映画研究塾トップページへ
映画評論.藤村隆史
『少女たちの羅針盤』(2011)長崎俊一~青春映画は村おこしから生まれる 2011.6.17
■オープニング
駅でフォカスアウトした画面から 車で城下町を走り、ロケ現場の廃墟へ
回想1 学校の部室の喧嘩→成海璃子、校門から飛出し叫んで走り網を掴んでゆすり地べたに仰向けになる→成海璃子、空を見ていると視界に草刈麻有と森田彩華が入ってくる→成海璃子、劇団作ることを決断→草刈麻有の腹が「ぐぅ、」と鳴る→カフェへ行く→食べる→成海璃子走り出す→小川のほとりの路地で自転車に乗っている忽那汐里を口説く→追いかけて鞄から携帯を取り走って逃げながら電話番号入力・キャメラ後退移動→追いついた忽那汐里へたとしゃがみ込む→草刈麻有が忽那汐里にガムを渡す→演劇ホールで黒川智花と会う(忽那汐里は仲間になっている)→草刈麻有、席でガムを噛む→福山城が彼方に見える噴水の前で劇団の名前を出し合う・草刈麻有「羅針盤」と提案・成海璃子、噴水の揺れる水面を見つめて「羅針盤」と決断・噴水に飛び込み水を掛け合う
廃墟で謎の女が「羅針盤」のペンダントを掴む
回想2 カフェで草刈麻有が作った「羅針盤」のホームページをみんなで見る・気取るので内緒で撮ったと言われる→成海璃子思いつく→商店街にストリート演劇を見に行く・広場で男のギターの弾き語りを聞く→成海璃子微笑み、ストリートでやることを決定→商店街のストリート失敗・諏訪太郎の勘違い→夕暮れの港の防波堤に座っている成海璃子がストリートに「舞台」を作ることを決断、みなでアイデアを出し合う→忽那汐里何かを言いたそうにしてやめる→「夕陽が沈んでいく」と突如森田彩華が呟く→「夕陽沈むな~!」と叫ぶ→坂道を上り、左に曲がったところにある忽那汐里の元住んでいた廃墟のアパートへ→アパートの中で忽那汐里、港でで言えなかったことを切り出し吹っ切れ「よっしゃ」と叫んで友情深まる→商店街でストリート成功する→昼間、公園の入り口のようなところでライブ→商店街のライブ、でんでん虫虫三人組ギャルに邪魔される
回想3 成海璃子がステージバトルのパンフレットを廃墟のアパートで三人に見せる(既に成海璃子の決断はなされている)→金の件で成海璃子、忽那汐里に同情し逆に傷つけてしまう→忽那汐里と草刈麻有が帰り、二人っきりに→昼寝・キス→公園の芝生に座り気だるそうな成海璃子→夜、草刈麻有からの電話を忽那汐里が自分の部屋で取る→森田彩華シャワーを浴びながらリストカット→草刈麻有の家で成海璃子、脚本を選択する→廃墟のアパートで稽古、成海璃子、コンビを変えると決めて、森田彩華と喧嘩→ライブの直前、地下トンネルで成海璃子、森田彩華のリスカを指摘、突き倒す「あなたはあんな凄い脚本が書けるのに」と手を出し森田彩華を引き起こす→走る→舞台→成海璃子、楽屋で戸田菜穂を殴る→会場の廊下で四人うなだれて座る→学校の屋上で・忽那汐里が抜け、三人は戸田菜穂の口利きで助かったことを知る→忽那汐里、草刈麻有の家へ・忽那汐里の映画オーディション決まる→実家の階段に座っている成海璃子の携帯にオーディションの知らせ→東京での忽那汐里と草刈麻有、地下鉄の階段を上ってくる。隠し撮り気味→公園のブランコで草刈麻有が受かったことを報告、辞退する草刈麻有を忽那汐里咎める→ブランコをする→草刈麻有の右手のクローズアップ→夜の路地、草刈麻有襲われる(手持ちキャメラ)→草刈麻有の家に集まる→学校の教室で草刈麻有、レイプので噂をされる→公園で四人集まり、草刈は女優になることを決意→部室で草刈麻有から電話、、、、
■決断
だいたいこのような流れで映画は進んでゆくのだが、赤い文字で書かれた要所要所の「決断」の多くは成海璃子によってなされ、かつ、その「決断」の多くには理由が存在しない。確かに森田彩華の脚本を選択すること等は正しさに基づいているが、それ以外の「決断」には殆ど何の理由も正しさも存在していない。理由が存在しないとは、端的に意志された、ということであり、そこには合理的な善悪や因果関係が存在しないということである。映画の中において、その多くを成海璃子によってなされる「決断」という運動は、理由や正しさが存在しないことによってその後の行動を惹き起こすところの第一原因として成り立っている。正しいから選択されたのではない、成海璃子等が選択したから正しいのである、という運動の流れとしてこの映画は撮られているのだ。
■劇団創立
成海璃子が教師の戸田菜穂と揉めた後、部室を飛出し、学校の傍に貼ってあった網を揺さぶり、仰向けになって地面に寝そべり、空を見上げていると、友人たちの顔が覗いてくる、その直後「決めた!」と成海璃子は、新しく劇団を創ることを決意する。ここにおいて、劇団を創ることが合理的であると思える事実や動機はどこにも見出されていない。劇団は、成海璃子が「意志した」ことそれのみによって結成されることになったのである。
■「羅針盤」
劇団の名前が「羅針盤」と決まるところの運動の流れはこうである。みんなで演劇を見に行った帰りに立ち寄った夜の噴水の前で草刈麻有が「羅針盤」を提案すると、成海璃子が立ち上がり、噴水に近づき、その揺れる水面を見た目のショットで見つめた後、劇団名を「羅針盤」と決断している。ここにもまた、劇団の名が「羅針盤」でなければならない合理的理由や正しさを見出すことはできず、端的に成海璃子が「意志した」ことが、「正しさ」へとつながれている。「寝そべる」「水面を見つめる」という無色透明な運動が、映画を起動させ、動かしているのだ。
■忽那汐里
忽那汐里を仲間に引き入れる運動は突出している。自転車でやってくる忽那汐里に成海璃子が声をかけ、勧誘し、断られ、追いかけ、忽那汐里のバッグから携帯を盗んで走って逃げながら自分の電話番号を入力してそれを追いかけてきた忽那汐里に返し、疲れてへたりこんだ忽那汐里に草刈麻有がガムを渡す。するとその直後に来る劇場のシークエンスでは、忽那汐里はチャッカリ仲間になっているのである。この場合、成海璃子の「決断」とは違い、忽那汐里が「決断」する瞬間のショットは省略されているが、その「決断」に、何ら合理的な理由=正しさが見出されない点において共通している。携帯を奪って逃げて返すという運動には「忽那汐里が仲間になる」という出来事と論理的につながらないのである。ただひたすら走って逃げ、それを追いかけることがここでは撮られているのだ。この映画は犯人探しのミステリー映画である。そのミステリー映画に「正しさ」が前提として欠けている。論理としての筋立ての正しさが存在しないのである。
■港にて
港の防波堤に座っている成海璃子の元へみなが集まると、どうしてこないだのストリートは失敗したかの話になり、では「舞台」を作ればいいという「決断」へと流れてゆく。この場合、「失敗」→「舞台のように見えない」→「では、舞台を作ろう」という論理的な流れがあり、従って「舞台を作ろう」という決断には理由や正しさが存在する。だがその「正しさ」は、ミステリー映画の犯人へとつながる論理からは程遠い、ミステリーの謎とは何の関係もない「正しさ」に過ぎない。この作品の回想は、現在の映画撮影の中でほのめかされる「殺人犯は誰だ」というミステリーとしての論理とは殆どまったく関係ないところで進められていくのである。それどころか、そもそもその「正しさ」は、「場所」というマクガフィンによって無化されてしまう。
■場所
『少女たちの羅針盤』(2011)は村おこし、町おこし映画である。映画が上映されたシネコンには撮影場所となった広島県福山市をPRするパンフレットが無料で配布され、その中には福山市の名物やイベントなどが所狭しと載せられている。そしてその中心を貫くものは「場所」である。場所は人を呼び、経済を興す。町おこし映画にとって「場所」は極めて重要な要素としての決定打である。小林旭の自伝「さすらい」には「渡り鳥シリーズ」の地方ロケにおける誘致合戦のし烈さについて書かれているが、その「渡り鳥」シリーズにおいては、港や山々や市場、そして最後には決まって地元のお祭りが映し出され、それと並行して小林旭がフェリーに乗って去ってゆくというお馴染みのパターンの中に、数々の「場所」の優位性が占められていた。繰り広げられる運動の「正しさ」が「場所」によって無化されるのだ。それはどういうことか。
■赤い夕陽
「渡り鳥シリーズ」の「場所」の中でも際立って強く登場したのは赤い夕陽の港である。小林旭が港の夕陽をバックにギターを弾きながら「赤い夕陽よ~燃え落ちてぇ~、、」と主題歌を歌い始めると、ただでさえ無色透明な無国籍映画としてある「渡り鳥シリーズ」の画面における「正しさ」が、遂に夕陽の赤い鮮烈によってチャラになり、日活的無国籍運動の坩堝へと投げ込まれるのだ。それはあたかも黒沢清「叫び」において、まるで倉庫にしか見えない警察署という無機質な「場所」が、その都度物語の心理的ほんとうらしさを無化しながら進められる運動にも似ており、物語の語り部としてあるべき場所が、その余りの強さゆえに(「渡り鳥シリーズ」)、或いはその余りの嘘臭さ故に(黒沢清の映画の美術)、或いは逆に至高の日常性によって(「ゲゲゲの女房」(2010))物語の正当性を無化し去り、不可思議な運動の中へと誘い込むのだ。映画にとって「場所」とはいかに重要なものか。
■『少女たちの羅針盤』
ここでまた『少女たちの羅針盤』の、あの港の防波堤のシークエンスを見てみよう。確かに物語の正当性としてそこには「舞台を作る」という論理が展開され、進められてゆく。だがその「正しさ」が、背景にさり気なく置かれた「赤い夕陽」の強烈によって一気に無化され、消し飛んでしまうのだ。「正しさ」を進めていたはずの会話が突如,森田彩華の「あっ、夕陽だ」というそれ自体「正しさ」とは何の関係もない言葉によっかき消され、続いて少女たちによって叫ばれた「夕陽、沈むな~!」という振動によって「正しさ」は、逆流する因果家計の中へと更新されてしまい、あたかも画面の実権を握っていたのは実は最初から「赤い夕陽」であることを遡及的に露呈せしめてしまうのだ。物語とは何の関係もない出来事が、その都度物語を逆から突き刺し、破裂させ、異質な運動へと振動させてゆく。そもそもこの映画の運動の流れをたかだか二回見ただけで大方想起できてしまうのは、上記青色で書かれた映画の「場所」が、物語を運動に転換させる重要な機能を果たしているからにほかならない。先のチラシにはあの港の夕陽のシーンをして『きれいな夕陽のシーンを撮りたかったものの、梅雨時期だったため、なかなか難しく、これが最後のチャンス!と詰めかけた時に奇跡的に撮影できた夕日のシーンは本当にきれいで圧巻』と書かれている。まず「場所」があり、「場所」が物語を規定する。だからこそ『少女たちの羅針盤』は「場所」が「正しさ」をその都度無化し続けながら、少女たちの瑞々しい運動をひたすら画面に乗せて走ってゆくのである。それを支えるシステムこそ「場所」がすべての「村おこし」なのだ。草刈麻有がオーディションに合格したことを報告するシークエンスでは明らかにブランコという「場所」が「正しさ」を凌駕し、まるで黒沢清映画の装置かと思える映画の撮影現場の廃墟や、忽那汐里が元住んでいた無人のアパートもまた、その余りの存在感によって「正しさ」をその都度無化しながら、その中で繰り広げられる成海璃子と森田彩華の接吻等をその運動の優位性において露呈させるのである。「羅針盤」の名前を決めたあの夜のシークエンスを噴水抜きに想起することが決してできないなのは、それがまず「場所」から撮られていた確固たる証しである。
■ミステリー
ミステリー映画としてあるこの『少女たちの羅針盤』は、ミステリーとしての論理でも正しさでもなく、ひたすら思春期の少女たちの無意味な運動によって成り立っている。長崎俊はミステリーのなぞ解きをラストシーンの現在版に留め、それ以外はすべて「正しさ」を欠いた「決断」としての運動として撮ってしまっている。ミステリーそのものがマクガフィンとして機能しているのだ。
■成瀬巳喜男「秀子の車掌さん」(1941)
成瀬巳喜男の「秀子の車掌さん」という瑞々しい映画にこういったシーンがある。バス会社の社長の横暴に耐えかねた車掌の高峰秀子と運転手の藤原釜足(当時は鶏太)が、作家の夏川大二郎と連れ立って三人で砂利道を歩いてゆく。そこで会社をやめるかどうか聞かれた藤原釜足は、ふと道の小脇にあった井戸へ入ってゆき、水を汲んで桶から飲み、手拭いで口を拭いた後、再び砂利道へと戻って来て「私は会社をやめる覚悟が出来ました」と言う。私はこのシーンを見た時に、ああ、映画は残酷だ、と痛烈に思ったが、成瀬巳喜男は既にこの当時において、藤原釜足のただこれだけの運動で「映画」になることを知っていた。これを知っている者のみに現れる「一流」というコースの中へ、既にこの当時の成瀬巳喜男は足を踏み入れていたのである。知らない者はどれだけ粘っても死ぬまで知ることのできない残酷なコースを成瀬は特権的に歩んでいたのだ。藤原釜足の「決断」には何の理由もない。ただ脇へ逸れて井戸水を飲み、再び出て来ただけである。それが「会社を辞めてもいい」という藤原釜足の「決断」を惹き起こすものとして十分であること、それを成瀬は知っている。17歳の高峰秀子を主役に撮られたこの瑞々しい「秀子の車掌さん」(1941)は、生き生きとした少女の衝動としての『少女たちの羅針盤』(2011)を映画的に予告している。
■青春
『少女たちの羅針盤』は「正しさ」を実行する映画ではない。決断をして、実行することがその都度「正しさ」をあとから生み出してゆくかも知れないと放り投げられた映画である。「正しさ」の何たるかを知らない思春期の娘たちは、ただひたすら無謀な決断をし、叫び、運動することによって「正しさ」の楔から解き放たれ、青春の運動の中へと投げ込まれてゆく。正しいから運動するのではなく、運動するから正しい『少女たちの羅針盤』は、映画の仕組みそのものが『青春』というただ一点を突き刺している。『青春映画は村おこしから生まれる』、新たな映画的格言がここに出現した。
映画研究塾.藤村隆史
参考文献「さすらい」小林旭