映画批評
「樹の海」(2004)瀧本智行 グランドホテル形式と物語性との関係について 2006.9.2
★溶暗
映画開始から30分程度経った時だろうか、最初のフェイドアウトが入った瞬間、私はこの映画が「オムニバス」であると何故か感じたのであるが、それは前半から超ハイペースで飛ばし続ける池内博之の演技であるとか、それをさらに盛り上げてくる音楽であるとか以上に、この作品の持つ反物語的な運動感が私の経験をして「オムニバス」だと感じさせたのかも知れない。実際にはオムニバスというよりも「グランドホテル形式」であったのだが、ともすれば感傷的に走りがちな「処女作」というものを、瀧本智行はこのグランドホテル形式で語ることで、過剰な物語性から開放され、映画は心理よりも出来事性の驚きへと心地よく流れている。
グランドホテル形式と物語の関係については拙文「洲崎パラダイス赤信号」のレビューがあるが、この「樹の海」の力強さの一つの原因は、複数の人物を個々別々に描くという「グランドホテル形式」を採用したことによって、一つ一つのエピソードを、「劇映画の慣習としての因果に支配された起承転結」によって語らなくても良いという「強度の物語性への呪縛」から解き放たれることによって、映画を不可視の「心理の物語」から、可視的な「運動の物語」へと転化させたことにあるに違いない。
★物語からの逸脱の豊かさ
特にそれを強く感じたのは中盤の津田寛治と塩見三省の居酒屋でのシークエンスであるが、このシークエンスは物語の進行上からすれば明らかに「長い」のであり、ほとんどこのシークエンスは物語から逸脱し、この二人と愛想のないウエイトレスとの三者による横と縦との運動だけへと解消されている。
この瀧本智行という監督に将来性を感じるのは、この酒場のシークエンスでの「物語性」からの逸脱が、どうにもならない即興的な欲求から出て来た結果であったからだと私は感じるからであり、仮にそれがあらかじめの脚本上の決め事であったとするならば、この映画の「119」という上映時間と相まって、逆に限りなく危険な兆候ともなるだろう。映画とは何故かそういうものなのだが、この作品を想い起こしてみたならば、説明調の回想や池内のやや心理的なセリフは後者を指示し、一見わけもなく死体のそばから離れようとしない荻原聖人のエピソードや、井川と大杉のエピソードの静かな力は前者を指し示している。
どちらにせよ、グランドホテル形式を採用したことが、こうした「物語からの逸脱」の方向への許容の幅を大きくしことだけは間違いない。
★即興と映画史
ちなみにこの「どうにもならない即興的な欲求」とは、物語からの解放に進んで身を任せることの出来る作家の自由性であり、映画を言語的で心理的な辻褄合わせから視覚的で瑞々しい運動へと解き放つ豊かさであり、それは映画史においてグリフィス、ルノワール、ジョン・フォード、ハワード・ホークス、ロッセリーニ、ブレッソン、ゴダール、溝口健二、といった作家たちが映画に遺した宝石である。この点の詳細は、次回の論文「心理的本当らしさと映画史(仮題)」で徹底的にやる予定であるが、やはり映画の「物語」とは、可視的な運動の物語であって欲しいと願う者として、この「樹の海」という作品の、あらすじとしての不可視の物語の不可解さは、逆に可視的な物語の新鮮な響きとして私の瞳を捉えたのである。
★黒
確かにこの映画の力は、あらゆる画面に立体感を持たせながら、豊かな「黒」を常に画面の中に配置する柴主高秀のキャメラや証明、装置、衣装、現像の力抜きには考えられないのであって、例えばあの酒場の壁の、下半分の豊かな「黒」は明らかにあのシークエンスの空間を支えていたし、白い地面に支配された駅のキオスクの明るい空間も、行き交う通行人の背広のハイコントラストの「黒」が画面の豊かさを押し上げている。構図が良く、クローズアップもバランスが良く、森の中では逆光で画面を彩り、その結果画面は透明感を獲得し、フィルムの感触、肌触りもまた素晴らしい。
★終わりに
この作品の手柄が果たして瀧本智行一人の手によるものなのか、そうではないのかはこの時点で断言は不可能だが、これから追いかけてみたくなる人が出て来たという点で収穫であった。
映画研究塾 2006年9月2日