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ロシア映画、内側からの切り返し表。題名にはYouTubeで検索しやすいように原題を書いておきます。数字はすべておおよそです。
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題名 | 監督 |
正面(人物が映画内でキャメラを正面から見据えたショットの数 |
内側からの切り返しによる分断 |
1916 | 命には命を Жизнь за жизнь |
エフゲニー・バウエル | 4ショット程度。どれも遠景からちらちら。 | なし。切り返しが連続することはない。 |
1918 | プライト技師の設Проект инженера Прайта | レフ・クレショフ | 7ショット。クローズアップではっきりが2ショット。あとはちらちら。 | なし。 |
1924 | ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険NEOBYCHAINYE PRIKLUCHENIYA MISTERA | レフ・クレショフ | 45ショット。はっきりが15ショット。ラストシーンがウェスト氏のキャメラを正面から見据える大きなクローズアップで終わるように、はっきりとキャメラを正面から見据える傾向は強い。。詐欺師の男(フセヴォロド・プドフキン)が嘘の回想でアメリカ国旗に敬意を払うシーンのバスト・ショット。●銃を構えた詐欺師団の男がキャメラを正面から見据えながらショット内モンタージュで目のクローズアップになるまで接近して来る。など。 | 9箇所。分断の性向が強く現れている。 ①オープニング 画面の外から投げられた旅行かばんをウェスト氏(ポルフィーリー・ポドベード)が受け取るシーンから映画は始まるが、8つのかばんを2つのショットでキャッチするこのシークエンスでは、投げている者へとキャメラが切り返されることはなく、ただひたすらウェスト氏がかばんをキャッチするだけで終わってしまうのであり、『内側からの切り返し』どころか『切り返し無き内側だけ』によって空間が分断されている。こうした傾向を最初に持ってくるこの作品はその後の展開を予想させるに十分な始まりかたをしている。 ②その直後、ボディガードのカウボーイ(ボリス・バルネット)が瓶を撃っている5つのショットは、瓶とカウボーイとがすべて内側からの切り返しによって分断されそのまま終わっている。 ③ロシア到着後、ウェスト氏のかばんを男から男へ投げ渡すシーンにおいて2人のあいだは、4ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。④ロシアに到着して早々、鞄を少年に盗まれるシークエンス。やって来た少年がかばんを盗んで走り去るまで字幕抜きで10ショット撮られているが、少年とウェスト氏とのあいだは、すべて内側からの切り返しによって分断されている。少年とカウボーイとのあいだは、最後のショットで同一画面に撮られているが、カウボーイは後ろ姿で「あのカウボーイ」と特定はできないように撮られている(『奇妙な同一画面』)。その後、泥棒の少年の回想によってかばんを盗むシーンが1ショットで再現されるが、そこではウェスト氏とカウボーイ、少年が同一画面に収まっているもののウェスト氏とカウボーイはわざわざ後ろを向いていて「その人」と特定することができない(『奇妙な同一画面』)。明らかに意図的に顔を隠して分断を志向している。 ⑤アメリカの企業に匿われたあと、書面をタイプしている女たちを見ているウェスト氏が女たちを妻のイメージに重ねるシーンでウェスト氏と女たちとのあいだは、切り返しを含めで11ショット撮られているがすべて内側からの切り返しでそのまま終わっている。 ⑥その後、ウェスト氏のかばんを拾って届けに来た詐欺師(フセヴォロド・プドフキン)に『窓の外を見ろ』と促されたウェスト氏が窓の外の詐欺師たちを確認するシーンにおいてウェスト氏と詐欺師たちのあいだは、4ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。場所的に同一画面に収めることができるかは微妙だが、別の場所で撮られたショットをつなぎ合わせて編集しているように見えるこの切り返しには分断性を見出すことも可能である。 ⑦詐欺師のアジトでウェスト氏が詐欺師と女(アレクサンドラ・コフローヴァ)とコーヒーを飲むシークエンス 最初は3人が同一画面に収まっているが、ウェスト氏がコーヒーを飲み始めるとアイリスによって縁どられた9ショットの内、7ショット目で女がウェスト氏のつま先を踏んづけるショットで「足だけ」が同一画面に収まる以外は(『奇妙な同一画面』)、すべて内側からの切り返しによって分断されこのシークエンスはそのまま終わっている。 ⑧詐欺師のアジトでぐるぐる巻きにされて縛られているウェスト氏の部屋に女が入ってきてからの2人のあいだは、ぐるぐる巻きにされて顔が見えないウェスト氏と女が最初のショットで同一画面に収められて以降(『奇妙な同一画面』)、縛らている女とウェスト氏とが何度かキャメラを正面から見据えたクローズアップで切り返されたあとウェスト氏が部屋から運び出されるまでの21ショット、すべて内側から切り返されそのまま終わっている。極めて奇形的な分断の性向を見出すことができる。 ⑨偽装されたボリシェヴィキの男たちの裁判を受けるシーンでウェスト氏と男たちのあいだは、最初とその次のショットと31ショット目で同一画面に収められているがウェスト氏が後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、16、18ショット目でも同一画面に収められているが男たちの姿は部分的でかつぼやけているため「その人」と特定することはできず(『奇妙な同一画面』)、それ以外のシーンは40ショット余りすべて内側から切り返されそのまま終わっている(ウェスト氏がめまいをおこして以降は余りにもカッティンクが早く測定不能なので割愛する)。 ■評 ラストシーンでウェスト氏がキャメラを正面に見据えて終わるこの作品は人物がきわめて多くのショットにおいてキャメラを正面に見据える作品であり、その傾向として奇形的な内側からの切り返しが非常に多く撮られている。 |
1926 | 母 MAT |
フセヴォロド・プドフキン | 97ショット。はっきりキャメラを正面から見据えるクローズアップが多用されている。 | 7箇所 ①酔った夫が帰宅した時、16ショット目で時計の中の金を取ろうとする夫に母がしがみつき同一画面に収められるが夫は「下半身だけ」母は後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、34ショット目に母と夫が同一画面に収められているが夫は後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、53ショット目に初めて母と夫が『正常な同一画面』に収められるまで内側からの切り返しによって分断され続けている。 ②酒場に入ってきた父親が家から持ち出したアイロンで一杯飲ませろとバーテンに注文する時の父親とバーテンとのあいだは、最初のロングショットで2人は『正常な同一画面』に収まった後、酒場の他の者たちとの切り返しを含めて29ショットのうち父親とバーテンの「右腕だけ」が同一画面に収められているのが9ョット。バーテンと父親の「手だけ」が2ショット、それ以外はすべて内側からの切り返しによって分断されている。 ③父親が力自慢として仲間たちに紹介された後、父親と彼を見ているクローズアップの男たちとのあいだは、最初はロングショットで同一画面に収められているが(『奇妙な同一画面』)、その後16ショットすべて内側からの切り返しによって分断されそのまま終わっている。 ④父親の遺体の安置されている家に軍隊が押しかけて来たシーンにおける軍の指揮官と母親ないし息子とのあいだは、56ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。■評 終盤はキャメラを正面から見据えた大きなクローズアップが連続するこのシークエンスこそまさに分断の意志が露呈した瞬間である。 ⑤息子が法廷で裁かれるシークエンスはまるで「裁かるるジャンヌ」(1927)のように殆どすべてがクローズアップで切り返されており内側からの切り返しを数えるよりも同一画面の数を数えた方が正解であり、ここでは最後のロングショットでそれなりに『正常な同一画面』が撮られた以外はすべて内側からの切り返しによって分断されている。 ⑥息子の判決後、裁判所の外へ出て来た息子に母親がすがりつくシーンでの息子と母親のあいだは、6ショット目で息子に駆け寄る母親が同一画面に撮られているがロングショットで「その人」と特定はできず(『奇妙な同一画面』)、そこからは息子にすがりつこうとして憲兵に引き離される母親と(早いショットなのでうごめきのようにしか見えない)息子のあいだをキャメラは19ショット程度内側から切り返されそのまま終わっている。 ⑦息子が撃ち殺された後、兵隊が群衆に一斉射撃を始めた時の兵隊と群衆のあいだは、高速のショットのスピードで進められ旗を持った母親が騎兵隊に踏み潰されるシーンにおけるまるで切り絵のような動物的な『奇妙な同一画面』を除いてすべて内側からの切り返しによって分断されている。 ■評「内側からの切り返し」ではなく「同一画面」がむしろ例外という現象は翌年カール・ドライヤーによって撮られた「裁かるるジャンヌ」(1927)によって確かに継承されている。 |
1929 | カメラを持った男CHELOVEK S KINOAPPARATOM | ジガ・ヴェルトフ | 28ショット。 ドキュメンタリーとして素人の人々は仮にキャメらを見たとしてもすぐ目を逸らしてしまうため、エイゼンシュテインのような職業俳優がキャメラを正面からはっきり両目で見据えるようなショットは撮られておらず、ラストシーンで片目で覗いたレンズのクローズアップが撮られている以外はちらちらキャメラを見るかカッティングが高速すぎて見えないようなショットがほとんど。 |
4箇所。 ①片目で覗かれたカメラの目と、ベンチで眠っている娘とのあいだは、5ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。 ②円盤投げや走り高跳び、ビーチバレー、競走馬等の競技がスローモーションで撮られ始めると、それを見ている「観客」の存在が突如挿入され、観客たちのクローズアップが競技者とのあいだで切り返されることになるのだが、その38ショットすべてが内側からの切り返しによって分断されそのまま終わっている。 ■評 これらの観客のクローズアップは競技者ないし演技者の運動の方向とは逆に視線が流れたり(成瀬目線)、競技が成功すると驚くのではなく笑ったり、そもそも演技者と観客たちとの関係がロングショットなどで一切撮られていないこの空間は、イマジナリーラインの「ずれ」どころか観客が競技者と同一の空間に存在しているか否かすら不確かなように撮られている(空間的不明確性)。 |
1936 | 青い青い海 U SAMOVO SINEVO MORYA |
ボリス・バルネット | 4ショット前後。ちらちら。はっきりキャメラを見据えるショットは存在しない。 | ①2人の男(ニコライ・クリューチコフとレス・スヴェルドリン)が島で娘(エレーナ・クジミナ)と初めて会った時、しばらく同一画面に収められたあと、娘が浜辺で歌い始める時の三人のあいだは、10ショット内側から切り返されそのまま終わっている。 ②網を落とした娘と男ニコライ・クリューチコフとのあいだは、『正常な同一画面』に挟まれた3ショットがクローズアップで内側から切り返されている。2人のクローズアップは『グリフィス的に』前後の物語から「ずれ」ている。さらにその後撮られた娘のショットもことごとく「ずれ」ている。 ③髪の白い方の男が帽子を被って歌い始めてから、労働をしている者たちとのあいだは、29ショット目で親友と同一画面に収められるまで内側から切り返されている。男は部屋の外で網を修理している娘を見てから歌い始めるのだがその場所的関係はまったく示されておらず、10ショット目で男の部屋の窓が見えるがそこから見ていたにしてはイマジナリーラインがずれている。このように断片をつなぎ合わせて初めてあとから男は自分の部屋の窓から外を見てから歌い始めたとわかる程度で、まるでグリフィスのサイレント映画の内側からの切り返しのように、別々の場所で撮られたものをあとからつなぎ合わせたのだと感じられるその奇妙さは、一つ一つのショットが「そのショット」として独立して撮られていることによってもたらさせる「ずれ」感覚から来る。 ④集会でレス・スヴェルドリンが親友を糾弾する時の2人のあいだは、27ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。途中で娘のネックレスの玉が床に転げ落ちるスローモーションが撮られ最後には誰もいなくなってしまうこのシークエンスは、奇形的な時間的、空間的不明確性に満たされている。 ⑤遭難した娘が浜辺に流れついた時の浜辺の男2人とのあいだは、娘に気づいた男たちが走り出し20ショット目で三人は同一画面に収められているが2人の男がロングショットでぼやけていて「その人」と特定することはできず(『奇妙な同一画面』)、23ショット目で白い波が砕けたショットが撮られてそのまま終わっている。三人が抱擁したり娘を助け起こして介抱するようなショットはまったく撮られていない。 ⑥男たちが船に乗って町に帰るシーンで男たちと娘とのあいだは、男が娘と握手して『正常な同一画面』に収まった後、13ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。手を振っている娘と歌をうたう男たちとはどちらもキャメラの左側を見ていてイマジナリーラインが合っていないように、おそらく別々の場所で撮られたのではと感じられる両者の場所的、空間的不明確性は、分断の性向として際立っている。 |