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映画批評.藤村隆史

ジョナサン・モストウ「サロゲート」(2009) 化粧と傷について 2009.2.28

人類が、分身という、言わば究極の化粧を手に入れた時、人は制度の中へ完全に取り込まれ、安全と引き換えに自由を失い、愛が消える。実に古臭そうなテーマにも見えるのだが、サロゲートを操っている人間を「こころ」と見て、サロゲートをほんとうの人間の肉体として見てみると、なかなか面白い。

端正な美男として前髪を垂らしたブルース・ウィルスが登場したとき、その髪の本数の多さに思わず笑ってしまうのだが、出てくるロボットはみなすべすべした表面を持ち、間違ってもそこには傷などというものが刻まれてはいない。

対して生身の人間たちは、男たちなら、教祖もその用心棒も、ピチピチギャルに成り切っていた男も、コンピュータープログラマーもすべてみな、暑苦しいデブである。映画序盤、ジェームズ・フランシス・ギンディを狙撃した暗殺者は、ヘルメットの中から恐ろしく露呈するオデコに刻まれたグロテスクなシワが紛れもなく彼の特徴として強調されており、FBI捜査官であるボリス・コドショーもまた、額にいくつものシミが露呈している。そしてまたサロゲートの開発者であるジェームズ・クロムウェルの顔は、映画的なメーキャップによって老人化を加速させられ、その顔の表面にはシワ、シミ、そして無精髭によって見苦しく覆われていたはずである。

女たちもまた、「美しい女」として撮られていない。人間居住区でブルース・ウィルスのサロゲートにライフルをぶっ放した女は醜く太っていたし、ウィルスの相棒の女、ラダ・ミッチェルは、暗い部屋の中で、眼の下に大きなクマをつくって疲れ果てている。ウィルスの妻ロザムンド・パイクは、おそらく息子を死なせた自動車事故に居合わせたのだろう、顔面の表面は大火傷で覆われており、その顔を見られまいと彼女は、美人だった昔の自分に化身して、暗い部屋でひっそりと毎日を過ごしている。人間たちはみな見苦しく、ロボット達は「美しい」。そうした表面的な美の世界の中へ、人間としてブルース・ウィルスが入って行く。スキンヘッドに無精ひげとラフなジャケットに身を包んだ彼は、町で通り過ぎるサロゲートたちに眩暈を感じ、気を失いそうになってしまう。これは久々に東京へ出た時に、私が襲われる感覚とまったく同じである。サロゲートたちはロボットであり、ブルース・ウィルスには、彼らの顔が、見つめる対象としてか見えてこない。そこにあるのは他者との関係ではなく、オブジェクトとしての物体なのだ。人間は物体相手に関係を築くことはできず、従って他者の承認を得ることのできない人間は主体を喪失し、眩暈に陥る。サロゲートとは、社会の秩序の中に究極的に取り込まれた人間たちのパロディ以外の何物でもない。

やっと人間地区にたどり着いたブルース・ウィルスは、教祖の用心棒たちにボコボコに殴られてしまう。

こういう瞬間なのだ。私がいつも「おかしい」と感じるのは。

視覚的に見て、あれは少し、殴られ過ぎではないか。いくらよそ者であれ、少し教祖に話しかけたくらいであそこまでこっぴどく殴られるなどというのは明らかに物語から逸脱している。ここは過剰な細部なのだ。こういう過剰なシーンと出くわす時、私の経験上、大抵そこにはマクガフィンが潜んでいる。

そうして見てみると、ブルース・ウィルスの顔には無数の傷が刻み込まれている。左目じりに錨のようにグッサリ刺さった大きな傷、右の頬には縦と横に交差するひっかき傷、そして下唇に1つ、はっきりと見て取れる傷が刻まれている。この瞬間私は、このブルース・ウィルスの顔の傷が、おそらくラストシーンまで持続するはずだと賭けてみた。傷が持続すればベストテン、しなければワーストだ、と思ったか思わなかったかは忘れたが、とにかくこの顔の傷が最後まで持続するに違いない、しなければ映画にはならない、と信じて見続けていったのである。この映画の89分という上映時間の活劇的香りからしても、またカットの流れからしても、脚本の出来栄えからしても、そう感じてしかるべき確信はあった。

人間が顔に施す化粧とは、社会のステレオタイプの中へと埋没する証であり、忠誠でもある。身体という不可解なうごめきに分節化を施し、読める顔へと変貌させることで社会の中へと受け容れられる言語である。人が、電車の中で化粧をしている女を見るのを嫌がるのは、人が制度の中へと取り込まれてゆく瞬間の儀式を見せられるのが嫌だからにほかならない。あれは秘部であり、人々はみなそこに自分を見ているのだ。

サロゲートの顔は、男も女も、社会という制度の中へと分節化されるステレオタイプの化粧が施されている。仮にオリンピックの公式の正装からシャツを出したところで、それはあくまで制度の中での流行という、同質の慎ましやかな、差異なき差異にすぎない。

そうした中で、肉体は魂の牢獄となり、もはや人間が人間の魂の証を立てることのできるものといえば、傷しかない。顔の表面に付けられた大火傷のアザや、殴られた傷は、ステレオタイプ化した社会における分節化に裂け目を生じさせ、彼らを露呈させる。だからこそブルース・ウィルスは、過剰なまでに殴られたのである(マクガフィン)


暗い密室の中に幾年も閉じこもり、息子の死後、何年間も理想的な自分を陰で操ってきたロザムンド・パイクが、窓から外部を見つめている。外部のサロゲートたちは既に全滅し、窓の外から差し込めている太陽の光が、カーテンを真っ白に輝かせている。そこへ夫のウィルスが部屋の中へ入って来る。同じ家に暮らしながら、幾年ぶりかに出会った二人は、まるでメロドラマのように見つめ合う。二人の顔には無数の傷やアザが刻み込まれている。その傷を、外から差し込んできた太陽の光線が温かく包み込んでいる。

映画研究塾2010.2.28