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映画批評.藤村隆史

「ナイト&デイ」(2010ジェームズ・マンゴールド)~神と決断について 2010.10.20

■キャメロン・ディアスの服装 

まずはこの作品におけるキャメロン・ディアスの着替えの履歴を羅列して見たい。

ズボン(飛行場から墜落、失神しベッドまで)

黄色いドレス(妹に会い、FBIに拉致され、トム・クルーズと合流し、カーチェイス、路面バスの中へ逃げ、消防署で彼氏と会い、クルーズに手錠をかけられて拉致され、屋上の駐車場へ)

ズボン(ガソリンスタンドから車の輸送車の中での会話、ブルックリンの倉庫での銃撃戦、夢うつつの中での逆さに吊るされたクルーズの拷問、脱出、南の孤島へ)

ビキニ(孤島で銃撃され、水の中へ飛びこみ、ヘリに乗る前に失神するまで)

ズボン(オーストリアの汽車の中)

紫のガウン(オーストリアのホテルの部屋の中)

ズボン(ホテルから出て行ったクルーズを尾行、ホテルに警官突入しクルーズは屋根の上を逃亡、ディアスはFBIに身柄を確保される)

黄色いドレス(妹の結婚式)

ズボン(ジーンズ)(修理工場でGTOに乗りクルーズの父母の家で父に見つかりスプリンクラーが発射してズブ濡れになる)

白いガウン(トム・クルーズの父母と話す)

ズボン(ピーター・サースガードにニセ電池を渡す、スペインのボスの邸宅に拉致される、クルーズに救出される、キスする、バイクでスペインの街中を路面電車や闘牛をかわしながら疾走、埠頭でのピーター・サースガードとの対決

ミニスカートの上にナースの白衣(ナースに化けてクルーズを病院から連れ出す)

短パン(浜辺から出発まで、、、

見事に青(おとこ=ズボン系)と赤(おんな=スカート系)とが順番に交錯している。そしてラストシーンでは「短パン」=『脚を出したズボン』という「中性」的なるものによって終わっている。これを見てゆくと、キャメロン・ディアスの服装というものが、シーンを作成するための大きな要因になっていることが見えてくる。シーンが服装を規定しているのではなく、服装がシーンを規定しているのである。そうでなければこのようにうまくズボンとスカートとが交互に入れ替わるはずはない。そこには必ずや超越的な力が存在しているはずである。それはどういうことなのか。

■神

キャメロン・ディアスはひたすら巻き込まれてゆく。その発端は飛行場のエレベーターの降り口でトム・クルーズと「ぶつかる」というアクションである。「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」(2005)において、ホアキン・フェニックスとリース・ウィザースプーンが舞台裏で「ぶつかること」によって二人の運命が決定されたように、ジェームズ・マンゴールドの映画において「ぶつかること」とは人生を決定付ける重要な意味を持っている。ただ「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」の場合、ぶつかった者同士が二人とも「不可抗力」であったのに対して、「ナイト&デイ」におけるトム・クルーズは意図的であり、巻き込まれたのはキャメロン・ディアスひとりである。たった一人で世界の流れの中に不意に流され巻き込まれてゆくこの状態こそ、ヒッチコック的な「巻き込まれ型」の運動にほかならない。この作品の運動はあくまで巻き込まれたキャメロン・ディアスにあり、トム・クルーズにあるのは「中心」である。トム・クルーズは巻き込む力の中心としての「神」を演じており、「神」であるトム・クルーズはひたすら「決断」をし、その「決断」によってキャメロン・ディアスは巻き込まれてゆく、それがこの映画の構造である。エレベーターの降り口で二人がぶつかることなど誰が予測できよう。あそこにトム・クルーズが立っていたところでキャメロン・ディアスがそこにぶつかるという確率は極めて低いはずである。二人はもう一度空港のロビーでぶつかるが、それもまた同様である。そこにはキャメロン・ディアスの「よそ見をする」という偶然が伴っているのだ。その偶然を引き起こす力こそ、まさしく「神の御業」であり、トム・クルーズは、その力によってキャメロン・ディアスによそ見をさせ「ぶつかる」という運動を引き起こすことで彼女をトム・クルーズの世界に「巻き込んだ」のである。それができるのは「神」という、端的な第一原因のみである。

■「決断」と「不可抗力」との関係

トム・クルーズの「決断」とは、実在する者の最高の決定であり、それはひたすら「友と敵」とをその都度再生産して行くところの純粋な決定であり、「善悪」や「真理」を超えた意思決定にほかならない。「決断」という「神」の行為には運動を惹起させるところの「理由」が存在しないのである。だからこそ必然的にキャメロン・ディアスの運動は「巻き込まれ型」となり、「不可抗力」となる。そうであるからこそキャメロン・ディアスはその服装を逆転的に変換させてゆくのである。トム・クルーズがキャメロン・ディアスの運動を起動させ、キャメロン・ディアスは「不可抗力」によって巻き込まれてゆく。キャメロン・ディアスは「着せ替え人形」であり、彼女が幾度も服装を変化させてゆくのは、彼女の「意志」ではなく、「神の意志」としてのシークエンスに「巻き込まれた」からにほかならない。例えば⑨を見てみよう。トム・クルーズの両親の家の庭に「ズボン姿」で忍び込んだキャメロン・ディアスはすぐに見つかってしまい、その瞬間スプリンクラーが作動してずぶ濡れになる。次のシーンにおいてキャメロン・ディアスは家の中で「白いガウン」を着ている。だがそれはキャメロン・ディアスの「意志」ではない。スプリンクラーの作動によってずぶ濡れになったことの結果として彼女は着替えた、否、「着せ替えられた」のである。キャメロン・ディアスを着せ替えさせるためにスプリンクラーが作動したのだ。ここでキャメロン・ディアスをして「着替えること」という運動に導いた「決断」とは、「着替えることが真か偽か」へと向けられていない。スプリンクラーという、着替えることの真偽とは何の関係もない出来事であるからこそ彼女をして「着替えること」へと向かわせた=巻き込んだのである。「着換えたほうが良いからお前は着替えるべきだ」といわれても人は着替えないが、スプリンクラーでびしょ濡れになれば人は着替えるだろう。「~すべきである」といわれると人は反発するが、意味もなく濡れてしまっては着替えるしかなく、かつ着替える瞬間にプライドを傷つけられることはないし、着替えたあとではもう遅い。すでに「巻き込まれている」からである。④のビキニについてはさらに過激で、キャメロン・ディアスは眠っているうちに有無も言わせずトム・クルーズによって「着せ替えられて」いる。みずからの「意志」によって着替えたのではないことが殊更強調されているのである。知らないうちに着せ替えられてしまったのでキャメロン・ディアスは納得できないはずだという反論があるだろうが、もう着替えてしまった以上「巻き込まれている」のであり、それはグローバル経済と同様で引き返すことはできず、ひたすら運動を続けてゆくしかない。「決断」の「決断」たる所以は行動時に「理由」が排除されていることであり、現に着せ替えられているときに眠っているキャメロン・ディアスは着せ替えの「理由」から排除されており「巻き込まれて」いるのである。「ナイト&デイ」のキャメロン・ディアスはみずから着替えるのではない。「不可抗力」によって「着せ替えられる」のである。

■グローバル

良く見ると「ナイト&デイ」のトム・クルーズは、成瀬映画の「通風性」と同じ役割を果たしている。トム・クルーズの存在とは、成瀬映画における開け放たれた装置が、住んでいる内的な者たちをして「家を出ること」という運動へと「不可抗力」によって余儀なくさせるのと同じように、キャメロン・ディアスの運動を「不可抗力」によって引き起こしてゆく。トム・クルーズとはその存在それ自体が「マクガフィン」なのである。「マクガフィン」とは「不可抗力」の運動を引き起こす中心であり、原初の意志であり、すなわち「神」なのだ。「巻き込まれること」とは「理由」の不在=「不可抗力」を意味している。「理由」とは「動機」であり、「心理」であり、そして「真理」である。「真理」とは特定の価値であることからして、普遍的な運動を引き起こすことはできない。「真理」は「心理」となり「ほんとうらしさ」となって「理由」を要求するからである。「理由」によって絡め取られた運動は停滞し弛緩してゆく。経済がグローバルな運動を引き起こすことができるのは、「神」が、その都度商品の価格を「決定」することで世界中を「巻き込む」ことができるからに他ならない。もしも商品の価値が予め決まっていたならば、グローバルな経済は有り得ない。「価値」は「真理」を生んでしまい、普遍的な運動を阻害するからである。アメリカの経済がグローバル化したにも拘らず、アメリカの民主主義が決してグローバル化しないのは、そこに「正義」という「真理」が付帯しているからである。「真理」がある限り決してそれは人々を「起動」させ、あるいは「巻き込むこと」はできない。「真理」がひとつであることはありえず、人は必ずやそれに反抗し、違う真理でもって対抗してしまうからである。

だからこそアメリカ製の民主主義は「神」にはなれず、世界を「巻き込む」ことができない。世界を「巻き込むこと」ができるのは「真理」や「善悪」ではなく「決断」なのだ。「真理」や「宗教」や「理由」といった特定の価値から自由である「決断」は、透明性を獲得し、グローバルな運動を引き起こすことができるのである。ここに映画の本質がある。映画がグローバルなのは、「真理」を普及するからではない。「決断」によって「運動」を引き起こすからである。「真理」は一部の者にとってのみ妥当するが「運動」はグローバルに世界中に波及する。それをもたらすことこそ「マクガフィン」という「決断」なのである。

■マクガフィン

この作品における闘争の原因となった最新のエネルギー電池が「マクガフィン」であることをことさらここで書きたてる必要はないだろう。あの物体は秘密書類でも浮気の証拠写真でも顧客の情報でも何でもよい、「重要なもの」であればなんでもよいのである。それがマクガフィンの機能であり、物語を起動させさえすればその内容はどうでもいい。だがここで「マクガフィン」をその電池に限定して捉えるのはナンセンスである。この作品の「マクガフィン」とはある特定の小道具ではなく、作品の構造そのものなのだ。

私は第一回の成瀬巳喜男論文においてヒッチコックと成瀬巳喜男における、マクガフィン的通底性について検討したが、どちらもある一定の「意志」を持った中心が、「不可抗力」の運動を起動させてゆくという点において通じている。成瀬映画の細部は、装置のあり方や人物の性格、選択される職業、そしてコミュニケーションの方法すべてが「不可抗力」へと向けられていた。それと同じようにこの「ナイト&デイ」は、トム・クルーズのやることなすことすべてが奇天烈であり、彼の登場はあり得ないはずの唐突さでもってキャメロン・ディアスへと襲い掛かってくる、だからこそキャメロン・ディアスは「巻き込まれ」、運動することを余儀なくさせられる、それが映画を生き生きとしたゲームへと導いてゆくのだ。だからこそ、映画が「荒唐無稽」であることを受け容れられない者たちは「映画」から阻害される。彼らは映画を「真理」によって分節化してしまうからだ。

「ナイト&デイ」における、まるで「神の意志」によって計算されたかのごとくに「ズボン」と「スカート」を交互に着せ替えられてゆくキャメロン・ディアスのめまぐるしい服装の視覚的な運動こそ、この映画が「巻き込まれ型」としての「マクガフィン」そのものであり、ジェームズ・マンゴールドという監督が「ヒッチコック主義」であることを如実に指し示している。「ヒッチコック主義」とは「映画主義」であり、「グローバル主義」である。マクガフィンは国境を越えて、今日もまたどこかの暗闇で、見知らぬ乗客を巻き込んでゆくのである。

~エピローグ

ラストシーンでは、この映画の中で初めて、トム・クルーズの衣服が「着せ替えられて」いる。トム・クルーズが撃たれることによって「神性」が、トム・クルーズからキャメロン・ディアスへと移行したのだ。その瞬間のキャメロン・ディアスは、スカートでもズボンでもなく「短パン」を履いている。「男」でも「女」でもないような中性らしき存在、それは「聖母」なのか、、、そんなことは別にどうでもよいのである。

映画研究塾.藤村隆史