映画論文藤村隆史「心理的ほんとうらしさと映画史」
2023年5月3日再提出 この論文は2007年3月16日に「第一部」と「第二部」に分けて出されたものをひとつにまとめたものである。言葉遣いや言い回しの点で
現在の私は使わないような表現も使われているものの、今回はそれらを加筆、修正することなく極力2007年に提出したそのままの状態で出すことにする。
★映画とは何か。
映画は映画のルールで考えなくてはならない。それが今回の映画研究塾の論文のテーマ「心理的ほんとうらしさと映画史」の大きな主題である。
一般の映画雑誌なり、映画番組なりを見たり聴いたりしていただけでは、ほとんど現れることのないこの聴きなれない「心理的ほんとうらしさ」という言葉。だがこの言葉こそが、そしてこの選択こそが、映画史を決定づける、重要な要素を占めてきたのである。
★「心理的ほんとうらしさ」とは何か
では「心理的ほんとうらしさ」とは何だろう。ここでまずその定義を簡単にしてみたい。「心理的に本当らしい映画」とは「事件の具体的現実性と人物の心理的真実性を本当らしく見せるために、本当らしい心理的(内的側面)演技、演出に力が注がれる映画」を言う。
端的に言えば、映画の中に出て来る人物の行動なり出来事の展開が、それらしい因果関係ないし動機に基づいている映画、を言う。
例えば「女が男を殺した」という映画の場面を仮定して想像してみよう。ここにはまず「女が男を殺す」という行動(出来事)がある。その行動は、省略されない限り、紛れもなくスクリーン上に視覚的に我々の前に現前する。だがそれだけでは女が男を殺したという行動の動機が分からない。動機とは目には見えない不可視のものであり、可視的な行動からだけでは判らないものだからである。この不可視の動機を我々映画の観客に分かり易く理解させるために、映画の製作者たちは脚本や役者の表情、演出等様々な方法によってそれを「心理的にほんとうらしく」提示しようとする。それが「心理的ほんとうらしさ」にほかならない。
「心理的ほんとうらしさ」とは我々観客に映画の作中人物の行動や出来事の動機を分かり易く説明してくれるところの歴史上の映画技法なり映画言説である。ここまでを読んでみて殆どの映画ファンの方は、あら、「心理的ほんとうらしさ」とは、親切でよろしいじゃないでしょうか、、とお考えになることだろう。そしてそのように「心理的ほんとうらしさ」と友好的な関係にあるところの我々が通常、映画を連想するとき、映画の物語とは多かれ少なかれ「心理的ほんとうらしさ」によって色づけされた物語のことであるといって良いだろう。
★物語と「心理的ほんとうらしさ」との関係
そこでまず、物語とは何か、について大まかに考察してみたい。
ジャン=リュック・ゴダールは「物語を語る」とは、
「通常は、発端と前置きがあって、ついで中間の部分と結末が来るような物語のこと」(「ゴダール・映画史Ⅰ100」)と語りまた「映画記号論入門166」には、物語とは「二つ以上の出来事を詳述したものであり、それらの出来事は論理的に結びつき、時間の経過の中で起こり、一貫した主題によって全体へまとめられている」と書かれている。実は物語という言葉は多種多様な意味で使われており、言葉としても物語、プロット、ストーリー、など、色々あってややこしい。以下では物語とプロットに分けて考察してみたい。
● A物語(ストーリー)
まず物語という言葉がある。物語とは散文的なものであり、芸術的に構成される前の、物語の素材や基本的アウトラインであり、そこでは、出来事が、実生活で起こる順序であらわれる(「映画記号論入門」169)」ものであると記されている。これは、私が常日頃「出来事」と呼んでいるものとおそらく同義であろう。ここでは事件は連続して起こり、出来事の時間的順序によってそれが現れる順序が決まる。これこれが起き「そして」これこれが起きた。というものである。
●Bプロット
これに対してプロット、という言葉がある。
これは「因果的、時間経過的な出来事の順序を芸術的に構成した、ないしはデフォルメしたもの(「映画記号論入門」69)であり、これこれが起き「だから」これこれが起きた、というように、物語のいきさつが、原因と結果によって前進するものである。我々が考える時の「物語」とは、通常このプロットの意味であるといって良いだろう。脚本家や監督などの手により抽象化され、並べ替えられた時間や出来事であり、我々が映画を見た時に「あらすじ」として感じられる物語がこのプロットである。
ジャン=リュック・ゴダールの「私はいつも物語を語ろうとしてきた。映画の面白さは物語にこそあるから。しかし映画を作って7,8年してから、私は物語を語るすべを知らないことに気づいた(「映画史Ⅱ」294)」、、における「物語」とはプロットに近い意味で使われていると推測される。
●「心理的ほんとうらしさ」と物語論との関係
「心理的ほんとうらしさ」は、基本的にはBのプロットに関わってくる。論理や動機に支配され、人の手によって構成されたプロット。この動機、論理の部分が「心理的ほんとうらしさ」に他ならない。同時にこの「心理的ほんとうらしさ」論は、映画におけるAの意味での剥き出しの物語をより重要視する立場であるといえるだろう。だが「心理的ほんとうらしさ」論は、プロットそのものを否定する態度でもない。そもそも映画とは視点に基づく抽象化作用である以上、100%構成を排した映画というものはまず考えられないし、100%動機を欠く行動というものもまたないのであって「心理的ほんとうらしさ」論とは、それらの程度の問題だということが出来る。だが程度の問題といってもそれは確固として在り、紛れもなく存在するところの重大な差異である。但し物語なりプロットなりといった言葉は、あらゆる意味において使われているのが実情であり、従ってこの論文ではそれらすべてをまとめて「物語」と呼称し、その物語が 「心理的ほんとうらしさ」に支配されていることの問題点に絞って議論を進めて行きたい。
★何故、映画は「心理的ほんとうらしさ」を取り入れたのか
「心理的ほんとうらしさ」に基づく物語の歴史とは、ハリウッドの歴史そのものだとも言えるだろう。ハリウッド映画の物語の最大の特徴は、何と言っても判り易いことである。この「判り易い」というのは「心理的にほんとうらしい」ということと殆ど同義の意味であると解して良い。そこでは人物の行動や出来事の動機、理由といったものが、実に判り易く我々に提示されている。我々はハリウッド映画の人物たちの心理をたどり、彼等と自分とを同一化する。「スター崇拝の基本的特徴は同一化である」(「スター」107)というエドガール・モランの言葉通り、我々は「心理的ほんとうらしさ」の助けを得ることで、映画の物語をスターと共に体験して行けるのである。それまで世界では、未だトップの座をイタリア、フランスなどヨーロッパ映画大国に譲っていたハリウッドが第一次大戦を契機に世界最大の「夢の工場」として君臨し続けることが出来たのは、この「心理的ほんとうらしさ」に基づく判り易い物語を世界に発信したことが非常に大きな要因となっている。
ここにダニエル・アリホンというウルグアイ人によって書かれた「映画の文法」という映画入門書がある。そこにはこう書かれている。
「動きはすべて動機付けるか、動機付けられるように見えなければならない。これは劇場の観客の前でさえ、映画のセットのカメラの前であれ、舞台の上演のための古くからある鉄則である。動くための最も自然な理由は対話自体にある。動きが感情の結果であると、もっとも効果的になる(「映画の文法」652)」、、、
これは、この本がハリウッドの古典的な文法に拠って書かれていることを指し示している。ここでは映画における人物の行動の動機、つまり「心理的ほんとうらしさ」が重要視され、同時にそれは演劇から来る法則に多分に依拠した法則であることが書かれている。
★「心理的ほんとうらしさ」は映画の本質から導き出された語りの法則なのか
だが映画は演劇という、まったく違ったメディアの法則の適用をそのまま受け容れなければならないものだろうか。どうして我々はハリウッドが作り上げた「心理的ほんとうらしさ」に基づく物語の法則にそのまま従う必要があるのだろうか
青山真治は「心理的ほんとうらしさ」について語っている。
「映画が商業との結託を余儀なくされ続ける限り「本当らしさ」に属することが当然のように義務付けられるのです。それが「商業」の求める言葉の世界の「わかりやすさ」に直結するからです(「われ映画を発見せり」47)」
同じくエドガール・モランは語っている。
「語りのシステムとして映画はシナリオやコンテや筋立てと言った内的構築の効果によって、当然のように論理的で指示的な文字通りの説話(ディスクール)となったのである」(「映画・あるいは想像上の人間」
どうもこの「心理的ほんとうらしさ」という語りの法則は「映画とは何か」という観点から考え出されたものではないらしい。
映画にはもう一つの歴史がある。
それは、映画を他分野、他芸術に従属させるような思考ではなく、純粋に「映画とは何か」から解きほぐそうと思考し続けた人々の歴史である。それは「心理的ほんとうらしさ」は映画の敵である、とした人々の戦いの映画史でもある。
今回の論文では、ひとまず私の個人的な意見は注釈程度に軽く止め、その「もう一つの歴史」を徹底的に引用しながらここに紹介してみたい。テレビ、新聞、そして映画専門誌などでは決して見ることの出来ないもう一つの映画史を、みなさんは経験することになるだろう。少々引用が長くなるが、それにはそれだけの意味があり、知っておいて損はない。
★物語と「心理的ほんとうらしさ」に関する歴史的考察
ここではまず、物語論との関連での「心理的ほんとうらしさ」についての歴史的な発言にしばし耳を傾けてみたい。
ジャン・ルノワールは語る、
「芸術的均衡は、物語のうえの均衡でなければならないという考え方にはどうしても納得がいかない」(「作家主義」78)。
これは何を意味するのか。
さらにジャン・ルノワールは語る。
「心理主義的なもったいぶった大作よりも、B級映画のほうが好きだ(「夜想8」120
アンリ・ラングロウと共にヌーベルヴァーグの父として有名な批評家アンドレ・バザンは
「ルノワールの映画は配役が本当らしくない。人物は心理的本当らしさや自分の性格に依拠したりして行動しているのではない。観念から現実でなく、現実から観念を抽出する、それがリアリズムである(「ジャン・ルノワール」129) 」と語り、
山田宏一は「ルノワールは、そのときどきの俳優たち(つまり生身の人間)の心や身振りの方を、シナリオに書かれた観念的な、あるいはむしろ心理的なドラマよりも大事にした。人間は悲しい時には涙を流すといったような心理的なパターンをまったく無視して、撮影中の俳優たちが、そのときの気分でつい笑ってしまったら、それがあるがままの自然な表情や動きをいきいきとキャメラにおさめようとした(「友よ映画よ、わがヌーベルヴァーグ誌」268)」ことを紹介している。
ジャン・ルノワールの「ゲームの規則」(1939)を是非見てみよう。このめくるめく恋模様に、明確な動機など何処にもありはしない。
場所をフランスからイタリアに移してみよう。
フェデリコ・フェリーニの「青春群像」についてアンドレ・バザンは
「彼らは《心理》と呼ぶように決められているものを、我々に明らかにしようとはしない。フェリーニの主人公は一つの《性格》でなく、彼は一つの存在の仕方、一つの生き方であり、それ故、演出家は、彼のそっくり全部を、その振る舞いによって、すなわち、彼の歩き方、服の着方、髪の毛や口髭の刈り方、彼の黒眼鏡などによって明確にすることが出来る(「映画とは何かⅢ」201)」と評しており、
ロベルト・ロッセリーニは「私は主題の論理的継続を嫌悪する。物語(筋)の継続には有効であっても、決定的ではないシーンを撮るのはこの上も無く耐え難い」(「現代のシネマ10」36)」と痛切に告白している。
●少しまとめる
ここまでに使われた言葉の数々をまとめてみたい。
「物語の上での均衡」「心理」「心理主義的な」「心理的なドラマ」「主題の論理的継続」「物語(筋)の継続」」、、、こういった言葉が「心理的ほんとうらしさ」とほぼ同じ意味において使われており、アンドレ・バザンにおいては「心理的ほんとうらしさ」という言葉そのものを使っている。
ジャン・ルノワールにせよ、ロベルト・ロッセリーニせよ、これ等の映画作家たちは、心理とか物語という言葉を否定的に解しているのがまず判るであろう。
彼らは物語を判りやすく、論理的に、乃至は因果的に語ることを嫌悪し、批評家のアンドレ・バザンや山田宏一は、そうした点こそが素晴らしいと評価しているのである。
何故、物語を語らないことが素晴らしいのだろう。殆どの映画ファンの方は、ここで引っかかるはずだ。
引用を続けたい。
●さらなる引用
ジャン=リュック・ゴダールは語っている。
「仮に映画が、語りの芸術に過ぎないとするならば、行動の動機が重要となる。しかし映画は物にそそがれる各瞬間ごとの新しい視線のことであり、したがって映画は、物に働きかけるというよりはむしろ物を刺し貫き、物の中にあって抽象化されることを待ち続けているものを捕獲することである」(「ゴダール全発言Ⅰ」123)」。
ここでゴダールが挙げた「行動の動機」という言葉もまた「心理的ほんとうらしさ」と同じ意味で使われている。
さらにゴダールの尊敬する溝口健二についてフィリップ・ドゥモンサブロンは
「個々人のわずかな身振りが人間と言うものを考えさせるならば、心理的描写に意味はない」(「現代のシネマ4・溝口健二」185)と、心理描写よりも人間描写の重要性を説き、実際に溝口健二の「山椒大夫」の撮影現場では、溝口健二が「心理的描写」を悉く省略して演出をしていたことが外村完二によって詳細に書かれている(「溝口健二集成」123)」。
さらに映画学者、ダドリー・アンドリューは、「山椒大夫」は、近代小説の煩わしい心理主義とは無縁の民話的スタイルから立ち現われている(「映画監督・溝口健二」301)と語っている。
溝口健二自身も「雨月物語」の脚本制作過程における脚本家、依田義賢への手紙の中で、「説明会話を入れるな」(「溝口健二の人と芸術」233、234)と、何度も書きつけている。「説明会話」とは、行動の動機を言葉で説明してしまうところの会話のことである。
「市民ケーン」の監督、オーソン・ウェルズは「総合的な筋立てを持った映画の文学的シナリオを拒絶し」(「現代のシネマ⑨・オーソン・ウェルズ」31」)「感傷的なブルジョアの論理が大嫌い」(「作家主義3」50)であったとされている。
彼らはしきりに心理との距離を強調している。
●多くなるのでここからは箇条書き形式で続けよう。
ジャン・コクトー
「映画は何かを立証すべきだと人々は言い張り、メッセージを求める。しかし、もっともささいなエピソードや、もっともささいな筋書きが、ずっと多くの事を立証している(「シネマトグラフをめぐる対話」143)」。
アルフレッド・ヒッチコック
『「らしさ」なんてものには興味がない。それは無駄な時間を作るだけだ』(「映画術」86)
「ストーリーの辻褄を合わせることばかり考えて、らしさなどにこだわる批評家というのは想像力を欠いた鈍感なやつである(「映画術」88)」
フランソワ・トリュフォー
「ストーリーなんて語らないことがルビッチ、ヒッチコックの鉄則である(「映画の夢・夢の批評」136)」
「批評家はストーリーの構成を分析しながら見るクセがあるので、論理的な分析に耐えられない構成をあっさり映画そのものの弱さとみなしてしまいがちである(「映画術」86)」(フランソワ・トリュフォーと言えば、その歴史的論文「フランス映画のある種の傾向」において、フランス映画の「良質の伝統」に基づく「脚本家の映画」を心理的リアリズムとして否定し、フランス映画の墓堀人として恐れられたことは余りにも有名である(「シネ・ブラボー3」9)。
四方田犬彦
「風景の中に人物が点景として登場したとき、そこでは単に心理の表象を超えた、脱中心的な映像の魅惑が跳梁し、画面は匿名的な官能性に包まれる(「人それを映画と呼ぶ」289)
蓮實重彦
「物語という圧制(「シネマの記憶装置」83)」
「荒唐無稽の出鱈目さと積極的に戯れること、それが唯一の倫理的姿勢というものである(「シネマの記憶装置」121)」
以上はあくまでもほんの一部にすぎない。
●何故「心理的ほんとうらしさ」は映画の敵なのか
いよいよ論文は主題へと近付いてくる。
ここで彼らは何故こうまでも「心理的ほんとうらしい」物語に敵対し、それを排除しようとしているのだろうか。その理由について、ここに非常に分かり易く書かれた塩田明彦の文章があるので是非ご覧頂きたい。
「本来複雑怪奇な人物の内面が、いわゆる心理と言う言葉に置き換えられたとき、つまり作家がいわゆる心理主義的な人物の把握をする時、その心理はしばしば登場人物の行動を「AゆえにBである」的な論理に閉じ込め、その行動を規制する。なおかつ行動を理屈の中に閉じ込めることで、人物からその人格的特性たるキャラクターを奪う。その結果、作者は無意識的に「この人間の心理」ではなく「人間なるものの心理」を追求しはじめる。シナリオはいつしか個別的な具体性を見失い、登場人物たちの行動、あるいはその行動の描写によって生み出されるはずの映画的な「出来事性」のようなものを無意識的に排除してしまう。そして映画全体がいつしか「人間なるものの心理」といった、ある観念のごときもののひたすらな「説明」と化してしまったりもする。人は映画を「出来事」の「体験」としてではなく、「意味」の「講釈」として見ることを面白いと思うのだろうか。そのとき言葉に対して映画が誇りうる力とはなんなのか。映画は観客をただ納得させるために作るのではない。映画はむしろ観客を驚かせ、不意打ちを食らわせ、発見の喜びを与え、可能ならばなにかしらの行動へと駆り立てるために存在しているのだ(「映画の授業」51)
塩田は非常に分かりやすい言葉でもって「心理的ほんとうらしさ」を過剰に推し進めることが、いかにして映画を殺すかを説いてくれている。
そもそも映画は何故に起承転結の因果に強く結ばれた心理的な物語を語る必要があるのだろう。我々の生活は、そのように単純明快な論理に支配されているのだろうか。人間の豊かさとは何か。人間の豊かさとは、そのような窮屈な論理の中に押し込められるものだろうか。
「心理的ほんとうらしさ」、、、少なくともそれは「映画とは何か」を考える前に既に出来上がり、商業的に確立されてしまった法則であって、我々がこの映画観に従うべき理由は何処にも無い。我々は映画の観点から「映画とは何か」を推し進めるべきである。
★さて、ここからが問題
「心理的ほんとうらしさ」とは、人々が「映画とは何か」を思考する前に、多分に商業上の要請でもって作り出された物語の語り方であると書いた。それに対して我々は、当然ながら映画的な物語を独自に思考すべきだとも書いた。ここがまず、議論の大きな出発点である。
何故、映画は映画のルールで思考してもらえないのだろう。
●部分社会の法理
学校には学校のルールがある。宗教法人には宗教法人の、野球界には野球界の、相撲界には相撲界のルールがある。そこに一般市民法秩序を、つまり、外部の法規をそのまま適用してしまったとしたらどうだろう。
例えば学校や相撲界に頭髪の自由なり服装の自由を、野球界のドラフト制度に職業選択の自由を、そういった、世間一般のルールをそのままあらゆる組織に適用したとしたらどうだろう。
組織は混乱し、崩壊してしまうだろう。学校は教育作用を失い、私立学校なら校風を失い、宗教法人は信教の自由を侵されてしまう。
それぞれの世界には、一般社会とは違った、そのそれぞれの世界を成立たせているところの本質なり趣旨なり目的なりといったものが存在するからである。
だからこそ、団体には団体特有の規則が認められる。それが「部分社会の法理」というものであり、憲法上の判例によって、団体には、団体特有の規則による一定の自治権が認められている。
当然ながら芸術も例外ではない。音楽は音楽のルールで、絵画には絵画の、そして小説は小説のルールを適用されることで、芸術たる地位を確保してきた。それこそがまさに、自らの携わっている分野を守り愛することである。
●さて、われ等が映画はどうだろう。
映画は映画のルールで思考され、扱われてきただろうか。
「心理的ほんとうらしさ」に基づく物語の構成が、映画の本質から導き出されたものだと、そう言えるだろうか。映画のルールを適用することで必然的に生まれた法則だと、そう言えるだろうか。
「心理的ほんとうらしさ」は多分にハリウッドの商業的な理屈によって適用されたに語りの法則に過ぎず、映画そのものの本質に立ち返って考えられたルールではない。
映画には映画のルールを適用すべきである。
少なくとも我々は映画にはまず映画のルールをと立ち上がるべきだ。
それでは映画のルールとは何か。映画とは何か
★映画とは何か
この大胆な問いに答えることが出来るのならばそもそも当サイトは存在しない。ひとまずここでは、過去における映画についての彼らの言説を箇条書き的に紹介し、映画と「心理的ほんとうらさし」との関係のイメージをそれなりに思い浮かべてみたい
映画を初めて第七芸術と呼んだフランスの理論家カニュードは
「映画は動く造形芸術であり、時間と空間の芸術である」と宣言し(「映画の美学」10)、映画を、心理主義に基づく演劇に結び付けることの危険性を早くから説いている。
フランスの女性作家ジュルメーヌ・デュラックは、
「運動は映画の魂であり、劇やテーマに従属させてはならない」(「映画の美学」14)と説き、彼女は「文学的伝統というものに従属しているあらゆる叙述的、心理学的、劇的な要素を拒んでいる」とアンリ・アジェルは評価している(「映画の美学16」)。
フランス初の映画美学者エリー・フオールは
「映画は動く建築物である」と語り
さらにエドガール・モランは
「運動は映画のマナである」(映画160) と宣言している。
フランスで開花したアバンギャルド映画の根本には、こうした運動本位の映画観がある。
それと同じような意味合いで、批評家ベラ・バラージュは
「映画とは精神が肉体化した表面芸術である。身振りで言葉を代用させるのではなく、言葉(概念)では決して明らかに成しえぬ物である。精神は直接肉体となり、言葉を発しなくなり、可視的になる」(「視覚的人間」、35、28)
「映画は視覚的芸術であり、純粋に視覚的な価値が、映画の最上の価値のひとつである(「映画の精神」81)」と言っている。
ジルベール・コアン・セアは、
「フィルム的事実は、色々な形態を型どる技術=造形と、それを時間、空間に一度に展開する技術=運動とを結び付ける(フィルモロジー221)」と語っているし
喜劇王、マック・セネットは端的に、
「喜劇は言葉でなく動きにある。動きこそ映画のすべて」(「ザナック」76)と説く。
キーストン・コップに代表されるマック・セネットと、彼のスカウトしたロスコー・アーバックル、そしてアーバックルによってスカウトされたバスター・キートンというセネット派の中心が、言わずと知れた「運動」であったことはいうまでもない。
蓮實重彦は、「活劇とは映画そのものの運動であって、運動の映画ではない(「シネマの記憶装置」201)」と述べている。
さらにアンドレ・バザンは語る。
「映画とは(或いはリアリズムとは)模写ではなく複製であり、記号(映画)と対象(自然)とが実態的に繋がったものである。内的なものと外的なもの、精神的なものと肉体的なもの、観念的なものと物質的なものとは分かち難く結びついていて、映画は前者が後者(フィルム)の上に生々しく露呈するものである。意味するのではなく露呈する。対象は生の現実の断片であり、その意味は精神が関係付けを行う生の諸事実によって、後験的に現れ出てくるものに過ぎない」(「映画における記号と意味」、156)
●少しまとめる
運動、露呈、肉体、可視的、視覚的、断片、活劇、、、こうして彼等が使った言葉をもう一度頭の中でイメージしてみよう。
それらは「心理的ほんとうらしさ」から来る意味的なものからは悉く距離を保ち、逆に動くこと、体験、露呈すること、そしてそれらがもたらす驚きという、触覚的なものとして共通に使われていることが分かるはずだ。
「映画とは精神ではなく肉体に働きかけるものだ」と(「シネマの記憶装置」22)蓮實重彦が言うように映画とは活劇であり、意味論的な本当らしさではなく、画面そのものが放つ生々しさの露呈を驚きとしてそのまま受け止めることなのだ。
「心理的ほんとうらしさ」とは、一つ一つの運動に、理由なり動機なりを強く求めるところの態度である。運動を動機や因果でがんじがらめに固定する。それが「心理的ほんとうらしさ」の最大の問題点である。
★ボードレール
ボードレールは言っている「不規則性=予期しないもの、不意を打たれるもの、驚きが美の本質的な部分であり、特質なのである」(「ボードレールの親密な日記」)。
●映画は芸術か?
視覚的メディアである映画の物語論において「心理的ほんとうらしさ」を追い求める態度はこのボードレールが言う芸術の本質論における不規則性、不意、驚き、といったことへの体験と正反対の態度としてある。行動や出来事すべての理由や動機が判っているという「心理的にほんとうらしい」状態と、驚く、という不知の状態とを比べてみよう。
●納得する
映画ファンも、映画批評家も、その大部分が納得、という基準で映画を見てはいないだろうか。ここは非常に大切な部分なので、私を含めて、大いに自問し、考えてみるべき問題である。
仮に映画の良し悪しを、この「納得する」という基準へと求めた時、納得して映画館を出て来た者は、それまでの自分から少しも進歩することはないだろう。納得の基準とは、たかだかそれまでの自分との辻褄合わせに過ぎないからだ。
納得ができたという状態は、自分と同じことであり、自分のレベルであることの確認であり、それは決して自分以上の何かを体験し驚いた、という感覚ではない。
まず始めに自分があり、その自分に映画を合わせようとする。従って納得という心情は驚くことと対極にあり、安心すること、確認すること、に他ならない。
我々は、モーツァルトを「確認する」のだろうか。
ボードレールの前述の言葉を借りるならば、映画の良し悪しの基準を納得に求める態度は、芸術を鑑賞しようとする人間の態度からは離れている。納得とは、芸術とは対極にあるものを、何かしら蔑みながら吟味する鑑賞態度ということになりかねない。
最近出て来た作品には、「エターナル・サンシャイン」に代表されるような、極端に強い論理に支配された辻褄合わせの傾向に支配された作品が多くなってきている。時系列を操作し、それを解体してからもう一度パズルのように再編成して、難解さを醸し出す。
こういった作品群では、目の前にある出来事そのものの驚きよりも、出来事の組み合わせの驚きが重視される。映画ファンは、食い入るように画面を論理的に「読み」ながら、物語を納得しようと、左脳をフル回転させている。
では画面はどうなのだろうか。視覚的メディアである映画の画面は驚きに満ちているのだろうか。
仮に我々が、こうした映画の論理的部分のみに驚いたとするならば、それは映画本来の驚きではない。何故ならば、仮にそれが映画的驚きならば、わざわざ映画を撮る必要はないからだ。原作の小説なり、脚本を読んだだけで、同様の驚きが得られるだろう。
このような、不可視の部分を驚きとして売り物にする作品は、非常に高い確率において、画面がつまらない。すべてではないが、多くの場合、視覚的才能を欠いている。数学的才能なり、小説的才能はあるのかも知れない。だが、映画的才能がない。そもそも視覚的部分で勝負をしようとしていないのだから、映画的才能があるのかどうかさえ、不明である。
映画ファンが納得というものに映画鑑賞の基準を置く限りにおいて、需要は供給を呼び、これからも、映画ファンを納得させることに重きを置いた凡庸な作品が、製作され続ける危険がある。
納得するために映画を見る、という心境は、映画を自分よりも下位のものとして位置づけている。腕組みをしながら映画を審査しているような態度である。
逆に、驚くという体験は、打ちのめされることであり、それは映画を自分よりも上位のものとして接する態度である。だからこそ、尊敬し愛することができ、そして守ろうとする。
私は、現在の映画状況は、殆ど贔屓の引き倒し状態だと思っている。傷つくのは映画なのか自分なのか。映画ファンは、自分が傷つきたくないことの代償を、映画へと転化している。
●納得と「心理的ほんとうらしさ」との関係
映画に「心理的ほんとうらしさ」を過度に求める態度は、この「納得したい」という欲求から来るものではないだろうか。人物の行動に動機を求める「心理的ほんとうらしさ」に基づく映画作りは、映画を見る者を納得させるための手法である。
その時点で我々は、映画を蔑んでいるのではないだろうか。
それと同時に「心理的ほんとうらしさ」とは、心理の説明であり、映画という視覚的メディアにおいて、目に見えない「心理的ほんとうらしさ」を過度に推し進めることは、視覚的メディアである映画を「見ること」から「読むこと」へと堕落させる、極めて危険なものと成りうるのである。
蓮實重彦は言う。
「心理的な損得勘定が最後に合ってしまった映画はくだらない(要約)」(「映画狂人語る」195)
映画は20世紀最大の発見と言われてから久しい。
戦意高揚映画や、湾岸戦争のテレビ映像に代表されるように、映像とは簡単に操作可能な危険なメディアでもあり、今ほど我々は、映像を「見ること」を問いかけられている時代はない。
こうした時代において、未だなお、多くの人々が映像を「読む」呪縛から解き放たれていない。その点については後述するが、私を含めて「読むこと」の誘惑にいかにして対処してゆくのか、これは非常に大きな問題である。
さて、映画を「見ること」とは何か、へと入る前に、さらにここでは、心理的演技と心理的クローズアップについて論ずることにしたい。
★役者の心理的演技
「心理的ほんとうらしさ」論は全般的な物語の語り方、ないし脚本論以外にも、役者の演技、そして撮影方法その他諸々の場面に如実に現われてくる。上述の作家たちの言説も、実際には役者論、撮影方法、クローズアップ論など様々なコードと密接にかかわっているのであって、我々は常に総合的な感覚から「心理的ほんとうらしさ」について感じてゆくべきである。敢えてここでは演技、クローズアップを別の項目として考察してみたい。
●舞台の演技と映画の演技
まず「心理的ほんとうらしい演技」について考察する。
「心理的ほんとうらしい演技」とは、心理を説明するような演技を言う。
初期の映画の俳優はほとんどが舞台俳優であり
「初期の映画は、俳優は、言葉を奪われていたので、身振り言語で自分を表現した。しかし1915~1920年のころから次第に身体は身振りすることをやめ、顔は動かなくなる。言葉がなかったにもかかわらず、俳優の演技が演劇的でなくなったのは、映画技術の発達のため。そしてトーキーが止めを刺す」(「スター」127)」、とエドガール・モランが書いているように、映画俳優は映画初期においては演劇特有の大袈裟な身振り手振りで演技をし、登場人物の心理を説明していたのである。
アンドレ・バザンはその点について
「演劇に由来する古典的演劇観では、演技は何かしらを、一つの感情なり、情念なり、欲望なり、観念なりを表現する。彼は、自分の態度と、身振り、表情の表現術によって、観客たちに、自分の顔の上にちょうど開かれた本におけるように何かを読み取ることを可能にさせる。同じ心理的な原因が同じ肉体的な結果を引き起こすということが観客と俳優との間で暗黙のうちに了解されている。これこそ演技=遊戯と呼ばれるもの。演出の様々な構成要素(背景、照明、カメラアングル、画面構成とは、ここから生じ、俳優の行動に似て多かれ少なかれ表現主義的になる)(「映画とは何かⅢ」106)と書いている。
演劇の演技とは、内面の心理状態をそのまま外面の表情、そして身振り、手振りで表現するものである、と、大きくはそう言えるであろう。演劇はそのほとんどが「ロングショット」であり、映画のようにモンタージュもクローズアップもマイクも存在しないのだから、声も身振りも大きくなるのは当然の流れといえる。
●なぜ「心理的ほんとうらしい演技」は否定さるべきか
それは前述の塩田の文章に書かれているように、映画がその本来的な運動ではなく、観念の説明へと流れてしまう危険を有しているからである。
ジャン=リュック・ゴダールは語る
「登場人物の心理なるものをでっちあげてしまうたぐいの俳優がすべき本質的な仕事は、自分を適応させ直すということだ(「ゴダール全発言Ⅱ」122)」。
さらにこの問題をより深く、映画の本質的な側面から考えてゆきたい。そのひとつがモジューヒンである。
●クレショフの実験とモジューヒン
レフ・クレショフは、ロシアの国立映画学校の教師であり、エイゼンシュテインを教えたこともある舞台装置家出身の映画監督でもある。彼は、あるモンタージュの実験をしたことで歴史的人物となった。
それは、初期の映画の中から選び出した「モジューヒン」という役者の無表情な顔のクローズアップを、①スープが入っている皿、②死体、③裸の女を写したフィルムの断片、とそれぞれつなげ、それを何も知らない観客の前で上映して見せたところ、観客は一人の例外もなく、モジューヒンが①では飢え、②では苦悩、③では欲望という感情の継起を見事に表現したという感想を語ったのである。
このクレショフの実験で観客が示したのは論理的条件反射ともいうべきものであって、観客はモジューヒンの無表情の顔のクローズアップと次の画面との前後関係によって、二つの画面の意味を「心理的にほんとうらしく」意味づけてしまったのである。
ここで重要なのは、観客は役者の「心理的にほんとうらしい演技」が無くともモンタージュという画面の連鎖そのもので既に画面を「心理的にほんとうらしく」意味づけをしてしまっているという事実である。
●モンタージュと「心理的ほんとうらしさ」
クリスチャン・メッツは
「写真は一枚では決して物語を語らないが、二枚になると語り始める。二つの映像が相次いで現れるや、人間の(作家と観客)の精神の力は、どうしても一本の糸をそこに認めざるを得なくなるようだ(「映画理論集成」225、226)」と書いている。
ここに言う糸こそがモンタージュにおける「心理的ほんとうらしさ」論ではないだろうか。
モジューヒンのクローズアップと次のショットとのモンタージュによって我々は1プラス1を3や4に、勝手に意味づけて解釈してしまうのである。
「モンタージュは意味の抽象的な創造者である(「映画とは何かⅡ」162)」
「モンタージュとは種々の映像が客観的には含んでいない一つの意味、ただそれらの映像相互の関係からのみ生じてくる一つの意味の創造である(「映画とは何かⅡ」179)とアンドレ・バザンが語るのもおそらくは同じような趣旨だろう。
●クレショフの実験の問題点
ジャン・ミトリはクレショフの実験の問題点を挙げている。
このモンタージュによって観客が受け取ったものは概念なりイメージ化された観念という不可視の意味に過ぎず、視覚的なものではないとして、エイゼンシュテインの「感情」から「概念」へと連鎖するモンタージュと対比させながら、クレショフの実験の観客が受け取った意味をして反映画的なものである、と警鐘を鳴らしている(「映画理論集成」206以下)。
ここでジャン・ミトリが書いていることは、この「心理的ほんとうらしさ」論と同趣旨であるだろう。
クレショフのモンタージュはただ映画を「読ませる」だけの凡庸な画面の連鎖であり、観客が得たものは意味、概念、という不可視のものに過ぎず、決して画面に視覚的に驚きに打ちのめされたわけではない。
●心理的演技が何故問題なのか。
このように、クレショフの実験はモンタージュという画面の連鎖がその本質的特長の一つとして画面を読む危険を孕んでいることを指し示した。我々は画面が連鎖したとき、二つの画面を「心理的ほんとうらしく」意味づけて「読んで」しまう傾向があるのである。
こうしてただでさえ映画のモンタージュ(画面の連鎖)は我々観客をして物語を意味のあるように(ほんとうらしく)読み取らせる危険を孕んでいるところに加えて、俳優までもが内面の心理を外面に押し出すならば、どうなるだろう。
映画の画面は心理で埋め尽くされてしまう。
それが何故問題かと言えば、心理とは不可視のもの、目に見えないもの、だからであり、映画という可視的なメディアの画面が不可視のもので埋め尽くされてしまう、それは取りも直さず映画を「読む」習慣を促進し映画を「見る」態度を後退させてしまう危険に満ちているからである。
「心理的ほんとうらしさ」という不可視のものを映画の画面に持ち込もうとする態度は映画をして「読ませよう」という態度に他ならない。
●右脳から左脳へ
「物語が支配すると、場である映像は背後に消えてしまう(「映画理論集成」225)」とクリスチャン・メッツが書いているように、「心理的ほんとうらしさ」なり納得なり論理なりという左脳的作業を映画というメディアに求め過ぎてゆくならば、映画はどんどんとその本来的な視覚的なもの、体験的なものという右脳的なメディア性質を失わせてゆき、観念的、論理的、言語的という、左脳的なメディアへと変容させられてしまう危険がある。
否、実際には、危険という言葉では少々弱い。
既にほとんどの映画批評家、映画ファンがこうした「左脳で映画を読む」という状況に巻き込まれている。
エドガール・モランは語る。
「クレショフの実験が指し示すように、与えられたシチュエーションと、そのシチュエーションの諸要素(品物や装置)は、俳優よりも大きな役割を演じ、俳優の代わりに表現しうる。演劇では俳優がシチュエーションを照らすのに対して、映画ではシチュエーションが俳優を照らすのである。演劇では装置は場所を示し、暗示するにとどまるのに対し、映画では人物の顔の中に入って来る(「スター」131)」
「映画は誇張を打ち壊し、俳優の演技を非演劇化し、痩せ衰えさせる。それは映画が断片的なカットで構成され、かつその演技は自動的なものだから(「スター」129)」
これ等はまさに映画という装置そのものが俳優の心理的な演技を本質的に拒絶するという性質を持っていることを意味している。
ところが映画史には演技派、という言葉が存在し、心理的なオーバーアクトで映画をグロテスクに壊してしまう演劇的俳優たちが名優として扱われてきた歴史がある。
●「心理的な演技」とは、具体的にどういう演技なのか
まずは大女優、リリアン・ギッシュの言葉をお聞き頂きたい。
「顔をゆがめないで表情を作りなさい。しかめ面をしないでしかめる表情を出すのです」(「リリアン・ギッシュ自伝」120)。
「大袈裟な身振りやしかめ面は、舞台にこそ似合っても、カメラが間近にそれを捉えるときには見苦しいまでに過剰な演技となってしまう」(「リリアン・ギッシュ自伝」201)。
しかめ面、、大袈裟な身振り、、こうしたものが「心理的ほんとうらしい演技」として挙げられている。
溝口健二「芸道一代男」に出演した中村雁治郎は、溝口健二に再三「目で芝居している。果ては、まだ、目の玉が芝居しているといわれた」と、目で演技することを厳しく咎められている(「溝口健二の人と芸術119」)。
目で芝居をする、とはどういうことだろう。
例えばアルフレッド・ヒッチコックは、「引き裂かれたカーテン」でのポール・ニューマンの演技について
「ポール・ニューマンは何も表現しない中性のまなざしで見る演技をいやがった(「ヒッチコック・トリュフォー映画術」321)」と語り、否定的に捉えている。
また、ラオール・ウォルシュは、何故ロバート・ライアンがスターになれなかったかの質問に「ロバート・ライアンの視線は透明ではないからだ (「映画狂人シネマ辞典」61)」という言葉を使って答えている。
透明ではない、とは、意味が在りすぎる、ということである。
目で芝居をする、とは、目の動き、まばたき、などによって、内心(心理)を説明してしまうことをいう。
テレビドラマを見ていると、良くまばたきをしたり、眼球を右へ左へキョロキョロ動かして、内面の動揺などの心の動きを表現したがる役者が多い。これが典型的な心理的演技であって、画面の小さなテレビでならまだしも、これを映画館の大スクリーンでやってしまうと、まさに「心理的ほんとうらしい演技」となってしまう。しかめ面も同様である。内面の心理を顔を歪めて表現するあらゆる大袈裟な演技は、しかめ面、として映画的映画史においては徹底的に排除されてきたのである。
「名優は、自分は何かを見ていると観客に納得させなければ気がすまない。しかしそれは映画では大したことではないのだ(「映画狂人シネマ辞典」62)」と蓮實重彦が語る趣旨もここからそう遠くはないところにある。同様に蓮實重彦は「なんにもやらなくても忘れられない顔というのがあり、それがいわゆる演劇的な演技と映画との違いである(「季刊リュミエール⑥」74)」と述べている。
これ等の言説はすべて、俳優という人種が心理的なものを表面に表して演技せずにはいられないことを如実に示している。
「スターは考えるものではなく、人を考えさせるものだ。にも拘らず資本はスターを考える人として演じさせている」(「ゴダール全発言Ⅱ」159)。ジャン=リュック・ゴダールはそう言いながら、あのアンナ・カリーナについては「アンナ・カリーナは人物の心理を追うような演技をしない(映画史Ⅰ)171」と語っている。
我々がゴダールの数々の作品のアンナ・カリーナに対して不思議な感情を抱くのは、アンナ・カリーナの演技が心理主義の常識的パターンから大きく離れ、悲しい時に泣くでもなく、可笑しい時に笑うでもなく、何を考えているのか判らない、不思議な魅力に大きく起因している。
ポール・ニューマン同様、アクターズ・スタジオ出身のマーロン・ブランド、ジェームズ・ディーンなどの演技は、そのすべてとは言わないが、極めて心理主義的な要素から成り立っており、テレビや雑誌での彼等への賞賛ぶりとは打って変わって、もう一つの映画史においては、彼等の評判はあまり良くはない。
ハワード・ホークスは
「大芝居をするな、自然に演じろ」(「季刊リュミエール⑧44、「ハワード・ホークス映画を語る」122」と語り、さらに「私の作った映画で大袈裟に振舞う者はいない。但し、エリア・カザンが、昔の叫び声や恐ろしい日々にまた引き戻し始めた(「ハワード・ホークス映画を語る」56)」と怒っている。
エリア・カザンはアクターズ・スタジオの創立者の一人である。
小林桂樹は、監督の成瀬巳喜男に「いかにも」「さも」「オーバー」な演技はだめと言われたと回想しているし(「東京人2005.10」144)、「サンライズ」のF・W・ムルナウは端的に「演技するな、考えろ」(「スター」141)と言っている。
アンドレ・バザンは、ロベルト・ロッセリーニの俳優論についてこう語っている。
「ロッセルリーニは彼の俳優たちに演技をさせず、また彼らにある何らかの感情を表現させようともせず、ただ、彼らをある種のやり方でカメラの前にいるようにと強いるだけである。このような演出法においては、登場人物たちのそれぞれの位置、彼らの歩き方、背景の中の彼らの移動、彼らの仕草などが、彼らの顔付の上に表現される感情や、さらには彼らのしゃべる言葉などよりも、ずっと重要なのである。それに、どのような感情が、イングリッド・バーグマンを明確に《表現する》ことが出来るというのだろうか。彼女のドラマは、あらゆる心理的語彙をはるかに越えている。彼女の顔付は、あらゆる性質の苦悩の痕跡に過ぎない(「映画とは何かⅢ」137)」
小津安二郎の映画の中に出て来る人物は、ぶっきらぼうにセリフをしゃべっている。それは、演技における心理主義からの回避と決して無関係ではないはずである。
北野武の作品の俳優の演技にしても、奇形的といえるくらい役者たちのしゃべり方は心理を無視していることがはっきりと判るだろう。
こういった、内面を外に出さない演技をして、よく下手糞な演技、などと揶揄されることがある。だが、仮に巷で言われているところの上手な演技、などというものを映画でされたら最後、大きな映画のスクリーンは「心理的ほんとうらしさ」によって窒息してしまうだろう。
ほとんどの映画は「しかめ面のコンクール(「作家主義」471)」であり、「俳優とは演技することを決してやめない連中である (「作家主義」468)」ロベール・ブレッソン
★心理的クローズアップ
このように、内面を外へと露呈させてしまう心理的演技は、映画を不可視の動機や論理に縛り付けてしまう危険に満ちている。
そしてこの心理的演技という演技論と機軸を同じくする議論として心理的クローズアップ、という言葉が良く出て来る。
これは基本的には、上述の、演技論から見た「心理的ほんとうらしさ」論を、撮影論の観点から言い直したものであって、大筋では心理的演技で書いたことがここでも妥当するが、ここにはさらにクローズアップという、モンタージュと並んで映画特有の発見と言うべき大きな論点が絡んで来るので、敢えて別に論じてみたい。
●心理的クローズアップとは何か
心理的クローズアップとは心理的演技を顔のクローズアップで撮るということである。では何故、この心理的クローズアップが心理的演技とは別に問題になるのだろうか。
先ほど私は『ただでさえ映画のモンタージュは我々観客をして物語を論理的に読み取らせるようにできているところに加えて、俳優までもが内面の心理を外面に押し出すならば、映画の画面は「心理」で埋め尽くされてしまう』、、、と書いた。
そこへ加えて大きなスクリーンで大きな顔のクローズアップが心理的に作用した時、最早映画館のスクリーンは心理のお花畑と化してしまうのだ!
これではまるで、映画館で画面が消え、その代わりに出て来た字幕だけを観客が一斉朗読しているような状態と大差ない。
蓮實重彦は、映画には「心理の顔と画面の顔(「シネマの記憶装置」260)」があると言い、端的に「心理的説明を誇張するクローズアップは映画を堕落させた(「映画狂人シネマ辞典」9)」と結論している。
クローズアップこそ映画最大の発見であり、それを芸術のレベルへと解き放ったのはD・W・グリフィスである。ベラ・バラージュもジャン=リュック・ゴダールも、蓮實重彦も、みんなクローズアップが大好きである。
だが同時に
「クローズアップを撮ることほどたやすい事はない」ロベルト・ロッセリーニ(「作家主義」125)
「クローズアップに構図は関係ない。フレームだけだ」ヴィルモス・ジグモンド(「マスターオブライト」355)
「女優のクローズアップというものは、どこにライトを置くかさえ知っていれば簡単」フィリップ・ラスロップ(「季刊リュミエール②」93)
という言葉も忘れてはならない。
現代映画においてクローズアップは、安易な逃避としての地位を獲得しつつある。その中で、まさに安易な映画にはこの心理的クローズアップが何度も挿入される。簡単なクローズアップで手っ取り早く心理的ほんとうらしい物語を感傷的に語ってしまえば、観客は泣くだろうという、映画的には何の才能もない露骨な泣かせ映画が巷を席捲している事実は、某映画雑誌のベストテンを見れば一目で判ることである。
●意外にも具体例をジョン・フォードで
ちなみに黒沢清は、「ジョン・フォードの映画には説明的なアップはひとつもない(「黒沢清の映画術」107)、と語っている。ここにいう「説明的なアップ」というのが「心理的クローズアップ」のことである。
だが意外にも、ジョン・フォードの映画にも、「心理的クローズアップ」がある。
黒沢清の師、蓮實重彦は「リオ・グランデの砦」で、クロード・ジャーマン・ジュニアがフレッド・ケネディと殴り合いをした翌朝の窓辺のジョン・ウェインのクローズアップを「心理的クローズアップ」として否定的に捉えている(「文学界2005年3月号」140」。
是非そのシーンを見て、みなさんも心理的クローズアップなり心理的演技とはどういうものなのかを瞳に焼き付けておくことをお勧めしたい。ジョン・フォードですらこうしたショットを入れてしまう事があるのだ。ただしこのショットは一般的な「心理的クローズアップ」に比べると随分と穏やかなそれとして撮られていて、むしろ「怒りの葡萄」(1940) で家族が農場を捨てて車で西部へと旅立とうというとき、身の回りのものを燃やして処分している母ジェーン・ダーウェルがイヤリングをつけた自分の姿を鏡で見ているシーンを撮ったクローズアップこそ「心理的クローズアップ」の典型としてある(23年5月3日追記)。
★我々はどうしたら良いのか
巷の映画は「心理的ほんとうらしさ」によって埋め尽くされている。こうして「心理的ほんとうらしさ」に支配された映像を「読まされる」ことに慣らされてしまった我々は、果たしてどうすれば良いのだろうか。恨んでばかりいても始まらない。我々は何をすべきかを真剣に考えるべきなのである。
★「心理的本当らしさ」とは対極のもの、それは何か、、
では、映画を「心理的ほんとうらしさ」から解放ち映画本来の運動と自由を画面に取り戻すために我々は何をすべきなのか。そもそも「心理的ほんとうらしさ」と対極にあるものとはいったい何だろう。
「心理的ほんとうらしさ」とは、映画のシーンとシーン、シークエンスとシークエンス、演技と演技とが、数珠繋ぎに連鎖した、論理の鎖のようなものである。
だとすれば、その鎖を引きちぎり、一つ一つの出来事を自由へと解き放つ何かが「心理的ほんとうらしさ」とは対極にあるものとなる。動機や論理に縛られることなく、ひたすら自由運動の中に自らを投げ出すことの出来る豊かさ、、
●断片、出来事性
ジャン・ルノワールは「河」を撮っている時、
「純粋に詩的で、物語の展開に関係のない幾つかの断片を、敢えて解き放つことが可能なのだ、ということが少しずつ判ってきた(夜想8・122)」と述べている。ここでジャン・ルノワールは「断片」という言葉を使っている。
そのジャン・ルノワールを評してゴダールは
「ルノワールが映画の中で起こるはずの出来事の案を練るのは、それらをよりよくつなぎ合わせようとするからではない。事実、彼は情念が伝染してゆく様子などよりも、情念の荒々しさの方に心を配っている(「ゴダール全発言」125)」と語っている。
「つなぎ合わせようとするからではない」、つまり断片に解き放つことだ。
同じようにジャン=リュック・ゴダールは
「アメリカの西部劇ではよく、だれかがよくわからないところからやってきて酒場の扉を押し、ついでラストでは、どこかえ姿をくらまします。それだけのことで、そこに描かれているのはその人物の断片に過ぎないのですが、でも不思議なことに、その断片は、人々にある物語の全体を生きたと思わせるものをもっています」と語り、続けて「そこにアメリカの連中の力があるのです。ほかの連中にはそうしたことはできません。ほかの連中の場合は、発端と前置きがあって、ついで中間の部分と結末がくるような物語を語ることを強制されます。私はそのことについていつも窮屈な思いをさせられてきました。私にはどうしても、それができないのです」と語り、さらに「西部劇が作られる場合は、そこではとりわけ心理は描かれない(「ゴダール全発言」584)」とも語っている。
西部劇の持つ活劇としての力が、その断片性にあることを、私は論文「西部劇とガンマン」で書いた(後日投稿するかは未定)。
ここでそれをもう一度判り易くまとめると、
西部劇においてガンマンは、どこからともなくやって来て、どこへともなく去って行く。ガンマンとは、その過去と未来を説明する事を猶予された存在ゆえに、ひたすら映画は、ガンマンの現在のみを思い切り描けば良い。西部劇というジャンルは先天的に、過去から現在を経て未来へと続く時間の中の断片であるところの現在のみの描写に集中できるジャンルなのである。
これを「心理的ほんとうらしく」するとこうなる。
男が町にやって来る。「私は何処そこからこういう理由で来ました」と町の人々に説明する。回想が入り、人物の過去と現在とが関連を持ち始める。こうすれば映画そのものが「心理的ほんとうらしく」なる。さらに男は将来の夢を語る。映画はさらに「心理的ほんとうらしく」なる。男の過去、未来が我々に提示され、それによって男の現在の行動の理由が判り易くなる。男の行動に我々は動機を発見し、我々は男の行動に納得する。こうして映画は「心理的ほんとうらしさ」を得るのである。だが、その代償として映画は説明調になり、言語的になり、運動が減殺されて行く。最近の、二時間を越える西部劇の多くは非常に分かり易い反面、最早「西部劇」ではない。、
このような「心理的ほんとうらしさ」へと陥る危険を西部劇というジャンルは、その本質的特長において排除することができる。そうした意味で西部劇とは、極めて映画的な、そして使い勝手の良いジャンルであったのである。
断片性については「心理的ほんとうらしさ」と対を成した極めて重要なテーマなのでさらに引用を重ねて行きたい。
●ハワード・ホークスについて
私はここでハワード・ホークスについて語るべきだ。ハワード・ホークスはハリウッドの大監督でありながら、つまり「心理的ほんとうらしさ」の鎖の中で映画を撮っていながら、ハワード・ホークスほど断片としての挿話の豊かさを映画全体の豊かさへ導くことのできる監督はいないのだから。
ハワード・ホークスは
「物語と言うものは、個々のエピソードほど重要ではない (「ハワード・ホークス映画を語る270)」と、断片の重要性を説きながら、
さらに映画とは「良いシーンが5つあり、観客を苛つかせなければ良い(「ハワード・ホークス映画を語る」61)と語り、実際に「三つ数えろ」を撮っている時には「物語を説明するのはやめよう。良いシーンだけを撮ろうとした(「ハワード・ホークス映画を語る」202)と告白しているし、さらに登場人物が「どうしてその行動をとるかなど知らない」(「ハワード・ホークス映画を語る」279)とすら語っている。
そもそも「三つ数えろ」の場合、原作者のレイモンド・チャンドラーですら、誰が運転手を殺したのか分からない、という、神話的不可解さを秘めた物語であることは、断片の作家としてのハワード・ホークスの存在を際立たせている。
●豊かゆえにカットされる
ここでハワード・ホークスの口から出たところの「個々のエピソード」、「良いシーン」とは、これもまた断片と同義であり、例えば「リオ・ブラボー」でのディーン・マーティンとリッキー・ネルソン、ウォルター・ブレナンによるギターとハーモニカのジャム・セッションを想起すれば良いだろう。
あのシーンは、「心理的ほんとうらしさ」と言う点からはカットされてもおかしくないシーンであるが、しかし、仮にあのシーンがカットされていたとしたら、と想像してみよう。
だが、現実に映画史においてはこういうことが起こっている。
山田宏一は『1971年の「ハタリ!」のリバイバル公開では、ジャム・セッションのシーンがカットされていた(「季刊リュミエール⑧」18)と、信じられない事実が実際に起こったことを回顧している。あのエルサ・マルティネッリがピアノを弾きレッド・バトンズがハーモニカで応えた夢のように美しいシーンがカットされていたというのである。
「ハタリ!」でプロデューサーなり主催者なりは、何故そのジャム・セッションのシーンをカットしたのだろう。いや、カットできると思ったのだろう。それは、このジャム・セッションのシーンが極めて断片的な挿話であり従ってカットしても「心理的ほんとうらしさ」を損ねることはなく映画の物語に支障を来たさないと考えたからである。
ハワード・ホークスは、プロデューサーがいつも持ってくるカットするシーンのリストを見ると、「そうか、私は残しておくもののリストかと思った」(「ハワード・ホークス映画を語る」62)」と語っていることが見事にそれを指し示しているが、映画を物語にとって必要なものだけを残して行く、というプロデューサーの編集方針によって、どれだけの素晴らしい断片が葬り去られたことだろう。
●アルフレッド・ヒッチコック
ハワード・ホークス同様に、ヌーベルヴァーグの「ヒッチコック・ホークス主義」によって神格化された映画の神様、アルフレッド・ヒッチコックもまたハリウッドの大監督でありながら「心理的ほんとうらしさ」から自由であり続けたスーパーヒーローである。
アルフレッド・ヒッチコックはまずもって
「わたしはケーキの断片を映画に撮る(「映画術」89)」のだと語っている。アルフレッド・ヒッチコックの映画の断片は、ケーキのように美味な断片である、ということをヒッチコックは誇示しているのだが、同時にヒッチコックは『「39夜」はひとつひとつのシーンの中身が充実していて、それだけで一本の小さな映画になりうるような、そんな心づもりで脚本を書いた(「映画術」82)』と語り、ここでも断片性についての意識を述べている。
このハワード・ホークス、アルフレッド・ヒッチコックの二人を「ヒッチコック・ホークス主義」として、ヌーベルヴァーグの決定的武器として戦いを興したフランソワ・トリュフォーは、
『「あこがれ」(1958)は、リアルな、それらしいつなぎよりも、カットそのものの映画的インパクトを大事にした』(「フランソワ・トリュフォー映画読本」25)と述べている。この言葉もまた「つなぎ」という、次のショットとの関連性を考える前に、断片としてのショットのインパクトを重視した、という意味であるだろう。
さらに「スリ」「ラルジャン」のロベール・ブレッソンはジャン=リュック・ゴダールのインタビューに答え、「ぼくは、あちこちをとびとびに書きながら、いくつかの言葉を並べるということはできる。だが帯状に続く長く続くものを書くことはできない。連続性をもっておこなうということはできないんだ(以上要約)」と答えている(「作家主義」454)」。
こうした発言の数々を考えるとき、そこには共通して視覚的メディアを不可視のメディアの規則に合わせて描くことの馬鹿馬鹿しさが吐露されているように見えてならない。視覚メディアであるところの映画の断片が断片としての自由を規制され「心理的ほんとうらしさ」という不可視の論理によって理路整然としたプロットへと判り易く繋がれてしまうことで映画そのものが死んでしまうのだ。
そこで彼らは幾つかの切れ端、断片を、まず断片そのものとして、美しく解き放とうとしている。この点について彼らの意見は決定的に統一されている。映画は断片の集積に過ぎないという彼らの発想が、彼らの映画をして瑞々しい運動へと解き放っている。映画独自の映画にしか味わえない映画的瞬間を我々に体験させてくれるのである。
●シャイアン
ここにジョン・フォードの「シャイアン」という作品がある。この映画のダッジ・シティのシークエンスを見てみよう。私はかつて、これほど豊かでバカバカしいシークエンスを見たことがない。
大切なのは、断片性の中へと自らを解き放つに任せることそれ自体を映画的な豊かさとして実感することなのだ。
●テレビ
だからこそ我々は今、断片という豊かさへと悠然と身を任すことのできる作り手を求めている。そうした時に何もその鍛錬の場は映画のみに限られない。
ジャン=リュック・ゴダールは、テレビの利点として、
「テレビでは断片が受け入れられる」(「ゴダール・映画史Ⅰ」101)」ことを何度も述べている。
テレビの多くは基本的に続きものであって、アニメであってもドラマであっても、全~回と続くなかで、毎週なり毎日なりに分割して放映されている。従ってテレビの一回一回は起承転結の強い因果に支配された「心理的にほんとうらしい物語」を語ることよりも、断片的出来事の描写力が問われるという側面を有している。
●宮崎駿
ここに宮崎駿というアニメ作家がいる。彼は今でこそ長編映画の監督としての地位を獲得しているが、それ以前にはテレビアニメの続き物を数多く手がけていることでも有名である。そんな宮崎駿の作品を見た時に私は宮崎駿のテレビ作家としての性質、つまり断片性が、その後の長編映画へと受け継がれているように感じられるのである。
「となりのトトロ」を見てみよう。
この映画は明らかに幾つかのエピソードが順不同に羅列されている。引越し、トトロとの出会い、バス停、迷子、など、、、それぞれのエピソードは、限りなく他のエピソードから独立し、心理的ほんとうらしさ」の連鎖の鎖から見事に解き放たれ躍動している。
「魔女の宅急便」もそうではないだろうか。
ここでもいくつかのエピソードが、何回かの「おつかい」という断片に羅列されているだけで、それぞれのエピソードがお互いに論理的な必要関係にはないものが多い。魔法のホウキで飛べなくなってしまうことも、飛べないことはそれ自体ではなく、娘の思春期と成長という寓意によって美しく包まれている。
「紅の豚」もまた断片性に満ち溢れている。我々がこの「紅の豚」で思い出すのは、喧嘩のシーン、飛行の爽快さ、誘拐された子供たちの無邪気なはしゃぎっぷり、といった出来事、断片であって、決して「心理的ほんとうらしさ」に支配された行動の動機の鎖ではない。
例えば中盤、娘が砂浜から海へと駆け出し、泳ぐシーンがある。
これはあくまで私の感覚だが、ここのシークエンスはおそらく、ここの、「娘が泳ぐ」という運動(断片)から逆算して書かれている。宮崎駿は、娘が泳いでいる姿を描きたくて、このシークエンスを考えたに違いないのだ。娘が空族たちに果敢に抗議する。ほてる。脱ぐ。走る。泳ぐ。という一連の連鎖はすべて「泳ぐ」という出来事へと向けられているのである。ここに「心理的ほんとうらしさ」はない。娘がほてったのは心理ではなく感情なり運動の結果である。
これ等、特に宮崎駿初期の長編映画は幾つかの並行的エピソードの断片が集積したものに過ぎず、一つ二つのエピソードがカットされたところで物語の辻褄が合わなくなる危険は少なく映画は成立してしまう。ハワード・ホークスと同じである。この頃の宮崎駿の長編映画は長編映画でありながらテレビアニメ「全20話」の中の、2、3話だけを集めて映画にしたような感じである。
「魔女の宅急便」で我々が見落としてならないのは、宮崎駿が感傷的なシーンを排除している点である。現在の感傷的志向に支配されたプロデューサーなら絶対に挿入するであろうところの、娘が修行を終え、街を出て行く時のお別れのシーンがスッポリ省略されている。これは、何というか、無理矢理削除している。宮崎駿は本来的に断片作家であり、出来事作家であり、決して心理作家でも感傷作家でもない。
その宮崎駿は「もののけ姫」「千と千鶴の神隠し」「ハウルの動く城」と、次第に進化を遂げている。ここは深くそれを論ずる場ではないが少なくともそれまでの『テレビアニメ「全20話」の、2、3話だけを集めて映画にしたような映画』から長編映画の一本そのものがより大きな断片の集積へと変化し、さらに「心理的ほんとうらしさ」から遠ざかってきている。断片性がより全体の中で溶け始めている。
★「もののけ姫」
「もののけ姫」は美しい。
終盤、サンとアシタカがシシガミの首を二人で天にかざして持ち上げたシーンの弾けるようなエモーションにはひたすら打ちのめされるばかりだ。
「もののけ姫」は、いのちと共存の物語、なのかもしれない。あらゆる自然の中に、風、水、土、空、雲の中にいのちが宿っている。それを抱くのは森。そこにあらゆる利害を持った人間たちが入って来て森を奪い合う。そうした不信感の連なりの中で、サンとアシタカが、二人でシシガミの首を天にかざして持ち上げる。
あの重たいシシガミの首を、サンとアシタカは二人で重たそうに、二人の力で持ち上げた。人間を憎んでいる娘がここで初めて人間と共同作業をしたのである。
不信を抱いていた人間同士が、ふとしたきっかけで共同して労働をした時、何かが変わる、、
この映画は、そういう映画であってはならないのだろうか。映画の感動と言うものはこうした寓意であってはならないのだろうか。ましてやその寓意とは視覚的寓意である。あそこで宮崎駿は、明らかに、それと判るように、「共同して働く」という行為をことさら視覚的に際立たせて描いている。そしてそこには、イノシシも犬も精霊たちもいない。あの重い首を持ち上げた二人は他ならぬ人間たちなのだ。宮崎駿は人間を信頼している。これが視覚的感動というものではないだろうか。「もののけ姫」は動物や自然や神々の映画である。だがそれは寓意に過ぎない。「もののけ姫」は人間たちの映画である。嫌いな人間と嫌われた人間の二人が、ある状況に追い込まれた時、力を合わせて何かをすると、何かが変わる。こうしたテーマは、あらゆる普遍を貫いてまさに現代の世界そのものを突き刺している。
「心理的ほんとうらしさと映画史」の趣旨もまたここにある。
宮崎駿には、まず最初に「敵対する二人の人間で一つの何かを持ち上げる」というシーンが頭の中にイメージされていた。「紅の豚」の泳ぐシーンと同じように、エモーショナルな断片がまず最初に宮崎駿のイメージの中にあり、そこから少しずつその断片に何かを付け加えてゆく。宮崎駿という作家の思考回路とは概ねそういう感じなのだ。二人で何かを持ち上げたい。従って、持ち上げる対象となるイシガミの首を切り落とす、そういう思考の流れである。
まず始めに断片ありき、彼を貫くこの哲学の根本は何のことはない、「良いシーンが5つあり、観客を苛つかせなければそれで良い」という、ハワード・ホークスの哲学と、何ら異なることはない。ただ、それまでの『テレビアニメ「全20話」の、2、3話だけを集めて映画にした』ところの断片のように、分かり易い断片ではなく、それらがさらに視覚的に断片化を進めて行き運動そのものへと発展を遂げているのだ。
「日本におけるハワード・ホークス評価の信じ難い低さは、難解さを通俗性ととり違える錯覚によるものである」と蓮實重彦は怒り狂う(「シネマの記憶装置」31)。
「難解さ」とは「心理的ほんとうらしさ」からの距離感であり、それは豊かさに通ずる何かである。それをして我々は難解だ、と否定してはならない。
宮崎駿は豊かさを求めている。それにつれ「心理的ほんとうらしさ」から遠ざかる。宮崎駿は次第に受け容れられにくくなって行くだろう。「心理的ほんとうらしさ」から遠ざかる彼を、その一点をもって擁護する批評家はいないのだろうか。作家を守るとは何か。
●擁護する
今、我々は、何を擁護するのだろう。擁護すべきものとは何か。今ほどこの基準が問われている時代はないと私は感じている。
私の基準は簡単である。
「心理的ほんとうらしさ」に接近する作家を否定し「心理的ほんとうらしさ」から遠ざかってゆく作家を擁護する。
●テレビの可能性
「テレビ作家」、宮崎駿について、色々と考えてみた。
テレビを体験するということは断片性を得るという特権であり、素晴らしい体験をする可能性にも繋がっている。要はその人の心の持ちようであって、はっきり言って今のテレビはひどい状態だが、しかしテレビから出て来た作家たちを、ただそれだけで否定してはならないことを宮崎駿が語りかけてくる。
●断片性を描くとは何か。
以上、映画の断片性、出来事性について書いた。
断片性こそが映画を心理の鎖から解き放ち運動へと解放する豊かさの証である。
だが、この断片をそれ自体で豊かに描くことの出来る事、それには人間、自然、事物、あらゆるものに対する映画的観察力が必要となる。映画的才能とは、一つ一つの断片を豊かに、そして丹念に描ける才能に他ならない。
★見ること
「心理的ほんとうらしさ」の対極にあるものとして断片を考えた。だが我々は、その断片を、しっかりと見ているだろうか。「もののけ姫」の、二人の共同作業をしかと瞳に焼付けただろうか。いかに映画が断片性を獲得し、豊かな物語を語っていたとしても、その断片を見ていなければ、そして感じなければ、我々は作品の価値を見失い、結局のところ、納得という「心理的ほんとうらしさ」による不可視のつじつま合わせへと逆戻りすることになる。それを回避するために我々は、まず何をおいても、映像を「見ること」しかない。
だが、一口に映画を見ると言っても、実際、映像を見る、ということは、みなさんが思っているほど簡単なことではない。もちろん、私にとっても同様である。
「物語が支配すると、場である映像は背後に消えてしまう(「映画理論集成」225)」とクリスチャン・メッツが語るように、我々は、映画の不可視の物語をイメージし始めると、我々の頭の中からは、画面そのものが消えてしまうのである。
●ジャン=リュック・ゴダール
「見ること」の困難さについて、これまで執拗に訴え続けて来た人が、言わずと知れたジャン=リュック・ゴダールである。
私はゴダールを取り立てて贔屓するわけでもなかったし、誰かに脅迫されて「ゴダール教」などになったつもりは今でもない。だが、「画面を見る」という大切なことについて、私なりに突き詰めて行った時に、それについてちゃんと考え、述べ、書き続けてきた人は、批評家、作家含めてゴダールと蓮實重彦くらいしかいない。結果として、この二人の引用が多くなることはご了承願いたい。
以下は、ジャン=リュック・ゴダールの「見ること」に関する言説の一部である。
「人々は読んでばかりいることで目をだめにしている(「ゴダール全発言Ⅱ」214)」
「人々は「見ること」に関心を持とうとしない(「ゴダール全発言Ⅱ」236)」
「時代が目で見ることのできるものを撃退している(「ゴダール全発言Ⅱ」240)」
「人々は自分の目を、見ることではなく読むことに使っている。人々は今に見ることができなくなるだろう(「映画史Ⅱ」326)」
「人がまず最初に見るものは二番目に来るもの(テクスト)であり、映像ではない。映像は最初にやって来てはいるが、いつも代弁されてしまい、目に見えないものとなったり、融けた原子のようなものになってしまう(「ゴダール全発言Ⅱ」392)」
蓮實重彦
蓮實重彦が、立教大学で生徒の黒沢清等に教えた当時の授業方法が
「見えるものについてしか語らない」ことであったのは最早伝説ですらある(「黒沢清の映画術」26」。
人々は見てもいないものについて語りたがる。そして結論を下したがる。もちろんそこで下せる結論など、たかだか好きだ、嫌いだくらいのものでしかない。現在の映画批評の地点はこの程度のものである。
そこでゴダールは、とあるアメリカの、科学的批評など存在しないという批評家との対談において反論をした。
「法廷でも通用する証拠を出してくれ。あなたに気に入られるかどうかは、私にとってどうでもよいことなのだから」(「ゴダール全発言」Ⅱ366」)。
映画はたかだか100年少しの歴史しかない。その中で人々は、見てもいないものについて、うんざりするほど数多くの結論を下し続けてきた。そうした中で、ゴダールにしても、蓮實重彦にしても、映画は視覚的メディアなのだから、まずは見てからであるという、極めて倫理的な単純労働者の態度でもって、愚鈍なまでに「見たこと」に拘り、映画と向き合っているに過ぎない。
「伝統映画には言表行為の痕跡を隠す傾向がある。その目的は、見る者に自分自身がその主体であるという印象を持たせるためである(「映画記号論入門」348)」、
この言説は、おそらくカッティングや編集論などを踏まえたものだと思われるが、どこを取ってもハリウッド的物語映画というものは本来的に「画面を隠す」という傾向と無縁ではない。だからこそ現在は「見ること」に意識的でなければならない。
●あらすじ的思考
映画を「見ること」ではなく「読むこと」を助長するものとして、あらすじがある。猫も杓子も、プロもアマも、映画界すべてがこのあらすじ病に侵されている。
映画をあらすじにする、とはどういうことなのか。私の書いた文章で恐縮だが、以前私が「二番館」のジャン=リュック・ゴダール「アルファヴィル」の短評で書いた「あらすじ」の話が意外と判り易いのでここで自己引用させて頂きたい。
『ゴダールの「アクション」というものは、ヒッチコック同様、アクションの結果を求めてはいない。逃げる者はひたすら「逃げる」という純粋運動を志向するだけで決して「逃げ切ろう」とはしておらず、追いかける者はひたすら「追いかける」という純粋運動にのみ徹しているだけで、決して「捕まえよう」とはしていない。
「追いかける」という行為は「捕まえる」ことで「物語」となり、「論理」となる。「逃げる」という行為は「逃げ切る」ことで「物語」となり「論理」となる。可視的運動のメディアである映画が「不可視のあらすじ」へと近づいてゆく。
仮に「逃げた」あと「捕まった」という現象が映画の中にあったとしよう。ここで我々がその現象を「あらすじ」に書くとする。すると大部分の者は「逃げました」とは書かないだろう。「捕まりました」と書くはずだ。仮に「逃げました」と書いたとしても、そのあと絶対に「でも捕まりました」が書き加えられる。それが「あらすじ」というもので、そこでは「捕まりました」とだけ書かれる事は有り得ても「逃げました」とだけ書かれる事は絶対にない。だが映画の可視的な運動とその美しさは限りなく「逃げ(てい)る」行為にあるのであり「捕まる」という結果には甚だ希薄だ。にも拘わらず「捕まえました」という結果を重視する「あらすじ」的思考は、限り無く映画を「見ること」という行為から遠ざかる危険をはらんでいる。映画は「見ること」によって言語的鎖から解き放たれ「逃げている」という運動がそのこととして現前するのである。
ヒッチコック映画で、人が人を刺すシーンを見てみよう。決して「殺す」という結果に向けられた効率的な刺し方をしていない。それよりも「刺しています。今、刺しています」という感じで、我々に親切に「刺している」という行為を指し示しながら刺している。結果という物語よりも過程という運動を見せている。最近の映画は逆にプロの警官、プロの殺し屋に接近している。だが彼等にとって大切なことは「殺す」という結果であって、殺し方ではない。リアルなるものが必ずしも映画と親和的ではないことを、我々はもう一度考えるべきだろう。
ゴダールの映画は、決して安易に結論などに到達しない。それは決して難解なことではないのだと思う』。、、、、(2022年・一部書き足す)。
以上である。
映画をあらすじ化するというこの性癖は、まさに「心理的にほんとうらしい部分だけ」を抽出化するという、愚にもつかない行為になりかねないのであって、それがいかに危険な行為か、ここで改めて書く必要もないだろう。あらすじを書くことが絶対にだめだとは言わない。あらすじも映画の物語(プロット)の中の立派な一部であることは認めよう。だが現代映画批評に見られる過度のあらすじ偏重主義は、間違いなく映画の豊かさを抹殺している。映画とは本来的にあらすじに適したメディアではなく、既に述べたように断片的な表現にこそ適したメディアなのである。
ジャン=リュック・ゴダール
「我々は、筋立てを、その展開の意外さを通して捉えようとするよりも、その展開を説明するものとしてとらえようとしてあくせくしている(「ゴダール全発言Ⅰ」125)」
アンドレ・バザン
「ドラマは、人々が様々の出来事から一つのあらすじとして引き離すことの出来る《プロット》の中にはもはや存在せず、それは、出来事それ自体に内在している(「映画とは何かⅢ」159
★役者の演技を心理的演技にさせない方法
映画を「心理的ほんとうらしさ」に従属させないために断片の重視と「見ること」を挙げた。
さらにここでは、役者の演技を心理的演技にさせない方法として、即興演出と中ヌキについて考えてみたい。
●即興演出
まず、役者たちの演技を心理的演技にしない方法として即興演出が考えられる。
撮影と台本との関係については作家によって千差万別であり、そもそもアルフレッド・ヒッチコック、ルネ・クレール ジャック・タチのように台本通りに完璧に撮影するタイプの作家もいれば、フランソワ・トリュフォーのように「シーンを設定してまず俳優たちにしゃべらせ、そこから出てきた言葉をちゃんとしたセリフに書き直して、またしゃべらせる(「映画術」62)」人、溝口健二のように、撮影現場に黒板を持ち込み、脚本家を呼び、役者に実際に演じさせながら、どんどんセリフを変えてゆくという即興演出を用いる人もいる。
「国民の創生」撮影に当たってリリアン・ギッシュは「いつものように、脚本なしで仕事を始めた(「リリアン・ギッシュ自伝」157)」と語り、D・W・グリフィスもまた即興的な演出を重視していたことを回想している。
どちらにせよ、即興演出といってもすべてを一からやるわけではなく、大筋は決めておきながら細部について現場での実際のリハーサルやアクションによってやり方を変えてゆく、ということである。
ロベール・ブレッソンは言っている。
「すべてが出現するのは描くときである(「作家主義」508)。
こうした発想こそが即興演出の趣旨ではないだろうか。
セルゲイ・エイゼンシュタインもまた同様だ。
「台本は、撮影すべき場面の色々な重要点と、達成を狙って効果を示すニ、三枚のものに限定される。芸術作品は、演出者によって生きているものとして実現された瞬間において始めて存在する(「映画の美学」142)」
ロベール・ブレッソンはさらに
「即興演出は、映画の創造の基礎を成す。白紙のままにしておいた困難な問題を、カメラを使ってたまたま解決することが出来たときこそ、優れたものが出来る(「作家主義」438)とも語っている。
これはまさに、私がいつも好んで引用するジャン=リュック・ゴダールのこの言葉に還元されるだろう。
「私はいつも真実を伝えようとしてきたが、それは言われた事柄の真実よりはむしろ、言われた瞬間が真実なものであると思われようとしてきた(「映画史Ⅱ」254)」
美しい言葉である。極めて倫理的で、かつ力強い。
彼らは撮影論においてもまた「心理的ほんとうらしさ」よりも出来事性を重視している。同時にこの「心理的ほんとうらしさ」論はあらゆる映画論に密接に関わっていることも判るであろう。
これを「心理的ほんとうらしさ」と俳優の心理的演技の観点から言い換えると、ジョン・フォードのこのような言葉になる。
「抜き打ちでやらせた。俳優が悩むことを好まなかったから(「ジョン・フォードの旗の下に」183)」
即興演出は俳優に考える時間を与えず、従って俳優が心理を考え、それを表現する余裕を奪い去る、荒療治的な側面を有している。そして基本的に名優といわれている人たちは、この即興演出を嫌がる傾向があるといわれている。演技できないからである。演技したい人と、させたくない人。撮影現場とはまさに人間同士のぶつかり合いの修羅場ともいえるだろう。
★中抜き
映画には「中ヌキ」という撮影方法がある。
中ヌキとは「キャメラや照明やセットの位置を動かさずに、撮れるカットばかりをまとめて撮る」方法を言う(「映画渡世・地の巻」48)。
例えば、AとB二人の会話を、構図、逆構図の切り返しで撮る時に、まずAのセリフだけを続けて全部撮ってしまう、という手法である。いちいちセリフの順番通りにAからB、BからAへとキャメラをその都度動かし、照明を修正し、という労を省き、そのキャメラの構図で撮れるものはすべて撮ってしまおうという、時間を省略する早撮りの手法として使われてきたのがこの中ヌキである。早撮りのための荒っぽい技法として揶揄されることもあるこの中ヌキ」が、実はどうして非常に愉快痛快、面白いのである。
中ヌキの撮影はコンテの撮影順序通りではないために、俳優たちは面を喰らった(「映画渡世・地の巻」49)、とされている。俳優たちは演じる順番がバラバラなために、自分たちが今、何処を演じているのかサッパリ判らないからである。それは俳優たちが、シーンの前後関係の動機の鎖から解き放たれ、断片性の中へと放り込まれたことを意味している。
この中ヌキという手法を愛用していた作家の中に山中貞雄がいる(「映画監督山中貞雄」293)。
「人情紙風船」「丹下作膳百萬両の壷」「河内山宋俊」に共通する、神がかったような冷たさは、この中ヌキの効果によるものなのだろうか。
この点については、ホームページからの直接の引用で大変失礼ではあるものの、長谷正人氏のホームページに書かれていることが大いに参考になる。ここでその「断片」を是非とも紹介させて頂きたい。
「山中貞雄の『丹下左膳余話・百万両の壷』(1935)の安吉少年の家出の場面をもう一度思い出してみよう。それまでの喜劇的で幸福な日常生活に一瞬亀裂が走るかのような、この悲哀な心情に満ちた場面において、山中はしかしそれまでと同じアングルで同じサイズで捉えられた同じ矢場のショットを、同じ機械的リズムでたんたんと組み立てて行くばかりだろう。だからこの家出場面のショットは、映像的には、それまでの喜劇的場面とは違う特別な叙情性や心理的な盛り上がりが込められているようには見えない。つまり山中は恐らく、この感動的な場面の一連のショットを、「ナカヌキ」を使って、それ以前の喜劇的な日常場面と一緒くたにして撮影してしまったに違いないのだ。たとえば、一人寂しく壷を抱えて家出していく安吉の姿が画面の奥深くに一瞬小さく捉えられる矢場の裏庭の美しいショットは、安吉が友人たちと楽しそうにメンコをするショットや、丹下左膳が一両を持って行ったり来たりするショットや、安吉が小判を盗まれるショットと全く同じショットのなのだから、続けざまに撮影されたに違いない。だからいかに叙情的な意味を担ったショットであっても、山中にあっては、それは撮影と編集によって機械的に組み立てられるべき映画全体の中の一コマでしかないのだ。しかしこうした素っ気ない機械的な映像の組み立てこそが、逆に不思議な映画的律動を持って、心理を越えた身体感覚的な(音楽的な)感動を観客にもたらす事は、すでに先月論じた通りだ。だから「ナカヌキ」という撮影方法は、決して時間的効率性のためではなく、こうした機械的リズムの効果を作りだすために、マキノや山中といった天才たちによって特権的に選ばれたに違いないのである」(http://www.ipm.jp/ipmj/eizou/eizou44.html)
現在、この中ヌキで映画を撮っている作家は殆どいないだろう。中ヌキは撮影所システム全盛の、映画が量産システムに乗っていた時代の早撮りのための手法であり、現在、映画を撮るチャンスに恵まれない作家たちからすれば、数少ない映画を撮る、というチャンスを、この早撮りなり中ヌキなどといった「インスタント手法」で撮るということは、随分と勇気のいることであるだろと推測されるからだ。
だがしかし、この中ヌキに代表される早撮りの精神について、我々は無視すべきではない。
フランソワ・トリュフォーがその遺作「日曜日が待ち遠しい」(1983)を、キャメラマンの「アルメンドロスが心配するくらいの早撮り(「季刊リュミエール②」68)」で撮ることで、映画のリズムを出そうとした、ということが現実にあったように、例え撮影所での量産システムに身を置いていない作家でも、現実に早撮りを敢えて実行する作家はいるのである。
早撮りというものは、中ヌキを含めて、映画のリズムとの関係においても、また「心理的ほんとうらしさ」からの距離を置くためにも、決して過去の遺産として忘れ去るには惜しいところの映画的手法に違いないのだ。
★動機よりも行動、性格
さらに脚本の書き方としても「心理的ほんとうらしさ」から回避するための方策を、我々は考えなくては成らない。
ここにハワード・ホークスの、非常に意義深い言葉があるので紹介しよう。
「登場人物に気を取られると、プロットについては忘れてしまう。登場人物を動き回らせ、彼らが物語を語るようにすればよい。だからわたしはプロットを心配したりしない。行動は性格づけからやってくるものだからだ」。
登場人物を動き回らせることでプロットを語る。ハワード・ホークスは運動そのものでプロットを語りしめているのだ。
『「エル・ドラド」では、物語からではなく、人物から脚本を書き始めた』(「ハワード・ホークス映画を語る」259)。「撮影しようとするシーンがある時、私はまず動作、次に台詞に興味を持つ。動作がうまく行かない時、私はその台詞を使わない。略、、、それは映画(モ―ションピクチャー)だからだ(「ハワード・ホークス映画を語る」72)。
常に動きを中心に映画を思考している姿が見事に露呈している。ハワード・ホークスにとってセリフとは、動作の中から自然と湧き出てくるものなのだ。
サミュエル・フラーは「私はシナリオを書くとき、登場人物が何を考えているかはまったく頓着しない。大事なのは、かれらがその性格にどこまでも忠実であるということだけだ」と語っている。
動きが人間を描き、それがプロットになる。我々が納得し易いように、すべてを言葉で説明してしまう安易な作品が溢れ出ている世界の中で、我々はモーションピクチャーとしての映画を追求するのである。
★さて、
「心理的ほんとうらしさ」に関する総論は以上である。
「心理的ほんとうらしさ」の鎖をバラバラに解き放つ手法については、この他にも考えれば色々と出て来るだろう。どんどん考えて、映画を心理の虜から解放しよう。だが、理屈ばかり考えていても面白くない。これからいよいよ実践たる各論を展開したい。
★黒沢清
日本の映画監督の中で「心理的ほんとうらしさ」から自由であり続けた監督は誰だろう。小津、溝口、成瀬、山中、マキノ、鈴木、加藤、、、、
そして彼らを受け継ぐ希望の星、それは紛れもなく黒沢清である。
まずは黒沢清の「ニンゲン合格」を見てみよう。
これは数ある黒沢清の「心理的ほんとうらしくない」映画の中でも高度に「ほんとうらしくない」映画であることが物理的に判る映画なので、是非みなさんも是非一度この「ニンゲン合格」をじっくりと見て体験して頂きたい。
仮に「①人が椅子から立ち上がり、②歩き始め、③歩き続け ④立ち止まり、⑤また椅子に座る」、というシーンを映画に撮るとしよう。
通常それを演じる役者は、①「さぁ、立つか、、」という感じで立ち始め、②「では、歩くか、、」という感じで歩き始め、③そのまま歩き続け、④「さてと、歩くのやめるか、、」という感じで立ち止まり、⑤「んじゃ、座るか、、」という感じで座る。さて、ここからが面白い。
「ニンゲン合格」で黒沢清は、③以外の部分をほとんど編集でカットしてしまっている。①、②、④、⑤には、すべて動機が絡んで来る。そこには必ず立ち上がる理由、歩く理由、立ち止まる理由、そして座る理由が役者にかかって来る。嫌でも役者たちの仕草や顔、表情には「さぁ、何々しよう、、」という動機の部分が露呈される。小林桂樹の前述のインタビューに出て来たところの「いかにも」「さも」、の部分がここである。
言わばほとんどの役者たちは、この「理由」をいかに体現するかでメシを食っている。演技とは、ほとんどここの動機なり理由の部分をいかに上手に演じるかの問題なのだ。だがその動機、理由の部分はすべてこれまで述べて来たように「心理的ほんとうらしさ」の部分と重なり合ってしまう。だからと言って役者に「それをやってくれるな」と言っても無理な話だろう。役者には習性というものがある。そこで黒沢清は頭を回転させ、物理的な編集という武器によってその「心理的ほんとうらしい部分」を全部、編集でカットしてしまったのである。これでは役者は対抗しようがない。
例えば役所広司が西島秀行をソープランドへ引きずるシーンを見てみよう。役所広司が西島秀行を、既に引きずっている「最中(さいちゅう)」からいきなり画面は開始されている。
黒沢清でなく、普通の映画では、こうなるはずだ。
役所「さぁ、お前をソープランドへ連れてってやる(さも、という顔で)」西島「えっ、、いやだ、、(顔をしかめ、後ずさりする)」役所「さぁ、来いっ(いかにも、という顔で)」と西島の手を掴む(どうだ、という顔)西島「やめてくれ!(やめてくれ、という顔)」で嫌がる(泣きそうな顔)、役所「く、、るんだ、、よっ」と力でねじ伏せ西島を引きずり始める(渾身の力を込めた綱引の時に人がする顔)、、、こんな感じである。
●モナカ
「にんげん合格」には、こういったシーンがすべてカットされている。歩く時も、歩いている「さいちゅう」、走る時も、走っている「最中」なのだ。私はこうした黒沢清の編集方法をして、「最中(さいちゅう)」をもじって「モナカ」と命名している。大胆にも黒沢清は「心理的ほんとうらしさ」を物理的に編集と言う方法でカットしているのである。
これは、黒沢清本人にインタビューして、カットの「動機」を聞いたわけではないが、だいたいこんな感じなのだろうと私は思っている。
動機があって行動するのではなく、その逆であると黒沢清は語っている(「黒沢清の映画術」82)
黒沢清の、こうした「モナカ打法」の萌芽は、私の見た限りでは、おそらく「勝手にしやがれシリーズ」以降だと思われるが、それ以前の作品にしても、黒沢清の作品は、まさに「心理的ほんとうらしさ排除」の歴史といえるのである。
お判りだろうか。
前述の即興演出と言い中ヌキと言い、役者たちから演技を奪い去る手法はある種の荒療治であった。逆に言うならば、役者たちに「心理的な演技をしないで下さい」というのは本質的に無理な相談である。この黒沢清の「モナカ打法」もまた演技の部分をハサミで物理的にちょん切ってしまうのだから、これもまた相当な荒療治だが、そこまでしてでも「心理的ほんとうらしさ」を排除したがっていることを忘れてはならない。
黒沢清の映画がひたすら画から入って来るような感じを覚えるのは、黒沢清がひたすら「心理的ほんとうらしさ」の部分を回避し、それを運動へと転換しているからに他ならない。こうして映画へと映画へと向かおうとしている黒沢清を、今の多くの批評家は無視している。物語が判らないと。「心理的ほんとうらしさ」を欠いた黒沢清の映画は、行動の動機が判らぬ、だからダメだ、とそう言うのである。映画そのものへと接近している監督を、批評がしっかり評価できない、これが現在の映画批評界の致命的実際である。私の感覚からするならば、今、黒沢清を語れない批評家は、批評家の体を為していない。
●ジョン・フォード「捜索者」
ジョン・フォードに「捜索者」という作品がある。
ジョン・ウェインの不在中に親戚家族がインディアンに襲われ、殺され、幼い女の子が連れ去られる、悲惨な物語である。原題は「THE SEARCHERS」、、、「調査する人」「捜す人」。だが女の子を捜しに行ったジョン・ウェインとジェフリー・ハンターは「捜索者」でありながら、何度も何度も家に戻って来る。「捜索者」が「捜索」に失敗しておきながら、平然と何度も戻って来るのである。
彼らが帰って来ると、ベラ・マイルズやハリー・ケリー・Jrの実母であるオリー・ケリー、ジョン・クウォーレンなどが家の中から出て来ては、嬉しそうに彼らの帰還を出迎える。あれだけ悲惨な事件があって、子供が未だ連れ去られたままであるにも拘らず、この二人は不謹慎なまでに帰って来るのだ。そうして彼らは喧嘩をしたり、風呂に入ったり、笑ったり、結婚式に参加したりしてニコニコしている。
これはどうも「おかしい」。
「心理的ほんとうらしさ」からするならば、捜索に成功してこそ「捜索者」なはずなのであって、捜索に失敗しておきながら、こうまで無頓着に、おおらかな顔をしているという事実は極めて「心理的にほんとうらしくない」。だがこの「捜索者」を「捜索者」という題名に囚われず、ひたすら視覚的に、断片的に見てみると、どうもこの映画は「捜索者」ではなく「帰宅者」らしいのである。
蓮實重彦は語り続けてきた。
「ジョン・フォードでもっとも美しいのは、いつだって、女に見送られて遠ざかったはずの男が戻ってくる瞬間なのだ」、
「絶えず出発することで、帰還を反復させる父親、それが映画の甘美さだ(「映画狂人シネマ辞典」256)」、
この「捜索者」において決定的に美しく、かつ、繰り返し反復をもって視覚的に露呈しているのは、何と言っても男たちが帰って来た瞬間なのだ。ジョン・ウェインは何と4回も帰って来る。「捜索者」が4回帰って来る。それはジェフリー・ハンターの3回、ケン・カーティスの1回、そしてナタリー・ウッドの1回を凌いで堂々一位の帰還数である。何故「捜索者」が4回も帰って来るのだろう。おかしい。「心理的ほんとうらしさ」からすれば確かに「おかしい」のだが、しかし、D・W・グリフィスの「国民の創生」(1915)から連なる「帰還」というテーマをひたすら反復して見せてくれたジョン・フォードからすれば、これ等の帰還シーンは紛れもなく豊かで美しい。
こうしてこの「捜索者」には「探すこと」ではなく、実は「帰って来ること」が描かれているのだと視覚的に寓意として感じた時、ラストシーンで右腕をさするハリー・ケリーの仕草を真似ながら、しかし、D・W・グリフィス以来の「家の中に入って歓迎されること」から程遠く、誰一人にも振り向かれず、一人去って行ったジョン・ウェインの姿が、とてつもなく深遠なエモーションを引き起こす。あれだけ何度も「帰ること」を美しそうに繰り返しておきながら、彼には帰る家などどこにもなかったのだ。
スティーヴン・スピルバーグ「宇宙戦争」のラスト、家の中に入ることの出来ないトム・クルーズは、「捜索者」の帰還のテーマを現代的主題として受け継でいる。
★寓意と「心理的ほんとうらしさ」
先ほど宮崎駿の映画についてはその寓意というものについて言及したし、ジョン・フォードの「捜索者」でも書いた。映画において「心理的ほんとうらしさ」を追い求める態度は、その裏に隠された視覚的な(つまり、極めて映画的な)寓意というものを見逃してしまう危険に満ちている。
クリント・イーストウッド「ガントレット」で、バスが機関銃の砲弾を浴びて蜂の巣になる場面は「心理的ほんとうらしさ」からするならば、「あれだけ撃たれてバスの中の二人が死なないのはおかしい」ということになるのだろうが、視覚的に見た時には、蓮實重彦や山田宏一が語るように、『あれは「祝砲」なのだから、「祝砲」で死ぬほうがおかしい』ということになる。
ロン・ハワードの「コクーン」については
「コクーン」もまた、「心理的ほんとうらしさ」からするならば、安易に不老不死を得るのはおかしい、となるのだろうが、視覚的に見た時には、宇宙へ帰ってゆくあの空飛ぶ円盤はどう見たところで『フィルムケース』以外には見えないのであり、過去の名優たちが不老不死を得るためにフィルムケースに乗って宇宙へと旅立っていく=フィルム・イズ・フォーエバー=を謳った映画であり、不老不死を得ることをためらう方がおかしい、となるのである。
映画は「心理的ほんとうらしさ」を中心に見てしまうと、あらすじという、たった一つの物語にしか出会えない。しかし映画を「心理的ほんとうらしさ」から解き放ち、視覚的に身を任せた時、そこに初めて映画本来の素晴らしい体験が我々を待ち受けている。
そうした点から見て「トウモローワールド」の長回しもまた「心理的ほんとうらしさ」の鎖を解き放つ、一つの方策ではなかっただろうか。
★もう一度「部分社会の法理」
仮にピカソが、冤罪事件の法廷を描いたとしよう。
それを見て、「冤罪と裁判制度」について延々と語り始める絵画批評家がいるだろうか。
確かに背景として語ることはあるかも知れない。だが、それ自体を目的として語られる絵画批評はまずないだろう。当たり前である。彼らは絵画を愛しているのだから。当然彼らは、ピカソのタッチ、デザイン、構図、視点、光、そういったものについても詳細に語るはずだ。
映画は何故か違う。
「硫黄島からの手紙」を見た人々は延々と戦争の恐ろしさについて語り、決して映画の恐ろしさについては語ろうとしない。「それでもボクはやってない」を見て、裁判制度ではなく映画を語りしめた人間がいったい何人いただろうか。「ホテル・ルワンダ」のカッティングについて語った批評家が何人いるだろうか。映画を見て映画を語らない。これが絵画なら、誰しもが滑稽に思えてしまう批評態度が、映画だと、誰も滑稽には思わない。何故だろう。
映画とは、知識人、インテリ、エリート、あらゆる頭のよさそうに見える人たちを大ばか者に仕立て上げてしまう、大した魔物なのだ。
さきほどの「部分社会の法理」をもう一度思い出して頂きたい。あらゆる団体、分野、ジャンルの人々は、そしてそれらの批評家は、評論家は、外のルールではなく、それぞれの分野に合った分野独自のルールが自らの愛する分野に適用されるために戦い続けている。守っているのだ。
これに対して映画史とは、映画に対して、映画の外のルールをそのまま適用してきた100年史に他ならない。
どうしてこのような馬鹿らしい現象が基本的に起こってしまうのだろうか。ここで私は、先ほど提示した仮説をもう一度ここに繰り返すことになる。
映画ファンは、映画を愛していると言っておきながら、実は映画を愛していないのではないか。
商業として始まった初めての芸術であるところの映画。映画は大衆芸術であり、インターナショナルである。だがその大衆という言葉は決して通俗という意味でもなければ、バカが見ても判る、という意味でもない。映画は生涯を賭けるに値する素晴らしい芸術である。言語を超え、ひたすら「見ること」においてインターナショナル足りうる芸術、それが大衆芸術たる映画なのだ。
★フランソワ・トリュフォー
フランソワ・トリュフォーは歴史的論文「フランス映画のある種の傾向」において、ジャン・オーランシュとピエール・ボストの脚本家コンビの作品を、映画を文学に従属させるものだとして非難している。「映画の脚本は、映画の人間によって書かれなければ価値がないと私は考える。というのも、オーランシュ=ボストの眼はいつでも文学のほうに向いていて、映画を過小評価し、軽蔑しているところが、わたしにはひどく気にかかるのである」(「ヌーベルヴァーグ30年」ユリイカ臨時増刊18)
映画には映画のルールを。フランソワ・トリュフォーもまた、映画を映画の外のルールに従属さたがせる人々の姿勢に我慢がならなかったのである。
★おわりに
今回、この「心理的ほんとうらしさと映画史」の論文を書き始めた時、まさかこれまで多岐に渉る論点を展開することになるとは思ってもいなかった。だが書き始めてゆくうちに、この「心理的ほんとうらしさ」論は、殆ど全ての映画論と密接に絡んでくることを肌で感じたのである。
映画に「心理的ほんとうらしさ」を過度に求めることは、映画が本来的に持っている運動能力を軽視し、ひいては映画を映画以外の言語的、小説的、演劇的何かに従属させる危険をもたらす態度へとつながってゆく。映画を愛している、とは何なのだろう。映画を守ることではないだろうか。では守るとは何か。映画ファンは、本当に映画を愛し、守っているのだろうか。
映画は20世紀最大の発見であり、映像の持つ力は極めて大きい。だがモジューヒンの実験が指し示す通り、映像は、人々を簡単にある一定の傾向へと誘導できてしまう力と危険を兼ね備えた大きな文化的メディアであり、最早サブカルチャーなどといって、いつまでも他文化の従属的地位にあるものとして評価し、検証する、そのような時代ではない。
蓮實重彦は、ジャン=リュック・ゴダールの映画をして
「何か一つの明確な思想を作品の中に表現するという態度をきっぱり放棄している(「シネマの記憶装置」293)」と語っている。
それにも拘らず我々はゴダールの映画に「何か一つの明確な思想」を必死に探し求めている。そして明確な思想が無いゴダールを難解だ、とし、敬遠する。そうした悪しき傾向は最早ゴダールという現象のみならず、ハワード・ホークス、アルフレッド・ヒッチコックといったハリウッドの監督たちの作品へと、そしてフランスではジャン・ルノワール、そして日本では、黒沢清、宮崎駿、溝口健二、小津安二郎へと波及している。
「心理的ほんとうらしさ」からの解放に身を任せた豊かさが、人々から難解と軽蔑され、凡庸な辻褄合わせの映画たちが「納得できると」いう理由によって賞賛される。これが現代映画批評の紛れもない現状であることを、私はここに責任を持って断言したい。
そうした中で、現実は厳しいが、今回の論文が、何かのきっかけになればと、希望は捨てずにいる。
この「心理的ほんとうらしさ」論は、非常に重要論点でありながら、巷の映画雑誌なりテレビなどを見たり読んだりしていても、一向に取り上げられないどころか、却ってテレビも雑誌も新聞も、「心理的ほんとうらしさ」を支持するような態度をとり続けている。従って今回は、この「心理的ほんとうらしさ」というものが、いかに映画史において数多くの論者によって議論されて来たかをみなさんに紹介する、という目的を兼ねて、意識的に数多くの書物の引用をした。せめてこのような議論がある、ということだけでも知って頂ければ、幸せである。
今回は、数々の著書、そしてインターネットのサイトからも引用をさせて頂き、ここに改めて、心から感謝をさせて頂きたい。
映画は映画のルールで成さなければならない。そうしなければ、映画は死んでしまう。
参考文献
「映画の文法」ダニエル・アリホン
「フィルモロジー」ジルベール・コアン=セア
「ゴダール・映画史Ⅰ」ジャン=リュック・ゴダール
「ゴダール・映画史Ⅱ」ジャン=リュック・ゴダール
「ゴダール全発言Ⅰ」ジャン=リュック・ゴダール
「ゴダール全発言Ⅱ」ジャン=リュック・ゴダール
「映画記号論入門」
「映画理論集成」フィルムアート社
「スター」エドガール・モラン
「映画・あるいは想像上の人間」エドガール・モラン
「作家主義」リブロボート社
「夜想8・亡命者たちのハリウッド」
「ジャン・ルノワール」アンドレ・バザン
「映画とは何かⅡ」アンドレ・バザン
「映画とは何かⅢ」アンドレ・バザン
「現代のシネマ4・溝口健二」
「現代のシネマ9・オーソン・ウェルズ」
「現代のシネマ10・ロベルト・ロッセリーニ」
「溝口健二集成」キネマ旬報
「映画の美学」アンリ・アジェル
「視覚的人間」ベラ・バラージュ
「映画の精神」ベラ・バラージュ
「映画における記号と意味」ピーター・ウォーレン
「シネマの記憶装置」蓮實重彦
「映画狂人シネマ辞典」蓮實重彦
「映画狂人語る」蓮實重彦
「リリアン・ギッシュ自伝」
「ハワード・ホークス映画を語る」
「ヒッチコック・トリュフォー映画術」ヒッチコック・トリュフォー
「映画の夢・夢の批評」フランソワ・トリュフォー
「友よ映画よ、わがヌーベルヴァーグ誌」山田宏一
「フランソワ・トリュフォー映画読本」山田宏一
「シネ・ブラボー3」山田宏一
「季刊リュミエール②フランソワ・トリュフォーとフランス映画」蓮實重彦責任編集
「季刊リュミエール⑥D・W・グリフィス」蓮實重彦責任編集
「季刊リュミエール⑧フォード・ホークス、ウォルシュ」蓮實重彦責任編集
「映画の授業」黒沢清、塩田明彦、ほか
「黒沢清の映画術」黒沢清
「映画監督・溝口健二」四方田犬彦編
「人それを映画と呼ぶ」四方田犬彦
「溝口健二の人と芸術」新藤兼人
「われ映画を発見せり」青山真治
「東京人2005年10月号」
「文学界2005年3月号」
「ボードレールの親密な日記」
「ザナック、ハリウッド最後のタイクーン」
「映画渡世・地の巻」マキノ雅弘
「映画監督・山中貞雄」加藤泰
「ヌーベルヴァーグ30年」ユリイカ臨時増刊
「マスターオブライト」フィルムアート社