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藤村隆史・映画批評
この批評は2011年1月3日に映画館で二回続けて見た後、1月5日にもう一度見てから27日に提出されている。20日以上寝かせてから書かれているが、どうしてそんなに「寝かせた」かは今となっては思い出せない。当時の私はとにかく「すごい奴」だったので今の私には想像もできないことを平気でやっている。一箇所誤字を訂正しただけで全文そのまま出すことにする。2023年9月9日。藤村隆史。
「ゲゲゲの女房」(2010)鈴木卓爾~ホメオスタシスと怪奇について~2011.1.27
■師走
暗い画面にどこからか水の音が聞こえてくると、画面が明るくなって映画が始まる。針葉樹に囲まれた一本道が、画面奥右上に聳え立つ一本の見事な枯木へと向かってやや右曲りの坂道へと連なっている。画面左上の木の葉たちが風に揺れ始めると、自転車の音が聞こえてきて、画面の中に自転車に乗った吹石一恵の後ろ姿が入ってくる。師走の寒々とした山間の空気音に乗せながら坂道へと差し掛かった吹石一恵は、息をついて自転車から降り、出雲地方の民謡・安木節を歌いながら自転車を押して坂道を上り始める。キャメラは坂の上から切り返され、上ってきた吹石一恵の姿を右斜め正面から捉える。薄茶色のセーターに身を包み、酒屋のブルーの前掛けと、白手拭いを腰に掛けた吹石一恵は、坂の上の枯木の下にしゃがみ込み、道祖神を拝む。
以上がオープニングのシークエンスである。
全部で4つのショットから成立しているこのシークエンスは、一見何の変哲もないショットの連なりに見えながら、恐ろしく充たされた細部によって成り立っている。
造り酒屋の実家へと帰った吹石一恵は、積んできた白い花の花束をケースの上に置くと、しばらくしてからその花束を仏壇に供え、エプロン姿のまま膝をついて拝んでいる。29歳で独身の吹石一恵に縁談の話しがまとまりそうな夕食時の家の中は、風雨の交じり合ったような山の音の振動に包み込まれている。吹石一恵は土間を通って甥を離れのトイレへと連れてゆく。ふと見ると中庭に初雪が降り注ぎ、藁を被った妖怪がそこに立っている。それを見つめている吹石一恵の特権的なクローズアップが入り、そこから画面はいきなり宮藤官九郎との結婚記念撮影へと移行して、画面がFOし、タイトルが入る。「ゲゲゲの女房」~
この二つのシークエンスは、その後の映画の画面に大きく被さってくることになる。
出雲の山中に住む酒屋の娘。まずもってこの二つのシークエンスにおいては、彼女の日常が見事に描かれている。それを露呈させるものとは、季節の中に流れている彼女のゆるやかな運動感である。自転車をこいでいる吹石一恵が画面の中に入ってきたところから映画は始まり、彼女が坂道へと差し掛かった時、さり気なく自転車から降り、安木節を歌いながら自転車を手で押して上る、という運動の中には一片の驚きも心理も理由もなく、日常の断片としてのしなやかな運動感に充たされていて、その運動が日々の生活の反覆であることが露呈している。これは論文「心理的ほんとうらしさと映画史」の中で黒沢清の映画における人物の運動感を称して名付けた「もなか=最中」の感覚である。運動が端っこ=心理によって利用されるのではなく、運動=中=が物語を導いている。既に自転車をこいでいる「最中」の吹石一恵が唐突に画面の手前から入ってくることによって映画が開始されるのはその何よりの現れであるが、それを補強するのが、民謡と自転車と前掛けと白い手拭いであり、坂道であり民謡であり、枯木であり、道祖神であり、そこに咲いた白い花といった日常の細部である。それらは日常の中に存在し、決して驚きの中にはない。彼女はしなやかな身のこなしの中でいつものように風物に触れ、息をしながら、年に一度の年中行事の一日を、いつもと同じように呼吸している。細部が運動を促し、強めてゆく。さらに映画は、こうした細部を徹底して反覆することによって日常性の運動の坩堝の中へと我々を誘ってくるのだ。
■二月
師走の出雲から映画は突如、結婚写真撮影へと移行し、FOが入ってタイトルが入り、背後で大きなクレーンを使ったビル工事が行われている街中で姉の坂井真紀と待ち合わせた新婚夫婦は、姉の車で新居へと到達する。家へ着くと、さも一張羅といった冬服を着た吹石一恵は、この一着しか持っていません、という背広を着た旦那の宮藤官九郎と、姉の坂井真紀ともども家の中へと入ってゆく。外からはちんどん屋の賑やかな音が聞こえてくる。出雲では聞かれなかった音が初めて吹石一恵に聞こえてくる瞬間である。ハイヒールを履き腕時計をした彼女は、出雲での日常とは異なった出でたちに少々戸惑い気味である。姉が帰った後、オフからレコードの音が聞こえてきたのでその音源を訪ねてみると、夫の宮藤官九郎のレコードプレーヤーへとたどり着くのであるが、夫はそれを持って質屋に行き、引き換えに自転車を買い戻して来る。吹石一恵の元に、出雲のあのオープニングで乗っていた「自転車」という「日常」がまずもって夫の手によって帰って来る。てっきり質屋で金に換えて来ると思ってボーゼンとしている吹石一恵の頬に、夫はV字に枝分かれした小枝を突いて笑わせようとしている。D・W・グリフィス●「散り往く花」(1919)で、みずからの人差し指と中指で頬を押し拡げて無理に笑顔を作ろうとしたリリアン・ギッシュのあの二本の指の形を不思議と想起させるこのV字に伸びた小枝は、出雲のオープニングショットにおいて、坂道を上った先に立っていたあのV字に枝分かれていた「枯木」の枝ぶりと重ね合ってもいる。早速余所行きの服を脱ぎ棄て、普段着に着替えた妻は、白い「エプロン」を付けて仕事を始める。新婚旅行という余所余所しい祝宴から帰宅した吹石一恵の元には、「自転車」「枯木」「エプロン」という、映画開始時のショットに映し出された「日常性」が次々ともたらされてきている(今後、日常性を指示する細部をカッコ「」で括ることにする)。
その後吹石一恵は、これもまたオフ空間から聞こえたてくる沸騰音に誘われて台所へ行き、音源のヤカンを確認した後、突如現れた居候の村上淳を見て驚いている。その後、米屋が集金に来るのだが、それについても、勝手口から挨拶をする米屋の声はまずオフの空間から入ってくる。出雲とは異質の音声の数々が次々と妻の吹石一恵に「オフ空間=画面の外から」襲いかかってくる。
夜、俯瞰によって映し出された夫婦の食卓には、それ以前の東京のシークエンスにおいては決して入って来なかった「水の音」が「画面の外部から」聞こえてくる。懐かしそうな、大地に根付いた「水の音」は、実はこれまた出雲の第一ショットの、あの自転車と枯木の坂道のシークエンスにおいてずっと響き渡っていた「日常性」にほかならない。だが、米屋が来た時も、姉と一緒に家の中に入って来た時も、決して聞こえてこなかった「水の音」が、何故突如、夫婦の夜の食卓に聞こえてくるのか。その音源は何か。そうして遡ってみると、映画の中であり得る「水の音」とは、不思議な女(あずきあらい)と二人の男(妖怪・川男)が映し出されるあの「川」しか存在しない。その「川」は、少し戻って、町中から姉の車で「橋」を渡って家へと向かう、あのロングショットの下方において、まず一度画面の中に入って来ていたに過ぎず、果たしてこの「川」が、あの「水の音」の音源であるという証拠はどこにもない。キャメラは右から左へと走ってくる車と橋と川をロングショットで同時に映し出しながら左へとパンし、橋の左端に聳え立っている「枯木」をピタリと捉えてしみじみと終わっている。明らかにこのショットは「枯木」を画面の最後にピタリと映し出すことを意図的に実行されている。以上は、東京の家へ到着した日までのおさらいである。
■橋
この映画の中で、「橋」は先のシーンを含めて4回映し出されている。
①新婚旅行の帰り、合流した姉の車で初めて東京の家へと向かう時
②吹石一恵が自転車で初めて古本屋に行ったあとの帰り道
③吹石一恵が自転車で幽霊出版社へ向かう途中
④赤ん坊をおぶった吹石一恵が夫の宮藤官九郎と橋の上でばったり出会った時
これらの画面を良く見てみると、すべてのショットにおいて「枯木」が画面の中に映し出されている。①は先に指摘したようにロングショットで画面の左側にも②もまたロングショットで画面の左側に、③は縦の構図で画面の後方に、④もまた画面の後方にさり気なく、だがしっかりと「枯木」は自己を主張している。このすべてのショットは、実にさり気ない日常を捉えた「過程」のショットである。「橋」は目的地としてではなく、あくまで日常的運動の過程において踏みしめられる中において、出雲の日常を支配していた「枯木」とともにある。そもそも「橋」という空間は、人間にとってのアジール=避難場所としての意味を有している。「橋」は、出雲の山の中から東京という都会へと一人で出て来た吹石一恵にとってのアジールであり、「日常性」のシンボルとして現れてくるのだ。だが「日常性」としてのシンボルは「橋」ばかりではない。「坂道」もまた一般的に、人間にとってのアジールの機能を有していることは知られている。オープニングのショットで吹石一恵がわざわざ自転車を降り、自転車を「押して」通ることで強調された「坂道」は、明らかに意図的にそこに提示された「坂道」であり、東京において幾度も吹石一恵が自転車を「押して」通り過ぎたあの「橋」と重ねられている(多くの場合、東京での吹石一恵は、自転車に乗るのではなく、自転車を「押して」いる)。「坂道」も「橋」も、どちらもが目的地ではなく、運動の過程としてある。アジールとしての「枯木」の見える「橋」の上を、「エプロン」をして「自転車」を「押して」幾度も通り過ぎる吹石一恵の運動は過程として振動し、出雲の山の中から東京という大都会に出て来た吹石一恵に「日常性」=ホメオスタシスをもたらしているのである。
■水の音
先に「水の音」の音源は、橋の下の「川」しかない、と推論したが、ここで検討すべきは、先の①から④までの「橋」のシークエンスの中で、吹石一恵・宮藤官九郎夫婦と、「川」とが画面の中に同時に存在したという証拠は何処にも存在しないという事実である。①は、「橋」の上を通り過ぎる自動車と、画面の下の「川」とが、同一のショット内に映し出された唯一のショットであるが、その車の中に事実吹石一恵と宮藤官九郎が乗っていたという証拠は何処にもない。言い換えるならば、この映画の中で聞こえてくる「水の音」は、決してその音源を映画的に証拠立てて映し出されることはないのである。もちろん「川」はあの奇妙な女と男の二人組を移して幾度も映画の中に挿入されはするものの、それは「水の音」とは明らかに関係のない脈略において不意に画面を揺らすのみであり、「水の音」の音源として物語的に我々に提示されることは決してないのである。
オープニングの出雲の坂道のショットには、「水の音」がはっきりと聞こえてくる。だが画面の中のどこを探してみても「川」も「どぶ」も存在しない。4つのショットから構成されているオープニングのシークエンスには「水の音」は聞こえてきても決してその音源が画面の中に入ってくることはないのである。分離されているのだ。さらにまた、出雲の実家のシークエンスにおいても、「水の音」や、木々が風に揺れ山そのものが揺れているゴーっというような「山の音」が聞こえてくるのであるが、その音源は決して画面の中に映し出されることはない。さらにまた、東京の自宅の傍の小道にある「道祖神」の傍を吹石一恵が自転車を「押して」横切る時も「水の音」が聞こえてくるのだが、ここにもまた「川」も「どぶ」も何も存在していない。それが極限まで強調されたのが東京における「橋」のショットである。「橋」である以上当然「川」が画面の中に映し出されるはずである。だが特に②から④までの、橋の上に存在するのがはっきりと吹石一恵であると確認できるシークエンスにおいて、「水の音」が聞こえてきても決して「川」が画面の中に入ってくることはないのである。こういうのは明らかに「おかしい」。意図的に「川」を排除して撮っている。普通なら誰しも、吹石一恵と「川」とを、縦の構図で画面の中にそれとなく同時に捉えたくなるのが人情である。赤ん坊を背負った吹石一恵ちょっと欄干にもたれた④であるならば、吹石一恵のバックからキャメラを俯瞰気味に近づけて、吹石一恵と「川」とを、同一の画面の縦の構図で撮ってしまいたくなる、それが物語の誘惑というものである。ところがこの映画は、悉くそうした「音源を指し示す」という物語的行為を拒否し、音と音源とを分離している。
■音の分離
ここまでの検討でこの作品は、「水の音」や「山の音」どころか、ちんどん屋であれ米屋であれレコードであれやかんの沸騰であれ、その音声はまず「画面の外部」から入って来て、その中には米屋の声やレコードの音、やかんの沸騰音のように、後にその音源を指し示すこともあれば、「水の音」や「山の音」などのように、決して「音源」を指示しないこともある。どちらにせよ、音と音源の「分離」という現象が画面の在り方と大きく関わっている。
■「私は猫ストーカー」(2009)
前作、●「私は猫ストーカー」の批評を私は『外部に対する知的欲求をさり気なくやり過ごしながら、うそとほんとうとの「あいだ」を心地よさそうに揺れている。』と書いて終わったのだが、音声についてもまた
「我々が、その音声を『生き生きしている』と感じるのは、その音声が「ホンモノ」であるかのように聞こえる時ではない。「ホンモノである保証はどこにもない」と聞こえるときである。映画は、「オリジナル」にせよ「原作」にせよ「物語」にせよ、画面を背後から超越的に縛っている「不動の外部」の鎖から解き放たれた時、初めて「時間」という「自由」を得て生き生きとするのである。」
と書いた。音源を指示しないこととは、音と音の背後にある物語との整合を拒絶することである。人間は、音源という「物語」が音とともに指し示される時、音を音源とセットで聞いてしまう傾向から自由になれず、音を「そのもの」として聞けなくなる。音声をその音源から分離することとは、音声を身体的に体験することであり、その振動を感じることである。悉く外部から聞こえて来る生活の音の数々は、外部から聞こえて来るが故に、内部において振動するのである。
■ホメオスタシス
この映画は、ある種の共通性=「日常性」に充たされている。オープニングのさり気ない出雲の坂道のシークエンスは、この映画全体の「日常性=ホメオスタシス」を端的に支えているのだ。ホメオスタシスとは恒常性であり、サーモスタットのように、温度が変化した後で事後的に温度を調節するようなシステムとは違い、体温調節のように事前に環境の変化に対応するシステムである。それはあたかも店の在庫調整のように事前に調整がなされることで、外見上は何等の変化も無かったように、人間の日常的生活を支えている。吹石一恵は、出雲の山の中から東京へと大きく外部の生活環境を変化させてしまっている。そんな東京の生活において吹石一恵のホメオスタシスを維持するものとは、まずもって出雲の田舎において吹石一恵の「日常性」を支えていた細部の数々に他ならない。「自転車」「枯木」「坂道=橋」「水の音」「エプロン」「安木節」「道祖神」といった「日常性」が、東京という都会の荒波にさらされ、怪奇な夫に翻弄される新妻、吹石一恵のホメオスタシスを支えているのである。
■怪奇な夫、宮藤官九郎
漫画家、水木しげるに扮する宮藤官九郎の描く漫画の世界が怪奇の世界であることは言うまでもない。出版社に原稿料を取りに行って不在の夫の仕事部屋の掃除を妻がしているとき、ふとゴミ箱の中から拾い上げた丸められた原稿を拡げると、書かれていた絵が動き始め、「水の音」やゴーッという「山の音」が聞こえ始める。そこには、その後幾たびか反覆される「丸められた紙を拡げ直す」という行為に付随して発せられる心地よい紙質の音声が映画的快感として我々を揺らすことを知り尽くした録音技師菊池信之の感覚が豊かに露呈しているのであるが、ごみ箱の中にさり気なく棄てられた漫画の原稿から発せられる「水の音」や「山の音」といった音声が、出雲時代における妻、吹石一恵のホメオスタシスを支える「日常性」と共通のものであることは大きな意味を有している。下宿人の村上淳を怒鳴りつけて家を飛び出したあと、「安木節」を小さく口ずさみながら自転車を「押して」墓地の中を歩いてくる吹石一恵のロングショットからクローズアップまでを、まるでD・W・グリフィス●「世界の心」(1918)で、戦場へ夫のロバート・ハーロンを探しに一本道を歩いてくるリリアン・ギッシュの姿を捉たえあのショット内モンタージュを髣髴させるようにたむらまさきが持続の画面に1ショットで捉えた後、まさに「戦場」で負傷し左腕を失う夫の回想が入り、その夜、夫婦でロールキャベツを食べた後、初めて妻は夫の仕事を手伝い、原稿に「黒」を塗っているそのとき、絵の中のゲゲゲの鬼太郎が布団の中から起き出し、その途端、「水の音」が画面いっぱいを振動させ始め、その音に導かれるように鬼太郎が廊下を渡って外へ出ると、男が一人、「枯木の下」でギターを鳴らして歌っている。
■怪奇と「日常性」の通底性
「ゲゲゲの女房」ではアニミズム的な「怪奇」が、日常の生活の過程において日々連続して起こっている。出雲の裏庭に突如現れた妖怪に対して吹石一恵はまったく驚きもせず、意識すらせず、当たり前のようにそこにあるものとしてそのまま受け容れている。東京では、そこにいるはずのない姑の南果歩が突如画面の中に現れて吹石一恵にあれこれと小言を述べるシーンにしても、夫と初めて喧嘩をして家を飛び出した時に目の前に立っていた甥っ子にしても、一切の映画的説明の不在の中で突如現れ、心理も驚きもなしにそのまま画面の中に入って来ている。そうした趣旨を殊更強調して撮られたのが、2月の終わりごろ、吹石一恵が夫の代わりに出版社に原稿料を取りに行って果たせず、帰って来て夫に泣いて詫びたあとの夜のシークエンスである。妻が原稿を手伝っていると、突如外からの光線が暗くなり、電球を付けようとしたが料金滞納で止められていて果たせず、代わりにローソクを付け、夫の話しが始まる、その長回しのワンショットの持続の中で突如、吹石一恵の背後に妖怪の女が現れ、ふっと息を吹いてローソクの灯を消すと、「山の音」や「水の音」がどこからともなく聞こえて来る、、という演出であるが、このシークエンスは、典型的に④→③→②→①の順序で撮られている。おばばが背後からローソクの灯を消す→ローソクを灯す→電気は止められていてつかない→暗い部屋→外からの照明を落とす(日が暮れる)、、、という思考の流れである。こうしたマクガフィンとしての思考の回路は、このシーンをワンショットの長回しで撮る思考と重なり合っている。妖怪おばばを持続した時間の中で出現させる→長回しで撮る、という回路は同時に、どうすれば豊かな長回しになるか→光の強度を微妙に変化させる、という思考へとバックしている。曾根中生●「天使のはらわた 赤い教室」 (1979日)、加藤泰●「明治侠客伝 三代目襲名」 (1965)、蔵原惟繕●「硝子のジョニー 野獣のように見えて」(1962)等、日本映画史には同じ空間の中で光が大きくその態様を変化させてゆく作品が間々あるが、そうしたショットは大抵長回しで撮られている。そこには「光の変化」という現象を、持続の中に収める映画的な欲望が露呈している。光の変化は、変化であるがために逆に持続を補強し、持続もまた不変であるが故に光の変化を際立たせる。持続した時間空間の中で「そのまま」妖怪が出現することを映画的に有らしめるためにこそ光が変化し、様々な細部の工夫がマクガフィンとして砕かれていのだ。
東京のシークエンスでふと路地に現れる「枯木」と「道祖神」にしても、「そのまま」画面の流れの中に入ってくるのであり、動き出す漫画の妖怪にしても、「そのまま」動き出している。5月のとある日に黒いバナナを夫婦で食べているとき、南洋風の葉っぱを被った妖怪が出現する時にしても(妖怪は寒そうにしている。しかし居間のカレンダーの数字が31日まであるので7月か。だがその後のシークエンスで、二度目に行った幽霊出版社にかけられているカレンダーは6月を指し示している。ということは5月か)、妖怪たちは縁側の左から「そのまま」出てきて踊り始めている。本来異質なものの登場を示唆するオーヴァーラップ、ナレーション、モンタージュといった映画的言語がすべて排除され、「そのまま」持続した時間空間において「怪奇」「霊性」といった事実が普通に画面の中に入ってくることを常とする「ゲゲゲの女房」の運動は、「怪奇」と「日常性」との通底を露呈させながら揺れ動いている。
■「ゲゲゲの女房」
怪奇とはそもそもが「日常性」に他ならない。夫の怪奇は「日常性」と通底し、「日常性」の中で生まれてゆく。そこへ「坂道」「水の音」「枯木」「道祖神」といった自然的霊性をホメオスタシスとして生きている妻がやってきたとき、漫画の怪奇に、生活そのものに根付いた「日常性」としての霊性が浸透してゆく。この作品が「ゲゲゲの夫」ではなく「ゲゲゲの女房」であるのは、夫の作品に自然的霊性としての「内助の功」をもたらす妻の側から撮られているからである。
■柱時計
「エプロン」「坂道=橋」「水の音」「山の音」「自転車」といった細部が吹石一恵の田舎から東京にかけての共通する「日常性」であるとするならば、柱時計の時計の音は、夫婦生活において新たに登場した「日常性」=ホメオスタシスにほかならない。2月の始め、夫が幽霊出版社に原稿料をもらいに出て行った留守の家の中で初めて妻の吹石一恵は踏み台を置いて、止まっていた柱時計のねじを巻き、カチカチという音声を夫婦の家屋内に生じさせている。ここに新たに、夫婦の共同生活の日常を支える音が出現している。そもそも柱時計は、出雲の屋敷の居間にも掛けられていたが、その時の画面の中には決して「カチカチ」という時計の音は聞こえて来てはいない。重要なのは柱時計という物語=音源ではなく、音そのものであることからするならば、出雲の視覚的に存在した柱時計はたかだか「物語」に過ぎず、それはこの映画の根底を支えている振動=分離された音声=を何一つ指し示していない。「柱時計」は「カチカチ」という音声を独自に発し始めた東京において初めて、吹石一恵のホメオスタシスとして振動しはじめるのである。ホメオスタシスは恒常的に保たれていなければならず、従って時計の針が止まる前に、「事前に」ねじを巻かなければならない。従って東京の家で柱時計の「ねじを巻く」という運動は、吹石一恵の生活の一部として無意識的に習慣化されて現れることになるだろう。その習慣が崩れた時、事件が起きる。
■妊娠
6月 吹石一恵が二度目に出版社を訪ねたその日、雷雨で戸を閉めようと外へ出ると、宮崎将が隣の家の軒下にうずくまっている。妻は宮崎将と下宿人、村上淳も誘って夫と四人で食事をするが、そのために出費がかさんだのか、柱時計を質に入れてしまう。その帰り、吹石一恵は家の前で姉の坂井真紀に会い、そのまま姉の家に一泊することになる。結婚後、初めて吹石一恵が家を留守にしたのは、「柱時計(の音)」という新たな生活のホメオスタシスを失った直後である。次の日、夫の宮藤官九郎が黄色いバナナを持って、農道のバス通りでバスを待っている妻の吹石一恵を迎えにくる。あの狭い一本道の砂利道の農道に、いったいどんなバスが通れるのか、さも10分ほど前にそこに置かれましたと言わんばかりに置かれているバス停の標識の胡散臭さ共々映画は日常と怪奇の狭間を吃音気味に綱渡りしながら、電線を背景とした舗装された一本道で、妻は夫に妊娠を告白する。「家を出る」「妊娠」という非日常的な事件の数々が、「柱時計」が質屋へ預けられた後、突如として夫婦のあいだに降りかかってきている。講談社からの条件の良い誘いを断ってしまった夫との、初めての大喧嘩という事件が惹き起こされたのは、大きなお腹をした吹石一恵が「柱時計」のねじを巻こうとしてその不在にハタと気付いた直後である。ホメオスタシスが崩れた時、マクガフィンとして非日常的な事件が惹き起こされる。
■ダンス
師走に出産した吹石一恵は、赤ん坊を背に「枯木」の下の「白い花」を摘んだあとの帰り道、「橋」の上で宮藤官九郎と鉢合わせする。おそらく背後の電線を相当に意識して撮られたであろう宮藤官九郎の見事なウエストショットが撮られたあと、帰ると家に税務署員が来ていて、余りの収入の少なさに脱税をしているのではないかと疑いの視線を投げかけてくる。奥では、立ったまま赤ん坊を背負った吹石一恵が、右へ、左へと、まるでダンスを踊っているかのような優美なリズムで赤ん坊を揺らしてあやしている。とうとう夫の宮藤官九郎は怒りを爆発させ、税務署員に借金の証文の束を投げつけるのだが、吹石一恵はその修羅場に取り乱すどころか、まったく同じリズムで右へ、左へと揺れ続けている。それまで外界の環境に流されていた妻が、まったく動じることもなく、一定のリズムで右へ、左へと規則的に揺れ続けることで、その揺れに充たされた生活の「日常性」が画面そのものを揺らしている。そのあと夫婦は二人で出雲の民謡「安木節」を歌い始める。出雲のあのオープニングのショットにおいて「自転車」から降りて坂道を上がってゆく吹石一恵によって歌われていた「安木節」が、初めて夫婦のあいだに共有されている。講談社の柄本佑が再びやってきてニュースを伝え、夫婦は初めて「自転車」に二人で乗り、望遠レンズで撮られたバックの「枯木」が迫ってきそうな冬の路地を飛ばしながら、「水の音」のする電線の墓場で浮遊する人だまを二人で目撃する。赤ん坊を抱いた妻が右へ、左へと恒常的な運動で充たされた時、それまでは吹石一恵の細部であった「日常性」が、夫婦によって共有されてゆく過程がさり気なく撮られている。
■エピローグ~白い花
映画は師走に始まり、そして師走に終わっている。ふたりの結婚式が2月であったのは、10か月の妊娠期間を経過した師走に映画を終わりたかったからに他ならない。師走には子供が生まれ、「枯木」の下に「白い花」が咲く。赤ん坊を背中に背負った吹石一恵が、出雲のあの「枯木」の下で摘んだ「白い花」を初めて東京で摘むことによって、出雲での彼女の生活を充たしていた「日常性」はすべて回復され、質屋から受け戻された「柱時計」がそのチクタクという音声を刻み付けながら、夫婦の生活は、揺れ動く自然の振動の中に続いてゆく。
映画研究塾.藤村隆史2011.1.27