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映画批評封切館 2009年分

       
評価 照明 短評 鑑賞日付 グッズ◎=グッズを売っている、ということ。
イングロリアスバスターズ(2009米) 80 80 監督クエンティン・タランティーノ

予告編の画面の感じが余りよくなかったのでどうかな、と思っていたのだが、実に肌触りのよい画面に仕上がっていた。衣装と照明の設計とが上手くいっているのかもしれない。地面に生えた草が風にサラサラ揺れているあの最初のショットから、真っ白な洗濯物が左へどけられ、ナチのバイクが出現するという、その「事件は既に始まっている」という感覚に早くも乗れてしまい、最後までそのまま突っ走った。終盤にはちゃんとテーブルの上に椅子が逆さにして乗せられている。こういうのはどういうことなのだろう。

金沢の観客はクスリとも笑わない。

そもそもタランティーノという監督は、まず自分で考えたびっくりするような物語展開やアクションをくすくす笑いながら想像し、それをいったいどうやって撮ったら効果が倍増するかを逆算的に考えながら一人でくすくす笑いながら映画を撮る人である。
1から
5までの断章は細切れに撮られており、その多くは言語の転換によって重大な出来事が引き起こされるのだが、第一章なら地下へのキャメラダウン、第二章ならバット男の登場、第三章なら仇と娘とのレストランでの食事といったシーンがまず彼の頭の中にあって、それを見た我々がびっくりする姿を想像し、くすくす笑いながら映画を撮っていっている。普通に撮ってしまえば面白くも何ともないシーンもあるのだが、それを徹底的に引き伸ばすことでサスペンスを産み出している。「引き伸ばす」ことで生まれた時間は、最後に引き起こされる意外な物語という「端っこ」を潤すところの「なか」の働きを有している。この監督は、頭の中に面白いシーンを思いつくと、それをすぐ見せると言うことを絶対にしない。引き伸ばすだけ引き伸ばしてから、ハリウッドのこれまでのコードからは在り得ない物語(主人公が映画半ばで死ぬとか、)を、極めてアッサリと撮ってしまう。「レザボアボックス」では、拉致した警官の命を引き伸ばすだけ引き伸ばし、さぁ助かったと思わせておいてからアッサリ殺ってしまうのであるし、「キルビルVOL1」でもまた黒人の女との対決にわざと子供を立ち合わせておいて、子供が見ているから殺し合いはやめ、と思わせておいてからアッサリ殺す。「パルプ・フィクション」でトラボルタが殺されるシーンもまたアッサリとしている。そのためにこそタランティーノは、トラボルタを徹底して人間的に描き続ける必要がある。タランティーノ映画にとって「引き伸ばすこと」とは生命線なのである。

こうした感じはヒッチコック的なのかも知れないが、ただヒッチコックの場合、あくまでもマクガフィンという発想によって逆流しているのに対して、タランティーノの場合、往々にしてマクガフィンに意味があってしまうことになる。ダイナマイトは本当にダイナマイトとして爆発してしまうし、置き忘れた靴は足にぴったり一致してしまうし、バット男は必ずバットをバットとして使ってしまうし、パイプはパイプとして使われ、ナイフはナイフであり、ミルクはミルクであり「白」ではない。この作品でマクガフィンと言えるものは、焼かれるために存在したフィルムくらいではないだろうか。フィルムはフィルムではない、「赤」だ、というわけである。あの燃えるスクリーンと女のクローズアップはおそらく「裁かるるジャンヌ」への何かだろう。

例えばヒッチコックは、この作品の中で一瞬だけ引用された「サボタージュ」という作品に関するフランソワ・トリュフォーのインタビューに応えて、子供の持っている箱の中身を爆発させてしまったことは間違いであったと回顧している(「映画術」)。それはサスペンスとサプライズをごっちゃにしてしまったことへの反省であるばかりでなく、爆弾を爆弾として使ってしまったことへの自戒でもあるのではないだろうか。ヒッチコックはいつも、例えばナイフを使う時でも必ず「逆手」などの異様なかたちに持ち、「用途」よりも「かたち」に拘るのであって、それは「裏窓」でカメラのフラッシュを「目潰し」に使ったような性向として露呈している。

例えば映写室でメラニー・ロランがダニエル・ブリュールに発砲した後、仮にそのスクリーンをマクガフィンとして使うのならば、スクリーンの中に映し出された主演のダニエル・ブリュールの姿にメラニー・ロランが見とれてしまい、構図=逆構図による切返しのショットによってロランが涙を流す、などということをシネフィルはやるのではないか。フェリーニならそういうようなことをするような気がする。スクリーンを物語的に使うのではなく、映画に対する自己言及的なマクガフィンとして使ってしまうのである。実物ではなく、スクリーンの中の男を見つめて初めて涙を流す、、、、そうすると、スクリーンが物語から分離され、露呈するのである。だがタランティーノはこういうことはしない。その後の「ゾンビ」のような物語的驚きのほうに「くすくす」してしまうのである。

タランティーノは映画狂だが、どうもそういうところが子供っぽいというか、「見せたくって仕方がない」という幼児のような「くすくす」が、彼のマクガフィンをややもって直線的なものにしてしまうのではないか。それでもタランティーノの作品が私の心を躍らすのは、おそらくそれは、彼が映画を断片的に撮っていること=「くすくす」から逆流して撮っていることからくる運動の解放にあるのではないだろうか。

グッズ×

白夜(2009日) 30 40 監督小林政広

何かをやる度に映画から遠ざかって行く。おそらくそれは、何かの誤解から生ずるものなのだ。音楽のああいう使い方というのは、どうも私は聞いていて恥ずかしいという感覚を覚えたのだが。
ゼロの焦点(2009日) 監督犬童一心

一般論だが
そもそも芸というものは断片的なもので、途中から見たらつまらない、というのは芸ではない。小さんの落語は途中から聞いても面白いし、「駅馬車」を中途から見るとつまらないというバカもいない。良い映画を30分で出ても良いし、翌日残りの一時間だけを見に行っても良い。芸と客との関係とはそうものであって、出るのもいれば出ないのもいる、そうした関係によって紡がれてゆくものが芸というものなのだ。歌舞伎であれ演劇であれ動物園であれコンサートであれ落語であれ、出たいと思った者は出る。それを「出るな」というのは、ただの監禁にほかならない。出たくない者は出なければ良い、出たい者は出る、それは人間の表現の差異である。それを半ば不可能にしたのがシネコンという、中途からの鑑賞お断りの空間である。シネコンという空間は、芸というものが本来的に持っている断片性という特質に真っ向から反している。もちろんルールなのだから、それが変わらない内はそれに従う、だが出るのは自由である。「中途退室は映画に失礼である」という言説は、一つの主義としてははっきりと尊重に値するが、それが『出たい者も出るな』という言説に発展するとなると、「ちょっと待て」ということになる。それは芸と客とのせめぎ合いを失わせるばかりか、立ち去ることが一つの表現であることを知らず、ただ単に芸に対する過保護を増長するところの甘ったるい感傷にすぎなくなる。

もちろんマナーとしての「立ち去り方」というものはある。

何も始まらないので1時間15分で出る。
ソウ6(2009米) 監督ケヴィン・グルタート

一時間で出る。

画面が存在せず、すべて同じショットが連鎖して行く。編集だけで映画を撮っている。編集で錯覚やうそをいくらでも作出できるという面白さに憑かれて、ショットの重要さを忘れている。調べてみるとこの人は編集技師出身であったりする。若い内からこういう簡単な撮り方を憶えしまった人間の末路といったところだが、実にくだらない。

グッズ×
リミッツ・オブ・コントロール(2009米) 監督ジム・ジャームッシュ

途中で出た訳ではないのだが、どうも乗れず、自信もないので評価なしということでご勘弁。

なんだかやたらと鈴木清順を髣髴させるショットがあったのだが、見てからしばらく時間が経っているので忘れてしまった。これまたご勘弁。思い出したらどこかで書こう。確か「殺しの烙印」的なショットだったと思うのだが、、、

エスプレッソを二人分注文する男に引っかけて、お詫びに談志のジョークをひとつ。

バーに一人で来る客が、いつも2つのショットグラスにウイスキーを注がせて飲んでいた。不思議に思ったボーイが「お客様は、いつも2つのグラスにお酒をお注ぎになって飲まれています。もしよろしければその訳をお聞かせいただけませんか?」男「あ~これ、これね、私の友人が、遠いところへ行ってしまって、と言っても死んだとかそういうのではなくて、手の届かない遠くの国に行ってしまった。私はいつも彼を思い、彼と共に飲んでいるような気持ちになって、こうして2つのグラスに酒を注いで飲んでいるのですよ」。
しばらくしてその客がまたやって来たのだが、いつもと違って1つのグラスで飲んでいる。気になったボーイが「先日、2つのグラスの訳についてお聞きしましたが、今日はグラス1つしかありません。ひょっとして、ご友人に何かご不幸でもおありになったのでしょうか?」男「あ~ちがうちがう、俺が禁酒しただけなんだよね、、」

グッズ×
12/1更新
スペル(2008米) 65 75 監督サム・ライミ俳優アリソン・ローマン

1969年のパサダナ篇が終わって現代になり、銀行へと出勤するアリソン・ローマンの自動車がそれとなくわざとらしく汚れていて、しばらくすると、彼女のボーイフレンドとその母との電話を盗み聞きするシーンで彼女が「農家の娘」であることがわかる。するとこの映画は「農家の娘」の映画なのだから、当然そうした発展を遂げるのだなと見ていると、そうでもないらしく、確かに銀行での出世争いやボーイフレンドの母親の差別的待遇から農家の娘であることがそれなりの意味を持って映画の中で語られるにしても、これが「農家の娘の映画」なのかと自問すると、そうには見えない。どうもホラー映画というのは、「お約束」に奉仕するサービス精神だけが先走り、物語を補強する細部がおろそかになる傾向が強い、、、、と不平を書いた瞬間、負けになるような何かをこの映画は誇示している。負けた者たちはみな「映画秘宝」へと流れて行く。

「シャイニング」の雪に囲まれたホテル、「ゾンビ」のショッピングモール、「サスペリア」のバレエ学校、「13日の金曜日」のキャンプ場、そしてあらゆる「ハウスもの」の家々、、
恐怖映画というのは、それが物理的原因であれ精神的原因であれ、或る一定の「場所」というものに恐怖がとり憑くような感じが社会からのコミュニケーションを遮断し恐怖を煽るのだが、どうもこの「スペル」の場合、「場所」という要素が弱いのではないか。

グッズ× アリソン・ローマンのフィギュアとか売ってたら買うかもしれないが、売ってない。
3時10分。決断のとき(2007米) 50 50 監督ジェームズ・マンゴールド

おそらくこの製作者たちは、物語を現代風に新しく書き直せさえすれば、映画も新しくなると思っている。視覚的聴覚的細部にはまったく鈍感でありながら、物語だけを「新しく」書き換えようとしている。

女が男たちをどうやって迎え、どうやって見送ったか。その時地面にどうやって影が落ちていたのか、どこで風の音が聞こえ始め、どこで馬が走るのでなく歩き始め、誰がどういう場所で「「見られている事を知らない者」となり、それをどういう場所の人物がどこから「窃視」しているのか、そしてどこで前触れもなく音が聞こえ、、そうしたことにまったく無関心なこの映画がそうした細部の宝庫であるところの「決断の3時10分」という映画史上に残る傑作と比べてどうこう言うことはナンセンスだとしても、問題なのは、彼ら制作者たちが、おのれをちっとも分かっていないダサさである。

だからこそこの制作者たちは、ホテルの一室で椅子に座っているラッセル・クロウの目の前で、父と子の甘ったるいメロドラマを演じさせ、それをピント送りというダサいショット内モンタージュによってラッセル・クロウに「直視」させてしまい、それでラッセル・クロウの「窃視」の効果が生じさせるという愚にもつかないメロドラマを演じさせている。この人たちは映画を撮る時、人物の配置というものを考えていない。「ずらす」ということに関してまったく鈍感である彼らが「西部劇」を撮るという馬鹿馬鹿しさに吐き気がする。
せめてこれが「決断の3時10分」のリメイクであるというのならば、デルマー・デイヴィスがいったいどうやってホテルでのシーンを撮ったのか、どうやって人物を動かし、どういう照明でどういう話をどういう角度でさせることでグレン・フォードの「窃視」の効果を出すことに成功したのか、そのシークエンスにおいて、いったいどういう音が聞こえてきたのかという、一連の「細部」に対する何かしらの好奇心と冒険があっても良さそうなものだが、この制作者たちはまったくそういう「細部」に神経を砕かず、すぐに効果の出る甘ったるいメロドラマに目が行ってしまう、それでいて、細部の宝庫である「決断の3時10分」をリメイクしたがる。こういうのを「成金趣味」というのである。

ラストシーンでどういう種類の「目撃者」を配置したか、どうして彼らは「目撃」するのか、ということについてもこの人たちはまったく無関心であるらしく、子供のほかに、一般人もまた目撃者として配置している。そうすることでこの映画は「民主的な」映画となるということがちっとも分かっていない。何度も言うが、ジャームッシュが現代劇たる「ゴースト・ドッグ」という作品を撮った時、どうしてわざわざ公園で決闘をさせ、わざわざ一般市民たちを避難させたのか、それはジャームッシュがひたすら西部劇を愛しているから、という実に簡単な事実が、この映画にはちっとも見出せない。そうであるからこそ彼らはクローズアップだけで西部劇を撮れると勘違いできるのであり、だからこそ彼らには、土地も場所も風土も天変地異も関係ない。あるのは「物語の刷新」という思い上がった歴史主義だけである。

一般人の目撃者を置くのが悪いとは言わない。だが仮にこの制作者たちがそういう性向を持ち合わせている者たちであるのならば、彼らは民主的な映画であるところの「シェーン」や「真昼の決闘」をリメイクすべきなのであって、友と敵とを緊急時において選別せよという反民主主主義的な、なにやらカール・シュミットを連想させる主権=父権の香りを漂わせた作品であるところの「決断の3時10分」をリメイクする必要はないのではないか。由々しき事態とは、彼ら自身がそのことに気付いていないことにある。私が言いたいのは、本来の性向が「A」の者たちに限って、「B」をリメイクしたがる、それはいったいどうしてでしょう、というところのひとつの問いかけなのだ。

この映画がそれなりに見れてしまい、それなりに面白く楽しめてしまうのは、ただひたすら先人達の創り上げた「物語」の力によるものであって、この映画の画面の力によるものではない。西部劇が物語の力に寄り添っていることほどつまらない現象はない。
沈まぬ太陽(2009日) 40 40 監督若松節郎

日本型シネコン映画の典型として、さして何かを指摘すべき細部はない。前半の回想部分はすべてが蛇足であり、説明にすぎず、「おじいちゃんおばーちゃん」へと向けられた退屈なショットの連なりである。照明も全くなっていない。それにしても、役者はやる気満々、スタッフにしてもおそらく一生懸命やっている、しかし、システム的に無理がある。

映画とは関係ないが、金沢駅の近くに全日空のホテルがあり、それは金沢の中でもそれなりの高さを誇るビルディングであったのだが、日航はわざわざそのビルディングの真正面の土地を買い取り、全日空より高いホテルを建てている。こういうのが「体質」である。どんな言葉や説明よりも、如実に恐ろしく無言で露呈してしまっている痕跡であり細部である。そういう細部が、この映画には乏しい。
11/8更新
きみがぼくを見つけた日(2009米) 40 60 監督ロベルト・シュベンケ

10/26、世の中が一人の薬物依存の元女性歌手のリンチ裁判に忙しいのを尻目にシネコンへ行き、まずゆるりと館内を見回してみると、そこにいる顔、ある顔がみな「私はリンチには参加致しません」という高貴なお顔をされているのに驚き、そんなものかと、なにそれは偶然だろうと考えている内に映画が始まったのだが、いつまで待っても携帯の光が暗い館内をうごめくことはなく、ビニール袋は音も立てずに静かにカバンの中へ収まり続け、私の横にはポップコーンの音を必死に噛み殺して食べている健気な若者すらいる。「ここは竜宮場か、はたまた鳩山御殿か、、」、到底現実とは思えぬその静けさにうろたえながら、映画館で携帯を開けるような未曾有のバカはみなリンチを見学したり石川遼を追っかけたりして忙しいのだなと妙に納得し、できることなら今後、「リンチの予定表」を出してくれればありがたい、そうすれば、リンチの間隙を縫って映画館や酒場へ行くのにと、贅沢を言えばもう少しリンチの回数を増やしては頂けないかしらと、国会に請願にでも行こうかと考えている。

元歌手が「つぐない」と「更生」として社会に貢献をしたいのなら、ダイナマイトを身体に巻いて傍聴席に飛び込めばよい。

■映画は、、、
さて、どなたが見ても面白いように親切に撮ってくれたのでありがとう、とみんなが感謝した快作「フライトプラン」の監督であるロベルト・シュベンケであると、襟を但して見に行ったこの「きみがぼくを見つけた日」は、そもそもこの「きみがぼくを見つめた日」という、明らかに締まりのない題名を見聞きしただけでイヤな予感が充満し、物語をちょっとだけ雑誌で読んだ瞬間覚悟を決めたのだが、映画が始まって2ショット目の車内のルームミラーを使ったクローズアップを見た瞬間「だめだ」と。
どこをどう突付けばこんな物語が映画になるというのだ。これは「9.11」どころか「第二次大戦も知りません」、「日本って韓国のことですよね?」という映画であって、否、逆に言うならこの映画の「美少女ゲーム的」なリセット感覚は、ポストモダンを見事に反映しているのかも知れず、だがそんな分析は「ゼロ年代一人勝ち」の哲学者にでも任せるとして、それにしても、見事なファム・ファタルの「タトゥ」を撮り、ヒッチコックやプレミンジャーどころか、世界中の「知的ソクラテス主義者」たちを大笑いするような宙吊り映画「フライトプラン」を撮ってしまったロベルト・シュベンケが、こともあろうかどうしてこんな、突如山田洋次に迎合したかのような映画を撮らなければならないのかとびっくりしたふりをしてみたい。

グッズ×
童貞放浪記(2009日) 70 75 監督小沼雄一俳優山本浩司、神楽坂恵

風があまり吹かないというか、、この映画で風が木々を揺らすのは

①神楽坂恵が初めて京都にやってきて二人で歩く並木の路地の街路樹
②神楽坂恵がやって来た江崎の駅を捉えたロングショットで、画面の手前になめられた木の葉
③歩道橋の上の神楽坂恵をローアングルのロングショットで捉えた背景の街路樹

こうして、神楽坂恵が出現すると木が揺れ始める、という感じに何となく貫かれているかのようでもあり、特に②の場合、手前に葉っぱをなめていたりしているので意図的に揺れていると分かるのだが、全体としてどうも出てくる木という木が針葉樹というのか、枝振りが固そうで葉っぱの小さい木々ばかりなのである。従って風に揺れず、折角の画面が彩られない。音声にも風の音が入っていない。白いカーテンの揺らし方も今ひとつ。但し、この映画それ自体がある種の辛気臭さを狙いとしており、そうした点から敢えて木を揺らさず、風の音も入れなかった、というのなら、それとして判らなくもないが、それが成功しているようには見えない。

これは日本という国の一つのタイプなのかも知れないが、物語に関する我慢の効いている作品が日本のあちらこちらで見受けられ、撮られている。ひとつひとつのシーンを葛藤の中で撮っていくことで、結果としての物語は語れるてしまうということを、知っている人がいる。西欧人にこういう映画を撮らせると本当に下手糞に撮るのだが、日本人にはこれが撮れる。

小谷野敦が旅館の宴会の場面で実に楽しそうに出演していたが、小谷野敦の原作ならば、私としては「東大駒場学派物語」を映画化してもらいたい。
私の中のあなた(2009米) 40 75 監督ニック・カサベテス

この映画の中に出てくる「悪(悪人)」を見てゆくと以下のようになる

①病院の個室に尿を取りに来た中年の看護婦
②退院し、家で余生を過ごすことを勧めたヘルパー
③夜、長男が帰宅するために乗ろうとして止まらず走り去ってしまったバス
④その直後、町でヒッチハイクして止まらない車たち

こういう人たち、そして出来事が、否定的な演出でもって撮られている。

どうしてこのような「悪」をわざわざ作り上げるのだろう。それは主人公等、物語に関係する者たちすべてが「善人」だからではないだろうか。アメリカ映画とは基本的に善と悪の対立抜きにして在り得ないのだが、主要な人物たちをすべて「善」として描いてしまった以上、無理にでも「悪」を作り上げるしかない。それがこの映画の①~④という、その場限りの悪とでもいうべき強引な悪の描かれた理由であるのだが、この手触りというか、こういう映画の撮り方というのが山田洋次に極めてよく似ている。

人間の中に本来的に在るべき悪性というものから目を背けてしまうので、必然的に人間世界の内部(物語の中)に在るべき葛藤を描くことが不可能となる。従って、無理にでも「外部の悪」をでっち上げざるをえなくなり、①から④という、その場限りの超越的な悪を無理矢理創設せざるをえなくなる。だが、人間自身の悪性から目を背けた物語はひたすら軽薄でその場限りの善良さだけが虚しく光ることになる=映画がつまらない。偽善的である。

さらにこの映画の「善人」の定義としての被害者趣味というのが何ともヒステリックでかつ幼稚である。弁護士のアレックス・ボールドウィンは、てんかん症であることがわかって突如「善人」となり、判事は昔、事故で娘をなくしたから「善人」の仲間入りを果たしている。この監督は、以前にも一本こういう映画を撮っていたと記憶するが、このような「被害者・病人=(即)善人」という図式は、まるで「悪の枢軸」なり「ならず者国家」のように、どこか外部に強引に「悪」を設定しながらそれをヒステリックに攻撃することでしかみずからを現すことができず、それは、党派を同じくする者たちのみへ向けられた薄っぺらな宣伝映画と化すしかないのである。

この監督はアンソニー・マンの「裸の拍車」を見ていないのだろう。

グッズ×
ポー川のひかり(2006伊) 80 80 監督エルマンノ・オルミ

土手の上を「白」がミニバイクで走ってゆくロングショットが唐突に入り、その意味すら確かめること不可能な瞬間のショットをまるで記憶せよとばかりにオルミは呈示したまま説明せぬまま、しばらくしてパン屋の娘のクローズアップが唐突に画面の中に映し出された時、本能的に彼女こそ「白」であったという感動が、映画的に遡及してゆくのであるが、あのロングショットの「白」をただロングショットの一瞬のものとして呈示できる感性は78歳になるオルミの映画との関わりの強さ以外の何物でもない。

一人のヒーローがいて、彼が去って行く時、そこには少数の「目撃者」たちがいる。ジャームッシュが現代劇である傑作「ゴースト・ドッグ」において公園の「決闘」の時、わざわざ公園内にいた人々を避難させたあと、そこに二人の「目撃者」を配置し、その二人にヒーローの意志を託したように、ヒーローが去って行く時、良質のアメリカ映画は決まって少数の「目撃者」たちを配置し続ける事で「託すこと」を反復して来た。

エルマンノ・オルミという78歳のイタリア人監督が最後に撮った劇映画の終盤に、男を知る一部の「目撃者」たちによってローソクによる「光の道」が作られている。そこを通過すべき者は「キリスト」ではない、「ヒーロー」であり「映画」である。

スタッフによって木の葉が意図的に揺らされ続け、ポー川の表面を光線が揺れ続け、川沿いの一軒家に人々が集まり、反復され続ける「白」を見たとき、最早この映画には「傑作」を撮ろうなどという「邪心」のカケラすら露呈しておらず、ただひたすら「映画」としての幸福の中で幕を閉じる、それのみに賭けられている。こうしてこのイタリア映画はアメリカ西部劇の最良を密かに受け継ぎながら、幕を閉じる、その最良とは、もちろんジョン・フォードである。
色即ぜねれいしょん(2008日) 監督田口トモロフ
50分で出る

ちゃんと撮っているし、一見「私は猫ストーカー」などと同じような、「何も起らない映画」なのだが、細部の豊かさが全然違う。

■ここからは一般論
ここからは一般論だが、映画の中に出てくる人物がいかに若くとも、映画はそれだけで「若く」はならず、それ以外の映画的運動がそれを創り上げて行くのであるが、この映画に限らず、最近の映画には、映画の「外部」における「若さ」なり「瑞々しさ」なりがそのまま映画の「内部」へと通底すると錯覚している作品が多い。彼らは、仮に「幼児」を題材にした映画であれ、撮り方によっては「老人化」するという現象について極めて無関心である。原作の瑞々しさにそのまま寄りかかったような映画が非常に多いのは、そういうことなのだが、そこにおける「原作の瑞々しさ」とは、つまり「原作(=映画の外部一般)の存在が映画を瑞々しくする」という、消費社会におけるファンタスマゴリー(幻影)に過ぎない。恐ろしいのは、その「瑞々しさ」という事実が「原作」からも「映画そのもの」からも切り離され、映画と原作(外部)との「関係」によって思考されているという事実である。人々は、映画を原作(外部)との「関係」において考察し、その原作を他の外部との「関係」においてこれまた評価し、そのまた「外部」をさらなる「外部」によって「関係」させてゆくのだが、そのために「目の前に現前するそのもの」からは目と耳を背ける、という、非常に危険な状態へと入り込んでいる。ただの「関係」なり「差異そのもの」がまるで「モノ」として実在するかのように錯覚することの恐ろしさは、社会であれ映画であれ変わらない。

おそらく人間というものは、目の前に現前するナマモノを理想として見ることはできず、かえって現前するナマモノは幼稚な何かであり、あるいは荒唐無稽な何かであり、そうした現前するナマモノを「不可視の外部」という秩序だった「理想(ほんとうらしさ)」なり「権威」なりと「関係させる」ことでしか安心できないのだろう。

人間は言語を使う時間的動物である以上「知的」であることから決して逃れられない。だが、どうもこの「知的」というところに大きな「タブー」が引っ掛かっているように思える。知識人という知識人たちが、みんな「同じ批評」を書いてしまうのはまさに「タブー」のあらわれ以外の何物でもない。続きは「藤談義」あたりで。
陰獣(2008仏) 40 60 監督バーベット・シュローダー俳優ブノワ・マジメル

フランス映画またしてもだめ。良かったのは最初のワンショットだけ。

日本の女が余りにも屈託なくフランス語をしゃべれてしまうのだが、もうそんな時代ではないだろうに。それは実際にフランス語をしゃべれる日本人が増えたか増えていないかではない。世界中がこれだけ「他者」に揺らされている時に、余りにも無邪気である。
ワイルド・スピード MAX(2009) 50 65 監督ジャスティン・リン

前作、東京バージョンの「B」的香りが吹っ飛んで「シネコンの香り」に満たされている。ロサンゼルスの所々の夜の外景などはテクニカラーの「黒」の出た肌触りのよい画面を作っているのに、クローズアップになると突如凡庸となり、アクションシーンになるとその酷さに泣きたくなる。結局のところ、脚本の書き方が物語的で、断章の心地良き香りが満たされていない。

グッズ×
サガン-悲しみよ こんにちは-(2008仏) 監督ディアーヌ・キュリス

フランス映画、またダメ。50分で出る。

なんにも起らない。映画を見た私に「悲しみよこんにちは」と襲いかかる。

物語の端っこしかない。「モナカ」の間逆である。
10/27更新
ラザロ-LAZARUS-(2007日) 80 75 監督脚本編集、井土紀州俳優、東美伽

革命的な、あまりに革命的な物語であるように見える1968年生まれの監督によって撮られたこの作品は、しかしその革命とは「女」によるそれでなければならず、決して男による革命であってはならないと画面によって語らしめる事で「革命映画」としての政治性を「映画」としての表層性へと見事に回収している。

「金沢映画祭2009」のしんがりを飾ったこの作品は、201分という上映時間を一気に貫く「女の首のアザ」という記号を時間の操作によって反物語的断片として浮かび上がらせている。見ている者たちは、第一話の女の首のアザが、「交通事故によってできた傷」として提示された時、物語的不信を抱きつつもただひたすらその「アザ」に寄り添う道の選択しか許されておらず、それは第二話による「首にアザのある女」によっても依然我々は宙吊りにされたままなのだが、やっと第三話になってその首の「アザ」に物語的意味を与えられた時、もはやその「アザ」は「物語」には決して回収不能な「赤」として突出しているのだ。

風や、地図の上に流れる雨影や、振り向き様の光線等女たちに当てられる見事な光線の差別によってひたすら描き続けられる「女による革命」は、第三話において、姉のフィアンセをみずからの体でもって破滅させるその時に妹の着ていたドレスが「黒」という喪服を暗示する色彩によって遂行されたように、もはや、「死を賭した主体」としての陣地戦的フェミニズム運動(70.7.7以降)たる「自爆テロ」以外によっては決して有り得ず、また、そうであるからこそ、女たちは美しく撮られなければならない、という「映画」的な流れこそ、同映画祭前日に上映された鈴木則文「恐怖女子高校・女暴力教室」(1972)における杉本美樹や池玲子の「自爆テロ」における官能美と見事に共鳴し合い、「ラザロ-LAZARUS-」と「恐怖女子高校・女暴力教室」とを同一の映画的地平によって語られることの甘美な体験を我々に与えてくれる。「ラザロ-LAZARUS-」をしてただの「革命映画」であると捉える政治的態度は、「ラザロ-LAZARUS-」が「女」の革命映画として撮られた映画的細部をそっくり見逃している。
カムイ伝(2009日) 監督脚本崔洋一、脚本宮藤官九郎

「アマルフィ 女神の報酬」の西谷弘の仕事が「請負契約」の遂行であるとするならば、この作品の崔洋一の仕事は「雇用契約」のそれである。

今や「シネコン映画を撮ること」とは二重の「ヘイズコード」の中での活動として捉えられ、その中で映画を撮る者たちは、検閲のコードにかかった「ふり」(雇用契約)を装いながら、いかにしてその中で跳梁するか(請負契約)の騙し合いとして初めて見るに値する「作品」として露呈するものであると時に考えるが、そうした戦略的抵抗をハナから放棄し「悟りの境地」に到達した作品を見るのは厳しい。50分で出る。
ウルヴァリン X-MEN ZERO(2009米) 40 50 監督ギャヴィン・フッド俳優ヒュー・ジャックマン

老人夫婦が出て来たあたりからそれなりのものとなり、だがどうやらその夫婦もマクガフィンであったらしくすぐに消えて行ってしまって、まともとの「ロボット映画」へと回帰して行くのだが、それは人間的なるものが、即座に非人間たるものによって否定されてゆく機械的反復のこれまた反復である。

「スター映画」としての撮り方を忠実すぎるほど忠実に実行している。
しんぼる(2009日) 60 70 監督脚本松本人志、脚本高須光聖 、撮影遠山康之、美術吉田悦子、音楽清水靖晃

メキシコ篇は表層として見事に躍動し、迷路篇は深層としてのほんとうらしさに加担している。凡庸さに陥ることを拒絶する知的過剰反応が「凡庸さ」に加担している。おそらくそれは、キューブリックを一流と見るか、二流と見るかの、映画的感性によって導かれる決定的な差異であるだろう。

撮影は「遠山康之」となっているが、メキシコ篇もこの人が撮ったのだろうか。見事な「黒」でもって撮られている。
BALLAD 名もなき恋のうた (2009日) 40 60 監督脚本山崎貴、俳優草彅剛、新垣結衣、香川京子

良い部分については私の友人ほか書いているので悪い部分について。

香川京子の出のショットは、ああいう感じでよろしいのだろうか。「ほうっておくこと」と「おろそかにすること」とは異なるのだから、仮に脇の部分であっても、特に脇の部分であるからこそ、おろそかにしてはならないはずである。だが新垣結衣のうしろに付いて奥の間に入って来る香川京子の最初のショットのあの撮り方はないだろうと思えるし、二番目の新垣結衣を追いかけて行く俯瞰のロングショットではまったく香川京子の姿を特定すらできず、三番目以降の香川京子のショットでも、構図、照明、ピントにおいて香川京子は新垣結衣と余りに大きな差異でもって「おろそかにされて」いる。終盤、城から走り出る新垣結衣を追いかけて門の外へ出た時と、草彅剛を迎えに出ようとする新垣結衣を送り出す時の、二つのショットにおいて初めて香川京子にちゃんとした光が当てられていたが、それはそのシーンが「見せ場だから」であり、逆に言うならそれは「見せ場だけをちゃんと撮る」という成金的趣味と言えなくもない。「ほうっておくこと」とは、実は「ほうっておかないこと」であるのだが、この作品はそうしたことについて詰めが甘く、大雑把に撮られている。
私は猫ストーカー(2009日) 80 80 監督鈴木卓爾、撮影たむらまさき、録音菊池信之、音楽蓮實重臣、俳優星野真理

別口に批評を書いている最中なので手短に。

それとなく「山の音」(1954)を想起させるような光を画面の隅々に収めながらもそれを誇示することはなく、間違っても「凄い照明」の映画など撮る気はない、そんなキャメラマンの気配に満ちたこの「私は猫ストーカー」は、同じキャメラマンが撮った池田千鶴「東南角部屋二階の女」(2008)と同じように、映画が始まる直前、スクリーンが縮んでゆくという「ゴダール的体験」をそれとなく漂わせながら、スタンダードサイズによって開始される。

批評コーナーで書きたいと思わせてくれる映画なので二回見て、できればもう一度見てから書きたいと思いつつ、一日一回の一週間上映ではそうもいかず、この映画がどうして弛緩しないのかという疑問に未だ取りつかれたままの状態で批評を書き始めている。そういう時は、見て聞いたことを断片的に羅列してゆくしかないのだが、おそらく批評は音声について多くを裂いて書くことになるだろう。こちらも批評を書く予定でいてまだ書けないでいる「長江にいきる 秉愛の物語」(2008)では怠惰にも音声を取り逃がしてしまったので、この作品では音声について色々と考えてみたい。
9.27更新
「長江にいきる 秉愛の物語」(2008) 95 85 監督フォン・イェン

「四川のうた」(2008)の批評を書いたあと、こちらの批評も書く予定

最初見て、すぐ「四川のうた」(2008)と一緒にベストテンに入れて、その時は「四川のうた」のほうが良いと思ったのだが、一度家に帰り、数日してもう一度シネモンドへ行って双方の映画を見直した時、確かに完成度と言う点では「四川のうた」が素晴らしいが、映画としてはこちらの方が上なのかも知れない、と思いいる。実際、別に、どちらが「上」だろうがそんなことは神のみぞ知るであってどうでもよろしいのだが、それでも矢張り、どうでもよろしくはないのであって、おそらく見直すたびに違う印象となって現われ出るのかも知れないが、決してそれは「価値相対主義」としての批評放棄として現われ出てくるものではない。必ずや、どちらかが「上」である。

都会を撮った「四川のうた」と違い、奥深き農村を撮ったこの作品は、人物の着ている服が、デザインから色から見事に違う。みんな「違う服」を着ている。この不均衡というのか、アンバランスが面白くて仕方ない。その中で、主人公の秉愛だけは、「衣装」というものに、あるいは「身だしなみ」というものに、非常なこだわりを見せている。そんなことが批評に書けたらと思っている。
「四川のうた」(2008) 95 95 監督ジャ・ジャンクー

今、批評を書いているところ。

ロングショットで、人と照明と美術と装置と衣装と構図を決めて、そして撮れば、それは「映画」になる、ということを何故か知っている、そういう映画をして「才能がある」とか、「豊である」とか人は言うのかも知れない。
サンシャイン・クリーニング(2008米) 65 60 監督クリスティン・ジェフス

「私たちは『エディプス・コンプレックス』の克服に失敗しています」、という感じの美しい姉妹が泣いたり怒ったり泣いたり怒ったりしながら神経症を競い合うのであるが、監督さんの芯がしっかりしているせいか映画はさほど悪いほうへと進もうとはしない。

アラン・アーキンが姉妹の祖父でなく「父」として出て来たことがやたらと感動的であったりもする。しかしながら、感傷性がある種の目的として想定されているがために、アラン・アーキンの「労働」が、姉妹の「労働」と対称性を構成することなく終わっている。
サブウェイ123激突(2009米) 65 75 監督トニー・スコット脚本ブライアン・ヘルゲランド俳優デンゼル・ワシントン

「四川のうた」(2008)と「長江にいきる 秉愛の物語」(2008)が余りにも素晴らしかったので、スコットその他の作品の批評にかける時間はそれだけ減少することになる。それが人生というものだ。

テロリズムとか、監視とかが最近のスコットの関心事であるのかも知れないが、トラボルタ率いる犯人グループ像が余りにも古臭い。「古臭い」というのは「時代遅れの古い男」のことではない。

キャメラをカチャカチャやって、どうしてこうまでギリギリの線へ行かなければ気がすまないのかと、果たして意味があるのかと疑問にも感じるが、それでも映画にしてしまっているのは、物語を語る方法を天性の資質において知っているとしか思えない。

どう見ても脚本に問題があるのだが、ではどうすれば良いかというと、それが分かればおそらく映画関係者は苦労しない。スコットや脚本のブライアン・ヘルゲランドは、例えば犯人か交渉人のどちらかを女にするとか、人質の中にワシントンの家族を配置するとか、当然考えたはずなのだが、大筋はオリジナルに忠実に、という線を優先したのだろう。

人質の青年が持っているパソコンは、車内映像を得るためのマクガフィンであることは分かるのだが、マクガフィンに意味が有り過ぎて、それがために青年と家にいるガールフレンドとのやり取りがギクシャクするのは当然の成り行きとして甘受するとしても、もうちょっとマシな処理の仕方があったのではないかと思えてくる。

×グッズ
ノーボーイズ、ノークライ(2009日韓) 監督キム・ヨンナム俳優妻夫木聡、ハ・ジョンウ

映画がなかなか始まらないので、おかしいなと、映画館で映画が始まらないことはなかろうにと、ちょっと寝てからもう一度見てみたのだが、始まる様子がないので75分で出る。
レスラー(2008米仏) 60 60 監督ダーレン・アロノフスキー俳優ミッキー・ローク

手持ちで撮られた控え室の椅子に座るミッキー・ロークの後ろ姿から、28番目あたりの工場の職探しのショットまで、意図的に「顔」を撮ることを拒絶しながら映画は始まる。

だが次第に「同じ写真」が量的に幅を利かせ始める。初めて女をビールに誘ったバーのシークエンスでは、ロングショットが黒を出しながら素晴らしい気配を醸し出していたにも拘らず、何故か画面は単調なクローズアップによる構図=逆構図による切返し=「同じ写真」を反復することで画面の力を喪失させている。

場外へのジャンピング・ボディアタックなどが持続して撮られていて、ロークの体当たり根性には感服したが、映画は基本的に「物語」の順番通りに撮られている。

グッズ×
夏時間の庭(2008仏) 65 80 監督オリビア・アサイヤス撮影エリック・ゴーティエ

「デーモン・ラヴァー」や「レディ・アサシン」などで才気を発散させていたアサイヤス監督が、今回はブルジョア家庭の遺産相続をどう撮ってゆくのだろうかと楽しみにして見たのだが、悪くはない、という程度の画面にやや失望をする。

この監督さんの映画は、気が付くと役者がフランス語ではない言葉をしゃべっていたりして、それがまた実に自然になされるものだから、大いに意表をつかれてしまうことしばしなのだが、、、、と書いてみたが、この先を書く気にならないのでおしまい。
9/14更新
HACHI/約束の犬(2008米) 60 60 監督ラッセ・ハルストレム俳優リチャード・ギア

うかつにも泣いてしまったので60点。

リチャード・ギアという役者は、例えば「アマルフィ 女神の報酬」の天海祐希が「はぁ、、はぁ」と口から息を吐く吐息の役者だとするならば、リチャード・ギアは「ふんっ、、」と鼻から息を出す「鼻息」の役者である。「ふんっ」とキザに鼻息で笑ってそんな自分に陶酔気味に惚れるのがこの人の18番なのだ。決して嫌いではないのだが、どうも「鼻で息をする」というところが映画的ではないのではないか、そこのところが、彼をして大スターの道を阻んだひとつの要因のような気もしないではないのだが、この映画では「はぁ、、はぁ」と口から息を出して倒れたギアに、妙に感動してしまったりする。

最初と最後があって過程が欠けている。「待つこと」という細部をもう少し発展させられなかっただろうか。

グッズ◎
インスタント沼(2009日) 監督脚本三木聡、俳優宮藤官九郎

わけあって30分で出る。
G.I.ジョー(2009米) 30 70 監督スティーヴン・ソマーズ

ウルトラマンがずーっとスペシウム光線を放ち続けているような映画であった。見れてしまうのだが、消費社会的画面である。イ・ビョンホンがちっとも画面に収まっていない。骨格だとか髪型それ自体が「反映画的」なのである。トウキョウのカンフーシーンには笑った。もっとバカをやっても良いだろうに。

グッズ◎
ヴェルサイユの子(2008仏) 50 80 監督・脚本:ピエール・ショレール撮影ジュリアン・ハーシュ

ギョーム・ドパルデューの遺作となった作品らしい。照明は、暗さの中をギリギリの感光で戯れていて、誰だろう、、などと思って調べてみると「アワー・ミュージック」のジュリアン・ハーシュであったりするわけで、そんなものなのか、と思ったりするが、しかしこの作品は子供の撮り方がよろしくない。トリュフォーなら絶対にこういう子供の撮り方はしない、ということでよろしいかと思う。トリュフォーは「子供の可愛さ」なる物語で我々に媚びを売ったりはしないし、そのようなものは信じてすらいない。
それから、どうしてこうキャメラが近づいてしまうのだろう。ベラ・バラージュは繰り返し映画のクローズアップの素晴らしさを説き続けていたが、彼の言うクローズアップとははあくまで「空間から孤立したクローズアップ」のことであって、「物語に従属するクローズアップ」のことではない。この映画のクローズアップは重苦しく閉塞感に押し潰されている。
シリアの花嫁(2004イスラエル、フランス、ドイツ) 60 75 監督エラン・リクリス

イスラエルとシリアの境界線上の運動を、延々と撮り続けている内に、次第に地面に落ちた人々の影が長くなってゆくのを見た時に、これはひょっとしてこの監督さんは「夜」になるのを待っているのではないか、「夜」の光線の中で映画を締めるつもりなのかと想像し、私は心の中で「夜になれ、夜になれ」と思って見ていたのだが、結局最後は、主人公の顔に美しい「夕陽」を当てながら終わっている。この地帯の光線について私は無知なのでこれ以上のことは書けないが、あくまで私の感覚としては、「映画を夕陽の中で終わりたい」からこそ、国境でのシーンをあそこまで引き伸ばしたのだと、そう思っている。それはある種の豊かさでもあるかも知れない。

しかし、ここにもまた「アメリカの影」というものが微妙に落っこちていて、撮り方や役者の動かし方に、服従的な何かを感じてしまう。
子供の情景(2007イラン、フランス) 50 60 監督ハナ・マフマルバフ

イラン人が撮れば、誰しもが「キアロスタミ」になれる、という空気が充満している。
ブッシュ(2008米) 70 70 監督オリバー・ストーン

ひたすらブッシュを人間として見つめていって、観察していくと、どうやらこの男は「善人」であり、時として「可愛く」すら見え、間違っても計算ずくで「悪事」を働くことなどできず、彼にとっての「戦争」とはどちらかといえばただの「私怨」であってそこには主体的な戦略など不在であり、だがこうして哲学を欠くという「玉に瑕」はあるにしても、家に帰れば「愛妻家」でもあり、よき父でもある。我々はひたすらこの男に感情移入をし始めたとき、ふと彼が「合衆国大統領」であったことを思い出す、、、その瞬間、突如として寒気がするような恐怖が我々の「こはばり」となって笑いをもたらし、あとはひたすらこの不可思議な弁証法の中へと引きずり込まれてしまう。

これは恐ろしいまで見事に決まったコメディ映画かも知れない。コメディになるか、ならないかのギリギリの線上を綱渡りしている。
アマルフィ/女神の報酬(2009日) 80 80 監督西谷弘、脚本不明、撮影山本英夫、照明小野晃、録音藤丸和徳、俳優織田裕二、天海祐希、戸田恵梨香、佐藤浩市

批評あり。


どうもこの作品に関して日本の批評界は無視を決め込む雰囲気を察したので、では私が書きましょう、ということで私が批評を書きました。

戸田恵梨香がまずもって可愛く撮られているし、天海祐希がテラスで煙草を吸っている時の横顔などもまた実に凛々しい。ロレッタ・ヤングや越路吹雪のように面長の天海祐希は光を受け止める面積において映画になりやすいのかも知れない。佐藤浩市はちょっと暑苦しく、織田裕二の目の演技は「世界陸上的」に浮いている。しかしだからといって先入観を持って作品と接してよい、ということにはならない。この作品には多くの悪い部分を指摘することも可能だが、今回は書かないことにする。

コンサートを聴いている若い女性たちの笑顔がたまらなく弾けている。

グッズ◎売っている。グッズについてだが、シネコンに乗ってくる日本の映画は大部分グッズを売っているので、今後は外国映画に限定して続けて観察して行きたい。
鈍獣(2009日) 監督細野ひで晃、脚本宮藤官九郎

見るに忍びなく35分で出る。
8/20更新
チェイサー(2008韓) 50 60 監督ナ・ホンジン

チラシで多くの映画作家が褒めていたので、あ、コリャだめだと、冷静な気持ちで見に行ったのだが、それにしても、予想を遥かに上回る凡庸さに驚く。もう少し良くなってもよさそうなものではないか。
細部を瞳で追いかけてはみたものの、さしたる驚きも無く、物語的な挑発に、古臭い画面が引き離され息切れをしている。照明もだめ。活劇でもなんでもない。
劔岳 点の記(2008日) 20 50 監督撮影脚本木村大作、脚本菊池淳夫、宮村敏正

■音
宮崎あおいが許し難き善良な笑顔で画面を支配し、その笑顔とは紛れも無く「テレビ的」なものであり、そのことからしてこの作品が「或る特定の層」へと向けられて撮られたものであることをそれとなく察せられるのであるが、映画でもってあのような笑顔を作ることが果たして許されるのか。そこへ、その笑顔をなぞるような「善良な」音楽が画面を覆い尽くす。画面が「葛藤」するのではなく「誘導」されてゆく。見ている者としては、バカにされているようで非常に居心地が悪い。こんなチャチな演出で見ている者が「感動する(騙される)」とでも思っているのだろうか。観客をなめている。音楽そのものの良し悪し以前に、音楽と画面との「関係」が間違っている。

視覚的な細部が乏しいので役者の唇などをずっと注視していたのだが、シンクロなのか、アフレコなのか、今ひとつ掴み切れなかったものの、「声」というものの遠近がほとんど考慮されておらず、まるでスタジオ内で反響したような篭った声ばかりが延々と発せられている。まさかとは思うが、ひょっとして録音技師は現場に行っていないのではないか、などと思わせてしまう。風の音にしても雨の音にしてもステレオタイプに終始し、音について、まったく「現場の音」として楽しむことができない。「本物の音」であれば映画になるわけではない、と橋本文雄は上野昂志のインタビューに答えて述べているが(「ええ音やないか・橋本文雄、録音技師一代・上野昂志」)、素人ながら、こんな音でいいのかなぁ、、という感じて聞いていたのである。

■分節化
山々が既に慣れ親しんだ「風景」として分節化されている。ちっとも「未開の地」ではない。雪はたたひたすらに雪であり、雨は雨であり、風はひたすらに風でしかない。唯一驚いた画面は、森の中を疾走する蒸気機関車の運転室から撮られた光景で、それは、人間が分節化しているはずの「機関車」という科学に乗ったショットでありながら、覆いかぶさってくるように現われては消えて行く道々の木々の流動によって、科学と自然とが矛盾の中で葛藤している素晴らしいものであった。もっともこのショットはすぐさま汽車の中の浅野忠信の手から顔への凡庸なクローズアップへと移行されてしまい、殆ど映画の力を底上げするには至ってはいないのだが、結局のところ、キャメラを向けて撮られたショットはその瞬間既に分節化されてしまっているのだから、対象を「大自然」に決めたところでそれが即「驚き」になることは在り得ず、そこには必ずやそれ以上の細部が必要となってくるのであり、だがそうした、「ただの大自然」を、即「映像美」だの「迫力のパノラマ」だのに還元してしまう批評家の存在が、映画をして「物語」の奴隷たらしめる力に加担していることは言うまでも無い。だから言わない。

■脚本
心理をすべて台詞で説明しながら進んでいる、そうしたことからもこの作品はシネコン映画として「ある特定の層」へと向けられた映画であることを匂わせている。一歩歩く毎に立ち止まり、次の一歩を台詞で説明してからまた歩くの繰り返し。

■演技、役者
浅野忠信が映画開始直後、作戦本部の廊下を向こうから手前に歩いて来るショットの収まりの悪さを見て「あっ、こりゃダメだ」と確信し、その確信が崩れることは一瞬たりともなかったのだが、まずもって役者が映画の中に入っていない。役者たちが萎縮し、監督のごきげんを伺っている。想像するに、撮影現場の雰囲気は決して良くなかったはずである。役者が映画ではなく、監督の方を向いている。松田龍平など、いるんだがいないんだかまったく分からない。

■衣装、装置、美術
黒っぽい衣装を主としたこの作品は、特に室内では衣装に十分な光が反射せず、露出アンダー気味のボケた衣装に終始している。装置や美術にもしっかりと光が当たっておらず、装置や衣装を瞳で楽しむことができない。「黒」とは光を当てて出す、という趣旨が、この作品には感じられない。この映画の家屋における「黒」とは、ただ光の弱さによって反映画的に作出されたものに過ぎない。

グッズ×売っていない。
それでも恋するバルセロナ(2008スペイン、アメリカ) 60 80 監督ヴディ・アレン俳優スカーレット・ヨハンソン、ペネロペ・クロス、ハビエル・バルデム

もっと徹底して大胆に撮ってしまえば良いのに、と思いながら、スペインで撮ろうが、紐育で撮ろうが、そうした出来事を超えたある種の限界というものをアレンには感じる。前作の「タロッカード殺人事件」の場合、露骨なまでに反復される平行モンタージュやクロスカッティングの救出劇などがそのまま、「サスペンス映画」そのものに対するオマージュなりパロディなりと見ることも可能ではあり、それなりに楽しめないことはないにしても、余りにも出来過ぎていて、物語的な流れへと吸収されてしまっている。視覚的で突出した細部が乏しい。

この「それでも恋するバルセロナ」において、そのような突出した過剰な細部がまったくないというわけではない。パーティ会場で始めてハビエル・バルデムが画面に登場する時に来ていた「赤」のシャツは、その「赤」が、決して日本のプロ野球やJリーグのユニホームでは見ることのできない「赤」であり、まずもってスペインという土地柄の持つ色に対する感性をこの映画のカラーフィルムは楽しみとして見せてくれるばかりか、地方都市でのヨハンソンの脱落とハビエル・バルデムの父親の工房への訪問、このあたりは何となくマッケリーの「邂逅(めぐりあい」などを想起させてくれ、さらに帰りの飛行機の中でスカーレット・ヨハンソンが一人はしゃぎながら「ア、ア、アイ、アイ、、」と、「アレンどもり」に陥った時には思わず大爆笑してしまったのだが、このようにして瞳を捉える視覚的な細部というものが、上品過ぎて面白くない。

ペネロペ・クロスが出て来て人物達が「ダブルの三角関係」を形成し始めてから映画は活気付き、銃を持ったペネロペの弾が暴発するまでの流れなどはまったくもって笑えてしまうのだが、だがそれ以上のものへと発展はしない。

「ホウ・シャオシェンのレッドバルーン」では中国人をパリへと放り込んだように、誰か一人、アジア系の神経症女とかが出てくれば、とか思ってしまうのだが、アレンはそういう映画は撮らないのだろう。盗み撮りのようなことをしても良かったのでは、と思う場面が多々あって、もちろんアメリカ映画は基本的には盗み撮りはご法度である、という歴史があるので難しいのかも知れないが、だが、例えば日活は、裕次郎や浅丘ルリ子のような大スターを多くの映画で平気で何度も街中へ放り込んでいたし、或いは相米慎二が薬師丸ひろ子を渋谷のスクランブル交差点に放り込んだように、スターが街中に現れ、それを歩行者が見て驚く、という「物語」とは何の関係も無い細部の突然の驚きのようなものが、この映画には欠けている。お行儀が良すぎるというのか、映画が閉鎖的であり、アレンのファミリーの内々で安心に撮られている。
トランスフォーマー/リベンジ(2009米) 監督マイケル・ベイ

疲れ果て1時間で出てしまう。

「愛を読むひと」を見終わったあと、そのまま疲れ果てたカラダを鞭打つようにして次の会場へなだれ込んだのだが、この映画が予告編を含めて「160分」であることを忘れていた。

前作は、画面の肌触りとそれなりのユーモアからそれなりに最後まで楽しめてしまったのだが、今回は前作からさらにヒートアップし、人間が完全に「商品」と化している。ユーモアのセンスもまた、もしやスピルバーグが絡んだのではないか、、と思わせてしまうほど田舎臭い。ただ、画面の感じだけを取って言うならば、スピルバーグの「宇宙戦争」と良く似ている。それだけのこと。

グッズ◎
愛を読むひと(2008米独) 20 80 監督スティーヴン・ダルドリー

いきなり全裸の女性が出てきて、直後に青年が「ゲロ」を吐き、さぁ始まった、と思いながら、それ以降、この、テクニカラーの画面の上に程好く「黒」の出た決して悪くはない肌触りの良い画面が、いかにも、さも、といったケイト・ウィンスレットの「リアリズム(テロリズム)」によって力を失わせてゆくとき、確かにホロコーストとはそもそもがシオニズムに代わるイスラエルの政治的神話として「権力」に利用され始めてからと言うもの、いつだって「資本」だの「政治」だのによって利用され続けてきた歴史ではあるものの、池の中を戯れているウィンスレットが突然振り向いた瞬間、水に透けたブラジャーにどす黒い乳首がポコンと二つ「これは乳首です、私は脱ぎました」という感じで透けて見えたとき「バカ!」と、思わず「バカ!」と、心の中で叫んでしまったのだが、この振り向き様のショットはどんな「権力」や「資本」よりも可視的で図々しい。浴槽の中でもまた、「今、乳首が見えています」という感じで、ただ「乳首が見えています」という以外に何の取り得も無いショットを大胆に見せてくれたが、私はこうした「物語の内容を、画面の力と錯覚させるショット」をして今後「手段を選ばないショット」と命名することにした。

ウィンスレットの心理的表情は、おそらくジョン・フォードの前でやってのけたならいきなりウォード・ボンドに縄を巻かれて馬で引きずられ、ヴィクター・マクラグレンに池に放り込まれるに違いないであろうところの反映画的な「駄顔」なのだが、ジェーン・フォンダからメリル・ストリーブを経由し、今、ケイト・ウィンスレットへと綿々と続く、これはもうハリウッドの発作としか言いようの無いヒステリー演技を、「上手い」といって賞をやる人たちがいる、だからこそ人間という動物は観察に値するほど面白い。

おそらくこの映画は来年の2月下旬の某雑誌のベストテンの上位を飾ることだろう。人間界とは実にそのようなものとして「バランスよく」成り立っている。めでたし、めでたし。

グッズ×売られていない。そういうこともある。
弁天通りの人々
25分で出る。教育テレビの歴史講座の挿入イメージのような説明の画面が25分続く。音楽の入り方が許し難い。
サスペリア・テルザ・最後の魔女(2007伊、米) 監督ダリオ・アルジェント

一時間で出る

こんなしゃべりっぱなしのホラー映画がいったいどこの世界にアルジェント。そう呟きながら、終バスとの兼ね合いを口実に一時間チョイで出て、自宅の近くの焼き鳥屋で飲む。
プラスティック・シティ(2008中、香、日、ブラジル) 50 75 監督脚本ユー・リクウァイ俳優アンソニー・ウォン、オダギリ・ジョー

最初の10分くらいはそれこそ歴史が変わるのか、というくらいのロケットスタートで始まったのだが、15分くらいで既に弛緩し始め、回復されることなくラストまで進んでしまった。ジャ・ジャンクーのキャメラマンの映画という事で慌てて見に行ったのだが、どうもオダギリ・ジョーという「無国籍人」を持て余しているような苦しい画面が続いてゆく。
7/14更新
ターミネーター4(2009米、英、独) 50 75 監督マックQ

見るに耐えない「スタートレック」(2009)ほど見るに耐えられなくはなく、売店で売られているグッズの豊富さにおいても「スタートレック」を遥か凌駕しており、これは凄いと、一人呟きながら、どうしてこう頭の悪い人間に限って全人類が見る映画を撮るチャンスに恵まれるのかと、地球上の出来事とはなんと理不尽なものなのかと怒ったフリをしたことにしながら、今時怒ったところでその怒りを共有しましょうなどと申し出てくる御仁など3人いればまずまずの上出来であるという世の中を恨んだところで始まらないので恨まない。

序盤、ヘリコプターが逆さまになって墜落するシーンなどは、少なくとも体裁上はワンショットの長回しによって撮られていて、それ以外にも数箇所、「思い出したように」長回しで撮っているシーンがあるのだが、そもそもこれだけ「視点」というものをポストモダン的に「多様化」しておきながら、長回しなどというお上品なことをやってみたがるそのスノッブ的根性が気に入らない。イーストウッドなら3ショットで撮れてしまうものを、8つも9つも並べてキャメラを揺らす、学校で習ったとおりの画面の連ねる、そうして「つなぐ」ことでしか入ってこない凡庸なクローズアップの数々がただひたすら「見れてしまう」ことでしかないところの映画とはなんぞや。

主人公の二人の男の背格好顔立ちすべてが余りにも似すぎていて見分けがつかないことが狙いかもしれない。ポストモダン型のSFである。おそらくこの映画は、前作までのストーリーをまったく知らない観客に対して物語を十分に語れていない。

妊婦がちっとも「妊婦」ではない。

グッズ◎。
ニセ札(2009日) 50 60 監督木村祐一、撮影池内義浩、照明舟橋正生

エンドロールをしばらく見ていくと

製作→『ニセ札』製作委員会

文化庁支援

と出て大爆笑する。これが「センス」というものだ。しかしこのエンドロールのセンスがどうして映画の中に入って来ないのだ。エンドロール「だけで」笑わせるのがポストモダンの新型コメディなのか。

ニセ札製造のための資金作りを倍賞美津子と板倉俊之の二人がすることになって、倍賞が板倉俊之に「どうだった?」とか聞くと「だめです、全然資金が集まりません」とかうなだれていて、そのあたりからどうもおかしいなと私は思い始めていたのだが、この二人は村の家々を「ニセ札を作るのですが、資金を出して頂けませんか、、」と訪ね歩いていたらしいのだ。そして板倉俊之が「だめでした、、」とうなだれて帰ってくる。断られました、というわけである。村中で断られて、そのまま帰ってくるわけである。ここには村人が警察に通報する、などという発想は微塵もない。ひょっとするとこの映画の主題は「人間への信頼」なのだろうか。それとも「脚本を書いた人間がバカ」かのどちらかである。
スラムドッグ&ミリオネア(2008英米) 80 85 監督ダニー・ボイル、撮影アンソニー・ドッド・マントル

あの「トレインスポッティング」のダニー・ボイルのことだから、、と高をくくって見始め、「うんち」だの「ゲロ」だの「子供のおちんちん」だのと、知識人受けするアイテムが続々出て来ると、そうだろう、そうだろう、、たいしたもんだと頷きながら見ていたのだが、いつまで経っても画面が弛緩しようとはせずに凡庸さのギリギリのライン上にハテナと止まり続け、それどころか地下鉄の通路で目を潰された少年に札を渡すシーンの、シネコンの傾いた画面の光沢と肌触りにびっくり仰天しているうちに、画面のチャカつきも高速のカッティングもなんのその、そうだ、「ダニー・ボイル」はあの「28日後、、」(2002)の、あの私を徹底的に楽しませてくれたあのダニー・ボイルではなかったか、テーブルの上に椅子を逆さに乗せた夜の酒場でキャメロン・ディアスに詩の朗読をさせたあのほんの少しだけ私を泣かせてくれた「普通じゃない」(1997の、『あのダニー・ボイル』であったのかと突如思い出し、襟を正し、正座をして見る。

ダニー・ボイルは一流ではないがバカでもない。現代映画が一番必要としている「中堅どころ」としての作家である。

まずもってこの作品のキャメラマンは「消されたヘッドライン」を撮ったケヴィン・マクドナルドがフォレスト・ウィッテカーにアカデミー賞を差し上げることになる「ラストキング・オブ・スコットランド」(2006)のキャメラマンであるところのアンソニー・ドッド・マントルであり、どうやらこのキャメラマンは、これからも色々な所に顔を出して来そうな予感をしたためているのであるが、彼はドグマ系の映画と関係があるらしく、キャメラの揺らし方、傾け方、そして被写体に5センチほど一気に寄るズームなど、馬鹿みたいなことが実に上手なキャメラマンであって、ただの簡単なサスペンス映画でありながら断片的なエピソードの羅列によって非心理的に撮られていた「ラストキング・オブ・スコットランド」においてもまた見事な「黒」を出しながら画面を作っていて私は思わず乗れてしまったのだが、この「スラムドッグ&ミリオネア」においても彼はまた、画面の色合いにおいて非凡なセンスを隠そうとはしていない。少年が地下鉄の通路で目を潰されたかつての仲間に紙幣を恵んでやるシーンにおける傾いたシネスコ画面の驚くべき光沢は決してまんざらではないという感じに撮られている。

■運命
この映画は「運命であること」の映画なのかも知れない。だが「運命であること」とはいわば「あらすじ」としての物語の線であり、視覚的な細部としてこの映画は「ただひたすら聞かれたことに答える(Answer)少年の物語」として露呈している。スラム育ちの少年は、時間的にも空間的にも弱者であり、クイズの司会者に、警官に、ギャングたちに、ただひたすら「答えること」でしかみずからの同一性を確認できない。だかいつしかその「答えること」が武器として露呈し始め、人々は少年の「答えること」に翻弄されるようになってゆく。そういう感じをもっと上手く撮れていればベストテン入りだったが、今回は見送り。

■社会派映画
この映画はもちろん「社会派映画」なるものではなく、ハリウッドのただの娯楽映画として、さも「娯楽です」、という撮り方でもって娯楽っぽく撮られている訳であるからして、見ているわたくしとしてもまた、「はい、娯楽映画ですね。わかりました」と見るわけであって、決して「社会派映画」などという、三流の評論家しか口にしないようなジャンルを空想して見ているわけではない。あしからず。

グッズ→売っていない。
ガマの油(2008日) 40 70 監督脚本役所広司

こりゃダメだ、と、諦めながら、だが少しずつ良くなるのではないかと期待しながら見ていて、やっと最後で映画になり、思わず泣いてしまったのだが、瞳と瞳が初めて構図=逆構図による切返しによって交差した、ただ見つめあうだけの擬制的な画面の連なりは、役所広司が主演したある映画のラストシーンで、死に際の青年が「おれは存在したのか」と問うた時、「そうだ、お前は確かに存在した、、」と役所広司が応えた忘れ難き切返しとどこかで繋がっており、この、ひたすらただ「存在すること」それだけが、視線そのものによって時間や空間の軸から解き放たれて飛翔した時、映画は摩訶不思議なエモーションによって包まれてしまうという、その「ある映画」を撮った監督の美しい部分を知ってか知らずか受け継ぎ、摩訶不思議な、映画的としか言いようのない現象を役所広司は最後のほんの一画面に収めてしまった。

30分長い。長すぎる。

グッズは売っていない。
ホルテンさんのはじめての冒険(2007ノルウェー) 50 60 監督脚本ベント・ハーメル

ポストモダン映画。真面目だが、際立たない。
グラン・トリノ 95 85 監督クリント・イーストウッド

「グラン・トリノ」の批評

ジョン・フォードの「三悪人」(1926)はこういう物語である。

西部開拓が始まった当時、三人のバッドマン(悪人)がいた。彼らは行きがかり上一人の娘を結果的に助けたところ、娘に信頼されてしまう。三人は父親を殺された娘の手下となり、娘のために花婿を探してやったり、みずから盾となって悪漢を退治してやったりしながら娘の土地獲得競争を助け、娘の子供のゴッド・ファーザー(名付け親)になり、最後は影となって消えて行く。

ここで興味深いのは、まずもって土地獲得競争に「ジャーナリスト」が帯同しているという事実である。「リバティ・バランスを射った男」(1962)にもまたエドモンド・オブライエンという記者が存在していたが、「三悪人」では、ジャーナリストの存在によって、娘だけが知っている歴史とジャーナリストの見た歴史とが齟齬する可能性がそれとなく暗示されている。さらに三人は、娘の父親が殺された直後に娘の手下となる。ここにも「父親不在」という要素が見出されている。「グラン・トリノ」の多くの要素はこの1926年に撮られたジョン・フォードの「三悪人」によって既に出来上がっていたことになる。

ここには「古い男たち」というテーマと平行して「聖母崇拝」というカトリック的なテーマが露呈している。それについては山本喜久男の「日本映画における外国映画の影響」439項以下に詳しく論じられているが、合理的な思考を推し進めるプロテスタントとは違い、アニミズム的な「母なる大地」としての聖母という存在を認めるカトリック的な土壌においては、何故か男たちが娘を助けては消えて行く、、という、多くの映画によって反復され続けてきた理由なき運動が、聖母崇拝というテーマからそれとなく出てくるのかも知れない。そうした点から見てみると、「彼奴(きやつ)は顔役だ!」(1939)、「ウエスタン」(1968)、「ペイルライダー」(1985)などは、聖母崇拝的要素の強い作品であるとも言える。たたじ「ペイルライダー」(1985)のイーストウッドは神父でなく牧師である。従って、「聖母崇拝」というテーマはそのままストレートに映画史に受け継がれているのではなく、そこに「古さ」と「新しさ」という要素を巧みに混ぜて、受け継がれているように思える。「聖母崇拝」的なテーマを持った映画は、キリスト教国家ではない日本でも大いに模倣されているからである。山本喜久男によると、二川文太郎監督、阪東妻三郎主演の「雄呂血」(1925)、マキノ正博の「浪人街第一話美しき獲物」(1928)、山中貞雄の「河内山宋俊」(1936)などもまた聖母崇拝的な映画であり、私の指摘した石井輝男の「ならず者」「東京ギャング対香港ギャング」などにおいても「聖母」と思しき娘たちが配置されている。「雄呂血」(1925)のラストシーンには、阪東妻三郎の真意を知らない民衆と、真意を知っている夫婦という二種類の「目撃者」が存在するし、「河内山宋俊」(1936)のラストシーンもまた、逃げた青年と原節子の二人だけが、「真実の歴史」を背負って行くであろうことが暗示されているのは決して偶然ではないだろう。「聖母崇拝」が「歴史のずれ」を通じて「伝説」となる。

そもそも「目撃者による歴史の齟齬」という要素もまた、ゴルゴダの丘には二種類の目撃者がいて、その中の少数の目撃者だけが「真実」を受け継いでゆく、語り継いでゆく、という要素から来ている風でもあり、結局の所、キリスト教的な、或いは宗教的な構造というものが映画的な構造の中に秘められて受け継がれている。「グラン・トリノ」のイーストウッドがまるで十字架に掛けられたキリストの様に両腕を大きく広げて倒れたのは、「グラン・トリノ」が紛れもない「救世主伝説」であることを露呈させているのかも知れない。どちらにせよ、あらゆる「アメリカ映画」とは基本的には「キリスト映画」なのだが、ただストレートに「キリスト化」することでもまたなく、素晴らしい映画には必ずや「映画的隠し味」が施されていることを今回もまた確認したという次第。

■照明
批評にも書いたが、「グラン・トリノ」の照明は決して最良のものではなく、それは「チェンジリング」も同様で、警察の依頼でアンジェリーナ・ジョリーの家にやって来た医師が、ドアにもたれているアンジェリーナ・ジョリーと会話する切返しのシーンの、その医師の顔に当たる照明などはっきり言って見ていられないほどひどいのであって、それは「グラン・トリノ」の女医の顔に当てられた光と同様、少し驚いてしまうのであるが、イーストウッドはそういうものに過剰に拘らなくなったということだろうか。少なくとも「許されざる者」や「ミスティックリバー」の見事な照明とは違っている。
ラスト・ブラッド(2008香、仏) 30 70 監督クリス・ナオン

フランス出身の監督が香港で日本の鬼の映画を韓国人の主演で撮っている。だから→なんだ、それが→どうした、という映画に仕上がっている。

チケットを買ったあと、グッズ売り場を見て呆然としたのだが、まさかこの「B」的香りを予感させる「91」という数字を上映時間に誇らしげに掲げる映画がグッズを売りまくっている、という状況が理解できず、だが凡庸な「トレインスポッティング」を撮った監督の映画にも今ひとつ乗り気がしないのでチケット交換に踏み切れず、気が付いたらこの「ラスト・ブラッド」を見てしまっていたのであり、自分を信用してさえいればあんなにグッズを売りまくる洋画など絶対に見なくて済んだものの、「もしや、」という好奇心が貴重な時間を無駄にしてしまう。

どうやらこの映画は「私はトリュフォーもシャブロルも知りませんが、リュック・ベッソンとジャン=ピエール・ジュネなら良く知っています。」という育ちの悪い映画であって、フランスからは当分まともな哲学者は出てこないだろう、とも予感させてくれる。

グッズ◎売りまくり。そういう映画である。
スター・トレック(2009、米) 3 50 監督J・J・エイブラムス

ショットよりも売られているグッズの方が多彩である。

余りにも低俗なショットの連続に頭を抱えてしまい、どうしてこんなバカに映画を撮らせるのかと、アメリカ映画界の偉大なる心の広さに敬意を表しながら、映画を撮るべきレベルに遥か到達していない画面の凡庸な連なりに眠くもならず、中途で退席する気力すら失せ、座席に「たたずむ」といった感じて過ごしている自分に驚いたふりをする。ワーストテンに入れるのもワーストテンさんに失礼なので止める。J・J・エイブラムスが近づきそうなキャメラの周囲には落とし穴を掘って接近を防御すべき。

なまじ休憩時間の酒場のテーブルの上に椅子が逆さにして乗せられているのを下手糞に撮っているのを見ると忌まわしさも倍増するが、この男はちっとも分かってない。サイトで検索して監督の写真を見てみると「私はちっとも分かっていません」という顔をしている。

グッズ◎大売り出し。見事にそういう映画として成り立っている。従ってこの映画は受けるというわけである。めでたし、めでたし。
チェチェンへ アレクサンドラの旅(2007露、仏)) 85 85 監督アレクサンドル・ソクーロフ

■ずれること
この映画は何かずれていて、例えば老婆がゲート前で一夜を過ごして帰って来たあと、兵士と戦争の悲惨さについて話している時の構図=逆構図による切返しのショットは、老婆がキャメラの正面を向き、兵士はやや左へと視線を向けているといったように、所謂「イマジーナリーライン」がずれている。つまりこれは、仮にハリウッド的デクパージュを教授したダニエル・アリホンの書いた「映画の文法」の定義によると『「誤ったつなぎ」』ということになるだろう。(だがドゥルーズの「シネマ①運動イメージ」的な意味における『誤ったつなぎ』とは違う)。このシーンは意図的にイマジナリーラインをずらしているように見える。

老婆がテントの中で孫と抱き合うシーンにしても、①ベッドの上の孫を斜めから②老婆へと切返す③正面からのフルショットで二人が抱き合う④正面からさらに二人に寄ったミドルショット、という流れで撮られているのだが、この④がずれているのである。ハリウッドの典型的な古典的デクパージュなら、④は入らないはずである。この④の存在によって、被写体が事物から解き放たれて「剥き出し」になる。遡って見ると、実は①から④までのすべてがずれているのかも知れない。

爆撃によって崩れかけたアパートから帰る時の砂利道の構図にしても、少年のバックから入る移動ショットは何かずれているし、その直後入る少年のクローズアップ、或いは老婆がアパートの出口付近で初めてその少年を見た時のクローズアップにしても明らかにずれている。この場合の「ずれ」とは、イマジナリーラインのずれではなく、時間や空間の座標軸からのずれであって、どちらかと言えばドゥルーズの『誤ったつなぎ』に近いとも言える。ラストシーンの、ホームのない駅での見送りにおける、見送る女の視線の「ずれ」は、おそらくどちらの意味においても還元されない、我々の物語への感傷的没入をあざ笑う「冷笑=イメージ」とでも言うべきものである。

■髪を直すこと
序盤の兵士との汽車の中とか、ゲートから早朝テントへ帰ってゆくシーンの後ろ姿のショットであるとか、食事のためにしつらえられたテーブルの前で椅子に座って待っている時であるとか、老婆はひたすら「髪を直す」という仕草を執拗なまでに丁寧に繰り返している。おそらくこれはソクーロフの指示ではないか、と思わせるに足りる反復行動なのだが、この肥満した老婆がひたすらに髪を直し続けるという行為をし続けるにつれ、画面の中の老婆が次第に一人の娘へと変貌してゆくエロチックな、或いは「死の香り」とでも言うべき時間が訪れる。それが頂点へ達しようかというとき、老婆は映画の中で初めて鏡を覗き、髪をほどき、孫に髪をとかしてもらう。年輪を感じさせる老婆の髪が孫の手によってしなやかにとかされ、編まれてゆくクローズアップは、髪をほどき、孫に背中を向け、髪を委ねる、という老婆の「委ねる」という無防備の状態そのものが、老婆をして「ひとりの娘」へと遡らせてゆくかのような神秘的な時間に包まれている。
6/13更新
消されたヘッドライン(2009米) 75 70 監督ケヴィン・マクドナルド俳優ラッセル・クロウ、ベン・アフレック、レイチェル・マクアダムス

ベストテンに入れようかどうか迷う。

「天使と悪魔」を見に行こうとしていたはずなのだが、グッズ売り場グッズの多さを見てどうしても気が進まず、気が付くとグッズを売っていない「消されたヘッドライン」を見ていた。
発券所で券を買う時に、見ようと思っていた映画とはまったく違う映画をなぜか申告してしまうという体験が何度もあるのだが、大抵その違う映画とは良い映画である。

ハワード・ホークスのドキュメンタリーを撮ったことがあるらしいこのドキュメンタリー出身の血統書付きの監督の作品は、新聞社のオフィスを歩く人物を、まるでイーストウッドの映画のように前や後ろから延々とトラッキングで寡黙に撮り続けながら、夜の雨に濡れた舗道に黒を散りばめた二番目のショットと、それに続く、老夫婦にぶつかり転ぶ少年の第三のショットの連鎖から、既に活劇の予感を振り撒いている。

ミステリーでありながら、決して台詞による心理的な説明に拠るのではなく、ひたすら人物たちの行動と視線の動きとカット割りによって画面を作り、極めて反心理的な経済性でもって私を引きずってくれる。

「大統領の陰謀」のゴードン・ウィルスのキャメラポジションを時折髣髴させるロドリゴ・ブリエトのキャメラは、どうしてこうまでチャカつかせる必要があるのか、というくらい、バカバカしくチャカつくことしばしではあり、照明について言えは、メイクとの関係が芳しくなく、もったいない、、と呟きながらも、バカが見ると楽しめるようにちゃんとできている。ということは、日本では余り受けないだろう。

グッズ×(売っていない)。当然のようにして。
ワンダーラスト(2008英) 75 75 監督脚本製作マドンナ

私はマドンナの音楽的才能についてちっとも判断できないが、マドンナの撮った映画を見ると、少なくともこのマドンナという人はバカではないことがそれとなく伝わって来る。映画がマドンナを必要としている、とまで大胆に言うつもりはないが、元のだんなのショーン・ペンが「イントゥ・ザ・ワイルド」という、凡庸ではあるものの力の篭った映画を必要としていたように、マドンナもまた映画を必要としている。

画面そのもので笑わせる力は「バーン・アフター・リーディング」などという英語講座の遥か上を行っているし、自分を露呈させるという性向については紛れもなく作家のそれである。寄る、引くの典型的なカッティング・イン・アクションを真面目すぎるほど使ってもいるのは、音楽的性向だろうか。

ソフィア・コッポラが、下品になるはずのないものを下品に撮れてしまう天才だとすれば、下品に成り得るものを撮っておきながら決して下品に成り下がらない「マドンナの力」というものは、ソフィアの「二世力」を遥か凌駕している。とうに20を過ぎたであろうところの女ふたりが、突如、女高生の制服を着て「教室」に入ってきたときのあの驚きというのか、何が始まるのか、、、完全に宙吊りになってしまったのだが、すぐにこの二人は、生徒が先生にお尻を鞭で叩かれるマゾゲームのエキストラのアルバイトとして教室に入って来たのだということが判る。この何たる迂回した間接性の役柄だろうか、、、普通の監督なら彼女達自身が客の尻をムチで叩くという直接的な設定を考えそうなものだが、マドンナは、彼女たちをただの「エキストラのアルバイト」として使っているのである。あの娘たちが「間接的に」関与することこそ、「マゾ」なのだ、という、とてつもないエロの響きなのである。

そうした「マスコット的マゾ」の感覚こそ、、ドリフターズの「8時だよ、全員集合」の学校バージョーンでセーラー服を着て出て来たキャンディーズそのままではないか、、、頭がいい、と言うよりも、このマドンナという人は、ほとほと純粋な人間であるらしい。松本人志の「大日本人」は、頭の良い人間が計算しつくされたバカをやると凡庸になりかねない事を教えてくれたが、マドンナはまったく無理をせずにバカをできてしまう。するとバカなのか。、、、いや、それは豊かさ、というものであるはずだ。映画とは摩訶不思議である。
いのちの戦場(2007仏) 70 80 監督フローラン=エミリオ・シリ立案、主演ブノア・マジメル

間違っても悪くはないのだが、早く書かないと画面を忘れてしまうそうなので、急いで書いている。透明なのである。

アルジェリア戦争をフランスの側から撮った作品で、非常に真面目に撮っている。画面の調子も悪くなく、リズムもそれなりで、楽しめる。だが決して神話にはならないであるうところの生真面目さが画面を覆っている。
フツーの仕事がしたい(2008日) 60 50 監督撮影編集ナレーション土屋トカチ

ドキュメンタリー映画

資本家がやくざめいた者たちを引き連れて斎場に乗り込み、組合員を恫喝するシーンなどは、キャメラというものの存在について、人間とはかくも不条理であることをまざまざと教えてくれるのだが、彼らはキャメラに撮られることが、ひょっとすると法廷での証拠になる、などということを夢にも考えておらず、まるでやくざ映画の主人公のように、恫喝をしている自分に酔っているかのようである。こういうシーンを見るたびに、フィクションとは真実以外の何物でもなく、あらゆるドキュメンタリー映画はフィクションであるという確信を強めるのである。
遭難フリーター(2007日) 60 50 監督出演岩渕弘樹アドバイザー雨宮処凛

ドキュメンタリー映画

創造することとは精神における自由を物質に働きかけることだとすれば、その物質において窮乏にある人間が創造することに技術的な困難を来たす事はある意味において当然であるとしても、そこになおかつ自由な精神を反映させるには、そのための技術と知識が必要であり、それを得るには金と時間が掛かる。だが「勝手にしやがれ」(1959)を撮ったゴダールが、当時「浮浪者同然」であったという事実もまた、忘れてはならない。(現代のシネマ①ゴダール255)。

ラストシーンに挿入される音楽は出口なき出口であり、このような「ドラマを作らなければ」の精神こそは彼の人生を誠実に映し出しているものの、それは見ている者たちをして驚きを与えるものからは程遠いところの何かであり、それはあたかも、オタク向け美少女ゲームのマルチエンディングの中の一つのように、身体感覚を欠いている。

イベントに来た中年のサラリーマンが主人公に説教するシーンがあって、あのシーンが未だに焼き付いているのだが、それに対して岩渕氏は「そういうことを言われるから、だからこういう人生をしたくなるのです」と反論している。サラリーマンが岩渕氏に延々と語ったのは、派遣の生き方をしていても利用されるだけの人生だ、搾取されるだけだ、だからそんな生き方では駄目である、というものであり、一見もっともらしく聞こえるのであるが、しかしそうしたもっともらしい言説が=サラリーマンの語る言語の内容の中心部分が、サラリーマンの潤んだ瞳、身振り、手振りといった周辺部分によって即座に自己否定されてゆく過程が、見ている者をして、出口のない居心地の悪さとして襲い掛かってくる。この映画には間違っても「出口」なるものは存在しない。その、存在しもしない出口を、存在するものとして仮装されたラストシーンは痛ましい。
ロルナの祈り(2008ベルギー、フランス、イタリア) 80 80 監督ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ

ユーロの紙幣の音がクシャクシャと無機質に鳴り響きながら始まるこの作品は、夫が、金の入った封筒の中から必要な金だけを取ってすぐに妻に返す、それを何度も何度も執拗に繰り返すのだが、こうした些細な出来事一つひとつに「関係を維持すること」に対する男の恐怖心にも似た心理が露呈している。二人の関係を維持するものと言えば、結婚証明書とユーロしか存在しない。そこには身体という、人間的な物質が決定的に欠如している。

仮に一瞬であれ、身体に対する肉体的情熱を発散させる売春と比すならば、国籍売買は限りなく身体感覚を喪失した身体売買であり、そこでは身体が牢獄の中で生きることを禁じられ、ただロルナの左の頬にできた三つの病的なおできの噴出が、その若い肉体の中から今にも抜け出さんとしているかのようである。
ロルナは自分が自分であることの身体的な証をSEXと妊娠によって獲得しようとする。

ダルデンヌ兄弟が、一瞬の身体を、夫の自転車を追いかけるロルナの弾ける笑顔に集約してみせたのは、一見豊かな関係を築くはずのユーロという統合のシステムが、実は身体感覚を喪失させる偽善にもなり得ることへの怒りなのかも知れない。怒りでないのかも知れない。
バビロンA.D. 40 65 監督マチュー・カソヴィッツ

画面で物語を語れていない。画面を忘れたので何も書けない。
おっぱいバレー(2008日) 30 80 監督羽住英一郎、撮影西村博光、照明三善章誉、俳優綾瀬はるか

光の関係が色々と頑張っていて、特に終盤の学校のロッカーから綾瀬はるかが手紙を取り出すシーンの光など、ただただ素晴らしい。現像もちゃんとしている。

だが、いくら光の関係をやってもベンチがアホだから映画にならない。

70年代のテレビの青春ドラマの頭を相当に悪くするとこうなるであろうところの、泣きたくなるほど古臭く、同情したくなるほどオヤジ臭い、募金をしたくなる映画である。「ゾンビ」(1978)のゾンビの方が「おっぱいバレー」のおっぱいよりもよっぽど人間らしい。そもそも「おっぱい」の撮り方自体が一瞬たりとも「映画」になっていない。車での帰りがけに100キロ出して手を窓の外に出して空気を揉んだが、ちっとも「おっぱい」ではない。

綾瀬はるかの、同僚教師に対する口の効き方にしても、そもそもああいう口の効き方をする女には撮られてはいないだけに虚しく、映画がうわべだけで浅薄に化粧されている。よくぞこんな薄っぺらな映画が撮れるものだと同情して見せたりする。この映画には募金が必要である。愛の手を差し伸べない限りどうにもこうにもやり切れない。

家庭が描かれていない。役者の数が足りなかったのだろう。募金したくなる。

日本人はみなさまのおかけでここまで精神年齢が低くなりました、ありがとうございました!、という映画である。めでたし、めでたし。

アメリカ製シネコン映画はリミッターの壁を破りつつつあるのに対して、日本製シネコン映画には相変わらず堅固なリミッターが設定されている。

グッズ×(売っていない)。
5/24更新
レッドクリフPARTⅡ-未来への最終決戦-(2009米日中台韓) 60 70 監督ジョン・ウー

この環境の中では最高のレベルに仕上げてきているという事実が逆に虚しい。

身体を突き刺す槍の「ブスッ」というジョン・ウー的体感が映画を支配し、、、とか、書き始める気力が沸かない。

グッズ◎
バーン・アフター・リーディング(2008米・英・仏) 40 50 監督コーエン兄弟

画面で物語を処理できていない。

後ろの方の座席で、英語圏の人間であろう白人の男性が、「文明人はここは笑うのである」、と言いたげな笑いでもって、非文明人の私には決して笑えないであろうところの凡庸な画面の会話の中身だけに鋭く反応して「ここで笑いなさい」と指導的に笑い続け、それにつられて、「笑ってもいいんですね、」と、いつもならウンともスンとも笑わない田舎者たちが一緒に笑い出すのを悲しげに聞きながら、ビニール袋とおしゃべりのダブルの騒音を撒き散らしながら笑っているスケールの大きい「白人指導者」に、スケールの小さな黄色人種として是非とも指導(注意)してやりたくなったのだが、だが相手は、「生きているだけで英語の達人になった白人指導者」であり、元来私は「生きているだけで~になりました」という人種に近寄りたくない性癖があり、加えて館内も既に、「この映画は英語の達人にしか判らない、、、」というファシズムとしてのイナカッペ空気にどっぷり全体主義化しているおそれがあり、注意して袋叩きに会うのも嫌なので思い留まり、これが「グラン・トリノ」なら叩き出すが、「パーン・アフター・リーディング」だから許してやると言い聞かせ、一緒に笑った。そういう映画である。

映画終了後、私はどうしてもこの白人指導者の顔が見たくてたまらなくなり、いつもなら最後まで見るエンドロールをほっぽりだし、チーターの如き早足で立ち去ろうとする白人指導者をダチョウの如き大股で追いかけて追い抜き、「山の音」(1954)の原節子のように振り向いて白人指導者の顔をそれとなく見たところ、なんというかこれがまた「私は英語を話します」という顔をしているのである。これには驚いた。
悲夢(2008韓) 40 75 監督キム・ギドク俳優オダギリ・ジョー、イ・ヨナン

「キム・ギドクはおそらくダメだろう、、」と、以前ホームページのどこかで書いた記憶があるが、どうしてもこの監督さんは画面に意味を持たる性向から自由になれない。悪い言葉で言うと「知識人向きの映画」である。
レインフォール/雨の牙(2008日) 45 65 監督マックス・マニックス俳優椎名桔平

「トウキョウソナタ」の脚本を書いたガイジンが日本映画を撮る、という、何とも楽しそうな映画なので当然見に行ってしまうのだが、このおそらくコダックであろうところのフィルムの醸し出す「黒」のくすんだ感じの画面の質は、どうあっても「日本映画」のそれではなく「ハリウッド映画」のそれにしか見えないのだが、キャメラマンもジャック・ワーレハムというガイジンであり、椎名桔平の立ち振る舞いも、決して日本映画ではない独特のアメリカシネコン映画的運動感覚と無国籍的雰囲気であって、先入観抜きに見たならば、これは紛れも無くハリウッド映画として立っており、逆に言うならば映画の無国籍化が加速している、ということになる。どうでもいいんだけど。

見た感じで言うならば、「私はサイレント映画もモノクロ映画も知りません、」という撮り方をしていて、簡単に言うならば、例えばカラー映画というものは、苦労せずとも遠近なりコントラストなりというものは、色の差異によって自然と出てしまうことから、カラー映画しか知らない人は、そうした部分に対して往々として無神経さを露呈してしまうものなのだが、一見この映画は「黒」もそこそこ出ていて、照明もそれなりでありながら、微妙な部分において安っぽい。

室内の会話のクローズアップを、超望遠レンズで遠くから撮るなどという芸当は、まさか「クロサワ」へのオマージュなのか、と、思いながら(クロサワは望遠を良く使う)、「清」の脚本を書いた男が「明」にオマージュを捧げるとすれば、こんなに面白い転倒は無く、そうであるなら長谷川京子は胴口依子であっても良かったのではないかと怒ったりもする。つまり映画史に対する甘さがある、ということ。

椎名桔平と長谷川京子の、行燈を挟んだ旅館でのシークエンスは軽蔑した。日本型シネコン映画のお約束と言ってしまえばそれまでだが、ひたすら弛緩した感傷癖に、淋しさに包まれる。
英国王 給仕人に乾杯!(2006チェコ/スロバキア 50 75 監督イジー・メンツェル

女をやたらと美しく撮ろうとしていて、そこに何か老齢特有のエロ感覚が滲み出ていて、それはそれでよろしいのだが、映画は決まった線をフンずけるようにして凡庸へと流れてゆく。
グラン・トリノ(2008) 90 90 監督クリント・イーストウッド

批評コーナーに書く予定なので、それ以外のことについて書いてみたい。

そもそもこのウォルト・コワルスキーなる人物は「Fordの組立工」である、というのがまたなんとも私をして「行け、行け」と駆り立てているようで困るのだが、「チェンジリング」において、あれだけ「フォード、フォード」と書き続けた私は、またしてもここで「Fordの組立工」を書かなければならないのかと、もう行けるとこまで行ってしまえと、そう観念して今回もまた「ジョン・フォード」について書く事になるのであろうが、私の感覚からいえば、最期、あのシーンにおいて、あの空間には多くの「目撃者」が存在したという事実からして、この「グラン・トリノ」に「ジョン・フォード」を感じないことは絶対に有り得ないのである。

私は、批評については「時評」としての感覚をまったく持ち合わせておらず、仮に私の批評が「時評」としてしか意味を成さないのなら、そんな批評は即座に止めてやるという覚悟でやっている。冗談じゃない。「金沢市」という田舎で批評活動をするという点ついても、公開の遅さや少なさからして、間違っても「時評」としてのポジションが成り立たない場所であるという点に、私は極めて大きな意義を見出している。「グラン・トリノ」の批評は、世間様が書き終わった頃合を見計らって、ゆっくりと出したい。
そして、私たちは愛に帰る(2007トルコ、ドイツ) 75 80 監督
あれがハンナ・シグラである、という情報抜きに映画を見た私は、と言っても私はいつも映画を見る時に情報は殆ど持って入らないのだが、そうするとどいういうことが起るかというと、あの母親を「ハンナ・シグラ」であると知らない私は、終盤、あの母親がいきなり映画の中心にしゃしゃり出てきた時、あれっと驚くのである。終盤、映画に対していきなりああいう入り方をするようには、あの母親はそれ以前には撮られていなかったはずだ、ということなのだが。それが「豊かさである」と、私は言いたいわけなのだが。
5/10更新
ヤッターマン(2008日) 68.6 75 監督三池崇史、俳優深田恭子

どうもこの映画の深田恭子扮するドロンジョの動作が、私の行きつけのカラオケバーのオネーチャンに不思議と似ている。大きな胸を思い切り露出させた黒いドレスに身を包み、左足を前に出して斜めに構え、ややアゴを引き気味に挑発的に腰に手を当て、泣きたくなるほどくだらない私のギャグにびっくりしたフリをしてふらりとフラついてくれる、、。そのふらつきの艶、、、わざわざ「びっくりしてくれる」という、奉仕精神に基づくあの明らかに大袈裟としか言いようのないフラつき加減による乱れの「ズレ」が、なーにかよーくこの深キョンと似ているのだ。これは紛れもなく「サービス」である。この映画は「サービス」なのだ。
ラースと、その彼女(2007米) 80 80 監督クレイグ・ギレスピー俳優ライアン・ゴズリング、ビアンカ、

シャイな27歳の独身男が、「リアルガール」という、つまりダッチワイフに惚れてしまい、肉親や街の人々が大慌てする、という作品で、いったいこの映画は最後どう決着を付けるのだろう、と、それができたら天才だ、と、ニヤニヤしながら見ていたのだが、見て行くうちに、だんだんとこの映画が、主題に関して「本気」であることが伝わって来て、終盤、とある瞬間を湖畔のロングショットだけで撮った画面に思わず大粒の涙を流してしまったのだが、「本気」とは、それまでは「正常」であったはずの一人の青年が、突如本気で「リアルガールを恋人にする」という出来事に関して、この映画は真正面から真面目に向き合って撮っているのである。従ってまた、誰しもが納得できるようなほんとうらしい理由など、ここには不在であり、だが紛れも無く映画が葛藤し、画面において大きなエモーションを生じさせているのだ。

主人公のライアン・ゴズリングが、ボウリング場や職場で、必ずしも美人とは言えない同僚のケリ・ガーナーの生き生きとした姿を何度も何度も「盗み見」してゆく感覚がとても素晴らしいのだが、この「盗み見」には、ビアンカという人形への執着から解き放たれ、人間の娘のナマの姿の躍動へと吸い込まれてゆくライアン・ゴズリングの欲望と葛藤が生々しく露呈しているかのようである。

他人の物語に付き合うこと。わけもなくつきあうこと。この「わけもなく」がエモーションの源泉ではないか。

画調が悪くない。部分的な照明としてではなく、画調がまずもって優れている。ソフトでしっとりとしている。

懲りずにパンフレットを買って、監督の顔を見てみると、矢張り何ともいい「顔」をしている、、
ブロークン・イングリッシュ(2007米、仏、日) 70 75 監督ゾエ・カサヴェテス出演パーカー・ポージー

あのパリで荷物を届けたマダムはベルナデッド・ラフォン、、、ではNYで舗道を歩いているパーカー・ポージーを店先から「あなたの(死んだ)お父様が、あなたの事を心配している、、」と不意に呼び止めた、あの超能力者の老婆はいったい何者なのか、、、まさかシャーリー・マクレーンか、、などと、この映画の中で一番素晴らしい瞬間の、この無意味な女の登場にしこたまびっくりして、映画が終わるとすぐさまパンフレットを買って、帰途、歩きながら読んでみたのだが、ベルナデッド・ラフォンについても、超能力者の女優についても、パンフレットには一言も触れられていない。写真も載っていない。ずいぶん軽い仕事をしますねと、ずいぶんと淋しい仕事をするもんですなと、そんなもんですかねと、そもそもが中身も見ずにパンフレットを買った自分がバカだったと、どうしてこう自分は簡単に他人様を信用してしまうのかとつくづく自嘲しながら、帰宅後、少しでも目のつかない部屋の隅にパンフレットを放り投げ、「あーヤダ」と仕方なく調べてみると、あの超能力者の女性はフィリス・サマーヴィルという女優さんであり、舞台やテレビからキャリア半ばにして映画に出始めた女優さんらしく、私はまったく知らなかったのだが(「ベンジャミン・バトンにも出ている)」、見直してみると、結構重要な役柄で出ていたりする。彼女がいきなりタテの構図で出て来て、赤の他人のパーカー・ポージーに向って「あなたのお父さんが、、」と始める荒唐無稽のシーンこそ、紛れもなくこの映画の白眉であり、映画が大きく揺れた瞬間なのだが、どうしてそういう瞬間に対する好奇心というものを「映画ライターさんたち」は催さないのだろう。

ゴダールの映画パンフレットなどを見てみると、時として「ゴダールの映画より上ではないのか、、」と思えてしまうほど、命の掛かったパンフレットがあって、こんなことしても金になる訳がないのにと、書き手の情熱につくづく打ちのめされることじはじだが、そういった方々が片方に存在する反面、「映画をおしゃれに書こうじゃないか」などという、親の顔を見たくなるような弛緩し切った感傷壁を持つ連中によって書かれたものが、「人並み」から「低俗」へ、そして当然のようにして「手抜き」へと流れていく。

ジョン・カサベデスの娘であるゾエ・カサベデスを、同じ二世だという理由で、ソフィア・コッポラなどと比較すること自体、まったくもってゾエ・カサベテスを褒めていないことに、このパンフレットは気付いていない。

男が映画の録音技師であり、題名が「ブロークン・イングリッシュ」なのだがら、「言葉の中身」ではなく「音そのもの」によって何かをして来るのかと思ったが、そういうわけでもなさそうである。
永遠のこどもたち(2007スペイン) 60 80 監督フアン・アントニオ・バヨナ 60-80

見えないものも、信じれば見えるようになる、という、これもなた何かしら「見ること」や「信じること」の根性を捉えた映画なのだろうが、どうにも撮り方が暑苦しい。照明やそれを含めた画調はこれまた悪くなく、ただひたすら「凡庸なだけ」という、最近のアメリカ製シネコン映画と歩調を合わせている。偶然だろう。偶然だとは思うが、しかしこの「封切館」の「照明(これは画調も含む)」の欄を見返してみると、ここ数年のものと比べて、信じられないほど最近の映画の画調は良くなって来ている。偶然だろう、、、
ご縁玉 パリから大分へ(2008日) 80 75

監督江口方康、出演山田泉、エリック=マリア・クテュリエ

ベトナム戦争当時にベトナムで生まれて孤児となり、フランス人夫婦の養子として育てられたチェロリスト、エリック=マリア・クテュリエが、末期がんと診察された山田泉とともに日本の孤児院へやって来て、片言の日本語でたどたどしく挨拶をしたあと、いざ彼が子供たちの前でバッハを弾き始めると、それまでの弛緩した場の空気が一瞬にして緊張と静寂に包まれ、チェロの音だけが、その「振動」が、子供たちの身体を揺らし始め、続けて彼が「天空の城ラピュタ」をたどたどしい日本語で歌いながら演奏し始めると、子供たちが泣き始める。「音楽」という振動の圧倒的なコミュニケーションが画面を包み込み、言語では決して表現できないエモーションが画面を揺らし始める。子供たちが泣いたのは、「天空の城ラピュタ」の「歌詞の中身」に理性的に感動したからではない。エリック=マリア・クテュリエの演奏するチェロのナマモノとしての振動と、彼の発する日本語の「たどたどしさの振動」そのものが子供たちを揺らしたのである。音楽という、決して言語のような指示対象を指し示すことのない「振動」と、「たどたどしい日本語」という、言語的意味を喪失した表情としての「揺れ」そのものが、子供たちの身体を貫き通し、とてつもなく大きな揺れとしてのコミュニケーションを達成したのだ。「音楽」というものの持っている驚くべきコミュニケーション能力がここに露呈している。

最初のショットから既にこの映画は、演奏されるチェロに大接近を試み、エリック=マリア・クテュリエのしなやかな指先によって弾かれるチェロの弦の「振動」そのものがフィルムとマイクロフォンに収められ、続いて自宅の台所で家事をしている山田泉の弾き出す一つひとつの「音」が鋭敏にマイクロフォンで拾い続けられたとき、この映画は、チェロの醸し出す揺れが、山田泉の生の振動と呼応して、生のハーモニーを奏でる映画であることを肌で感じるのだが、それにしても、ベトナム人孤児でフランス語を話すフランス人のチェロリスト、エリック=マリア・クテュリエが、「言語」というコミュニケーションにおいてひたすら無力さを露呈してうろたえるしかないとき、いざチェロを弾き始めると、まるでボールを得たマラドーナが、ウソとしか言いようのない特権的な運動でもって我々を一瞬にして宙吊りにしてしまうように、説明不能の圧倒的な存在感が我々を包み込み、場を静め、場を「振動」せしめ、決して「言語」という分節化された理性的コミュニケーションによっては達成することの出来ない意味不明のコミュニケーション=振動でもって我々を包み込んでしまう。宙吊りにされた我々は、ただひたすら泣くしかない。これはいったい何なのだろう。音楽とは、「聞くもの」ではない。揺れながら包まれる体験そのものなのだ。それをこの「ご縁玉 パリから大分へ」はまざまざと露呈させている。

エリック=マリア・クテュリエが実にいい顔をしている。孤児院の子供たちの笑顔は到底言葉では指示し難い。ここにあるのものすべてが「意味」ではなく「表情」なのだ。

余命数ヶ月の乳癌の山田泉の生の振動と、ベトナム戦争の孤児であったエリック=マリア・クテュリエのチェロの振動とが、嘘という素晴らしさで呼応し合っている。生きることとは「振動すること」。山田泉は見事に揺れたのである。

寄るべきところでない場面でズームで寄っていたり、拙いショットは幾つもあるが、しかしそれを超越するだけの力がある。

4/14更新
トワイライト~初恋(2008米) 50 75 監督キャサリン・ハードウィック

画調がまたしても良いので、ほんとうに最近の「シネコン映画」はどうしたのだろうと、驚きと期待の中で映画は始まったのだが、真面目には撮られているものの、凡庸である、という、どうもこれまた、最近の「シネコン映画」の傾向と重なり合っている。「人間」が撮られていない。
ドロップ(2008日) 75 80 監督脚本原作品川ヒロシ、撮影藤井昌之、俳優成宮寛貴、水嶋ヒロ、本仮屋ユイカ、上地雄輔、中越典子、波岡一喜、若月徹、綾部祐二

「極秘連絡」なんて大袈裟なことをしたものだから、さぞかし大傑作なのかと勘違いして見に行かれた方がいたら、それもまた人生、人生とは理不尽な不意打ちの積み重ねとして諦めるほかないにしても、私がホームページの表紙に書いた「一見の価値」とは、この「ドロップ」が、見事な「活劇」として成立している瞬間が多々あった事実を指してのことにほかならない。今時映画館で「活劇」を見ることのできるチャンスなど、そうめったにあるものではないのだから。それも「シネコン」で、、、おどろいた、、、

それにしても、この品川ヒロシという人は、「活劇」を知っている。おそらく「活劇を撮る」とは多分に天性の資質であって、撮れない人にはどうあっても撮れず、撮れる人はどうあっても活劇になってしまうという、そんなものだと思っているのだが、品川ヒロシは、身体的に「活劇」を知っているのだ。活劇は「顔」で撮る。そうしてパンフレットを買って品川ヒロシの顔を見ると、「わたし、活劇を撮ります」という顔をしているではないか。、、驚いたのなんのって、、、

カッティングのリズムというよりも、会話とアクションのリズムで映画を「活劇」たらしめている。

ファミリーレストランの大きな窓の向こうの彼方から、金属バットを持った二人の不良、増田修一朗と住谷正樹が、のっそのっそとタテの構図で近づいて来て、いよいよ窓枠に接近した時の驚きとはまさに「恐怖」であって、この恐怖はゴジラの接近に匹敵する見事な活劇的持続の恐怖なのだ。いやーおどろいた。

ギャグにしても、水嶋ヒロと遠藤憲一の親子の口喧嘩というものが、それぞれの足元に倒れている不良へのキックとして転化されるシーンになどに見られるように、こういうのが「運動によるギャグ」として私を不意に爆笑へと導くのだが、これは決してただの「のり」だけのギャグではなく、蹴られた不良たちのうめき声と体のねじれによって親子の「怒り」が「可視的、可聴的」に運動するという、ワンクッション置いた映画的ギャグなのだ。その直後に意味もなく「哀川翔」として登場した哀川翔が、遠藤憲一の腕をねじ上げながら、くるくる回すシーンはまたも「運動ギャグ」であって、二人のナンセンスな会話と運動が「ロングショット」という喜劇的距離と共に弾けることでひたすら無意味な跳梁が画面を揺らすのである。

夕陽のオレンジがかすかに差し込める水嶋ヒロの自宅前空間の光の設計は豊かであるし、成宮寛貴が高台で本仮屋ユイカに告白するシーンの、本仮屋ユイカのバックに配置された三箇所のオレンジの街灯は、紛れもなく「人為的」に配置されており、そこでキラキラ輝く本仮屋ユイカの顔の艶に、「顔を撮る」ことに対する品川ヒロシの先天的な資質が見出されている。役者たちが、みんないい顔をしている。

そしてまたこの映画は、紛れもなく「笑顔の映画」である。品川ヒロシは、彼らの青春の一瞬の笑顔をフィルムに焼き付けようとしているかのように、宮川大輔や、上地雄輔、若月徹、綾部祐二、そして中越典子といった笑顔の豊かな役者たちの笑顔が弾けた瞬間を幾度もフィルムに収めている。

感心したのは、バカにされていたファミレスのウェイトレスの村上知子を美しく撮ったこと。こういうショットをいい加減に撮る合理人間が実に多いこのご時世で、こういう人物こそ大事に撮る、というのは紛れもなく一つの活劇的才能である。撮影現場の雰囲気を、実に上手に作り上げていったことが役者たちの「顔」に反映している。

「不良が実は礼儀正しかった」ということを、さも撮ってしまったのが気に入らない。「やくざが実はいい人でした」とか「悪役レスラーが実は紳士でした」などというのはまったくもって底の浅い子供騙しの感傷に過ぎず、気の抜けたビールみたいに薄っぺらいテレビ向けである。この辺りから次第に映画が「シネコン映画」としての「善良性」へと傾いていき、卒業式の「善良な」感傷へと突入していくのはいったいどういうことだろう。さっぱりわかりまへん。当然ながらベストテン入り見送り。

映画が30分長い。どうしようもなく長い。

さぁ、早く次の映画を撮ってチョ。

■グッズ ◎(グッズを売っていました、ということを、今後はこの記号で示してゆくことにする)
ウォッチメン(2009米) 50 85 監督ザック・スタイナー撮影ラリー・フォン

画面の隅とか、奥、とかに随分と手を掛けていて、少なくとも「隠す」という趣旨においては撮られておらず、これまた非常に真面目に撮っていて、影の部分が多く画面は締まり、「黒」出方とかも面白く、最後までそれなりに見れてしまう。

だかグッズをちゃんと売っている。

「真面目さ」が、凡庸さとなって画面を弛緩させているのには多くの理由が在るだろうが、まずもってこの作品が、人間を露呈させているのではなく、人間を説明しているに過ぎないこと。そしてストーリーが、⑤→④→③→②→①ではなく、①→②→③→④→⑤の順序で志向されていること(論文「成瀬巳喜男とは何か」参照)。つまりこの監督さんは「活劇」というものの撮り方を知らないのか、あるいは製作の環境そのものが「活劇」を許さなかったのかのどちらかである。シリーズモノとしての続編を狙うために、第一作目で人物たちの「説明」が重視されているという感じてもある。

■前田有一
「超映画批評」の前田有一氏は
『だから最初にはっきり書いておくが、ある程度の政治・歴史的教養のない人や子供たちに、これらの「グラフィックノベル映画」、とくに『ウォッチメン』はまったく向かない。163分間の長い上映時間内は、脳みそをフル回転させ、これが比ゆする現実世界に思いをはせていただきたい。』と書いているのだが、「ある程度の政治・歴史的教養のある人」でなければ判らない「良い映画」など、映画史上に存在しない。それが存在すると思うことこそ「知識人」の思い上りである。イーストウッドは、黒沢清は、ゴダールは、、、「ジョン・フォード」も「9.11」も「日米安保」も知らなくとも、ただ見つめれば感動するようにできている。そもそも人は具体的な身体として存在し生きている以上、イヤが上でも「歴史」の中を生きざるを得ないのであり、誰しもがその時代を肌に感じながら生きている。「作品」が我々に突きつけてくるのは、「政治・歴史的教養」などという分節化され、弛緩した言語的バックボーンとの辻褄合わせではない。ひたすら「生きている」ことへの連続的で不確かな不安や葛藤そのものを情動として我々の身体に対して不意打ちを食らわせるところの驚きなのだ。作品というものはそうして、現に今、生きている具体的人間の「生」に対してモーションをしかけてくるところの攻撃とその体験にほかならない。決して「ある程度の政治・歴史的教養を有する人」の知識に対してのみ特権的に露呈するような頭でっかちのものではない。前田有一氏のような知識豊富な人間に限って、こういう錯誤に陥る。もういい加減、そうした簡単な錯誤の構造に対して意義をとなえる「知識人」はいないのか。と、いきりたったところで「知識人」にそれは「システム的に」無理な相談である。

例えば私が、「チェンジリング」の批評で書いたのは、何故こんな単純な映画がここまで泣けるのかという驚きから来る「物語ること」に対する好奇心である。どうすれば映画にあれだけの「葛藤」が生まれるのかを「チェンジリング」の物語の構造へと思いを馳せる事で探りたかった。そこでたまたま想起されたのが「ジョン・フォード」であって、しかしそれは、一つの歴史的記憶に過ぎず、「ジョン・フォード」を知らずとも、現に「チェンジリング」は「ジョン・フォード」のように美しい。なぜなら、「チェンジリング」には、ジョン・フォード的な物語構造における記憶というものが、「ある程度の政治・歴史的教養」なる不可視の領域へと隠されているのではなく、誰が見て聞いてもそれと感じられるように、画面の上に「可視的に」露呈しているからである。「記憶」は「露呈」している。「ジョン・フォード」とは決して現代映画における「サクラメント」ではない。「露呈」しているのだ。私はただ、その「露呈」している記憶の起源を探りたかったに過ぎない。

今、現に生きている人間たちに「作品」というものは遭遇する。必要なのは「ある程度の政治・歴史的教養」ではない。誰しもが見て驚くことのできる画面の振動と、それを見て、聞いて、感じることのできる想像力である。「ある程度の政治・歴史的教養のある人だけにわかる映画
なるものを批評家が誇示することは、まるで「批評家」をしてカトリックの秘蹟を握った僧侶の如くに特権化させ、不可視のものをバックボーンに「信者」たちをして不安にさせ、ひたすら忠誠と献身によって「盲信」させるところの詐術にほかならない。だが「作品」とは、そのような特権階級によって隠蔽されたものでは決してない。「露呈」しているのだ。それを見ること。

私はこの「ウォッチメン」が「ある程度の政治・歴史的教養のある人だけにわかる映画」だとは思わない。画面から放たれるエモーションそのものに感動した人もいるはずである。

■それはそれとして、、
最近シネコンのアメリカ映画に、照明の良い作品が続出してきていて、私の感覚としては、明らかに2年前よりも良くなって来ているのだが、まぁ偶然だろう、とも思いながら、万が一それが事実だとするならば、「大型テレビ」が家庭に普及し始めていることと何か関係があるかも知れない。「小さなテレビ」に放映されることを前提に、「画面が明るい映画」を撮り続けてきたアメリカ映画が、「大きなテレビ」の普及に伴い、「画面の暗い映画」を撮り始めている。大型テレビは、画面に暗い部分があっても大きいので真っ暗には見えず、良く見る事ができる。だから画面の多くに「影」や「黒」を散りばめることが可能となり、明るい部分とのコントラストが出て画面が際立つようになる。「黒」を拒否した「印象派」からの脱却である。今後の動向を見守りたい。
■グッズ ◎

4/8更新
アラトリステ(2006スペイン) 監督・脚本:アグスティン・ディアス・ヤネス

訳あって85分で出たのだが、こういう映画は、もう少し荒っぽく撮って欲しい。余りにも生真面目に過ぎ、ユーモアが乏しく、あらゆる男達がみんな同じに見える。

画調は良く出来ているが、
エグザイル/絆(2006香港・中国) 75 85 監督ジョニー・トー撮影チェン・シウキョン俳優アンソニー・ウォン

「総死」という、全員死亡の画面が呈示された時、思わず感嘆の吐息と共に「石井輝男」を一気に飛び越し「ジョン・フォード」へと直通して泣いてしまったのだが、どうして作家達は今になって、誰も彼もがこうして「ジョン・フォード」でありたがるのか、このギャング映画が、ノワールが、どうして「ジョン・フォード」によって終結してしまうのか。

この映画の物語を抽象化するとこういう感じになる。

男たちがいて、彼らはバカみたいに友情を大切にして、やたらと拳銃をぶっ放し、車を押して歩き、コイントスによって行動を決めてゆくようなハチャメチャな男たちである。だが時代は変わり、社会は合理的になり、新しい波(マカオ返還)が押し寄せ、彼らの流儀は通用しなくなる。荒唐無稽の中に生を選ぶ彼らは、新しい波に乗ってゆけない。彼らは過去の遺物なのだ。そんな彼らは、女と兵士と子供という「新しい者たち」が船に乗って旅立ってゆくのを影になって援助する。彼らはその痕跡(写真)を残しながら、それまでの時代の「負債(古さ)」をすべて背負い、密室の安ホテルの中でひっそりと笑いながら消えて行く。

と、こんな感じである。仮に映画の「すじ」を書くのなら、私はいつも、こんな感じに想像している。ある種の映画いうものは、物語を抽象化して取り出して語ってみると泣けるようにできている。あらすじを追うのではなく、物語の骨を取り出し並べてみる。すると「たとえ話」としての物語の骨子が炙り出されてくるのだ。

この映画の(マカオ返還)を、(フロンティアの消滅)と置き換えると、映画の構造は「リバティ・バランスを射った男」(1962)とソックリになる。呆れ果てるほどそっくりである。「盗作だ!」と叫びたくなる。「リバティバランスを射った男」については以前「父親たちの星条旗」(2006)の批評に書いたが、自分が心の中で一番大切であると密かに思っているものを敢えて映画の中で「影(負債)」として描き、無用の遺物として憤死させる。こういうのが「ジョン・フォード的」に見えて仕方ない。そこには「時代は変わる。それを拒みはしない。だが我々は、我々の今を遺して去って行った奴らを決して忘れてはならない」という、「現在」を肯定する事で、「過去」を逆に大肯定するという、とてつもない葛藤が秘められているのだ。するとこの映画は、「現在」というものは、すべて「過去」によって積み重ねられた礎の上によってのみ成り立っている重畳的な足場である。だが大衆は、過去への敬意を忘れ、現在を過去と分離し、現在を自分達だけの力によって築き上げたと傲慢にも信じている、、といったような、大衆の反逆に対するアンチテーゼとして見ることも可能となる。もちろん「可能」ではあっても、私はここでオルテガ論なるものを展開するだけの知識はないし、そういった名前を持ち出してしか成されないところの映画の社会学にも興味はない。

ジョニー・トーは、彼らと対立するマフィアのボスを決して否定的には撮っていない。映画の中で「負債」という台詞が口をついたように、彼もまたそれまでの時代の「負債=古いこと(時代遅れ)」をすべて背負い込んで消えて行ってくれた勇者なのだから。映画はつくづくただのたとえ話なのだ。

ツワモノどもの、夢のあと。

この「古い男たちが去って行く」という現象をジョニー・トーは「総死」という画面で提示している。ここに石井輝男がいよいよ絡んでくる。

ジョニー・トーが大好きだという石井輝男の紛れもない傑作「ならず者」(1964)は、香港から横浜、そしてマカオへと舞台を移しながら、最後は高倉健、丹波哲郎、安倍徹という、香港と日本のマフィアたちが「総死」する映画である。映画は最後、生き残った娼婦の南田洋子に希望を託すかのような終わり方をしている。それがよりハッキリと露呈したのが同年石井輝男の「東京ギャング対香港ギャング」である。ここでもまた、日本と香港のマフィアが、スパイとして潜伏した丹波哲郎の策略に遭って「総死」している。何かしらダシール・ハメットの「血の収穫」(或いはそこからヒントを得た黒澤明の「用心棒」をも)を思わせる「同士討ち」の映画なのであるが、ここで重要なのは、ここでもまた主人公(スター)達が「総死」しているという事実である。この作品では、当時未だ大スターとは言えないまでも、クレジットの最後に名前の書かれた高倉健が、なんと映画中盤にして、おそらく盗撮で撮られたであろうシーンにおいて、香港の街のど真ん中で倒れて死んでしまい、映画の撮影だと知らない香港の街の人々が、倒れた高倉健を取り囲むという、恐ろしくリアルな俯瞰のロングショットで処理されているのだが、同じようにして「スター」の鶴田浩二もまた、なんと薄汚れた麻薬中毒者として描かれ、彼は最後、目を開けて死ぬのである。その時に鶴田浩二の発した最後の言葉が「今日はいいものを見せてもらった、、」である。「いいもの」とは、鶴田がその日、高倉健の遺骨を届けに行った時に出会った高倉の妹のことで、妹は兄がマフィアであることも知らず、チャンチャンコを着ながら、小さなあばら家の中で、みかん箱か何かを机代わりにして勉強をしている、元気で純情な少女なのだった。その娘を見てしまった鶴田浩二に何かが弾け、彼は結局、兄の死を言えずに去ってしまう。
その娘の「姿」というものが、この映画で決定的な意味を持っている。その感じとはあたかも、小津の「非常線の女」(1933)で、やくざの岡譲二と、その情婦である田中絹代が、「水久保澄子」という純な娘の「姿」をひと目見たとたんにおかしくなってしまい、揃ってサンドバッグを叩き始め、更生への道を歩み始めたという、あの美しい感覚になぜか似通っているのだが、結局の所この「東京ギャング対香港ギャング」においても「エグザイル/絆」と同じように、古い者たちが、新しい者たちの「姿」に見とれて、恋をしたり友情を培ったりしながら、自分たちは邪魔者として消えて行き(総死する)、新しい者たちに時代を託すという、まったく同じ構造を有している。そうした点で「エグザイル/絆」の娼婦や赤ん坊、そして若く忠実で「汚れていない兵士=リッチー・レン」の存在は「ならず者」の娼婦、南田洋子や「東京ギャング対香港ギャング」の高倉健の妹同様、決定的に重要である。

「リバティバランスを撃った男」が1962年。そして「ならず者」と「東京ギャング対香港ギャング」が1964年である。

ジョニー・トーは、彼らの生き様を、子供のような無邪気さでもって撮っている。映画は序盤から重いし重たすぎる。音楽も重すぎて、映画は暑苦しい。終盤の、ホテルでの赤ん坊のクローズアップなど明らかに弛緩している。間違っても傑作ではないだろう。ベストテンにも入れない。だが、「過去の遺物」をそうした重さをもってしか撮ることの出来なかったジョニー・トーを、私は支持したい。

山田宏一さんは、ホテルの造りがキン・フーの「大酔侠」に似ているとパンフレットに書かれているが、私には「バトルロワイヤルⅡ」にも見える。
ワルキューレ(2008米) 75 75 監督ブライアン・シンガー撮影ニュートン・トーマス・シーガル俳優トム・クルーズ

思わず最後泣いてしまったが、ここでもまた歴史を掘り起こそうとしている人々がいる。これを「スーパーマン・リターンズ」のブライアン・シンガーが撮ってしまうというのが摩訶不思議の虎の巻なのだが、見ての通り、最初から最後まで見事に「真面目」に撮っている。

何が彼をしてそうさせたか、アメリカ映画のシステム共々非常に興味のある現象なのだが、まずもってこの映画はシネコンで「グッズ」を売っていない。これは実に大きい。シネコンでグッズを売っている作品の9割以上は駄作である、というのが、私の出した、統計上の一つの結論なのだが、もちろんイーストウッドの作品など買いたくてもなんにも売ってはいないし、「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」も売っていない。「オーストラリア」もまた当然のように売っていない。真面目に撮っている作品はまずグッズを売ろうとしない。「インディー・ジョーンズ・クリスタルスカルの王国」(2008)は泣けるほど売りまくっていた。私は泣いた。ここまで売るか、、。「お前、それはないだろう」、、と、志村ケン的に抗議したかったが、フィギアから下敷から何でもござい。映画は商売なのは当然だが、フィギアを売る余裕があったら、まずもって画調を何とかしてチョ。「黒」のカケラも出ていないギスギスした明るい画面では映画に乗れない。こういう点が、今ひとつ私をして「スピルバーグ」への全幅の信頼を躊躇させてしまうのだが。

「シネコン」とは最前線である。現在の映画における最前線とは紛れもなく「シネコン」である。決して「ミニシアター」ではない。「アテネフランセ」でもなければ「フィルムセンター」でもなく、「有楽町朝日ホール」でもなければ「ユーロスペース」でもない。「シネコン」である。「シネコン」という「場所」に行かない者に映画の現在は決して感じることはできない。その「シネコン」における、映画の価値を反映するところの周辺部分の最たるものが「グッズ」なのだ。

その売られているグッズの貧弱さというのもまた、見るに耐えない。あれはゴミ捨て場である。

「目を開けて死ぬ」という出来事は「イントレランス」のノーマ・タルマッジや「散り往く花」のリリアン・ギッシュ、そして「東京ギャング対香港ギャング」の鶴田浩二の記憶へと辿って往くべき映画の一つの「コワイ記号」なのだが、「ワルキューレ」における、みずからの「目」で確認したはずの出来事が、実は間違いであったという悲劇の最期としてのトム・クルーズの「開かれた目」というものは、「見ること」の困難性を、我々に突きつけて止まない恐怖である。
エレジー(2008米) 50 70 監督イザベル・コイシエ

ペネロペ・クルスがヌードになるのだが、まさに彼女が「ゴヤのマハ」のように脱ぐシーンなどは、「ほんとうらしさ」にもったいつけていてやかましい。老いてゆくはずの「老人」の腹が、腹筋で鍛えた「段々腹」というのも、なんとも面白くない
ベティの小さな秘密(2006仏) 60 75 監督脚本ジャン=ピエール・アメリス撮影ステファーヌ・フォンティーヌ原作アンヌ・ビィアゼムスキー

原作が、「ゴダールのアンヌ・ビィアゼムスキー」であり、物語は「フランケンシュタイン」と「ミツバチのささやき」と「美女と野獣」のように見えて、ちっともそうには見えない。子供がませていて、物語の強度において俗っぽく撮られている。

画調が素晴らしい。
4/1更新
オーストラリア(2008米) 80 90 監督バズ・ラーマン撮影ドディ・ドーン俳優ニコール・キッドマン、ヒュー・ジャックマン

嬉しくなって思わずベストテンに入れてしまったのだが、「風と共に去りぬ」の逆光のように始まると見せかけて実は「許されざる者」(1992)のシルエットのように開始され、ビビアン・リーのように出て来るニコール・キッドマンは実はモーリン・オハラの記憶を辿り、この映画を見てジョン・フォードの名もハワード・ホークスの名も想起しない批評家諸氏に十分配慮しながらも画面は紛れも無くジョン・フォードとハワード・ホークスを隠し味とし、一見差別解放同盟を喜ばせながら実は映画ファンを喜ばせようと企むこの映画はいったい何なのだろう。

それにしてもまさかバズ・ラーマンが「ジョン・フォード」を愛していたとは、、と、驚きの中で進行してゆくところのこの「オーストラリア」は、あの枯れ木の画面への収め方であり、子供たちの奪還の物語であり、ラム種をつげとコップを差し出したあと、まるでウォルター・ブレナンのように(つまり「静かなる男」のモーリン・オハラのように)うなずくキッドマンであり、あのアル中の学者であり、荷を山のように積み上げたトラックであり、小高い丘の上での埋葬であり、空であり、雲であり、馬上の者たちをローアングルで捉える視線の角度であり、ソルトレイクのように干上がった砂漠であり砂嵐であり、ハーモニカであり、帰還と出迎えであり、家屋内の逆光と外の明るさとのコントラストであり、かくかく、しかじか、その多くが「ジョン・フォード」という天才の名前を慎ましやかに想起させながら、あくまでも表向きは「風と共に去りぬ」として凡庸に進行してゆくフリをするのだ。思わず「えらい!」と叫びそうになる映画史的気分をかろうじて抑えつつも、例えば走ってきたアボリジニが、疾走するトラックの運転席の窓の外から顔を出し、運転手と会話をしてから消えて行くなどという画面の持続運動は、持続する時間の中で、後続の馬に乗った下士官が先頭の将校の馬に追いついて会話をし、しばらくしてからそのまま後方へと消え去ってゆく「ジョン・フォード的持続運動」以外の何物でもない。「ジョン・フォード」とは、一見ハリウッドの古典的デクパージュに乗って「物語的に」撮っているように見せながら「持続すべき画面」においては徹底して「持続」している。

クリント・イーストウッドの「チェンジリング」が徹頭徹尾「ジョン・フォード的なるもの」であることの考察は次回の「チェンジリング」の批評に譲るとして、それにしても今「ジョン・フォードを想起する」というこの現象は、必ずしも監督のみならず、一部の脚本家やプロデューサーたちにも見受けられている。それは「忘れ去られた歴史を発掘する」というジョン・フォード的な主題が今、恐ろしく現代的主題として我々に襲い掛かっているからにほかならない。そうした点からして知識人ではない我々は「ベンヤミン」へと走る前にまず「ジョン・フォード」へと走りたい。

活劇として極めて真面目に、真面目すぎるほど真面目に撮られていて、「ベンジャミン・バトン」のフィンチャーと言い、「ディファイアンス」のズウィックと言い、今になって、どうしてこう生真面目な画面を綴ってゆく者たちが続出するのかと、これは矢張り驚かない訳には行かないのだが、共通するのは、構図をしっかりと決めて、照明や装置に気を配り、従って画面は豊かな「黒」によって彩られ、そして何より真面目に撮る、ということに尽きているのであり、この「オーストラリア」にしても、10分でもその画面を見たならば、いかに映画が真面目に撮られているかが、いかに照明に気を使って撮られているかが、そして監督のバズ・ラーマンが、いかに映画を欲しているかが、苦もなく見て取れるのであり、165分という、絶望的長さを誇るこの作品が、殆ど弛緩することなく突き進んでゆくことが出来たのもまた、画面に対する真剣な眼差しの成せるものである。それを「真面目さ」と呼ぶか「凡庸さ」と呼ぶかは別として、ここまで無邪気でかつ真剣な映画を今撮ることのできるラーマンは間違いなく尊敬に値する。決して「ジョン・フォード」にはなれないことを知っていて、しかしその「ジョン・フォードにはなれない」を知る者のみが、「凡庸さ」を括弧にくくりながら受け止めすり抜ける事で、新しい何かを作り上げてゆく。

埋葬のシーンで、喪服のキッドマンの日傘の色が、それまでの白から「黒」へと変化していたので、その、わざわざ埋葬用の日傘を持っている、という、このどうでもいいようなバカバカしさに思わず笑ってしまったのだが、スーツケースが壊れてキッドマンの下着が飛び散るシーンにしても、スローモーションで感動的に疾走しているカンガルーがアッサリ撃たれるシーンにしても、そのバカバカしさへの戸惑いのなさ、というものもまた、ジョン・フォード的である、と言ってしまいたい。ジョン・フォード的記号とは、ある地点においては紛れもなく「女の下着」なのだ。

ただ気付いたらベストテンに入れてしまっていたという次第なのだが、衣装の画面への収まり方といい、役者たちの顔といい、書き言葉ではなく、話し言葉による「呪文」を発する声としての不思議なアニミズムの世界である。
この自由な世界で(2008英伊独西) 75 85 監督ケン・ローチ撮影ナイジェル・ウィロウビー

画面の肌触りが極めて良好で、ナイジェル・ウィロウビーがキャメラに収めたイギリスの裏通りのくすんだ世界が、DELUXEをフジカラーでプリントした湿りがちのこの画面からやってくる艶々した感じにまったく映画に乗れてしまったのだが、ケン・ローチとしては抑え気味に撮っていて愉快。

ケン・ローチの特徴としての「駆り立てる」という演出は顕在であり、終盤の、アパートのテレビのホラー映画の大音響から誘拐、押し込み、そして失禁という、一連の画面の連鎖は、我々を「熱く」するのであるが、その「熱く」のさせ方が、少々「外部」へと寄りかかるものの、映画としての力を損なわせるほどのものではない。

96という上映時間は、鶏とタマゴの関係において、この作品を上首尾たらしめている大きな映画的要因である。
わが至上の愛~アストレとセラドン(2007仏) 80 75 監督エリック・ロメール

パンフレットを買って、最前列に座って上映を待つまでの時間に少し読んでみると、まずもって二人の主演の俳優が、エリック・ロメールやヌーベルヴァーグの映画を見ていない、という、その、当たり前のような告白に、フランス映画の現在を妙に納得しながら鑑賞開始となったのであるが、私としては、おそらく二人がパーティの演技についての会話をしているところ辺りから映画は始まるのかな、と思っていたのがものの見事に裏切られ、映画はいきなりパーティでセラドンが村の娘と踊っている場面から開始されるのだ。こうした、「映画がいきなり始まっている」という驚きに思わず私は、そうだこれはロメールの映画だったのだ、と、タイプライターやら雑踏とクラクションやら、田舎の鳥のさえずりやら風の音やらを同時録音の決してでしゃばらないものの、間違いなく忘れることの出来ないロメール映画の始まりの数々を想起して、思わず自己をしてバカと罵ったのであるが、それはいきなり男と女が路上で諍いをしている場面から始まるジャック・ドワイヨンのあの見事な「誰でもかまわない」や、逃走するバンを航空撮影で捉えながらいきなり始まるニコラス・レイの歴史的処女作「夜の人々」を、思い出すなと言われても身体ごと想起せずにはいられない、紛れもない「B」の映画体験であったのだが、そういう点からして最近のイーストウッドは「A」である、ということは「ペイルライダー」と「チェンジリング」を見比べれば明らかだろう。、、とはならない。実は「最近のクリント・イーストウッド」は「B」なのである。「チェンジリング」のオープニングの、外部から内部へとゆっくりとキャメラが入って行くあの静かな開始の方法は、紛れもなく「ヒッチコック的な「B」なのであって、簡単に言えば、「チェンジリング」のあの始まり方は、一言のセリフも無くまずキャメラが外から内へと静かに入って行く「サイコ」とソックリなのである。事件は既に始まっている、それがあの「静けさ」なのだ。

エリック・ロメールという人は、ニコラス・レイやヒッチコックと同じように、私に「映画を撮ってはならない」と教えてくれた人物の一人である。「飛行士の妻」や「レネットとミラベル・4つの冒険」などなど、、どうしてこれが映画になるのか、、、この「どうしてこれが映画に」、、という感覚は、中原誠の将棋を見た時の「どうしてこれが手になるのだ、、」という感覚と極めて似通っているのだが、端歩をついて、桂馬を跳ねてカチャカチャやると、知らぬ間に「手」になっている、その「手」になるという感覚が、私を思う存分打ちのめして止まない、その「打ちのめされる」の感覚が、ロメールの映画を見た時の感覚と何かよく似ているのだ。例えばヒッチコックの「裏窓」は、その「窃視症」をラカンだのフロイトだのといった権威に結び付けてカチャカチャやる前にまず、「どうしてこんな物語が映画になるのか」という驚きこそ、まずもって語られるべきなのだ。

どうしてこれが「映画」になるのか。私にとってのエリック・ロメールとは常にそこのところをクルクル廻っている。

「あなた(セラドン)でしたの、、、」という、、このわが「至上の愛~アストレとセラドン」のラストシーンが、何度見ても泣いてしまうそのエモーションとは、「盲目」というたとえ話を借りながら、そこにいるあなたが、実は、紛れもない「あなた」であったという、あきれるほど単純で、だがとてつもなく人間的な感動にほかならない。

アストレは、外の娘と楽しそうに踊っているセラドンをヒッチコック的に「窃視」して裏切られたと確信し、セラドンを遠ざける。だが踊っていたセラドンは「見られている事を知っている者」であり、「窃視」における、見られている者の要件としての「見られている事を知らない者」であることを欠いている(「窃視」の要件については成瀬巳喜男の論文に詳しく書いた)。アストレは「窃視」したと思って、実はしていなかったのである。さらにセラドンは「変装」し、アストレの目を欺いている。この「変装」とはあくまで「映画的変装」であり、実際の変装ではない。作品は「映画」というフィクションの力を借りながら、目の見えている人間たちをして、目の見えない「盲人」として露呈させているのである。その「盲人」が、愛する者の手や顔や唇と触れ合う事で、そこにいるあなたが、紛れもない「あなた」であることを確信してゆく。そういえば何となく、アストレのあの探すような目は、ヴァージニア・チェリルのあの目に似ていないでもない。

ベッドで朝食を食べているセラドンの部屋へニンフのマダムが入ってくる時、回廊の低い天井に頭をぶつけて痛そうに頭を押さえながら入って来るのには笑ったが、テントのある森をドイルド僧と二人で出て行くシーンで、セラドンが何かに毛躓いて転びそうになったり、こういうのが何ともあっけらかんとしていて楽しい。セラドンのペンダントの中に入っているアストレの肖像画が、どうみても「写真」にしか見えないのもまた我々を大いに小バカにしていて面白い。

衣装がまたなんとも見事に役者たちのカラダにフィットしていて、アストレのピンクの肩掛けやスカートが、そしてニンフたちの白い衣装がユラユラと風に揺れる、そのためにこそ、こうして薄い布地で作られているのだという、同時にその白く薄い衣装は身体を透かし通すためのものであるという、衣装におけるマクガフィン的思考回路もまた、ヒッチコック的である。
3/18更新
PARIS パリ(2008仏) 75 85 監督セドリック・クラピッシュ

地面の美しさに思わず見とれてしまったりしながら、クラピッシュは顕在であることに安堵し、セドリックがカローラを撮ってしまう軽快な感覚に酔いしれる。

何故もう少しキャメラを引いて撮れないのか、などという外部の非難を軽く受け流してしまう懐の深さを豊かさとして見せ付けながら、「ハルフウェイ」が幼児の映画とするならば、「PARIS パリ」はまさしく大人の映画である。30分長いけれども。

目覚めよ、パリー!
ハルフウェイ(2008日) 30 60 監督北川悦吏子

映画を必要としていない人が映画を撮るとこうなってしまう、という見本だが、「本業」の才能すら疑わしくさせてしまうようなものを撮って大丈夫ですかと、驚いている私の顔を写真に撮って送ってみたい気持ちにさせてくれる。

「理科室の机の上に逆さにして乗せられた椅子」が悲しそうに乱反射している。まず第一に、男女の家庭がまったく描かれていない。最後になってやっと、「本物の母です」という人が娘を送っていたが、遅かりし由良の助とくる。水村美苗「日本語が滅びるとき」(筑摩書房)を映画にあてはめて言うならば、この「ハルフウェイ」は「世界性」を欠き、かつまた「翻訳」によって鍛えられていない「現地語」の中で流行する「話し言葉」をそのまま「新しさ」としてストレートに「書き言葉」へと写した映画、ということになるだろうか。もちろん、映画にとっての「普遍語」とは「英語」ではなく「画面」であるものの。
少年メリケンサック(2008日) 監督宮籐官九郎

少しは「なに」してきたのかなと、凝りもせず期待して見に行ったのだが、そうした様子もないので30分で出る。
7つの贈り物(2008米) 50 75 監督ガブリエル・ムッチーノ

凡庸であるかと聞かれれば、紛れもなく凡庸です、と答えるが、まじめに撮っているのか、と聞かれれば、はい、真面目には撮ってます、と答えるだろう。つまり才能を欠く。こうして才能を欠く我々ができることと言えば唯一つ、勉強することしかないわけだが。

イーストウッドが「チェンジリング」という、肝が締め付けられるほど厚味のある「今」の映画を撮っている時に、随分と古臭い映画を撮れるものだが、撮ってしまったものは仕方がない。

風呂桶のカドに座ってウィル・スミスが事故のシーンを思い出す時の、あのウィル・スミスの顔をさせてしまう時点で映画は負けている。ウィル・スミスの宣伝映画の側面が露骨に出ている。

「贈り物」が余りにも直接的で、見て誰しもが「贈り物です」と判るような贈り物だらけで、仮にこの映画の監督なり脚本家が、クリント・イーストウッドやロン・ハワードのように、ワンクッション入れて視覚的な細部で映画を撮る、ということの次元まで遥か遠き道程であることを思い知り、立ち直れないくらいのショックを受けて一週間寝込むくらいの感性を持ち合わせていたならば、こういう映画は撮らないし書かない。
ディファイアンス(2008米) 70 80 監督エドワード・ズウィック撮影エドゥアルド・セラ

中途からやや緊張を欠いた画面となっているものの、しかし、真面目すぎるほど真面目に撮っていて、怒っているのかな、と感じるほどの律儀さでもって撮っていて、フィンチャーですら「ベンジャミン・バトン・数奇な人生」を非常に真面目に撮っていることからして、ひょっとして怒っているのか、と感じたのだが、明らかに撮り方としての「現在の反ハリウッド的なる」ものの中へと身を寄せんとする意志によって包まれているこの二つの映画の画面は「古典的」とすら言える凡庸さの中へと潔く突き進んでいるかのようだ。

「ラストサムライ」の素晴らしさにはあと一歩だが、楽しめましたかと聞かれれば、それなりに楽しめましたと答えるかも知れない。
2009.3/8更新
チェンジリング(2008米) 95 85 監督クリント・イーストウッド

二度続けて見たが、約五時間、一瞬たりとも弛緩しない。イーストウッドは殆ど「錬金術師」の域まで達している。

後日批評を書くので細部はそちらに譲るが、なんとアンジェリーナ・ジョリーが16回泣いている。これは紛れもなく「泣くこと」の映画である。そして最後はジョン・フォードで締めてある。
真木栗ノ穴(2007日) 68 70 監督深川栄洋

物語が良く判らなかったのだが、弛緩することなく最後まで突っ走っている。ベンダース「ハメット」の感覚。西嶋秀俊は現代の笠知衆だ。

時代錯誤というものが、良くも悪くも作品の特徴たらしめていると思われるのだが、「盗み見ること」という「窃視」の視線が、「見られている事を知らない者」たちの役割を一枚一枚脱がして行って、最後は対象の「裸性」へと辿り着いた「トウキョウソナタ」の現代的な視線を一方に置いた時に、この作品における「盗み見ること」という運動の映画的な驚きは、西嶋秀俊の「欲望」を欠いている点でやや弱い。
ちょっと対象が近過ぎるというのか、構図のことを考えても、せめて「押入れ」というワンクッションを入れてみたいところである。

原稿を取りに来る娘(木下あゆ美)を、西島秀俊が犯せとは言わないまでも、せめて襲い掛かるくらいのシーンがないと、「見ること」が乗って来ない。この二人の関係を、もう少し濃密に描かないと。

ほぼ弛緩することなく、最後まで気持ち良い緊張感の中で見る事ができる。豊かである。
13日の金曜日(2009米) 40 70 監督マーカス・ニスベル

映像2割、音響8割。

結局の所こういう人たちというのは、ジャンルの勉強はしていても映画の勉強はしていないのではないか。ゴダールを見ていないのは当然としても、ロジャー・コーマンすら見ていないのではないかと思えてしまう。

見られないことはない、という、この「見られないことはない」という画面ほど淋しいものはないのだが、この映画の画面の上に現われてくるものといえばひたすら「消費」であるとか、「物質」であるとか「均質」であるとか「量」であるとか「結果」であるとかの淋しい記号のみである。
ベンジャミン・バトン・数奇な人生(2008米) 75 85 監督デヴィッド・フィンチャー撮影クラウディオ・ミランダ原作フィッツジェラルド俳優ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット

暗いトーンで撮られた黒の世界の持続をして、間違ってもこの映画は生半可な仕事で撮られたものではないという画面を証拠として提出し続けながら、仮に時として、凡庸なカッティングやサイズやクローズアップの照明が映画の持続を阻害することが幾つか在るにしても、ひとつひとつの照明やセットや美術の有り様は、見ているだけで豊かさとして感じられ、私としては、ブラッド・ピットが船員として海へ出たあたりから完全に映画に乗れてしまったのだが、それはおそらくこの映画が「アメリカ映画」であるということと、映画の方がフィンチゃーを必要としているかはひとまず別にして、少なくともフィンチャーは映画を必要としている、という画面の連なりが、心地良い持続となって現われ出たからかもしれない。この映画はある部分で泣けるように出来ている。中盤出て来た「酒場のテーブルの上に逆さにして乗せられた椅子」というシネフィル的現象は、映画の流れからして必然ということになる。

「若返ること」という抽象化されたフィクションが具体性を得るためには、同時代に生きている愛する者たちが「老いること」を見つめる眼差しの時間的な残酷さと、それとは逆に、同時代に生きている人間達が「若返る者」を見つめる眼差しの時間的嫉妬との葛藤が「生きること」へと通じてゆく過程にこそ見出される。

だかその「生きること」が、「全体としての生きることの素晴らしさ」ではなく、「今、生きているその瞬間のかけがえのなさ」としてと感じられたとするならば、それはこの映画が、若返って行く男の青春の時間と、成長してゆく娘の青春の時間とが、これしかないというタイミングによって奇跡的に重なり合い、そこで過ごされた一瞬の時間が、かけがいの無いもの=「最高の時間」として露呈したからではないだろうか。その「最高の瞬間」というものが、いかに「偶然」によってもたらされたかを、映画はブランシェットの交通事故の偶然性を何度も視覚的に強調することで際立たせている。偶然の出会い、身分違いの恋、しばしの別離と再会、というような細部をしたためたこの作品は、典型的な「メロドラマ」として成り立っている。

二人の関係は「友達」から「恋人」へと変化し、最後は「母と子」として母の膝で抱かれることになる。この関係の劇的な変化は「見つめる人」と「見つめられる人」の関係をあやふやにしているかも知れない。
ノン子36歳(家事手伝い)(2008日) 60 85 監督熊切和嘉、撮影近藤龍人、照明藤井勇、俳優坂井真紀、星野源、鶴見辰吾

念のため二回見る。

この熊切和嘉という監督は、非常に「ひかり」というものに拘る人であって、それは坂井真紀と鶴見辰吾の、安ホテルでの長回しの濡れ場だけを指してのものではなく、全編を通しての、しっとりとした肌触りの良い照明が、映画の空間と時間とを引き立てているのだ。例えば「アンテナ」において、「ドアを開放する」という現象が、幾度も「光を差し入れること」へと結び付いて撮られていたように、安ホテルの部屋の、開かれたドアの前の暗い廊下で待っている坂井真紀の体全体を、部屋の中の鶴見辰吾によって点灯された蛍光灯の光がパッと包み込む瞬間の間接的な印象によってもたらされる光線の設計は、実に簡単な演出でありながら、現代映画においては極めて稀有な瞬間である。自転車の二人乗りをキャメラで追いかけて行って、長回しの終盤に夕陽へと対象を変化させて撮る根性とか、安宿の廊下の逆光気味のテカテカの床の光沢であるとか、労働を手伝った後、星野源が寝そべった日本間に差し込んでくる自然光の感じであるとか、家の中の、ガラス戸へもたれた坂井真紀に星野源がキスをするシーンの、坂井真紀の顔に当たる照明の微妙な感覚であるとか、非常にナイーブな感覚で撮られている。

「豊かさ」という点から言うならば、例えば序盤、津田完治の屋敷の前で二人が分かれた後、坂井真紀の草履の足音が次第に遠ざかって行くと、踏み切りの音がして、画面の外から聞こえて来る足音が「足踏み」に変化して行って、キャメラが切返されて踏み切りの前の坂井真紀を縦の構図で捉えた時、ピントのぼやけた坂井真紀に対して決してピント送りをしなかったということ、こういうのが「豊かさ」というものだ。小津のキャメラマン厚田雄春が語ったように、「ピント送り」はダサイのである。それを「何故ダサイのか」と不思議に思うことこそが感性なり「才能」なり「歴史」というものなのだ。

心理的な部分をカットする潔さは画面の停滞を防いでいるし、星野源は、大きな足音を立てながら歩き続ける重そうな坂井真紀の、その「足の裏」という面を「走らせること」「肩車をすること」によって地面から跳躍させた男である、という細部もまた豊かである(ただし「青春★金属バット」の坂井真紀もまた、足音を鳴らして歩いていたが、、)。

「凡庸さ」という点から見たならば、例えばラストシーンで鶏を追いかける時のモンタージュが「鶏を捕まえる」という「物語」へと傾斜し、画面の力が急速に下降したことを挙げてしまえば十分だろう。特に最後の、鶏を手で捕まえる瞬間のショットの、まるで動かない画面の弛緩ぶりというものは、ラストショットとして余りにも凡庸である。簡単に言うならば、ジョン・フォードやハワード・ホークスが、「敢えて撮るべきではない」として決して撮られることのなかったショットは、それに対する明確な反論を見出せない限り撮るべきではないのである。「現在」とはそういう場所であることを感じるべき。

例えば「青春★金属バット」では、男が覆面をし、ガイジンの発音を真似て「テヲアゲロ」と自分がバイトしているコンビニに強盗に入る→キャメラを切返し、コンビニの店長に一発で正体を見破られて名前を言われてしまう、というショットの連鎖があったが、こういうのが「意味」に寄りかかったショットであって、この連鎖は記号として読めるだけで、画面としての驚きがさしてあるわけではない。

人物について言えば、「意外性」だけで映画は撮れないのだし、例えば坂井真紀を肩車しておみくじを木に結ぶシーンでは、まずその前に、坂井真紀が千切って棄てた若いカップルのおみくじに対する何かしらのアクションを入れても損は無いわけであって、或いは星野源は、一般常識からすれば「失礼な男」であって、やくざであれ、テキヤであれ、あんな失礼なクソガキに祭りの場所を分け与える訳はないのであって、もちろんその「失礼なクソガキ」を美化して撮ることはまったく差し支えなく、そしてそれは「道徳」それ自体の問題ではなく、「エモーション(f)」の問題なのだが、そのエモーションとしての星野源の人物像が弱いのである。ハートが欠ける。葛藤(我慢)がない。付け加えるなら、チェーンソーで祭りを壊すモンタージュもいささか凡庸である。

「豊かさ」と「凡庸さ」とが交互に浸透している。特に、ショットが割れると凡庸になる傾向がある。ヒヨコを追いかけるシーンも然り。
2/23更新
七夜待(2008日 60 80 監督脚本河瀬直美、撮影カロリーヌ・シャンブティエ俳優長谷川京子

長谷川京子がいきなり「宗教的恍惚」とでも言うべき涙目で出て来て、「始まった、、」と、この「河瀬的なるもの」の先制パンチに予想通りの展開とはいえ驚きつつ鑑賞は開始されたのだが、物語といえば、神経症の女(ハセキョー。おそらく日本人)がタイにやって来て、タクシーに乗ってホテルへ行こうとして、途中の密林で車を止めた運転手に襲われると思って物凄い形相で逃げたら目の前にフランス人のゲイがいてすがりつき、そのゲイがやっかいになっている農家の世話になるという物語であって、このようにして、まったく意味不明であるところは十分に豊かであってマイナスの要素ではない。

「ゴダールのキャメラマン」、カメリーヌ・シャンプティエの捉えたタイの森や市場の光景は、次第に力を増して行き、長谷川京子の神経症をひとまず無理やりエポケー(カッコにくくる)すれば、前作の「殯の森」とは違って決して見られない作品ではない。真っ青な月夜のローアングルのトラッキングの驚きや、鳥が見事にカメラの前方へと逃げ続けてくれるラストシーンの不思議さは決して凡庸な才能の持ち主によってキャメラに収めることのできる運動ではない。そしてまた、長谷川京子の「私はリスカを20回はしているでしょう」という感じの人物像にしても、某国のテレビ「世界ウルルン~」で、世界中で号泣しては恥をさらして帰って来る某国の芸能人たちと「そっくり」でもある。するとこの映画は「そっくり」なのだから、「リアリズム」として良い映画なのかというと、そう簡単にコトは進まない。映画とは「オリジナルを複製すること」を競うメディアではないからだ。

この河瀬直美という監督の性癖は、どうしても「複製」を「オリジナル」とのつながりの強度によって擁護するショットが多くを締め、そうした背景に折角の才能としての「複製行為そのものの驚き(例えばラストシーンの、うそともほんとうとも言えない鳥やとかげたちの動物的動きと、それにその都度反応しているようでありながら「先回り」しているとしか見えないシャンプティエなりオペレーターなりの人間的な動きとの驚くべき関係)」が押しやられてしまっている。そしてその根底にある、生命感を欠いた弱々しい感傷壁が、余りにも強い押し付けとして画面を覆ってしまっているのだ。

「萌の朱雀」にしても「殯の森」にしてもこの「七夜待」にしても、村なり山なりで暮らす人々の中にプロの俳優等、外部の人々を放り込んで映画を撮っているわけだが、実はちっとも「放り込む」ことができておらず、現地に住む人々が浮いている。ただ河瀬直美は、現地の人々たちを「利用」しているに過ぎない。利用するのは結構。だがそうしたセレブ的ともとれる成金的な態度というものが、画面に出てしまっている、となると「結構」では済まされなくなる。

例えば街で運転手の親と娘とが大喧嘩するシーンを飛び入り気味に撮る、こういうのがよろしくない。画面が「オリジナルの力」に寄りかかり過ぎているから。「オリジナル負け」しているのだ。ケン・ローチみたいに。
チェ 28歳の革命(2008米) 50 60 監督スティーヴン・ソダーバーグ

予想通り、とまた言ってしまってはつまらないのだが、或る程度キャメラを揺らしながら「オリジナル」へと寄りかかるところは予想通りであるものの、もう一つの時代のカラー時代については、我慢して撮っていることは、ある程度予想外といえなくも無い。細部が乏しく、ひたすら「物語」を追いかければ誰でも「判る」ように親切に撮っている。「従って」この映画は受けるというわけである。
未来を写した子供たち(2004米) 80 80 監督ロス・カウフマン、ザナ・プリスキー

女性写真家が、インドの、貧民通りの売春婦の子供たちにカメラを渡して、好きなだけ写真を撮らせる、という発想で始められるこのドキュメンタリー映画は、「カメラを向ける」という行為は、それを「必要とすること」と大いなる関係に満ちていることを教えてくれる。

子供達の撮った写真は、そのどれもが生活の中での熱い血がその表層に露呈しており、彼らは撮るべき場所も人も時間も知っているようであり、時としてフィルムに収められた被写体の大人たちから罵倒され、フィルムを取り上げられるという体験をしながらも、飄々と街中を飛び回り、シャッターを押し続けるその姿は、間違っても「携帯電話を被写体の人物に向けて撮る」という、およそ「見つめる」という視線も「見つめ返される」という危険も不在の「撮り逃げすること」の体勢でしか被写体と向かい合うことのできない我々の眼差しとは明らかに異質である。

携帯電話を被写体に向け、映し出された画面を見ながら写真を撮る、という、あのポーズは、おそらく人類の「まなざし」というものに、何かしら重大な変化をもたらすに違いないのであるが、それはまさに、被写体を自分のまなざしで直接見つめる、という「痛み」を大きく緩和させ、「見られること」という恐怖からも逃れるところの安全地帯からの「盗み撮り」にほかならず、それは何かしら、首の長いエイリアンが、我々人類を見つめる視線に似ているといった不思議な感覚を呼び覚ますのだが、スペクタクルとしてのイメージの氾濫が身体感覚を喪失させ、「見られること」からの逃避によって「見ること」を特権化させる「身体無き眼差し(デカルト的遠近法)」の危険性が問われている現代において、貧民街を、カメラを持って跳梁し、被写体と「直接」対峙し続ける子供たちの姿は、その無防備なまでに身体をさらし続けるところの強さは、「文明圏」たる我々の「文明」の皮を剥ぎ取り、その内部を暴露する恐怖である。おそらく阪本順治の「闇の子供たち」という作品は、こうしたことをフィクション性を少し強くして捉えた作品ではないかと想像するが、今、明らかに映画の或る局面は、「見ること」と「見られること」の地平において進行しつつある。
わが教え子ヒトラー(2007ドイツ) 75 85 監督脚本ダニー・レヴィ撮影カール・F・コシュニック

最近、これだけ笑った作品はないというくらい笑えたのだが、ルビッチやチャップリンがヒトラーを「人間」として描いてからしばらく、人類はヒトラーを非人間的なる何かとして描かざるを得なかった歴史から、再び人類はヒトラーを人間=コメディとして描くことができたという意味において、画期的な作品である。

この作品の中に出て来るヒトラーは、我々が記録映画や膨大な写真の数々によって知っているヒトラーとは明らかに異質なぽっぺたの膨らみ方をしており、この「ほっぺたの膨らみ方」こそ、この映画が「ヒトラーの真実を描いた」と冒頭高らかに宣言しておきながら、その「真実」の質において、「過去の再現」としてその辺の知識人をただ喜ばせるためのものではなく、「現在のヒトラー」という「映画」として撮られたことの意義である。それは「これこそがほんとうのヒトラーです」と高らかに謳われドイツ人監督によって撮られた凡庸な「ヒトラー~最後の12日間」とは明らかに異なる、「現在」という「ほんとう」をフィルムの上に焼き付けられたものとしてこそ、評価されなければならない。リアルなものを複製することでしか「映画」という視覚メディアを捉える事のできない者と、複製することそのものをリアルにしてしまう者との、メディア論的な資質の違いである。「従って」この映画は、貧しい映画文化の元では抹殺されることになり、それとは逆に「見てもいない真実」を描いた「チェ二部作」が、「ほんとうらしい」という理由で受けるという寸法である。めでたし、めでたし。

そうしてパンフレットを買い、この映画の「トニー・レヴィ」という監督の顔をしかと見届けた時、いかにも「映画」を撮りそうな顔をしていることに思わず納得してしまうのであり、これからは、こういう顔をした者こそが「映画」を撮る時代であるのだと、大切なのは「人相学」であるのだと、トニー・レヴィの「顔」は高らかに宣言をしている。それはどう見たところで「映画」を撮るべき顔でなく、怪しげな「伝道師の顔」でしかないポール・グリーングラスの顔と見比べてみれば一目瞭然であるのだが、どちらにせよ、決して国家元首に選んではならない「顔」を元首に選んでしまった我々は、この「人相学」という「学問」の重要さを改めて感じるべきである。

フィルムの乗りが極めて素晴らしい。
2/7更新
レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで(2008米) 20 50 監督サム・メンデス

「007/慰めの報酬」を28分で出て、まさかこんな凡庸な作品を二本続けて引き当てることはあるまいと、ニコニコしながら発券所へ向い「レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで」の券を買い、「燃え尽きませんように」と券に向ってお祈りし、映画が始まって12分で燃え尽きる。ここが「シネコン」だということを忘れていたのだ。

『「007/慰めの報酬」の28分』の許し難き凡庸さに我々は慰めの報酬を要求すべきだが、この『「レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで」の119分』で我々は燃え尽きたのでもう何も要求できない。シネコン映画とは、我々の闘争心を「萎えさせる」なにかである。

よくここまでつまらないものを撮れるものだと感心するが、「ウン」とも「スン」とも、の、「ウン」の「U」、「スン」の「Su」の「S」すら言おうとしない。この映画には「中心」しかないのである。

言われていたのはひたすら「賞をください」という、見ていて泣きたくなるような欲望だけだ。デカプリオは、こんな演技をさせていたら壊れてしまうだろう。彼が「ワル」を演じたい希望が痛ましいほど伝わって来るのだが、「ワル」というものは、表情や台詞だけで作られるものではないのだし、何もあのように、顔をメチャクチャに歪ませて大声で怒鳴り続け、最後に「ハン?」などとハニーしなくとも「ワル」にはなれるのであって、結局の所、そうしたオーバーな演技を許してしまう安易な環境というものが、この作品を包み込んでいる「賞をください」という愚かな環境であり、それはケイト・ウィンスレットという、その過剰な神経症演技が基本的に映画と整合しない女優の存在がセットになっていることからもからも伺えるだろうし、スカートに血が滲むという、スノッブ頼みの凡庸な画面を見てもたちどころに伝わるだろう。演技で言うなら、そのウィンレットの方がまだ抑えていたくらいであって、デカプリオの過剰演技は見ていて痛々しく、そういうものを映画の表層に露呈させてしまったこの映画は、「失敗作」ですらない、限りなく凡庸な、何かである。

「007/慰めの報酬」といい、これと言い、映画館へ来たことを大きく後悔させてくれる。「007/慰めの報酬」の場合、誰しもが見れば即分かると思うが、あらゆる28分の労働は凡庸な画面を誤魔化すために費やされ、照明も構図もいい加減なインスタント画面がモンタージュによって虚しく消費されてゆく。映画を必要としてはいない人たち、映画もまた彼らを必要とはしていない人たちに限って映画を撮ることができるシステムが「シネコン」に存在している。
007/慰めの報酬(2008英、米) 監督マーク・フォスター

28分待ったが、まともなショットが一つも出てこないのでニガ笑いしながら退出し、そのまま「レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで」へ雪崩れ込む。
プライド(2008日) 30 80 監督金子修介

ヒッチコックのような心理的なクローズアップの入り方だとか、女たちを、何とか監督が、スタッフが、美しく撮ろうとしている情熱だとか、褒めたい部分も無くは無いのだが、そうしたことを書く気力も萎えさせる力を、この作品は持っている。おそらくシネコン映画というものは、恐るべき力が背後で暗躍し、決して「活劇」が撮れない様にシステム的に出来上がっているのだろう。

序盤は悪くなかったのだが、結局の所この作品も、現代シネコン映画の「1.6」をキッチリと背負ったオコチャマ映画である。

「父親の不在」という、何やら現代的神経症を背負った女達が次々と登場しては、自己分裂を引き起こしながら対決してゆくこの勝ち組対負け組みの戦争らしきものは、「理由」という、善意の神様が常に登場し続ける事で映画的にも物語的にも「オコチャマ化」を免れていない。

現代のシネコン型人間が決して受け容れることのできないものとは、理由なき運動である。「自分探し」などという、在りもしないことを「もの」として物象化しなければ生きてゆけない神経症の者達で満ち溢れるシネコン映画館では「理由なき悪い娘」は決して存在してはならない。「悪い娘」には、どうして悪い娘になったのかの合理的な理由がなければ観客が窒息してしまうからである。だからこそこの映画は「家庭環境」という、決定論的な合理的な理由をイヤと言うほど描きながら、この娘は、こうして悪い娘になりました、という理由をグロテスクなまでに教えてくれる。そうして初めて「シネコン派」は安心して映画を見続けることができるというわけだ。だが、「安心できる悪い子」などちっとも怖くなく、そうして映画は「勝ち組み対負け組み」の厳しい構造を巧妙にすり替え「いい子ちゃん対いい子ちゃん」の、いい子ちゃん合戦へと流れてゆくのだが、そうした反面「意思」という、本来不合理なはずの運動が、具体的で説明調の台詞によって奇麗事化され、説明可能なものとして逐一呈示されてゆく。すべてが合理的に説明される。

終盤、「3人で」と言ったはずの舞台に二人しか出てこない。すると客達が「三人と言ったのに、、」と、すぐ説明をしてくれる。見れば分かるものをわざわざ直後に説明しなければならない。これがシネコンの法則である。シネコン映画とは、そもそも「見ること」を必要としない空間である。人物達の心理状態は、すべて独白によって、バカでも分かるように説明されている。見ている我々観客は「バカ」というわけである。めでたし、めでたし。約束の時間に遅れた者はちゃんと「生理痛の薬を飲んで電車で眠ってしまいました」と即座に説明してくれる。一瞬たりとも、説明不足で誤解を招くなどということはあってはならない、それがシネコンという「自分探し」の空間である。

私が製作者なら、「勝ち組」が勝って大笑いして映画を終わり、観客達をニガ虫と南京虫を食って吐き出しような顔にさせてやりたい。もう一度言うが、この映画は「勝ち組み対負け組み」の現代型構造を覆い隠し、安直で善良な物語へと転化させている。

下手糞な歌の数々を吹き替えで聞かせるくらいなら、せめて由紀さおりに歌わせるくらいのセンスがあってもよろしいではないか。加えてこんなスローな物語を120分以上で撮る無神経さは決して許してはならない。

こうして映画を見て行くと、実は「父が不在」なのは登場人物ではなく、「シネコン映画そのもの」であることが分かる。父親不在のシネコン映画はせっせと「理由」を求めて彷徨い続けるのである。
リタクテッド/真実の価値(2007米、カナダ) 60 70 監督ブライアン・デ・パルマ

おそらくこういう風に撮ってこういう風な映画になるのではないか、、という予想が殆ど当たってしまうということは、矢張り凡庸であることの紛れもない証左であると思いつつも、映画の「うそ」というものに向き合う姿勢としては、例えば首を切り取られた兵士の首が、明らかに写真であることが分かるといったように、うそを「うそ」としてそのまま晒しているような画面の感じについて、デ・パルマは映画を逸脱してはいないとも言える。こういう映画は「ほんとうです」と撮った瞬間、すべてがオジャンになる。そういった、映画としてのセンスをデ・パルマは、本能的に持ち合わせているのかも知れない。

映画の辻褄を無理に合わせるのはよそう、という姿勢が露呈している。オバマフィーバーの中で、消し飛んでしまうような作品だが、それでもこういう映画を撮れるというのは、ガッツがある。しかし、主題の選択において政治が勝ち過ぎていることからするならば、逆にこういうストレートな映画を撮ってしまうというのは甘いのかも知れない。。
秋深き(2008日) 30 60 監督池田敏春

人間を描くのではなく、人間を説明している。カッティング・イン・アクションの一見軽快そうな分断は、視点の不在を現している。監督も、脚本も、現代日本の感傷病を持て余している。終盤の、夜の川辺のシーンからやっと「映画」になっているくらい。

「決して脱ぐことはないであろうことを見る者すべてが知っている女優のおっぱいを服の上から触る」、という、何とも慎ましやかな僧侶的禁欲画面は、見ようによっては極めて猥褻であるとも言え、そこに露呈するものと言えば、ただひたすらの「意味」でしかない。
マルタのやさしい刺繍(2006スイス) 50 50 スイスもポストモダンである。どっぷりとポストモダンしている。ポストモダンの亡霊たちが物語の亀裂や噴出を制御し、「エモーション」という出来事を決して露呈させまいと固く封じ込めている。
2009/1/28更新
12人の怒れる男(2007ロシア) 監督ニキータ・ミハルコフ

一時間経っても映画が始まらないので帰る。

同型のナイフを出す時のあの引き伸ばし方であるとか、自分は棄権して投票を待つ時にピアノを弾くとか、許し難い下品な演出に呆れ返る。我々を「外部」へと誘導する事で「共感」を得ようという下心がミエミエであって、だがそのように人々を「駆り立て」たり「誘導」したりすることが、いかに下品で如何わしいことかを、もう少し真摯に勉強したほうがよろしい。この人は人間をなめている。
レッド・クリフPartⅠ(2008米ほか 10 50 監督ジョン・ウー

「三国志」などという題材が映画になる訳がないと思いながら、だがひょっとしてあの素晴らしい「M:I-2」(2000)のジョン・ウーのことだから、一瞬たりとも画面を弛緩させることなく活劇として映画の素晴らしさをまざまざと見せ付けてくれた大傑作「ブロークン・アロー」(1996)の、あの天才ジョン・ウーのことだから、ひょっとすると「三国志」のような非映画的題材であっても何とか映画にしてしまうのでは、、という淡い期待を抱いたものの5分で打ち砕かれる。もちろん「ブロークン・アロー」のように、誰が見たところで瞬時に傑作と感じ得るようなレベルの作品を期待したわけではなく、せいぜい「風と共に去りぬ」「ローマの休日」のような、それなりのレベルの映画でも我慢しましょという淡い願いであったのだが、そんな殊勝で小さな願いすらも儚く消えた。神はいないのか、、、

あまりにヒドイので却って開き直り、苦笑いしながら見ていたのだが、まずどうにもならないのがあの衣装であって、あれではまるで「百万石祭り」である。時代考証どうのではなく、シネスコ画面のど真ん中に入り続けるクローズアップの首の部分までを覆っているあのスカスカの衣装がまったくもって画面に収まっておらず、貧弱でかつ乗りが悪く、まさに「これ、昨日借りて着ています」という感じに映っているのである。

孫権の妹が馬や劉備の首を突いて金城武が何度も「ああ、、」という顔をするシーンには、その処理の下手糞さに思わず私もつられて「ああ、、」と顔を覆いたくなってしまったのだが、映画が一度上手く行かなくなると、徹底して上手く行かなくなるのだなと、だがこの現象を「ジョン・ウー」で瞳に焼き付けてしまうという厳しい現実に驚きを隠せない。いったい誰が、このようなつまらない題材をジョン・ウーに撮らせようとしたのだろう。映画になる訳がないではないか。

2000年に撮られた「M:I-2」は9.11以降の映画であるにも拘らず、2008年に撮られたこの「レッド・クリフ」は「私はイラクもグルジアも存じません」という映画になっている。

ジョン・ウーという監督のアメリカでの作品とは、例外なく「活劇」としての身体の映画であり、彼は「株」という資本主義的な抽象物を常に一方に置きながら、その一方に重力に苛まれて止まない「身体」と、「時間」という限界を常に対峙させている。
それは「M:I-2」断崖にぶる下がったトム・クルーズや、あの素晴らしい「ペイチェック・消された記憶」においてビニールにぶら下がったベン・アフレックとユマ・サーマンのように「落ちること」との対峙において常に呈示されているのだが、ジョン・ウーにとってヘリコプターとは「落ちたるため」にあるのであり、決して飛ぶために在るのではなく、重力に押し潰された人間たちは、「ブロークン・アロー」のクリスチャン・スレイターとサマンサ・マシスのように、戦闘機で空から落下し、斜面を転がり落ち、次第に下へ下へと下っていって、最後は地下坑道まで落ちていってしまう。
そこで生き残る者たちと言えば、重力を逆手にとって「身体」を使いこなした者たちにほかならない。映画が架橋に差し掛かれば、彼らはピストルを捨て、「M:I-2」のトム・クルーズのように延髄切りやドロップキックで止めを刺すか「ブロークン・アロー」のサマンサ・マシスのように「とんかち」で殴りかかるか、はたまた「ペイチェック・消された記憶」のユマ・サーマンのように、リュックサックやスパナで殴り倒すか、或いはベン・アフレックのように「棒」で殴りかかるか、はたまた「フェイス/オフ」のジーナ・カーションのように、FBIを急所蹴りで叩きのめすというように、どんどん「原始化」を極めて行くのであり、最後は剥き出しの身体が勝負を決するのである。ワイヤーにしても、決して多くの凡庸なワイヤー映画のように「飛び回る」ために在るのではなく、それは「M:I-2」のトム・クルーズが露呈させたように、重くて重くて仕方の無い「身体」という厄介なものをかろうじて支えるための「道具(知恵)」に過ぎない。逆に身体を持て余した者達は「ペイチェック・消された記憶」のアーロン・エッカートのように、見事に落下して果てて行くか「ブロークン・アロー」のジョン・トラボルタのように、あろうことか身体そのものによって核弾頭を受け止めざるを得なくなるのであり、決まってこの「身体」というものが、そのうねりが、その重さが、そしてその「ドスン!」というスローモーションの圧力が、紛れもなくジョン・ウーの世界を支配している。
その究極が傑作「フェスイ/オフ」において、身体そのものの交換にまで発展することになるだろう。顔を変え、囚人として刑務所に潜入した捜査官は、磁石によって地面に吸い付けられた特製の靴を履かされる事で「重力」をまざまざと思い知らされながら、顔という身体そのものの交換によって様々なトラブルに巻き込まれてゆく。孤島の刑務所から海へ「落下した」ニコラス・ケイジが死んだという情報を部下から得たトラボルタが開口一番発した言葉は「遺体(ボディ)は見つかったか?」であったのは、まさにジョン・ウーの映画にとって信頼できるものは「身体」であることを物語っている。ジョン・ウーの映画とは、科学やCGに敗北し「身体」という活劇の素を見失ってしまったシネコンの「飛ぶこと」の映画とは明らかに一線を画している。錯綜するイメージの反乱によって生身の「身体」を覆い隠そうとする現代映画の中で、「身体」をひたすら露呈させ、その重みを背負いながら、重力と付き合い、克服してゆくジョン・ウーこそ既に「9.11以降の作家」として立っている。
「PARTⅡ」も当然見に行って応援したい。何と言ってもジョン・ウーは天才なのだから。
2008/1/10更新