映画研究塾トップページへ 映画評論 藤村隆史

映画批評 202633

 「コット、はじまりの夏(An Cailin Ciuin)(2022.2.11)~コルム・バレード~逆因果関係とピント送りについて

■どこからか動物の鳴き声と人を呼ぶ声が聞こえながら画面の中には誰も存在しないことから始まるこの作品は貧しい農村の4人姉妹のひとりのコットという少女がギャンブルで家計を食いつぶしている父親 (マイケル・パトリック)と出産で多忙な母親のいる家族から弾き出されるように夏のあいだ親戚の農家に預けられるという物語である。

■コット

勉強は不得意で友達もいない、姉妹の中でも浮いていて言葉もやっと聞き取れるくらいのか細い声で話すコットコットは、その境遇とは裏腹に女性キャメラマンのケイト・マッカラによって発せられるしなやかな光によって包み込まれている。

■逆因果関係

親戚の家にやってきたコットが黄色い車から降りて里親のアイリン(キャリー・クロウリー)と向き合ったとき、アイリンの手が初めてコットの髪に触れられるまでの正面から撮られた二人のショットはその体に傾いた光線を浴びながらこの二人の関係の語られざるところまでも現している。内側から切り返される2人のあいだにキャメラがありその時点でショットは逆因果関係を強めている。撮ることが意図的になればショットは(その撮り方にも大きく左右されるが)逆因果関係を強めて露呈する。内側からの切り返しは逆因果関係を強める方法のひとつとしてある。この作品は逆因果関係によって露呈する運動の連なりでありコットを「その人」として撮るためにすべてが集約されている。

■古典的デクパージュ的外側からの切り返し

葬式の帰り道、コットが女から里親の秘密を知らされたあと、夜の砂浜で木材の上に座りながらコットに里親のショーン(アンドレ・ベネット)が話をするときに、何度か二人の後方からキャメラが外側から切り返されている。仮にこれが正面から撮られていたならば古典的デクパージュ的外側からの切り返しにもなりうるような位置関係からの切り返しが何度かなされているが後方から撮られることで古典的デクパージュの「インスタント」の傾向は露呈していない。このシーンは里親の夫婦が以前に息子を亡くした秘密を知ったコットに里親のショーンが話しかけるというプライベートな時間でありそれをコルム・バレードは正面から心理を撮ることではなく後ろから距離を置いて撮っている。倫理とは物語の鎖から離れる姿勢でありそれを貫くことでショットは逆因果関係を強めてゆく。外側からの切り返しはそれが古典的デクパージュ的外側からの切り返しとしてなされる場合、仮に照明の修正等がなされているとしても「そのこと」を露呈されることは基本的にあり得ない。この撮り方は現にそこに存在する2人を現にそこに存在すると証明するだけの物語ショットであり逆因果関係とは相容れない「インスタント」の精神に基づいているからである。クリント・イーストウッドですら「陪審員2(JUROR #2)(2024.10.27)169ショットもの古典的デクパージュ的外側からの切り返しを撮ってしまうこの時代においてそれを1ショットも撮らずショットを撮り続けようとするコルム・バレードというアイルランドの監督はどこから来たのか。

■ピント送り

①序盤、コットが黄色い車で家を出るとき、洗濯物の横に立っている手前のコットの下半身にピントが当てられ奥はぼやけているが、その後、奥の車のところにやって来て荷物を車のトランクに入れている父親と、姉妹たちを大声で呼んでいる母親たちにピント送りされない。

②キッチンでコットが二度目のジャガイモの皮を剝いているとき、後ろに立っているショーンにピント送りされない。その後ショーンはコットの机の上にビスケットを置いて出て行く。

③母親の出産を知らされたコットが「関係ない」と答える時、奥に立っているショーンが「やめなさい」と諭してもショーンにピント送りされない。

④実家へ帰る朝、食卓でショーンが「味は悪くない」といった後、大きく切り返されて手前のコットと奥の流しで振り向きショーンを見るアイリンとが縦の構図に収められるが奥のアイリンにピント送りされない。

これらは通常の映画なら、特に2020年に差し掛かった映画の場合、多くはピント送りされる状況でありながら頑なにピント送りを拒んでいる。

★①の場合、奥の人物たちがアクション(車に荷物を入れる、大声で人を呼ぶ)をしている。

★③の場合、奥のショーンが「やめなさい」という言葉を発する言葉のみでアクションなし。

★④の場合、奥のアイリンは意味ありげに振り向き、テーブルの夫ショーンの方を見るというアクションをしている。

★②の場合、奥のショーンは何かをカップで飲んでいるだけでアクションはしていない。

これらの縦の構図はすべて意図的に作られ、意図的に手前の人物にピントが当てられ奥の人物がぼかされている。こういう場合、奥の人物たちが物語的に意味のある運動を始めれば通常の場合、ほぼ100%奥の人物にピント送りされる。①における「車に荷物を入れる」という動作、④の「振り向く」という動作がそれである。これは運動(アクション)の最中にピント送りされるのでアクションつなぎ(カッティング・イン・アクション)の一種でありここではアクション送り、としておく。これはヒッチコック、ホークス、のみならず一般的に見られる方法であり、アクションの最中にピント送りすることでピント送りという機械の方法を露呈させない方法である。①④においては動作の最中にピント送りすることは有りうるにもかかわらずここではピント送りはされていない。これに対して②は、奥での動作が「お茶を飲む」という物語的な運動からは逸脱した無意味な運動でありさらに動作が小さくかつスローであり、ヒッチコックもホークスもこういう状況ではピント送りはしない。③は奥の人物の体の動作ではなく「やめなさい」という言葉のアクションがなされているがこれは会話という言語活動によってピント送りがなされていることからダイアローグ送りとする。このピント送りもヒッチコック等はしない。以上をまとめると①④のピント送りは多くの者たちがやるが③はやらず②は絶対にしない、ということになる。ただ、現時点の監督たちは②どころか何もないところでピント送りをする者が極めて多い。

★ゴダール「勝手にしやがれ(A BOUT DE SOUFFLE)(1959/1960.3.16)

22分過ぎ、車の助手席に乗っているジーン・セバーグのショットが「つなぎ」を無視したジャンプ・カットによって編集されている。連続した時間をいきなりカットするジャンプ・カットは時間を断絶させるので暴力的でありそれを和らげ時間の断絶を感じさせないように時間を重複させてつなげるカッティング・イン・アクションが考案される。するとゴダールはアクションつなぎ(カッティング・イン・アクション)を否定してジャンプ・カットを撮ったのだからピント送りにおいてもアクション送りを否定してダイアローグ送りをするのはゴダール的な「革新的な」方法となるかというとそうはならない。ジャンプ・カットはショットに機械の痕跡が現れないがダイアローグ送りには運動の不在によってショットに機械の痕跡があられもなく露呈する。人間ではなく機械が切り返す、それがダイアローグ送りである。映画はこれからはAIが撮ることになるというのならダイアローグ送りもいいだろう。むしろ相応しい方法である。しかし、もし仮に、映画は人間が撮ることであるならば、ダイアローグ送りは決してしてはならない。コルム・バレードは意図的に縦の構図を幾つも作りピント送りの状況を作っておきながら一度もピント送りをしない。ダイアローグを起点としてピント送りをすることはショットを会話に従属させ画面を物語の因果の過程に埋没させることにもなる。キャメラを揺らして撮ることも同じでキャメラを揺らせば画面が消えるので残るのは物語しかなくなる。

■黒いポスト

中盤、ショーンに怒られたコットが手を洗いに行こうと階段を走ってゆくと、階段の段差の部分のみに光が当てられていてそこへコットが駆け上がってくる。最初に階段が撮られそこへコットが駆け上がってくる。その後、街に買い物に行って車を駐車するときそこにある駐車場に車があとから入ったてくる。多くの映画はこういう撮り方をしない。やってきた車が駐車場に入る、という撮り方をする。車の中の後部座席のコットに一瞬当たる真っ赤な朝日はそれが当たる時間と場所が先にありそれに合わせて車が走りコットがしゃべっている。郵便受けから手紙を取り出す時、キャメラを黒いポストから動かそうとはしない。これらは場所が優先されているのではない。コットがそこにいて手で触れ足で踏んだ地面、見たこと、聞こえた音、その場所、空間、時間が「そのこと」として撮られている。コットがその場所にやってきたのではなくコットがやって来るためにその場所がある。場所が人間の物語に従属せずに人との関係を築いてゆく。ひたすら因果関係を逆転させることでコットが「そのひと」として現れてくる。この作品はショットを撮ることの悦びと不思議さに満たされている。

★門

『君は足が長い』とショーンに言われたコットが去ってゆく夫婦の車を走って追いかけてゆくと、細い一本道で車を止めて門を閉めようとしているショーンが見えてくる。農家から離れた場所にあるあの門は、まるでムルナウ「都会の女(CITY GIRL)(1930.1.30)の農家の門が、人を締め出す境界ではなく人が馬車から降りて立ち止まるための門であったように、車を止めて門を閉めているショーンはそこにいるために門を閉めている。だからこそあの小さな門は逆因果関係の力を得て思い出の場所として露呈し続けている。Sight and Soundの投票で「2001年宇宙の旅」(1968)とともに「ミツバチのささやき」(1973)に一票を投じたとされるこのアイルランドのコルム・バレードの創作が、今後キューブリックへと流れてゆくか、エリセに留まり続けるか、。