人間として撮られているかであり、表面上「保安官がお尋ね者を逃がす」という改心に似た出来事が起きていても保安官の人格には齟齬を生じておらずおそらくラストシーンで突然あのようにして衝動的に2人を逃がしたように撮られている。「ヒート(HEAT)」(1995)で裏切者を殺さずに逃亡しようとしていたロバート・デニーロが突然の車線変更によって進路を変えて裏切者を殺しに戻ったのは衝動によることで考えを変えたわけではない。変化しているのは外形であり人格的には何ら齟齬を生じておらず改心しているわけではない(従って3-Aに該当している)。「考えを変えて改心する」という道徳を至上命令とする大衆社会において「どこで改心したか分からない」という現象は決して受け容れられないタブーであり「現代の放蕩息子」の見逃してしまいそうな保安官の行動に残虐の映画史へと繋がる極めて強い常習犯の系譜を見ることが出来る。
★「THE FUGITIVE(逃亡者)」(1910.11.5)~3-A
ここにもまた改心なき改心のような出来事が撮られている。南軍兵士である自分の息子を北軍兵士に殺された母親ケート・ブルースは、偶然彼女の家に逃げてきたその北軍兵を南軍兵たちに突き出そうとして思い止まり匿っている。ここで字幕には母親は『彼(北軍兵のジョン)の母親のことを想い思い止まる』と書かれている。ここでこの作品のあらすじを見てみると『南軍の兵士ジョンは母と恋人を残して出征し、同じくジョンという名の北軍の兵士もまた母と恋人を残して出征する』。とある。息子たちはどちらもジョンという名であり、どちらにも恋人がいて、どちらにも父親がいないこれは映画の中で言及されることのない父親の不在の映画でありこの南北の息子たちはともに夫を失った母親の手によって育てられている。母親が『彼(北軍兵)の母親のことを想い思い止まる』という改心は北軍兵のジョンに対してではなく父親の不在という同じ境遇からくるジョンの母親へと向けられた衝動でありでありジョンを許す、許さない、という善悪の出来事ではない。だからこそ字幕には『ジョンの父親を想い』とも『ジョンを想い』とも書かれていない。母はジョンを匿った後も彼に笑顔で接することもなく『出て行って』と右手で外を差し示し毅然とした態度で退出を促しその人格に齟齬を生じさせていない。この『出て行って』はおそらく『あなたのお母さんのもとへ帰りない』という『出て行って』でありそれが言葉で示されることもなく大きな余韻を残しながらこのシーンは終わっている。省略されている不可視の出来事が現在の運動を揺さぶり続けている。彼女に惹き起こされたのは衝動であり改心ではない。3-A。
★この年の作品には分離による改心2-AからBへ、それと同時に3-Aへ、という流れを見ることが出来るかもしれない。
■エモーショナルな作品を挙げて見ると
「AS IT IS LIFE(人生であるように)」(1910 4.9)
「不変の海(The Unchanging sea)」(1910.5.7)
●「THE TWO BROTHERS(2人の兄弟)」(1910.5.14)
●「A Child Of The Ghetto(ゲットーの子供)」(1910.6.6)
●「iN THE BORDWE STATES(境界州で)」(1910.6.18)
「THE HOUSE WITH CLOSED SHUTTERS(シャッターの閉ざされた家)」(1910.8.13)
「IN LIFE‘S CICLE(人生の輪の中で)」(1910.9.17)
●「THE MODERN PRODIGAL(現代の放蕩息子)」(1910.9.3)
「THAT CHINK AT GOLDEN GULCH(黄金渓谷のあのチンク)」(1910.10.15)
●「THE FUGITIVE(逃亡者)」(1910.11.5)
●「THE LESSON(教訓)」(1910.12.24)
など、多くは改心が絡んでいるが(●の付いた作品)そうではない作品も撮られている。
■ヒーロー、聖女伝説
★「THE HOUSE WITH CLOSED SHUTTERS(シャッターの閉ざされた家)」(1910.8.13)
戦争に出征したものの伝令の文書を前線に届ける途中で恐怖から逃げ帰って来た兄の代わりにその妹(ドロシー・ウエスト)が兄の軍服を着て兄の馬に乗り兄に成りすまして戦場へ赴くという作品であり、ここで兄が家に逃げ帰って来た時、妹は兄を揺さぶり彼の持っていた指令書をじっと見つめ続け、何かを思い出したように黒人召使に兄の服を脱がせるよう命令すると母親に「来なさい!」と手招きして自分の着替えを手伝わせ「いいのかい?」と母に尋ねる間も与えず自分の長い髪を母に切らせ母にキスをして振り向きもせず馬に乗って出発している。この一連の彼女の運動は何らの心理的な淀みも停滞もなしに一気に撮られた常習犯の典型的視覚的細部であり、あの指令書をじっと見つめた瞬間、彼女はまるで何かに突き上げられるようにして『家の当主』となり走り出している。その後彼女は見事な手綱さばきで前線まで指令書を送り届けたあと、倒れた騎手から旗を拾い上げたところを撃たれて死に、母親のもとに「息子」の英雄的死の報が届く。英雄は陰のヒーローによって作り出される。ジョン・フォード「リバティ・バランスを射った男(THE MAN WHO SHOT LIBERTY VALANCE)」(1962.4.22)のジョン・ウェインにように。
★「THE TWO BROTHERS(2人の兄弟)」(1910.5.14)
兄を殴り母親に勘当される弟アーサー・ジョンソンの物語であり、信心深い善の兄と粗暴な悪の弟を対立させているように見えながら兄は修道院の裏庭で弟を背中から撃っておりこれは後の西部劇における卑怯者たる悪の行動であり、また弟との対決シーンでも兄は弟をナイフで不意打ちしていることから視覚的には兄は卑怯な悪として撮られていながらそのように撮られているのはここだけでそれ以外は一見善人のように撮られていて、その後、強盗団の一員となる悪の弟との対比を際立たせている。どうやら弟には出来の良い兄に対するコンプレックスがあるらしく彼の粗野な行動もその裏返しでありだからこそ彼は勘当されたあとも故郷の修道院に舞い戻りその郷愁を露わにしているのだがそれもまたさり気なく撮られているだけで字幕などで説明されることはなく、善と悪とをひっくり返しながら進められていくことで弟は、善の兄の存在によって誰にも共感されない孤独な「すねに傷を持つ身」となりジョン・フォード「駅馬車(STAGECOACH)」(1939)のジョン・ウェインのような孤独なヒーローたちの原型となる(このように善と悪とをひっくり返すように見せることが出来るのは彼が善も悪もない常習犯として撮られているからであり初犯であればその時点で善と悪が確定しまうのでこういうことはできない)。そんな彼の心を動かしたのは兄に撃たれて負傷している彼を何のためらいもなく助けた2人の女たちであり彼女たちの計算されることのないしなやかな運動によって弟の頑なな心は解きほぐされ彼を改心させている。先に検討したように、ナイフを振り上げて兄を殺そうとしている弟をウェディングドレスを身にまとった兄の花嫁マリオン・レナードが止めに入った時、弟はナイフを振り上げたまま彼女の顔をおよそ12秒間まじまじと見つめている。ここで弟がまじまじと見つめたのは身に染みついた運動によって人に衝動を惹き起こす聖女の「かお」であり、もしここで切り返すことができるならグリフィスは「裸の拍車(THE NAKED SPUR)」(1953.2.1)でジェームズ・スチュワートを改心させたあのジャネット・リーのクローズアップのようなショットを挿入するはずである。一見何の意味もないあのクローズアップはすねに傷を持つ男に衝動を与える聖女の「かお」でありあらすじだけ読めば消え去ってしまうメロドラマの中に無名のヒーローと聖女伝説が刻まれている。
★「iN THE BORDWE STATES(境界州で)」(1910.6.18)
敵である南軍兵をためらいもなく匿った年端も行かない少女もまた、あらすじに書かれることのない聖女伝説を生きている。逃げてきた敵の南軍兵(ヘンリー・B・ウォルソール)に水をやり、匿いながら感謝のキスを拒絶し、握手と敬礼をして別れたこの娘グラディス・イーガンは4人姉妹の年端も行かない末娘であり敢えて彼女を幼い末娘とすることで身に染みついた尊厳とは年齢に関係のない出来事であることを際立たせている。ヒッチコック論文(第二章『「ラスト・オブ・モヒカン」(1992)~ジョディ・メイの幼い顔)で書いたように「国民の創生(The Birth of a Nathion)」(1915.3.3)で黒人に追い詰められ崖の上からなんら躊躇することなく谷底へ身を投げたメエ・マヘーシュはキャメロン家という由緒正しき家に生まれた5人の兄弟姉妹の末っ子であり兄や姉たちからペットのように可愛がられていたという事実は偶然ではなく身に染みついた運動を際立たせるためのマクガフィンとしてある。「境界州で」で南軍兵をためらいもなく匿った年端も行かない少女が敵の南軍兵を改心させたのは少女の身に染みついた運動に対する衝動であり決して子供にませた演技をさせて媚を売った結果ではない(ませた演技とは善を現す初犯の心理的な演技のこと)。仲間の兵士たちを追い払った後、南軍兵は改めて少女の顔をまじまじと見つめている。彼が過剰なまでに見つめたのは少女の身に染みついた運動の露呈した「かお」にほかならない。井戸の脇に腰を下ろしひとりで本を読んでいる少女はなにかしら孤独そうでもある。「境界州」の南軍兵ヘンリー・B・ウォルソールは五年後に撮られた「国民の創生」で谷から身を投げたメェ・マーシュの兄を演じている。
★「THE FUGITIVE(逃亡者)」(1910.11.5)~ヒーロー伝説
戦死した息子の帰郷が撮られているこの作品は父親不在の家庭で息子を育てた母親ケート・ブルースが息子を殺した北軍兵を彼の母親を想って匿い、戦争が終わり、北軍兵は母と恋人のもとへ帰ってゆく。新しい恋人を連れてやって来た息子の昔の恋人に母親は微笑みを交えながら接し彼女が置いて行った白い花を亡き息子の軍服の襟に差して映画は終わっている。夫を失い、息子と「娘」を失ったこの母親は「ジョン」を母親のもとへ返したヒーローであり1910年、グリフィスはエモーショナルな運動においてフィルモグラフィーにおける頂点を迎えている。
■帰郷の物語が撮られているのは以下の作品である。
「AS IT IS LIFE(人生であるように)」(1910 4.9)
「不変の海(The Unchanging sea)」(1910.5.7)
「IN LIFE‘S CICLE(人生の輪の中で)」(1910.9.17)
「THE MODERN PRODIGAL(現代の放蕩息子)」(1910.9.3)、
「THE FUGITIVE(逃亡者)」(1910.11.5)
★「不変の海(The Unchanging sea)」(1910.5.7)
「LINES OF WHITE ON A SULLEN SEA(暗い海の白い線)」(1909.10.30)では帰ってこない婚約者をひたすら浜辺で待ち続けた女は男の浮気という悲痛な帰郷の物語によって死んでいくがこの作品では待ち続けた夫が記憶を回復して帰って来る。人が帰って来る帰郷の物語は直前に「AS IT IS LIFE(人生であるように)」(1910 4.9)でも撮られているが帰って来ることそれ自体がエモーショナルに撮られたのは「THE SLAVE(奴隷)」(1909.7.21)以来となる。「暗い海の白い線」では父親不在の1人の女がひたすら婚約者の帰りを待ち続けているのに対してここではひたすら夫を待ち続ける妻に子供が生まれ成長し結婚して家を出て行くまでの長い時間が、漂流し記憶を失った夫の時間と平行モンタージュで交錯され、風に包まれた砂浜や家の前が同じ構図で撮られることで時の経過と停止がフィルムに焼き付けられながら、生まれた娘(メアリー・ピックフォード)には父親がいないという父親の不在の物語が後発的に発生し、成長し結婚した娘が家を出て行くときに涙を流し母親もエプロンに顔に埋めて泣いているとき母の手一つで育てられた娘の不可視の主題が可視化され、多くの過剰な視覚的細部がひとつになりながら、エプロンの風に揺れる浜辺でいつものように夫の帰りを待ち続けている妻のもとへ記憶を回復した夫が白髪となって現れる。その瞬間、妻の握りしめていたエプロンが不意に放たれ風に揺れ始める。
■照明(視覚的細部表参照)
1909年に比べて心なしか光の効果が減少しているようにも見える。「A FLASH OF LIGHT(閃光)」(1910.7.23)、「THE HOUSE WITH CLOSED SHUTTERS(シャッターの閉ざされた家)」(1910.8.13)では外から強烈な光が差し込むということが撮られているが照明によって何かを語ろうとする傾向は弱まっているようにも見える。1911年の検討に譲ろう。
■風(視覚的細部表参照)
「IN LIFE‘S CICLE(人生の輪の中で)」(1910.9.17)で故意に木々を揺らしているように見えるシーンもあり「THE MODERN PRODIGAL(現代の放蕩息子)」(1910.9.3)では画面の手間に木の葉をなめたりもしており風における姿勢は強まっているようにも見える。
■孤児
「RAMONA(ラモナ)」(1910.5.28)
「A Child Of The Ghetto(ゲットーの子供)」(1910.6.6)
■母親の不在
「As It Is In Life (人生であるように)」(2010 4.9)言及あり
「IN LIFE‘S CICLE(人生の輪の中で)」(1910.9.17)、
「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)」(1910/1911.1.7)父が意にそぐわない結婚を娘に押し付ける
「THE LESSON(教訓)」(1910.12.24)
■父親の不在
「不変の海(The Unchanging sea)」(1910.5.7)、
「Over Silent Paths(静かな道を超えて)」(1910.5.21)
「WILFUL PEGGY(わがままペギー)」(1910.10.23)、
「Rose O'Salem Town(ローズ・オ・セーラム・タウン)」(1910.10.1)
「THE FUGITIVE(逃亡者)」(1910.11.5)
★母親の不在、父親の不在という主題は多くの場合映画の中で言及されることはなくまた不在という不可視の細部としてあることからそれが現在の運動によって可視化される時エモーショナルな画面を創り出すことにもなる。母親の死から始まる「AS IT IS LIFE(人生であるように)」(1910 4.9)は母親代わりの父親が再婚を断念して娘を育て、時が経ち、結婚して家を出てしまった娘が帰って来るという細部がやや唐突ではありながら帰郷のエモーションを秘めているが「IN LIFE‘S CICLE(人生の輪の中で)」(1910.9.17)では子供たちによって3回にわたって反復される母親の墓参りという過剰な細部によって視覚化される母親の不在という不可視の主題が家を出た娘を再び故郷に呼び寄せ家族が絆を取り戻す帰郷の物語としてエモーショナルに可視化されている。「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)」(1910/1911.1.7)では母親(妻)不在の父親が娘の意にそぐわない結婚を押し付けるという運動に母親代わりの父親による無骨な娘への愛情が可視化され「不変の海(The Unchanging sea)」(1910.5.7)では父親代わりの母親によって育てられ娘が結婚して家を出て行くときに涙を流す姿に父親の不在という不可視の主題が視覚化されており「WILFUL PEGGY(わがままペギー)」(1910.10.23)では父親によって育てられた男勝りの娘の「父親捜し」のようにも見られる跳梁が可視化されている。
★「THE LESSON(教訓)」(1910.12.24)
母親不在で息子と娘をもつ老牧師W・クリスティー・ミラーが臨終の間際に酒浸りで罪を犯した息子へみずからの祭服を授けるとそれまで冷ややかにその場を取り繕っていた息子は一瞬でその表情を変化させ父親にすがりついている。父親は死に、兄が逮捕され、祭服を医者から渡された妹はじっとそれをみつめながら映画は終わっている。妹が父親の祭服のほこりを刷毛で払っているシーンから始まるこの作品はすべてが不可視の想像でありながら「刷毛でほこりを払う」という運動とラストシーンで妹がその礼服を手にするという現前している運動が、ひょっとすると妹は祭服のほこりを払う役目を母親から受け継いでいだのかも知れないという想像を投げかけている(ひょっとしてラストシーンはもう少し長いのかもしれない)。
■追っかけ
「THE TWO BROTHERS(2人の兄弟)」(1910.5.14)
「THE HOUSE WITH CLOSED SHUTTERS(シャッターの閉ざされた家)」(1910.8.13)
「追っかけ」は風前の灯火、その時代は終わりを告げようとしている。ここで「追っかけ」とは1ショットの中で逃げる者と追う者とが1分くらいかけて延々撮られるシーンを差し、数秒でリズムよく撮られているものは基本的に「追っかけ」には入らない。そういう意味においてはこの2作品の追っかけは追う者たちと追われる者との距離を示すための同一画面というべきものでありもはや延々と1ショットで撮られる「追っかけ」ではない。
■追っかけ平行モンタージュ
「WHAT THE DAISY SAID(雛菊はなんといった?)」(1910.7.16)
「THE OATH AND THE MAN(誓いと男)」(1910.9.24)
「THE FUGITIVE(逃亡者)」(1910.11.5)
「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)」(1910/1911.1.7)
1909年に登場した追っかけ平行モンタージュは「追っかけ」後の追跡運動における基本となってゆくだろう。
■キャメラの横を通り過ぎることの増加
「追っかけ」=ショット内モンタージュ=と融合していたキャメラの横を通り過ぎる運動は「追っかけ」の衰退にも拘わらず勢いを増している。現代映画においてもキャメラの横を通り過ぎることは日常的に撮られていることから当然と言えば当然だが、なぜ原初的に見える「追っかけ」は衰退し同じく原初的に見えるキャメラの横を通り過ぎることは勢いを増していくのか。ここにはショット内モンタージュというリュミエールから延々と続いている運動が現れており「THE OATH AND THE MAN(誓いと男)」(1910.9.24)「THE GOLDEN SUPPER(黄金の晩餐)」(2010.12.17)などにも現れているようにキャメラへの接近を極めることでクローズアップへと発展してゆく過程ともなり得ている。
★平行モンタージュは根付いたか
年初に撮られた「THE ROCKEY ROAD(いばらの道)」(1910.1.8)以外のすべての作品で平行モンタージュが撮られており中には原初的なものも撮られているが中盤あたりから多くの作品で多用されるようになり既に根付いていることに変わりはない。1シーン1ショットを編集で繋げれば実現することのできる平行モンタージュは1シーン1ショットの原初的な世界において真っ先に根付くことができている。これによってモーションピクチャーは時系列の限界を超えた時間の拡がりを手にしている。
★「不変の海(The Unchanging sea)」(1910.5.7)
遭難して島に流れついた夫と彼を待ち続ける妻とが8回ほど交互にモンタージュされている。男は少しずつ年を取り、妻には赤ん坊が産まれ、少女になり、成長し、結婚する。長い時間を平行して撮られたモンタージュは娘の成長に合わせて時系列に撮られているようでありながら、平行する夫のモンタージュとの具体的な時間の前後関係の不在によって妻の時間は分節化されることなく常に夫の時間と共有されている。ここにおいて平行モンタージュはひとつの完成に接近している。
★報われないクロス・カッティング
救出のクロス・カッティングは「国民の創生(THE BIRTH OF A NATHION)」(1915.3.3)であれ「イントレランス(INTOLERANCE)」(1916.9.5)であれそれによって無事救出されることが普通のように思われるがこの年グリフィスは以下の作品で救出に向かった者たちの救出が意味をなさないという現象を撮っている。
「FAITHFUL(誠実)」(1910.3.26)
「iN THE BORDWE STATES(境界州で)」(1910.6.18)
「THE CALL TO ARMS(軍隊への招集)」(1910.7.30)
「WILFUL PEGGY(わがままペギー)」(1910.10.23)
これらはすべて救出される側が自力で難を免れていてその結果として救出する者たちの行為が意味をなさなくなるのだからハッピーエンドであることに変わりはないが、この事実はクロス・カッティングとは必ずしも救出隊によって救出がなされることは必要でないことが示されておりクロス・カッティングの結果よりも過程を重視するこのあり方は結果よりもサスペンス(過程)が優先されていることのひとつの証としてある。マノエル・ド・オリヴェイラ「永遠(とわ)の語らい(UM FILME FALADO)」(2003)では終盤、救出が無に終わり船が爆発してしまう報われないクロス・カッティングが撮られていてそれについて私は2006年に書かれた批評で同じく報われないサスペンス(クロス・カッティングではない)が撮られているヒッチコック「サボタージュ(SABOTAGE)」(1936.12.2)を引き合いに出しながら『映画公式への反逆』と断じているが(「永遠(とわ)の語らい(UM FILME FALADO)」(2003))、反逆どころか実際はグリフィスもオリヴェイラもクロス・カッティングによりサスペンスの過程を撮っているのでありただ結果がハッピーエンドかバッドエンドかの違いに過ぎない。
★寄り、カッティング・イン・アクション
寄り、カッティング・イン・アクションは進化する気配を見せておらず近代的切り返しの前提となるキャメラを寄ることも含めて撮られているのは「WINNING BACK HIS LOVE(彼の愛を取り戻す)」(1910.12.31)しかない。この寄りは、カーテンさえなければ近代的切り返しに接近した寄りになるのだが(横長の空間なので厳密には近代的切り返しとはならない)カーテンがあるために横長の空間は仕切られて二間続きの部屋となり原初的二間続きの切り返しとなってしまっている。
■切り返し
切り返し(原初的音声空間の切り返しと原初的二間続きの切り返しを除く)は15作品撮られている。数字は切り返しの番号。①なら切り返し①のこと
「FAITHFUL(誠実)」(1910.3.26)①ロケーション
「THE TWO BROTHERS(2人の兄弟)」(1910.5.14)①ロケーション
「A Child Of The Ghetto(ゲットーの子供)」(1910.6.6)②ロケーション
「iN THE BORDWE STATES(境界州で)(1910.6.18)①ロケーション
「THE CALL TO ARMS(軍隊への招集)」(1910.7.30)①ロケーション、切り返し②③窓空間と見つめ合う視線の切り返しの「起源」
「AN ALCADIAN MAID(アルカディアのメイド)」(1910.8.6)①ロケーション
「THE HOUSE WITH CLOSED SHUTTERS(シャッターの閉ざされた家)」(1910.8.13)④室内と室外
「THE SORROWS OF UNFAITHFUL(不誠実の悲しみ)」(1910.8.27)①原初的主観ショット、②窓空間主観ショット
「WILFUL PEGGY(わがままペギー)」(1910.10.23)①②室内と室外
「THE MODERN PRODIGAL(現代の放蕩息子)」(1910.9.3)①②④⑤ロケーション
「Rose O’Salem Town(ローズ・オ・セーラム・タウン)」(1910.10.1) ②ロケーション
「THE OATH AND THE MAN(誓いと男)」(1910.9.24)③ロケーション④室内と室外
「THAT CHINK AT GOLDEN GULCH(黄金渓谷のあのチンク)」(1910.10.15)①ロケーション②原初的主観ショット、ロケーション、③④室内と室外
「THE GOLDEN SUPPER(黄金の晩餐)」(2010.12.17)①ロケーション②主観ショット、ロケーション
「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)」(1910/1911.1.7)①②⑤⑥ロケーション、④⑧は窓空間であり見つめ合う視線の切り返し、⑨窓空間、⑪鍵穴による覗き見、室内、⑬ロケーション、見つめ合う視線の切り返し
1909年には存在した舞台と観客席、上下の切り返し、などを含めて室内同士の切り返しは「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)」(1910/1911.1.7)における切り返し⑪鍵穴による切り返ししか撮られていない。室内を関係させて切り返しを撮るには一方を室外に設定する窓空間か、開けられた玄関のドアなどを通した室内と室外によることしか方法がなく進化は見られていない。室内にキャメラを切り込むことで撮られる近代的切り返しは当然のように1ショットも撮られておらず窓空間、室内と室外、ロケーションにおける切り返しも未だ場所的不明確性と「見ること」の不明確性によって原初的な域を出ていない。特にロケーションにおいては場所的関係が不明確な原初的切り返しが未だ多く撮られており(場所的不明確性)、狭すぎる室内と広すぎる屋外との狭間で未だ切り返しは原初的地平を彷徨っている。
★「WINNING BACK HIS LOVE(彼の愛を取り戻す)」(1910.12.31)
そうした1室内における不自由な傾向を指し示すシーンがこの作品の切り返し①に撮られている。ここではレストランの大きな横長の一室で隣同士のテーブルに座った2人(妻とその友人)と隣の2人(夫と浮気相手)とのあいだをわざわざカーテンで仕切って二部屋に分断しまず右側の仕切られた部屋にキャメラがカッティング・イン・アクション気味に寄ってから左の2人のテーブルへの切り返し(原初的音声空間の切り返し)が撮られている。この「カーテンを挟む」という傾向は「The Sealed room(封印された部屋)」(1909.9.4)①、1911年になって「Heart Beats of Long Ago(昔の心の鼓動)」(1911.2.11)①、「THE ROSE OF KENTUCKY(ケンタッキーのバラ)」(1911.8.26)②③、「THROUGH DARKNED VALES(暗い谷を越えて)」(1911.11.11)①「THE FAILURE(失敗)」(1911.12.2)の①、「LENA AND THE GEESE(レナと鵞鳥(ガチョウ)」(1912.6.15)の⑥、「ピッグアレイの銃士たち(THE MUSKETEERS OF PIG ALLEY)」(1912.10.26)の②、「死のマラソン(DEATH’S MARATHON)」(1913.6.7)の仕切り、などによって引き続き撮られている。「彼の愛を取り戻す)」の切り返し①に指し示されているのは二間ほどの横に伸びた一つの空間に2つのテーブルが置いてあり、そのまま切り返せば室内空間における切り返しを撮ることが可能でありながら敢えてカーテンで仕切って二間続きにしてから原初的な切り返しを撮ってしまう傾向であり、室内空間における部屋と部屋とのあいだにおける不自由さを指し示す不思議な出来事がここに見られている。浮気を盗み見したり盗み聞きするという設定なのでカーテンで仕切らざるを得ないのはわかるが、平行モンタージュの場合、平行モンタージュを撮るために物語が考案されそれによって平行モンタージュが進化してきた経緯があるのに対してここには切り返しを撮るために物語を考案するという発想がない。敢えてカーテンにするのはおそらく二間続きの場合のドアよりもより音声が「聞こえやすい」というのと正面から撮るのでドアは開いているのか閉まっているのか見えにくく、その点カーテンならカーテンをめくる、という行為によって視線が通じていることを示しやすいというのがあるのかも知れない。どちらにしても1室内に置いて切り返し(近代的切り返し)を撮ることが出来ないキャメラの限界がこのような苦肉の策を生み出しているのであり1室の中にキャメラが「寄り」によって入ることができないことが前提とされているので何をやっても原初的となってしまう。
★見つめ合う視線の切り返しは
「iN THE BORDWE STATES(境界州で)」(1910.6.18)①ロケーション
「THE CALL TO ARMS(軍隊への招集)」(1910.7.30)②③窓空間の「起源」
「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)」(1910/1911.1.7)④⑧⑬窓空間、ロケーション
となっている。「軍隊への招集」切り返し②では室内からもう一方を外へ広げる窓空間により見つめ合う視線の切り返しが初めて撮られているが(「起源」)、それ以外はロケーションであり、近代的切り返しはもとより二間続きの部屋同士の切り返し(原初的二間続きの切り返し)においても見つめ合う視線の切り返しは撮られていない。
★進化
だが、原初的を含めて実際に撮られている切り返しの数を見てみると(切り返し・平行モンタージュ表における一番左の数字)
1909年→7 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 2 0 0 0 0 8 0 0 1 0 2 0 0 0 0 0 0 10 0 0 1 0 1 5 4 0 0 1 0 6 5 1 0 0 3 0 1 0 2 1 0 2 0 3 9 0
1910年→3 8 0 1 0 0 5 1 1 0 8 16 3 14 ? 4 1 11 16 3 5 2 5 2 8 9 5 7 3 44 5 13
と、劇的に増加している。ということは、切り返しは未だ原初的ではあるもののチャレンジする機会は増えていることになる。
★「THE MODERN PRODIGAL(現代の放蕩息子)」(1910.9.3)
切り返し②は狙いを定めて発砲する警官アルフレッド・パジェットの瞳と視線を近景からはっきり捉えた切り返しであり、見つめ合ってはいないもののこれまでの切り返しとは明らかに異質の視線のショットが撮られている。さらに「THE SORROWS OF UNFAITHFUL(不誠実の悲しみ)」(1910.8.27)と「THAT CHINK AT GOLDEN GULCH(黄金渓谷のあのチンク)」(1910.10.15)では初めて主観ショットがロケーションにおいて撮られ後者では「見ること」と「見たこと」がよりはっきりと撮られている。それまでは窓空間か、室内と室外でしか「見ること」と「見たこと」を撮ることが出来なかった主観ショットがロケーションにおいて撮ることが出来るようになっている。ロケーションにおいては場所的関係が不明確な原初的切り返しが未だ多く撮られているがそれを打開するために何よりも求められる「見ること」が撮られ始めている。
★「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)」(1910/1911.1.7)
ここでは一気に13箇所44ショットの切り返しが撮られている。切り返し④⑦⑧では窓空間によって室内から外へと視線を拡げることが繰り返され⑧では『分断』を際立たせる方法である成瀬目線がグリフィス映画で初めて撮られ(「起源」)、⑨では「石を投げる」という行為が窓空間を通じて撮られている。石は実際には投げられておらずゼスチャーだけだがここには狭い室内で閉塞している空間を窓の外へと繋げることでなんとしてでもコミュニケーション空間を拡げたいという欲求を見出すことができる。
★ショット数
「MUGGSY‘S FIRST SWEETHERT(マグシーの最初の恋人)」(2010.7.2)では1ショット10秒となり「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)」(1910/1911.1.7)では1ショット9秒と、初めて10秒の壁を破っている。後者では44ショットも撮られた切り返しとこの年になって多用される平行モンタージュの活用が両者にリズムとスピードを生み出している。クローズアップもカッティング・イン・アクションもないこの時期に平行モンタージュと切り返しによってモーションピクチャーのリズムとスピードが生まれている。
1911年に起きていること
■「His Trust(彼の信頼)」(1911.1.2)
●主観ショット
切り返し⑤と⑥においてロケーションの主観ショットが「見ること」と「見たこと」を交えて撮られている。1910年「THE SORROWS OF UNFAITHFUL(不誠実の悲しみ)」(1910.8.27)と「THAT CHINK AT GOLDEN GULCH(黄金渓谷のあのチンク)」(1910.10.15)で初めて撮られたロケーションにおける主観ショットが年度の始めからいきなり撮られている。
■「HIS TRUST FULFILLED(彼の信頼は満たされた)」(1911.1.21)
★長編
この後編は前編に比べると相当にレヴェルが落ちている。既に前編で語り尽くされていることを長編にするためもう一度重ねて語り直していることから物語が単調な善悪対比になり、金に汚かった弁護士が最後にいきなり善人になって黒人召使いの共感者になったり(1-B)、ヒーローであるはずの黒人召使が突然盗みを働いいたりという初犯の映画になり常習犯のみに醸し出すことのできるヒーローのエモーションが失われている。
■「われわれはわれらの老人と何をすべきか(WHST SHALL WE DO WITH OUR OLD?)」(1911.2.
★膝上 この作品あたりから通常のショットがそれまでのフルショットくらいから人物の膝上くらいまで接近するようになる。
■「Heart Beats of Long Ago(昔の心の鼓動)」(1911.2.11)
●切り返し
この作品は二間続きの部屋と密室の3つの空間によって撮られている。その3部屋は正面から撮られ、二間続きの部屋は仕切りが良く見えず、カーテンによって仕切られているようだがその隙間から隣室が見えているのか、それとも見えてはいないが気配を感じているのか、それとも声が聞こえるのか、どちらにしても隣室とのコミュニケーションの態様が不明確なこの切り返しは原初的であり、ここでは音声、気配における原初的切り返しが23ショットとして検討する(原初的音声空間の切り返しと原初的二間続きの切り返し)。そもそも何故これをドアではなくカーテンにしたのか。「WINNING BACK HIS LOVE(彼の愛を取り戻す)」(1910.12.31)でも検討したがドアに比べてカーテンの方が見る、聞く、ことにおいて柔軟性があるからかも知れない。だが二間続きの部屋と視線の関係の困惑において変わることはない。
■「女の叫び(LONEDELE OPERATOR)」(1911.3.15)
★近代的寄りの「起源」
強盗に気づいたブランチ・スウィートが椅子に座り電信で助けを呼ぶ瞬間、キャメラが彼女のウエスト・ショットまでカッティング・イン・アクション気味に寄っている。近代的切り返しとは室内の一角にキャメラが入り込みそれによって余った空間へとキャメラを切り返すことであるが『近代的寄り』とは近代的切り返しをおこなう前提としての室内空間における「寄り」でありそれによって同じ一室に切り返すことのできる空間を作ることができる。このブランチ・スウィートへの寄りはほぼ1室の左半分へと大きく寄っておりそのまま右の余った空間へと切り返すことが可能であることから近代的寄りとなる。このウエスト・ショットの近代的寄りは寄る瞬間の撮られていないショットを含めて9ショット撮られている。今後、寄る瞬間の撮られていない寄りのショットを『寄る✕』と定義して検討する(少々おかしな定義だが昔からずっとこのように定義をしていたのでお許し願いたい)。キャメラが基本的に膝上くらいまで接近し始めていることに呼応しさらなる接近をもたらしている。
●主観ショットと見つめ合う視線の切り返しの融合
切り返し①では通信室の娘と汽車で出発する恋人との切り返しが窓を通して撮られている。娘は彼を見つけて窓辺で手を振り走り去ってゆく汽車の機関室から顔を出した彼もまた手を振り返し娘は投げキッスを返す。窓空間の切り返しであり主観ショットでもあり見つめ合う視線の切り返しでもある。前年「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)」(1910/1911.1.7)の切り返し④⑧において窓空間における主観ショットでかつ見つめ合う視線の切り返しが撮られているがここでは一方を走り去る汽車に設定することでよりエモーショナルな視線の投げ合いが撮られている。
★見つめ合う視線の切り返しは主観ショットか
切り返し①は見つめ合う視線の切り返しだがこれは主観ショットか。「見ること」と「見たこと」の撮られている切り返しをすべて主観ショットとすると見つめ合う視線の切り返しも主観ショットになるのではないかという問題がある。主観ショットとは基本的には一方的な視線によって他の人物や物体を見たり盗み見たりすることであり双方の視線によって切り返される場合、キャメラを正面から見据えるショットで切り返されれば見つめ合う視線の切り返しも主観ショットとなり得るがそうではない場合は主観ショットではないとし、さらなる状況が出現する時にはその示度指摘し検討することとする。
★1ショット9秒
1ショット10秒の壁を破ったのは「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)」(1910/1911.1.7)が最初でありそこでは『スムーズな平行モンタージュと切り返しがリズムを生みショットのスピードを早めてている。』と書いたが、この作品ではそれに加えて汽車で恋人が救援に向かう時、疾走する汽車の外景と機関室を複数のショットで撮ることでリズムを加速させ(1シーン数ショット)、強盗、娘、救出組、の3者を高速でクロス・カッティングさせることでさらなるスピードをもたらしている。リリアン・ギッシュはその自伝で、クロス・カッティングのショット毎に長さを短くしたこと、前のショットよりも寄った短く意味のある一連のショットを畳みかけたこと、機関車の煙突、汽笛、車輪などを連続させたことで機関車が少女を助けるためにひた走る生き物のように見えたこと、などを指摘し(『リリアン・ギッシュ自伝』80頁)、終盤の早いリズムが近景(機関室のショットも近い)、1シーン数ショット、高速のクロス・カッティング等によるものであることを見事に分析している。
★膝上
「われわれはわれらの老人と何をすべきか(WHST SHALL WE DO WITH OUR OLD?)」(1911.2.18)以来キャメラは基本的に膝上まで接近し始めている。寄ることが室内における近代的切り返しの前提であることからすればキャメラが基本的に膝上あたりまで寄り始めたことは大きな前進として現れている。ここではさらに室内におけるウエスト・ショットが数ショット撮られカッティング・イン・アクションによる寄りも撮られている。ウエスト・ショットまでキャメラが接近できれは室内に余った空間が生まれそこへキャメラを向けることで近代的切り返しが撮れることになる。
■「清き心(ENOCH ARDEN)」(1911.6.17)
「LINES OF WHITE ON A SULLEN SEA(暗い海の白い線)」(1909.10.30)、「不変の海(The Unchanging sea)」(1910.5.7)へと続いてきた『待ち続ける女、リンダ・アーヴィドソン3部作』の3作目であり前後編に分けて封切られた33分の中編である。
★『2人クローズアップ』
船旅に出る夫の首に妻が産まれたばかりの赤ん坊の巻き毛を入れたペンダントを掛けるときに2人並んでバスト・ショットに近いクローズアップに字幕を挟んで寄っている。1人ではなく2人を同時にクローズアップで撮る、これを今後『2人クローズアップ』として検討する。これを定義するのは一人の顔のクローズアップへの過渡期の現象として重要であるばかりか「1人クローズアップ」を撮ることが未だできず「2人」で撮ってしまう忌避の現象を記録しておくためでもある。クローズアップだけでなく「2人バスト・ショット」、「2人ウエスト・ショット」も撮られており、そこには一人の人物に単体でキャメラを寄ることの忌避が現れている。「2人クローズアップ」はキャメラが人物へ接近することにおいてショット内モンタージュとは別経路の進化の過程であり根底における近景への忌避は同じくしながらも違った現象として見てゆくことにする。
★古典的デクパージュ的人物配置
序盤、イーノックとアニーが結婚して新居にやって来たとき、椅子に座っているイーノックと彼に向かって立っているアニーの構図は『古典的デクパージュ的人物配置』の原型であり、ここからさらに外側から切り返されるということはないにしても、 人と人とがひとつの部屋で縦の構図で向かい合うという立体的なショットが撮られている。これまでも人と人とが縦の構図で重なり合うショットは撮られているが2人の人物に特化されて縦に広げられたショットの「起源」となる。ただ、今回の論文ではこれ以上の展開は見られていない。
★カッティング・イン・アクション
終盤、窓の外から新しい家族を見ていた夫が立ち上がる時、動作が重複していないのでカッティング・イン・アクションではないが、立つ→引く、という典型的カッティング・イン・アクションの原初的段階が撮られている。人間は生きて動いていることからカットとカットとをつなげれば当然カッティング・イン・アクションになり初期映画に見られるカッティング・イン・アクションはみなこの進展系としてあるが、典型的カッティング・イン・アクションはそのまた先の進化系であり、立つ・引くというカッティングはその中の一つとしてある。この時期において典型的カッティング・イン・アクションは未だ「起源前」であり当分はそれ以前の通常のカッティング・イン・アクションについての検討となる。
★見えなくなるまで見続けること
『消えゆく帆の最後のかけらが見えなくなるまで』という字幕が入るように、船で出発する夫の船が見えなくなるまで妻は見続けている。その後も2つのシーンにおいて妻は遠く彼方の海を望遠鏡で見続けている。→ジョン・フォード「アパッチ砦(FORT APACHE)」(1948)では出征する夫たちをシャーリー・テンプル、アンナ・リー、アイリーン・リッチの三人の女たちが見えなくなるまでずっと見続けている。
▲平行モンタージュ 妻と無人島の夫、その他で36回平行モンタージュされている。
■「最初の魅惑(THE PRIMAL CALL)」(1911.6.24)
●見つめ合う視線の切り返し
切り返し⑥では、婚約者を殴って娘をさらったあと、走り出してから振り向いた猟師ウィルフレッド・ルーカスと娘クレア・マクドウエルとのあいだが同一画面に挟まれた3ショット内側から切り返されている。やや斜めから撮られた猟師のバスト・ショットと娘のウエスト・ショットとのあいだの極めてスピーディな切り返しは振り向きざまに見つめ合う視線によって高揚するエモーションがモーションピクチャーに刻まれた決定的瞬間である(見つめ合う視線の切り返し)。
★振り向くことが撮られている。
■「THE INDIAN BROTHERS(インディアンの兄弟)」(1911.7.13)
★持続による同一存在の錯覚
切り返し③で「THE GIRLS AND DADDY(姉妹とパパ)」(1909.1.30)に次いで持続による同一存在の錯覚が撮られている。同一画面に収められているように見えて時間差で別々に撮られているケースであり、持続する1ショットの中で人が出入りすることによって撮られることからするとその「起源」は「追っかけ」にあるのかも知れない。持続よる同一存在の錯覚は「論文・分断の映画史」において検討しているがこの論文では深入りしない。
★這うこと 人が地面を這うことの「起源」が撮られている。
■「FIGHTING BLOOD(戦う血)」(1911.7.1)
★近代的寄り
7分頃、立て籠もっている狭い一軒家の中のフルショットのあと、ベッドの下に隠れる子供たちへとキャメラが寄り、その後引かれている。フルショットの画面の中に見えていないものの子供たちが隠れたベッドはその一軒家の1室の右奥の同一空間に存在するはずであり、よってこれは切り返しではなく同じ空間への「寄り」であり、その後キャメラが「引かれた」ことになり、切り返しではない。だがその寄りはあの不自由な室内の一角という限られた空間へキャメラが入り込んでの寄りでありそれ自体、近代的切り返しを準備する近代的寄りと評価するに相応しい画期的な出来事としてある。「女の叫び(LONEDELE OPERATOR)」(1911.3.15)の近代的寄りは正面からのバスト・ショットへの寄りであるのに対してここではベッドへ向かって斜めに近景から切り込んで寄っていることにおいて近代的切り返しを準備する寄りとしてはより画期的である。
事件が解決した後、同じように一軒家の中のフルショットからキャメラはベッドの下から出て来る子供たちに寄り(近代的寄り)、引かれている。
▲追っかけ平行モンタージュ ロバート・ハーロンと恋人の乗った馬車がインディアンの追跡から逃げる時、追っかけ平行モンタージュによって撮られている。
■「THE ROSE OF KENTUCKY(ケンタッキーのバラ)」(1911.8.26)
★カーテンと切り返し
ここでも室内における二間続きの部屋の仕切りにカーテンを利用している。
★わざと気づかないことにする
農園に初めて若いパートナーが家にやって来た時、それを知って「若い男よ!」と黒人のメイドと思いきりはしゃいでいる娘マリオン・サンシャインがパートナーのいる部屋に入ったとたん、机に置いてあった本を手に取って「あったわ、これね」と帰ろうとし、農園主から「紹介しよう」と言われて「なんですの? どなた?」、という感じで無関心を装っている。この行動だけで彼女のキャラクターが一発で描かれているがここまで細かい演出をするものかと驚くしかない。「若い男よ!」とあれだけはしゃいでいた娘が部屋に入って来て平然と本を手に取りそのまま帰ろうとする行動に一切の淀みがない。あの机の上に置かれた本は歴史的マクガフィンでもある。→「HIS TRUST FULFILLED(彼の信頼は満たされた)」(1911.1.21)
■「THE REVENUE MAN AND HIS GIRL(税務署員と少女)」(1911.9.23)
★関係を築くこと
A 落として拾うこと
序盤、ドロシー・ウエストが落とした水差しを税務署員が拾うことによって2人の出会いが撮られている。
B 盗み見
落ちて来た鳥を介抱し逃がしてやる税務署員を盗み見することで山の娘は彼を撃つことを断念する。
C ライフルを渡し、渡し返すこと
税務署員を逃がそうとする時、山の娘は彼に自分のライフルを渡すがすぐ彼はライフルを渡し返している。凶器を敢えて相手に渡すことで信頼関係が築かれている。→ハワード・ホークス「エル・ドラド(EL DORADO)」(1966/1967.6.9)では序盤、ロバート・ミッチャムが敵対するジョン・ウェインにライフルを投げ渡し、再びウェインからミッチャムへ投げ返される。ABCを積み重ねることで山の娘と税務署員とのあいだに関係を築かせている。
■「THE SQUAW‘S LOVE(インディアンの女性の恋)」(1911.9.9)
★引く・寄る・俯瞰 1シーン4ショット
女(クレア・マクドウエル)が崖で娘(メイベル・ノーマンド)を川に突き落とす時、キャメラは大きく引かれて崖の全貌を映した後、再び寄り、娘が川に落下する時に再び引く。その後、沈んだ娘の波しぶきを捉えたショットが視点を変えて崖の上から俯瞰で撮られている。崖の上のシーンが1シーン4ショットで撮られている。
■「LOVE IN THE HILLS(丘の愛)」(1911.10.28)
●切り返し
僅か1分強しか見ることのできない中で9ショットの切り返しと見つめ合う視線の切り返しが撮られさらに切り返し②では木陰から顔を出すブランチ・スウィートのバックライトに照らされた風に揺れる髪が喧嘩別れをしたあとふと笑みを浮かべる彼女の鼓動となって画面を揺らしている。「最初の魅惑(THE PRIMAL CALL)」(1911.6.24)切り返し⑥をさらに進めたロケーションにおける見つめ合う視線のエモーショナルな瞬間が撮られている。
■「A WOMAN SCORNED(軽蔑された女)」(1911.11.25)
★近代的寄り・引く・カッティング・イン・アクション
ベッドから駆け下りてきた少女からカッティング・イン・アクションでキャメラが引かれ再びベッドに飛び乗る少女へキャメラがカッティング・イン・アクションで寄っている。実にスピーディなカッティングがなされている。これもまたYouTubeで1分強しか見ることのできないフィルムの中に極めて重要なシーンを見ることが出来る。
■「THE FAILURE(失敗)」(1911.12.2)
●カーテンと切り返し
切り返し①②③でカーテンを挟んだ二間続きの部屋での原初的主観ショットによる原初的二間続きの切り返しまたは原初的音声空間の切り返しがなされている。室内で切り返しが撮られると未だ原初的が連発される。
■「AS IN A LOOKING GLASS(鏡の中の如く)」(1911.12.16)
これもまたYouTubeで1分見ることができるコメディであり、二間続きの部屋を正面からロングショットで二部屋同時に見せることで壁に仕切られた二間続きの部屋の別々の運動を1ショットで見せている。二間続きの部屋同士のコミュニケーションを切り返しではなく同時に撮ってしまっているこのショットには二間続きの部屋に対するあきらめにも似た哀愁すら漂っている。この二間続きの部屋同時撮影は「THE GIRLS AND DADDY(姉妹とパパ)」(1909.1.30)でも成されている。
■「FOR HIS SON(彼の息子のために)」(1911/1912.1.20)
★キャメラを正面から見据えることの「起源」
中盤、父親のチャールズ・ヒル・メイルズがキャメラを正面から見据えながら身振り手振りで力説している。キャメラを正面から見据えるショットは「MONEY MAD(金の亡者)」(1908.12.5)のキャメラの横を通り過ぎる時の過程において既に撮られているがここではキャメラの横を通り過ぎる過程ではなく室内でキャメラをはっきりと正面から見据えながらキャメラに向かって話しており、キャメラを正面から見据えるショットを撮るためのショットが撮られている「起源」となる。
●切り返し①
ドラッグストアの売店とそれを見ている父親とのあいだが3ショット目に同一画面に収められるまで2ショット内側から切り返されているが(原初的主観ショット)、これは連続する1部屋の中で撮られているので近代的切り返しとなるか問題となる。エスタブリッシング・ショットが撮られていないので全体を把握することはできないがこのドラッグストアは通常の1室とは違った横長の空間でありいつもの狭い1室の角にキャメラを食いこませて撮られる近代的切り返しではない。ただ二間続きの部屋でもない。これは二間続きの部屋同士でもそのあいだの仕切りを取り払って1つの横長の空間にすれば室内においても原初的ではない「切り返し」が撮れることを現わしている(原初的主観ショットは室内特有の出来事ではないのでここでは関係ない)。
■「THR TRANCEFORMATION OF MIKE(マイクの改心)」(1911/1912.1.27)
★階段分割による上下の切り返し=見つめ合う視線の切り返し
切り返し⑤⑥では階段を利用して空間を横ではなく上へ広げ、かつ階段を下と上に2つに分割して撮ることによって上と下とを切り返し、室内における原初的ではない切り返しを実現させている(階段分割における上下の切り返しの「起源」)。さらに切り返し⑨では階段上下における見つめ合う視線の切り返しが撮られておりこれは室内における見つめ合う視線の切り返しの「起源」となる。ロケーションにおいてはこの年、一気に切り返しが開花し見つめ合う視線の切り返しも撮られるようになってきているが室内は未だ閉塞状態にあり、ここにはロケーションではなく室内においても切り返しにおけるコミュニケーションの拡大を志す傾向が見られておりこの階段分割による上下の切り返しは室内空間を上へ拡げたことにより室内における切り返しを実現させたことにおいて画期的である。カリフォルニアからニューヨークへ帰って来たグリフィスはここのところ室内劇が続いているが広大なカリフォルニアではなく窮屈で雨降りのニューヨークだからこそ室内劇における階段分割の切り返しが生まれたのかもしない。
★近代的寄り
ギャングのウィルフレッド・ルーカスが娘の家のドアを押し開けようとするときキャメラが部屋の内部へ入り斜めの近景からギャングを5ショット捉えている。「寄り」の瞬間は撮られていない「寄り✕」だが近代的切り返しの前提となる近代的寄りが撮られている。部屋の中にキャメラが入り込むことがある種の忌避としてあるこの時期にドアを叩き割るシーンを近くから撮りたいという欲望がこのようなショットを撮らせているようにも見える。
■「THE SUNBEAM(日光)」(1911/1912.2.24)
●上下の切り返し=見つめ合う視線の切り返し
切り返し③では「THR TRANCEFORMATION OF MIKE(マイクの改心)」(1911/1912.1.27)に続いて階段分割による上下の切り返しが撮られそのどちらもが見つめ合う視線の切り返しとなっている。空間を上下に広げることで可能となった室内空間における切り返しを忘れまいとばかりに反復させている。1911年の終盤になってグリフィスは変則的ではありながら室内空間における切り返しを連続して試みている。
●三間続きの部屋における見つめ合う視線の切り返し
切り返し②ではなんと廊下を挟んだ三間続きの部屋による見つめ合う視線の切り返しが撮られている。アパートの廊下を挟んだ2つの部屋のドアノブ同士をロープで結びつけそれぞれの部屋の住人がドアを無理やり引っ張って開けようとしてロープが切れてドアが開きそこで住人たちの視線と視線が絡み合って見つめ合う視線の切り返しが撮られているのだが、どうしてここに1クッション廊下を挟まなければ見つめ合う視線の切り返しが撮れないのだろう。何も廊下を挟まずともロープが切れてドアが開いてからの3ショットの切り返しでは2人は見つめ合っているのであり、これを二間続きの部屋にそのまま適用すれば二間続きの部屋における見つめ合う視線の切り返しは撮れているはずである。ところがここでは敢えて二間続きの部屋の中間に廊下という1クッションを置いて見つめ合う視線の切り返しが撮られている。ここまでのすべての作品において二間続きの部屋における見つめ合う視線の切り返しは1ショットも撮られておらず、そこに敢えて廊下を挟むことで初めて二間続きの部屋における見つめ合う視線の切り返しが撮れている。二間続きの部屋との部屋のあいだは壁という1本の線によって仕切られているが、そこに廊下という横に伸びた可視的な空間を挟むことで部屋と部屋のあいだ(仕切り)を観客に見えるようにし、それで初めて見つめ合う視線を撮ることが出来る、ということだろうか。そうすると、二間続きの部屋の線的な仕切りが視線の交差を妨げているということになる。この根底には1つの部屋の中にキャメラを入れて近代的切り返しを撮ることができず室内での切り返しは二間続きの部屋同士にならざるを得ないという限界が付きまとうが、どちらにしてもこれは極めて奇妙な現象であり技術的な問題ではなくイマジネーション(忌避)の問題のように見える(現にその後、二間続きの部屋における見つめ合う視線の切り返しは撮られている)。
1911年を振り返る
■人間運動・巻き込まれ運動表を提示する。
人間運動29本、巻き込まれ運動1本となる。1911年の段階で巻き込まれ運動はひとつの絶滅を迎えつつあり「The Curtain Pole(カーテンポール)」(1908/1909.2.13)のような巻き込まれ運動の「追っかけ障害物競走」などは失われている。これはグリフィスだけに限ったことなのか、それとも映画界全体にも何らかの変化が現れているのか、次回以降の論文での検討に譲ることにする。
■改心表を提示する。
これを見ると2-Aがまったく撮られなくなっている。ペンダントとか人形とかの分離した物体を見たり触ったりして改心するシーンが撮られなくなっている。ショールを赤ん坊に見立てて抱いたりすることは長編の時代になっても撮られていることからして分離そのものが撮られなくなるわけではないにしても改心に分離物という物の1クッションが入らなくなっているのはこの1911年の特徴として現れている。
★「清き心(ENOCH ARDEN)」(1911.6.17)~主観ショットで見ること
帰って来ない夫を妻が浜辺でひたすら待ち続けることの映画3部作の1本であるこの作品では終盤、帰って来た夫が再婚した妻の新しい家庭を窓の外から盗み見て身を引くというシーンが切り返し③で撮られている。原初的主観ショットの体裁で撮られているこのシーンは1ショットではなく切り返しによる主観ショットの連鎖によって改心を生じた「起源」であり、こうした出来事は1911年において「THE ROSE OF KENTUCKY(ケンタッキーのバラ)」(1911.8.26)の切り返し③④のカーテンの陰からの盗み見で計6ショット、「THE REVENUE MAN AND HIS GIRL(税務署員と少女)」(1911.9.23)の切り返し③における鳥を介抱する税務署員を娘が木陰からする盗み見の10ショット、「THROUGH DARKNED VALES(暗い谷を越えて)」(1911.11.11)のラストシーンの切り返し②における窓空間を介した(原初的)主観ショットの7ショット、「THE FAILURE(失敗)」(1911.12.2)の切り返し③の窓空間の盗み見の3ショット、などによっても反復されている。これらはすべて(原初的)主観ショットにおける盗み見であり、見られている出来事に多かれ少なかれ意味が込められていることから成瀬己喜男的窃視であれば「物語的窃視」ということになるのだが「裸の窃視」の撮られることのない欧米系の映画ではこうした「物語的窃視」が「裸の窃視」の感覚で撮られていることから、そうした「ナマ」の表情なり仕草なりの過剰を反復される切り返しによって『まじまじと見つめること』による衝動によって改心することが撮られている(意味を読み取るだけの盗み見ならば多くの切り返しによってまじまじと見つめることはない)。1911年以前に主観ショットによる盗み見の切り返しで改心の生じた作品は「THE VOICE OF THE VIOLIN(バイオリンの声)」(1909.3.13)と「SWEET AND TWENTY(美しい二十歳)」(1909.7.17)の2作品であり、どちらも盗み見に費やされているのは2ショットだけであるのに対して1911年における改心と盗み見のショット数は激増しており盗み見による改心はより見ることによる衝動を増して撮られるようになっている。切り返しそのものを改心に応用するこの傾向は切り返しが日常的に撮られるようになってこそ可能であり1911年を象徴する出来事として現れている。
★「THROUGH DARKNED VALES(暗い谷を越えて)」(1911.11.11)
想いを寄せる女(ブランチ・スウィート)の目の手術のためにみずからの目の手術代を彼女に託した盲目の男(チャールズ・ウェスト)がラストシーンで荒涼とした風の吹き荒れる長い路地でほうきを担いで歩いて来る。それを窓際に座った女が窓から7ショットの(原初的)主観ショットによってまじまじと見つめたあと歓喜して立ち上がり走ってキャメラの横を通り過ぎ男のもとへ走り寄っている。ここで窓空間の主観ショットによって「見ること」をしているブランチ・スウィートは自分の見ていることが信じられず目をこすってからもう一度見直している。手術をして「見ること」のできるようになった女がもう一度目をこすってから「見ること」を繰り返すこのシーンには見ることにはすべてを変えさせる力がありラストシーンはこれだけでいいというグリフィスの過剰なまでの「見ること」への衝動が込められている。
★「THE BATTLE(戦い)」(1911.11.14)
戦地から恐怖で逃げ出した北軍兵の少年が再び戦地へ戻って戦功をあげるこの作品では、少年がどこで改心したのかその区切りが撮られていない。恋人の家へ逃げ帰った少年は恋人に叱咤されたあげくに笑われて窓から逃げ出し、戦場へ戻ったものの戦死する仲間たちを見て怯えて逃げ出し、また戦地へ戻る、を繰り返していて改心という区切りの出来事がフィルムに収められていない。おそらくこれはなだらかな少年の成長物語として撮られているようであり、それまでの区切りのある改心の物語とは異質の作品として撮られている。少年は改心したのではなく成長したのであり(3-A)そのしなやかな撮り方によってメロドラマに力を与えている。
→「勇者の赤いバッヂ(The RED BADGE OF COURAGE)」(1951.10.11)
同じく戦場から逃亡した北軍の青年がその後戦場へ戻って戦功をあげるジョン・ヒューストン「勇者の赤いバッヂ」(製作ドーリー・シャリー)では主人公のオーディ・マーフィが『北軍の疾病兵たちの行列に遭遇し自分の臆病さを恥じて連隊に戻る決意をする』というような解説をよく目にするが、確かに彼は逃亡後、疾病兵たちに出くわしそこで再会した戦友のジョン・ダイアークスの壮絶な死に様を見て何かしらの変化はあったとしても、その後、逃げてゆく北軍兵のライフルで頭を殴られ気を失ったところをたまたま通りかかった北軍のアンディ・ディバインに助けられ陣地まで案内されて連隊に「戻された」のであり、そこでも殴られた頭の傷を『撃たれた』と嘘をつき、その嘘によって「赤いバッヂ」という撃たれた時にできる傷跡に例えられた名誉の傷を得て戦闘に参加し勇敢に戦ったというだけのことで『自分の臆病さを恥じて連隊に戻る決意をする』わけではない。彼はその戦功によって周囲から英雄扱いされるが臆病と勇敢との境界を経験していない彼にはそうした扱いを受け容れられず戦友には脱走したことを告白している。これもまたグリフィスの「THE BATTLE(戦い)」と同じようなひとりの青年の成長物語であり臆病と勇敢とに明確に境界を引くメロドラマとしては撮られておらず改心などしていないような撮られ方をしている。ちなみにこの作品はこの時代には珍しく『古典的デクパージュ的外側からの切り返し』が1ショットも撮られておらずハリウッド映画的な撮り方から距離が置かれている。
★3-A
1911年も終盤に差し掛かって来ると改心しているのかいないのか微妙な作品が増えて来る。「THE MISER‘S HEART(守銭奴の心)」(1911.11.18)では守銭奴のアドルフ・レスティーナが最後に少女の母親に援助を申し出るという改心をしているが彼は最初から少女に対して意地悪な態度を撮っていたわけではなく、泥棒のライオネル・バリモアにしても「泥棒が少女を助ける」という一見、悪から善への転換のように見えながらその人格はまったく変わっていないように撮られている。「THE FAILURE(失敗)」(1911.12.2)と「THR TRANCEFORMATION OF MIKE(マイクの改心)」(1911/1912.1.27)で主演しているウィルフレッド・ルーカスはどちらもいい加減な男とギャングを貫き通していて改心しているようでその人格に齟齬を生じているようには撮られていない。特に「マイクの改心」におけるギャングのウィルフレッド・ルーカスは強盗に押し入った家の娘が知り合いの娘だったことで金を返して去るという改心のようなことをしていながらも彼がギャングから足を洗うようなシーンは撮られておらずおそらく彼はこれからもギャングであり続けるだろうというラストシーンが撮られている。情けない男は最後まで情けない男でありギャングはギャングであり、しかもそこにはどんな理由もないとしたら、、、改心が分離から離れ、見ること、触れること、という五感の作用へと移行してゆくのと並行しそもそも改心があったかすらわからない人格的同一性の現象はどちらも運動が常習性を強めていることの証としてある。
■常習犯のエモーションを醸し出す作品として以下がひとまず挙げられる
「His Trust(彼の信頼)」(1911.1.2)
「清き心(ENOCH ARDEN)」(1911.6.17)
「FIGHTING BLOOD(戦う血)」(1911.7.1)勘当される
「THE LAST DROP OF WATER(最後の一滴)」(1911.7.22)酒浸りで妻に暴力
「SWORDS AND HEARTS(剣と心)」(1911.9.2)聖女伝説
「THE REVENUE MAN AND HIS GIRL(税務署員と少女)」(1911.9.23)それでもなおかつ谷に降りる
「SAVED FROM HIMSELF(彼自身から救われる)」(1911.12.9)
「THROUGH DARKNED VALES(暗い谷を越えて)」(1911.11.11)
「THE SUNBEAM(日光)」(1911/1912.2.24)
■ヒーロー・聖女伝説
★「His Trust(彼の信頼)」(1911.1.2)
戦争へと出征する主人から家族を頼むと託された黒人召使は敵兵に焼かれ燃え盛る家の中から躊躇することなく主人の娘を助け出し主人の形見であるサーベルを取り出したあと家を失った主人の妻と娘に自分の家をあてがいみずからは一人で家の外に毛布を敷いて眠っている。黒人召使という人種的境遇と主人との約束という誰にも口外しないプライベートな出来事によって為される彼の「約束を守ること」という行動は英雄的であればあるほど、身に染みついていればいるほど、孤独さに包まれてゆく。約束を頭で考え守る人間はいくらでもいが約束を身に染みついた行動で守る人間はどこにいない。彼は貴種であり、孤独であり、ヒーローとして撮られている。
★「FIGHTING BLOOD(戦う血)」(1911.7.1)
家族に厳しい軍事訓練を課す父親ジョージ・ニコルズから軟弱者と勘当された息子ロバート・ハーロンがインディアンを倒しながら救援を呼びインディアンに襲われている父親と家族を救出する物語であり、父親に勘当されるというすねに傷を持つ男がヒーローとなって帰って来る帰郷の物語でもある。すねに傷を持つ男はその原型が撮られている「THE TWO BROTHERS(2人の兄弟)」(1910.5.14)の弟が勘当された男であったようにロバート・ハーロンもひとりでインディアンと闘い救援を呼びに向かっている。家族たちの立て籠もる一軒家をロングショットの俯瞰から撮りながら救出に向かうロバート・ハーロンをクロス・カッティングで交差させる救出劇は「エルダーブッシュ峡谷の戦い(THE BATTLE AT ELDERBUSH GULCH)」(1913/1914.3.8)へと続いている。
★「THE LAST DROP OF WATER(最後の一滴)」(1911.7.22)
酒浸りで妻に暴力をふるうジョンは砂漠の生死を分ける場面で恋敵であったジムに水を飲ませてから死に、ジョンの妻は夫の死に打ちひしがれている。しかしこの短編の中には男同士の友情、夫婦の愛情のシーンはひとつも撮られておらず、恋のライバルから娘を奪うこと、酒浸りの夫が妻に暴力をふるうことしか撮られていない。砂漠の生死を分ける場面でジョンがジムに水筒の水を飲ませる時、喉の渇きに苦しむジムの妻の姿が平行モンタージュで挿入されたあと、ジョンは胸を叩き、天を仰ぎ、自嘲気味に笑いながらジムに水を飲ませている。改心表にはこれを「改心」として記しているがその彼の姿にはそれ以前の彼と人格的な齟齬がまるでなく、それまでの彼そのままにジムに水をやっている。妻への暴力、酒浸りは「THE TWO BROTHERS(2人の兄弟)」(1910.5.14)における勘当、「His Trust(彼の信頼)」(1911.1.2)における黒人召使と同じように夫を孤立させるマクガフィンでありそうしてすねに傷を持つ身となった彼の生死を分ける場面における身に染みついた運動を撮ることで孤独なヒーローを浮き立たせている。「THE TWO BROTHERS(2人の兄弟)」(1910.5.14)において『このように善と悪とをひっくり返すように見せることが出来るのは彼が善も悪もない常習犯だからであり初犯であればその時点で善と悪が確定しまうのでこういうことはできない』と書いたが、すねに傷を持つ身とは善も悪もない領域における「悪」であり常習犯にのみに生ずる稀有な現象にほかならない。
★「SWORDS AND HEARTS(剣と心)」(1911.9.2)
愛する農園主(ウィルフレッド・ルーカス)のために彼に成りすまして男装し馬を駆けらせて敵を引きつけ見事な手綱さばきで振り向きざま敵兵を射撃したドロシー・ウエストは、ちょうど居合わせた農園主の黒人召使(ウィリアム・J・バトラー)に助けられた後、微笑みながら彼と別れ、暗い家の中でコートをめくり敵兵に撃たれた血だらけの肩を見ている。母親不在の家庭で父親と2人で貧しい暮らしをしている彼女はほかに恋人のいる農園主に振り向いて欲しいと淡い思いを抱いてはいるものこの戦功を彼に自慢できるような性分ではないらしく、その献身が彼女の口から農園主に語られることはない。序盤、農園主が出征する時、彼から平行モンタージュでカットバックされたドロシー・ウエストが笑みを浮かべ白い花を手にしながらショット内モンタージュでキャメラの横を通り過ぎてゆくシーンが撮られている。このショットを撮るために撮られたような瑞々しい、片隅の、意味のないショットのあと、彼女は町はずれの農道に馬で走って来た農園主を呼び止め手にした白い花を彼に手渡すと不意にほっぺたにキスをされまるで「グリフィス監督、キスされました」と言わんばかりのナマの顔でキャメラを正面から見据えて照れくさそうに笑っている。キスは演出の中に含まれているとしても殆ど意味のない瑞々しいショットがこうして立て続けに撮られることでフィルムは彼女の「ナマ」を焼き付けている。「THE HOUSE WITH CLOSED SHUTTERS(シャッターの閉ざされた家)」(1910.8.13)で戦場から逃げ帰って来た臆病者の兄に代わって兄の軍服を着て兄に成りすまし戦場に赴き倒れた旗手の旗を持ち継いだところで撃ち殺されたドロシー・ウエストはその戦功が「兄の名誉ある戦死」として母親のもとに届けられたにすぎず最後まで誰に語られることもなく無名戦士として消えて行ったように「剣と心」のドロシー・ウエストもまた孤独なヒーローとしての身に染みついた姿がフィルムに焼き付けられている。
■母親の不在
「Heart Beats of Long Ago(昔の心の鼓動)」(1911.2.11)娘に結婚を押し付ける
「HIS DAUGHTER(彼の娘)」(1911.2.25)
「女の叫び(LONEDELE OPERATOR)」(1911.3.15)
「SWORDS AND HEARTS(剣と心)」(1911.9.2)
「THE MAKING OF A MAN(男の誕生)」(1911.9.30)父親が娘の結婚を反対する。
「FOR HIS SON(彼の息子のために)」(1911/1912.1.20)
「THR TRANCEFORMATION OF MIKE(マイクの改心)」(1911/1912.1.27)言及あり
■父親の不在
「THE SUNBEAM(日光)」(1911/1912.2.24)
母親の不在・父親の不在の言及があるのは「マイクの改心」だけであとは相変わらず言及なしで撮られている。この「不在の省略」は、最初は短編による時間の限界から来る省略としてあったかも知れないが「昔の心の鼓動」や「男の誕生」における母親の不在と家庭における父親の娘の結婚に対する無骨な介入は「ROMANCE OF JEWESS(ユダヤ人のロマンス)」(1908.10.24)、「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)」(1910/1911.1.7) においても撮られており、それ以外でも「His Trust(彼の信頼)」(1911.1.2)では父親が亡くなった家で黒人召使が父親代わりになって家族を守り、「彼の息子のために」では母親不在の息子を父親が過剰なまでに甘やかしたことが取り返しのつかない悲劇を生み、ひたすら待ち続ける女3部作における「不変の海(The Unchanging sea)」(1910.5.7)と「清き心」においても帰って来ない父親の不在の不可視の主題が視覚的細部によって現わされていたりと、多くの作品において不在が物語や過剰な視覚的細部と直結しておりもはや不在の省略は初期映画の時間的限界を超えて、カール・ドライヤー「グロムダールの花嫁(Glomdalsbruden)」(1925)、フランク・キャプラ「或る夜の出来事(IT HAPPENED ONE NIGHT)」(1934)、ジョン・フォード「静かなる男(THE QUIET MAN)」(1952)へと連なる映画史のひとつのテーマを形成している。
★「THE SUNBEAM(日光)」(1911/1912.2.24)
父親が不在の家で母親が病気で寝込んでしまい遊び相手のいない少女(イネズ・シーベリー)がアパートの二階から降りて来て階下の気難しい独身男(デル・ヘンダーソン)と独身女(クレア・マクドウエル)の部屋に入り込み2人を癒して結びつけてしまうというこの物語はその後母親も死に孤児となった少女を2人の独身男女が引き取り一緒に暮らそうと誓い合うところで終わっている。そこに至るまで少女はこの2人の気難しい独身族たちをひとりひとり癒してゆくのだが、2人目の独身男の部屋に勝手に入って来た少女は「これをくれてやるから出て行きなさい」と独身男から渡されたコインを瞬時に床に叩き付け『こんなものはいりません、失礼いたしました』とばかりに即座に部屋を出て行こうとして独身男を愕然とさせている。これもまた「iN THE BORDWE STATES(境界州で)」(1910.6.18)によって撮られている年端も行かない少女による身に染みついた気品でありそれが結局のところこの独身の大男を改心させることになるのだが「iN THE BORDWE STATES(境界州で)」(1910.6.18)において敵兵を匿いながら感謝のキスを拒絶したあの少女が何かしら孤独であったように独身男からもらったコインを即座に放り投げてしまうこの少女の身に染みついた運動もまた彼女を孤独へと導くヒーローの系譜を受け継いでいる。
■照明
バックライトが使われるようになる。バックライトと言っても真後ろから当たる光でなく自然光が女優のふわふわの髪のてっぺんに当たってきらきら輝く光であり特にブランチ・スウィートによく当てられている光でもある。
★「LOVE IN THE HILLS(丘の愛)」(1911.10.28)
YouTubeで1分強しか見ることのできないにも関わらず過剰な視覚的細部に満たされた2つの見つめ合う視線の切り返しが撮られている。喧嘩相手のウィルフレッド・ルーカスから切り返され振り向いたブランチ・スウィートが罵声を浴びせる時と、彼が去った後、ふとアイリスのように縁取られた木陰から顔を出した彼女の髪の毛に当たる自然光のバックライトの光と風は、映画史、という言葉を想起せざるを得ない稀有な瞬間として刻まれている。「最初の魅惑(THE PRIMAL CALL)」(1911.6.24)の切り返し⑥によってグリフィス映画はロケーションにおける見つめ合う視線の切り返しによる新たなエモーションの時間を創り出しているがこのウィルフレッド・ルーカスとブランチ・スウィートとの見つめ合う視線の切り返しはそれを光と影によってさらに進めた段階へと導いている。
▲平行モンタージュ
「視覚的細部表」の一番右の欄には殆ど「多用」と書かれているように平行モンタージュは必要不可欠な方法として取り入れられている。
▲クロス・カッティング
救出のクロス・カッティングは6作品において撮られている。1910年には4作品すべて報われないクロス・カッティングであったのが11年はすべて成功型のクロス・カッティングが撮られている(視覚的細部表参照)。クロス・カッティングはその性質上報われないことを本質とすることを「1910年を振り返る」において検討したが成功型のクロス・カッティングは報われないこと=サスペンス=よりも報われること=物語=へと傾斜する方法であり今後の展開に注目したい。
■寄り
ここまで「寄り」が撮られた作品を視覚的細部表でもう一度見てみると
1908年
「The Curtain Pole(カーテンポール)」(1908/1909.2.13)室内・寄り
「AN AEFUL MOMENT(ひどい瞬間)」(1908.12.19)室内・寄り
1909年
「At The Alter(祭壇にて)」(1909.2.20)ロケーション
「The Awakening(覚醒)」(1909.9.30)ロケーション
1910年
「WINNING BACK HIS LOVE(彼の愛を取り戻す)」(1910.12.31)室内
1908年の2作はどちらも『ラストシーンだけ異質のショット』として撮られたものであり1909年の2作はどちらもロケーション、映画の流れの中で室内における「寄り」が撮られているのは実質的に1910年の「覚醒」1本しかない。ところが今年はロケーションにおける「寄り」が大幅に増えたばかりか(視覚的細部参照)室内における近代的寄りが初めて撮られそれが一気に6作品において出現している。
近代的寄り
① 「女の叫び(LONEDELE OPERATOR)」(1911.3.15)
② 「FIGHTING BLOOD(戦う血)」(1911.7.1)
③ 「THE ROSE OF KENTUCKY(ケンタッキーのバラ)」(1911.8.26)
④ 「THE BATTLE(戦い)」(1911.11.14)
⑤ 「A WOMAN SCORNED(軽蔑された女)」(1911.11.25)
⑥ 「THR TRANCEFORMATION OF MIKE(マイクの改心)」(1911/1912.1.27)
1911年の中盤以降から加速的に近代的切り寄りが撮られている。この中で①②③④⑤は室内でのキャメラの寄りが撮られ⑥はキャメラの寄りの瞬間は撮られていないものの(寄り✕)それまでの正面からのフルショットではなく斜めに切れ込んで接近し撮られている。近代的寄りとは室内の一角にキャメラが入り込むことで同じ室内に出現した空いた空間へキャメラを切り返すこと(近代的切り返し)を可能にさせる「寄り」でありこれまでは『ラストシーンだけ異質のショット』やロケーションでしか撮られなかった寄りが室内における物語の流れの過程で撮られている。これはそれまでの狭苦しい1つの室内空間を2つに広げる画期的方法であり映画史における進化の中でも最も重要な進化と評価しうるものである。室内撮影でキャメラがウエスト・ショットくらいに接近すればそれは殆ど近代的寄りと等しいことになるが膝上からさらにキャメラが常時接近するようになれば近代的寄りが近代的切り返しへと繋がることも自然の流れとなる。
■切り返しの数
まず原初的を含めたすべての切り返しの数(視覚的細部表の右欄の一番左の数字)を見てみると↓
1909年→7 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 2 0 0 0 0 8 0 0 1 0 2 0 0 0 0 0 0 10 0 0 1 0 1 5 4 0 0 1 0 6 5 1 0 0 3 0 1 0 2 1 0 2 0 3 9 0
1910年→3 8 0 1 0 0 5 1 1 0 8 16 3 14 ? 4 1 11 16 3 5 2 5 2 8 9 5 7 3 44 5 13
1911年→13 6 6 3 0 23 24 18 15 13 12 23 5 8 19 20 18 37 23 33 41 25 15 13 13 9 2 33 30 24
激増している。それに伴って原初的な切り返しも増えておりロケーションにおいては未だ場所的関係が不明確な原初的切り返しが多く撮られているものの原初的ではない切り返しもまた飛躍的に増えている。切り返しとは視線の通じている1つの空間を分断し交互に撮る1シーン2ショットのコミュニケーションであり視覚的細部表の『1911年を振り返る』を見ると切り返しの撮られているのは30作品弱と前年の15作品から倍増しかつそのショット数が激増している。その中で室内同士の切り返しは前年には原初的を含めて「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)」(1910/1911.1.7)の鍵穴による切り返し1ショットしか撮られていなかったのが今年は「THE MAKING OF A MAN(男の誕生)」(1911.9.30)における舞台と観客席とのあいだの切り返し、「THR TRANCEFORMATION OF MIKE(マイクの改心)」(1911/1912.1.27)における階段分割による上下の切り返し⑤⑥⑨、「THE SUNBEAM(日光)」(1911/1912.2.24)においては三間続きの部屋における切り返しによって室内同士の切り返しが撮られている。階段分割による上下の切り返しは狭苦しい1部屋を上へ拡げた画期的な切り返しであり、また三間続きの部屋の切り返しもまた二間続きの部屋の打開の一歩とも評すべきチャレンジのひとつとしてあり、いよいよ1911年は狭い1室と二間続きの部屋に対する攻撃を開始した年として記憶されるべき年になっている。
★見つめ合う視線の切り返し(数字は切り返しのナンバー)
1908年 1作品
「WHERE BREAKERS ROAR(砕ける波の轟くところ)」(1908.9.26)1ショット
1909年 なし
1910年 3作品
「iN THE BORDWE STATES(境界州で)」(1910.6.18)①ロケーション2ショット
「THE CALL TO ARMS(軍隊への招集)」(1910.7.30)②③窓空間4ショット
「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)」(1910/1911.1.7)④⑧⑬窓空間ロケーション11ショット
すべてロケーションか窓空間に限られ室内では1度も撮られていない。
1911年 8作品
「女の叫び(LONEDELE OPERATOR)」(1911.3.15)①③窓空間8ショット
「最初の魅惑(THE PRIMAL CALL)」(1911.6.24)③⑥ロケーション3ショット
「FIGHTING BLOOD(戦う血)」(1911.7.1)⑤ロケーション4ショット
「THE REVENUE MAN AND HIS GIRL(税務署員と少女)」(1911.9.23)②ロケーション6ショット
「LOVE IN THE HILLS(丘の愛)」(1911.10.28)①②ロケーション9ショット
「THR TRANCEFORMATION OF MIKE(マイクの改心)」(1911/1912.1.27)⑨室内・階段、3ショット
「BILLY‘S STRATAGEM(ビリーの策略)」(1911/1912.2.10)①ロケーション、12ショット
「THE SUNBEAM(日光)」(1911/1912.2.24)②室内三間続きの部屋。③階段分割による上下の切り返し、室内。6ショット。
1911年の中盤から後半にかけ見つめ合う視線の切り返しが撮られ終盤にかけて室内における見つめ合う視線の切り返しが撮られている。
★主観ショットとロケーション
『1910年を振り返る』において以下のように書いている
~「THE SORROWS OF UNFAITHFUL(不誠実の悲しみ)」(1910.8.27)と「THAT CHINK AT GOLDEN GULCH(黄金渓谷のあのチンク)」(1910.10.15)では初めて主観ショットがロケーションにおいて撮られ後者では「見ること」と「見たこと」がよりはっきりと撮られている。それまでは窓空間か、室内と室外でしか「見ること」と「見たこと」を撮ることが出来なかった主観ショットがロケーションにおいて撮ることが出来るようになっている。ロケーションにおいては場所的関係が不明確な原初的切り返しが未だ多く撮られているがそれを打開するために何よりも求められる「見ること」が撮られ始めている。~
続いて1911年にロケーションで撮られている主観ショットは↓
「His Trust(彼の信頼)」(1911.1.2)切り返し⑤⑥
「清き心(ENOCH ARDEN)」(1911.6.17)②原初的
「SWORDS AND HEARTS(剣と心)」(1911.9.2)③原初的
「THE ETERNAL MOTHER(永遠の母)」(1911/1912.1.6)②③原初的
「THE REVENUE MAN AND HIS GIRL(税務署員と少女)」(1911.9.23)③原初的
「THE ADVENTURES OF BILLY(ビリーの冒険)」(1911.10.14)③④ともに原初的
「THE LONG LORD(長い道のり)」(1911.10.21)①③共に原初的
「THE BATTLE(戦い)」(1911.11.14)⑤⑪
ここでも1911年の中盤以降に一気に撮られ始めている。「THROUGH DARKNED VALES(暗い谷を越えて)」(1911.11.11)には「見ること」に対する過剰なまでの信頼が撮られていることを検討したが、主観ショットではないものの1910年「THE MODERN PRODIGAL(現代の放蕩息子)」(1910.9.3)切り返し②あたりを嚆矢としてこの1911年に劇的に進化していることの1つとして「見ること」があり「見ること」への意識が切り返し全体を促進させている。
★原初的主観ショット
視覚的細部表を見ても殆どが原初的主観ショットであり見た目の角度が合っているのは2作品しかなく、それについても角度が合っているのは偶然のように見えるのであり主観ショットについてはロケーションを含めて未だ正面からショットを撮る傾向は続いている。ただ、室内の場合は近代的寄りを撮れないことからその主観ショットも正面から撮らざるを得ないとしてもロケーションの場合、見た目の角度から撮ることが可能でありながら敢えて正面から撮られていることになる。主観ショットは見た目の角度よりも正面から撮るべきという主義があるのか、あるいは、室内が正面だからロケーションでも正面から、という単純な類似性に依ることなのか、今後の検討に委ねるしかない。
★その一方で
「Heart Beats of Long
Ago(昔の心の鼓動)」(1911.2.11)
「THE ROSE OF KENTUCKY(ケンタッキーのバラ)」(1911.8.26)切り返し②③、
「THROUGH DARKNED VALES(暗い谷を越えて)」(1911.11.11)切り返し①
「THE FAILURE(失敗)」(1911.12.2)の切り返し①
これらの作品ではカーテンを仕切りに使った切り返しが撮られている。これもまた二間続きの部屋に対する窮屈さの現れだがキャメラが1室の中に入らない限り室内撮影における切り返しは二間続きの部屋同士の切り返しにならざるを得ず上や横の空間を拡げない限りなにをしても原初的になってしまうというジレンマから抜け出せてはいない。
★「AS IN A LOOKING GLASS(鏡の中の如く)」(1911.12.16)
階段分割による上下の切り返しは狭い一室を上に拡げ、三間続きの部屋の切り返しは二間続きの部屋に1クッション挟むことでどちらも原初の壁にチャレンジしているが、ここでは二間続きの部屋が壁を挟んで1ショットで撮られている。やぶれかぶれに見えなくもないこの撮り方は、二間続きの部屋を仕切る壁を逆転の発想で利用してしまおうというものであり、左の部屋の椅子の背もたれと右の部屋の引き出しをロープでつなぎ何も知らない右の部屋の女が引き出しを開けると左の部屋の椅子に座っている男が転倒するという子供のいたずらが撮られている。この二間続きの部屋の同時撮影は「THE GIRLS AND DADDY(姉妹とパパ)」(1909.1.30)でも撮られている
★「FOR HIS SON(彼の息子のために)」(1911/1912.1.20)
切り返し①においてドラッグストアの売店とそれを見ている父親とのあいだで2ショット切り返しが撮られている。これは二間続きの部屋ではなく二間続きの部屋の仕切りを取り払ったような横長の1部屋でありそうすることによって1空間における原初的ではない切り返しを可能にさせている。これは狭い一室の隅にキャメラを寄って撮られる近代的切り返しではないが横へと空間が拡がりさえすれば1室においても原初的ではない切り返しが撮れることを示唆している (原初的主観ショットは室内特有の出来事ではないのでここでは関係ない)。
★近代的切り返し
近代的寄りが激増しているにもかかわらず近代的切り返しは未だ撮られてはいない。進化とは意識的になされる劇的な変化ではなく出来ることの積み重ねの結果でありこの年多く撮られている近代的寄りもまた近代的切り返しへと直結する進化の過程でありながら近代的切り返しを撮るために選択されているわけではないということだろう。
★切り返しは根付いたのか
グリフィスにおいて切り返しは1911年においていつ根付いたかという問題があるが、上の原初的を含めたすべての切り返しの数字だけを見るならば1911年の中盤以降に切り返しは根付いていると評価できる。さらに見つめ合う視線の切り返しとロケーションにおける主観ショットなども1911年中盤あたりから急増している。「根付く」とは無意識によって為される進化の過程を脱し意識的にそれを撮るようになることであり、確かに原初的な切り返しは依然として多く撮られカーテンを挟んでの切り返しなど二間続きの部屋に対する困難は未だ続いており室内におけるコミュニケーションにおいては依然として原初的音声空間の切り返しのよる音声の優位は変わっていない。だが切り返しに対する意識そのものははっきりと見出すことができ、既に前年の年末に撮られている「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)」(1910/1911.1.7)の44ショットの切り返しにおいてそうした意識は現れている。平行モンタージュが平行モンタージュを撮るための物語によって根付いていったように切り返しもまた切り返しを撮るための物語によって根付いてゆくのであり、それは「Heart Beats of Long Ago(昔の心の鼓動)」(1911.2.11)におけるカーテンを使った不自由な切り返しの多用に見出すことができ、「HIS DAUGHTER(彼の娘)」(1911.2.25)における娘の部屋に泥棒に入ろうとする父親の盗み見、「女の叫び(LONEDELE OPERATOR)」(1911.3.15)における通信室と汽車との切り返し、「FIGHTING BLOOD(戦う血)」(1911.7.1)や「SWORDS AND HEARTS(剣と心)」(1911.9.2)におけるロバート・ハーロン、ドロシー・ウエストが馬を止めて振り返りざまにインディアンを狙撃する切り返し、「THE REVENUE MAN AND HIS GIRL(税務署員と少女)」(1911.9.23)の鳥を可愛がる税務署員とそれを盗み見する娘、「THE ADVENTURES OF BILLY(ビリーの冒険)」(1911.10.14)における老人を強殺するシーンの少年による盗み見、「LOVE IN THE HILLS(丘の愛)」(1911.10.28)でバックライトに照らされながら恋する男を罵倒する娘への切り返し、「THROUGH DARKNED VALES(暗い谷を越えて)」(1911.11.11)のラストシーンの娘による窓空間における主観ショット、そして「THE SUNBEAM(日光)」(1911/1912.2.24)における三間続きの部屋の切り返しなど、こういった印象的な、すぐに想起することのできる切り返しは多くの場合、その切り返しを撮るためにそのシーンが逆算して撮られているから想起できるのであり、そうした想い出のシーンをすらすらと想起できることそれ自体が既に切り返しは根付いていることの証となる。それにしても1911年の中頃にいったい何がグリフィス組に起きたのだろう。「最初の魅惑(THE PRIMAL CALL)」(1911.6.24)の切り返し⑥、このロケーションにおける見つめ合う視線の切り返しによってなにかが変わったようにも見える。ずっと処女作から時系列で見てゆくとこの切り返し⑥はまったく異質の切り返しとして出現しているからである。
■ショット数
1ショット6.7秒「FIGHTING BLOOD(戦う血)」(1911.7.1)
1ショット6.3秒「THE REVENUE MAN AND HIS GIRL(税務署員と少女)」
平行モンタージュが多用され切り返しが根付くことによってカットのリズムが加速して1ショット6秒という高速のカッティングへと突入している。映画のリズムを生みだす要因がグリフィス映画においては平行モンタージュと切り返しにあることを指摘できるかもしれない。
■カッティング・イン・アクションは根付いているか
これまで撮られているカッティング・イン・アクションを視覚的細部表で見てみると
1908年
「The Curtain Pole(カーテンポール)」(1908/1909.2.13)
「AN AEFUL MOMENT(ひどい瞬間)」(1908.12.19)
1909年
「THE VOICE OF THE VIOLIN(バイオリンの声)」(1909.3.13)
「SWEET AND TWENTY(美しい二十歳)」(1909.7.17)
「The Awakening(覚醒)」(1909.9.30)
1910年
「WINNING BACK HIS LOVE(彼の愛を取り戻す)」(1910.12.31)
1911年
「女の叫び(LONEDELE OPERATOR)」(1911.3.15)
「FIGHTING BLOOD(戦う血)」(1911.7.1)寄る・引く
「THE LAST DROP OF WATER(最後の一滴)」(1911.7.22)2回引く
「THE ROSE OF KENTUCKY(ケンタッキーのバラ)」(1911.8.26)、寄る・引く
「THE REVENUE MAN AND HIS GIRL(税務署員と少女)」(1911.9.23)寄る
「A WOMAN SCORNED(軽蔑された女)」(1911.11.25)
これもまた1911年の中盤以降に増えている。ただ、量的に見ただけでもこれだけではとても根付いていると評価はできない。「根付く」とは無意識によって為される進化の過程を脱し意識的にそれを撮るようになることであり、確かに寄る、引くにおいて幾つかのスピーディなカッティング・イン・アクションは撮られており、それがカットのリズムを生みショット数の高速化を導く要因となっているかも知れないが、カッティング・イン・アクションが根付いているかの判断は量的にはその撮られている数が指標なることはもとより、質的には立つ→引く、座る→寄るといった典型的カッティング・イン・アクションが撮られているか否かにかかっている。人間は生きて動いているのだからカットを変えれば基本的にカッティング・イン・アクションになってしまうが、映画史においてはそれを超えた、誰しもが使う典型的なカッティング・イン・アクションが撮られるようになり、それが、人が立ち上がる瞬間キャメラを引く、ホルスターから銃を抜く瞬間にホルスターに寄る、引く、人が振り向く瞬間に寄る、などであり、そうした典型的カッティング・イン・アクションはカッティング・イン・アクションを撮るためになされる運動によるカッティング・イン・アクションであり、あたかも平行モンタージュを撮るために物語が創られるのと同じように典型的カッティング・イン・アクションが撮られるようになって初めてカッティング・イン・アクションは根付いたと評価することできる。ただこの1911年の切り返しのように近代的切り返しが根付いていなくても切り返しは根付いているということもあり得ることから、今後の展開を注視することになる。
★「清き心(ENOCH ARDEN)」(1911.6.17)
終盤、窓の外から新しい家族を見ていた夫が立ち上がる時、動作が重複していないのでカッティング・イン・アクションではないが、立つ→引く、という典型的カッティング・イン・アクションの原初的段階が撮られている。あくまで原初的であり未だカッティング・イン・アクションの意識が根付いていない。
■クローズアップ(顔)
1911年に撮られている近景は
2人クローズアップ
「清き心(ENOCH ARDEN)」(1911.6.17)バスト・ショット
バスト・ショット
「最初の魅惑(THE PRIMAL CALL)」(1911.6.24)
「THE REVENUE MAN AND HIS GIRL(税務署員と少女)」(1911.9.23)
ウエスト・ショット
「女の叫び(LONEDELE OPERATOR)」(1911.3.15)9ショット。
「最初の魅惑(THE PRIMAL CALL)」(1911.6.24)
「THE REVENUE MAN AND HIS GIRL(税務署員と少女)」(1911.9.23)
「THE BATTLE(戦い)」(1911.11.14)
「A WOMAN SCORNED(軽蔑された女)」(1911.11.25)
「FOR HIS SON(彼の息子のために)」(1911/1912.1.20)
クローズアップは撮られていないのだから根付いてもいない。
★2人クローズアップ
「清き心(ENOCH ARDEN)」(1911.6.17)では夫が船で旅に出る前、妻と二人で並んでいる時に字幕を挟んで2人のクローズアップが撮られている。これが『2人クローズアップ』であり1人でなく並んでいる2人で撮られているので2人クローズアップだが、この時期、D・W・グリフィスに限らずクローズアップが根付く以前の初期映画にこの2人クローズアップは良く見られている。これを「2人クローズアップ」と定義するのは1人のクローズアップを撮ることに対する忌避を見出すためでありクローズアップが根付く前の出来事として重要だからである。「2人~」はクローズアップだけでなく「2人バスト・ショット」、「2人ウエスト・ショット」などもあり、そこには一人の人物に単体でキャメラを寄ることへの忌避が現れている。さらに字幕を挟むことでいきなり寄ることへの忌避を見出すこともできる。2人クローズアップは1人クローズアップへと向かう進化への過程であり同時に1人クローズアップを忌避する進化への障壁でもある。また2人クローズアップはショット内モンタージュによる近景への接近とは別ルートにおけるクローズアップへの進化の過程であり両者は根底における「1人クローズアップ」に対する忌避においては共通しているもののショット内モンタージュは運動の過程におけるクローズアップへの過程であり2人クローズアップは「寄り」におけるクローズアップへの過程である点で異質のルートを歩んでいる。
■キャメラの横を通り過ぎる
既に根付いていて減少する気配はなくこれまで以上にキャメラへと接近する傾向を現わしている。
キャメラの横を通り過ぎる(クローズアップ付近まで接近)
「HIS DAUGHTER(彼の娘)」(1911.2.25)
「女の叫び(LONEDELE OPERATOR)」(1911.3.15)ブランチ・スウィート
「A COUNTRY CUPID(田舎のキューピッド)」(1911.7.29)
「THE ETERNAL MOTHER(永遠の母)」(1911/1912.1.6)
「THE REVENUE MAN AND HIS GIRL(税務署員と少女)」(1911.9.23)
「FOR HIS SON(彼の息子のために)」(1911/1912.1.20)
どれも近景まで接近しながら静止することはなくそのままキャメラの横を通り過ぎてしまう。「女の叫び」では序盤、男と2人でキャメラの横を通り過ぎるブランチ・スウィートがフィルムをストップさせればクローズアップというところまで接近しているがそのまま通り過ぎてクローズアップは霧散している。ここにもまたクローズアップに対する忌避を見出すことができる。技術的には可能であるはずがなぜか撮ろうとしない。それが忌避であり技術だけでは説明できない諸々の事情が複雑に絡み合っている。
■フェイドアウト
1908年
「BALKED AT THE ALTER(祭壇で思い止まる)」(1908.8.29)ラストシーン
1909年
「FOOLS OF FATE(運命の犠牲者たち)」(1909.10.9)ラストシーン
「THE MOUNTAINEER’S HONOR(山岳民の誇り)」(1909.11.27)ラストシーン
「小麦の買占め(A Corner of Wheat)」(1909.12.18)ラストシーン
「TO SAVE HER SOUL(彼女の魂を救うために)」(1909.12.31)ラストシーン
1910年
「FAITHFUL(誠実)」(1910.3.26)ラストシーン
「AN ALCADIAN MAID(アルカディアのメイド)」(1910.8.6)ラストシーン
「THE SORROWS OF UNFAITHFUL(不誠実の悲しみ)」(1910.8.27)ラストシーン
1911年
「His Trust(彼の信頼)」(1911.1.2)のラストシーン。
「HIS TRUST FULFILLED(彼の信頼は満たされた)」(1911.1.21)
「清き心(ENOCH ARDEN)」(1911.6.17)前半のラストシーンとラストシーン
「THE LAST DROP OF WATER(最後の一滴)」(1911.7.22)
「THE ETERNAL MOTHER(永遠の母)」(1911/1912.1.6)途中で
「THE REVENUE MAN AND HIS GIRL(税務署員と少女)」(1911.9.23)
「THE ADVENTURES OF BILLY(ビリーの冒険)」(1911.10.14)
「SAVED FROM HIMSELF(彼自身から救われる)」(1911.12.9)
「THROUGH DARKNED VALES(暗い谷を越えて)」(1911.11.11)
「THE FAILURE(失敗)」(1911.12.2)
「FOR HIS SON(彼の息子のために)」(1911/1912.1.20)
「THR TRANCEFORMATION OF MIKE(マイクの改心)」(1911/1912.1.27
「THE ADVENTURES OF BILLY(ビリーの冒険)」(1911.10.14)
「THE SUNBEAM(日光)」(1911/1912.2.24)
1911年になって大幅に増えていて「永遠の母」以外はすべてラストシーンに入っている。巻き込まれ運動では「BALKED AT THE ALTER(祭壇で思い止まる)」(1908.8.29)でしか入っておらずそれもラストシーンだけ異質のショットで入っていて物語のラストシーンではない。フェイドアウトには抒情的なニュアンスが込められており人間運動のラストシーンに入り続けるフェイドアウトにはグリフィス映画における人間運動へのシフトを見ることが出来る。キートンの映画にフェイドアウトが入るか確かめてみたくなる
■長編
「His Trust(彼の信頼)」(1911.1.2)「HIS TRUST FULFILLED(彼の信頼は満たされた)」(1911.1.21)においてグリフィスは2巻ものの長編の世界へと足を踏み入れてはいる(実際は1本として撮られているものを2本に分けて公開されている)。だが後編は前編ですべて語り尽くされていることが説明調になって語り直され前編の常習犯的運動は後編では初犯的になり突然の改心や知的な感動へと導かれている。10分で語れていたものを倍の20分にすることはそれだけでは夢の解放にはならないことをこの後編は現わしている。
■大作志向
「His Trust(彼の信頼)」(1911.1.2)
「FIGHTING BLOOD(戦う血)」(1911.7.1)
「THE LAST DROP OF WATER(最後の一滴)」(1911.7.22)(1911.7.1)
「THE BATTLE(戦い)」(1911.11.14)
こうした作品では大勢のエキストラ、縦の構図における別々の演技、大火災、大爆発、といった大作志向が見られている。グリフィスは1914年あたりから超大作へと流れてゆくが映画が大きくなることは多かれ少なかれ映画を引き伸ばすことでもありそれまでは省略されていた出来事が字幕を含めてより多く語られるようになる世界でもある。それによって見ることは少しずつ読むこととの共存を余儀なくされ動物たちは住みづらい世界へと変わってゆく。