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1912年に起きていること

THE MENDER OF NETS(網の修理者)(1912.2.10)

2人バスト・ショットの「起源」 

序盤、トムから指輪をもらうとき、トムと並んでいるピックフォードへ
字幕を挟んでバスト・ショットへ寄っている。1人ではなく横並びの2(あるいはそのうちの1)がバスト・ショットのとき、2人バスト・ショット』として今後検討する。

●切り返し⑤

坂道で格闘している2(トムと娘の兄)とそれを遠くから望遠鏡で見ているピックフォードとのあいだはが4ショット内側から切り返されそのまま終わっている。原初的主観ショットでアイリスなし。望遠鏡を使った主観ショットの「起源」が撮られている。

★カットを挟んで寄ること。

切り返し⑧で書いているがこれまでもカットや字幕を挟んで寄ることが多くなされている。そこにはいきなり近景へと寄ることへの忌避を見ることが出来る。カッティング・イン・アクションが根付いていないこの時期においていきなり寄るとジャンプ・カットのようになって観客が戸惑うとの判断があるのかもしれない。しかしそうすると、カッティング・イン・アクションは寄ることの進化系であることからまずは寄ることをしなければならない、というジレンマに陥ることになる

UNDER BURNING SKIES(燃える空の下で)(1912.2.27)

★クローズアップ 

『彼の復讐は完了した』という字幕の後、ウィルフレッド・ルーカスの水筒に手を伸ばす夫クリスティ・カバンヌの横顔のクローズアップが撮られている(「起源)」。ただこれは右側のウィルフレッド・ルーカスの胴体と一緒に画面の左半分で撮られた横顔であり画面の真ん中に正面から撮られたクローズアップではない。しかしこの時期、グリフィス映画は被写体に寄る傾向を強めている

Lolas Promise(ローラの約束)(1912.3.9)

★銃を振り下ろして撃つ

銃撃戦でインディアンを撃っている白人が銃を上から下に振り下ろして撃っている。初期映画に特有の撃ち方であり撃っていることが観客に分かるように上から下へ殴りつけるように銃を振り下ろしている。逆手でナイフを握って振り下ろすことと同じように初期映画の限界から生まれているように見えるが1951ウィリアム・ラッセル監督「荒野の三悪人(BEST OF THE BADMEN)」などでも銃を振り下ろして撃っていることからすると初期映画の限界がこの時期まではモーションピクチャーそのものとして残り続けていることになる(今では見なくなったが)

「少女と彼女の信頼(THE GIRL AND HER TRUST)(1912.3.23)

近代的寄り 

切り返し②でドロシー・バーナードが鍵穴に弾丸を込めた後、そこへしゃがみ込む彼女へとカッティング・イン・アクションで寄っているが、これは室内における近代的寄りであり、この近代的寄りが計3ショット撮られている。

★クローズアップ 

その近代的寄りにおいて、トンカチでノミを打つドロシー・バーナードの「後頭部のみ」3ショットクローズアップで撮られている。ここにもまた顏を正面から撮ることに対するある種の忌避があるようにも見える。

A LODGING FOR THE NIGHT(一晩の宿)(1912.5.4)

近代的寄り

①終盤、暗くなった宿の客室に叔父のチャールズ・ヒル・メイルズが侵入する時、作家チャールズ・ウェストのウエスト・ショットに寄っている。

②切り返し⑨

事件が解決し部屋を出て行った叔父と部屋の中の2(作家と娘ピックフォード)とのあいだが4ショット内側から切り返されている。ここで2人ウエスト・ショットあたりに寄る✕で寄っている。

A BEAST AT BAY(追いつめられた野獣)(1912.5.25)

近代的寄り 

立て籠もった小屋の中で娘と囚人の2人バスト・ショットまでカッティング・イン・アクション気味に寄っている。鋭角に寄っているわけではないが切り返すための余白は作られている。

LENA AND THE GEESE(レナと鵞鳥(ガチョウ))(1912.6.15)

●切り返し③

死の床の女王とそれを見ている宮廷の者たちとのあいだで6ショット内側から切り返されている。王宮の二間続きの部屋ほどの横長の空間に仕切りがないので室内の切り返しが撮れている。「FOR HIS SON(彼の息子のために)(1911/1912.1.20)でも検討しているが、二間続きの部屋でも仕切りがなければ切り返しが撮られることを現わしている。ただ切り返し⑤⑥⑦のように、カーテンで二間続きの部屋を区切ってしまうという傾向から未だ自由になれてはいない。

THE SCHOOL TEACHER AND THE WIFE(学校の先生と妻)(1912.6.29)

★雨の「起源」が撮られている。酒を飲んで眠っている父親に締め出され小屋の外に身を寄せながらびしょ濡れになっているメアリー・ピックフォードが撮られている。母親の不在で飲んだくれの父親のもとで育っている娘だからこそこの雨が上から下へ降り注ぐ「あめ」となって露呈している。何かにつけてメアリー・ピックフォードは「起源」に顔を出す。

MANS GENESIS(人間の創生)(1912.7.6)

★回想の「起源」

祖父が喧嘩をしている孫たちへの教訓として原始時代を枠物語として回想している。「起源」となるこの回想は回想をしている老紳士W・クリスティー・ミラー自身の過去ではなく孫たちへの教訓としての昔話であり「起源」へ遡るものではなく常習性を弱めてはいない。

近代的寄りと原初的寄る・引くとの違い

原始人のロバート・ハーロンが石の輪っかを突いてそれを木の枝に差し入れるまでがクローズアップで撮られている。これは原初的寄る・引くとは違い木の枝で石の輪っかを突いてそれを枝に差し入れるまでの運動がそれ以前の画面と同じ画調で撮られているので近代的寄りとなる。既に1908年「BETRAYED BY A HANDPOINT(手形に裏切られた)(1908.9.5)では石鹸の箱の中にネックレスを隠すシーンのクローズアップがフローレンス・ロレンスの生々しい手の動きと共に撮られているが背景が暗くなっていることから別の場所で撮られていることがわかる。「女の叫び(LONEDELE OPERATOR)(1911.3.15)のスパナのクローズアップも確かに生々しく撮られているがポーズを取って別々に撮られているように見えるし「THE MISERS HEART(守銭奴の心)(1911.11.18)のローソクでローブをあぶるシーン、「FOR HIS SON(彼の息子のために)(1911/1912.1.20)のビンの中からコカインを指で掻き出すシーン、「少女と彼女の信頼(THE GIRL AND HER TRUST)(1912.3.23)の鍵穴とスパナ、「FRIENDS(フレンズ)(1912.9.21)の写真、「THE TELEPHONE GIRL AND LADY(電話交換手の娘と貴婦人)(1913.1.4)の宝石などもまた別に撮られているように見える。
近代的寄りは狭い一つの空間の一角にキャメラを寄せることに意義があり別の空間で撮られていると推察されるショットは原初的寄る・引くとして除外される。ところがこの石の輪っかを突くシーンは同じ光の質で撮られており実際にその場で寄って撮られているように見えることから以降、こうした事物のクローズアップもまた近代的寄りとして検討する。

★ロングショットの決闘 

原始人同士の戦いが斜面のロングショットによって撮られている。これはロングショットでしか撮ることのできない初期映画の限界から来るものではなく意図的にキャメラを大きく引いて撮っている。

「死の歌(A PUEBLO LEGEND)(1912.8.24)

2巻もの

2巻ものの大作冒険活劇だが大勢のアクションシーンなどで構図が緩くなり切り返しなのか平行モンタージュなのか分からないシーンが多くなっている。おそらくマルチ・キャメラで撮られていることから来る構図の緩さと見られるがキャメラの台数が増えればキャメラをフレームの中に入れてはならないので「ここ一点」という構図から遠ざかることになる。前後編で封切られた「HIS TRUST FULFILLED(彼の信頼は満たされた)(1911.1.21)にしても「清き心(ENOCH ARDEN)(1911.6.17)にしてもやや引き伸ばした感が見られておりこの時期未だグリフィスは長編と折り合いをつけていない。

THE INNER CIRCLE(インナーサークル)(1912.8.10)

2人クローズアップへ寄る→近代的寄り

①金持ちの家に助けられた少女とピックフォードの2人にキャメラは2人クローズアップまで寄っている。これは近代的寄り。

②切り返し③の時にも同じ2人クローズアップが挿入されているが寄っている瞬間は撮られていない(寄る✕)

★クローズアップ 

爆弾を仕掛けて引火させる男やもめの
横顔のクローズアップが画面の左端に撮られている。ここでも顔を画面の中央で正面から撮るのではなく、横顔、画面の隅、という、クローズアップに対する忌避が見られている。

「見えざる敵(AN UNSEEN ENEMY)(1912.9.7)

近代的寄り6ショット撮られている

部屋の隅に寄り添って隠れた姉妹(リリアン・ギッシュとドロシー・ギッシュ)のロングショットからフルショット(ウエスト・ショット)へ寄る近代的寄り。その後、寄る瞬間は撮られていないものの部屋の隅の姉妹へ寄っている近代的寄りが寄る✕で5ショット撮られている

★巻き込まれ運動 

1912
年度唯一の巻き込まれ運動でありそれがギッシュ姉妹のデビュー作となっている。リリアン・ギッシュのその後の映画は人生の環境の中に強烈に巻き込まれ翻弄されてゆく作品ばかりなのも何かの縁かも知れない。

FRIENDS(フレンズ)(1912.9.21)

近代的寄り

合わせて6ショット近代的寄りが撮られその中にはキャメラを正面から見据えるショットも含まれている。近代的寄りとキャメラを正面から見据えるショットが同時に撮られた
「起源」

「リバティ・バランスを射った男(THE MAN WHO SHOT LIBERTY VALANCE)(1962.4.22)

ライオネル・バリモアが酒場でカウボーイのかぶっているテンガロンハットを手に取りそのまま落としている。ジョン・フォード「リバティ・バランスを射った男」ではジョン・ウェインがレストランの厨房でアンディ・ディバインのテンガロンハットを手に取ってそのまま落としその帽子をヴェラ・マイルズが思いきり蹴飛ばしている。これはいったい何の意味があるのだろう

SO NEARYES SO FAR(とても近くて、とても遠い)(1912.9.28)

近代的寄り

机の下に隠れている泥棒の手に寄り、引く。これは一つの部屋の一角への寄りであり近代的寄りとなる。

●切り返し①~正面からの切り返しの「起源」

馬車で去ってゆくピックフォードとそれを見て追いかけてゆくウォルター・ミラーとのあいだが3ショット内側から切り返されている。見つめ合う視線の切り返しだがピックフォードがほぼ正面から撮られていて別々に撮られている感が強く露呈している。初期映画は基本的に別々に撮られているがその中でも正面から切り返されるショットはより「ずれ」を生じ、そのために撮られている=魅入られている感が露呈する。正面からの切り返しの「起源」が撮られている。

「ピッグアレイの銃士たち(THE MUSKETEERS OF PIG ALLEY)(1912.10.26)

★クローズアップの「起源」 

裏路地で壁に身を隠しながらエルマー・ブースがショット内モンタージュでキャメラに接近しキャメラを殆ど正面から見据えながら大きなクローズアップで画面の右端で静止する。それまでは横顔(UNDER BURNING SKIES(燃える空の下で)(1912.2.27)、後頭部(「少女と彼女の信頼(THE GIRL AND HER TRUST)(1912.3.23)、横顔(THE INNER CIRCLE(インナーサークル)(1912.8.10)で撮られて来たクローズアップがここで初めて顔を正面から捉えている。またこのクローズアップはエルマー・ブースが遠くからキャメラの前まで接近し(ショット内モンタージュ)かつそのままキャメラの横を通り過ぎる過程において撮られている1908年にデビューから4年経ちモーションピクチャーの過程の中で初めてグリフィスはクローズアップを撮っている

THE MASSACRE(虐殺)(1912/1914.2.26)

★クローズアップの「起源」その2

赤ん坊のクローズアップが寄りで2ショット撮られている(そのあと2回とも引かれている)。これはショット内モンタージュとは異なる系統で撮られたクローズアップの「起源」となる。

★場所的不明確性 

戦闘シーンは場所的不明確性によって切り返しか平行モンタージュかわかりづらいシーンが多く撮られている。これも「死の歌(A PUEBLO LEGEND)(1912.8.24)と同じようにマルチ・キャメラによる構図の緩みに依るのかもしれない。撮り直しの効かない大アクションの戦闘シーンなどはマルチ・キャメラで撮ることがありそれに伴う構図の緩みは大作映画に常に付きまとう代償としてある。

MY BABY(私の赤ちゃん)(1912.11.23)

近代的寄り 

近代的寄りが4ショット、近代的寄りの寄る✕が1ショット撮られている。どれも鋭角に切り込んで寄っていて近代的寄りの典型が撮られている。

THE UNWELCOME GUEST(歓迎されない客)(1912/1913.3.8)

事物への近代的寄り 2ショット撮られている。

妻が鞄に金を隠すシーン。字幕を挟んで寄り、再び字幕を挟んで引いている。

食卓の食べ物を食べるシーン。字幕を挟んで寄る。

これも「MANS GENESIS(人間の創生)(1912.7.6)における石の輪っかを木の枝で突くシーンと同じように事物のクローズアップが別の場所で撮られたものでなくそのままキャメラが寄って撮られており原初的寄る・引くではなく近代的寄りとなる。字幕を挟んでいる点でいきなり寄ることへの忌避を見ることもできる。

二間続きの部屋における見つめ合う視線の切り返し「起源」

切り返し②では食卓の家族と台所の2(家政婦ピックフォードと老人W・クリスティー・ミラー)とのあいだが9ショット目に同一画面に収められるまで内側から切り返されている。最後の2ショットは食卓のクレア・マクドウエルと台所のピックフォードの視線が通じているので二間続きの部屋のあいだの見つめ合う視線の切り返しの「起源」が撮られていることになる。室内における見つめ合う視線の切り返しは階段の上下では「THR TRANCEFORMATION OF MIKE(マイクの改心)(1911/1912.1.27)THE SUNBEAM(日光)(1911/1912.2.24)が、三間続きも「日光」で撮られているが二間続きの部屋における見つめ合う視線の切り返しはこれが初めて。

「ニューヨークの帽子(THE NEW YORK HAT)(1912.11.30)

近代的寄り2ショット撮られている

序盤、
ピックフォードが部屋に掛けてある古い帽子を取る時、ウエスト・ショット下あたりに寄る(近代的寄り)。その後、カッティング・イン・アクション気味に引く。その後もう一度寄る(近代的寄り)。この寄りは左に切り返すことのできる空間を作る寄りなので近代的寄りとなる。

THE BURGLARS DILEMMA(押し込み強盗のジレンマ)(1912.12.14)

近代的寄り 

切り返し⑧で3ショット近代的寄りが撮られている。
ここには『奇妙な同一画面』が撮られているのでのちに検討する。

THE GOD WITHIN(内なる神)(1912.12.21)

二間続きの部屋における見つめ合う視線の切り返し

YouTube1分しか見ることのできないフィルムにはなにかの力が宿っている。ここで撮られているたったひとつの切り返しが二間続きの部屋における見つめ合う視線の切り返しであり「THE UNWELCOME GUEST(歓迎されない客)(1912/1913.3.8)に続いて貴重な瞬間が撮られている。

1912年を振り返る

人間運動・巻き込まれ運動表を提示する

巻き込まれ運動1本、人間運動31本となる。唯一の巻き込まれ運動はギッシュ姉妹が映画デビューした「見えざる敵(AN UNSEEN ENEMY)(1912.9.7)でありここでは強盗たちに部屋に閉じ込められた姉妹が解決のスキルもなしに翻弄される巻き込まれ運動が撮られておりその後も父親に虐待されたり流氷に流されたり革命に翻弄されたりする巻き込まれ系統の映画に主演するリリアン・ギッシュのデビュー作としては引きが強いと言うべきかもしれない。海賊団に拉致されて殺されそうになるTHE LITTLE TEASE(ちいさな悪)(1913.4.5)のブランチ・スウィートは巻き込まれているのではないかという疑問もあるが彼女はみずからの機転で密輸団のボスを逃がし誰にも言わないような抒情的人間=淑女=であり(これについては改心のところで検討する)動物とは程遠い「人間」として撮られている。同じ人間運動でも「AN INDIAN SUMMER(インディアンサマー)(1912.7.6)の老紳士W・クリスティー・ミラーと下宿の女将ケート・ブルースとの恋は2人が自らの意志で行動しているようでありながら実は巻き込まれているようなところがありこちらの方が巻き込まれ運動に近いかもしれない。ただ「追っかけ障害物競走」のような純粋な「追っかけ」の撮られる気配は既に失われている。

改心表を提示する。

1911年に続いて分離した物体を見たり触ったりする改心2-Aはひとつも撮られておらず「見ること」「触れること」による2-Bの改心かそもそも改心をしていない3-Aによって占められている。

★初犯の改心

初犯の知的な改心について年代別に見てみると

1908年 1

BETRAYED BY A HANDPOINT(手形に裏切られた)(1908.9.5)1-B

1909年 5

The Cricket on the Hearth(暖炉のコオロギ)(1909.5.27)1-B

THE CARDINALS CONSPIRACY(枢機卿の陰謀」(1909.7.10)2-C

THE REDMANS VIEW(インディアンの目の届く所)(1909.12.11)白人が突然悪人から善人になる。1-B

A TRAP OF SANTA(サンタの罠)(1909.12.25) 2-C

TO SAVE HER SOUL(彼女の魂を救うために)(1909.12.31) 2-C

1910年 1

THE USURER(高利貸し)(1910.8.20)の部下たちが悪人から善人への変化

1911年 2

HIS TRUST FULFILLED(彼の信頼は満たされた)(1911.1.21)の弁護士3-B

THE SQUAWS LOVE(インディアンの女性の恋)(1911.9.9)のクレア・マクドウエル。知的。2-B

1912年 なし

1912年には初犯の改心は1本も撮られていない。この時期グリフィス映画は3-Aを軸として常習性を強めている。

THE MENDER OF NETS(網の修理者)(1912.2.10)2-B3-A

ピックフォードは恋人のチャールズ・ウェストを恋敵のメイベル・ノーマンドに譲り身を引いている。ピックフォードは恋人の顔をまじまじと見つめた後ふらつき、ここで字幕に「彼女(ノーマンド)の悲しみを知り」と入ったあと、恋人の手を振り払って身を引いている。ここには優柔不断でノーマンドを悲しませた恋人への嫌悪が込められているようにも見えるが想い出されるのは「THE FUGITIVE(逃亡者)(1910.11.5)で自分の息子を殺した北軍兵を『彼の母親を想い』匿った母親であり、この場合、どちらの家庭にも父親の不在という同じ境遇がありそれがこの母親をしてもう一人の母親に対する『想い』という運動へ向かわせていることを検討したが、「網の修理者」のピックフォードには母親が不在であり(或いは両親が不在)ノーマンドもまた兄と2人暮らしで両親がいない。ノーマンドの兄(デル・ヘンダーソン)は妹を弄んだ男を銃で撃ち殺そうとさえしていて、ここにはまるでジョン・フォード「静かなる男(THE QUIET MAN)(1952)のヴィクター・マクラグレンのような、両親の不在の家庭における父親代わり、母親代わりをして来た兄の妹に対する強い執着が現れることによって両親の不在という不可視の主題が可視化されている。遡ってこのピックフォードの感じた「悲しみ」とは、男を奪われるノーマンドの悲しみだけではなく両親の不在という同じ境遇から来るエモーショナルな体感がピックフォードをして身を引くという行動に向かわせたように見える。2-Bとしたがピックフォードに人格的齟齬は生じておらず3-Aに近い。

ONE IS BUSINESSTHE OTHEE CRIME(こちらは商売、あちらは犯罪)(1912.4.20) 2-B

賄賂をもらった金持ちの男(エドウィン・オーガスト)は部屋の電気を消してカーテンが風に揺れる窓際の椅子に座り、外から光が彼の体に投射されると吹っ切れたように椅子から立ち上がり賄賂を断る手紙を書き始める。対して金持ちの男の家に泥棒に入った貧しい男(ロバート・ハーロン)は自宅で同じように外から光の差す窓際の椅子に座り横に座っている妻(ドロシー・バーナード)とは気まずい空気のまま眠ってしまい朝になって気持ち良さそうに欠伸をするとそこへ金持ちの男がやって来て仕事のオファーが届く、、、金持ちの夫はカーテンの窓の外から差してきた光を浴びることで改心し、貧しい夫も窓辺の光を浴び、一夜を過ごし目を覚まして欠伸をすることで知らないうちに穏やかさを取り戻している。誰しもが分かる劇的な因果的原因ではなく、光を浴びること、朝になるまで眠ること、欠伸をすること、といった平坦で穏やかな時間の流れによって2人は改心し新しい出発をしている。その後ろ姿を妻のドロシー・バーナードが窓から主観ショットで見送り映画は終わっている。2-B

3-A

THE LITTLE TEASE(ちいさな悪)(1913.4.5)

密輸団に拉致され船に監禁された娘(ブランチ・スウィート)が密輸団のボス(アルフレッド・パジェット)と助け合いボスの部下たちから身を守るというこの作品はあらすじに書くとどこかで『ボスは改心して、』と書かざるを得ないところだが、このボスが改心している瞬間はどこにも撮られておらず、それどころかこのボスは娘の監禁されている部屋のドアの前に当たり前のように立ち塞がり娘に乱暴しようとする部下たちから娘を守っている。ここでボスはみずからの銃の残りの弾が1発になった時、銃口を娘の頭に向け娘もそれに同意している。これは仲間たちに乱暴されるくらいなら、と娘の名誉を守るために娘を殺そうとする『紳士の行為』であり同年フランシス・フォード・トーマス・H・インス共同監督THE INVADERS(侵略者たち)(1912.11.29) によっても撮られ、グリフィス「エルダーブッシュ峡谷の戦い(THE BATTLE AT ELDERBUSH GULCH)(1913/1914.3.8)、「国民の創生(THE BIRTH OF A NATHION)(1915.3.3)、ジョン・フォード「駅馬車(STAGECOACH)(1939.3.3)などによって反復される常習犯の行為でもある。この密輸団のボスにとって娘の名誉を守ることと密輸の任務を遂行することとはまるでジョン・フォード「三人の名付親(3 GODFATHERS)(1948/1949.1.13)で銀行強盗のジョン・ウェインが砂漠で拾った赤ん坊を命を賭けて守り続けたのと同じように同じ人格から発せられる衝動としてなされており善悪を超えた常習犯によってのみ成すことのできる残虐の映画史でもある。ボスはギャングたちによって雇われた雇われボスであり時計を気にしながらみずからの輸送という任務を忠実に遂行し序盤から怠け者たちの部下を過剰なまでに叱りつけ殴り倒して従わせるハワード・ホークス=マイケル・マン的な職務遂行的常習犯として撮られており密輸をし娘を守るという彼の行動には一切の人格的齟齬を生じていない。常習犯には善も悪もないのだから彼の為す行為は密輸団のボスの為す「悪」であって悪ではなく彼が娘を守ったところで変化したのは「悪」が「善」に変化しただけで悪人が善人に変化するのではないこれがグリフィスの撮る映画の基本でありこうした「悪人」たちによってすねに傷を持つ身が生まれることになる。物語の因果で映画を読むことではこの作品は取り残されるしかない。この時期にグリフィスは常習犯の危険な領域へとさらに踏み込んでいる。3-A

FRIENDS(フレンズ)(1912.9.21)

ヘンリー・B・ウォルソールは親友のライオネル・バリモアがピックフォードを愛していることを知り身を引いている。序盤、金鉱で旧知の仲のウォルソールとバリモアが再会した時、握手し肩を叩き合いウォルソールは涙を拭って再会を喜んでいるように2人の友情が極めて強いように撮られている。これは「FOOLS OF FATE(運命の犠牲者たち)(1909.10.9)で自分の付き合っている女が親友の妻だとわかりためらうことなく身を引いたあの男のように、ウォルソールは変わることなく身を引いたのであり、ここでもまた男と女の関係からすると身を引くという改心をしているように見えながら男と男の関係においては変わることのない友情が撮られている。3-A

A FEUD IN THE KENTUCKY HILLS(ケンタッキーヒルズの確執)(1912.9.28)

山岳地帯に住む確執のある二つの家族が殺し合うこの作品では主人公の兄弟が養子の娘(メアリー・ピックフォード)を争っていたところ対立する家族と撃ち合いになり石垣に立て籠もって応戦している兄(ウォルソール)が女たちを助けに行くよう弟(ウォルター・ミラー)を逃がしみずからは撃たれて死ぬのだが、ここでは終始、「邪悪」に撮られ笑いながら敵を撃ち殺しているような兄が女たちを助けるようにと弟を逃がしていることによって改心しているようにも見える。だがこの兄はその後も不敵に笑いながら死んでいくのでありその人格に齟齬を生じていない。人を笑いながら撃ち殺す男と女を大切にする男とは両立することとして撮られているのであり、人間性の変化なしに一見「邪悪」に見える者が「善」に見える行為をなすその運動はジョン・フォード「三人の名付親」、「捜索者」のジョン・ウェインに酷似しており、既に検討した「THE LITTLE TEASE(ちいさな悪)(1913.4.5)と同じように一見「善悪」に見えながら常習犯には善も悪もないという運動が貫かれるこの作品は2人を残した主人公の家族が全滅し敵対する家族のリーダーであるハリー・ケリーが死んでいるウォルソールの髪を掴んで頬を平手打ちするという残虐な行動が撮られている。どちらの家族が善か悪かは撮られてはおらずひたすら殺し合うことが撮られているこの映画は生き残った弟と娘が平和な谷を目指して山を降りてゆく後ろ姿で終わっている。

THE MASSACRE(虐殺)(1912/1914.2.26)

自分の愛する娘(ブランチ・スウィート)を奪った男(チャールズ・ウェスト)を殺そうとした男(ウィルフレッド・ルーカス)が愛し合う2人の姿を見て苦笑いしながら持っていた銃をホルスターに収めて2人を祝福しているが、彼は改心したようでありながら身に染みついた運動によってその人格は一貫している。そんな彼の幌馬車隊はインディアンの攻撃から円陣を組んで応戦するが、ギャンブラーはトランプを舞い散らして殺され牧師も犠牲になり、残ったウィルフレッド・ルーカスも殺されて幌馬車隊は全滅し彼の死体の下から赤ん坊を抱いたブランチ・スウィートが出てくるというシーンが撮られている。この30分の中編の公開は2年後の1914年まで延ばされていてそこには長編に対するバイオグラフの否定的な姿勢などがあるにしても、この余りにも残虐な結末が考慮されたことは想像に難くない。1910年あたりからグリフィス映画に形を伴って現れ始め1911年から12年にかけて顕著に撮られるようになる強い常習性を伴う残虐の映画史はジョン・フォード「捜索者」、アンソニー・マン「裸の拍車(THE NAKED SPUR)(1953.2.1)、クリント・イーストウッド「許されざる者(UNFORGIVEN)(1992.8.7)へと密かに受け継がれてゆくことになる。

■エモーション

グリフィスが人間運動のエモーショナルな方向へと流れていることはラストシーンで激増するフェイドアウト、照明、風などによっても視覚的に現れており、見つめ合う視線の切り返しの増加によっても見ることが出来る(視覚的細部表参照)そういった細部のみならずTHE MENDER OF NETS(網の修理者)(1912.2.10) におけるオープニングの陰影に包まれた絵画のようなショットから始まる1912年はUNDER BURNING SKIES(燃える空の下で)(1912.2.27) で砂漠を逆方向へと歩き去る二組の人間たちの後ろ姿で終わるラストシーンが撮られONE IS BUSINESSTHE OTHEE CRIME(こちらは商売、あちらは犯罪)(1912.4.20)では再出発した夫の後ろ姿を窓から妻が見つめることで終わり、「A FEUD IN THE KENTUCKY HILLS(ケンタッキーヒルズの確執)(1912.9.28) ではラストシーンで残虐な山から平和の谷へと降りてゆく恋人同士の後ろ姿が撮られTHE LITTLE TEASE(ちいさな悪)(1913.4.5)では夕陽のきらきら光る水面に包まれながらフェイドアウトで次第に暗くなる恋人たちのラストシーンで終わりA LODGING FOR THE NIGHT(一晩の宿)(1912.5.4)では強盗の難を逃れた宿屋の娘ピックフォードと客のチャールズ・ウェストとがドアを挟んで椅子に座りそれぞれがそれぞれの番をしながらフェイドアウトでそのまま終わるというラストシーンが撮られているように、決してあらすじに書かれることのない過剰な細部によってオープニングとラストシーンを連発しエモーションをフィルムに焼き付けているグリフィスは少しずつ観客から離れていくようにも見える。

■約束を守ること

Lolas Promise(ローラの約束)(1912.3.9)

白人に誘拐されたインディアンの娘ローラ(メアリー・ピックフォード)が白人の鉱夫に助けられ彼が金の採掘をしていることを聞かされると、ではあなたのために金を探してあげるとローラはいい、ジャックは笑いながら、じゃあこうして十字を切って約束してくれるかい、とローラの胸で十字を切らせてから彼女を部族のキャンプまで送り届ける。ローラは部族の者たちに十字の話をするが偶像を崇拝している彼らには聞き入れられずインディアンたちはジャックの恋人(ドロシー・バーナード)の乗った馬車を襲撃しローラは彼女の身替りになって撃たれて崖を転げ落ち、そこでふと手にした金をやって来たジャックに見せながら息を引き取る。ローラが部族のキャンプに帰った時、ほんの一瞬、母親らしき人物が映っているようにも見えるが親密そうには見えず、ずっとローラは孤独でインディアンたちにも相手にされず白人たちに誘拐されても助けに来たのは白人の鉱夫であって同胞のインディアンたちではない。そんな彼女が鉱夫とのあいだで交わした約束は鉱夫にとっては気軽なものであったかも知れないがローラは撃たれて瀕死の状態になっても忘れていなかった。「His Trust(彼の信頼)(1911.1.2)で主人との約束を果たしたあの黒人召使が最後まで孤独であったように約束とはプライベートな秘め事でありローラはそれを身に染みついた運動によってひとり果たしている。「The Awakening(覚醒)(1909.9.30)以来、唯一字幕の入らないこの作品ではそれをそうとは観客に知らせないままヒーローの映画史が密かに刻まれている。そうした点で亡き信者からの約束の手紙をおしゃべり女たちに見せてみずからの誤解を解いてしまった「ニューヨークの帽子(THE NEW YORK HAT)(1912.11.30)のライオネル・バリモアはヒーローではなくただの軽薄なメロドラマの主人公に過ぎないことになる。

★ライムライト

THE OLD ACTOR(老役者)(1912.5.4)では役者を首になった老役者がそれを家族に言い出せず浮浪者に変装して物乞いをしていたところ娘(ピックフォード)とその恋人(エドウィン・オーガスト)に見つかり気まずい空気に包まれたあと、ふと娘が老役者(父親)の白い付け髭を撫でるとちょっとした間をおいて3人で笑いだしてしまう。ただそれだけで事件は解決を迎え、3人で帰宅すると、編み物をしている妻の手から『IN FORTUNE’S LIME-LIGHT(幸運のライム・ライト=脚光)』と字幕に書かれた手紙が老役者に手渡され、役を得た彼は舞台に戻り一世一代の名演技を披露する。付け髭に触って笑い出すことという物語とは無関係な出来事によってすべてを水に流してしまう娘と、大きく悦びを現わすことなく編み物を続けている妻によってこの老役者は自分の好きな役者を続けて来られているのだと、17分の短編はそう語りかけながら終わりを告げている。この映画をチャップリンが見ていたという証言は残っていない。おそらく似たような映画は撮られているのだろう。だが仮に見ていないとしても映画史は密かに受け継がれている。

「少女と彼女の信頼(THE GIRL AND HER TRUST)(1912.3.23)

駅員のウィルフレッド・ルーカスに密かに思いを寄せながらもそのぶしつけな態度に思わず怒りを露わにしてしまった通信オペレーターのドロシー・バーナードはラストシーンで彼に救われ二人で汽車の最後尾のデッキに座り未だ彼に文句を言いだす彼女の目の前にふと駅員の差しだしたパンが置かれると彼女はそれを手に取り口にするや否や駅員とキスをし汽車の真横から噴き出される真っ白な蒸気が2人を祝福しこの15分の短編は終わっている。ひとかけらのパンがすべてを解決してしまうこの無意味なラストシーンは「THE OLD ACTOR(老役者)」でメアリー・ピックフォードが父親の付け髭を撫でただけですべてが変わってしまった唐突で無意味なきっかけと通底し「麦秋」(1951小津安二郎)で息子との結婚を唐突に承諾した原節子(紀子)に杉村春子が『紀子さん、パン食べない?、アンパン!』と叫んだ脈略のないシーンへと受け継がれている。因果の流れから逸脱したモーションピクチャーのエモーションは密かに残虐の映画史を呼び寄せながらそれとはなしにフィルムに刻み続けられている。

「厚化粧したレディ(THE PAINTED LADY)(1912.10.19)

愛する男が自分を利用していただけだと知った娘ブランチ・スウィートは精神を病み男と逢引きを重ねた想い出の場所に吸い寄せられるように通い続ける。その想い出の場所がずっと同じ構図で撮られることで中抜きの結果としての『同じ場所は同じ構図で撮られていること』を超え、場所それ自体が物語から逸脱した衝動を惹き起こしている。初期映画における大量生産という限界が生み出した中抜きという方法がモーションピクチャーの過程でエモーションに形を変えて根付いている。

THE SANDS OF DEE(ディー砂浜)(1912.7.20)

「らせん階段(The Spiral Staircase)(1945 RKO ドーリー・シャリー製作)の冒頭、ドロシー・マクガイアが映画館で見ている作品がこの「ディー砂浜」であり、また主役をメェ・マーシュに奪われたメアリー・ピックフォードがバイオグラフを去るきっかけにもなるといういわくつきの作品でもある。婚約者のいる男に騙され弄ばれた娘(メェ・マーシュ)が父親に勘当され海に身を投げて命を落としたあと、砂浜でおぼろげに姿を現したメェ・マーシュの姿を漁師たちが目撃し『漁師たちは今でも砂浜で羊を呼ぶ彼女の声を聞くことがあるという』と字幕が入って終わっている。そのメェ・マーシュの、見えるか見えないかのおぼろげなイメージが可視と不可視のあいだでエモーショナルに揺れている。

■母親の不在

THE INNER CIRCLE(インナーサークル)(1912.8.10)

貧しい男が亡き妻の写真に花を添え幼い一人娘にキスをしてから仕事に出て行くところから始まるこの作品は、ある組織に利用された彼が金持ちの家に爆弾を仕掛けたところ偶然そこに自分の幼い娘が保護されているのを見て、娘を救うために仕掛けた爆弾を取り除くも爆死するという物語だが、父親を失った娘は金持ちの家に引き取られラストシーンでは誰もいなくなった男の小さな部屋がテーブルの上に置かれた亡き妻の写真とともにフェイドアウトで暗くなって終わっている。娘のために命を投げ出す父親の姿が決して言及されることのない母親()の不在という不可視の記憶によって解き放たれ、家族が3人で過ごした小さな部屋と妻の写真が暗くなって消えてゆくこのラストシーンは余りにも残酷でありながら現在と記憶のあいだに惹き起こされるエモーションによってフィルムを奮わせている。

MY BABY(私の赤ちゃん)(1912.11.23)

『二組の結婚式は老人(old man)から2人の子供を奪い去った』と字幕が入って始まるこの母親()不在の作品は、2人の子供を結婚によって失った老齢の父親(W・クリスティー・ミラー)が、最後に残った孫の年くらい離れている娘(ピックフォード)の新婚旅行に付いて行こうとして拒絶され()、怒った父親は娘夫婦を勘当して孤独な日々を過ごすことになる。2年後、老齢の父親は娘夫婦の家の窓から侵入して生まれたばかりの赤ん坊に会いに行き、帰宅すると『この赤ん坊が娘に似ているか確かめるため』にもう一度娘夫婦の家に忍び込み、赤ん坊の顔をまじまじと見つめているところで娘夫婦に見つかり、和解する。母親の不在を省略し父親の娘に対する過剰なまでの執着だけを視覚化し続ける映画史は土煙と風のように初期映画の限界から生まれた省略の贈り物かも知れない。

★雨の「起源」

雨が初めて撮られているのはメアリー・ピックフォード主演のTHE SCHOOL TEACHER AND THE WIFE(学校の先生と妻)(1912.6.29)であり、何かと「起源」に顔を出す未来の大スター、メアリー・ピックフォードが飲んだくれの父親に締め出された小屋の外で夜通し雨に降られてびしょ濡れになるシーンが撮られている。がさつな父親と2人暮らしの娘の母親の不在という不可視の主題が雨という可視的な主題を呼び寄せ娘の体に降り注いでいる。

■両親の不在

不在により運動が際立つという現象は「THE BURGLARS DILEMMA(押し込み強盗のジレンマ)(1912.12.14)における兄弟にも見られている。この兄弟には両親がいない。それぞれ成人になり独立して暮らしをしている男ならば両親の不在は問題にならないがここでは兄弟は同居しておりかつ弟は兄から小遣いをせびっていることから兄には父親代わり、母親代わりの歴史があるように撮られている。ふとした喧嘩から兄(ライオネル・バリモア)を殴り殺してしまったと勘違いした弟(ウォルソール)が偶然入って来た強盗(ロバート・ハーロン)に罪をなすりつけようとして警官を呼び強盗を逮捕させたあと生きていた兄が出て来てびっくりするという物語であり、殺人とその隠蔽というもはや兄弟の関係を維持することは不可能な犯罪が行われているにも拘らず兄弟は握手をして晴れやかに和解している。両親の不在という不可視の痕跡なくしてあり得ないあっけらかんとしたこの改心は可視的な運動がそれと一体を成す不可視の不在の省略によって宙吊りとなり理由なき運動として観客の前に突然理解を超えたこととして現れてくる。両親の不在における兄弟のあいだの絆は「見えざる敵(AN UNSEEN ENEMY)(1912.9.7)のギッシュ姉妹にも当てはまり、終始寄り添いながら強盗の襲撃から身を守り続けているこの幼い姉妹はほんとうの姉妹であることを超えた父親の不在という不可視の細部が2人を過剰なまでに寄り添わせ守り合わせている。こうしたことからすると両親のみならず姉妹も仲間もいない「Lolas Promise(ローラの約束)(1912.3.9)のローラの孤独は際立っている

★ミステリーを撮らない

THE NARROW ROAD(狭い道)(1912.7.27)ではA→男(エルマー・ブース)の家に昔の刑務所仲間がやって来て寝室に犯罪道具を隠して逃げ、B→そのあと刑事たちがやって来て家宅捜索するというシーンが撮られているが、その犯罪道具は→C窓から忍び込んだ浮浪者たちによって既に盗まれていて男は逮捕されず刑事たちは帰ってゆく。ここでシーンはACBの順で撮られているので見ている観客は寝室に犯罪道具がないことを知っていながら家宅捜査の過程を見ていることになる。サスペンスとは運動の過程を見せることでありミステリーとは運動の原因を知的に探ることであるが、ここで仮にABCの順で上映されたとすると観客は犯罪道具が寝室にないことを知らずに見ることになり、そこにサスペンスを生じることはあるにしても刑事たちが帰ったあと犯罪道具はどうなったというミステリーが生ずる。これは運動による力ではなく知性の力によって生じる驚きでありグリフィスは初期映画においてこのようなミステリーを撮ろうとはしていない。これまで検討した作品にミステリーは1本も含まれていない。

■寄り

寄ることと引くことは最早すべてを表に記録することは困難なくらい

飛躍的に増加している(視覚的細部表参照)

■近代的寄り(視覚的細部表参照)

1911年には6作品に過ぎなかった近代的寄りが1912年には13作品に倍増し、近代的寄りの撮られているショット数も21ショットから34ショットへと増えている。

★事物へのクローズアップの進化

MANS GENESIS(人間の創生)(1912.7.6)では中盤、原始人のロバート・ハーロンが石の輪を木の枝で突いて枝に通し人類が初めて武器を創り出すシーンがクローズアップへの寄りで撮られている。既に1908年「BETRAYED BY A HANDPOINT(手形に裏切られた)(1908.9.5)では石鹸の箱の中にネックレスを隠すシーンのクローズアップがフローレンス・ロレンスの生々しい手の動きと共に撮られているが、背景が暗くなっていることから別の場所で撮られているように見える。近代的寄りは狭い一つの空間の一角に実際にキャメラを寄せることに意義があり別の空間で撮られていると推察されるショットを挿入しても原初的寄る・引くとなり近代的寄りにはならない。この石の輪っかを突くシーンはその直前のショットと同じ光の質で撮られていて実際にその場で寄って撮られているように見えることからそこへの寄りは近代的寄りとなる。「THE UNWELCOME GUEST(歓迎されない客)(1912/1913.3.8)においても妻が鞄に金を隠すシーンと食卓で食事をするシーンが事物への近代的寄りとしてのクローズアップで撮られている。

★切り返しの数 原初的含めたすべての切り返しの数の変遷は以下の通り

19097 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 2 0 0 0 0 8 0 0 1 0 2 0 0 0 0 0 0 10 0 0 1 0 1 5 4 0 0 1 0 6 5 1 0 0 3 0 1 0 2 1 0 2 0 3 9 0

19103 8 0 1 0 0 5 1 1 0 8 16 3 14 ? 4 1 11 16 3 5 2 5 2 8 9 5 7 3 44 5 13

191113 6 6 3 0 23 24 18 15 13 12 23 5 8 19 20 18 37 23 33 41 25 15 13 13 9 2 33 30 24

1912→46 12 26 24 34 31 14 26 16 32 23 19 22 25 19 24 15 18 30 26 10 28 30 20 21 12 12 22 25 18 7 28

今年もまた飛躍的に増加している。だが近代的切り返しに限っては未だ1ショットも撮られていない。

★近代的切り返しと奇妙な同一画面

THE BURGLARS DILEMMA(押し込み強盗のジレンマ)(1912.12.14)では終盤、2人の刑事に自白を迫られているロバート・ハーロンとそれを見ているウォルソールとが切り返されているように見えるシーンが撮られている。仮にそうだとするとこれは1室の内部における切り返しであり近代的切り返しとなるはずだがここでは奇妙な出来事が起こされている。最初にA刑事たちからBウォルソールへと切り返されているように見えるが、原ショットのAをよく見ると右の刑事の後方にウォルソールの顔が一瞬同一画面に映っている。すると次のショットBAからBへの切り返しとなるのではなくAからAの中にいるウォルソールへの近代的寄りということになる。AのウォルソールからAのウォルソールへと画面がつながれているのだから切り返しではない。こうして今度はウォルソールを捉えたBが切り返しの原ショットとなりそこから再び刑事とハーロンの3人へと切り返されているように見える(C)。ところがこのCもよく見ると右側の刑事の後ろにウォルソールが後ろを向いて隠れるようにして立っている。するとこれもBのウォルソールからCのウォルソールへの転換となり切り返しではなく「引き」ということになる。そこからふたたび画面はDウォルソールへと近代的寄りが撮られ、Eふたたび切り返されているように見えながらまたまたウォルソールが後方に映っているので切り返しではなく「引き』」となり、これがもう一度繰り返されている(FG)。ここにおける刑事たちとウォルソールの4人の同一画面ACEはいかにも奇妙でありまさに『奇妙な同一画面』の「起源」ともいうべき原初的奇形性に包まれている。ここには同一室内における切り返しそのものに対する忌避があるようにも見える。いきなりABへと切り返すと観客が混乱を生じる、よってABではなくABBへと転換させなければならない。あくまでも憶測だが人間の忌避とは論理的なものではなく奇妙なものであることからするならばそのような感覚があったかも知れない

★室内における切り返しは以下の2作品

A LODGING FOR THE NIGHT(一晩の宿)(1912.5.4)⑤⑧上下の切り返し 

LENA AND THE GEESE(レナと鵞鳥(ガチョウ))(1912.6.15)③仕切りのない横長の部屋

1911の室内における切り返しは

THE MAKING OF A MAN(男の誕生)(1911.9.30) 舞台と観客席とのあいだの切り返し

THR TRANCEFORMATION OF MIKE(マイクの改心)(1911/1912.1.27) 階段分割による上下の切り返し

THE SUNBEAM(日光)(1911/1912.2.24) 三間続きの部屋における切り返し

となり、近代的切り返しが存在せず1室を上下に広げるか横に広げるかという点においても1911年と1912年は変わっていない。

見つめ合う視線の切り返し(視覚的細部表参照)

1908年 1作品

1909年 なし

1910年 3作品

1911年 8作品 室内2作品(階段、三間続きの部屋)

1912年 22作品 室内2作品

見つめ合う視線の切り返しの撮られた作品は激増し室内における見つめ合う視線の切り返しも初めて撮られている。あとは近代的切り返しだけ、というところまで切り返しの進化は来ている。

★二間続きの部屋における見つめ合う視線の切り返しの「起源」

THE UNWELCOME GUEST(歓迎されない客)(1912/1913.3.8)

この作品はどなたかが映画館のスクリーンを撮影したフィルムをYouTubeにアップロードされたものでやや右側の席からの撮影らしくスクリーンも斜めに撮影されているが映画は斜めから見ても映画であることに変わりはない。年末に撮影され翌年封切られたこの「歓迎されない客」切り返し①では二間続きの部屋における見つめ合う視線の切り返しが初めて撮られている(「起源」)。一見さほどのことではないように見えてしまうが意外なことに二間続きの部屋のあいだで見つめ合う視線の切り返しが撮られたのはこれが初めてである。左の部屋と右の部屋を別々に撮り、その中の人物にそれぞれ右方向と左方向を見つめさせ、それをあとから編集で繋げれば二間続きの部屋における見つめ合う視線の切り返しを撮ることができ、これまでの技術のみならずシステムからしてもこれを撮ることはさほど困難であるようには見えないが、これが撮れない。だからこそここに忌避にも似た何かを見てしまうのだがロケーションではできることが二間続きの部屋になると途端に委縮してしまう。ところが一度撮られてしまうと即座にTHE GOD WITHIN(内なる神)(1912.12.21)の切り返し①において二間続きの部屋における見つめ合う視線の切り返しが再び撮られている。この短編はYouTube1分しか見られないにもかかわらずそこにこのような重要なショットを見ることが出来るのは山中貞雄の残した3本があり得ない3本であるのと同じように映画の神様の怒りかも知れない。

「見えざる敵(AN UNSEEN ENEMY)(1912.9.7)

家政婦が二間続きの部屋の仕切りの壁にある覗き穴から銃を突き出して隣室の姉妹を脅かしそのあいだに金庫の金を盗もうというシーンが撮られているが二間続きの部屋の仕切りの壁に空いた小さな穴によってコミュニケーションをとることの苦しさが依然として現れている。映画の進化は目に見えないあいだで押したり引いたりしながら進んでいる。

★正面からの切り返し

SO NEARYES SO FAR(とても近くて、とても遠い)(1912.9.28)の切り返し①では馬車で去ってゆくピックフォードとそれを見て追いかけてゆくウォルター・ミラーとのあいだが3ショット内側から切り返されている。ここで撮られているのはロケーションにおける見つめ合う視線の切り返しだが、ウォルター・ミラーが振り向くと馬車に乗っているピックフォードも振り向くショットへ切り返され、さらにまた振り向くウォルター・ミラーへと切り返され再びピックフォードへと切り返されているが、ここでピックフォードは正面から撮られている。これはキャメラが人物の正面から切り返された「起源」でありそれによってピックフォードのショットは切り返しの相手ではなくキャメラを見ていることによる「ずれ」が生じている。まるでウォルター・ミラーなど存在しないかのようにキャメラへ向かってポーズを取るようなたたずまいを見せているピックフォードはそのために撮られているのであり、撮る者が撮られる者に魅入られているとき、切り返しという物語の連鎖が断ち切られ交換の効かない「そのひと」が現れて来る。SWORDS AND HEARTS(剣と心)(1911.9.2)では序盤、農園主のウィルフレッド・ルーカスが出征する時、彼から平行モンタージュでカットバックされたドロシー・ウエストが笑みを浮かべ白い花を手にしながらショット内モンタージュでキャメラの横を通り過ぎてゆくシーンが撮られているが、唐突に意味もなく撮られたこのショットもまたそのために撮られたショットであり、撮る者が魅入られていることによってのみ撮られる交換の効かない瞬間である。

■主観ショット

主観ショット、原初的主観ショットの変遷を見ると

1908

なし

1909

主観ショット1 作品

原初的主観ショット5作品

1910

主観ショット1 作品

原初的主観ショット3作品

1911

主観ショット2作品 

原初的主観ショット17作品(室内3)

1912

主観ショット 9作品 

原初的主観ショット 15作品(室内3)

室内における「主観ショット」は1ショットも撮られていない。近代的切り返しが撮られない限り室内において見た目の角度からの主観ショットを撮ることは不可能ということだろう。ただ、ロケーションにおける見た目の角度の合っている主観ショットが劇的に増えているのも事実である。

MY BABY(私の赤ちゃん)(1912.11.23)

確かにロケーションにおける見た目の角度の合っている主観ショットは増加しているが「私の赤ちゃん」における窓からの父親の切り返し④の主観ショットを見るとグリフィスは主観ショットにおいて見た目の正確な角度よりも正面から撮ることを優先しているようにすら見えて来る。見た目の角度からずれている正面からの主観ショットは前後の物語から「ずれ」ていることによる過剰を現している。

■鏡、斜めの壁

鏡についてもキャメラが1室の内部に入ることが前提となることから近代的寄りが当たり前のような状況にならない限り有効に活用されることはなく、斜めの壁についても近代的寄りが日常的になれば通常の部屋と同じ形状に落ち着くはずである

★近代的切り返し

1911
年に切り返しが根付き始めたものの近代的切り返しは根付くどころか撮られてもいない。だが近代的寄りが急激に撮られるようになったことによって近代的切り返しの条件は揃い始めている。

■原初的二間続きの切り返し

1911年は9作品で撮られていたのが1912年は7作品に減少している(視覚的細部表参照)。これを減少と評価して良いかは微妙だが、近代的切り返しが撮られるようになれば原初的二間続きの切り返しは必然的に減少してゆくはずである。ただ、年末に撮られた「THE BURGLARS DILEMMA(押し込み強盗のジレンマ)(1912.12.14)では撮られている28ショットの切り返しがすべて原初的音声空間の切り返しと原初的二間続きの切り返しであるように、未だ原初の壁は厚く立ちはだかっていることに変わりはない。

■クローズアップ(顔・頭)

「ピッグアレイの銃士たち(THE MUSKETEERS OF PIG ALLEY)(1912.10.26)で裏路地を歩いて来たエルマー・ブースがショット内モンタージュでクローズアップになるまでキャメラに接近しそのまま静止することによって初めて顔のクローズアップが撮られている。1912年に撮られている顔のバスト・ショット以上の近景の流れを封切の時間的に見てみると

2人バスト・ショット

THE MENDER OF NETS(網の修理者)(1912.2.10)

A BEAST AT BAY(追いつめられた野獣)(1912.5.25)

LENA AND THE GEESE(レナと鵞鳥(ガチョウ))(1912.6.15)

「ニューヨークの帽子(THE NEW YORK HAT)(1912.11.30)

バスト・ショット

THR GODDES OF SAGEBRUSH GULCH(ヨモギ渓谷の女神)(1912.3.23)


THE FAMAL OF SPECIES(人類の女性)(1912.4.13)


「見えざる敵(AN UNSEEN ENEMY)(1912.9.7)


FRIENDS(フレンズ)(1912.9.21)


A FEUD IN THE KENTUCKY HILLS(ケンタッキーヒルズの確執)(1912.9.28)

2人クローズアップ 

THE INNER CIRCLE(インナーサークル)(1912.8.10)

となっていて「ニューヨークの帽子」を除いてすべて「ピッグアレイの銃士たち」の封切られた1026日以前に封切られている。少しずつ(恐る恐る)キャメラが2人から一人の、バスト・ショットからクローズアップへと接近していく経緯を見ることが出来る。

クローズアップ

次に人間のクローズアップを見てみると

UNDER BURNING SKIES(燃える空の下で)(1912.2.27)横顔。左隅。 

「少女と彼女の信頼(THE GIRL AND HER TRUST)(1912.3.23)後頭部が3 

THE INNER CIRCLE(インナーサークル)(1912.8.10)横顔。左隅。 

「ピッグアレイの銃士たち(THE MUSKETEERS OF PIG ALLEY)(1912.10.26) 

THE MASSACRE(虐殺)(1912/1914.2.26) 赤ん坊2 

となっていて、ここでも横顔→後頭部→横顔、、と顔のクローズアップを忌避しているようにしか見えないショットが撮られ続け、さらに横顔は画面の左隅に押しやられ後頭部だけが画面の中央に捉えられている。この「少女と彼女の信頼」でドアノブの鍵穴に弾を打ち込むドロシー・バーナードの黒光りし髪の分け目までしっかり映っているこの異様な後頭部のクローズアップは顔のクローズアップに対する忌避の映画史をはっきりと刻んでいる。そしてついに「ピッグアレイの銃士たち」で顔のクローズアップが撮られることになるのだが、これもまたいきなりドンと画面の中央でクローズアップが撮られるのではなく、遠くから歩いてきたエルマー・ブースがショット内モンタージュでキャメラの前に接近し、そのまま静止するという実に消極的な(奥ゆかしい)撮られ方によって成し遂げられているのであり、さらにそのクローズアップは画面の右端に撮られただけでそのあとすぐにエルマー・ブースはキャメラの右横を通り過ぎて去ってしまう。だが、その後に撮られている「虐殺」の赤ん坊の2つのクローズアップは画面の中央に堂々と撮られていてそこに忌避を見ることはできない。大人は怖いが赤ん坊なら、、という忌避の裏返しがここに見えているようでもある。

★キャメラの横を通り過ぎることとクローズアップ

キャメラの横を通り過ぎることがクローズアップへと接近している作品を見ると(時間は上映、アップロードの環境によって異なる)

THE MENDER OF NETS(網の修理者)(1912.2.10) 830秒ピックフォード

UNDER BURNING SKIES(燃える空の下で)(1912.2.27)440秒ウィルフレッド・ルーカス、1040秒砂漠の夫婦、

THE FAMAL OF SPECIES(人類の女性)(1912.4.13)915秒砂漠でクレア・マクドウエル、

THE OLD ACTOR(老役者)(1912.5.4)1220秒ピックフォード

THE INNER CIRCLE(インナーサークル)(1912.8.10)5分過ぎの少年、11分の警官たち

「見えざる敵(AN UNSEEN ENEMY)(1912.9.7)950秒ドロシー

「ピッグアレイの銃士たち(THE MUSKETEERS OF PIG ALLEY)(1912.10.26)530秒リリアン・ギッシュ、

などであり、これら以外の作品でも基本的にキャメラの横を通り過ぎる運動はよりキャメラへと接近しつつありその過程において「ピッグアレイの銃士たち」のクローズアップが撮られている。初期映画におけるジョージ・アルバート・スミスGrandma’s Reading Glass(おばあちゃんの老眼鏡)(1900.11)のクローズアップなどのように別の場所で撮られているクローズアップは原初的寄る・引くにおける技術的クローズアップでありモーションピクチャーの物語の過程におけるクローズアップではない。モーションピクチャーのクローズアップは、ひとつはショット内モンタージュという運動の過程において生まれそれらはキャメラの横を通り過ぎる運動であることからすべて画面の隅におけるクローズアップへの接近であり、クローズアップはその「起源」から画面の中央で静止して撮られることの忌避から始まっている

★もうひとつのクローズアップ

キャメラの横を通り過ぎる運動とは別のルートで撮られるクローズアップがある。「清き心(ENOCH ARDEN)(1911.6.17)、「THE INNER CIRCLE(インナーサークル)(1912.8.10)などにおける2人クローズアップであったり、「FRIENDS(フレンズ)(1912.9.21)の「寄る・引く」③で撮られたメアリー・ピックフォードのバスト・ショットのように、キャメラの横を通り過ぎる過程ではなくそのショットそのこととして撮られる近景がその「起源」となる。「THE MASSACRE(虐殺)(1912/1914.2.26)では赤ん坊の2つのクローズアップが撮られているがここには『成人のクローズアップは撮りにくいので赤ん坊なら』という忌避が見られないでもなく成人のクローズアップに限定すると1912年までにはこのルートでは撮られていない。初期映画におけるクローズアップへの接近としてはこのようにいきなりどん、と撮られるクローズアップよりもショット内モンタージュの過程での撮られる近景がはるかに多くまた運動と融合している。

■カッティング・イン・アクション

基本的にカッティング・イン・アクションは寄りのショットが多くなればそれに伴って多くなる。寄りが多くならなければ引きも撮られずカッティング・イン・アクションも撮られることはない。近代的切り返し、クローズアップ、カッティング・イン・アクション、この3つはセットになって進化の歴史を歩んでいる。そのすべての前提がキャメラを寄ることであり、初期映画を時系列で見てゆくと進化とはキャメラを寄ることと大きく関係している。

★カッティング・イン・アクションは根付いたか

典型的カッティング・イン・アクションが根付いていないことから本格的に根付いてはいないが寄りがこれだけ多く撮られ始めた1912年は(視覚的細部表参照)カッティング・イン・アクションが根付き始めようとしている最初の年として書き留められるかもしれない。この1912年にモーションピクチャーは新たな領域へと足を踏み入れているが、寄ることのあとから来るカッティング・イン・アクションの進化は寄ることよりも遅れて当然ということになる。

▲クロス・カッティング

6作品でクロス・カッティングが撮られているが報われないクロス・カッティングは1本も撮られずすべて成功型のクロス・カッティングとなっている(視覚的細部表参照)1910年には4作品すべて報われないクロス・カッティングであったのが11年は6作品すべて成功型のクロス・カッティングとなり12年もまた6作品すべて成功型になっている。あらゆる細部によって物語の因果的連鎖を断ち切ることをフィルムに刻み続けているグリフィスの初期映画だが1911年あたりから物語映画への吸引が始まっているのか今後の課題となる。

■ロングショット

1910年「THE SORROWS OF UNFAITHFUL(不誠実の悲しみ)(1910.8.27)のラストシーンで海へ入ってゆくヘンリー・B・ウォルソールの後ろ姿をロングショットで捉えたピックフォードの主観ショットが撮られて以来、ロングショットでしか撮ることが出来ない、というシステム的限界を超えた、撮られるために撮られたロングショットの時代へと足を踏み入れている。以下、ロングショットの系譜について見てみると

1911

FIGHTING BLOOD(戦う血)(1911.7.1)一軒家を小高い丘から

THE SQUAWS LOVE(インディアンの女性の恋)(1911.9.9)メイベル・ノーマンドが川へ落下する時

THROUGH DARKNED VALES(暗い谷を越えて)(1911.11.11)ラストシーンでほうきを担いだチャールズ・ウェストを

THE MISERS HEART(守銭奴の心)(1911.11.18)窓の外に吊るされた少女を

BILLYS STRATAGEM(ビリーの策略)(1911/1912.2.10)俯瞰で砦を

などでロングショットは増え始め

1912

UNDER BURNING SKIES(燃える空の下で)(1912.2.27)砂漠を歩く夫婦、 

Lolas Promise(ローラの約束)(1912.3.9)多用

THE LITTLE TEASE(ちいさな悪)(1913.4.5)船の中から大きく引いて多用 


TEMPORARY TRUCE(一時的な休戦)(1912.6.8) 多用


MANS GENESIS(人間の創生)(1912.7.6) 斜面の決闘 

「死の歌(A PUEBLO LEGEND)(1912.8.24)多用

「見えざる敵(AN UNSEEN ENEMY)(1912.9.7)車を

THE SANDS OF DEE(ディー砂浜)(1912.7.20) 砂浜を俯瞰のロングショット

A FEUD IN THE KENTUCKY HILLS(ケンタッキーヒルズの確執)(1912.9.28)
THE MASSACRE(虐殺)(1912/1914.2.26)俯瞰から 

などによって撮られている。寄ることが多くなればそれを引くことも多くなりそれに伴いロングショットも撮られるようになる。それがすべてではないにしてもキャメラを寄ることが他の多くの細部を呼び寄せている。

1913年に起きていること

近代的切り返し~「THE HOUSE OF DARKNESS(暗黒の家)(1913.5.3)

1913年「暗黒の家」の切り返し③において遂にグリフィス初の近代的切り返しが撮られている。これについては後述する。

★新しく始まったこと

この年にシステムとして新しく始まったのはアイリスくらいで近代的切り返しは進化の到達点であり「新しく始まったこと」とは言い難い。映画の進化における「新しいこと」の多くは1912年までに終了しあとは「反射」のようにそれを発展させる段階に入っている。また1913年は短編の時代が終わりを告げ「ベッスリアの女王(JUDITH OF BETHULIA)(1913/1914.3.8)において長編へ足を踏み入れる年になる。

1913年を振り返る

■人間運動・巻き込まれ運動表

巻き込まれ運動は1本もなくすべて人間運動が撮られている。長尺化その他によって製作本数が少なくなっているが人間運動への傾向は最早変わることはない。

改心表を提示する。

すべて2-Bであり物体としての分離物による改心は見られない。しかしTHE HOUSE OF DARKNESS(暗黒の家)(1913.5.3)では精神患者のケート・ブルースが毛布を赤ん坊のように抱きしめ「魔性の女(THE MOTHERING HEART)(1913.6.14)でもリリアン・ギッシュがふきんや夫の背広を赤ん坊に見立てて抱いたりしているように物体による分離そのものが失われたわけではない。ただ改心という出来事においては分離物から離れてより透明化されている。「THE LITTLE TEASE(ちいさな悪戯)(1913.4.5)で父親のW・クリスティー・ミラーが勘当した娘メェ・マーシュをただ見つめただけで抱き寄せ和解しているのは彼女の顔の意味ではなく顔から分離した「かお」をまじまじと見つめることによってであり(あるいはまじまじと見つめることによって「顔」が「かお」になる)、「THE HOUSE OF DARKNESS(暗黒の家)(1913.5.3)の精神患者チャールズ・ヒル・メイルズがピアノの曲を聴いて治療されるという出来事はそれがピアノの意味のあるメロディではなく彼がピアノの音をまじまじと聞くことによって意味から分離された音声の振動に揺さぶられることとして撮られている。物体による分離という出来事が物の機能から運動が取り出されていることによって衝動を惹き起こしているように、顔を「見ること」「聞くこと」も「顔」という意味を読みとることのできる機能から「かお」という運動を分離させることで衝動を惹き起こすことにおいて共通している。こうした機能を運動へと転化させるのはまじまじと見つめること、聞くこと、触れること、であったりふらついたり胸に手を当てたり帽子を脱いだり物を落とすことであり、そうした細部が我々によって見られることにより初めてエモーションとして顕在化されることになる。

「ベッスリアの女王(JUDITH OF BETHULIA)(1913/1914.3.8)

敵陣地へ偽りの投降をした女ブランチ・スウィートが敵の将軍ヘンリー・B・ウォルソールと愛が芽生えみずからの任務を忘れ眠っている将軍にすがりついている時、ふと彼女は目の前の光景を見て驚き胸に手を当て立ち上がり恐ろしい顔であたりを見回すと剣を手にして一気に将軍の首をはねている。その光景とは飢餓や戦闘で死んだ同胞の者たちの壮絶な映像であり、その映像が平行モンタージュによって挿入された時、彼女はまるでそれが自分の目の前に展開している出来事のようにして凝視し衝動的に改心しためらうことなく将軍の首をはねている。フリッツ・ラング「死滅の谷(DER MUDE TOD)(1921.10.6)で終盤、火事の中から助けた赤ん坊を死神ベルンハルト・ゲツケに差しだそうとした娘リル・ダーゴヴァーが、赤ん坊の母親の映像が平行モンタージュで挿入された直後に衝動的に窓辺へ走り赤ん坊を窓から母親のもとへ逃がしているように、改心の映画史は衝動的に受け継がれている。一見読める平行モンタージュもその後の娘たちの衝動的運動によってエモーションの流れの過程に収められている。

■母親の不在

THE TELEPHONE GIRL AND LADY(電話交換手の娘と貴婦人)(1913.1.4)では母親の不在の家庭において父親が娘(メェ・マーシュ)に結婚相手を押し付け娘を悲しませるという出来事が反復されている。不在が存在によって可視化されるこうした現象の起源はグリフィスかどうか不明だが、ここまでの頻度において不在の現在化をフィルムに収めた監督が同時代、あるいはそれ以前に存在するか否かの「起源」探しは今後もなされるだろう。

■切り返しの数

19097 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 2 0 0 0 0 8 0 0 1 0 2 0 0 0 0 0 0 10 0 0 1 0 1 5 4 0 0 1 0 6 5 1 0 0 3 0 1 0 2 1 0 2 0 3 9 0

19103 8 0 1 0 0 5 1 1 0 8 16 3 14 ? 4 1 11 16 3 5 2 5 2 8 9 5 7 3 44 5 13

191113 6 6 3 0 23 24 18 15 13 12 23 5 8 19 20 18 37 23 33 41 25 15 13 13 9 2 33 30 24

1912→46 12 26 24 34 31 14 26 16 32 23 19 22 25 19 24 15 18 30 26 10 28 30 20 21 12 12 22 25 18 7 28

19136 92 8 21 12 53 66

こうして眺めて見ると感慨深いものがあるが近代的切り返しが初めて撮られた1913年は劇的な進化はほぼ終了しそれを応用、発展させる時代へと変化してゆく年となる。

近代的切り返し~「THE HOUSE OF DARKNESS(暗黒の家)(1913.5.3)

1913年「暗黒の家」の切り返し③において遂にグリフィス初の近代的切り返しが撮られている。施設の看護師クレア・マクドウエルが家で猫をあやしている時、背後の窓から侵入してきた男チャールズ・ヒル・メイルズが彼女の右後方にある椅子の陰に隠れる。ここまではいつもの狭い1部屋を正面からフルショットで撮られた縦の構図のいつものショットであり、背後の男に気づかないことにするのもいつものことである。ところが次にややキャメラがやや左へ向けられながら看護師のバスト・ショットあたりまで寄る(近代的寄り)。そうすることで右空間に新しい空間が作出される。その余白へキャメラが切り返される、この瞬間、近代的切り返しが初めて撮られている。あくまでこれは「起源」であって起源ではないのだから記念すべきと形容することは差し控えるにしても、だが、それにしても、こんな「簡単な」ことをするのにいったいどれだけの過程が費やされてきたのだろう。時系列でグリフィスの初期映画を体験することによって現れてきたのは進化への意志なるものではなく日々の淡々とした撮影の過程における「何を撮るのか」という欲求の積み重ねでありその結果として近代的切り返しというあの狭い室内空間を無限に広げる映画の夢をグリフィス組は手に入れている。

■寄り(近代的寄りを除く)

「魔性の女(THE MOTHERING HEART)(1913.6.14)で多用され「ベッスリアの女王(JUDITH OF BETHULIA)(1913/1914.3.8)では寄り17ショット引き12ショットと激増している。寄りが近代的寄りを生み、近代的寄りが近代的切り返しを生み出す。さらに寄りはクローズアップと引きを生みロングショットを生みカッティング・イン・アクションを生み出す。寄ることが拡げることを生みリズムを生みだす。

■ウエスト・ショット

★「死のマラソン(DEATHS MARATHON)(1913.6.7)では電話をしているウォルソールに14ショットものウエスト・ショットが撮られており近景に対する忌避は払拭されつつある。

■もうひとつのクローズアップ~「ベッスリアの女王(JUDITH OF BETHULIA)(1913/1914.3.8)

飢餓に苦しむ住民たちを窓から見ているブランチ・スウィートのクローズアップが2ショット画面の中央で撮られている。これはキャメラの横を通り過ぎることとは別ルートでの顔のクローズアップの「起源」となる。このクローズアップはショット内モンタージュから派生したクローズアップではなく、横顔、後頭部、2人バスト・ショット、2人クローズアップ、といった段階を経て撮られた「もうひとつのクローズアップ」としてある。だが、このクローズアップはそれまでの長い痕跡の過程の結果として現れたことであり『リリアン・ギッシュの顔に魅了されたから』等の理由でいきなりどん、とクローズアップが撮られているわけではない。常に日常と共に現れる出来事として進化はあり決定的な意志がどこかに存在するわけではない。

★クローズアップその2

THE HOUSE OF DARKNESS(暗黒の家)(1913.5.3)では木の幹から顔を出しキャメラを正面から見据えながら画面の左隅に出現したチャールズ・ヒル・メイルズのクローズアップが撮られている。当然彼はそのまま画面の左を通り過ぎて行くのだが、このチャールズ・ヒル・メイルズという役者はキャメラを正面から見据える「起源」、近代的切り返しの「起源」など、メアリー・ピックフォード同様に何かと「起源」に顔を出す人でありその実生活上の妻クレア・マクドウエルとの共演を含めて多くのグリフィス作品に出演している。

「魔性の女(THE MOTHERING HEART)(1913.6.14)

室内における切り返しは「THE HOUSE OF DARKNESS(暗黒の家)(1913.5.3)の近代的切り返し以外では「魔性の女」の切り返し⑦⑧において数多く撮られておりそこに進展を見出すことも可能だが、この切り返しが撮られた空間はあの狭い1室を大きく縦横に広げたレストランの大ホールであり1912年における「A LODGING FOR THE NIGHT(一晩の宿)(1912.5.4)LENA AND THE GEESE(レナと鵞鳥(ガチョウ)(1912.6.15)と同じように狭い一室を上下、左右に拡げることによって撮ることのできた切り返しであり、未だ狭い1室におけるキャメラの不自由さは払拭されておらず進化の過程を彷徨い続けている。

★反射 

切り返し⑧では魔性の女と見つめ合っている夫の顏(視線)を妻のリリアン・ギッシュが見て振り向き魔性の女が夫を見つめていることを確かめている。これは直接振り向いて魔性の女を見るのではなく1クッション置いた夫の顔を見ることで女の視線に気づき振り向いて女を見ていることにおいて、夫の顔(視線)を鏡のようにして見ていることから以降、これを「反射」として検討する。これについてロベール・ブレッソンは『先日、私は、ノートルダム・寺院の公園を横切る途中で一人の男とすれ違ったのだが、そのとき、私の背後にあって私には見えない何ものかを捉えた彼の眼が、突然ぱっと明るくなった。彼が走り寄っていった若い女と小さな子供に、もし、私もまた彼と同時に気づいていたならば、この幸福な顔は私をこれほど強くうちはしなかっただろう。恐らく。それに注意を向けさえしなかったことだろう』(シネマトグラフ覚書139)と書き、直接見るのではなく「反射」による1クッションそのことを見ることの驚きについて語っている。これもある種の分離であり若い女と小さな子供が分離した男の「かお」の驚きが書かれている。

★目を逸らすこと

その後、夫の顔を見て振り向いたリリアン・ギッシュと目が合った魔性の女が慌てて目を逸らしている。これは成瀬己喜男論文でも検討したが、見ていることを相手に知られた者が慌てて視線を逸らすことによって「見ていたこと」が逆に明らかになるという獲り方であり見つめ合う視線の切り返しが前提となって初めて可能な出来事であることからして反射を含めてこの時期にグリフィスにおける切り返しの進展が見られている。

「エルダーブッシュ峡谷の戦い(THE BATTLE AT ELDERBUSH GULCH)(1913/1914.3.8)

★近代的切り返し

THE HOUSE OF DARKNESS(暗黒の家)(1913.5.3)によって初めて撮られた近代的切り返しがこの作品でも切り返し26によって撮られている。一度撮られてしまえば忌避が和らぎ立て続けに撮られるようになる。忌避は克服され進化は終わりに近づいていることを意味している。

★反射

さらにこの切り返し26では
妻のリリアン・ギッシュ夫ロバート・ハーロンの驚く顔を見て「何を見ているの?」という感じで振り向きそこに赤ん坊たちを見て驚いている。「魔性の女(THE MOTHERING HEART)」(1913.6.14)で初めて撮られた「反射」もまたここにおいて反復されている。DW・グリフィスの実質的に最後の短編におけるラストシーンは、反射と近代的寄り、近代的切り返しによって幕を閉じている

■カーテンと切り返し

「死のマラソン(DEATHS MARATHON)(1913.6.7)の夫婦の自宅の仕切り、「エルダーブッシュ峡谷の戦い(THE BATTLE AT ELDERBUSH GULCH)(1913/1914.3.8)の切り返し⑫、「ベッスリアの女王(JUDITH OF BETHULIA)(1913/1914.3.8)の切り返し⑧では仕切りにカーテンが使用され二間続きの部屋のおけるコミュニケーションは依然として不自由なまま残されている。

■主観ショット

ロケーションにおける主観ショットは増加しているが室内における主観ショットはこの年も撮られておらず未だに室内における視線については原初的の域を出ていない。だが寄りが多く撮られるようになりそれが近代的寄りを量産するようになる1913年前後の流れからするならばその先にある見た目の角度からの主観ショットが室内で撮られるようになるのは時間の問題ということになる。この進化の流れを見極めることが重要でありそれが具体的にいつ撮られたかはさして重要ではない。

■原初的二間続きの切り返し

「死のマラソン(DEATHS MARATHON)(1913.6.7)の切り返し④⑤⑥と「魔性の女(THE MOTHERING HEART)(1913.6.14)の切り返し⑤⑥⑩において撮られている。1913年は撮られた本数自体が減少していることからこの数字をして減少しているとすることはできないが近代的切り返しが根付くようになれば原初的二間続きの切り返しは消えてゆく運命にあるだろう。

■カッティング・イン・アクションは根付いたか

「ベッスリアの女王(JUDITH OF BETHULIA)(1913/1914.3.8)には多くの寄ること、引くことが撮られているがカッティング・イン・アクションにおける動作の重複は数えるほどしかなされておらず未だカッティング・イン・アクションを撮るための物語、設定がなされるにはほど遠い領域に位置している。しかし進化の過程を見るならば近代的寄りへの忌避がなくなりつつあるこの時期にカッティング・イン・アクションの完成は最早過程でしかなく時間の問題になる。立つ→引くという典型的カッティング・イン・アクションがいつ頃からどれくらいの頻度で撮られるようになるか、その時期はいつか、それについてはまたいつか書くこともあるかも知れない。

★鏡

「死のマラソン(DEATHS MARATHON)(1913.6.7)では4分過ぎ、泣いているブランチ・スウィートの姿がロングショットで鏡に反映されている。これまでの鏡の反射よりもより物語の過程に融合していることからここにはこれを撮ろうとする意志を見出すことができるがキャメラではなくブランチ・スウィートの方が右へずれることで鏡の反射が撮られていて鏡は依然として正面を向いたままであり原初的な域を抜け出せてはいない。

■バイオグラフを去る

「ベッスリアの女王(JUDITH OF BETHULIA)(1913/1914.3.8)をバイオグラフ社に内緒で撮ったグリフィスは1913年の9月にバイオグラフ社を去り長編を撮るためにミューチュアル・フィルム・コーポレーション(1912年創設)に週給千ドルで映画製作の責任者として移籍する。それによってグリフィスのバイオグラフでの初期短編映画の世界は終わりを告げる。最後の短編となる「エルダーブッシュ峡谷の戦い(THE BATTLE AT ELDERBUSH GULCH)(1913/1914.3.8)以降それまでの常連の役者たちがグリフィス映画から消えてゆき時代はリリアン・ギッシュへ舵を切り始める。

1908年から1913年を振り返る

The Black Viper(黒い毒蛇)(1908.7.21)

★1908年

共同監督とされるウォレス・マカッチョン・ジュニアはあのウォレス・マカッチョン・シニアの8人兄弟の長男で(この偉大なる父親については今後の論文で検討したい)、その父親の撮ったバイオグラフの作品に幾度か出演し1908年の春、病気になった父親の代わりに「AT THE CROSSROADS OF LIFE(人生の岐路で)(1908.7.3)という作品をグリフィスの脚本で撮っているらしくその次にグリフィスとの共同監督で撮られたのがこの「黒い毒蛇」ということになっている。デビュー作「ドリーの冒険(The Adventures of Dollie)(1908.7.18)と殆ど同時期に撮られているこの作品において注目すべきは切り返し①における上下の切り返しであり、崖の上から石を落とす者たちと崖の下で落ちて来る石をよけている者たちとが7ショットにも亘って切り返されている。その後グリフィスの作品で上下の切り返しが撮られるのは翌年に撮られている「THE GIRLS AND DADDY(姉妹とパパ)(1909.1.30)だがそこでは未だ上と下の境界が曖昧で原初的でありこの「黒い毒蛇」にようにはっきりと上下の切り返しが撮られるには1910年の末に撮られている「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)(1910/1911.1.7)まで待たなければならない。この「黒い毒蛇」における上下空間における切り返しは場所的に明確で上と下とのコミュニケーションが「見ること」によって図られていることからしてこの時期のグリフィスにしては「出来すぎ」の感があり、そうしたこともあってこの作品の検討を後回しにしたのだが、ここまで検討してからもう一度この作品を見直すとやはりこの上下の切り返しは「出来すぎ」であり、それが共同監督から来るにしても監督2作目のジュニアにこれが撮れるかということもまた疑問でありひょっとして病気の父親のアドバイスがあったのではと想像したりもするなんとも不思議な映画である。確かにグリフィスはデビュー間もない「THE FATAL HOUR(運命の時)(1908.8.22)でいきなりクロス・カッティングを撮り「WHERE BREAKERS ROAR(砕ける波の轟くところ)(1908.9.26)でいきなり見つめ合う視線の切り返しを撮ってしまっていることからすればこれをグリフィスの発案で撮ることもあり得るのかも知れない。

■切り返し

切り返しはその「起源」を原初的音声空間の切り返しに依っている。モーションピクチャーにおけるショットとショットとをコミュニケートさせる「起源」は音声と気配であり、音を聞くこと、振動に触れることによってショット同士のコミュニケーションがなされることから始まっている。それが次第に「見ること」へと移行してゆくのが1910年の後半「THE MODERN PRODIGAL(現代の放蕩息子)(1910.9.3)の切り返し②あたりからでありそれと時をほぼ同じくして1911年の中盤以降に原初的を含めて主観ショットの数が急増している↓

主観ショット

1908

なし

1909

主観ショット1 作品

原初的主観ショット5作品

1910

主観ショット1 作品

原初的主観ショット3作品

1911

主観ショット2作品 

原初的主観ショット17作品(室内3)

1912

主観ショット 9作品 

原初的主観ショット 15作品(室内3)

「見ること」と「見たこと」を主観ショットの定義とすることによりモーションピクチャーの進化の過程が「聞くこと」から「見ること」へと移行しつつある時期を知ることが出来る。1911年の中盤以降「見ること」をコミュニケーションとして取り入れたグリフィス映画は切り返しの数を劇的に増やしていき中々撮ることのできなかった見つめ合う視線の切り返しが撮られるようになる。

見つめ合う視線の切り返し(視覚的細部表参照)

1908年 1作品

1909年 なし

1910年 3作品

1911年 8作品(室内2作品→階段、三間続きの部屋)

1912年 22作品(室内2作品)

寄り

ここまで「寄り」が撮られた作品をもう一度見てみると

1908

The Curtain Pole(カーテンポール)(1908/1909.2.13)室内・ラストシーンだけ異質のショットで

AN AEFUL MOMENT(ひどい瞬間)(1908.12.19)室内・ラストシーンだけ異質のショットで

1909

At The Alter(祭壇にて)(1909.2.20)ロケーション

The Awakening(覚醒)(1909.9.30)ロケーション

1910

WINNING BACK HIS LOVE(彼の愛を取り戻す)(1910.12.31)室内

1911

寄り(近代的寄りを除く)

「清き心(ENOCH ARDEN)(1911.6.17)

FIGHTING BLOOD(戦う血)(1911.7.1)

THE REVENUE MAN AND HIS GIRL(税務署員と少女)(1911.9.23)

THE SQUAWS LOVE(インディアンの女性の恋)(1911.9.9)

THE ADVENTURES OF BILLY(ビリーの冒険)(1911.10.14)

THE BATTLE(戦い)(1911.11.14)

A WOMAN SCORNED(軽蔑された女)(1911.11.25)
室内

BILLYS STRATAGEM(ビリーの策略)(1911/1912.2.10)

近代的寄り

「女の叫び(LONEDELE OPERATOR)(1911.3.15)9ショット。

FIGHTING BLOOD(戦う血)(1911.7.1) 2ショット。

THE ROSE OF KENTUCKY(ケンタッキーのバラ)(1911.8.26) 3ショット

THE BATTLE(戦い)(1911.11.14)部屋の隅のブランチ・スウィートへ1ショット

A WOMAN SCORNED(軽蔑された女)(1911.11.25)1ショット

THR TRANCEFORMATION OF MIKE(マイクの改心)(1911/1912.1.27)5ショット

1911年の中盤以降からロケーションを含めた「寄り」だけでなく加速的に近代的寄りが撮られている。

1912

寄り(近代的寄りを除く) 

THE MENDER OF NETS(網の修理者)(1912.2.10)寄る3 

UNDER BURNING SKIES(燃える空の下で)(1912.2.27)寄る1

Lolas Promise(ローラの約束)(1912.3.9)寄る5

THR GODDES OF SAGEBRUSH GULCH(ヨモギ渓谷の女神)(1912.3.23)寄る3

「少女と彼女の信頼(THE GIRL AND HER TRUST)(1912.3.23) 

THE LITTLE TEASE(ちいさな悪)(1913.4.5) 

THE OLD ACTOR(老役者)(1912.5.4) 

TEMPORARY TRUCE(一時的な休戦)(1912.6.8) 

「見えざる敵(AN UNSEEN ENEMY)(1912.9.7) 寄る1

THE MASSACRE(虐殺)(1912/1914.2.26) 12-8 これ以上あり 

「少女と彼女の信頼(THE GIRL AND HER TRUST)(1912.3.23)3 

THE LITTLE TEASE(ちいさな悪)(1913.4.5)2 

THE OLD ACTOR(老役者)(1912.5.4)1 

TEMPORARY TRUCE(一時的な休戦)(1912.6.8) 多数 

「見えざる敵(AN UNSEEN ENEMY)(1912.9.7) 

A FEUD IN THE KENTUCKY HILLS(ケンタッキーヒルズの確執)(1912.9.28)多用 

THE MASSACRE(虐殺)(1912/1914.2.26)多用 

MY BABY(私の赤ちゃん)(1912.11.23)寄る、引く・
室内 

近代的寄り
 

「少女と彼女の信頼(THE GIRL AND HER TRUST)(1912.3.23)3ショット。 

A LODGING FOR THE NIGHT(一晩の宿)(1912.5.4)2ショット 

A BEAST AT BAY(追いつめられた野獣)(1912.5.25)1ショット。 

MANS GENESIS(人間の創生)(1912.7.6)1ショット 

THE INNER CIRCLE(インナーサークル)(1912.8.10)2ショット

SO NEARYES SO FAR(とても近くて、とても遠い)(1912.9.28))1ショット

「見えざる敵(AN UNSEEN ENEMY)(1912.9.7)6ショット。 

FRIENDS(フレンズ)(1912.9.21)6ショット。 

SO NEARYES SO FAR(とても近くて、とても遠い)(1912.9.28)1ショット 

MY BABY(私の赤ちゃん)(1912.11.23)4ショット。 

THE UNWELCOME GUEST(歓迎されない客)(1912/1913.3.8)2ショット

「ニューヨークの帽子(THE NEW YORK HAT)(1912.11.30)2ショット 

THE BURGLARS DILEMMA(押し込み強盗のジレンマ)(1912.12.14)3ショット。

カッティング・イン・アクション

1908

The Curtain Pole(カーテンポール)(1908/1909.2.13)ラストシーンだけ異質のショットで

AN AEFUL MOMENT(ひどい瞬間)(1908.12.19)ラストシーンだけ異質のショットで

1909

THE VOICE OF THE VIOLIN(バイオリンの声)(1909.3.13)ロケーション

SWEET AND TWENTY(美しい二十歳)(1909.7.17)ロケーション

The Awakening(覚醒)(1909.9.30)ロケーション

1910

WINNING BACK HIS LOVE(彼の愛を取り戻す)(1910.12.31)室内

1911

「女の叫び(LONEDELE OPERATOR)(1911.3.15)室内

FIGHTING BLOOD(戦う血)(1911.7.1)寄る・引く 室内


THE LAST DROP OF WATER(最後の一滴)(1911.7.22)2回引く ロケーション


THE ROSE OF KENTUCKY(ケンタッキーのバラ)(1911.8.26)、寄る・引く 室内、ロケーション


THE REVENUE MAN AND HIS GIRL(税務署員と少女)(1911.9.23)寄る ロケーション


A WOMAN SCORNED(軽蔑された女)(1911.11.25)室内

1912

THE MENDER OF NETS(網の修理者)(1912.2.10) 

Lolas Promise(ローラの約束)(1912.3.9)

THR GODDES OF SAGEBRUSH GULCH(ヨモギ渓谷の女神)(1912.3.23)
 

「少女と彼女の信頼(THE GIRL AND HER TRUST)(1912.3.23) 


THE LITTLE TEASE(ちいさな悪)(1913.4.5) 


A BEAST AT BAY(追いつめられた野獣)(1912.5.25) 

TEMPORARY TRUCE(一時的な休戦)(1912.6.8) 


LENA AND THE GEESE(レナと鵞鳥(ガチョウ))(1912.6.15) 


FRIENDS(フレンズ)(1912.9.21) 


A FEUD IN THE KENTUCKY HILLS(ケンタッキーヒルズの確執)(1912.9.28)多用(寄る・引くが多いことから必然的に多用される) 


THE MASSACRE(虐殺)(1912/1914.2.26) 


MY BABY(私の赤ちゃん)(1912.11.23) 


THE UNWELCOME GUEST(歓迎されない客)(1912/1913.3.8) 

1911年の中盤以降に増えている。

クローズアップ・バスト・ショット・ウエスト・ショットの変遷

1908

ウエスト・ショット

BALKED AT THE ALTER(祭壇で思い止まる)(1908.8.29)ラストシーンだけ異質のショット

バスト・ショット


MONEY MAD(金の亡者)(1908.12.5)ショット内モンタージュで

クローズアップ 


The Curtain Pole(カーテンポール)(1909.2.13)ラストシーンだけ異質のショット

1909

ウエスト・ショット

TENDER HEARTS(優しい心)(1909.7.10)ロケーション

1910

なし

1911

バスト・ショット

「最初の魅惑(THE PRIMAL CALL)(1911.6.24)ロケーション

THE REVENUE MAN AND HIS GIRL(税務署員と少女)(1911.9.23)ロケーション

ウエスト・ショット


「女の叫び(LONEDELE OPERATOR)(1911.3.15)9ショット。近代的寄り

「最初の魅惑(THE PRIMAL CALL)(1911.6.24)ロケーション

THE REVENUE MAN AND HIS GIRL(税務署員と少女)(1911.9.23)ロケーション

THE BATTLE(戦い)(1911.11.14)室内→近代的寄りとなる

A WOMAN SCORNED(軽蔑された女)(1911.11.25)室内→近代的寄りとなる

FOR HIS SON(彼の息子のために)(1911/1912.1.20)室内


2
人ウエスト・ショット

「女の叫び(LONEDELE OPERATOR)(1911.3.15)ロケーション

2人クローズアップ

「清き心(ENOCH ARDEN)(1911.6.17)

1912

クローズアップ

UNDER BURNING SKIES(燃える空の下で)(1912.2.27)横顔。左隅。 

「少女と彼女の信頼(THE GIRL AND HER TRUST)(1912.3.23)後頭部が3 

THE INNER CIRCLE(インナーサークル)(1912.8.10)横顔。左隅。 

「ピッグアレイの銃士たち(THE MUSKETEERS OF PIG ALLEY)(1912.10.26)顔を正面から。右隅

THE MASSACRE(虐殺)(1912/1914.2.26) 赤ん坊2 

1911年の中盤以降から近景が増え始め1912年に顔のクローズアップが撮られている。

年表

方法が根付き始めたか(赤文字)、多く撮られ始めた時期について大きく見るとこうなる

1908年 原初的音声空間の切り返し 平行モンタージュ 原初的寄る・引く 字幕

1909年 原初的二間続きの切り返し 中盤→字幕、平行モンタージュ

1910年 後半 見ること

1911年 以下すべて中盤以降 主観ショット 切り返し 見つめ合う視線の切り返し 寄り 近代的寄り 2人クローズアップ カッティング・イン・アクション

1912年 クローズアップ

1913年 近代的切り返し

■外側からの切り返し

His Trust(彼の信頼)(1911.1.2)1ショット撮られているが戦場の銃撃戦のアクションをマルチ・キャメラで撮ったようにも見え外側からの切り返しという観点から撮られたショットではない。この1913年の時点に置いて未だ外側から切り返すという意識はない。

■トラッキング

THE CALL OF THE WILD(野生の叫び声)(1908.10.31)

「少女と彼女の信頼(THE GIRL AND HER TRUST)(1912.3.23)

A BEAST AT BAY(追いつめられた野獣)(1912.5.25)

THE TELEPHONE GIRL AND LADY(電話交換手の娘と貴婦人)(1913.1.4)

THE WANDERER(放浪者)(1913.4.25)

この中でキャメラ自体が移動して撮られているのは「THE CALL OF THE WILD(野生の叫び声)(1908.10.31)だけでありそれ以外は車にキャメラを乗せて汽車や車を横移動や後退移動で捉えている。未だトラッキングは根付いていないどころか撮られてすらいない。

■煙 

初期モノクロ映像の限界から「ヌケ」が意識され風は木を揺らすため、馬は土煙を撒き散らすため、という逆因果関係の発想が生まれる。それが運動=マクガフィン。

初期映画の限界から生まれたこと(1912年まで)

左→生まれたこと 右→初期映画の限界

★照明、煙、逆手、銃を振り下ろして撃つ→「ヌケ」させるため。

★心理の不在・常習性→近景が撮れない、中抜き、短編(時間が短い)

★中抜き→短編大量生産

★不在の映画史等の省略→短編

★平行モンタージュ→時系列、狭い空間、キャメラが動かない

★切り返し→1シーン1ショット、狭い空間、キャメラが動かない(キャメラの軸が自由に動けば二間続きの切り返しは必要ない)

★ショット内モンタージュ→キャメラが動かないから人物がキャメラに接近

★キャメラの横を通り過ぎる→キャメラが動かない

★運動→キャメラが動かないから人物、物が動く。「ヌケ」させるため

★同じ場所は同じ構図で撮られている→中抜き、キャメラが動かない

★マクガフィン→初期映画の限界がマクガフィン(運動)を生み出す

煙がマクガフィン的逆因果関係(マクガフィン)を生みマクガフィンが運動を生み出すように多くのことが連動して初期映画を形成している。運動とは基本的に初期映画の限界から生まれたものでありそうあろうと意図されて編み出されたものではない。「美しい映像」なるものはモーションピクチャーには存在しない。

■長編大作映画

His Trust(彼の信頼)(1911.1.2)HIS TRUST FULFILLED(彼の信頼は満たされた)(1911.1.21)あたりから中編として始まり「ベッスリアの女王(JUDITH OF BETHULIA)(1913/1914.3.8)で決定的となる長編映画においてグリフィスはさほどの適性を見せてはいない。「清き心(ENOCH ARDEN)(1911.6.17)では「不変の海(The Unchanging sea)(1910.5.7)のエモーションが失われ「THE BATTLE(戦い)(1911.11.14)、「死の歌(A PUEBLO LEGEND)(1912.8.24)、「THE MASSACRE(虐殺)(1912/1914.2.26)、といった大作中編ではマルチ・キャメラからなのか視点が不自由になり切り返しか平行モンタージュが分からないシーンが増えて来る。「ベッスリアの女王(JUDITH OF BETHULIA)(1913/1914.3.8)では超大作長編戦争映画が撮られておりそこでは躊躇なく愛していた男の首をはねる残虐なシーンが撮られているものの映画が大き過ぎ短編時代のエモーショナルな視覚的細部の面影は失せている。それだけで否定することもできないが短編映画を数百本撮っている1875年生まれのグリフィスが40歳近くになって長編を撮ることがそれほど簡単なことには見えない。

■進化の終わり

1913年現在、近代的切り返しもクローズアップもカッティング・イン・アクションも未だ根付いておらずトラッキングは撮られてもいない。だが進化とは初期映画に限界をもたらす忌避とのせめぎ合いであり進化の過程に立ち塞がっていた近景への忌避を払拭した近代的寄りの登場はグリフィス映画にとって進化の終わりと次の時代の始まりを不可視に告げる出来事となる。これ以降、新しいことは撮られなくなりそれまで成し遂げられた出来事の進展、応用、組み合わせの時代を迎える。クローズアップとカッティング・イン・アクションは寄ることの進化によって自然と根付くことであり切り返しについても近代的寄りと「見ること」の発展においてさらなる進展を見せてゆくと推測される。トラッキングはキャメラを寄ることさえできればそれをカットを割って寄れば「寄り」となり割らなければトラック・アップとなるかの違いであり、あとは技術の問題が残るだけでそれ自体映画の進化の過程に含まれる出来事ではない。進化とは人間の生きることそのことでありキャメラを寄ることには技術的なキャメラの進化のみならず装置、スタッフとの関係、人間世界の道徳、観客との関わりなど無数の出来事が絡んで来る。クローズアップにしてもそれまでの長い痕跡の過程として現れたことで『リリアン・ギッシュの顔に魅了されたから』という理由でいきなりクローズアップが撮られているわけではない。常に日常と共に現れる出来事として進化はあり決定的な意志がどこかに存在するわけでもない。そうした長い過程を経て映画の進化は一通り終わりに近づき次なる時代へ移行してゆく。映画史はこれを新たな歴史の始まりとして称え長編を撮らせなかったバイオグラフを悪とみなす傾向があるが果たしてそうか。映画の進化の殆どはその時系列と1シーン1ショットという限界を目の当たりにした短編から生まれ長編はその終着点=終わりの始まりに位置している。映画は現在まで常に進化し続けているという視点は映画の進化を技術のそれと同一視し進化の過程を生き抜いた初期映画を上から目線で「古い映画」と見下すことになる。今後グリフィスの長編映画ではクローズアップ、カッティング・イン・アクションの進展、ロケーションの場所的不明確性がどのように克服されてゆくのか、室内がどのように変化してゆくのかを見ることになる。あの狭い室内に切れ込んでゆくのか、部屋を大きくするのか、それを意識して見たことがないのでこれもまた新しい体験になる。

■人間運動

★初犯の改心

初犯の知的な改心について見てみると

1908年 1

BETRAYED BY A HANDPOINT(手形に裏切られた)(1908.9.5)1-B

1909年 5

The Cricket on the Hearth(暖炉のコオロギ)(1909.5.27)1-B

THE CARDINALS CONSPIRACY(枢機卿の陰謀」(1909.7.10)2-C

THE REDMANS VIEW(インディアンの目の届く所)(1909.12.11)白人が突然悪人から善人になる。1-B
A TRAP OF SANTA(サンタの罠)(1909.12.25) 2-C
TO SAVE HER SOUL(彼女の魂を救うために)(1909.12.31) 2-C

1910年 1

THE USURER(高利貸し)(1910.8.20)の部下たちが悪人から善人への変化

1911年 2

HIS TRUST FULFILLED(彼の信頼は満たされた)(1911.1.21)の弁護士3-B

THE SQUAWS LOVE(インディアンの女性の恋)(1911.9.9)のクレア・マクドウエル。知的。2-B

1912年 なし

1913年 なし

1912年、13年には初犯の改心は1本も撮られていない。この時期グリフィス映画は3-Aを軸として常習性を強めている。

■改心の検討について

★運動の「起源」

映画の進化は運動論的には巻き込まれ運動と人間運動の拮抗から始まり次第に巻き込まれ運動が人間運動に呑み込まれていく。1908年に撮られた「BALKED AT THE ALTER(祭壇で思い止まる)(1908.8.29)と「The Curtain Pole(カーテンポール)(1908/1909.2.13)は巻き込まれ運動の究極系であり既にこの時点で「追っかけ障害物競走」型の巻き込まれ運動はジャンルの頂点に達している。それに対して人間運動は未だ型を知らず物語としてのドラマだけではなくそれをエモーションへと融合させる方法を模索している。そこで生じたのが改心という出来事でありグリフィス作品にはデビュー当時から改心という出来事が多く撮られている。改心とは初犯へと接近するメロドラマの領域であり善悪という心理的な出来事が現れて来る危険地帯でもある。その改心の態様を検討することはグリフィス映画の運動の質を見極めるうえで有意義でありそうした点から改心についてここまで検討を重ねて来たのだが、そこで現れているのは改心というメロドラマ的領域を知的善悪ではなく衝動によって撮ろうとすることの数々である。THE ZULUS HEART(ズールーの心)(1908.10.10)でインディアンが少女の差し出した人形という分離している物を見て触って改心することを嚆矢とし「ROMANCE OF JEWESS(ユダヤ人のロマンス)(1908.10.24)ではペンダントを、1908年も終わりになって「The Salvation Army lass(救世軍の娘)(1908/1909.3.6)では内から込み上げる衝動によって改心を生ずる運動を撮っている。さらに改心は2-Aによる分離した物体から離れて、見ること、聞くこと、触ること、といった五感によってなされるようになる。さらにこれを知的な作用と差別化する『まじまじと見つめること』という過剰な細部が出現し、音もその主体から分離させることでその振動を聞くことが撮られるようになり、そこへ不意に落とすこと、帽子を脱ぐこと、ふらつくこと、などの身に染みついた運動を融合させることで、触れること、見ること、聞くことを知的な分節化作用から逸脱した過剰な衝動として現すようになる(2-B)。見ること、聞くこと、触れること、というモーションピクチャーによって現わされる五感の作用が物語の構造と運動によってエモーションとなって人物たちに衝動をもたらすこと、決して初犯のメロドラマに堕することのない常習犯の領域に留まり続けること、これが観客に受け容れられているとするならば「ヒッチコック・ホークス主義」は必要ないことになる。ヒッチコック・ホークス主義とは五感の作用における言語を超える衝動による物語に耐えられない批評家に対して惹き起こされたカウンターだからである。1912年までの観客がどういう感覚でグリフィスを見ているのか今のところ知る由もない。

★残虐の映画史

さらにグリフィスは2-A2-Bにおける常習犯的な改心から改心すらしているかいないか分からない改心3-Aの領域へ踏み込んでゆく。ここは残虐の映画史の領域であり批評家どころか観客から見放される危険地帯でもある。残虐の映画史とは常習性の極めて強い者によってなされる善も悪もない身に染みついた運動によって現れる透明な領域であり行動の内容が残虐であることは必ずしも必要でない。「A Child Of The Ghetto(ゲットーの子供)(1910.6.6)、「THE MODERN PRODIGAL(現代の放蕩息子)(1910.9.3)の保安官たちの身に染みついた運動も(隠れ)残虐の映画史の原型であり、おそらくグリフィス初期映画の殆どすべての主人公たちがこの系譜に属している。その常習性の強さのゆえに身に染みついた運動は大衆社会から敬遠される。その行きつく先が「A FEUD IN THE KENTUCKY HILLS(ケンタッキーヒルズの確執)(1912.9.28)でありこの作品が残虐なのは一家が2人を除いて皆殺しにされるということではなく、あるいはそれ以上に、弟を殴り倒して女を奪い、笑いながら人を殺すヘンリー・B・ウォルソールが女たちのことを頼むと弟に託しみずからはひとりで戦い撃たれて死ぬという出来事に何らの改心も変節も変化も理由も見られないことにある。大衆道徳からするならば悪から善へと改心したメロドラマであるはずがちっともその兆候を見せようとしないこの作品は同じ残虐の映画史でもラストシーンその他で改心という出来事が撮られているアンソニー・マン「裸の拍車(THE NAKED SPUR)(1953.2.1)、イーストウッド「許されざる者(UNFORGIVEN)(1992.8.7)よりもずっと残虐な映画として撮られている。一般大衆が一番嫌がる映画とはこういう白黒はっきりしない透明な映画でありこのあたりからグリフィスは観客から遠ざかっていくように見える。常習性の強い映画がそれだけで大衆に受け容れられることは決してない。回想は「MANS GENESIS(人間の創生)(1912.7.6)の枠物語でしか撮られずミステリーも撮らずあらゆる常習犯的細部を込めながら衝動によるエモーションを模索し続けているグリフィスからするならば常習性の強まる危険地帯への侵入は必然であり初の長編「ベッスリアの女王(JUDITH OF BETHULIA)(1913/1914.3.8)でブランチ・スウィートが愛する男の首を衝動的にはねて終わったグリフィスが長編へと携えて行くのは極めて強い常習性という大衆の敵でありこの常習性にどうやって折り合いをつけてゆくのか、つけないのか、今後のグリフィス長編映画を見てゆく上での視覚的細部はそういったところになる。

★すねに傷を持つ身。

常習犯には善も悪もない。だが、勘当、人種、妻への暴力、犯罪、冤罪等によってありもしない「悪」のレッテルを貼られた常習犯はすねに傷を持つ身となり仮に「善」の行動をして周囲の者たちを救ったとしても彼の「悪」が消えることはなくまた「善」をなしたという自覚もない彼らに居場所もなく一人で去ってゆくしかない。これがヒーローの原型であり西部劇の流れ者、チャップリンの放浪者などはこうした背景から生まれている。アラン・ドワンの西部劇The Good Bad-Man(善良な悪人)(1916.4.21)の主人公ダグラス・フェアバンクスの「善良な悪人」という役柄は常習犯にしかあり得ない領域であり初犯的善人は1人で立ち去ろうとしても彼に共感を寄せる善人たちから「カンバック!」と呼び戻されてしまい孤独なヒーローとなることはできない。この「常習犯には善も悪もない」というのが残虐の映画史の入り口であり観客から見放される危うい領域でもある。ヌーベルヴァーグがすべきは「ヒッチコック・ホークス主義」ではなく「マック・セネット・グリフィス主義」だったかも知れない。

■ジョン・フォード

ドライヤー論文は書いている内にこの「ジョン・フォード」という言葉が何度も出てきて驚くという体験をしたがこの論文においてもジョン・フォードが何度も引用されている。

THE WANDERER(放浪者)(1913.4.25)

この作品では終盤、両脇の壁をシルエットで真っ黒に染められた玄関で赤ん坊を抱えながら待っている妻クレア・マクドウエルのもとへ夫チャールズ・ヒル・メイルズが遠くからショット内モンタージュで馬に乗って帰って来てそのまま二人で逆光に照らされたシルエットの家の中へ消えてゆくという、まるでジョン・フォード「捜索者(THE SEARCHERS)(1956)のラストシーンのようなショットが撮られている。この「放浪者」はジョン・フォードが「捜索者」でオマージュを捧げたハリー・ケリーの主演映画であり、母親を亡くしひとり旅に出た放浪者の彼は道すがら腹をすかした浮浪者にパンをめぐんでやりながら、自分に親切にしてくれた行きずりの夫婦の財産を悪党たちの陰謀から守って去って行くのだが、この2つの映画のラストシーンは誰一人彼を称える者もいない孤独なヒーローがひとり去ってゆく後ろ姿で終わっている。

★ヒーロー

身に染みついた運動が孤独を呼び寄せ、孤独な境遇が身に染みついた運動を加速させる。1908年「ROMANCE OF JEWESS(ユダヤ人のロマンス)(1908.10.24)によって現れた母親の不在というテーマは1909年になって不可視化し、母親、父親のいない娘、息子と、彼らを父親代わり、母親代わりで育てた母親、父親たちによってなされる現在の行動が不可視の不在を呼び覚ましエモーションを惹き起こすという人間運動が撮られるようになる。同時にグリフィスは「His Trust(彼の信頼)(1911.1.2)で主人との約束をした黒人召使を、「Lolas Promise(ローラの約束)(1912.3.9)でもまた両親の不在でインディアンの世界でも孤立している娘が白人の男とした約束の映画を撮っている。約束とは2人だけの秘密であり約束をすることにより彼らの孤独は強められる。「THE FUGITIVE(逃亡者)(1910.11.5)で息子を殺した敵兵を匿いそれを誰それに触れ回るでもなく自分の胸に収めたあの凛とした母親もまた夫と息子と「娘」を失った母親であり「ROMANCE OF JEWESS(ユダヤ人のロマンス)(1908.10.24)で娘を育てながら病気で死んだ女は父親から勘当され夫にも死なれひとりで娘を育てている。自分の孤独な境遇を言葉にせずひたすら自分の内からの衝動により生きている者たち、そうすることしかできない不器用な者たち、彼らの根底に備わった失われた何か、それが突き動かされる時に出現する衝動にヒーローを見出した者たちが、ジョン・フォード、ハワード・ホークス、アラン・ドワン、ラオール・ウォルシュとなって密かにそれを受け継いでいる。仮にこの時点でグリフィスが映画の父であるとするならば、それはクロス・カッティング、切り返し、クローズアップといった進化の流れによって自然と発展してゆく技術ではなく、あるいはそれ以上に、ヒーローの映画史をフィルムに刻んだことにある。

★運動は進化を終える

グリフィスは短編時代を通じてマック・セネットのような巻き込まれ運動を撮り、ジョン・フォードのようなエモーショナルなヒーローを撮り(2-A2-B)、マイケル・マンのような極めて常習性の強い者たちを撮っている(3-A)。私の知る限りこの3つの質の運動を一人で撮った監督は山中貞雄しかいない。人間運動に限定すれば初期映画におけるメロドラマ的改心から常習性を強めて残虐の映画史へと到達したグリフィスは次第に常習性を強めて批評家たちから見放されたジョン・フォードと共鳴している。グリフィスはこの3つの質の運動を短編が終わりを告げる1912年までに完成させそれ以降、この3つの運動は後継者のいない巻き込まれ運動を除いて世界の物語映画で踏襲されそれ以外の運動は発見されていない。映画の進化は1912年に終わる。リリアン・ギッシュがグリフィス映画に登場するのは1912年の9月、ちょうど映画の進化が一段落する頃であり初期映画の進化の過程に彼女は正面から居合わせたわけではない。そこに居合わせているのはリンダ・アーヴィドソン、フローレンス・ロレンス、マリオン・レナード、メアリー・ピックフォード、ドロシー・ウエストといった生々しいスターたちとロバート・ハーロン、アーサー・ジョンソン、マック・セネット、ケート・ブルース、W・クリスティー・ミラーといった本物の映画人たちであり、今でもYouTubeに接すればいつでも彼らに会うことが出来るその息遣いに触れるとき、我々はグリフィスの進化の過程に立ち会うことになる。

A Child Of The Ghetto(ゲットーの子供)(1910.6.6)

母親に死なれて孤児となりやっと見つけた仕事先で無実の罪を着せられ逃亡中の孤独な彼女ドロシー・ウエストはとある農家に辿り着きそこで牧歌的な青年と彼の母親に囲まれたとき『SHE LEARNS TO SMILE(彼女は笑うことを学ぶ)』という字幕が入ったあと、遊んでいる子供たちを見て彼女は初めて笑う。そのシーンがわずか10分強の短編の中で3ショット撮られたあと、非番で釣りに来ていた担当警官に見つかり逮捕されそうになる。だが彼女の顔をまじまじと見つめた警官は彼女を逮捕することなく去って行き釣り仲間のもとへ戻って笑いながら釣りをしている。グリフィス的ヒーローの原型はこういうところにあり透明で芯の強いエモーションがここに惹き起こされている。孤独でありながらみずからの衝動でしか生きられない者たち、考える前に体が動く者たち、損得勘定のできない者たち、ひたすら自分のできることを淡々とやり続ける者たち、そこにはそういった人々の顔があり、触れることのできる手や肩や体がある。それをまじまじと見つめること、触れることが、衝動=エモーションを呼び覚ます、衝動とは分節化されて記録に残される出来事ではなく一回限りの瞬間であり二度と現れることのないエモーションとして画面を震わせる体験である

The Golden louis(黄金のルイ)(1909.2.20)

雪の降るクリスマスの夜、母親に脱がされた小さな靴を通行人にかざしながら物乞いをする少女アデル・デカルト。この母親は少女のほんとうの母親なのか、それとも「嵐の孤児(ORPHANS OF THE STORM)(1921)の盲目の娘ドロシー・ギッシュのように乞食のボスのような女に拾われた少女が無理矢理物乞いをさせられているのか、父親は、、僅か6分で字幕不在のフィルムに多くの出来事は省略され、撮られているのは母親と思しき女に靴を脱がされその靴をかざして降り積もる雪の街を一人で物乞いをしている少女の姿である。だが誰にも恵んでもらえず疲れて階段を枕に眠ってしまったところへ賭けに勝ったギャンブラーがやって来て少女の小さな靴の中にルイ金貨を1枚入れて去って行く。それに気づかず眠っている少女のところへ賭けに負けたもう一人のギャンブラーが現れる。少女の靴の中にルイ金貨を見つけた彼はそれを取りあげようとすると、少女の靴の中に収められている小さなルイ金貨のクローズアップが入る。だが気に留めることもなくそのままギャンブラーは靴の中から金貨を取り出し、一度は逡巡して金貨を靴の中に戻したものの「いや、ギャンブルで勝って倍にして返せばいいじゃないか」と思い立ち金貨を取って去ってゆく。しばらくして賭けに大勝ちしたギャンブラーは少女のもとへ帰って来て倍にした金貨を返そうと少女の手を握ると既に少女は冷たくなっていた。ギャンブラーは帽子を放り投げ金貨を投げ捨て頭を抱え少女を抱き上げ嗚咽している。ここで映画は終わるが、あのルイ金貨が仮に奪われていないとしたらあの少女は助かっていただろうか。確かに眠りから覚めた少女は靴の中が空であることを確かめてから再び寒空の中を物乞いに歩いていることからもし金貨が靴の中に入っていたら物乞いをやめて暖かい部屋の中に戻れたのかもしれない。だがこの映画はどうもそういう因果関係では撮られてはいない。あの金貨が奪われた、だから少女は死に、その悲しみにギャンブラーは嗚咽した、という映画としては撮られていない。ギャンブラーは少女の靴の中から金貨を取るときあの靴の中の小さな1枚の金貨を見ている。その余りにも生々しく撮られている小さな靴の金貨のクローズアップは賭けのことしか頭にない彼の視界から一瞬で消え去ってしまい彼は靴の中から金貨を取ると一度は返したものの再び取り返し足早に立ち去っている。おそらくグリフィスは、この映画はこのクローズアップだけでいい、そう直感しているように見える。あのギャンブラーが見た靴の中の1枚のルイ金貨の一瞬で消え去ったクローズアップは一回限りで代替の効かない「そのこと」として撮られている。ところがギャンブラーはその衝動を感じず靴の中の金貨を取り出し他の金貨と同じように掛け金として消費し賭けに勝ってしまう。負けていたとしても少女の運命は変わらなかっただろう。ギャンブラーが靴の中から金貨を持ち去った時点で少女の運命は決まっていて彼が賭けに勝っても負けても既に少女は息絶えている。それにも拘わらず彼は賭けに勝っている。賭けに勝つことであの少女のルイ金貨が他の不特定の金貨に代替されてしまう。彼が少女の冷たい手に触れた時、彼が見たあの小さな靴の中の金貨が代替の効かない一度きりの瞬間であることが衝動として蘇り、その金貨を奪ってしまったことへの取り返しのつかない後悔が彼の体を貫いている。映画は自分の言いたいことを画面に乗せることのできない不自由なメディアである。それを字幕や言葉で語ってしまえば映画ではなくなる。孤独な少女はひたすら無言で女との約束を守り続けている。マッチ売りの少女のように夢を見ることすらしていない。グリフィスが撮ったクローズアップの中で最も美しく残酷なクローズアップによってヒーロー伝説は生まれている。