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以下は2010年8月10日、11日、そして18日に3回目を見て21日に出された批評です。日記を見ると17日に「カリフォルニア・ドールズ」を見直したりしています。全文そのまま再出します。赤く塗ったところは私が重要だと感じた「定義」のようなものが書かれている箇所です。こういう映画を撮った人はその後、映画を撮る機会に恵まれなくなります。2023年9月11日 藤村隆史。
映画批評/藤村隆史
『ローラーガールズ・ダイアリー』(2010)ドリュー・バリモア~失われた痕跡を求めて 2010.8.21
祖父にジョン・バリモアを、大叔父と大叔母にそれぞれライオネルとエセルの大バリモアを持つこのドリュー・バリモアが監督第一作として撮った『ローラーガールズ・ダイアリー』を書くこと、それ自体、緊張と恐怖に充ちた未知の体験である。撮ってはならないものが撮られている、撮れるはずのないものが撮れるはずのない時代にあっけらかんと撮られているという驚きを的確に表現する言葉はないからである。あらゆるシーンが始まった瞬間既に次のシーンによって侵食されていき、その次のシーンもまた、そのまた次のシーンによって即座に追い越されてゆく。早い。頓着しない。頓着せずとも映画はある運動によって「映画」になることを既に知っているかのような大胆さによって映画は撮られている。貴族だ。セリフが意味を成しておらず、画面はひたすら運動によって進んで行く、、、、これだけでこの映画を言い当てたことにはならない。『画面はひたすら運動によって進んで行く』のであれば『画面はひたすら運動によって進んで行く』だけの理由が存在しなければならない。どうしてこの映画の『画面はひたすら運動によって進んで行く』のか。わけのわからない映画に直撃されたとき、細部を羅列すること、そこから始めるしかない。
■出のショット
出のショット=映画の中で最初に出てくるときのショット=ついて、エレン・ペイジとドリュー・バリモアという、主要人物二人のそれを見てみよう。
主役のエレン・ペイジの場合、オープニングの美人コンテストの会場のトイレの中で顔にタオルを巻いた状態で、青く染められた髪を洗い落としているシーンから入っている。
ドリュー・バリモアの場合、エレン・ペイジが初めて観戦に行ったローラーゲームの倉庫の会場のリンクで、観客に紹介される時が出のショットである。ドリュー・バリモアはリンク上で左足を高く後方に上げながら滑走し、観客にポーズを取っている。
この二つの出のショットに共通するものがある。それは『人物の顔がよく見えない』ということである。エレン・ペイジの顔はタオルで覆われていて見えないし、ドリュー・バリモアのショットもまたロングショットであり、「2番、当り屋、スマッシュリー!」といった解説がアナウンスされて初めて我々はその女がドリュー・バリモアであるということをかろうじて特定しうるに過ぎない。通常、主役や、みずから出演している監督が初めて画面の中に出てくる場合、そのクローズアップを何らかの形で入れて我々観客に人物の特定をさせ、感情移入をさせる、というのが、少なくとも「クローズアップ」という手法が常套として使われ始めた1915年以来(実際には20年代以降)の伝統的ハリウッドの手法であった筈である。それをこの映画は完全に拒否している。
伝統的な、特にトーキー以降のハリウッド的なデクパージュにおける出のショットとは、髪を振り乱して登場してきたあの「ギルダ」(1946)のリタ・ヘイワースが指示するように、主人公を「劇的に見せること=放っておかないこと」のドラマによって貫かれていたはずであり、そうした傾向は、宮崎駿の「借りぐらしのアリエッティ」(2010)におけるアリエッティの出のショットにまで連なる映画的な王道であった筈である。出のショットの映画史を知っているからこそ出のショットを拒絶することに意味のあるドリュー・バリモアに対して、そもそも「出のショット」の存在などまったく考えたことすらない現代の凡庸な作家群の出のショットの存在しない作品はひとまず置くとして、『ローラーガールズ・ダイアリー』のドリュー・バリモアは、その明らかな反動性から意図的にハリウッド的な出のショットの伝統に逆らい、主役たちの「顔」を画面の中にダイレクトに収めることを頑なに拒絶している。
■放っておかれること
ローラーゲームにおいてコーチのアンドリュー・ウィルソンが敵のコーチにこちらの作戦NO3を教えている時の背景を見てみると、ベンチに横並びになって座っているエレン・ペイジやドリュー・バリモアが何やらしゃべったりふざけたりしている。だがキャメラは彼女たちをロングショットの縦の構図の奥の空間に放っておいたまま、決して彼女たちの表情を取り込もうとはしていない。ピントは画面の手前のみに合わされており、パンフォーカスとして撮られてはいないことから、奥の娘たちはピンボケで、その「放っておかれ度」は際立っている。さらにその前にはもっと際立つシーンがある。スケートの練習後、エレン・ペイジがリンク脇で「暴力マギー」ことクリステン・ウィグから「コーチとは男女の関係で付き合ってはならない」という趣旨のことを言われている時のバックの光景である。ここでキャメラは、エレン・ペイジとクリステン・ウィグの二人のあいだを構図=逆構図による切返しによって捉えているのだが、キャメラがクリステン・ウィグへと切り替えされたとき、その背景にドリュー・バリモアを始めとする三人の女たちがシネマスコープの画面の左隅に縦の構図で入ってくる。女たちは何やら談笑をしているようであるが、ピントは手前のみに合わされており、奥の三人娘たちはボヤけたままその人物を特定することすらできない。そもそもその左端の一人がドリュー・バリモアである、と特定できたのは、その前のショットでバリモアがそちらの方向へ歩いていったからに過ぎず、仮にそのショットが不在であるならば、背景の人物のひとりをドリュー・バリモアである、と特定することは不可能であるくらい、奥の三人娘のロングショットはぼやけていて見えにくい。キャメラは何度も切返されるが、その都度背景には、おしゃべり三人組の、決して聞き取ることも、また、人物を特定することもできないうごめきのようなものがそのまま映し出され、そのまま放って置かれ、何の説明もなされていない。結局キャメラはその三人娘を背景に取り込む切返しを7回繰り返している。7回である。ただでさえおかしなショットが7回も反復されたことを気づかない批評家は世界にただのひとりたりとも存在しないことを願うばかりだが、そうしてキャメラが切返される度に、その奥にはまるで奇妙な小動物がうごめいているかのように、あの三人組がきっちりとシネマスコープの画面の左半分に紛れもない存在感によって意図的に配置され、それでありながら、そのまま放って置かれているのである。
私は「アマルフィ 女神の報酬」の批評において、『「放っておくこと」とは、物語の連続性に裂け目を生じさせ、「露呈」させることなのだ。画面の手前と、背景とが、決して「手前と奥の」という遠近法的で均質的な「読める物語」としての「関係」へと求心されることなく「ただそのもの」として絶対的に差異化されるのである。』と書いた。
『ローラーガールズ・ダイアリー』において画面の奥に放って置かれる人々=ベンチに座っている女たちや、三人娘たちの遠景におけるピンボケ画面のうごめきは、前景で繰り転げられている「交渉」や「説教」という物語とは「何の関係も有していない」という驚くべき資質から、その場に亡霊のように痕跡として留まり続けているのである。
■喜劇
「放っておかれること」とは、ロングショットとであることとも通底している。『悲劇とはクローズアップでとらえられた人生であり、喜劇とはロングショットでとらえられた人生である』と言ったのはチャップリンだが、遠景において人々が繰り広げる意味不明の運動は、制度的な遠近法から解き放たれている。ドリュー・バリモアは、あの三人娘を「喜劇」として撮っているのである。幾度も幾度もキャメラが切返され、その都度手前で繰り転げられる物語とは何の関係もない小動物的運動の反復がなされることによって三人娘は手前との関係から切り離され、露呈してしまう。ロングショットはその「無関係さ」を距離によって補強することで喜劇としての強度を強めているのである。
終盤、真っ黒なテンガロンハットをかぶったエレン・ペイジの父親(ダニエル・スターン)が女たちのロッカールームにやってきて「暴力マギーさんはいますか?」と問うたとき、シネマスコープの画面の右端でなんともすまなそうに「はい、私が暴力マギーです」という感じで手を挙げるクリスティン・ウィグ(暴力マギー)の姿は、ロングショットの中に収められたまま放っておかれているがゆえに喜劇として成立している。ここでドリュー・バリモアは間違ってもクリスティン・ウィグのクローズアップに寄ることはあるまいと確信させてしまうその映画的記憶とは、まさにチャップリン的喜劇(というよりもキートン的)の現代におけるバリモア的反復にほかならない。
エレン・ペイジやドリュー・バリモアの出のショットは、ただでさえ物語から亀裂した驚きを感じさせずにはいられない「ギルダ」におけるリタ・ヘイワースのあの髪を振り乱してそっくり返った出のショットからさらにもうひとつ「スター」という最後の物語までもを剥ぎ取ってしまった暴挙にほかならず、ベンチに座っている女たちや、三人娘たちの遠景におけるピンボケ画面のおしゃべりは、前景で繰り転げられている「交渉」や「説教」という物語とは「何の関係も有していない」ことにより露呈するのだ。
こうして、通常のウェルメイドのハリウッド映画においては見ることのできない細部を羅列しながら検証してみた時、ドリュー・バリモアの画面は物語ではなく、「物語とは何の関係もない」ところの画面の運動への埋没の中で実行されていることを確認することが出来る。エレン・ペイジとドリュー・バリモアのそれぞれの出のショットは、「髪を洗う」「リンクでポーズを取る」という運動の流れの中で撮られたものにほかならず、画面の奥に放って置かれる人々についてもまた、手前の物語とは何の関係もない異質なうごめきとして際立っている。「スター」不在の現代映画において、それでも敢えて「スター」を求める宮崎駿と、運動へと加速するドリュー・バリモアとは、似ているようで異なっている。
■音声と振動
音について検討してみたい。例えば映画開始直後の美人コンテストにおいて、青い髪で出て来てひんしゅくを買ったエレン・ペイジのスピーチの終わり際の「サンキュー、、」という声である。この「サンキュー、、」という、何ともすまなそうな挨拶の言葉は、エレン・ペイジではなく、会場に来ていた母親のマーシャ・ゲイ・ハーデンの顔に重ねられている。声が、エレン・ペイジから「分離」しているのだ。声の発信源であるエレン・ペイジから声だけが分離し、母親であるマーシャ・ゲイ・ハーデンに重ねられている。声を、その発信源と重ねることが「心理的物語」であるとするならば、声を発信源から分離して、他に重ねることは「喜劇」である。こうした性向は、先ほどの三人娘を奥に捉えたショットとまったく同じである。三人娘が「手前」という「物語=遠近法」から分離され、奥において「露呈」するとしたならば、声は、「発信源」という「物語=遠近法」から分離され、他者の顔に重ねられる事で「露呈」する。重要なのは、そのどちらにおいても「物語=心理との接合」ではなく、「物語=心理からの分離」が図られていることである。視覚的な運動が、縦の構図やロングショットにおいて物語から分離されるのと同じように、聴覚的な運動もまた、分離によって物語から隔離され、振動する。エレン・ペイジの「サンキュー、、」という声は、それがエレン・ペイジ本人ではなく、娘の髪の色に唖然としている母親のマーシャ・ゲイ・ハーデンの顔に重ねられることによって「サンキュー、、」という意味合いから解き放たれ、そのものとして振動する、それが喜劇を呼び込むのだ。
序盤、大きなブタの彫像が目印のドライブインにやって来てハンバーガーの大食いに挑戦する男が、ガールフレンドの女をくすぐってじゃれるシーンがある。ここでも画面はそれを白けて見つめているウェイトレスのエレン・ペイジへと即座に切返され、女の「フギー!フギー!」というブタのような鳴き声だけがオフの空間から聞こえて来る。ここでは「フギー!フギー!」という声が人間から「分離」される事で、それが人間の声ではなく「ブタの鳴き声」として我々の鼓膜を振動させ、それを白けたエレン・ペイジの顔と視覚的に重ねる事で喜劇としての効果を倍増させている。ほんの一瞬の演出だが、これもまた「サンキュー、、」とまったく同じ性向によって演出されている。
ジュリエット・ルイスによってエレン・ペイジがロッカーの中に閉じ込められたシーンも同様である。ここでもまた閉じ込められたエレン・ペイジの声が本人から「分離」され、「もしもし、誰かいませんか?」、というエレン・ペイジの哀れな声だけが情けなくもロッカールームにこだましている。声を本人から敢えて分離させる事で、その振動そのものを喜劇として露呈させているのだ。
そうした性向を指し示すような台詞がある。終盤、ソバカスの親友、アリア・ショウカットがエレン・ペイジと喧嘩をしたあとのシーンである。アリア・ショウカットはドライブインでモップをかけながら店長に「私の声質がおかしくても、それは親友を失ったからだと思わないで、、、チームメートに嫉妬しているのでもない、、」と、言葉の内容ではなく「声質」について言及している。こんなことを言わせる映画を私は見た記憶がないが、この映画が言葉の内容ではなく「声質=振動」について意識的であったことがここにはっきりと露呈している。ドリュー・バリモアにとっての映画的喜劇とは言語的にではなく、モンタージュと距離と構図と声の振動によって視覚的、聴覚的に達成されるのだ。
ちなみにこの後アリア・ショウカットはいきなり店長にキスをするのだが、そのシーンでもまたキスをしている二人の背景の老人客は、リアクションを取っているにも拘らず、ひたすら画面の奥に放っておかれている。
■ハンバーガー
「分離=喜劇」という観点からするともうひとつ面白いのがある。終盤、ドライブインの厨房でエレン・ペイジをアリア・ショウカットが非難するシーンである。アリア・ショウカットは徹底的にエレン・ペイジを非難するのだが、その手元では大食い競争用の巨大ハンバーガーが作られている。だがアリア・ショウカットは怒りに震えており、もはや悲惨としか言いようのない状態においてグシャグシャなハンバーガーが組み立てられて行くのである。見ている私は、「非難すること」という「悲劇」と、それとは別に、そこから分離された、もうひとつの運動であるところの「ハンバーガーを組み立てること」と、そこから派生する、「このハンバーガーを食う客がいる」という「喜劇」とに分裂されるのである。このシーンを見たとき、私ははっきりとドリュー・バリモアを天才と確信したが、その基本的資質として「アウトレイジ」(2010)の北野武が、厨房でやくざが店主を脅かす際に店主の指を切り落とし、その指の入ったラーメンが客に出される、というものと似通っている。だが北野武は、実際そのラーメンを食う客を具体的に描写することによって喜劇を倍増させているのに対し、ドリュー・バリモアはハンバーガーを食う客の描写をしていない。どちらが喜劇として優れているのか。どちらにせよ、ここでもまた「分離」という現象が引き起こされていることに注目すべきである。「分離」させることとは、物語や心理からの「ずれ」を生じさせ、露呈させることにほかならない。ラストシーンの前で、美人コンテストで貸したドレスを娘が返しに来たとき、エレン・ペイジが控え室の鏡台に忘れた手紙をマーシャ・ゲイ・ハーデンに渡している。ここで読み上げられた感動的な言葉もまた、手紙の発信源であるエレン・ペイジから「分離」されていたことは、まったくもって偶然でもなんでもない当然の成り行きである。ドリュー・バリモアの映画では、本人の前で泣きながら感動の手紙を読むようなバカはひとりも存在しない。そうした性向は、手紙を読み終わったマーシャ・ゲイ・ハーデンが慌てて振り向き、そこに人がいないことをわざわざ確認してから涙を拭いた演出にはっきりと現われている。それはイーストウッドの「グラン・トリノ」の批評で書いた「羞恥心」でもあり、一流の作家たちがほぼ共通して併せ持っている貴族の資質である。
■美
出来事を本体から分離する性向は、「美」という観点にもそのまま反映されている。まずもって女たちの髪の毛を見てみよう。エレン・ペイジの髪の毛は終始その頭部にベッタリと張り付き、間違っても朝シャンシャンプーリンスの心地良いフワフワ感によって我々を癒してはくれはしない。右から左へと大きく分けられたドリュー・バリモアの髪にしても、女たちの髪の毛はみな、汗ばんで頭部にべっとりと張り付いてしまっている。女たちだけではない、エレン・ペイジの恋人であるランドン・ピッグにしても、コーチのアンドリュー・ウィルソンにしても、その髪の毛はべったりしている。あのロバート・アルドリッチの遺作「カリフォルニアドールズ」における女子プロレスラーのコンビですら、その髪の毛はふわふわの朝シャンヘアーであったことを想起するならば、この作品の人物の頭部に張り付く髪の毛は紛れもなく異質である。女たちの髪は、エレン・ペイジの出のショットにおけるびしょ濡れの髪に始まり、風呂に放り込まれたエレン・ペイジの髪や大乱闘でケーキやパイをべったり塗られたドリュー・バリモアの髪が象徴するように見事に濡れそぼり、ベッシャリと湿っている。ここで「髪が風になびく、」という映画的運動を犠牲にしてまでも作品が得たものは、表向きの美からは分離されたところの、剥き出しになった美そのものの「重さ」にほかならない。
■重力
ローラーゲームという、徹底したボディ・コンタクトによって描かれる美は、「美人」の美でもなく、「言葉」の内容における美でもない。剥き出しとなった肉体の美であり、あらゆる制度的鎖から解き放たれた重力としての美の重みである。それは重力を克服してなされる近代的空中戦ではなく、重力の重みの中で地を這い近距離の的と体をぶつけ合って決する古典的な地上戦であり接近戦である。ドロップキックではなくショルダーアタック、スープレックスではなくヘッドロックの世界。転倒し、這い上がり、転倒してはまた這い上がる。ローラースケートとは、そのスピード感溢れる滑走とは裏腹に、ローラーと地面との接着面が「飛べないこと」として襲い掛かる重力的装置なのである。
だが、早まってはならない。剥き出しとなった重力=重さ=がそのまま美として露呈する、という現象は、ローラーゲームにおいてのみ顕著に現われるものではない。ローラーゲームという「物語」だけに引き付けられて書かれた批評は、この映画からローラーゲームが抜け落ちてしまえば沈黙せざるを得ない物語的な批評に堕する恐れに充ちている。ローラーゲームもまたひとつのマクガフィンに過ぎない。重力とは、出のショット、構図、人物配置、髪の毛のあり方等等、この映画のあらゆる瞬間に貫かれた決定的な主題であり、この映画のあらゆる瞬間は、「~からの分離」という、純粋運動によって剥き出しとなった出来事の「重さ」と「振動」という「ナマモノ」によって貫かれているのである。それは、ローラーゲームの戦いだけではなく、映画全編の基本的な演出としての「分離する運動」が、重さと振動を「ナマ」として露呈させているからにほかならない。ローラーゲームを撮ったからこの映画が重さと振動の映画になるのではない。重さと振動の映画を撮る資質のある者がたまたまローラーゲームを撮ったに過ぎない。
■ボディランゲージ
純粋運動として繰り広げられる女たちの「重さ」の跳梁は、そのコミュニケーションにおいてもボディランゲージの形となって露呈することになるのは至極当然である。初めてのローラーゲームの会場で、エレン・ペイジが青年ランドン・ピッグと出会い見つめ合うことができたのは、親友のアリア・ショウカットがエレン・ペイジの体を押してランドン・ピッグへと「ぶつけた」ことが発端であり、パーティでのドリュー・バリモアの婚約者に対するコミュニケーションは、馬乗りになって殴ることである。窓から映画的に忍び込んだ夜のプールで二人が泳ぐときに為された合図は、エレン・ペイジが泳ぐマネをすることであったし、チームメイトの凶暴コンビの内のひとりは耳が不自由であり、それに対してコーチのアンドリュー・ウィルソンが試みたのは、自分の目を指差して「アイ(私)、、、、、」という手話ならぬボディランゲージそのものであったのは例外的な出来事ではない。女たちがひたすらその二の腕を殴りあってコミュニケーションを紡いで行くのもまた常態に過ぎない。人々の出来事は物語や心理からの鎖を解き放たれて「分離」され、純粋運動の「重さ」として露呈する。
■光景を思い浮かべること
女たちのボディランゲージは、言葉から表象への分離によっても達成されている。中盤のパーティのシークエンスで、バスルームで男に抱かれながら傾いて出て来たアリア・ショウカットが気持ち悪くなり、便器に向うシーンがある。ここで介抱しているエレン・ペイジが試みたのは、アリア・ショウカットを吐かせるために、両親の原光景(セックスシーン)を言葉によって語りながら、「視覚的に思い描かせること」であったのはまさにこの作品の肝を現している。ここでアリア・ショウカットは言葉の意味に反応して吐いたのではない。言葉の意味を一旦表象としてのイメージへと転換=「分離」したことで両親の原光景が露呈してしまったからこそ吐いてしまったのだ。シニフィアン(記号)からシニフィエ(意味・概念)へではなく、シニフィアンからイメージへと転換させたのである。さらにまた、その原光景の表象が、今度はキャンピングカーの揺れ=両親の原光景への疑惑=となってエレン・ペイジに視覚的に降りかかってくる。ドリュー・バリモアは徹頭徹尾、映画をしている。
■思春期
成瀬巳喜男の論文で書いたように、重力とは思春期の性的な気だるさであり、成長のために通過すべき過程の試練である。
最初のローラー・ゲームが終わり、アリア・ショウカットの車で家に送られて帰って来たエレン・ペイジが、家へと続く庭を右から左へととぼとぼ歩いて行くシーンを捉えた移動撮影の醸し出す気だるさは、思春期の重力のエロスを極限まで露呈させた驚くべき感性の賜物である。力あるショットは、「物語とは何の関係もない」からこそ撮られてしまい、そうであるからこそ既にこのシーンは失われ、痕跡しか止めていない。事実、このシーンに言及できた批評は存在しない筈である。
エレン・ペイジが恋人とシャツを交換した後、画面は走り去って行く恋人の車を見送るエレン・ペイジの姿へといきなり転換される。ここでは、恋人が車に乗り、おそらくは「じゃあまた」などと笑顔を交わしたであろう心理的なシーンが全部カットされている。そして画面はいきなり、恋人の車を見送るエレン・ペイジの顔を映し出している。このエレン・ペイジの顔は間違っても笑顔ではない。気だるそうに車を見つめ、そして家へ向ってトボトボと歩き始めている。それはあらゆる断定を拒絶するところの思春期の女に降りかかった重力のエロスであり、恋人のジャンパーをドラム缶で焼くシーンも同様のエロスに包まれている。気だるく、重く、それでいながら力に満ち溢れた青春の空気が画面を覆っている。
■マクガフィン
「重さの映画」の中には、マクガフィンを常態として見出すことが出来る。運動=重さを支点に映画が撮られている以上、シナリオは④→③→②→①と逆行して当然だからである。
例えば序盤、倉庫でのテスト後、エレン・ペイジがジュリエット・ルイスにロッカーの中に閉じ込められるシーンがある。エレン・ペイジはその後やって来たコーチのアンドリュー・ウィルソンに救出されるのだが、そのとき試験の合格を言い渡される。このシーンは「合格を言い渡す」という劇的な運動を、どういう場所で、どういう状況で行うか、から逆算して撮られている。エレン・ペイジは、ロッカーの中から顔を出した滑稽な状態で、合格を聞いてにっこりと微笑む、まずこの光景がドリュー・バリモアの頭の中にあり、そのためにエレン・ペイジはロッカーの中にわざわざ閉じ込められたのである。
ドライブインで、エプロンをしたエレン・ペイジと親友のアリア・ショウカットが、ラジオから流れてくる「ジョリーン」のメロディにつられて二人で突如踊り出すシーンがある。二人はそのままカウンターの中へ入り、アリア・ショウカットがふんぞり返ったところでエレン・ペイジは店の外に憧れの青年を見つけてしまい、支えを失ったアリア・ショウカットは倒れてしまう、というシーンだ。ここもまた映画は、「エレン・ペイジとランドン・ピッグとの再会」という劇的なシーンをいかなる場所で、いかなる状況で行うかを支点に運動しており、二人のダンスはそのためのマクガフィンとして撮られている。ドリュー・バリモアは、絵になる運動から逆算して映画を撮っているのである。そしてまた、この二人のダンスは「マクガフィン」であるからこそ、躍動し、生き生きと運動することを忘れてはならない。もっと言うならば、仮にこのダンスが「マクガフィン」でなかったとするならば、そもそもこのダンスは撮られていないのである。今、そこにさり気なく流れている運動が、決していつどこにでもあるものと思ってはならない。我々がそこにある運動をエモーションとして体験しうることの中には必ずや「マクガフィン」としての豊かさが散りばめられている。マクガフィンとは「関係ないこと」の感動であり、亡霊であり、多くの映画においてマクガフィンとは物語的な作家たちによる「撮られないこと」によって喪失し、仮に撮られたとしてもハワード・ホークス「ハタリ!」のエルサ・マルティネッリとレット・バトンズのジャムセッションのようにそれが「物語とは何の関係もない」という理由でカットされたまま上映されるか、仮に上映されたとしても、それを見た者たちに「読まれること」によって遡及的に消されてしまう運命にある。マクガフィンとは「失われたもの=亡霊」であり、映画を見て書くこととは、「読まれること」によって失われたマクガフィンを「見ること」によって発掘し、確かにお前は存在したとその来訪の痕跡を私事的に宣言することにほかならない。映画批評とは秘密結社の一員としての「見ること」でしか救出することのできない痕跡を掘り起こすところの私事的な公務である。エレン・ペイジがバスを遅らせてしまったために気まずくなった車内の空気を、隣りの席に座っていた銀髪の老婆への「キレイな髪ですね」というたったひとことで一変させてしまったのは、その一言が「物語とは何の関係もなかった」からにほかならない。
マクガフィンを続けよう。
中盤、ローカールームでコーチのアンドリュー・ウィルソンが作戦ノートを各自に渡すシーンがある。ここで何故かドリュー・バリモアだけが遅刻して入ってくるのだが、遅刻はダメだぞ、といわれたドリュー・バリモアが振り向くと、彼女の鼻には絆創膏が貼られている。これはただのギャグなのだが、問題は、この鼻に絆創膏をした情けない女の姿をどう見せるか、であり、そのためにわざわざドリュー・バリモアは遅刻して振り向いたのである。賭けてもいい。映画における喜劇とは物語とは関係がない、そんな簡単な事実でありながら、殆どの理屈っぽい作家たちが永遠に知ることの出来ない鉄則を、ドリュー・バリモアは当然のように知っている。
序盤、エレン・ペイジがフットボールのシャツを着て小旗を振りながら、両親に「アリア・ショウカットとフットボールの応援に行く」と嘘をつくシーンがある。これは、ローラーゲームへ行きたいがための口実なのだが、ここで父親が「ではワシも一緒に行こう」と言ったあと画面が娘たちに切返されると、二人はボーゼンと凍りつき、振られていた旗が静止している。この瞬間、我が金沢のシネモンドで珍しく笑いが惹起したのだが、それは、それまで二人によって振られていた旗の運動が、ハタと止んだからにほかならない。二人の娘によって持たれたこの旗は、振られるためではなく、あるいはそれ以上に「振り止むため」に持たされたのである。それまでパタパタと揺らめいていた物体がピタリと静止する。笑いとは、そうしたことから視覚的に生まれる。それをドリュー・バリモアはどうしたわけか知っている。現代の消費社会は、あらゆる運動が物語と直結し凡庸化している。それが仮に小さな物語であれ、運動と物語との関係は加速している。それに対して『ローラーガールズ・ダイアリー』は徹頭徹尾「反物語=マクガフィン」によって貫かれている。「振られる」ためではなく「振り止ませる」ために旗を持たせるという資質こそ、天才というに相応しい。
■運動はマクガフィンの坩堝へ
ドリュー・バリモアの映画が、心理や物語から分離された運動や振動によって成り立っているとしたとき、映画はマクガフィンの坩堝と化して当然である。物語ではなく、運動が起点となって映画が作られているのだから。
序盤、麻薬の売られている店で靴を買う、買わない、というシークエンスがあるが、当然ながら、こんなものに何の意味もない。ここでドリュー・バリモアが見せたかったことはただひとつ、ローラースケートを履いた三人娘が風のように店の中に入ってきて、ショーウィンドゥの上にチラシを置いてまた風のように去って行くこの運動である。このシークエンスはまさにこの三人娘のシュルレアリスム的侵入行為を描くためにのみ存在するマクガフィンにほかならず、フォークギターの乾いた音色に乗せて、エレン・ペイジを夢の世界へと誘うために異次元の世界から異界の扉を無化してやって来た決して美人とは言えない大柄な女たちをまるで妖精のように撮ってしまったドリュー・バリモアの決定的な才能が乱れ飛んだ瞬間である。
■ずらすこと
一流の作家たちがほぼ共通して持っている資質=ずらすこと=分離を、ドリュー・バリモアはどういうわけか知っている。
私がこの映画の特異性について最初に感じたのは、実はエレン・ペイジの出のショットではなく、その直後、コンテストが終わった駐車場でライバルの娘が走ってくる車の中からエレン・ペイジめがけて「パン!」とピストルを狙い撃ちするポーズをした時である。キャメラはエレン・ペイジの車の中からライバルの娘をフロントガラスのフレーム越しにロングショットで捉えただけで、決してその娘の近景には寄らない。ここは今の若い監督ならば、ほぼ100%の確率で寄りのショットを撮りたがるケースである。寄りを入れる事で判りやすく心理的な説明をすることができる。映画を制度に「接着」させることができるのである。ところがドリュー・バリモアはそうしたショットをあからさまに拒絶し、画面を物語や心理から分離させている。このシーンはほんの0.5秒ほどで霧散してしまうのだが、寄るだろう、寄るはずだと凝視している私の眸を「寄らないこと」によって見事に裏切ってしまう。『ローラーガールズ・ダイアリー』は、しっかりと目を凝らして見ていなければたちどころに霧散してしまうようなさり気ない、だが決定的なショットによって満たされている。
■重力からの解放
重力という重みから逃がれることもできずに押し潰されそうになっている者たちであるからこそ、重力から解き放たれた一瞬が忘れがたきエモーションとなる。
エレン・ペイジの髪は、恋人、ランドン・ピッグとの水中での戯れによって重力から解き放たれてフワフワと逆立って躍動している。エレン・ペイジの髪の毛がベッショリとした重みから初めて解放されたのはこの瞬間である。
さらにエレン・ペイジは、最後のローラーゲームのシークエンスにおいて、リンクに横たわった敵の選手を「飛び越える」瞬間にも重力から解放されている。そして映画は、この「飛び越える」という無重力の運動を、映画の中でただ一度のスローモーションによって強調している。
思春期の娘が重力から解放されてゆく姿を決定的な場面で描きながら、映画はラストシーンを迎えている。エレン・ペイジは、ドライブインの屋根の上に聳え立つ大きなブタの彫像の上に座っている。キャメラはゆっくりとクレーンで移動しながら、座っているエレン・ペイジをクローズアップに捉えるまで接近して行く。登るための階段も通路も存在していない、そこは人間の立ち入りの予定されていない高い場所である。そこにエレン・ペイジはひとり座って何かを眺めている。こうして映画は、ひとりの少女が重力という思春期の重みから解放された瞬間をもって終わっている。
■椅子が逆さまに
エレン・ペイジの恋人であるランドン・ピッグの二回目のライブの時、ほんの一瞬だが、それを見つめているエレン・ペイジの姿が映し出される。そのシネマスコープの画面の左横には、テーブルの上に逆さまに乗せられた幾つもの椅子の足が、逆光と順光の織り交ぜられた見事な照明によって輝いている。時間にして0.5秒程度、だかこの僅か0.5秒に、ドリュー・バリモアの作家として性向を決定的に見出すことが出来る。
ここからは『ローラーガールズ・ダイアリー』を見習って言葉は控えよう。酒場であれ学校であれ会社であれ、映画史において、椅子が逆さまになって画面の中に出て来た作品の一部を順不同でここに羅列する。これを見て、ドリュー・バリモアとは何者かを各自、判断して頂きたい。
「ウエスタン」「ワンスアポンアタイムインアメリカ」「コットンクラブ」「ピアニストを撃て」「モンパルナスの灯」「彼等(きやつ)は顔役だ!」「紳士は金髪がお好き」「浮草の宿」「幻の女」「ラウンドミッドナイト」「稲妻」「夫婦」「晩菊」「俺は待ってるぜ」「僕は戦争花嫁」「夕陽のギャングたち」「たそがれ酒場」「我が胸に凶器あり」「ナッシュビル」「バーバーリ・コースト」「柔道龍虎房」「大酔侠」「デス・プルーフinグラインドハウス」「私のように美しい娘」「暁の脱走」「左利きの女」「翼に賭けた命」「マリア・ブラウンの結婚」「ギルダ」「街の野獣」「ナイトアンドザシティ」「とらんぷ譚」「ラインの仮橋」「犯罪王リコ」「世界の涯てに」「悲しみは空の彼方に」「日陽はしづかに発酵し、」「その護送車を狙え」「ベンジャミン・バトン」「次郎長三国志第一部」「センチメンタルアドベンチャー」「ラストシューティスト」「偽れる装い」「ジャーマン+雨」「けんかえれじい」「ビリディアーナ」「母」「イングロリアスバスターズ」「アバター」「お嬢さん乾杯」「ジョンカーペンターの要塞警察」「黒い罠」「海外特派員」「死刑執行人もまた死す」「カバーガール」「無頼の谷」「セクシー地帯」「ソナチネ」「リラの門」
ここにドリュー・バリモア『ローラーガールズ・ダイアリー』が仲間入りする。
映画研究塾・藤村隆史2010.8.21