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映画批評.映画評論
「デス・プルーフinグラインドハウス」 発掘の作法について 2008.3.23
監督クエンティン・タランティーノ
こういう映画に関しては、必ずや語っておかないとならない。
あのカーアクションのオネーチャンたちは、カート・ラッセルに激突されて死の悲鳴をあげ続け、ボンネットの上で死にそうになって抗議の叫びを上げ続けている。だが決して彼女たちは「ブレーキを踏まない」のである。
この「ブレーキを踏まない人々」を、我々はどこかで見た記憶がある。
女たちの乗っている車に自分の車をぶつけて性的興奮に浸っているカート・ラッセルは「犯罪者」であり、それまでに何人ものうら若き女性たちを血祭りに挙げてきた「罪人」であり「殺人者」である。
だが同時にラッセルは計画し、時間を待ち、ひたすら知性でもって欲望を満たしている。彼の車は「耐死仕様(デス・プルーフ)」に包まれており、だからこそ彼は「死」を免れている。彼をして、過激なカーアクションを可能にしているのはすべて、この「デス・プルーフ」という、死を回避するところの「安全システム」にほかならない。
対してあの娘たちはどうだろう。
「耐死仕様」の保険をかけるどころか、ボンネットにしがみつき揺られて振られて喜んでいる。カート・ラッセルに激突されて死の悲鳴をあげ続け、ボンネットの上で死にそうになりながら、決して誰一人として、「車を止めて!」と言わない女たち。彼女たちに「止まる」という辞書はない。
あのオネーチャンたちは人間的にも機械的にも決して「ブレーキを踏む事を知らない」人種なのだ。
「狂人」とは。
確かにカート・ラッセルのしている「物語」は狂っている。猛スピードで女の車に衝突し、「死の興奮」を味わうことで自らの性的興奮を満たしている彼は、我々の日常生活における常識として確かに「狂人」であるだろう。だがその「物語」は、「デス・プルーフ」という死を免れたシステムによってのみ成り立つ「理性の物語」に過ぎない。ドゥルーズ的に言うならば、ラッセルの運動とは「行動=イメージ」ではあっても決して「時間=イメージ」ではない。カート・ラッセルの運動とは、実は「理性」に支配された「紋切り型」であり、「物やイメージの全体でなく、いつもより少なく知覚する。関心のあるものしか知覚しない」(「シネマ2・時間イメージ27」)、いくじなしの行為に他ならない。
それに引き換え、悲鳴をあげながらも、知らず知らずのうちに「ゲーム」という欲望と快感の中へと身を委ねてしまう女たち。彼女たちこそ真の「狂人」に相応しい。我々世間様の「理性」的な視点で言うならば「決して相手にしてはならないひとたち」とはこういう輩だ。真に監獄に放り込むべき狂人とは、こういう危険な連中を言うのである。「映画イメージに固有の運動の逸脱は、時間を、あらゆる連鎖から解き放つのであり、運動の逸脱は、時間が標準的運動と結ぶ従属関係をくつがえすことによって、時間の直接的現前を実現するのである(シネマ2・時間イメージ51」)
一人の女が、そのまま「直に」スタントマンへと連続し、「車を止める」という「理性の物語」から「逸脱」し、ボンネットの上で振られ揺られてしがみつく、あの運動こそ、ドゥルーズの言うところの「時間=イメージ」に他ならない。時間そのものがナマモノとして露呈しているのだ。
だがここでもう一度、「狂人」とは何か。
私が問うているのは日常生活の狂人ではない。「映画の狂人」である。
「映画の狂人」とは、あらゆるジョン・フォードの畸形的人物たちであり、ハワード・ホークス「赤ちゃん教育」やジョージ・キューカー「素晴らしき休日」の中の彼らである。ジャン・ルノワール「ゲームの規則」の消え行く貴族たちが、そして「バニシングポイント」や「バニシングin60」のひたすら走り続けるドライバーたちが、映画の狂人であったはずだ。
彼らが露呈させているものといえば、ひたすら「人間は欠陥生物である」というラカンの言説の証明にほかならない。彼らは理性的にハチャメチャなのでもなければ、本能的にハチャメチャなのでもない。欲動的にハチャメチャなのだ。
「黄色いリボン」で終盤、背広を着て酒場で暴れまくるビクター・マクラグレンの姿はそれだけでフロイトの「無意識」の領域を正当化しているし、「タバコロード」のジーン・ティアニーは、未だ自らの美しい「鏡像」と出会えずにひたすら欲動に突き動かされる哀れな肉塊のようである。そしてまた「赤ちゃん教育」でヒョウと戯れるキャサリン・ヘップバーンや「素晴らしき休日」のケーリー・グラントの宙返りこそ、「理性」と「反理性」とを分かつところの映画的狂人の運動そのものであった。彼らは決して「ブレーキを踏まない」ことで共通する人種、つまり「映画の狂人」なのである。
映画が「映画」であった頃、映画の画面は「監獄に放り込むべきほんものの狂人」たちによる止め処のない「時間=イメージ」によって豊かに埋め尽くされていた。
チャップリンはひたすら走り出し、キートンは逃げ回り、ただそのことのみが、風や波として映画を露呈させていた。人々は彼らの走りに意味など問わなかった。かくして映画における「狂人」とは、ひたすら跳梁し続ける欲動を露呈させる人々を言うのだった。
彼らはその存在そのもので、ひたすらアクセルを踏み続けたのである。
だがいつからか、映画の画面から「狂人」が消えた。「隠された」といった方が正確かもしれない。画面の中は「カッコーの巣の上で」のジャック・ニコルソンのように、「さも、狂人でございます」と、スタニラフスキーの目をひん剥いてのろのろと低速度歩行を繰り返す「匿われた狂人」が大腕を振ってのさばり始め、彼らに居場所を奪われたようにして「映画の狂人」たちは「ほんとうらしさの監獄」の中で走ることを禁ぜられた。現代社会が「隠したがる」のは、決して「カッコーの巣の上」の、ジャック・ニコルソンのような「ほんとうらしさ」に支配された常識的狂人でもなければ「去年の夏突然に」のエリザベス・テーラーのように、精神分析患者としての適正を持つところの物分りのいい女でもない。現代社会が亡き者として必死に隠したがるのは「タバコロード」のジーン・ティアニーや、「硝子のジョニー、野獣のように見えて」の芦川いずみのように、訳もなく瞬間瞬間に表情を変えてしまい、それ自体を「狂気」として露呈させてしまう捉えどころのない跳梁なのである。現代社会が決して受け容れることのできないもの、それは「理由なき運動」である。社会そのものが「映画」そのものを、そして「時間=イメージ」を、受け容れられなくなってしまったのだ。理屈っぽい知識人たちは、映画が「映画」になった瞬間、「知識」と映画とのパイプラインを失い、しかめっ面をして席を立つのである。
今や映画の画面は「狂人」ではなく「善人」たちの理性的なブレーキの発動によって埋め尽くされている。
現代映画を支配するサイコスリラーやサスペンスモノの「狂人」たちは、映画的な狂人ではなく、ただ計算高い「物語人」に過ぎない。
決してブレーキを踏まず、ひたすら走り続けるほんものの狂人たちは、現代の「何故?」「どうして?」の理屈っぽい物語映画の枠から押し出され、密かに「映画博物館」という表象の奈落へと突き落とされるしかない。「創作活動」というものに、「理性」だの「常識」だの「理由」だのを過度に求める「正論社会」が産む「創作者よ、決して創作者たるな。ひたすら制度に媚びを売れ」という現代砂漠の遺跡として。
タランティーノは、最早現代映画では決して露呈させることのできない「狂人」を、「決してブレーキを踏まないバカ」としてワンクッション置いて視覚的に蘇らせながら、それを「現代型狂人ラッセル」に発掘させ、戦わせ、打ちのめすことで、「映画の記憶」そのものを、対決の寓話として見事に発展させている。タランティーノもまた、シネフィルとしての発掘の作法をわきまえた武士であり、蘇った義の化石なのだ。
タランティーノは、女がボンネットの上を右へ左へ振られるたびに、「止まればいいのに、、」と泣きながら笑い続ける我々を、その身体ごと「映画の記憶」へと放り投げてしまうのである。
「耐死男」、カート・ラッセルは、たかだか理性的狂人であるにもかかわらず、調子に乗って、やぶを突付いて「ほんとうのバカ」を掘り出してしまった。驚いた彼はひたすら謝罪し、逃げ惑う。だが許されるはずもなく、とっ捕まり、その制御不能の圧倒的映画力の前に葬り去られた。その「力」こそ、遺跡の中から発掘された、「狂人」という名の、忘れ去られた映画の宝石である。
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