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これは映画研究塾開始と同時(2006.6.17)に出したと記憶していましたが、2007年3月6日に掲載した「心理的ほんとうらしさと映画史」の論文を引用していることからするとそのあとに書かれたのかもしれません。これから映画研究塾を始めるに当たっての非常に瑞々しい文章で書かれています。「映画学」という言葉は今では使いませんが言わんとすることは現在と大差ありません。私の出生地は大田区の久が原ですがなぜか新宿区市ヶ谷になっていたりします。それも含めてそのまま掲載します。 2024年7月3日 藤村隆史。


自己紹介


 はじめまして。当サイトを管理運営させて頂きます藤村隆史と申します。
以前は「
STING
大好き」というペンネームで映画について書かせて頂きましたが、心機一転、新しい名前で活動を再開させて頂きます。ただ、以前からお付き合いさせて頂いている方は、「スティング」でも「てぃんさん」でも、何でも構いません。
また後日、以前私が書いていた映画評の一部を「
STING
大好きの部屋」として復活させる予定でもあります。

以下、簡単ながら自己紹介をさせて頂きます

経歴
・1963年5月、東京新宿区市ヶ谷に生まれる
・父の転勤で鳥取県→広島県→横浜→金沢と全国を転々とする
・慶応大学法学部入学のため再び東京、自由が丘へ引っ越す
・現在、再び金沢に身を寄せるが、密かに東京帰郷をもくろむ


サイトの趣旨と同様に、以下の論文もまた、当サイトの方向性を決定付ける重要なものですので
是非とも合わせてお読み下さい。
「心理的ほんとうらしさと映画史」

サイトの趣旨

はじめに

当サイトは「映画とは何か」について考えて行くことを目的とする映画研究サイトです。同時に映画を「映画学」として探求し、映画の真実へと辿り着くことを目的とした映画塾です。塾と言いましてももちろん私は講師ではなく、生徒であり、講師はスクリーンに提示された「映画の画面」そのものです。映画を見ること、その中で皆さんといっしょに映画を学んでいこうというのが当サイトの姿勢です。

映画を語りたい

我々は戦争映画を見て「戦争」については語りません。「映画」について語ります。「アマデウス」を見て「モーツァルト」を語りません。モーツァルトを映画的に語ります。何故ならば、映画は人生そのものを映し出した素晴らしいメディアですから、映画について語ることが、結果的に「戦争」なり「モーツァルト」なりを語るに等しいか、あるいはそれ以上の何かを導き出してくれるからと信じているからです。

映画学は必要なのか

映画はオペラに変わる第二の総合芸術です。仮に映画が「誰でも見れば分かる」程度の簡単なものであるのならば、我々は映画について語る価値すらありません。しかし仮に映画が素晴らしいものであるのならば、我々は他芸術と同様に映画を「学問せず」にはいられないはずなのです。にもかかわらず私は、映画を学問することを怠ってきました。「文学を楽しんだり理解したりしようとする前に、読み方を学ばなければならない事を我々は良く知っているのに、映画は誰でも読めるのだと勘違いしやすい」とジェイムズ・モナコが書いているように(映画の教科書131)、映画は「誰でも見ればそれで分かるものだ」という通念がそこに横たわっていたのです。それは他芸術では考えられない怠惰な現象だと言えるでしょう。果たしてイチローは素振りの練習なしに野球をしているのでしょうか。羽生は定石を知らずして森内と戦えるのでしょうか。私は、映画を「学問せず」にはいられない。これがこのサイトの基本的な出発点です。

★映画学とは

では「映画学」とは何でしょうか。映画に普遍的な教科書はありませんし文法といったものもありません(ジョン・M・キャロルのように「文法はある」という学者もいます)。しかし画面は存在します。たとえそれが影の運動に過ぎないとしても、また、そこに映し出される事物が想像上のものに過ぎないとしても、間違いなく画面は現前するのです。こうして映画がスクリーンの上に展開する視覚的な画面によって成り立っているメディアである以上、我々は「映画学」をして「映画を視覚的観点から解き明かすこと」、とここでは自然に定義しておきます。

★何故映画ファンは映画を「映画学」へと発展させなかったか

では何故我々映画ファンは映画史において、映画を「映画学」へと発展させようとはしなかったのでしょう。それは、映画ファンが、映画を「分かった」と感じているからではないでしょうか。人間は「考える葦」かも知れませんが、逆にひとたび「分かった」と感じた瞬間、人間ほど思考を停止する動物もまた無いのです。これは私自身の経験ですが、映画ファンは映画を見ると、すぐに映画を「分かった」と感じてしまうものなのです。しかしながら、それは野球に例えますと、昨日初めて野球のルールを覚えた人間が、今日、ロジャークレメンスが打てると信じてしまうくらい滑稽なことではないでしょうか。昨日将棋の駒の動かし方を習った人間が、今日羽生に対して「君、それは違う」というくらい不可思議な現象ではないでしょうか。映画は総合芸術ですから、そのレベルはそんなに低くはないはずです。一つ簡単な例を挙げましょう。「エドウッド」というティム・バートン監督の有名な作品があります。この作品はパンフォーカスという技法で撮られています。しかしそれを「パンフォーカスだ」と即座に確認でき、かつその趣旨を「映画的観点から=視覚的観点から」論ずることのできる映画ファンなり批評家が果たして何人いるでしょうか。問題なのは、バートン監督は「偶然に」パンフォーカスで撮れてしまった訳ではないということです。「わざわざ」パンフォーカスで撮っているのです。その「わざわざ」やっていることに関してひたすら我々が無関心で在るということは、映画論以前の人間論として、非常に危険なことではないでしょうか。人間というものは「わざわざ」やった事を誰にも理解されないとグレてしまうものなのです。イチローがメジャーリーグに渡った当時「目の肥えたアメリカの野球ファン」という、ある種、日本の野球ファンに対して挑発的ともとれる発言を幾度となく繰り返した事が有りました。彼のようなスーパースターですら、自分のしているプレーの趣旨を我々に分かって欲しがっているのです。簡単そうなプレーでも実は高度なテクニックや情熱が必要なのはどこの世界でも同じです。それを我々見る側が理解することができれば、見せる側もまたやりがいが出るものではないでしょうか。これは映画論ではなく人間論です。どうして映画監督だけ例外であると言えるでしょう。映画を作っている人たちも分かって欲しがっているはずなのです。ゴダールだって絶対に分かって欲しがっているはずなのです。そもそも映画とは、自分を分かって欲しいと痛切に願っている人たちが撮るものだからです。パンフォーカスを見極めるには訓練が必要ですからこれは極端な例かもしれません。しかし、例えばインターネットで「エドウッド・パンフォーカス」で検索すると、以前私が書いた拙文しかヒットしない、というのは余りにも極端すぎるのです。一人くらい「この映画はパンフォーカスで撮られている。その趣旨はオーソン・ウェルズが映画の中に出て来るからではないか」くらいのことは書いていても良いはずなのです。しかし映画ファンは、これもまた私の経験談ですが、例えば「パンフォーカス」などという技法を聞いた瞬間、嫌悪の、時に軽蔑にも似た視線を投げかけるものなのです。そこには映画とは「自由」であり、映画に理屈を用いることは意地悪でけしからん、という意識があるのはないでしょうか。確かに実践を欠いた頭でっかちな理論は却って害悪をもたらすのはどこの世界でも同じですが、映画の「画面」という、確固として存在する「実践」に立ち返りながら考えてゆく理論は決して屁理屈ではありません。「何故に理論に対する不信が存在するのだろうか」と、ベラ・バラージュは映画の草分け的理論書「視覚的人間」の中で、理論に対する映画ファンの不信感を拭い去ろうと努力をしていますが、彼は映画創世記の1924年に既に理論の重要性を説き、その後の映画史もまたエイゼンシュテイン、アンドレ・バザン、クリスチャン・メッツ等、数え切れないほどの理論家たちの華々しい映画理論の戦いの歴史の連なりでありながら、ほとんどの映画ファンはその恩恵にあずかってはいない、というのがもう一つの紛れもない映画史なのです。

もう一度言いますが「仮に」映画が素晴らしいものであるのならば、我々は映画を「学問せず」にはいられないはずなのです。そうすることで我々と作り手との円滑なコミュニケーションが生まれ、映画は活性化されてゆくと私は信じています。大切なのは、我々が作り手たちと交渉できる下地を作ることです。我々は映画を素晴らしい芸術であると確信じています。同時に我々は映画論が袋小路に陥った時、素直に人間論へと立ち返ります。映画は人生を映し出すものですから、必ずそのカギは、人間の中に見出されるはずだからです。

★どうして私は、映画を「分かった」と勘違いしたか

では何故、映画ファンは映画を「分かった」と感じてしまうのでしょう。こういう議論こそテレビや雑誌でやるべきなのです。映画に記号学があてはまるかどうかは別にしまして、ひとまず記号学的な観点から説明させて頂きますと、例えば動物の「象」を例に取った場合、これが言語の場合、意味するもの(象という文字)と、意味されるもの(実物の象)とは非常にかけ離れています。仮に「象」が象形文字だとしても、象という文字を見て、実物の象をイメージできる人はほとんど存在しないでしょう。だからこそ言語は「言語学」へと発展します。映画以外の造形芸術でも同じように考えてよいのではないでしょうか。例えば「刑事コロンボ・ビデオテープの証言」(1975)という作品では、抽象芸術のアトリエでコロンボ刑事が捜査中、そこに展示されていた作品の意味がまったく分からず、挙句の果てに換気扇を指差して「あれはいったいなんでしょう?」と尋ねてしまう有名なシーンが在りますが、他芸術の場合、こういうことが起こりえます。そこでは意味するものと意味されるものとの間に恣意性(隔たり)が存在するので作品の意味が分かりにくいのです。だからこそ彼らは「学問」するのです。ところが映画はカメラという機械によって現実を切り取る芸術ですから「象」がスクリーンに映し出された場合、ほとんどの場合我々はそれを「象」であるとイメージできてしまいます。敢えてここで「しまいます」という言葉を使ったのは、これこそが映画100年の決定的な素晴らしさであると同時に致命的な悲劇だからです。例えば映画ファンの間では難解とされている「アンダルシアの犬」(1928)ですら、我々は、ピアノはピアノ、ロバはロバと分かって「しまう」のです。しかしあのピアノを見て私が「分かった」のは「ピアノ」であって、それは「映画」ではないのではないでしょうか。同じ象にしても撮り方次第によって全然違います。例えばジャン・ルノワールの撮った木と、ベルトラン・タベルニエの撮った木とでは全然違いますし、グリフィスのクローズアップとピーター・ジャクソンのクローズアップとでは天と地ほど違います。ただそうした違いは意識して見ないと非常に分かりにくいものなのです。以前の私は、象が象であるという「不可視の意味の了解」だけで、つまり「観念の了解」だけで、視覚的メディアである映画を「分かった」と感じてしまい、その「象」が、どういう象として視覚的に映し出されていたかをまったく見てはいなかったのです。私は視覚的な映画の画面を「読んで」いたのです。

★見ること

このようにして、われわれが目指す「映画学」とは、視覚的表象文化であるところの映画を「見ること」なのです。

しかし映像を「見ること」は簡単なことではありません。私も「見ること」を3年ほど集中的に訓練した時期がありましたが、その時に映画を「見る」ということがいかに困難なことであるかを身をもって経験しました。見ることとは「意識して見る」ことなのです。我々は見ているようで、しかし見ていないのです。映画を見る時に我々は常に「物語」という不可視の誘惑にさらされているからです。確かに映画の目的は、そしてその最大の素晴らしさは物語を語ることにあります。しかし物語にも色々な物語があります。①「あらすじ」としての因果に支配された動機の連なりである不可視の物語もあれば、②「出来事(運動)」そのものの提示としての断片的な可視的な物語もあります。映画と他の造形芸術との大きな相違点の一つは、映画の画面が運動する影である点にありますから、映画の物語は②から①へと語られてこそ映画の本質により適合していると思われるのですが、現実の映画評のほとんどは①から②へという順番で語られています。極端なものになると①だけというものも珍しくはありません。しかし映画の本質たる可視的な運動よりも、二次的なものに過ぎない不可視の動機(心理的ほんとうらしさ)や意味的な動機付けを映画論の序列として上位に置いていては、3割バッターと2割バッターとの区別が付けられなくなるのは当然のことなのです。この「物語論」はあらゆる映画論へと派生する最重要テーマの一つですから、その詳細については後日このホームページで考えてゆく予定ですが、「物語が支配すると、場である映像は背後に消えてしまう」とクリスチャン・メッツが述べているように(映画理論集成225)、我々は物語の誘惑から不可視の物語を「読む」くせがついてしまい、可視的な画面を「見る」ことをおろそかにしてきたのです。映像を「見る」ということは極めて難しいことなのです。

★では「聞くこと」は、、

映画には映像だけでなく、声、ノイズ、音楽といったものも映画のコードとして重要なのは言うまでもありません。今回もグリフィス論、そして「河内山宋俊」の批評等で、視点と音との関係について考えてみました。ただ「映像のない映画」と「音のない映画」のどちらかの選択を迫られた時、おそらくほとんどの映画ファンは後者を選択するであろうという単純な理由のほかに、映画において視覚からまったく独立した音はありえないと思う点から、まずは「見ること」を当サイトの基本姿勢とさせて頂きます。

★一点を突き刺す批評を目指して

映画は非常に身近なものです。余りにも身近すぎて、私は映画を「見る」ことを怠って来たのです。そのせいで我々は、3割バッターと2割バッターとの区別すら満足に付けられずにここまで来てしまいました。時に3割バッターが2割バッターのような扱いを受け、2割バッターが3割バッターのように持て囃されてきたのです。しかしそれでは、才能のある者や正直者が馬鹿を見てしまう。そんな世界で良い訳がないのです。しかしマスメディを中心とした映画環境は、こうした姿勢でいることこそが「自由で優しい映画鑑賞である」とする姿勢を採り続けてきたようです。「映画は難しいです。あなたは映画を分かっていません。みなさん勉強しましょう」などと言うテレビはどこにもないのです。それは「禁句」なのです。勿論そこには商業から出発した唯一の芸術である映画が本来的に抱える悲劇が含まれているのですが、多くの場合、そこには無知、不勉強、そして因習が寄り添っています。こうして一部の人たちによって作り上げられた妄想に過ぎない「映画は誰でも見れば分かる楽しいもの」という、一見寛容そうでありながら、ある意味で、映画という芸術を非常に低く見做す傾向は、悪い言葉で言い換えれば「映画ファンの美徳は、哲学をしない点にある」という、とんでもない地点へと行き着く危険をはらんでいるのです。「誰がすぐれた才能を持ち、誰がそうでないかを見抜くすべを知るということ、そして可能なら、そのすぐれた才能を定義しようとしたり、解明しようとしたりすることだ。そうしたことをしようとする人はそうたくさんいないんだ」とゴダールが言っていますが(「ゴダール全発言」539)、①映像、②対話、③ノイズ、④音楽、⑤文字の書かれたもの、という、五つのトラックによって成り立っている映画という媒体を、我々は「言葉」という、たった一つのトラックによって分析するわけですから、それはまさに「絶望主義的な」作業ではありますが、それでも我々は、山根貞男が書いているように(「映画狩り」107)、一つ一つの作品を一点において垂直に突き刺すことができるような、本当の意味での批評が書けるように、映画を「映画学」してゆきたいと考えています。そしてそのためには何よりもまず映画を「見ること」を、そしてそのような観点から論文や批評を書く勉強をしてゆきたいと思っています。そうした点で当サイトは、「映画学」を標榜はしてはおりますが、その目的は映画を体系的に理論付けることではなく、一つ一つの「映画を見る」ということに絞った極めて実践的なサイトであると言えるでしょう。まず見て、その結果として理論を感じてゆくのです。

★最後に

映画の見方は人それぞれで違います。違って当たり前なのです。だからといってそれは映画を学問しなくても良い、という理由には結びつきません。違った中でそれぞれが映画を考えてゆき、次々と新しい理論を更新してゆく、そこでこそ始めて「映画は自由である」といえるのではないでしょうか。このサイトの最大の趣旨は、映画が「分からない」ということに尽きています。私はまったく映画を分かっていなかった、そして「見て」いなかった。そういう方たちと、これから一緒に映画を見て行きたい、当サイトの設立の基本概念はそこにあります。「分かっていない」からこそ、書くこと(エクリチュール)の誘惑に駆られてしまうのです。