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2023年5月6日 藤村隆史映画批評
「アウトレイジ」(2010)北野武~内側の性向について 初出2010.6.30
■「大きなお世話だバカヤロー!」
と、警察の取調室でビートたけしが小日向文世を怒鳴りつけたとき、その怒声はキャメラに向けて発せられ、ビートたけしの視線もキャメラの中心部分を見つめている。ビートたけしのウエストショットで撮られたこの画面には、ビートたけしのみが映し出さされ、向かい合っているはずの小日向文世は画面の中には入っていない。次にキャメラは構図=逆構図による切返しによって小日向文世へと切り返されるが、こちらの画面においてもまた、映し出されているのは小日向文世一人であり、今度は逆に、向かい合っているはずのビートたけしは画面の外部に放逐されたまま、その存在を消されている。
■「舌を出せバカヤロー!」
と怒鳴るビートたけしと、両脇を抱えられている國村隼とのあいだをキャメラは何度か構図=逆構図による切返しによって切り返されているのだが、たけしが画面に映し出されているとき、國村隼は画面の中には映っておらず、逆に國村隼がキャメラに向ってしゃべるとき、画面の中にビートたけしは映ってはいない。國村隼が始末される時まで延々と同じことが反復されている。
この二つのシークエンスにおいては、向かい合っている二人の人物が、同一の空間に存在することを証拠付けるショットはただの一つも挿入されていない。構図=逆構図による切返しが「内側から」なされているだけで、二人を同時に映し出した引きのショットが存在しないからである。
■「コンビ」の映画
北野武の映画が「コンビ」の映画であることについてここで詳細に論じる必要はないだろう。処女作●「その男、凶暴につき」(1989)におけるビートたけしと平泉成、或いはビートたけしと芦川誠から始まり、●「3-4X10月」(1990)における柳ユーレイとダンカン、あるいは柳ユーレイと石田ゆり子、●「キッズ・リターン」(1996)における主人公の二人や漫才コンビ、●「HANA―BI」(1997)のビートたけしと岸本加代子、あるいはビートたけしと大杉漣、●「菊次郎の夏」(1999)におけるビートたけしと少年、●「Dolles ドールズ」(2002)の西島秀俊と菅野美穂、三橋達也と松原千恵子、●「座頭市」(2003)のビートたけしとガダルカナル・タカ・・・・、
北野武の映画は「コンビ」の映画であり、仮に三人の人物が画面の中に登場したとしても、あくまでも描かれるのは「コンビ」であって「トリオ」ではない。北野武の映画には、ルビッチの●「生活の設計」やトリュフォーの●「突然炎の如く」におけるような「トリオ」の生活は描かれないのである。●「あの夏、いちばん静かな海」(1991)において、真木蔵人と大島弘子の「コンビ」のあいだに、ひとりのサーファーの女が割り込んできたとき、続いて描かれたのはあくまでも「コンビ」を修復するための運動であり、決して「トリオ」の運動ではなかった。そして「コンビ」は、ビスタサイズの画面の左右に、まるで漫才師のコンビのように、こちらを向いた「横並び」となって映し出され続けてきたのである。「コンビ」とは、ひとつの画面に同時に映し出されてこそ「コンビ」であり、その場合、二人が同一の空間に存在することが証拠付けられている。
それに対して「アウトレイジ」のふたつのシークエンスでは、二人が同一の空間に存在することを証拠立てるショットを挿入することを拒絶している。二人は「横並び」によって画面の中に同時に捉えられるのではなく、分断されているのだ。そうした傾向は、「アウトレイジ」に限られてはいない。
■「HANA―BI」(1997)
私が北野武の「内側からの性向」について考え始めたのは「HANA―BI」のとあるシーンを見てからである。それは、たけしと岸本加代子がワゴンの中で、トランプのカードの番号を当てるゲームをしているシーンである。たけしは、実は岸本加代子の背後にあるルームミラーに映ったトランプを見て返答をしており、そのインチキを知らない振りをして岸本が驚いてあげることがギャグを夫婦間の温かみへと発展させている忘れ難きシーンであるが、ここにはそれとは質の違った「忘れ難き」が露呈している。ここでキャメラは、正面あたりから二人の姿を構図=逆構図によって切返し続けるのだが、決して二人を同時に画面の中に捉えないのだ。ここには、たけしと岸本加代子とが、同一の空間にいると証拠立てるショット=「このショットはほんとうです」というショットが一つも存在しないのである。確かにこのシークエンスの開始直後、画面手前で風に揺れる花をナメながらワゴン車をロングショットで捉えた画面が入り、その中では二人の人物のものと思しきシルエットがぼんやりと映し出され、そこにトランプの銘柄を当てているたけしの声が聞こえては来るのだが、あのぼんやりとした人影らしきものが、たけしと岸本のものであると証拠立てるショットは何も無い。あのワゴン車の中で、たけしと岸本は、同一の空間として存在したという「リアリズム」が意図的に排除されているのである。それをもたらしたのは「外側」からではなく「内側」からの切返しである。構図=逆構図による切返しを徹頭徹尾「内側」からすることで、「コンビ」は分断され、同一の空間に確かにいた、という存在を消されてしまうのだ。これを北野の「内側の性向」と名づけよう。内側から切返す事で、ショットは「ほんとうです」ではなく「うそです」を主張し始める。
■「3-4X10月」(1990)
こうした傾向は、既に第二作目の「3-4X10月」においてはっきりと現われている。ここで
たけしは、サボテンの花束をもって暴力団事務所へ侵入し、豊川悦史を撃ち殺すシーンがあるが、豊川と対峙し、マシンガンで豊川を撃ち殺すまで、ただの一度たりとも、たけしと豊川の二人が同時に画面の中に収められることは無い。ただひたすら「内側から」の構図=逆構図による切返しによって二人は「分断」され続けて行くのである。
■「あの夏、いちばん静かな海」(1991)
極めて極端に「内側の性向」が露呈していたのは「あの夏、いちばん静かな海」である。殆ど会話の存在しないこの静かな映画では、まずもって真木蔵人と大島弘子という口の聞けない「コンビ」が、サーフボードを二人で抱えながら、左から右へと海岸線を歩いて行く「横並び」の運動を我々はた易く想起することができる。それ以外にも二人は、終盤の記念撮影を始めとして、幾度もビスタサイズの画面の中に「横並びのリアリズム」によって映し出されている。だがしかし、ひとたび真木蔵人がサーフボードを持って海の中に入った時、突如として二人は分断されてしまうのだ。真木蔵人がサーフィンをし、砂浜に座っている大島弘子が前髪を風に揺らしながら真木蔵人のサーフィンを見て微笑む姿を画面はいったい何度捉えているだろう。映画は多くの時間を真木蔵人のサーフィンのシーンに費やし、それを砂浜から静かに見つめている娘の微笑を画面の中に焼き続けているのである。しかし二人は、サーフィンの大会であれ、地元の海岸であれ、真木蔵人のサーフィンのシーンにおいては、ただの一度たりとも「縦の構図」によってひとつの画面の中に同時に捉えられることはないのである。海の中の真木蔵人と、砂浜の大島弘子との切り返しはすべて「内側から」であり、従って二人が同時にその空間に存在したというショットは1ショットたりとも存在しないのだ。ここまでくると、もうこれは「おかしい」と断定することにいささかの躊躇もない。これは明らかに「おかしい」のである。そもそもが●「ハート・ロッカー」を始めとして●「ボーンアルティメイタム」であれ●「第九地区」であれ、今の映画世界は、「ほんとうです」というショットをいかにして積み重ねるかを競い合うハイエナの世界と化している。多くの(凡庸な)作家たちは、「うそ」に決まっている映画の画面を、必死にキャメラを揺らしてニュース映像の体裁に似通わせることで「ほんとうです」と叫び続けているのである。
そうした中で、どうして北野武はわざわざ「うそです」というショットをことさらに撮り続けるのだろう。●「座頭市」(2003)において大家由祐子、橘大五郎の「姉妹」とビートたけしが初めて路地で出会うシーンも両者は分断されているし、●「BROTHER」(2000)においてもまた、路上でたけしがオマー・エップスの目を突いたあと、眼帯をしたオマー・エップスがアジトへ入って来て北野武と「再会」したとき、異常なまでに画面は二人のあいだの「内側から」の切返しが幾度も反復され、決して二人が同一の空間に存在することを証拠立てるショットを入れようとはしていない。北野映画の系譜を自分の目で確かめてみるとよい。「うそです」というショットを、第二作目の●「3-4X10月」(1990)以降、いくらでも常態として見出すことができるはずである。こうした「内側の性向」とは、「コンビ」おける「リアリズム」と同時に、北野武の性向としてあり続けているのである。ビスタサイズの画面に「横並び」でコンビが映し出されたとき、画面は二人がまさしく「ほんとうです」と言わんばかりに同じ時間に同じ空間に存在したことを証拠立てるのに対して、二人の人間が構図=逆構図による切返しによって「内側から」切返されるとき、まるで「うそです」と言っているかのように、二人は同じ時間に同じ空間にいたことを決して証拠立てられることはない。「ほんとう」なのか「うそ」なのか。いったいどちらが北野武の性向なのだろう。
■「その男、凶暴につき」(1989)
北野武の監督デビュー作「その男、凶暴につき」はリアリズムの映画である。ここで「リアリズムの映画」とは、「このショットはほんとうです」というショットを積み重ねながら撮られて行く映画、とでも定義しておこう。例えば殺し屋の白竜がチンピラを屋上から突き落とすシーンがそれである。ここで映画は白竜に蹴られて屋上から転落しそうになっているチンピラを、ビルの外部へと飛び出したクレーンで真上から捉える事で、圧倒的な迫力で持って映し出している。このシークエンスで撮られた一連のショットはすべて、このチンピラはほんとうにビルから落ちかかっています、と強く主張し続けているのである。
さらにまた、構図=逆構図による切返しの観点からも、この作品は「リアリズムの映画」であることを補強している。例えばたけしが白竜を警察署のロッカー室に監禁し、拷問しているシークエンスにその兆候が現われている。ここでたけしが白竜に向って「だったらお前が自殺しろ!」と拳銃を放り投げるシーンがある。キャメラはまるで小津安二郎の映画のように、殆ど真正面からたけしを映し出し、それが今度はうずくまる白竜へと、同じくほぼ正面からの位置において「内側から」切り返されている。北野武の作品の中で、こうして真正面から人物を捉えながらの構図=逆構図による切返しが「内側から」撮られたのはこのシーンが初めてであり、従ってこの一連のショットは初めて北野武の映画に「うそです」の性向が露呈した極めて歴史的なものなのだが、そうした「うそです」の萌芽は、その後、或いはそれ以前に撮られた「外からの切返し」によって即座に消されている。しばらくすると画面は、腰の後ろの拳銃を握っているたけしの背後から、つまり「外」から、大きく切返されているのである。手前にたけしを、奥に白竜を同時に縦の構図で捉えているこのショットは、同一の時間に北野武と白竜が同時に存在していることを「外側からの構図=逆構図による切返し」によって証拠立てるショットであり、「リアリズムのショット」である。「このショットはほんとうです」という強度の極めて強いショットであると言える。この作品における北野武は「うそ」をつくことに対して何らかの制約下にあったのである。
●車
車の使い方にしても、「その男、凶暴につき」は、それ以降の北野作品とは異質である。アパートに麻薬の売人を逮捕しに行って取り逃がし、芦川誠がパトカーに乗って容疑者を追跡するシーンを見てみたい。ここではまずビートたけしが走り、そのあとパトカーに乗ってみずから細い路地を運転し、猛スピードで飛ばしている。こうした光景が、画面右手前の運転席のビートたけしと、フロントガラスを通して逃げて行く容疑者との、大迫力の「縦の構図」によって同時に捉えられているのである。これはまさしく「ほんとうです」のショットの積み重ねにほかならない。『ほんとうに北野武が車を運転し、狭い路地を猛スピードで危険に飛ばしながら、逃げて行く容疑者をほんとうに追いかけています』というのがこの「縦の構図」によって撮られた追跡シーンのひとつの主張なのだ。確かに北野武の映画において車は、常に外部に対して透明に開けており、黒沢清の映画に出てくる車のように、窓ガラスの外部にスクリーンプロセスの幻想的な画面が流れて行くのとは異なっている。●「TAKESHIS‘」(2005)におけるように、夢の中、奈落の底へタクシーごと転落して行くような幻想的なシーンもなくはないが、基本的に北野映画の車とは、外部に対して解放的に開かれた窓を有する「リアリズム」に支配されているといってよい。しかし「その男、凶暴につき」におけるカーアクションは、まさに「リアリズム」に支配された「ほんとうです」を、映画の深度や人物配置、車のスピードや路地の狭さによってさらなる強度に実現しており、そうした光景は、二作目の●「3-4X10月」(1990)以降、基本的に見ることのできない珍しいシーンである。白竜がチンピラを屋上から突き落とすショットにしても、実はこのようにして「ほんとうに落ちました」と主張するような「リアリズム」の撮り方を、二作目の●「3-4X10月」(1990)以降の北野映画ははっきりと拒絶しているのである。確かに●「キッズ・リターン」(1996)における持続したボクシングシーンであるとか、●「座頭市」(2003)における殺陣の「迫力」だのといった「リアリズム」が北野映画のひとつの軸にあることには違いないが、他方で北野は、●「ソナチネ」(1993)の銃撃シーンや●「菊次郎の夏」(1999)の縁日のやくざとの喧嘩を始めとして、多くのシーンを省略したり、光の効果のみで想像させたに止めるという、少なくとも「リアリズム」という演出とは違った効果=「うそです」によって映画を撮ることを強く主張しており、そうした傾向が現われ始めたのは第二作目の●「3-4X10月」(1990)以降なのである。ビートたけしが走り続ける、という点においても異質性を際立たせている「その男、凶暴につき」は、脚本も編集も北野武ではなく、初監督の北野武としては、相当窮屈な中で成された仕事であったとの証言が残っているように、極めて北野「らしくない」ショット=「過度のリアリズム」が多く見受けられるのである。
ところが二作目の●「3-4X10月」(1990)以降、北野映画には「横並びのリアリズム」と、「内側からのフィクション」とが交錯するようになる。「横並びのリアリズム」が、「内側からのフィクション」によって分断され、再び修復をされてゆくを反復させて行くのである。
■「内側の性向」と「ずれ」
だが「内側の性向」とは、ただ物語としての「うそ」として露呈するものではない。それは「ずれ」として露呈するのだ。「ずれ」については、第二回成瀬巳喜男論文で拘り書いてみたが、「ずれ」とは「物語からの解放」である。ここで「物語からの解放」とは、物語の内容が、うそか、ほんとうか、のレベルにおける議論ではない。「うそ」も「ほんとう」も、結局のところ、「物語の内容」の次元の議論であって、決して「物語からの解放」ではないからである。成瀬論文方式で言うなれば、「うそ」も「ほんとう」も①→②→③→④の物語の関係の網の中へ絡め取られる。その網の目から解放されるには「ずれ」を生じさせる必要があり、細部の「過剰」さが要求される。そこにいる人や出来事を「そのもの」として露呈させるところの本来的性向が「ずれ」なのである。
北野武第二作目である●「3-4X10月」(1990)で小野昌彦(柳ユーレイ)と石田ゆり子とが初めて喫茶店で見つめ合うシーンを見てみたい。キャメラは石田と小野とのあいだを「内側」からの構図=逆構図による切返しによって往復している。この前に、二人を同時に捉えたショットが存在し、従ってこのシークエンス全体では「うそ」ではない。しかし、石田→小野→石田へと切返された構図=逆構図による切返しのショットは紛れも無く「ずれ」ている。小野昌彦を見つめている石田ゆり子のクローズアップの背後には木の葉が風にキラキラ揺れており、それは●「ソナチネ」(1993)のラストシーンで、たけしの車が現われるのをひたすら待っている国舞亜矢の背景の木の葉がキラキラ揺れていたのとまったく同じ性向であり、●「あの夏、いちばん静かな海」(1991)において、砂浜で膝を抱えて、真木蔵人のサーフィンを静かに微笑みながら見つめていた大島弘子の前髪が、必ずと言って良いほど風でヒラヒラと揺れていたあの性向とも通底している。この石田ゆり子や国舞亜矢、そして大島弘子のショットには、「混じり気」がまったく存在しない。石田ゆり子の向いには、「物語上」小野昌彦が存在し、それを証拠立てるショットも存在している。国舞亜矢とビートたけしとは、物語上そもそも同じ空間に存在していない。大島弘子と真木蔵人とは、物語上、同一空間に存在するが、それを証拠立てるショットはひとつも存在していない。三人三様、すべて状況が微妙に違っていながら、すべてその瞬間は「内側から」切返され、風が吹き、女たちの髪や背景の草木を揺らしている。女たちの姿は明らかに「物語」との関係を喪失している。「そのもの」として露呈しているのだ。
■三人の女たち
まずもって女たちは、見つめている対象(小野昌彦、真木蔵人)、乃至は待っている対象(ビートたけし)を実際には見つめていない。●「ソナチネ」の国舞亜矢の場合、ビートたけしの帰りを待っているだけであり、物語上もその場所にビートたけしは不在である。●「3-4X10月」(1990)の喫茶店の石田ゆり子の向かい側には小野昌彦が、●「あの夏、いちばん静かな海」(1991)の砂浜の大島弘子の向かいには真木蔵人が物語上存在することになっているのだが、おそらく実際の撮影現場では、彼女たちの向かいに存在するのはキャメラであって、彼らではない。彼女たちは、ひたすらキャメラに向って泣いたり微笑んだり怒ったりしているのであって、男優の姿を見て演技しているわけではないのである。これが「内側の性向」のひとつの意味である。そうして撮ってゆく場合、物語の流れがそこで一旦中断し、画面は「女優そのもの」を撮ろうとする意志で満たされて行く。風にしても光線にしてもメイクにしても、仮に「物語」の中で画面を撮って行くのならば、少々細部をおろそかにしたところで「物語」の力によってぶっちぎることができるだろうという、「それなりの画面」として露呈することになるのだが、女優を、或いは出来事を、「そのもの」として興味を示した画面には、必ずや「物語」から逸脱した「過剰」な細部が見受けられる。それはひとつの恐怖なのだ。
ハリウッド映画の場合、向かい合っている二人の人物を構図=逆構図による切返しによって撮る場合、二台以上のキャメラで同時に撮ってあとから編集でつなげるか、一台のキャメラで順撮りしてゆくか、というのが通常の手法であり、その場合、内側からの切返しであれ外からであれ、正面付近から切り返すというのは殆どなく、仮にあったとしても、多くの場合、それは一連の流れの中で撮られていることから、「ずれ」ているようには見えない。極めて一般的なハリウッド映画の場合、「ずれ」ないように撮ることを30年代以降の物語映画におけるひとつの鉄則としてきたのである。対して北野の切返しは「ずれ」ている。どうすれば「ずれ」るのかをはっきり検証することは不可能だが、おそらく役者の配置、視線、キャメラの位置、それ以外の出来事(光線、風、その他)、そして作家の性向そのものが複雑に絡み合って「ずれ」るのだと考えることができる。北野の「うそです」のショット=二人の人物が同一の時間空間に存在することを敢えて証拠立てない切返し=とは、あくまでも北野武という作家の「ずれ」の一場面であって決して目的ではない。大切なのは、「うそです」という「物語」の体裁での出来事ではなく「ずれ」るという、反物語的な資質であり、「うそです」はその一現象に過ぎない。
もちろん「内側」から切返しさえすれば、すべて「ずれ」るのではない。「ずれ」ることができるのは、本来的に「ずれ」ることのできる資質を有した作家に限られており、それが北野武のように切返しによって「ずれ」る作家もあれば、成瀬巳喜男のようにコミュニケーションのあり方において「ずれ」る作家もある。
■てれ
北野武という人間は本来的にてれ屋であり、そうした性向が、本来「うそ」に決まっている映画の画面をして「ほんとうです」と撮ることを本来的にバカにしているようなところがあり、或いは同時に、「ほんとう」を撮ったら「うそ」を撮らずにはいられない性向というべきなのかもしれないが、それは北野武の出自がコメディアンであるという点にも大きく拘っているのかもしれない。映画が「ほんとう」の強度を強めたとき、必ずや北野は「うそです」を入れ、映画が「映画」であることを強調する。もちろんその「うそです」とは、「ずれ」という意味合いにおいてのそれであり、間違っても物語的な文脈における「うそ」ではない。●「ソナチネ」(1993)のラスシーンの砂利道の傍らでビートたけしの帰りを待っている国舞亜矢のクローズアップへは、カッティング・イン・アクションという、「つなぎ」のためのカットではなく「ジャンプカット」という「反つなぎ」としてのカッティングによって、それが「つながれていない」ことをあらわにしながらキャメラが接近しているのは、まさに北野武の「つながないこと=ずれること」の資質のひとつの現われに過ぎない。逆に言うならば、本来「ずれ」てもいない作家が、アート気取りでジャンプカットなどを入れた時、それがひたすら恥かしい思い上がりとなって露呈してしまうというのもまた映画の恐ろしさである。
■シネマスコープ
「アウトレイジ」が開始したとき、それがゴダールなら内へと内へ縮んでゆくはずのスクリーンが外へ外へと伸びていき、この映画が北野武初のシネマスコープであることを指し示した時、私は大きな違和感に囚われる。それまですべての作品をビスタサイズで撮り続けてきた北野映画の画面が横長のシネスコ画面へと拡がったとき、当然そこには、切返しにおけるある種の変容がなされるのではないかという脅威が私を襲ったからである。事実映画が始まり、幹部たちの宴会が終わった後、残された三浦友和と國村隼とが会話をしているシーンを構図=逆構図による切返しにおいて映し出すとき、キャメラは「外側から」切返されているではないか。キャメラは手前に三浦友和の後頭部なり横顔なりを捉えつつ、奥に國村隼を同時に捉える、それが「外側から」の切返しであり、そうした「外側から」の切返しがこの最初の場面でいきなり続くのである。ここで三浦友和から國村隼へ、或いはその逆へとキャメラが切返される時、画面の中に、三浦友和と國村隼とが同時に存在することが証拠立てられることになる。もちろんマイケル・マンの●「ヒート」におけるデニーロとパチーノのレストランにおける会話の切返しのように、「外側」から切返されておきながら、敢えて手前に取り込まれた人物の特徴を消す事で、二人が同一の空間に存在することを証拠立てないようになされる外からの切返しも存在する。だがそれはあくまでも故意に基づくものであり、基本的には、「外側から」の切返しは、二人の向き合っている人物が、同一の空間に存在することを証拠立てるところの「ほんとう」を指し示すショットとしての意義を有しているのである。
シネスコの横長の画面は、「外側から」の切返しを助長しやすい。画面の中のバランスを考えた時、向き合った二人の人物を撮る時、「外側から」切返されるほうが、たった一人の人物を「内側から」切返すよりも画面が充足されて収まりがよろしいのである。北野武初のシネマスコープ作品の最初の構図=逆構図による切返しが「外側から」行われた、これは実に大きな事件である。シネマスコープによって北野映画の「うそです」の歴史が変わるのではないか。
■杞憂
だがキャメラが一度屋敷の外へ出たあと、再びキャメラが中へ入って三浦友和と國村隼との会話を構図=逆構図による切返しによって映し出したとき、今度はうって変わってキャメラは「内側から」切返され、それはそのまま、決して三浦友和と國村隼とを同一の画面に捉えることをせずにそのまま終結している。ああ、「内側からだ、、」と思わず私は安堵しながら、しかしこの余りにも大きな違いはいったい何なのだと改めて途方に暮れたのである。シネスコになって、最初の切返しが「ほんとうです・・」と「外側から」なされる。だが次の切返しは「うそに決まってるだろバカヤロー」と言わんばかりに「内側から」なされ、そのまま二人の同時存在を証拠立てることなくあっけらかんと放置されている。北野武の撮り方は、ビスタサイズがシネマスコープに変化したからといって、基本的には変化をしていない。しかしながら、「アウトレイジ」は「コンビ」の映画であることを放棄している。この映画には、これまで数々の北野映画を彩ってきた「コンビ」が存在しないのである。あるとしても、それはなにやら●「キッズ・リターン」(1996)の後日談を思わせる、ビートたけしと小日向文世という、元ボクサー同士の冷たい「コンビ」であり、それまでの「コンビ」とは程遠いところにそれは移行している。
■「ありがとう・・ごめんな・・」
確かに北野武は「うそ」の作家である。だがそれが彼のすべてを現すわけではなく、既に検討したように「コンビ」を撮る北野武の有様は、何かしら温かく、そして「リアル」である。「うそ」の作家である北野の映画にも、「うそ」を言えない場面が存在しているのだ。北野が敢えて「てれ」を放棄してまで画面の中に「ほんとう」として撮っておきたいシーンは、多くの場合、「ありがとう・・ごめんね・」という、一見したところおよそ北野らしからぬと思われるセリフの中に見事に露呈している。
●「HANA―BI」(1997)では終盤の海岸で岸本加代子がビートたけしに向って「ありがとう・・ごめんね・」と言い、
●「菊次郎の夏」(1999)においては、縁日の境内で自分の顔の傷を癒してくれている少年に対してビートたけしが「ありがとう・・ごめんな・」と呟いている。
そして私が一番泣ける●「Dolles ドールズ」(2002)においては、回想のパーティのシーンで西島秀俊が、菅野美穂の首にネックレスをかけながら「ありがとう・・ごめんな・・」と吐露している。
その三つとも、画面の中には「コンビ」が同時に映し出されているのだ。「HANA―BI」は「横並び」によって、そして「菊次郎の夏」と「Dolles ドールズ」(2002)は、「外からの切返し」によって、それぞれの「コンビ」が同一の画面の中にはっきりと収まっているのである。同じく「菊次郎の夏」において、最後に少年がビートたけしに「ありがとう・・」というシーンでも、画面は「外側」から切り返されている。「てれ」によってリアリズムを即座に自己否定しながら「内側から」撮られている北野映画において、「ありがとう・・ごめんな・・」などというセリフが存在すること自体稀だと思いきや、それが3箇所にも存在し、そればかりか、ここでその「ありがとう・・ごめんな・」という言葉は文字通り、そのままの形で=「ほんとう」として撮られているのである。
こういうのを見たときに、映画というものは常にある種の倫理を積み重ねて行く運動であると私はつくづく思ってしまうのだ。北野武は映画は「うそ」だと確信している。たかだか映画、「うそ」に決まっているだろうと。だがそんな北野であるからこそ、「ほんとう」が露呈する画面は何より感動的なのだ。これはあくまで私の推測だが、おそらく北野は、「ありがとう・・ごめんな・・」というシーンを、内側からは切返せないのである。
■もう一度「あの夏、いちばん静かな海」
北野武にとって「ほんとう」とは、「コンビ」が同時に画面の中に存在するとき、唐突に始まり、一瞬にして霧散する。それはまるで成瀬映画の「不可抗力による密室」のような儚さを秘めながら、確固たる性向としてそこにある。
「あの夏、いちばん静かな海」のラストシーンで、大島弘子が砂浜からサーフボードを抱えて海へと入ったあと、ボードに貼られた「横並び」の二人の記念写真が画面一杯に映し出される。それから画面は、真木蔵人と大島弘子との思い出のスナップショットが次々と映し出されているのだが、そのすべての画面において二人は同時に存在しているのである。海と浜とのあいだにあれだけ分断され続けてきた二人が、ラストシーンではすべて同一の空間に存在することが証拠立てられている。私はこういうのが映画の感動だと思っている。そして、もしも彼らが口をきくことができたなら、同一の画面の中に確固として存在している彼が、或いは彼女が言ったセリフは、ひとつしかないはずだ。
映画研究塾 藤村隆史 2010.6.30