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ホラー、怪物映画、内側からの切り返しによる分断表 題名にはYouTubeで検索しやすいように原題を書いておきます。数字はすべておおよそです。


 

作品 監督

正面(人物が映画内でキャメラを正面から見据えたショットの数

内側からの切り返しによる分断
1896 悪魔の城「悪魔の城
Le Manoir du diable
フランス
ジョルジュ・メリエス ?。遠く画質も悪いので瞳が見えない。 なし。切り返し自体が存在しない。
1910 フランケンシュタインFRANKENSTEIN
エジソンスタジオ
J・サール・ドーリー ちらちら なし。切り返し自体存在しない。
1913 ブラーグの大学生
DER STUDENT VON PRAG
ドイツ
シュテラン・ライ 1ショット。ラストシーンのみ。無いまま終わると思って見ているとラストシーンで劇的にキャメラを正面から見据えている。 なし。切り返し自体が存在しない。
1915 サタンのラプソディ
Rapsodia Satanica
イタリア
ニーノ・オクシリア Nino Oxilia 7ショット。基本はちらちら。はっきりは以下
黒猫を抱いたリダ・ボレッリがフルショットでキャメラを正面から見据えながらキャメラに近づいて来るが次第に目を逸らす。
切り返し自体が以下の3箇所存在する。 

①リダ・ボレッリがレースのカーテンを開けた時の外の馬に乗った男(アンドレア・ハベイ)のシルエットとのあいだは、2ショット内側から切り返されそのまま終わっている。主観ショットの体裁で撮られている。

②その直後、再びリダ・ボレッリがカーテンを開けた時の外でギターを弾いている恋人たちとのあいだは、2ショット内側から切り返されそのまま終わっている。これも主観ショット。

③今度は違う窓から、①と同じように窓の外の馬に乗った男のシルエットと2ショット切り返されて終わる。これも主観ショット。その直後の分裂した鏡のシーンは圧倒的。

■評 すべて窓の内側と外側切り返しであり、グリフィスの短編「LONEDELE OPERATOR(女の叫び)(1911)においてなされたような切り返しがそのまま受け継がれている。
1916 ホムンクルスHomunculus
ドイツ
オットー・リッパート クローズアップであり。しかしはっきり見続けてはいない。ほとんどはちらちら。 なし。基本的に1シーン1ショットで撮られていて切り返しはなくはないが趣旨がはっきりしない。クローズアップ、平行モンタージュとも少ない。
1918 呪の眼
Die Augen der Mumie Ma
ドイツ
エルンスト・ルビッチ  ちらちらが基本。 5箇所

①アラビアの娘ポーラ・ネグリとドイツ人の画家ハリー・リートケとの初めての出会いのシーンで2人のあいだは、8ショット目でネグリが岩陰に隠れるまですべて内側から切り返されそのまま終わっている。1ショットの同一画面も撮られていない。

②マックス・ローレンスのボックス席と舞台の上のポーラ・ネグリとのあいだは、5ショット目にボックス席へエミール・ヤニングスが入ってからもさらに内側からの切り返しが続けられ、13ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。

③屋敷で椅子に座って談笑しているポーラ・ネグリと、彼女の背後のカーテンを開けて姿を現したエミール・ヤニングスとのあいだは、最初と最後のショットで2人は同一画面に収められているが、2人は「鏡の中だけ」で同一画面に収められているのであり(『奇妙な同一画面』)、その2つの『奇妙な同一画面』に挟まれた4ショットはすべて内側から切り返されている。ヤニングスがネグリの背後にいるために2人は鏡を通して視線を絡めているこのシーンは自分の背後にいるヤニングスに気づきながらも鏡の中を凝視して呆然と立ち上がるポーラ・ネグリが失神してしまうに相応しい恐怖を鏡の中での奇妙な同一画面と内側からの切り返しによる分断が露呈させている。

④その後、ベッドで横になっているポーラ・ネグリの寝室のレースのカーテンの向こうからヤニングスが入って来るシーンで2人あいだは、3ショット内側から切り返され4ショット目に2人は同一画面に収められているが、ヤニングスはレースのカーテンを通して透けて見える状態のまま画面に収まっており(『奇妙な同一画面』)、そのままこのシーンは終わっている。ここもまた『奇妙な同一画面』が分断を際立たせている。

⑤ヤニングスがポーラ・ネグリの屋敷の二階の窓から侵入する時の2人のあいだは、ヤニングスの手が窓に見えてから25ショット目で2人が『正常な同一画面』に収められるまですべて内側から切り返されている。窓を割って入って来るヤニングスと電話で助けを読んでいるネグリはどちらもキャメラの右方向を見ていてイマジナリーラインが合っておらず、キャメラを正面から見据えてはいないもののゆっくりと近づいて来るヤニングスのバスト・ショットを後退移動で捉えたこのシーンは、サスペンスを生ずるとき、人は内側から切り返さなければならせない、という法則があるかのごとくに撮られている。

■評 コメディの王様エルンスト・ルビッチはホラーの王様にもなり得たであろう細部の数々がここに撮られている。①~⑤の中で『正常な同一画面』の撮られたのは⑤においてだけであり、ここで2人は最期を迎えている。エミール・ヤニングスのグロテスクさによってオブラートに包まれているものの、この作品で撮られているのはヤニングスとポーラ・ネグリとのラブストーリーにほかならず、これを発展させた作品が「キング・コング」(1933)である。

1919 カリガリ博士DAS CABINET DES DR. CALIGARI
ドイツ
ロベルト・ウイーネ 17ショット。ちらちらが基本。はっきりは以下。
●舞台の上で眠り男(コンラート・ファイト)が目を覚ました時、アイリスで囲まれたクローズアップでキャメラを正面から見据える。●精神病院の院長室で座っているカルガリ博士(ヴェルナー・クラウス)が顔を上げた時のウエスト・ショットが。やや視線が正面からずれているようにも見えるが。●白髪に白い髭の患者がクローズアップでキャメラを正面から見据えてわめいている。
2箇所。

①舞台の上のカルガリ博士と眠り男の2人と、「私はいつまで生きられますか?」と質問するハンス・ハインリッヒ・フォン・トワルドフスキー(以下、友人)とのあいだは、最初のショットで同一画面に収められているが友人は後ろ姿のロングショットで「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、さらに1417ショット目に同一画面に収められているが友人は後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)22ショット目に『正常な同一画面』に収められて終わるまで内側からの切り返しによって分断されている。

②カリガリ博士(ヴェルナー・クラウス)によって操られた眠り男チェザーレ(コンラート・ファイト)が夜な夜な人を襲うというこの作品において唯一、チェザレが人を殺すシーンが撮られているのが友人を刺し殺すときである。眠り男が友人を刺し殺すシーンにおいて2人のあいだは、ベッドで寝ている友人の壁に眠り男の影が迫り、友人の両手のクローズアップと怯えるショットが撮られた後、最後は眠り男と友人の「影だけ」が同一画面に収まり(『奇妙な同一画面』)、その「影だけ」によって眠り男は逆手で握ったナイフで友人を刺し殺しそのままシークエンスは終わっている。これは厳密には「切り返し」ではなく、友人だけのショットによって構成されていて眠り男へは切り返されてはいない。ただ、2人を『正常な同一画面』に収めないことにおいて、ある種の分断の性向の一場面としてここに紹介しておく。
1920 巨人ゴーレム
DER GOLEM, WIE ERIN DIE WELT KAM)
ドイツ
パウル・ヴェゲナー 11ショット

キャメラを正面から見据えるショットはほとんどがウエスト・ショットかロングショットで、クローズアップは失神した娘リディア・サルモノアが目を覚ましてゴーレムを見る時だけであり、これも横たわっている娘のショットで真正面ではなく、却ってこの作品の人物たちはキャメラを正面に見そうになると目を逸らす、という傾向を示している。

なし
  霊魂の不滅(Körkarlen)
スウェーデン
ビクトル・シェーストレーム 10ショット。すべてちらちらではっきりと見ているショットはなし。 1箇所。

死んだからだから抜け出たビクトル・シェーストレームとやって来た死神の御者(トーレ・スヴェンボルグ)とのあいだは、19ショット目で『正常な同一画面』に収められるまで内側から切り返されている。こちらを向いた御者と男とのイマジナリーラインがずれていて、分断の性向を見出すことができるかもしれない。

■評 その他にも内側からの切り返しが多くなされているがどれも最後は『正常な同一画面』に収められており、ひとつひとつのショットにも「ずれ」を生じていない。この作品は回想によって進められる善悪を基準としたメロドラマであり「原因」が先に来て「結果」があとから来るように撮られているので、ショットを内側からの切り返しによって分断したとしても分断の奇形的な効果を生ずることはない。この作品に分断の性向の「起源」を見出すことはできない。
1921 吸血鬼ノスフェラトゥNOSFERATU: EINE SYMPHONIE DES GRAUENS
ドイツ
フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ   ムルナウ参照。
1922 魔女
HAXAN
デンマーク、
スウェーデン
ベンヤミン・クリステンセン
Benjamin Christensen
13ショット。はっはりと見ているショットが多い。 4箇所。

①悪魔の創りだした幻想に老婆が反応するシーンで老婆と扉の向こうで輪になって踊っている者たちとのあいだは、7ショット目で駆け寄った老婆とダンスをしている者たちが同一画面に収められているが老婆は後ろ姿なので「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)それ以外の6ショットはすべて内側から切り返されている。

②さらにその直後、背後から老婆を呼ぶ若い娘たちと老婆とのあいだは、4ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。

③魔女狩りで捉えられた老婆が拷問室で判事に審問される時、老婆と判事、僧侶たちとのあいだは、拷問室に連れてこられた老婆が椅子に座られるとき同一画面に収められ何とか老婆の顔を特定できることから『正常な同一画面』に収まっているとして、その後、4ショット目でもまた同一画面に収められているが老婆は後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、その後、老婆の拷問が開始されるが最初のショットで同一画面に収められているがロングショットで老婆を特定できず(『奇妙な同一画面』)、次のショットと4ショット目では足かせに固定された老婆の「足だけ」と判事たちの「手だけ」「下半身だけ」が同一画面に収められ(ダブルで『奇妙な同一画面』)、そこから(痛みに負けた老婆が自分が魔女であるとの想像上のイメージシーンが撮られているがここはすべて省略する)35ショット目でシークエンスが終わるまでキャメラはすべて内側から切り返されて老婆と判事たちは分断され続けそのまま終わっている。このシークエンスは判事たちと老婆との場所的関係がまったく撮られずひたすらクローズアップとキャメラを正面から見据えるショットが内側から切り返されていることにおいてカール・ドライヤー「裁かるるジャンヌ」(1927)に酷似している。

④悪魔にそそのかされた尼僧がナイフを逆手に握ってキリストの聖体を突き刺すシーンの悪魔と尼僧とのあいだは、5ショット目と7ショット目で尼僧とナイフを握った悪魔の「右手だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)12ショット目で2人は『正常な同一画面』に収まっている。さらに18ショット目でも再び2人は同一画面に収められているもののその瞬間振り向いた尼僧は後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)28ショット目で悪魔とのシーンは終わるまでこれら以外はすべて内側からの切り返しによって分断されている。

■極めて分断の性向の強い作品でありこれら以外にも分断の性向を見出すことは可能である。同時代のカール・ドライヤーが撮ったと錯覚してしまうような細部に満ちている。
1925 オペラ座の怪人THE PHANTOM OF THE OPERA ルパート・ジュリアン 11ショット。
怪人(ロン・チェイニー)に監禁された女(メアリー・フィルビン)が背後から怪人の仮面を剥ぐシーンで怪人はキャメラを真っ直ぐ見据えている。
なし。
映画序盤、オペラ座の新しい所有者の二人組が桟敷席に座っている怪人の後ろ姿と、そしていなくなった怪人の椅子と切り返されるショットが内側から撮られているが、どちらも一度だけの切り返しであり、そこに内側の性向を見出すことはできない。
1927 猫とカナリアTHE CAT AND THE CANARY
アメリカ・ユニヴァーサル。
パウル・レニPaul Leni 42ショット。

ちらちらも多いがはっきりキャメラを見ているショットも18ショット程度ある。
5箇所。これら以外にも内側からの切り返しによる分断を認めることは可能。

①遺言状を公開するためにテーブルに座った7人の者たちと立って見ているメイドおのおののあいだは、最初のショットでテーブルの7人が『正常な同一画面』に収められ、3ショット目で再び『正常な同一画面』におさめられるものの、6ショット目ではタリー・マーシャルとアーサー・エドマンド・ケリーの「手だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、その後38ショット目でローラ・ラ・プラントが握手を求めに来た者たちと同一画面に収められるまですべてが内側からの切り返しによって分断されている。キャメラを正面から見据えるショットが幾つも撮られ遺言状の内容を聞いて驚く女の顔が歪むショットの撮られたこのシーンは強い分断の性向によって撮られている。

②病院から逃げ出した精神異常者を探しに来た守衛(ジョージ・シーグマン)と、三人組(クレイトン・ヘイル、ガートルード・アスター・フローラ・フィンチ)とのあいだは、最初と2つ目のショットで同一画面に収められているものの、その後23ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。三人組がキャメラを正面から見据えるショットの撮られたこのシーンもまた分断の性向に満たされている。

③タリー・マーシャルがいなくなり、2人組の女たちから『彼女は居場所を知っているのよ』と疑われた相続人ローラ・ラ・プラントと他の者たちとのあいだは、22ショット目で一同が部屋を出てゆくまですべて内側から切り返されそのまま終わっている。ローラ・ラ・プラントが精神的に追い込まれてゆくシーンを彼女のクローズアップと内側からの切り返しによる分断によって心理的に閉塞させて撮られている。

④警官に捉えられた犯人たちと、他の招待客たちとのあいだは、13ショット目で『正常な同一画面』に収められたあと、25ショットで再び『正常な同一画面』に収められるまですべて内側から切り返されている。

⑤ラストシーンで椅子の裏側に隠れている2人と、ドアを開けて入って来た者たちとのあいだは、6ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。

■評 翌年フランスで撮られた「アッシャー家の末裔」(1928)と似たようなカーテンが風に揺れる長い回廊の撮られているこの作品は、キャメラを正面から見据える傾向においても共鳴し、その結果としてショットは分断される傾向に至ることにおいても呼応している。

妖花アラウネ
(ドイツ)
ALRAUNE
ヘンリック・ガレーン 2ショット ちらちらよりもキャメラをはっきり見ているショットの方が多く非常に正面の傾向の強い作品。●眠っているパウル・ヴェゲナーにブリギッテ・ヘルムが近づいていくとき、後退移動と共にヘルムのバスト・ショットでキャメラを正面から見据えている。●その直後、ヴェゲナーの首を絞めようとする時のヘルムの大きなクローズアップでキャメラを正面から見据えている。●さらにヘルムが去っていく時、顔を向こうに向けるその寸前まで執拗にキャメラを正面から見据えている。●ヘルムがコンパクトを開けた時、鏡の中のヘルムの右目とヴェゲナーの顔が2ショットキャメラを正面から見据えている。 その他。 3箇所 以下以外にも見出すことは可能。

①息子が父親の鞄からお金を盗む時、『正常な同一画面』に挟まれた10ショットが内側から切り返されている。

②列車内の狭い通路に立っている男と椅子に座っている女ブリギッテ・ヘルムとのあいだは、8ショット目で『正常な同一画面』におさめられるまで内側から切り返されている。座席に座っているブリギッテ・ヘルムと狭い通路に立っている男との小窓を挟んだ狭い空間におけるクローズアップによる切り返しは、おそらくはそれぞれが別々に撮られていることと相まって「ずれ」を生じさせ2人のだけの心理的世界を作り出している。

③ブリギッテ・ヘルムがパウル・ヴェゲナーの眠っている寝室に入って来た時の2人のあいだは、569ショット目で同一画面に収められているがヘルムが後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)11ショット目には眠っているヴェゲナーとヘルムの「手の影だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、それ以外の11ショット目はすべて内側から切り返されそのまま終わっている。ブリギッテ・ヘルムがキャメラを正面から見据えているショットがクローズアップを含めて何度も撮られたこのシーンは強い分断の性向に依っている。
1928 アッシャー家の末裔
LA CHUTTE DE LA MAISON USHER
フランス
ジャン・エプスタン 55ショット。

そのうちクローズアップではっきりとキャメラを正面から見据えるショットが18もある。

特に右表の②においてキャメラを正面から見据えるクローズアップが撮られ続けている。

5箇所。基本的にあらゆる空間が分断されて撮られている。

①妻の肖像画を最初に描くシーンで大広間に入って来た妻と夫とのあいだは、外部のシーンを除くと、最初のショットで同一画面に収まるが、ロングショットなので2人をその人と特定することはできず(『奇妙な同一画面』)、その後キャメラは夫の持つパレットや夫の手などのクローズアップを挟みながら夫と妻のあいだを何度も切り返されるがすべて内側からの切り返しであり、最初に同一画面に収まった『奇妙な同一画面』以降、全22ショットの中で2人が『正常な同一画面』に収まることなくシークエンスは終わってしまう。

②肖像画を描かれている妻が生気を失ってゆくシーンにおける妻と夫のあいだは、屋敷の外のシーンを除くと、パレットを手にした夫が妻へと接近してゆき、生気を失ってゆく妻と絵を描き続けてゆく夫との間を、パレット、ローソク等のショットを交えながら次第に高速なフラッシュバックによって撮られてゆき、52ショット目で初めて夫婦が大広間のロングショットで『正常な同一画面』に収められるまですべて内側からの切り返しによって分断されている。キャメラを正面から見据える夫の異様なクローズアップが何度も挿入されているこのシーンはイマジナリーラインも放棄され、客観的空間も無視された心理的閉塞性の中で極めて強い分断の性向を露呈させている。

③描かれている妻が失神するシークエンスにおける夫と妻のあいだは、絵を描いている夫と倒れてゆく妻のスローモーションが内側からの切り返しによって撮られ続け、その後友人(シャルル・ラミー)が入って来ると、17ショット目と20ショット目で倒れている妻の体と夫と友人の「足だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)22ショット目では失神し夫に抱き抱えられた妻と夫の「腕だけ」が同一画面に収まり(『奇妙な同一画面』)、そこからは台車のようなものに乗って疾走する夫の大きなクローズアップと、肖像画と、抱かれている妻のショットが高速なフラッシュバックでつながれてゆくのだが、その間、抱かれている妻と、夫の「腕だけ」が同一画面に収まる『奇妙な同一画面』が続き、35ショット目でやっと『正常な同一画面』が撮られるまで夫と妻とは分断され続けている。

④埋葬されたはずの妻が歩いて来るシークエンスにおける妻と夫とのあいだは、扉が開いて妻が霧の中をこちらへ歩いて来るショットのあと、夫や友人とのあいだでキャメラは何度も内側から切り返され20ショット目になってやっと同一画面に収まるが、ぼやけたロングショットではっきりとこの三人だと断言することはできず(『奇妙な同一画面』)、そこから5つ目のショットで夫と妻が同一画面に収まるが夫は後ろ姿で顔は見えず(『奇妙な同一画面』)、全25ショットの内『正常な同一画面』は1ショットも撮られておらずひたすら内側から分断され続けている。

⑤3人が燃えている屋敷から逃げ出すシーンにおける3人のあいだは、6つ目と8つ目のショットで三人は同一画面に収まるが一瞬のロングショットであの三人だと特定することはできず(『奇妙な同一画面』)、そこからさらに2つ目のショットで妻を抱き抱えながら友人と逃げる夫のロングショットが撮られていて、ロングショットであるもののなんとかこの三には「あの三人」だと特定しうるものの、『正常な同一画面』と言うには余りにも不確かであやふやである(不確かであやふやな『正常な同一画面』)。そこから5つ目のショットで3人は同一画面に収められているがロングショットで「あの三人」と特定はできず(『奇妙な同一画面』)、そこから3つ目の夫と妻のショットは後ろ姿で特定できず(『奇妙な同一画面』)、そこから2つ目のショットもまた『奇妙な同一画面』であり、その次のショットで初めて三人のクローズアップが撮られ『正常な同一画面』が撮られている。だがそのクローズアップにしても遠くからキャメラへ接近して来るショット内モンタージュであり、「正常」と言うには余りにも奇妙な正常画面として撮られている(
余りに奇妙な『正常な同一画面』)。次のショットでさらに一人加わるがロングショットでその三人は特定できず(『奇妙な同一画面』)、そこから3つ目のショットもまたロングショットの『奇妙な同一画面』、そこから3つ目のスローモーションのショットでは夫のジャン・ドビュクールが左腕で自分と妻の顔を隠すという『奇妙な同一画面』が挿入され、その2つ後のショットもまた抱き合っている夫婦の顔は見えず(『奇妙な同一画面』)、そこから8つ目のショットでもまたぼやけたショットは夫婦の同時存在を不確かにさせ(『奇妙な同一画面』)、さらにそこから2つ目のショットではかろうじて夫婦の同一性を確認できるかどうかであり(かろうじて『正常な同一画面』)、その4ショット後に映画は『FIN』の字幕で終わってしまう。

■評 『分断の映画史』の中でも最も奇形的な分断の撮られた作品であり『正常性』という物語への帰属を終始否定して撮られている。⑤は暗いシーンをロングショットで撮った結果そうなっただけでそこに分断の意志なるものは存在しないのではないかという疑問もあるだろう。しかしこれだけ多くのクローズアップが撮られているこの作品の⑤で撮ろうとすれば撮れるところのクローズアップでの『正常な同一画面』が上の余りに奇妙な『正常な同一画面』しか存在しないということは、『奇妙な同一画面』とはその同一性が奇妙であればあるほど意図的な分断性が際立つという出来事の現れであり、偶然で片付けてはならないことのように見える。

  アンダルシアの犬
UN CHIEN ANDALOU
フランス
ルイス・ブニュエル 10ショットくらい。ベッドに寝ている男が帽子男に襲われるシーンなどではっきりと見ている。女が目をカミソリで切られるシーンはさほどはっはりキャメラを見ているわけではない。 17分で7箇所。実際にはもっと存在する。

①二階の窓のカーテンを開けて下を見る女シモーヌ・マルイユと、外で自転車を転倒させる男ピエール・バチェフとのあいだは、6ショット内側から切り返されそのまま終わっている。主観ショット。

②二階の窓のカーテンを開けて下を見ている男女とステッキで手首をいじっている娘()ファノ・メッサンとのあいだは、28ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。男女の主観ショットの体裁だけでなく車に轢かれる娘()の主観ショットのほか違った角度からも撮られている。

③ロバの死体の乗った二台のピアノと2人の聖職者を男がロープで引っ張る時のそれぞれのあいだは、15ショット撮られているが『正常な同一画面』は1ショットも撮られていない。

④その直後、ドアを閉めて男を締め出した女と男とのあいだは、6ショット目で女と男の「アリの付いた手だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、その後16ショット目まですべて内側から切り返されそのまま終わっている。締め出したはずの男が部屋のベッドに寝ているのは内側からの切り返しによる分断による場所的不明確性の錯覚をショットの内容で現したに過ぎない。

⑤その直後、部屋に入ってきた帽子の男とベッドに寝ている男とのあいだは、29ショット『正常な同一画面』の撮られることなくそのまま終わっている。帽子の男は終始背中を向けていて殊更に顔を見せることを拒絶しており、従って背中を向けた同一画面はすべて『奇妙な同一画面』であり、それ以外は818ショット目に帽子の男の「手だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、あとは内側からの切り返しであり、唯一23ショット目で帽子の男の顔がかろうじて見分けられるかという程度で、明らかに意図的に『正常な同一画面』を拒絶するという奇妙な傾向がここに見られている。

⑥過去に遡り、男と帽子の男とのあいだは、最初に同一画面に収められたあと、次のショットでは帽子男の「手だけ」と男とが同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)3ショット目には帽子男と男の「後ろ姿の右半身だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)81015ショット目では男と帽子男の後ろ姿が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、それ以外はすべて内側から切り返され『正常な同一画面』の撮られないまま全18ショットが終わっている。

⑦部屋に入って来た女と壁の蛾、そして男とのあいだは、2024ショット目で女と男の「後頭部だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、それ以外の24ショットはすべて内側から切り返されそのまま終わっている。

■評 この映画が「前衛的」なのは映画的には内側からの切り返しによる分断によることが大きく、撮られた内容の奇抜さに依ることではない。作品の長さは17分。それでこれだけの分断がなされている。
1931 魔人ドラキュラDRACULA トッド・ブラウニング 8ショットくらい。

二人目の女(ヘレン・チャンドラー)がドラキュラに襲われるシークエンスはドラキュラがキャメラを正面から見据えた大きなクローズアップで終わる。

カール・レムリ・ジュニアが製作したユニヴァーサルホラー映画第一弾と言われているこの作品における「内側からの切り返し」は以下のとおりである。

1 法律家の男(ドワイト・フライ)が夜、古城へやってきてドラキュラ伯爵(ベラ・ルゴシ)と出会うシークエンス(実はその前の馬車の御者がドラキュラだが)

階段から降りて来たドラキュラと男がロングショットで同一画面に収まるが夜の薄暗いロングショットなので「この二人」と特定することは困難である(『奇妙な同一画面』)。そこから二人のあいだは内側からの切り返しによって分断され、7ショット目で2人は再び同一画面に収まるがこれもまた薄暗いロングショットで「この二人」とは判明しがたい(『奇妙な同一画面』)。そこからさらに二人は内側からの切り返しによって分断され15ショット目に『正常な同一画面』に収まりこのシークエンスは終わっている。

2 二人目の女(ヘレン・チャンドラー)がドラキュラに襲われるシークエンス

コウモリに化けたドラキュラが窓の外を浮遊しているショットから始まり、ドラキュラが女に襲い掛かろうとするまでの8ショットはすべて内側からの切り返しによって分断されそのままシークエンスは終わっている。ドラキュラがキャメラを正面から見据えた大きなクローズアップで終わるこのシークエンスは強い分断の性向を見出すことができる。

  ジキル博士とハイド氏DR. JEKYLL AND MR. HYDE ルーベン・マムーリアン 62。クローズアップの正面も多く、目のクローズアップもあり。

パラマウントがユニヴァーサルの「魔人ドラキュラ」に対抗して撮ったと言われるこの作品は、オープニングからしばらくジキル博士(フレデリック・マーチ)の主観ショットのみによって撮られた「前衛的」な作品であり、主観ショットである以上、主人公と対する人物はキャメラを正面から見据えることになり、この作品にはキャメラを正面から見据えるショットが60を超えている。
弱い分断が1箇所。

1ミリアム・ホプキンスがキャメラを見ながらスカートをたくし上げ、太ももに巻かれたガーターを一つずつ外してジキル博士に投げつけるシーン。

内側からの切り返しと言える箇所はここしか存在しない。これについてもこの前後では二人は同一画面に収まっていて、なにかしらサイレント映画の記憶を思い出したようにキャメラを正面から見据えるショットを数多く撮りつつも、ふと気づくとトーキー時代の主流となる古典的デクパージュで撮っている。この後、ハイド氏がミリアム・ホプキンスやローズ・ホバートといった女たちを襲うシーンが撮られているが、そこに「内側の性向」を見出すことはできない。

フランケンシュタイン
FRANKENSTEIN
ジェームズ・ホエール 8ショット。はっきり見ているのは博士が墓から棺を掘り出した時クローズアップで1ショット。怪物登場の時、振り向いた怪物が大きなクローズアップでジャンプ・カット的に2ショット。あとはちらちら。 なし。

怪物と人間とが常に『正常な同一画面』に収まり続けている。怪物の登場の時、少女との遭遇、メェ・クラークを襲う時、その他、分断によるサスペンスは存在していない。
悪魔スヴェンガリ
SVENGALI
アーチー・L・メイヨ 24 2箇所

1遠距離から催眠術をかけられたマリアン・マーシュが初めてジョン・バリモアの家にやって来たとき、最初と22ショット目で2人は同一画面に収まっているがどちらも手前のマリオンが後ろ姿で「その人」と特定はできず(『奇妙な同一画面』)、それ以外の20ショットはすべて内側から切り返されて分断されている。

2最後のコンサート
舞台の袖から出て来たマリアン・マーシュと手前で指揮をするジョン・バリモアとが最初の2ショットで同一画面に収まっているがバリモアは後ろ姿で「その人」とは特定できず(『奇妙な同一画面』)、その後の25ショットはすべて内側から切り返され、二人はそのまま同一画面に映し出されることなく映画が終わってしまう

1932 フリークス(FREAKS トッド・ブラウニング 2。おとなしい。 なし。
  獣人島
(ISLAND OF LOST SOULS
アール・C・ケントン 28ショット。クローズアップ10ショット。獣人が反乱をおこした時、獣人がキャメラを正面から見据えながらクローズアップになるまでキャメラに突進してくるショットが幾つもあり。 3箇所。キャメラマンはカール・ストラス。照明は凝っている。

①モロー博士(チャールズ・ロートン)が獣人の集団に獣人の掟を言わせるシーンにおける彼と獣人たちのあいだは、『正常な同一画面』に収められた後21ショット目で再び『正常な同一画面』に収められるまで内側からの切り返しによって分断されている。ただし「同じ写真」の切り返しであり分断としては弱い。
②眠っている女リーラ・ハイアムズの部屋に獣人が鉄格子を壊して侵入しようとする時2人のあいだは、16ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。
③医者アーサーホールが博士との決別を宣言する時2人のあいだは、7ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。
  恐怖城(ホワイトゾンビ)
WHITE ZOMBIES
ヴィクター・ハルペリン 25ショット。とにかく多い。
●遺体を道に埋葬している葬式の前で馬車を止めた御者がバスト・ショットでいきなりキャメラを正面から見据えているこの作品は、その後キャメラを正面から見据えている目だけが切り取られた大きなクローズアップ、その直後、ベラ・ルゴシの目の大きなクローズアップ、ワイングラスの液体に反射したベラ・ルゴシのクローズアップ、ベラ・ルゴシがキャメラを正面から見据えながらピントがぼやけるまでキャメラに接近して来るショット、ゾンビもキャメラを正面から見据えながらクローズアップになるまでキャメラに接近して来る、、など、はっきりとキャメラを正面から見据えるショットが14ショットもある。
なし。

序盤、馬車に乗るロバート・フレイザーを青年ジョン・ハロンが見ているシーンとか、ゾンビになった娘マッジ・ベラミーがピアノを弾いている大広間の階段を下りて来たベラ・ルゴシとのあいだで8ショット続けて内側から切り返されるなど、内側からの切り返しは存在するが、それが分断の性向を有するまでの効果は得られていない。

■評 中盤、手の込んだ長回しが撮られている。
1933 キング・コングKING KONG メアリン・C・クーパー 4ショット。●フェイ・レイが船上でのキャメラテストで衣装を着てポーズをとっている時にバスト・ショットでキャメラを正面から見据えている。●女が怪物に連れ去られた後、壁の小窓から顔を見せた船員(ブルース・キャボット)が殆どクローズアップでキャメラを正面から見据えている。 3箇所。

①映画監督(ロバート・アームストロング)が島へと向かう船で怪物の話を初めてしたときの船員たち(ブルース・キャボットとフランク・レイカー船長)とのあいだは、6ショット内側から切り返されそのまま終わっている。会話に主導されてはいるもののそれなりに『分断』している。

②縛られた女(フェイ・レイ)と木のあいだから姿を現した怪物とのあいだは、14ショット目に同一画面に収められているが女がロングショットで「その人」と特定することはできず(『奇妙な同一画面』)、挟まれた3ショットは内側から切り返されている。別々に撮られている。笑。怪物が次第にキャメラを正面から見据えながら目のクローズアップになるまで接近して来る。

③倒木に挟まれて動けない女と怪物とのあいだは、14ショット目で同一画面に収められているが女がアニメなので「その人」と特定することはできず(『奇妙な同一画面』)、挟まれた2ショットは内側から切り返されている。

■評 内側からの切り返しよりもむしろ手前の人間と奥のスクリーンプロセスのキング・コングとが縦の構図で同一画面に収まることに恐怖を見出していることから『分断』の傾向は弱められている。
1941 キャット・ピープル
CAT PEOPLE)
ジャック・ターナー なし。プールでのジェーン・ランドルフの微妙なのもあるが遠景で「正面」のショットとしての力はなし。 3箇所

1
夜、先を歩くジェーン・ランドルフを後からシモーヌ・シモンがつけてゆくシークエンスではずっと二人のあいだは内側から分断され続け、途中、持続したショットにおいて2人は同一画面に収まっているよう見えるものの、それはジェーン・ランドルフが通り過ぎた後、シモーヌ・シモンが持続したショットに入って来るという、『分断の映画史・第一部』において検討した『持続による同一存在の錯覚』にほかならず、目の前に到着したバスの中にジェーン・ランドルフが逃げ込むまでの17ショットのあいだ、2人は内側からの切り返しと『持続による同一存在の錯覚』によって分断され続けている。ただ多くのショットは「横から」であり正面の醸し出す不気味さはない。

2夜のプールでジェーン・ランドルフが得体のしれない何かに襲われるシークエンスでは、ジェーン・ランドルフと「何か」とがずっと内側から切り返され、その後現れたシモーヌ・シモンとの同一画面に収まるまでの40ショットのあいだ、ランドルフと「何か」、あるいはシモーヌ・シモンとは分断され続けている。

3夜の会社でケント・スミスとジェーン・ランドルフが黑豹に襲われるシークエンスでは、2人と黒豹とは20ショットのあいたすべて内側からの切り返しによって分断されている。しかし猛獣と俳優とが同一画面に入らないのは命を守る以上当然であり、そんなことをやる監督は頭のおかしな監督以外にあり得ず(「赤ちゃん教育」(1938)「ハタリ!」(1961)「モガンボ」(1953)、この場合、生身の俳優と黒豹とは同一画面に入らなくて当然であることから「内側からの切り返し」としての評価は後の研究に譲りたい。
1951 遊星よりの物体X
THE THING FROM ANOTHER WORLD
ハワード・ホークス  なし。 7箇所。

①地上の基地とそれを飛行機から見ている隊員たちとのあいだは、3ショット内側から切り返されそのまま終わっている。

②北極の基地にやって来てマーガレット・シェリダンの部屋に入って来たケネス・トービーとシェリダンのあいだは、6ショット目に『正常な同一画面』に収められるまですべて内側から切り返されている。

③墜落機とそれを飛行機の窓から見ている隊員たちとのあいだは、4ショット内側から切り返されそのまま終わっている。

④犬を襲っている怪物とそれを窓から見ている隊員たちとのあいだは、6ショット内側から切り返されそのまま終わっている。

⑤火だるまになって逃げる怪物と窓からそれを見ている隊員たちとのあいだは、2ショット内側から切り返されそのまま終わっている。

⑥ドアを破って通路に入って来た怪物とそれを見ている隊員たちとのあいだは、9ショット目で同一画面に収められているが隊員たちは後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、それ以外はすべて内側から切り返されている。

⑦その直後、通路は暗くなり体勢を立て直してもう一度隊員たちが怪物と対峙したときの両者のあいだは、2633ショット目で同一画面に収められているものの隊員たちは後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、それ以外の28ショットはすべて内側から切り返されそのまま終わっている。

■評 チームワークの映画を撮っているので『窓空間』を含めて人間同士を『分断』させる切り返しは②以外は撮られていない。②はほぼ正面から撮られたシェリダンのショットが微妙に「ずれ」ている。最後の通路での怪物との戦いでいよいよ『分断』が始まり持続させそのまま終わっている。