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批評~ジュリアン・デュヴィヴィエに関する短い考察 2026年1月13日 藤村隆史

以下は左から「邦題(原題)(現地封切日) 作品の点数-照明の点数-古典的デクパージュ的外側からの切り返しの数 

フランス時代第一期

「にんじん(POIL DE CAROTTE)(1932.11.4)30-50-2

「モンパルナスの夜(LA TETE D'UN HOMME)(1933.2.18)5-30-0

「商船テナシチー(LE PAQUEBOT TENACITY)(1934.6.29)76-76-1

「白き処女地(MARIA CHAPDELAINE)(1934.12.14)10-50-1

「ゴルゴダの丘(GOLGOTHA)(1935.4.12)50-50-なし

「地の果てを行く(LA BANDERA)(1935.9.20)40-70-3

「我等の仲間(LA BELL EQUIPE)(1936.9.15)40-60-3

「舞踏会の手帖(Un CARNET DE BAL)(1937.9.9)30-30-15

「望郷(Pépé le Moko)(1937.1.28) 50-70-13

「旅路の果て(LA FIN DU JOUR)(1939.3.24)40-60-50

アメリカ時代

「リディアと四人の恋人(lydia)(1941.9.18) 40-60-29 アレキサンダー・コルダ

「運命の饗宴(TALES OF MANHATTAN)(1942.8.5)80-70-57 20世紀フォックス

「肉体と幻想(Flesh And Fantasy)(1943.10.29)84-84-23 ユニヴァーサル

「逃亡者(THE IMPOSTER)(1944.2.10) 90-86-23 ユニヴァーサル

フランス時代第二期

「パニック(PANIQUE)(1946/1947.1.15)80-84-38

■フランス第一期

フランス第一期では筋に焦点が当てられその筋に合わせるために人物たちの人格がその都度変化してゆく。●「にんじん」ではにんじんを自殺に追い込むために母親、兄、姉などの悪が明確に対置され、さらにその善悪が筋の要請から瞬時にひっくり返る。終盤、父親が村長に当選したパーティで忙しい父親に無視されたにんじんが自殺を決意するシーンが撮られているが、ここではにんじんの自殺という筋を起動させるためにそれ以前ににんじんと和解したはずの父親がパーティでいきなり忙しくなりにんじんを相手にできないという実に些細な出来事を生じさせることで父親を無理矢理に悪へと転化させにんじんを自殺へと追い込んでいる。にんじんがバケツに顔を埋めて自殺を試みるシーンにしてもわざわざ広場のど真ん中で実行されることですぐに母親に見つかって罵倒されるのは「母親に見つけられ罵倒されるために自殺を試みる」という筋からの要請であり運動を起動させるためのマクガフィンではないために実に平凡な画面によって撮られている。●「ゴルゴダの丘」におけるキリストと彼を死刑にする者たちとの明確な善悪の対比はこの時期のデュヴィヴィエの撮り方にマッチしたテーマであり、殺人の逃亡犯ジャン・ギャバンがスペインの外人部隊に入る●「地の果てを行く」ではギャバンと対立していた警官のスパイ、ロベール・ル・ウィギャンが終盤、突然ギャバンと和解するのはその後に展開される詩的なラストシーンに善人のロベール・ル・ウィギャンが必要だったからでありそのために彼の人格を豹変させている。当たった宝くじの金で友人たちが居酒屋を開業する●「我等の仲間」のジャン・ギャバンは「LA BELL EQUIPE(最高の仲間)であるはずのシャルル・ヴァネルの妻、ヴィヴィアーヌ・ロマンスと密通しているがそのような人格的破綻が終始、善というその場限りの筋立てによって正当化されている。終盤、店の乗っ取りを画策する男が突如現れるが彼の登場は彼を悪とすることでギャバンとダネルを善にでっちあげるためのみになされておりその場限りなのでその男は役割を終えると善へと転換されている。このような稚拙な演出によって善とされたギャバンがこれまた悪女にでっちあげられたヴィヴィアーヌ・ロマンスのせいで親友を殺してしまうという詩的なラストシーンへと無理矢理こじつけられている。運動によって現れてくる人格ではなく決められた詩的な筋から逆算されたその場限りの人格なき善悪によって主人公たちが分節化されている。●「望郷」で可愛がっている子分のピエロ(ジルベール・ジル)が突然ギャバンに反抗するのも、信頼していなかった相棒カルロス(ガブリエル・ガブリオ)を突然信頼してミレーユ・バランへの大切な手紙を託すのもすべては筋を基軸に映画を進行させていることから来る逆算であり運動から逆算されるマクガフィンではないためにそれによって撮られる画面は運動を欠いた「はしっこ」だけの実に平凡な画面に終始している。役者たちの老人ホームが撮られた●「旅路の果て」では乱暴な筋の展開に出来事がついてゆけずヴィクトル・フランセンがあばら家でロミオとジュリエットを演じる一世一代の運動がカットされ、ミッシェル・シモンに殴り倒されて失神しているはずの彼がどうしてその直後にシモンの代役を務めることができたのかもまったく撮らていない。中の運動が省略され「はしっこ」だけがつなぎ合わされているので運動はすべて省略されラストシーンの支離滅裂でいきなり詩的な朗読へと無理矢理こじつけられている。こうした撮り方はどこかの国で「寅さんシリーズ」を撮り続けたとある巨匠の撮り方と酷似している。●「ゴルゴダの丘」ではキリストという外部の物語をなぞるのみで視覚的細部はまったく見られず、「起源」へとひたすら遡ってゆく●「舞踏会の手帖」では6曲目の冒頭のパレードでマリー・ベルが飛び入り的に群衆の中を通り過ぎてゆくシーン以外に見るべきショットはなにひとつ撮られていない。●「我等の仲間」でギャバンがパーティで歌うシーンしても●「望郷」でギャバンが屋上のテラスで歌うシーンにしても歌=運動=それ自体を目的として撮られていないことから実に平凡な画面とモンタージュによって終息し●「白き処女地」における終盤の雪原のシーンは余りにも拙いスクリーンプロセスと代役のロングショットによる子供騙しの手抜きでマドレーヌ・ルノーの心理的な表情と合わせて見るに堪えない画面を連続させ●「モンパルナスの夜」に至ってはこんなくだらないものを封切ることそれ自体が倫理に反している。フランス第一期は●「商船テナシチー」を除くと筋の映画が撮られた時代でありモーションピクチャーではなく詩の勝利が宣言された時代である。運動が先にありあとから詩がやってくるのではなく先に詩があり運動はあとからもやってこない。決して悪くはない●「商船テナシチー」においてもアルベール・プレジャンはみずからの移民の意志をまげてマリー・グローリーと逃亡しているのは残された相棒ユベール・プレリエによって語られる詩的なラストシーンへの逆算であり常習性のもたらす結果としての詩情ではない。●「望郷」の終盤、パトロンの宝石をベッドの上に投げ捨て出ていこうとしたミレーユ・バランがなぜかそのまま出て行かず知らないうちにパトロンの元に居座っているのは船で去るミレーユ・バランの名を鉄格子越しに叫ぶギャバンとのあの何の変哲もないラストシーンを撮るためからの逆算であり『宝石を捨てて出ていく』はずのミレーユ・バランの果敢な人格的運動が筋の観点から即座に否定されなんとも中途半端な女に成り下がっていきなり詩的なラストシーンを迎えている。積み重ねた運動によって人物を現すのではなく最初に決められた筋に沿ってその都度人物の人格を変化させてゆく。人間が筋立てに利用される、それがフランス第一期におけるデュヴィヴィエの基本的な方法である。

■アメリカ時代

アメリカ時代のデュヴィヴィエは筋の映画から運動の映画へと変貌している。最初に撮ったアレキサンダー・コルダ製作●「リディアと四人の恋人」ではコルダ的(イギリス的)風土からかフランス第一期における●「舞踏会の手帖」的な詩への拘泥が筋の映画を踏襲させているものの次に20世紀フォックスで撮られた●「運命の饗宴」ではその姿を一変させている。流転する燕尾服を着た主人公の運命が五話のオムニバスでつながれたこの作品はシャルル・ボワイエ、リタ・ヘイワース、トーマス・ミッチェルによって起動した殺人未遂事件の第一話の燕尾服がそのままジンジャー・ロジャースとヘンリー・フォンダのプレストン・スタージェス的スクリューボールコメディへと繋がれ、それが『みんなで燕尾服を脱ぐ』というただそれだけの運動でエモーションを露呈させる第三話へと淀みなく持続されチャールズ・ロートンから露店のメェ・マーシュへと受け継がれる第四話では浮浪者のエドワード・G・ロビンソンが燕尾服を着て同窓会へと出席しそこで法廷という形で告白された彼の現在がラストシーンの友人たちの訪問という運動それだけによって昇華されている(第五話は除く)。その次にユニヴァーサルで撮られた●「肉体と幻想」はロバート・ベンチリーとデイヴィッドホフマンによって進行されてゆくこれまたオムニバス形式の三話の物語であり、●「荒野の女たち(SEVEN WOMEN)(1965)のベティ・フィールドと●「逃走迷路(Saboteur)(1942.4.22)のロバート・カミングスによる御伽噺が光と影の運動によってエモーショナルに終わりを告げると「あなたは人を殺す」と占い師トーマス・ミッチェルに予言された弁護士エドワード・G・ロビンソンがディム・メイ・ウィッティ、セシル・オーブリーといった「ヒッチコック組」への殺人へと駆り立てられてゆく第二話へと転換され、そのまま繋がれた第三話ではシャルル・ボワイエによって演じられる曲芸師が夢の中で見た竪琴のイヤリングをした女バーパーラ・スタンウィックに魅せられてゆき●「白き処女地」とは似ても似つかぬスクリーンプロセスと吹き替えによって撮られる曲芸のサスペンスを交えながら夢と現実のあいだを行き来している。この二つの作品がではフランス第一期と違って人物たちの人格に齟齬を生じておらずまたオムニバス形式という断片性を得ることでそれぞれの挿話が自由に解き放たれている。アメリカで最後に撮られた同じくアメリカ亡命中のジャン・ギャバン主演●「逃亡者(THE IMPOSTER)(1944.2.10)では逃亡した死刑囚(ギャバン)が戦死したフランス兵の身分証を盗んで彼に成りすまし戦功をあげる運動が最良のマイケル・カーティスを彷彿させる透明な画面の連鎖によって無名兵士のエモーションをフィルムに焼き付けている。ここに至ってはもはやデュヴィヴィエの痕跡を見出すことは不可能となる。

★透明

被写体の動きよりもキャメラの動きが優先されるフランス第一期のデュヴィヴィエから被写体に寄り添いキャメラが透明化されるアメリカ時代、大きなクローズアップを正面から撮り運動を停滞させるフランス第一期から透明なデクパージュの過程への埋没、●「舞踏会の手帖」の医者のピエール・ブランシャールの挿話でひたすらキャメラを傾けて撮るような出しゃばりの痕跡は●「肉体と幻想」の夢のシーン1ショットくらいしかない。●「運命の饗宴」以降のデュヴィヴィエはフランス第一期における痕跡のデクパージュからアメリカの透明なデクパージュへと移行し主人公たちにフランス第一期にはなかった人格的持続性が保たれている。フランス第一期の終盤から古典的デクパージュ的外側からの切り返しが急増しアメリカ時代の作品は●「リディアと四人の恋人」を除けば外側からの切り返しを含めて透明な古典的デクパージュによって撮られている。古典的デクパージュで撮られた映画はすべて運動の映画となるわけではなくそれどころか古典的デクパージュで撮られたハリウッド映画の大部分は「駄作」の領域に留まっている。それにも拘わらず古典的デクパージュで撮られたアメリカ時代、●「運命の饗宴」以降のデュヴィヴィエの作品はフランス第一期における彼の作品をあざ笑うかのような呑気さでもってどれも「駄作」の範囲を悠々と逸脱している。この考察が書かれる理由はここにある。フリッツ・ラング、ジャン・ルノワール、マックス・オフュルス等のようにフランスでもハリウッドでもどこでも運動の映画を撮っているのならまだしもフランスで撮れない運動の映画をいきなりハリウッドで撮れてしまう不思議は何に由来するのか。デュヴィヴィエはアメリカへ行って個性を失った。こういう捉え方はデュヴィヴィエがフランスで運動の映画を撮っていることを前提として初めて成り立つ批判でありフランスでは●「商船テナシチー」以外、筋の映画しか撮ることのできなかったデュヴィヴィエのアメリカで撮った運動の映画を評する批評としては的が外れている。運動を抜きにした痕跡(個性)なるものはモーションピクチャーとは関係のない無意味な出来事に過ぎない。仮にルノワールがフランスにおける長回し、横軸の再フレーミングなどでその痕跡を「さき」に残したとしてもその痕跡は運動の映画である限りにおいてのみ現れる内部の痕跡でありどちらにせよ「さき」から来る筋の映画の痕跡は外部的徴表に過ぎずモーションピクチャー内部の痕跡とは無縁である。運動は透明でありハリウッド映画は価値=痕跡=の要素を欠いているがゆえに普遍化する。ジョン・フォードにしてもハワード・ホークスにしても彼らの彼らであることの痕跡は「あと」から来る。それがハリウッド的モーションピクチャーでありハリウッド映画がグローバルなのはその痕跡が「あと」から来るからにほかならない。ヨーロッパ映画(ルノワール等)、またハリウッド映画でもオーソン・ウェルズ的デクパージュはその痕跡の幾つかが「さき」に来るゆえにそれが運動の映画であったとしてもグローバル化することはない。デュヴィヴィエがアメリカで運動の映画を撮ることができている要因は古典的デクパージュにあると断定することはできないが映画とは環境が撮らせるものでありフランスとは違ったアメリカの環境がデュヴィヴィエをして運動の映画を撮らせていることは事実として露呈している。フランス第一期における環境はそれが詩的リアリズムなのか良質の伝統なのかは別にして筋の映画と運動の映画を混同することにおいて成り立っている。「さき」から来る個性と「あと」から来る個性の区別をつけること、運動の映画と筋の映画との区別をつけること、、これらはフランスのみならず現在のほぼすべての批評家にはできていない。モーションピクチャーは運動のメディアであり筋のメディアではない。取っ掛かりのない運動の映画は分節化され徴表に満たされている筋の映画によって隠される。詩的リアリズム・良質の伝統・ネオリアリズム、、外部から拝借した名前を付けた瞬間そこに当てはめられる力が働き定義が映画を囲い込む。映画に過度なものを期待してはならない。映画は透明で幼稚なものである。

★フランス第二期

デュヴィヴィエがフランスへ帰って撮った●「パニック」では運動の映画が撮られている。デュヴィヴィエはアメリカへ渡って運動の映画を撮りそのまま運動の映画をフランスへ持ち帰っている。ミッシェル・シモンを私刑のように取り囲んだ群衆は悪として撮られ悪女を演じているヴィヴィアーヌ・ロマンスは終盤になって罪の意識を有しているもののそれによってミッシェル・シモンが善になったりすることはなくミッシェル・シモン、相手役のポール・ベルナール、ヴィヴィアーヌ・ロマンスとも終始人格的に一貫した人物として撮られている。筋立てによって人格が変化するフランス第一期の細部はここにおいて消され透明な画面による運動の映画が撮られている。この「パニック」をフランスの批評家はどう評価したのか。ひょっとすると屋根の上から落下したのはミッシェル・シモンではなくデュヴィヴィエであり彼を取り囲んでいる群衆がフランスの批評家たちかも知れない。