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映画批評
「男たちの大和」(2005)佐藤純彌 ヒロシマを映画的に描くとは何か 2006年7月8日
★笑顔
序盤から娘役の蒼井優がやたらと笑っている。どうしてこんなにも笑うのだろう、と、その余りにも露骨な笑顔の数々に私は少々佐藤監督の演出に疑問すら感じながら、映画を体験してゆく。蒼井優は戦争へ旅立とうとする自分の愛する青年にひたすらエールを送り、青年の母の死を自分の責任として泣き、侘び、「死なないで」と青年を励まし続ける。バスで出征する青年を見送る娘。だがカメラは何故か娘の側からではなく、青年の側から娘を撮り続けている。笑顔で手を振る娘の姿。そして娘の口から、「私はヒロシマに行きます」という言葉をさり気なく聞かされるのである、、、この瞬間、映画を通じて「見送られている」のは青年ではなく、実は娘のほうであったことが分かるのである。
「男たちの大和」の中の、ヒロシマの挿話をめぐる一コマである。あの「ヒロシマ」という言葉を聴いた瞬間、蒼井優の笑顔の意味が一瞬にして判り、それに気付かなかった自分を恥じたことを今でも思い出す。
娘のあの笑顔はただの笑顔ではなく「二度と見ることの出来ない笑顔」として意図的に写し続けられていたのである。
★ヒロシマ
ヒロシマとは何だろう。出征を見送られ、励まされ、別れを惜しまれ消えて行った兵士たちの姿がひとつの戦争であるとするならば、ヒロシマは一瞬で消え去った何かではないだろうか。人々は誰にも見送られず、励まされもせず、さよならをする暇も与えられず、ヒロシマの一瞬へと消えて行ったのである。
★逆転の発想
佐藤監督は蒼井優に対して、露骨に笑うことを求めている(注Ⅰ)。その瞬間の若く美しい笑顔を「見る」ことを我々に要求している。だが同時に佐藤監督は、蒼井優を、たった一つの例外を除いて、最初から最後まで「見送る人間」として描き続けている。娘を「見ること」を要求しておきながら、同時に我々に「見ること」の難しさを提示している。娘が「見送る人間」であることに安心した愚かな我々は娘を見ない。娘の笑顔を愛さない。娘の日常的な輝きに迂闊にも安住し、さよならの準備を怠るのである。そして娘は一瞬で消える。消えてはじめて我々は「見なかったこと」を後悔し、あの笑顔を思い出そうと生涯苦しみ続けるのである。それが「ヒロシマ」なのだ。
★映画を見て映画を語る
我々は「サイトの趣旨」で「戦争映画を見て戦争は語らない。映画を語るのだ」と書いた。ここで私が書いたのは「ヒロシマ」ではなく、笑顔を「見ること」という映画的行為の主題と、それと逆説的な脚本の書き方とを戦わせながら「ヒロシマ」そのものを感じさせた佐藤監督の映画的暗示力の素晴らしさである。映画の構造そのものが「ヒロシマ」なのである。映画とは「見ること」であり、「見ること」とは一瞬で過ぎ去る何かなのだ。これがプロの脚本の書き方というものではないだろうか。
この映画を見て広島について語るのが悪いとは思わない。ただ我々は映画を愛するのだから、まずは映画を映画として語りたい、それだけである。それが「ヒロシマ」を語ることにもつながる、だからこそ映画は素晴らしいのだ。
★「たった一つの例外」
ところで前述の「たった一つの例外」とは何だろう。今度DVDが発売されたら是非見て頂きたいのは、青年が母の遺影にすがりつくシーンである。玄関の外が「ことさらの」素晴らしい光(照明)に包まれている。そしてその光の中から蒼井優が入って来る。そして蒼井優は、その光の中へと消えて行く。佐藤純彌は言葉ではなく、映画の光の力によって「さようなら」と、ここで一度だけ、美しく娘を「見送っている」のである。
注Ⅰ
この蒼井優という女優は、必ずや「笑顔の印象的な女優」として、役を得たに違いないのである
映画研究塾 2006年7月8日