2023年9月1日 藤村隆史より
この批評は「映画批評」シリーズですから映画館で見て書かれたものです。当時の日記を調べるとシネコンで2回続けて見てこれを書いています。たった2回見ただけでよくこれが書けたと感心しますが当時は乗りに乗ってたからこそこういう芸当が出来たのかも知れません。長回しの考察について考える端緒にはなり得る批評です。全文、そのまま手を加えずに再出します。
映画批評
「トゥモロー・ワールド」(2006)アルフォンソ・キュアロン 持続は「9.11以降」に向けて~2006年11月25日初出
★120億円
120億円、それがこの映画の製作費である。それだけの金を掛ければ凄い映画が出来て当たり前、というのは必ずしも当たってはおらず、120億どころか200億以上の金を掛けたところで、一直線に凡作に成り下がるのが現在ハリウッド大作映画の紛れもない常識であることを我々はすでに知っている。
こうした所謂ハリウッド映画の堕落の象徴が、①クローズアップ過多 ②①と併用されるソフトフォーカスによる背景隠し③一時間1000前後の細かいカット割④無意味に動き続けるキャメラ 以上の4点により、「画面を隠す」ことにあることもまた我々は知っている。「ロードオブザリングシリーズ」「X-メンファイナルディシジョン」などは以上の四点すべてにあてはまる作品であり、その他の大作も、①から④までの幾つかに多かれ少なかれあてはまっている。
そのような悲惨な画面をここ数年、身をもって瞳に焼き付け続け、痛みとして体験してきた我々としては、この「トゥモロー・ワールド」で、冒頭クライヴ・オーウェンがコーヒーショップでコーヒーを買い、店から出て(その瞬間、ガラスのドアに店外の風景が美しく映っている)歩道をゆっくりと左へと歩き、手持ちキャメラが180度転換され、コーヒーを置いた瞬間コーヒーショップが爆発するまでの持続した瞬間を体験した時、このシーンの画面が上述の「四点すべてにあてはまらないこと」を瞬時に感じ取ることだろう。
★クローズアップの都
まずこの「トゥモロー・ワールド」にはクローズアップが存在しない。キャメラが結果として近景に近づくことは幾度かあるし、それが結果としてクローズアップの距離に入って来ることも僅かだがある。だが上述のハリウッド大作の趣旨である「クローズアップに逃げる」といった、悪しき風習によるクローズアップが1ショットも存在しないのである。
ハリウッドとは、「大列車強盗」(1902)に始まり、グリフィスとそのキャメラマンG・W・ビッツァーの元で花咲く「クローズアップの都」である。そのハリウッド映画にクローズアップが存在しないという事実について矢張り我々は意識的であるべきだろう。
★足ながおじさん
クローズアップの存在しないハリウッド映画で私が記憶しているのはジーン・ネグレスコ「足ながおじさん」(1955)である。1953年、20世紀FOXは後にアカデミー特別賞を受賞するところの社長スピロス・スコーラス等の尽力によりシネマスコープを発表し、映画は大型スクリーンの時代を迎える。そうした時代の変遷期に監督たちは、大型画面とクローズアップとの関係に相当悩んだ痕跡があり、その結果が「クローズアップの都」ハリウッドでクローズアップの[染村1] 存在しない映画「足ながおじさん」が登場したのだと私は想像している。蓮實重彦が「シネマスコープはヘンリー・コスタ、ジーン・ネグレスコを抹殺した」と書いていたもの、おそらくはこれと同趣旨の流れだと推測できよう。そのシネマスコープ第一号のヘンリー・コスタ「聖衣」(1953)を見れば、誰しもがクローズアップの少なさに気づくはずだ。
だがそれもはるか昔の話、大型画面が常識の現在となっては、シネマスコープであれ、ビスタサイズであれ、ハリウッドであれ、ヨーロッパであれ、アジアであれ、どこであれ、猫も杓子もクローズアップさえ撮っていれば映画はできる、という殺伐とした近視眼的時代となる。あれだけの大きなスクリーンを、愛を欠いた簡単なクローズアップが一時間に500、600ショットと覆い尽くし、画面を抹殺してきた事実を我々はここ数年何度目撃したことだろう。
その中で、ハリウッド(アメリカ)から出て来たクローズアップの存在しない映画、それが「トゥモロー・ワールド」である。何故「この時期」にこのような映画が出て来たのだろう。
★深く、大きく
加えて広角レンズを使用した画面の被写界深度は極めて深く、キャメラは常に人物と空間との関係性の中で見事に動き、決して無駄な動きが存在しない。
マイケル・ケインが撃たれる瞬間、ハイウェイを疾走する車、その他豊かなロングショットが画面の空気を解放させながら、まるで「イントレランス」のような被写界深度の深いレンズと、それを利用した縦横前後の空間の徹底的な使用がなされている。
マイケル・ケインの山荘の中のクライヴ・オーウェンと外で太極拳か何かの練習をするパム・ファリスとの縦のパンフォーカス、破壊された学校の教室の中のクライヴ・オーウェンと割れた窓を通して見えるブランコのクレア=ホープ・アシティとの縦の構図、終盤の市街戦で、クライヴ・オーウェンがバスの中に退避した時、バスの窓ガラスが銃弾により割られ、その結果作り出されたバスの中と外の修羅場との窓を介した縦の構図など、「トゥモロー・ワールド」の画面はここ数年アメリカ大作の基軸とされてきた、ソウトフォーカスによって「隠す画面」ではなく、「見せる画面」によって凝縮されている。
■パンフォーカスの拒絶
この映画は極めて「被写界深度の深い」映画だと書いた。しかし、ただ見せるだけの映画でもない。二箇所だが、大きな例外がある。
一つ目は森の中でのジュリアン・ムーアの埋葬シーンだが、ここではもう一つのシーンを検討したい。
中盤、マイケル・ケインの山荘で夜、オーウェンが一人外から入って来てウィスキーを小瓶に入れ替えている時の、手前のオーウェンと、奥のソファーで女たちと会話しているマイケル・ケインとの縦の構図である。マイケル・ケインはクライヴ・オーウェンがそこにいることを知らずに、オーウェンと在りし日のジュリアン・ムーアとの昔話を懐かしそうに話し、オーウェンはそれを手前で立ち聞きしているという構図である。ここでフォーカスは最初から最後まで手前のオーウェンのみに合わされ、奥で会話をしている者達は終始ピントがボカされている。ここが議論の対象となる。
これは実に簡単な演出である。一つの空間における異なる二つの空気を「違う空気」として画面に提示したに過ぎない。手前のクライヴ・オーウェンの空気と、奥の三人の空気とは絶対に違う。だがその「違う空気」を「違う空気」として、二つの異なるフォーカスに分断し、同一画面の中で「二つの心理的空間」を提示した視点に対して我々が鈍感であっていいわけがない。凡庸な作家なら、すぐにピントを奥に合せ直してしまうか、マイケル・ケインのクローズアップに逃げるのが関の山だろう。
これだけ深い空間を主としながら、ここと言う時にそれを放棄し、違った空気を作り上げる、これは「視点」の問題であり、「倫理」の問題でもあり、「才能」の問題でもあるだろう。
★贅沢さとは
さて、最後はもちろん、誰しも指摘するであろう「長回し」である。この持続を極めた画面こそが、一時間1000ショットの細かいカッティングにより画面を隠し続けてきたてアメリカ大作とは対極にあるところの、「見せる画面」への到達点であることもまた、論を待たない。
溝口健二「唐人お吉」からオーソン・ウェルズ、ワイラーを経由し、ゴダール「ウイークエンド」、アンゲロプロス、アルトマン、相米慎二、そして黒沢清「勝手にしやがれ英雄計画」へと至るこの「長回し」という悪魔の手法は、特に複雑な移動撮影と併用される時には、リハーサル、時間、照明、演技、あらゆる犠牲と情熱により成り立つ贅沢の極みであり、プロデューサーには疎まれ、それによって身を破滅させた作家も後を絶たない。その「作家的持続体験」を、この「トゥモロー・ワールド」は、堂々とハリウッド大作映画で、それも「黒い罠」や「ザ・プレイヤー」「カミュなんて知らない」のような冒頭のワンシークエンスだけではなく、あろうことかほぼ「全編通しての全員一致協力体制の下に」やってのけたのである。おそらくこれは、ヒッチコックの「ロープ」のような室内劇を除けば、技術的にも精神的にもハリウッド大作映画史において初めての試みではないだろうか。
★「ハリーポッター・アズカバンの囚人」
このように「トゥモロー・ワールド」は、ハリウッド大作映画の「悪しき四点」すべてを回避している。
私は以前、ホームページ「STING大好きの部屋」における「天国の口、終わりの楽園」のレビューでも書いたが、長回しだの縦の構図だの、ゴダール色だのといった、ハリウッド的デクパージュとは正反対の空気を露骨に漂わせていたこのアルフォンソ・キュアロンというメキシコ生まれの監督に、あろうことか「ハリーポッター」を撮らせるようという事実に私は、当時非常に大きな違和感と同時に期待を抱き、その事実に驚きもしない社会の空気に対して不信感を感じたものである。
結果として撮られた「ハリーポッター・アズカバンの囚人」は、長回しは一箇所に留めたものの、二つの時間を被写界深度の深い縦の構図で同時に見せるという、ほとんど現代ハリウッド大作では「タブー」とされている、我々観客に対して「見ることを要求する」画面作りをしていたのである。「トゥモロー・ワールド」の「見せること」の萌芽は既に「ハリーポッター・アズカバンの囚人」にキッチリと刻印されているのだ。
★さて
以上はあくまで「悪しき4点」が存在しない、という観点からの、どちらかと言えば消極的な議論でもあり、この映画の素晴らしさを積極的に謳ったものとは言えないかもしれない。
しかしこの映画をただの「長回し論争」などから解放するという意味も込めて以上の議論は意味がある。
だがあくまでも物理的に「見る」こと、幼稚なまでに「見た」こと、唯物論的に「何が見えたか」のみを語り、書く、それが映画研究塾の基本的方針なのであるから、ここからはいつものように、まず何が見えたかを書き綴り、この映画の視覚的細部が極めて優れていることをひとつひとつ検証していきたい。
★太陽と光
「トゥモロー・ワールド」で何よりもまず指摘すべきは、キュアロンの「光」に対する徹底した拘りぶりである。「賞賛すべき者」たちの背後には、常に美しく冷たい朝日が、夕陽が、彼等を暖かく包み込んでいるのだ。「賞賛すべき者」とは、この映画でひたすら自己犠牲的に何かを守り続け、受け継がせては消えて行った男と女たちである。
1クライヴ・オーウェンがマイケル・ケインと初めて出会い、車でケインの山荘まで行く途中、左から右へとハイウェイを走る車をロングショットのパンで捉えたシーンで、手前に焼き爛れた黒焦げの人間の死体が見える。ここで驚くべきは、この黒焦げの死体ではなく、遥か遠方、車の背後にそびえ立つ二本の大木の葉と葉の隙間から、見事に一瞬「太陽が見えている」という客観的事実に他ならない。
まずこのシーンの構図は、この「太陽と大木の位置関係」から決められていることは一目瞭然であり、決して手前の黒焦げの死体から決められているのではない。あの木と木の狭い空間から一瞬、太陽の光を差し込ませたい、ここからすべての構図が決められているのである。「黒焦げの死体」は、たかだか映画の「あらすじ」に奉仕するオブジェに過ぎず、太陽と大木の構図こそ「映画そのものの物語」に他ならないのではないか。続けよう。
2二人の車はその後、不法入国者を収容した大型バスと街ですれ違う。助手席のクライヴ・オーウェンがバスを見上げる。その時、クライヴ・オーウェンの頭が少しずれる。すると、オーウェンの頭の背後に燦燦と輝いた太陽が一瞬出現するのだ。
このように、「太陽を一瞬出したりしまったり」する演出は、先日の「怪奇と幻想」映画祭の「肉」で、あのフレデリック・ワイズマンが徹底的にやっていたことでも思い出されるが、もちろんこういう演出は意図的に、太陽とクライヴ・オーウェンの頭の位置とを計算して撮っていることは言うまでもない。賞賛すべき者たちの背後に光を、ここからすべては始まっている。
3 クライヴ・オーウェン、クレア=ホープ・アシティ、パム・フェリスの三人がマイケル・ケインの山荘から朝、車で出て行くシーン。鳥たちのさえずりの中、ここでもまたマイケル・ケインの背後の森の隙間から美しい太陽が一瞬顔を見せる。これもまた、「計算の上」と見るのが正しい推測ではないだろうか。
4ケインの山荘を出た後三人は壊れかけた学校へ辿り着く。車で寝ていたクライヴ・オーウェンが目を覚まし学校の中へ入ろうと歩いている時、張り出した屋根の上からこれまた見事な太陽がクライヴ・オーウェンに向かって一直線で姿を現している。だがクライヴ・オーウェンがそのまま前進すると、太陽は屋根に隠れすぐに消えてしまう。
5同じくこの三人が、収容所行きのバスに乗せられるシーンでも、バスに乗る瞬間、バスの窓越しに正面から太陽が人々の陰に隠れては再び出現し、出たり消えたりを繰り返している。これは意図的なのか、それとも偶然か、議論の余地などあるわけもない。
★贅沢とは
「一瞬の太陽を出したりしまったりする」ために構図を作る、、、贅沢な映画だ。「太陽は待ってくれない」のだから。
映画の「贅沢さ」とは製作費云々を言う前に、まずこのように、画面に現れた究極の手間の価値を我々が実際に見て体験して感じるものではないだろうか。そこから遡って「ああ、この映画は贅沢だ。相当金をかけてやがる、、」などと貧乏作家たちは嫉妬と誇りの入り混じった複雑さの中で舌打ちをすることになる。そこから初めて「製作費120億、、やっぱりな、」となるのであって、仮に200億掛けたところで「X-メンファイナルディシジョン」のように「いったい何処に金をかけたのだ、、、」と、贅沢さのカケラもない画面の羅列もある。
「製作費~百億、=贅沢であり、いい映画を作って当たり前」などという言説は、少なくとも「映画」に関してはまったく当てはまらない。
だが、「わずか一瞬の太陽を出し入れするために構図を決める」、、、我々はこのような「贅沢」を手放しで賞賛して良いのだろうか。だがそれでもキュアロンは「やった」のであり、そこには矢張り意義がある。映画で「光」に拘ることは、成金趣味でも何でもない、映画の心なのだから。
★第三の男
現在世界の映画界は、この映画の製作費の10分の1以下でもっと「贅沢」な画面を作ることの出来る1パーセントの作家と、この映画の二倍以上の製作費を使っても、1ショットの画面すら贅沢に彩れない99パーセントの凡人たちとで成り立っていたはずであり、そうした観点からするならば、製作費120億でこれだけの「贅沢な」画面を提示できるアルフォンソ・キュアロンは、間違っても「1パーセントの作家」ではないにしても、だからといって「99パーセントの作家」でもなく、限りなく「第三の男」である、という事実を我々は冷静に認識すべきなのだ。
★ランプシェード(間接照明)による賞賛
「トゥモロー・ワールド」で、賞賛の光として使用されているのは太陽だけではない。特にこの作品は、ランプシェードの光が見事な作品といえるだろう。
1クライヴ・オーウェンが拉致され、ドームの中の小屋の中へ連れ込まれたシーン。
ここで彼は元恋人の闘士、ジュリアン・ムーアと再会するのだが、ここで出現したムーアは、背後からランプシェードの、露出オーバーで飛ばし気味の強い光を後光に受けて、神々しく体全体が白光して輝いている。部屋の窓は新聞紙で暗く塞がれた、太陽の差し込まない空間においても、ジュリアン・ムーアは既に「出のショット(最初のショット)」において、背後からの光で賞賛されているのである(ちなみにこの後電気が消され、人物は一瞬美しいシルエットで露呈される)。続けよう。
2ジュリアン・ムーアが襲撃されたあとの「FISH」のアジトで、クライヴ・オーウェンが早朝「FISH」の企みをクレア=ホープ・アシティに告げるシーン。
ここではまず真っ暗闇の部屋の中で会話が始まる。この「真っ暗闇の中で会話が始まる」という、およそハリウッド的コードでは許されないはずのところの演出は、ゴダールの影響以外には考えられないところでもあるが、このランプシェードの白光りした美しい光を背景にしたクレア=ホープ・アシティの体もまた、見事な後光で輝いている。
3廃墟のビルでクレア=ホープ・アシティが出産するシーン、ここが凄い。
もちろんこの場面の長回しもその持続した時間で生まれてくる赤ん坊も凄いが、それ以上に黒人であるところのクレア=ホープ・アシティの顔面に「ペタッ」と当たる美しいランプの光の精度が素晴らしいのだ。床に置かれたランプの光が、この暗い廃墟のコンクリートの寒々とした一室を、見事な温かみでもって照らし出し、おそらく光源はこのランプと窓の外からの弱い一点の光、この二つであろうと推測されるところの困難なローキイの黒人の照明を、完璧な計算によって達成している。
1950年代ハリウッドB級ノワールや、同じく50年代日本映画、そして70年代日活ロマンポルノに見られるような、「狙い撃ち」したように顔面の表皮を「ペタッ」と覆う、あの神秘の光なのだ。「出産」という最大の主題を、別れ去られた最高の照明で賞賛する、これもまた、光による賞賛に他ならない。
蛇足だが、クレア=ホープ・アシティがクライヴ・オーウェンに服を脱いで妊娠を明かしたのは牛の納屋の中、出産は廃墟の中というのは、凝った宗教的場所感覚である。また、クライヴ・オーウェンが妊娠中のクレア=ホープ・アシティに「あたしは処女よ!」と怒られて驚くシーンなども、こうした関係の細部からして実に面白い。
★受け継ぐこと
賞賛さるべき者たちへと向けられた徹底した光。この映画は、見事な光とその光にかける手間の価値によって、映画の主題を主題たらしめている。こうして光によって「賞賛さるべき者」たちが、映画の最初から最後を通してひたすらし続けたこと、それはただ「守ること」という単純な運動にほかならない。彼等は守り、そして必ず去ってゆく。この映画は何かを「受け継ぐ」映画であり、それ自体を光で賞賛する映画なのかも知れない。
★一瞬の光とは
その中で共通するのは、賞賛するための光が「一瞬の輝き」を見せては消えてゆくことだ。木と木との間から一瞬顔を出しては消えてゆく光、頭の陰から、森の陰から、屋根の陰からほんの束の間だが輝いては消えて行く力強い輝き。アルホンソ・キュアロンがここまで拘る「一瞬の光」とはいったい何なのだろう。
★モンタージュ
ここに「長回し」に対して「モンタージュ」という映画の手法がある。
モンタージュという映画独自の素晴らしい技法は、時間を分析し、創造し、再構成できる。ヒッチコックのように、最高のショットを最高のモンタージュで繋げてゆけば、まさに映画はすべての画面がケーキのような芳醇さで覆われることだろう。それだけモンタージュは強力であり、魔法でもある。
それに対して「長回し」は時間を持続させ、連続させ、高揚させる。だが同時に「強い力のこもった、凝縮した演技の凝集と連続がなければ画面は保てない」と依田義賢が語り(「溝口健二の人と芸術)」96)、その「欠点は粗末になりがちなこと」(溝口健二集成61)と溝口健二自身が語るように、諸刃の刃である危険な手法でもある。モンタージュがケーキだとすれば、長回しはスルメイカ、じっくり噛んでなお噛めるほどの味を持続させなければ画面は死んでしまう。
★長回しとは
さて、「トゥモロー・ワールド」の「長回し」について今度はより深く考えてみたい。
ここで例に挙げるジュリアン・ムーアが撃たれるシークエンスは「12分の長回し」とパンフレットに書いてある。
長回しは→会話、ピンポン玉の口移し、斜面を滑り落ちる炎上した車、方向転換、銃撃、オートバイ転倒、パトカーとのすれ違い、停車、発砲、ここでキャメラは車の外へと飛び出し、車は走り去る、これらの連続する出来事から成り立っている(ちなみに次のショットで雨が降る。粋な涙雨だ)。
非常に多くの出来事が連続している点が大きな特徴である。出来事は、例えばピンポン玉を口から口へと飛ばして受けたり、通行する車の前を絶妙のタイミングで斜面から滑り落ちて来た車が塞ぐといった、信じられない高度なアクション、特撮、合成の持続によって訪れては去ってゆく。
「信じられない」というのは、時間と空間とのタイミングにおけるアクションの難易度が高いということであり、例えば斜面を滑り落ちる車は、時間的に少しでもズレてしまえば長回しはすべてが「最初からやり直し」なのであるし、ピンポン玉の口移しにしても、仮にあれが合成なり特撮だとしても、少なくとも画面上は見事に我々を騙しているのであって、その難易度が高ければ高いほど我々はそこにひたすら「連続性の驚き」を実感せずにはいられないのである。まさに依田義賢が「強い力のこもった、凝縮した演技の凝集と連続がなければ画面は保てない」という、長回しの基本をそのままここでは実践しているのである。
★持続とあっけなさ
このように、連続した出来事が次から次へと生起しては去って行くという「連続性の驚き」を体験することで我々が感じるのは、決してモンタージュやスローモーション、ズームやクローズアップによって「分析されたドラマ」でもなければ「論理」でも「ストーリー」でも「スターの活躍」でもなく、ただひたすら、次から次へと現れては消えて行くを繰り返してゆく出来事の「あっけらかんとした」体験にほかならない。
最初に訪れた出来事は、次に訪れる出来事に対処することに追われることでアッケラカンと消え去ってしまい、だがその次の出来事も、そのまた次に来る事件によってあっけなく過ぎ去ってしまう。死という大きな出来事すら、続けざまに現れるパトカーとのアクションによってあっけなく過ぎ去ってしまうのである。そしてそのあっけなさは、車の走行という運動の、空間移動とスピードが加わることで、さらに加速する。
「ベルクソン的持続とは①思い出としての過去②想像上の未来③体験される瞬間、これらが同時に現前し、混合していて」「それは定義できない体験であり、それを定義するのが映画にほかならない」(映画・あるいは想像上の人間81)とエドガール・モランは書いている。
過ぎ去っては訪れるを繰り返す出来事の連鎖の集中砲火により我々は、過ぎ去って行く過去に対する感傷もままならぬうちに、襲ってくる未来への対処の繰り返しを余儀なくされ、現在の瞬間に宙吊りにされながら「持続」そのもののあっけなさを体験することになる。そういった感覚こそがこの「トゥモロー・ワールド」の「長回し」の秘密ではないだろうか。
この映画は徹頭徹尾「あっけなさ」に支配されているのだ。
★いかにして受け継がれたか・ジュリアン・ムーアの場合
持続のもたらす「あっけなさ」は、「受け継ぐこと」というもう一つの主題とも視覚的に関連している。
12分の長回しの最中、ジュリアン・ムーアは銃撃され息絶える。持続という瞬間のもたらす「あっけなさ」の中で、ジュリアン・ムーアはハリウッドの映画スターとしては、映画序盤にして余りにも「あっけなく」消え去ってゆく。ジュリアン・ムーアというスターを使ったからこそ逆に「あっけなさ」は倍増するのであり、明らかにキュアロンなり製作者は、それを計算に入れているとしか思えない。
その瞬間、ジュリアン・ムーアの任務はクライヴ・オーウェンへと「あっけなく」受け継がれることになる。
★マイケル・ケインの場合
マイケル・ケインの場合はどうだろう。彼は山荘の前で、車の中のクレア=ホープ・アシティと窓ガラス越しに手と手と合わせ「受け継ぐこと」という儀式の一部を無言の中で済ませた後、「FISH」のメンバーたちに撃たれてしまう。これをキュアロンは俯瞰のロングショットで小さく撮っている。
「悲劇とはクローズアップでとらえられた人生であり、喜劇とはロングショットでとらえられた人生である」というチャップリンの有名な発言が示すように、キュアロンは、このシーンを「悲劇」ではなく「喜劇」として撮っているばかりか、ロッド・ホイッタカーが「ロングショットは事実そのものを冷静に認識させる。クローズアップは感情的なものを表現するに適している・要約」(映画の言語53)と書いているように、ロングショットでひたすら感情を排し、三発の銃弾が撃ち込まれる瞬間をこれまた持続においてあっけなく捉えている。
こうして「古い者」は去り「新しい者」へと託されることでマイケル・ケインの「受け継ぐこと」の儀式はあっけなく終結する。
蛇足だが、ケインが撃たれる瞬間のロングショットの画面手前に、ソフトフォーカスでボカした緑の葉っぱが、画面両隅に額縁のように配置され、ナメられ、美しく画面を飾っている。私はこういう事こそが極めて重要だと思うし、これだけで泣けてしまうくらい、この葉っぱには映画の心を感じざるを得ない。仮に「意味」を求めるなら、それは「映画」なのである。
★パム・フェリスの場合
パム・フェリスはクレア=ホープ・アシティの身代わりに収容所のバスの中から唐突に一人下ろされ、外へ連れ出され、覆面をかけられる。持続した画面が左から右へと流れてゆくと、そこには既に処刑された死体が何体も横たわっている。彼女には別れを言う時間もドラマも感傷も何も与えられていない。
「受け継ぐこと」という儀式はここでもまた唐突に、持続した時間の中で開始され、あっけらかんと終結する。パム・フェリスはクレア=ホープ・アシティの身代わりに消えて行く。「事件は常に持続した瞬間において唐突に引き起こされる」という、実生活上の持続の鉄則を踏襲しながら。
★ジプシーの女の場合
ジプシー女がラスト直前、薄暗いトンネルの中で二人を送り出す。この瞬間唐突に彼女の口から吐かれた「私は残ります」と言う言葉が、この映画の主題を完璧に表している。ここは最も感動的なシーンだ。この「私は残ります」という言葉に理由など必要ない。ただひたすら彼女は「受け継ぐこと」という儀式を実行し消えて行ったまでだ。みんなで一つの何かを守ろうとしている。何かを「守ること」に理由など必要なのだろうか。
この映画をもう一度見直してみよう。事件なり出来事なりは、フレームサイズにおいてもカッティングにおいてもキャメラと人との関係性においても、すべてがすべて「唐突に」開始され「あっけらかんと」終わることの繰り返しである。
★クライヴ・オーウェンの場合
クライヴ・オーウェンはジプシー女の導きによりクレア=ホープ・アシティと共に小船に乗り、ラストへと近づいてゆく。ここで唐突に船の床に血が流れ出す。「私撃たれたわ!」と驚くクレア=ホープ・アシティを尻目にクライヴ・オーウェン曰く「撃たれたのは俺だ、、」、、、実はクライヴ・オーウェンは、あの廃墟のビルの3階で、キウェテル・イジョーフォーという凄い名前の役者に既に撃たれていたのだ。
改めて言うまでもないが、キュアロンは殊更クライヴ・オーウェンの死から、分析された「ドラマ」を拝している。撃たれて倒れ、抱き起こされ「死なないで!、、」「行け、お前は俺の希望なのだ!、、」などという、旧ハリウッド型の分析ドラマを意図的に拒絶し、ここでもまた「あっけなさ」を前面に押し出している。
カッティングにおいてもキャメラと人との関係性においても、すべてがすべて「唐突に」開始され「あっけらかんと」終わることの繰り返しである。
★あっけなさ
「あっけなさ」とは何だろう。現代の社会において、あらゆる事件は、機会原因論的に「動機」から引き剥がされ、地下鉄サリン事件のように、無動機的に突如として引き起こされては過ぎ去ってゆく。この映画の画面そのものが極めて現代的であるのは、この映画の持続体験そのものが、「長回し」などという言葉によって表象される「長さ」ではなく、逆に「事件は常に持続した瞬間において唐突に引き起こされる」という、現代社会そのものの「あっけなさ」の体験を我々にもたらすからに他ならないのだ。結局のところこの映画は、一瞬の太陽の輝きを始めとして、瞬間の積み重ねによる時間感覚を前面に押し出すことで、現代社会の唐突さと、瞬間のキラメキとを画面に定着させているのである。その意味でこの「トゥモロー・ワールド」は、画面そのものが「9.11以降」を露呈した現在の映画なのだ。
逆に「ユナイテッド93」や「ワールド・トレード・センター」とかいった作品が何故「9.11以前」の古臭い作品かと言えば、結局これらの作品は事件と時間とを分析し、創造し過ぎたがために、古典的ハリウッド映画同様「ドラマチック」で「分析されつくされた」「論理的」な作品となり、「9,11以降」の社会の持つ「あっけなさ」を描くことに失敗しているからである。
★おわりに。犬
他にも色々あって、まずこの映画は「窓の映画」であり、その他、ゴダール的切返し、現代大作にありがちな機械的轟音の排除など細部を語ればまだまだある。クライヴ・オーウェンがジプシー女に壁に絵を描いて船をイメージさせるシーンで、波を書いた瞬間通じるあのくだりも何かいい。
マイナスとしては「揺れるに任せた」という感じの手持ちカメラや、今ひとつ「黒」の出ていない画面などだが、最後に一つ、犬についてだけは書いておきたい。
この映画は紛れもなく犬の映画である。意味はまったく不明だが、兎にも角にも犬の映画なのだ。マイケル・ケインの飼い犬、大臣のオフィスの二匹の犬、序盤クライヴ・オーウェンに路上で吠え掛かるシェパード、軍用犬の数々、FISHのアジトの二匹の犬、ジプシー女の小型犬、そして何とドッグレース場まで舞台となり、そこでは「犬を探してます」のチラシが組織との暗号に使われ、その仲介役の女は鞄の中から小型犬を出している。さらにクレア=ホープ・アシティ出産のシーンでは、軍用犬の遠吠えが、BGMの代役を果たしている。これはいったい何なのだろう。笑、、、
同時に長回しと犬との関係も凝っていて、この出産シーンでは、長回しの終盤で、ジプシー女がドアの向こうで犬を呼ぶ→キャメラが下を向く→そこへ絶妙のタイミングで犬が出て行く、という、やらなくてもいいような、これまた難易度の非常に高い長回しを意地になってやっている。
★終わりに
正直に言って、この映画にはビックリしたのだから負けを認めるより仕方がない。してやられた、という感じもある。確かにキュアロンのやったことは、前述の先人たちのやろうとしたことを、金の力でもってより大きく、ハデに、しただけのこと、という意見も成り立つだろうし、それを否定するつもりもない。だがしかし、それでも「これをやった」ことの意義は大きいのではないだろうか。
同時に私が興味を持ったのは、こういう映画を「ハリウッド(アメリカ)大作映画」が作ってしまったという事実であり、それもどうやらキュアロンは、オーソン・ウェルズやシュトロハイムのような「孤立状態」であったというわけでもなさそうだという点である。どうやってプロデューサーや出資者たちを説得したのか、この点を是非聞きたい。
映画研究塾 2006年11月25日©