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映画批評 二番館① 2006年~2007年
ここは「映画批評封切館」以外の作品の短評コーナーです。名画座、映画祭、ビデオ、DVD、、あらゆる媒体における映画鑑賞を含みます。
日々、鑑賞した作品について、ジャンル、年代に拘ることなく自由に書き綴って行きます。
批評方法は「映画批評封切館」と同様ですのでそちらを参照下さい。
更新は、下から上へと順次成されて行きます。
2007.2.18更新
評価 | 照明 | 短評 監督、スタッフ、鑑賞日、その他 | |
マイノリティ・リポート(2002米) MINORITY REPORT |
80 | 80 | 映画批評「マイノリティ・リポート」 監督スティーヴン・スピルバーグ撮影ヤヌス・カミンスキー俳優トム・クルーズ、コリン・ファレル、マックス・フォン・シドー、サマンサ・モートン 2007.2.16 二度目の鑑賞 この映画は、冒頭、まるでアルフレッド・ヒッチコック「サイコ」のような、眼球のクローズアップから開始され、トム・クルーズがひたすら「逃げる」ことでエモーションを獲得してゆく。もちろんアルフレッド・ヒッチコックだけではなく、「ボール・オブ・ファイア」(教授と美女)等ハワード・ホークスへのオマージュに満ち溢れているし(ものの見事に、ヌーベルバーグが提唱したところの「ヒッチコック・ホークス主義」で貫かれている)、仮にこの映画が「フィルム・ノワール」であるというスティーヴン・スピルバーグの言説を鵜呑みにするのであれば、まずはこの映画が限りなく、ハイコントラストの「ローキイ」で撮られている事実から指摘し論を展開すべきだろう。 トム・クルーズは、「硫黄島からの手紙」の伊原剛志のように、「エリエリレマサバクタニ」の宮崎あおいように、「トゥモローワールド」のクライヴ・オーウェンのように、そして自らの「宇宙戦争」におけるダコタ・ファニングのようにして、「目隠し」をされ、見ることを禁ぜられている。 プールで遊ぶ息子から「目を離した」ことによって息子を死なせたトム・クルーズは、「目隠し」によって「見ること」を禁ぜられ、大きな苦難を経験する。 トム・クルーズは自らの目玉を抉り取って「網膜検査」を回避し、排水溝へと落ちそうになる自分の目玉を危うく拾い上げながら、壁に映し出されるシネマや、硝子盤に反映されるリポートの、消えては出現するを繰り返す実体のないあやふやな映像の数々と「見ること」によって対峙しながら、日常と非日常の間を真実を見つめようと彷徨ってゆく。 この映画には、「冤罪」なり「未来を自分の意思で変える」だのと言ったあらすじ的なテーマの下に、「見ること」「見ないこと」そして「それでも目隠しを取り、しっかりと見ること」といった主題が視覚的に反復されている。 「それでもボクはやってない」は、「冤罪」という主題を「刑事裁判手続き」という、映画の「外側」によって多くを描いている。この「マイノリティ・リポート」は、「冤罪」という主題を「見ること」という、映画の「内側」から目ん玉の寓意として描き出している。「冤罪」と「見ること」、これはクリント・イーストウッド「父親たちの星条旗」の「写真の信憑性」と「見ること」との関係とも通じるだろうし、「硫黄島からの手紙」の「ひたすら見ること」にも通じているだろう。今の時代の人々は映画を「外側から」語ることで映画を消費している。その中で、「内側から」シネマを抉り出すスティーヴン・スピルバーグを、私は支持したい。 もちろん、この映画のハイコントラストの肌触りの良い「黒」の無機質の画面や、一見動き過ぎのように見えて、実は的確に人物を捕らえ続けるカメラの心地良さなどが映画の価値を高めていることは言うまでもない。 ただ最後に一つ、この映画の「さぁ逃げろー!」(二番館「ステイ」↓の批評参照)のシーンの描写については、アルフレッド・ヒッチコックの足元にも及ばないことだけは、ちょっとだけ付け加えておきたい。 2007.2.21追記 ちなみに丸坊主の預言者アガサの、サマンサ・モートンは、カール・ドライヤー「裁かるゝジャンヌ」(1928)のジャンヌ・ダルク、ルネ・ファルコネッティの生き写しである。 |
ワイルドバンチ(1969米) | 60 | 75 | 映画批評「ワイルドバンチ」 監督、脚本サム・ペキンパー撮影ルシアン・バラード俳優ウィリアム・ホールデン、アーネスト・ボーグナイン、ロバート・ライアン、ベン・ジョンソン、ウォーレン・オーツ、エドモンド・オブライエン 2007.2.16 二度目の鑑賞 一見大アクションの「活劇」でありながら、センチメンタルな70年代的ショットが「活劇」を拒絶しているようにも見える。サム・ペキンパー自体、私はどうしても嫌いにはなれないのであるが、だがその撮り方の多くの作用が、未だ現代に到るまで「悪用」されているという意味合いにおいて、我々が今一度考えてみるべき作家ではあるだろう。 この映画は1ショット3秒ちょいの映画であって、それは1時間に換算すると1200ショットであり「パイレーツ・オブ・カリビアン」(2003)と同程度の猛スピードで画面が連鎖して行くのであるが、但し、被写界深度はこの「ワイルドバンチ」は深く取られており、また、アクションシーン以外では静かに撮られてもいるという差異も確固として存在するものの、それがアクション場面となると急激に早くなり、殆ど肉眼では見えない高速カッティングへと変化するその加速度は、まさにピーター・ジャクソン「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズなどの萌芽とも呼ぶべきカット率を示している。この大元を辿って行くならば、我々はおそらくセルゲイ・エイゼンシュテインなりアベル・ガンスなり、さらにはフランスの前衛アバンギャルドなりへと遡ることになるのであろうが、こうした「速くて見えないモンタージュ」について、我々は余りにも議論を怠り、放置を極めているのが実情であって、そのような意味においても、今、やや古臭くなったかも知れないこの「ワイルドバンチ」を、もう一度別の視点から見直してみることを、みなさんにお勧めしたい。 |
マイ・ボディガード(2004米) | 75 | 80 | 映画批評「マイ・ボディガード」 監督トニー・スコット撮影ポール・キャメロン脚本ブライアン・ヘルゲランド俳優デンゼル・ワシントン、ダコタ・ファニング、ミッキー・ローク、ジャンカルロ・ジャンニーニ 2007.2.14 この映画に対しては、ただひたすら「活劇」である、という褒め言葉が相応しい。映画が映画の内側のみにおいて自己収束を果たしているからだ。 映画の寓意としての「守ること」「奪還すること」といった主題が、視覚的運動による画面の先導によって達成されている。クリント・イーストウッド「ミスティック・リバー」の脚本家、ブライアン・ヘルゲランドの描く、「足りなかったものを埋め合わせてくれた少女に報いるためにひたすら行動するデンゼル・ワシントン」、という抽象化された美しい物語構造が、その視覚的運動によって「活劇」となり、エモーションを巻き起こしている。 バズーカを打ち込むシーンの十字路の、あの昼過ぎの、止んだ雨が未だ地面をテカテカ輝かせている光だとか、人質交換の平原の、一本の枯れ木の佇まいであるとか、風に揺れるカーテンの包み込まれる感じであるとか、一つ一つの断片的画面への気持ちの入れ方が、トニー・スコットの映画の根底を為している。 ちなみにトニー・スコットは、「太っちょ」が嫌いなのだろうか。それとも好きなのだろうか。この「マイ・ボディガード」の汚職警官にしても、「ラスト・ボーイスカウト」のボスにしても、その醜い腹を敢えてさらして撮られているし、「クリムゾン・タイド」の心臓発作で死んだ黒人にしても、ハックマンをして「太り過ぎだ」と揶揄されているように、多くの「太っちょ」たちが、彼の映画のキーマンとして使われている。 画面はハイコントラストで、明暗の配置がしっかりしていて、且つ良い「黒」が出ている。だが撮り方自体は本当に本当に、おいおい、というくらいのギリギリの線においてギリギリの芯を付いている。こうして次第にトニー・スコットのキャメラは動的に、危険地帯への侵入を推し量りつつある。 |
ノスフェラトゥ(1978西ドイツ、フランス) | 90 | 95 | 映画批評「ノスフェラトゥ」 監督ヴェルナー・ヘルツォーク脚本F・W・ムルナウ俳優ブルーノ・ガンツ、クラウス・キンスキー、イザベル・アジャーニ 2007.2.13 序盤、ペンシルバニアの屋敷で、ブルーノ・ガンツがパンを切りそこなって傷ついた指を、ドラキュラ伯爵が口で吸う長回しシーン、これが今回の検証となる。 このトラッキングを介した長回しの照明の、「始点」「中間点」「終点」を見てみよう。見事に「ピタッ」と光が決まっている。 始点から光が的確に当たるのは当然としても(実情は当然からは程遠いのだが)、中間点においてもその見事さは持続し、終点において、キラウス・キンスキー(ドラキュラ伯爵)が暖炉の前で椅子に座る、その時に、伯爵の顔面の表面に、これしかない、という怖ろしい光が「ペタッ」と表面的に当たっている。まるでペドロ・コスタ「骨」の夜のトラッキングように。 照明とは「部分」ではない。人格の発露であり、作り手たちの人格と不可分一体の「全体」である。照明とは「難易度」であり、「情熱」であり、「才能」である。 現在のプロの批評家は「フラガール」と溝口健二「近松物語」の照明の区別がつかない。このような、映画を訓練することを放棄した自堕落的なプロの批評家たちに作品を「批評」されなければならない絶望的な状況の中での映画の「作り手」にはそもそも三種類しかない。 一つ目は、どうせ批評家は見ていないと光に妥協し手を抜く作り手、二つ目は、それでもなお決して手を抜かない作り手、三つ目は、その「自堕落的批評家」たちと同じように、そもそも「フラガール」と「近松物語」の区別がつかない作り手、この三種類である。 この言説は、一番目と三番目の作り手たちには向けられていない。但し、それらを見分けるためには、我々の努力と自己反省がかなりの強度によって必要となる。 |
2007.2.18更新 | |||
アメリカン・アウトロー(2001米) | 75 | 75 | 映画批評「アメリカン・アウトロー」 監督レス・メイフィールド撮影・ラッセル・ボイド俳優コリン・ファレル、スコット・カーン、アリ・ラーター 上映時間94分 2007.2.12 「B」としか言いようがない。この「94」という今時珍しい数字が私をしてこの映画へと向かわせたのであるが、この如何わしさは「B」のみが持つ楽天性と無邪気さと、大いなる「映画主義」に満たされている。ここにあるのはひたすら映画が「映画」であれば良いという企みそれだけに過ぎない。 私が良く映画を見ている最中に感じる「このようにして終わってくれ、、」という願いを見事に叶えてくれた、久々の痛快作でもある。これで続編をどんどん作ってしまえば良いのだ。 クローズアップの一部が画面を停滞させることもなくはないが、「ジェシィ・ジェイムズ」と聞く時の我々の先入観を涼しげに吹き飛ばし、ただひたすら「映画」であれとするその潔き良いまでの楽天主義が、この映画をして許せるものへと上昇させている。 この映画は「知識人」には受けないだろう。何故ならこの映画は、映画の「内側」だけで自己完結しているからだ。映画の「外側」しか語れない「知識人」には、「内側」で自己収束するこの映画を語ることは出来ないのである。従ってこれは「映画」である、という訳だ。 |
「無頼」より 大幹部(1968日活) | 80 | 80 | 監督舛田利雄・撮影高村倉太郎・照明熊谷秀夫・美術木村威夫・俳優渡哲也、松原智恵子、待田京介、浜田光雄、藤竜也、深江章喜、北林早苗、青木義朗、松尾嘉代、高品格2007.2.11 どんな隅の、目に付きにくい部分ですら、いや、目に付きにくい部分であるであるからこそ、意地になってでも最良の仕事をする、そんなチームの意気地が見て撮れる素晴らしい光空間を構築している。 薄汚れた病院の、木村威夫の見事に汚れた美術空間。「病院」とは薄汚れていなくてはならず、従って映画においては、「薄汚れた病院にしか入れない層の人間を描くべきだ」と、この「無頼より・大幹部」は教えてくれている。真っ白な壁に包まれた綺麗な病室ほど、非映画的空間はないのだから。 浜田光雄と北林早苗が手を繋いで走る。それをカメラは高速後退移動で下がりながら捉える。このトラッキング一つで、二人の運命を暗示している。これがポエジーというものだ。 |
風の武士(1964東映) | 80 | 80 | 監督加藤泰・俳優・大川橋蔵、桜町弘子、久保菜穂子・大木実、2007.2.10 1963年、東映に「13人の刺客」という工藤栄一の作品が出現、東映時代劇はそれまでの楽天的な勧善懲悪から、暗さを携えた「死の」活劇へと変貌を遂げた。こうした点を社会学的観点から捉えた山根貞男の名著「活劇の行方」をここに是非お勧めしたい。 1964年製作この「風の武士」もまた、薄気味悪いほどの暗い映部分を秘めながら、活劇とメロドラマとの線上をフラフラと彷徨っている。 大川橋蔵と久保菜穂子が、小判を舞い上げるスローモーションの戯れは、その引き伸ばされた時間そのものが、刹那の時間と戯れて、怖ろしいまで暗く輝いている。 |
浮草の宿(1957日活) | 90 | 75 | 監督鈴木清太郎(鈴木清順)・俳優二谷英明、山岡久乃、春日八郎、木室郁子、安部徹、小沢昭一、宮崎準2007.2.10 まるで人間の情念がそのまま乗り移ったようにしては置かれ、取り出され、消えて行く「小道具たち」。これは鈴木清順が「山中貞雄」の直系であることを暗に指し示してはいまいか。 無意味とすら言える上下の空間と、乱雑とも思える数多くの視点とが、詩情へと昇華しながら、まるでハワード・ホークスのように、「主役」のショットでラストを迎えることを拒絶し、メロドラマではなく、「活劇」としての幕を潔く引いている。 |
悪魔の街(1956日活) | 80 | 75 | 監督鈴木清太郎(鈴木清順)・撮影永塚一栄・俳優河津清三郎、菅井一郎、芦田伸介、河野秋武 2007.2.9 理路整然とした物語を語ることを先天的に拒絶しているとしか思えないこの画面の速射砲は、鈴木清順が、ジャン・ルノワール、ジョン・フォード、ハワード・ホークスといった系統と共にあることを露骨に指し示している。 例えばAがしゃべり出すとAへ、BがしゃべるとBへ、と言った、「会話に従属した構図、逆構図の切り返し」が存在しないこと一つ取っても、鈴木清順の画面が「言語」に従属することを拒絶し、ひたすら映画的活劇のみを志向していることが見て取れる。 限りなく断片的で、それはアニメに例えるなら「宮崎駿的」だと言うことができるかも知れないが、ともすれば最近の日本映画が、ひたすら筋立ての論理的整合性に病的にまで拘泥し、その代償として、見事に「活劇」を放棄している中において、「物語を語る」ことにおける鈴木清順の本質的不器用さは、「特権」として意識さるべき映画的資質に他ならない。 |
女囚 檻(1983にっかつロマンポルノ) | 55 | 65 | 監督小沼勝・俳優・浅見美那・室井滋2007.2.9 照明を含んだ全体の空間の感じだが、凄い部分は凄いのだが、「それ以外」の部分では、「最良の小沼勝」に比した時、明らかに見劣りしている。もちろん、それを確認できた事こそ収穫である。にっかつロマンポルノと照明との時代的関係は、これからも続いて研究予定。 |
愛染かつら(1938松竹) | 65 | 70 | 監督野村浩将・脚本野田高悟・俳優田中絹代、上原謙、桑野通子、吉村満子、出雲八重子、坂本武 2007.2.4 「メロドラマ」とは何だろう。当時空前の大ヒットを飛ばした「女性映画」であるこの「愛染かつら」における物語的特徴としては、①身分違いの恋②偶然の出会い③行き違い④誤解⑤悶々とした日々⑤思い出の場所⑥裕福な相手方の近親者による攻撃⑦愛のキューピット⑧再会時のとてつもないエモーション、、、といった感じだろうか。 |
2007.2.13更新 | |||
ゲルマニウムの夜(2005日) | 50 | 80 | 監督大森立嗣 2007.2.2 映画の「中」を、映画の「外」によって語ろうとする度合いが非常に強く、映画が映画において自己完結できず、映画の外の力を借りて終結している。セリフはやたらと理屈っぽく、かつ洗練性を欠いていて、濾過されておらず、摩訶不思議なこの世界を、ある種の幼児性が支配している。 画面の肌触りはすこぶる良く、照明の微妙なニュアンスは今一つだが、黒の出方、コントラストなど全体的空間それ自体は申し分ない。ドラム缶を乗せたリヤカーを引く時の背後の枯れ木の何とも奇妙な感じだとか、シスターのいる調理室の濡れた床と光線の関係だとか、懺悔室での佐藤慶の法衣の紫の色の出方だとか、極めて素晴らしく、カメラマンや照明、美術、装置、衣装の力を推測させるに充分な力強い画面を提示している。だがそれが、果たして「映画」の中へ溶け込んでいるのだろうか。 こうした嗜好性を持つ大森立嗣はパゾリーニやガス・ヴァン・サントには成り得るかも知れない。もちろんそれは凄いことだ。そして人々はそれを歓迎するのかも知れない。だが、「今の時代」とはどういう時代なのか。誰に向けて映画を撮るのか。外か。内か。何を志向するのか。そんなことを私はすぐに考えてしまう。 |
雪に願うこと(2005日) | 70 | 80 | 映画批評「雪に願うこと」 監督根岸吉太郎・撮影町田博・照明木村太郎・美術小川富美夫・俳優・伊勢谷友助、佐藤浩市、小泉今日子 2007.2.1 おそらくこの感じはコダックのフィルムだと思われるが、そのコダックのフィルムの特性を全て引き出したという感じのこの引き締まった画面は、大自然の中で、いかにして小さな人間が暮らしてゆけるか、という観点から、決して人間がでしゃばらず、技巧を表面に露呈させる事を避けながら、そこにある自然の光を、最大限の労働によって誠実に映し出そうとする気持ちが伝わって来る。 「太陽を待つ」という単調な労働が何度か画面の中で繰り返されたのを感じる時、少しずつ映画が人間の結晶として浮き上がって来る。 厩舎の入り口にある大きな青い扉。あの「青い」扉は、当初からそこにあったものではなく、美術係が持って来たか色を塗ったか、そうした労働を推測させるに充分な、「月夜」の「青」として、見事に輝いている。 老人ホームでのダンスシーンなど余り好きではないし、レースシーンの撮り方もまた「スポーツ映画」的で面白くない。現代社会の実情に照らした時、やや「意味」が強過ぎる気もする。しかしこの映画には「ハート」がある。 |
2007.2.8更新 | |||
蛇イチゴ(2003日) | 75 | 75 | 監督西川美和・撮影山本英夫俳優宮迫博之、つみきみほ、平泉成、大谷直子、笑福亭松之助 2007.1.28 西川美和という監督が、「省略とワンクッション」の作家であることは、冒頭のキッチンでの朝食における仏壇からのカメラの動きとその会話の間接性であるとか、寺島との会話における無心の件であるとか、オフの空間を使った音と実体とを分離する演出であるとか、人物の痕跡とカーテンやハンガーやビーズの関係であったりとかを見て即座に感じられることだろう。 「省略」とは、言葉でなく画面で語る、というくらいの意味であり、「ワンクッション」とは、Aをイメージさせたい時にAでなく、Bを描くという趣旨のことであり、どちらもが「画面で語る」意図から来るものである。もちろんこの「画面で語る」という行為が、余りにも明々白々の「意味」を持ち過ぎると、それが「画面を読む」という言語活動に従属してしまう。だがここで西川美和のした、ラストの「ワンクッション」、即ち宮迫博之の服が掛かっていたハンガーが揺れ、窓が開け放たれレースのカーテンが風に揺れている、などという演出は、「読む」と同時に「感じる」ものとして充分に堪能できるし、その撮り方自体も悪くない。。 宮迫博之とつみきみほがキッチンで納豆を食べているシーンを、隣の部屋から撮ったショットなどでは、手前に取り込んだ左側の壁が、光線と構図の関係において豊かな「黒」を出していて、それによって手前→暗、奥→明、という、理想的なコントラスト空間が構築されている。やや窮屈とも言える構図でありながら、そうまでして「黒」を出そうとする作り手のたちの気持ちが通じて来るようで嬉しくなるし、全体的に見ても、「黒」への拘りが見えている。 宮迫の誘いを遮断し、森の中を走り出すつみきみほが、その瞬間、「教師」という仮面を剥がされ、「子供」ないしは「妹」へと変化するまでの積み重ねが実に豊かだ。 こうした視覚的な細部の豊かさにおいて、この西川美和という監督については「ゆれる」私は何を見たか」でも批評に書かせて頂いたが、極めて意欲的に取り組んでいて、それは日頃から「画面」と戦っている批評家であるならば、「ゆれる」にしても、この「蛇イチゴ」にしても、一目見て、少なくともその視覚的細部の絶対量において他の作品群と「違う」という事くらい、簡単に判りそうなものだが、どうやら現実はそうでもないらしい。 我々は「決定」する前に、まず「羅列」すべきなのだ。 |
美姉妹 犯す(1982にっかつロマンポルノ) | 50 | 50 | 監督西村昭五郎・俳優風祭ゆき、山口千枝、内藤剛志 2007.1.26 最初、二人並んで姉妹が歩いて来て、風祭ゆきのモノローグが入って「私たち、戸田家の姉妹です、、」と言った時には爆笑したが、後が続かず退屈の中で映画は終了。 照明がまったく面白くなく、照明と装置の関係もただ明るいだけで駄目、クローズアップも駄目である。 |
メイド・イン・LA(1989米・テレビ映画) | 80 | 80 | 監督マイケル・マン 2007.1.17 マイケル・マンの「ヒート」には、アル・パチーノとロバート・デニーロがただの一度も二人同時に同一画面の中に、「それと判るような形で」入っていなかったという逸話があり、それが基になって、二人の不和であるとか、いや、それはマイケル・マンの遊び心であるとか、色々な事が囁かれて、それが「神話」のレベルにまで達してしまったという、有名な話がある。 私としては、デニーロもパチーノも、マイケル・マンの映画の中に出て来る人物たちとまったく同じような「プロ」なのだから、そのような我がままを通すとは到底思えなかったものの、だがしかし、それにしては、あの「ヒート」の喫茶店での切り返しの不自然さと言い、ラストの視点と言い、何だかマイケル・マンに煙に巻かれたような状態を今まで引きずっていて、つまり仮に「二人が現に同一空間に居ながら、それと判るように画面に入れることを拒絶する」というのがマイケル・マンの故意だとすると、その意図がまったく推測できないのである。 さて、その疑念の「不和」の部分については、少なくともこの「メイド・イン・LA」が解決してくれる、そう思いながら私はこのテレビムービーを食い入るように見つめた。 まず、この映画には終盤、「二人」が同一画面にそれと判るように入っている画面が存在する。だがしかし、「ヒート」と同じように、中盤、二人が喫茶店に入って会話をするシーンがあり、そこではまさに「ヒート」のあの切返しのように、二人が同時に同一画面の中に、「それと判るような形で」は絶対に入って来ないのである。そして私の感覚からすると、これはあくまで作為的に「二人をそれと判るように同一画面に入れることを拒絶」している。つまりマイケル・マンの故意によるものである。 ここで判らなくなるのであるが、まさかここでの主役の二人が「不和」だった訳でもあるまい。それとも「不和」だったのか、、その可能性も棄てきれない。だがしかし、終盤は二人が同一空間にいるのがはっきり判る画面がある。すると、矢張りあの喫茶店のシーンは、マイケル・マンの「視点」なのか。常識的に考えた場合には、おそらくそれが正しいのだろう。つまりマイケル・マンは、「わざと」ああいう撮り方をして、二人を分断しているのだと。では何故?、、どうも判らない。いや、判らない事もなくはないが、変わった事をするものだ。実に面白い。 それとも矢張り、「二組とも不和」だったのだろうか、、、結局判らない。 |
2007.2.2更新 | |||
評価 | 照明 | 短評 監督その他キャスト名 鑑賞日 | |
モンパルナスの灯(1958仏) | 85 | 90 | 監督ジャック・ベッケル撮影クリスチャン・マトラ俳優ジェラール・フィリップ、アヌーク・エーメ、リノ・バンチェラ、リリー・パルマー この映画の「映画」たる所以は、そしてその凄さは、「絵画ファン」なる者たちへと向けられたショットがただの1ショットも存在しないという点に尽きている。「絵画ファン」のご機嫌を伺うようなキャンパスのクローズアップだとか、書かれる瞬間のショットだとか、作品をただ見せるために並べて撮ったりだとかいったショットがまったく存在しない。これは凄いことだ。「ネタ」だけで映画を撮っている人々なら喜んで飛びつくであろうところのサービスショットを頑なまでに拒絶し、ひたすら、そして当然のようにただ「映画」であることのみを志向している。 「肉体の冠」や「現金に手を出すな」でのジャン・ギャバン等の「往復びんた」による、ジャック・ベッケルを貫く「侮辱的に殴ること」の主題は、ジャック・ベッケルが、ラオール・ウォルシュの継承者であることの現れに見えてならないのであるが、それにしても、女をパンチで殴り倒し失神させるなどという荒業は、おそらくベイズ・コード当時のハリウッドでは、「ボール・オブ・ファイア」でバーバーラ・スタンヴィックが家政婦を殴って失神させるコメディ程度のものでしか有り得なかったであろうものが、ここではジェラール・フィリップという男が、見事なパンチでもってリリー・パルマーをKOしているところに、フランス流ノワール創始者の、男の冷たい源流を見ることが出来るのかも知れない。 上下の視線の醸し出す、切ない見詰め合いの映画である。「休憩時間の酒場のテーブルの上に逆様にして乗せられた椅子」の物語でもある。 |
メアリー・オブ・スコットランド(1936RKO) | 90 | 95 | 監督ジョン・フォード撮影ジョセフ・オーガスト脚本ダドリー・ニコルズ音楽マックス・スタイナー俳優キャサリン・ヘップバーン、フレデリック・マーチ、ジョン・キャラダイン、ドナルド・クリスプ2007.1.13 この映画は「ハイキー」であるはずなのだが、ハイキーでここまで微妙なニュアンスを照明で醸し出せる映画などそうそうあるものではなく、この映画のジョセフ・オーガストの光を例えるならば、30年代以降のエイゼンシュテインの作品のエドゥアルド・ティッセの照明とそれとなく似ている。 ジョン・フォードらしからぬ歴史劇ではあり、またどうしても私は「キャサリン・ヘップバーン」と「ジョン・フォード」という取り合わせに何か大きな違和感を感じてしまうものの、暖炉の前でバンジョーを弾きながら歌うジョン・キャラダインのD・W・グリフィス的系統から来る記憶であるとか、ラスト、オフの空間から聞こえてくるバグ・パイプの思い出と、雷のショットに代表されるように、ここには紛れもなく「ジョン・フォード」がいるのであり、従ってこの映画は「ジョン・フォードの映画」である。 ちなみにジョン・フォードとは「雷の作家」でもあり、それは「黄色いリボン」で、幌馬車の中でミルドレッド・ナットウィックがウイスキーをあおって歌い、あのバリー・フィッツジェラルドの誇り高き弟であるアーサー・シールズがトム・タイラーの手術をするシーンでの夢のような本物の落雷の数々であったり、「我が谷は緑なりき」で、サラ・オールグッドが集会から帰る途中の池に落ちた雷、はたまた「若き日のリンカーン」では、リパブリック賛歌の流れる中のラストのあの見事な雷や、「ドノバン珊瑚礁」でのあの暴風雨の中の雷でもあるだろう。 こうした雷の数々をして「神の怒り」と言うはた易いが、それ以前に、「黄色いリボン」の雷や、「三人の名付親」の砂嵐のように、過酷なる自然現象が偶然そこに出現することそれ自体に呆然とする、それがジョン・フォードの偉大さなのである。 |
ステイ(2005米) | 50 | 60 | 映画批評「ステイ」 監督マーク・フォスター・俳優ユアン・マクレガー、ナオミ・ワッツ 2007.1.12 アルフレッド・ヒッチコック「北北西に進路を取れ」で、国連ビルの中にいるケーリー・グラントに突如男がもたれかかる。男の背中にはナイフが突き刺さっている。驚愕するケーリー・グラント。ここでロバート・バークスのキャメラがサッと引かれる。私はこれを、「映画史上最高のトラック・バック」と呼んでいるのだが、カッティングによる転換ではなく、「トラック・バック」という、持続した時間を維持しながらキャメラを引く手法を用いることで、画面は、持続した時間空間の中であるにも拘わらず、ケーリー・グラントの「主観」から、周囲の状況であるところの「客観」へと劇的に転換される。持続した時間空間でもって、まったく次元の違う二つの空気を瞬時にして描いている。天才である。 さて、キャメラが引かれたことにより、大勢の人々が事件を目撃していたことが映し出される。衆人観衆の中に、死体を抱えたグラントがポツンと立たされている。フラッシュが焚かれ写真が撮られる。この写真は「父親たちの星条旗」においてクリント・イーストウッドが指摘した「写真」の持つあやふやさを50年前に既に先取りした見事な写真だ。証拠は揃った。もうどんなバカが見ても犯人はケーリー・グラントにしか見えない。 ここでケーリー・グラントはどうしたか。逃げる!逃げるしかないのだ!、、「さぁ、逃げろ~!!」、この究極の映画的エモーションを、視覚のみで描いた男など、後にも先にも世界でこのアルフレッド・ヒッチコック只一人しかいない!、グラントは逃げる!、国連ビルの中から走って逃げる!、するとヒッチコックは、逃げるケーリー・グラントの姿を高層国連ビルの屋上から、超ロングの俯瞰ショットで、まるで豆粒のように小さく撮って止めを刺すのである。これによってケーリー・グラントの置かれたのっぴきならない状況がすべて視覚的に表される、、、呆れ果てるほど単純で、且つ決定的な才能の違いを見せ付けている、、、このシーンを見て興奮しない映画ファンはまさかいるまい。ケーリー・グラントの状況すべてが「視点と構図」だけで処理されているのである。 ここで問題だが、仮にこの俯瞰のロングショットを入れた後、逃げるケーリー・グラントのクローズアップを入れたとしたらどうだろう。それは実に愚かなショットと呼ぶべきだ。「視点」をメチャメチャにぶち壊しにしているからである。 だが最近の映画はこうしたことに関してまったく我慢が利かない。折角自分で作った視点を、すぐに逆の視点を挿入することによって壊してしまうことが余りにも多いのである。最早そこにあるポリシーとは「視点」ではなく、ただ「ポジションを変えること」でしかない。私はそこで聞きたくなる。「貴方の持っている視点というものを、仮に表現したくないのなら、何故貴方は映画を撮るのですか」と。 この「ステイ」を良く見てみよう。30分ほど見て行ってはっきりと気付いたのだが、例えば窓の外から中を撮る。すると次のショットは必ず窓の内側からなのである。ロングショットで引きの画面を入れる。すると次は必ずクローズアップなのだ。「引いたこと」の意味、つまり「視点」を、必ず次のショットで「必ず」帳消しにしている。この映画ほど極端に「視点」を破壊し続ける映画もまた珍しい。 では監督は、それを故意にやっているのか。おそらくそうかも知れない。しかしそうすると、「視点無き視点」が「私の視点です」という馬鹿げたことになりかねない。創作活動において「視点」とは、すべてを決する要素であって、この「ステイ」のようにあらゆる視点を挿入することは=常に視点を変化させること=視点そのものが存在しないこと、に限りなく近い。 こうした「変化させるための変化」こそ、現代映画を象徴する、と言うよりも、現代社会それ自体を象徴する大きな特徴であることは言うまでもない。 |
ハタリ!(1961パラマウント) | 100 | 90 | 映画批評「ハタリ!」 監督・製作ハワード・ホークス撮影ラッセル・ハーラン脚本リー・ブラケット音楽ヘンリー・マンシーニ俳優ジョン・ウェイン、エルサ・マルティネッリ、レッド・バトンズ、ミシェル・ジラルドン、ジェラール・ブラン、ハーディ・クリューガー、ブルース・キャボット、バレンティン・デ・バルガス2007.1.9 二回目の鑑賞。 ハワード・ホークスの最高傑作がこの「ハタリ!」であることに疑問を差し挟む者はまさかいるまい。それにしても、この映画の「物語」とは何だろう。少なくとも、明確な因果に支配された「こうだからこうである」というような意味での物語はこの映画には存在しない。それ自体が物凄い事であり、映画における「運動」の素晴らしさをまざまざと見せ付けてくれる傑作である。 ここに在る「物語」とは、視覚的な運動のみから抽象化された物語に過ぎない。例えばジェラール・ブランとエルザ・マルティネッリの「仲間入りの物語」であったり、蓮實重彦や山田宏一の指摘するところの、女による「マン・ハント(男狩り)」の物語(季刊リュミエール⑧28)であったり。 ちなみに「マンハント」で言うならば、デュークが、「リオ・ブラボー」で、アンジー・ディキンソンに向かって「お前を逮捕する、、」と言ったのとまったく同じように、ホテルで象に見つかり椅子に座っているエルサ・マルティネッリに対してデュークが、「お前を捕獲する、、」、と言っても何らおかしくないのであって、具体的な設定や粗筋に相違はあれど、抽象化して視覚だけを取り出してみたならば、どちらの作品もが、女が男に「捕まえてもらうように仕向ける」映画、つまり見事な「マン・ハント」の物語なのである。 そのマルティネッリの「仲間入りの物語」については、「コンドル」(1939)の乾杯の席で、一人グラスを持たせて貰えなかったジーン・アーサー同様に、ここでもハワード・ホークスは周到な視覚的細部によって「仲間入り」の過程を暗示していて、例えば退院したブルース・キャボットをみんなが出迎えるシーンでは、マルティネッリだけが距離によって除外され、未だ彼女が「仲間」ではないことが視覚的に描かれている。視覚的に彼女が仲間入りを果たすのは、おそらく原住民に歓迎され、顔を真っ黒に塗られてしょげ返った辺りだろう。 |
2007.1.20更新 | |||
ボール・オブ・ファイア(1942サミュエル・ゴールドウィン・テレビ放映題「教授と美女」) | 100 | 100 | 映画批評「ボール・オブ・ファイア」(教授と美女) 監督ハワード・ホークス撮影グレッグ・トーランド脚本チャールズ・ブラケット、ビリー・ワイルダー俳優バーバラ・スタンヴィック、ゲーリー・クーパー、オスカー・ホモルカ、ジーン・クルーパ 2007.1.7 三度目の鑑賞 ハワード・ホークスの最高傑作は、これだ。バーバラ・スタンヴィックがキラキラ光るドレスを着て、「ドラム・ブギ」を見事に歌って、アンコールがあって、今度はみんなが小さな丸いテーブルの周りに集まって、照明がササ~っと落ちて、ウエイターがサッとテーブルクロスを取ると、ピカピカの机が顔を出して、そこに反射するスタンヴィックの顔を「市民ケーン」のグレッグ・トーランドが見事に撮って、そこであのジーン・クルーパがマッチ箱をドラム代わりにリズムを取って、みんなが声を潜めて「ドラム・ブギ」を歌って、クーパーも一声「ブギー!」と割り込んではすぐに消えて行って、男たちも、女たちも、大人でありながら子供のようなスリルでもってこのジャム・セッションを仕上げてゆく。もちろん、大人の遊びとして。 このシークエンスは物語の進行とは何の関係もない。だが「凍りつく」とはこれだ。 |
スタンド・アップ(2005米) | 50 | 70 | 映画批評「スタンド・アップ」 監督ニキ・カーロ撮影クリス・メンゲス俳優シャーリーズ・セロン、フランシス・マクドーマンド マイケル・ムーアが劇映画を撮ったらおそらくこういう感じになるのではないか。 画面が一方の極に偏っていて、まるで民主党の宣伝映画のようだ。 ニキ・カーロは確かにそれなりの豊かさを持っていて、それは走行する車をそのまま撮り続ける豊かさであるとか、病院の壁のソフトな色合いだとか、少なくともクリス・メンゲスや現像などを含めて、このテクニカラーのフィルムの肌触り自体は決して悪くなく、確かに画面の映画ではなく、物語映画ではあるものの、それなりのものに仕上がっている。しかし、悲しいかな画面が、映画の外から来るメッセージ性に余りにも支配され過ぎていて、人物たちががんじがらめに固定され、個性を放棄させられている。 ちなみにこの映画は15分見ただけで、女性が撮った映画だとはっきりと判る。判るものは判るのである。 原題「CHILDREN OF MEN」を「トゥモロー・ワールド」にした邦題もそうであったが、原題の「NORTH COUNTRY 」が何故邦題になると「スタンド・アップ」となるのか、この涙ぐましいまでの植民地根性は何処から来るのか、実に興味深い。 |
インサイド・マン(2006米) | 65 | 70 | 監督スパイク・リー俳優デンゼル・ワシントン、クライヴ・オーウェン、ジョディー・フォスター 深度の深いレンズで空間を一杯に使いながら、ほとほどに持続される時間やそれに乗せられた構図にしても悪くなく、一見乱暴そうで、確かにひたすらクルクル回るキャメラは乱暴ではあるものの、それでいて人物の動きを含めて丁寧に撮っていて、時間を忘れて充分に楽しむことの出来る作品に仕上がっている。 だが問題は、映画の多くが、画面以外の驚きによって支配されている点であり、この時間操作を含めたネタの面白さに画面が今一歩付いて行けず、物語的に従属をしてはいまいか。特に、物語とは直接関係のない、あるいは希薄であるところの挿話の部分の貧しさが、人物描写の貧しさとなって跳ね返ってはいまいか。「覆面」という構想が、「映画」と溶け合っていないのではないか、そんなことを考えさせられる作品でもある。 照明は、夜になって少しずつ耐えられるようには変化したが、一番難しいところの、昼間のロケーションの、それも黒人に対する光が今一つ、というのは、監督がスパイク・リーだけに失望を禁じ得ない。 |
暗黒街の顔役(1932.キャドー・カンパニー=アトランティック・ピクチャーズ | 100 | 100 | 映画批評「暗黒街の顔役」 監督ハワード・ホークス・製作ハワード・ヒューズ・撮影リー・ガームス、L・ウィリアム・オコネル・脚本ベン・ヘクト俳優ポール・ムニ、ジョージ・ラフト、アン・ヴォザーク、ボリス・カーロフ 2006.1.6 三度目の鑑賞 これを再見しようと思ったのは、先日見たフランシス・フォード・コッポラ「コットン・クラブ」で、クラブの休憩時間に椅子がテーブルの上に逆様に乗せられている姿を見て、そう言えば、フランソワ・トリュフォー「ピアニストを撃て」、セルジオ・レオーネ「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」といった、コッポラ同様のアメリカ映画狂の監督たちの映画にも同じように、休憩時間にテーブルの上に逆様にして乗せられた椅子があったことを想い出し、そういった光景は例えばフリッツ・ラング「激怒」でもあったし、また、西部劇やギャング映画を洗い直せばさらなる発見があるに違いないと、「コットン・クラブ」が下敷きにしているであろうところのこのハワード・ホークス「暗黒街の顔役」を再見した、という次第である。 問題の「椅子」であるが、いきなり冒頭のレストランのシーンで、テーブルの上に横向けの椅子が乗せられていて、これは、と思ったのだが、しかしそれはただのパーティの混乱の結果乗り上げた椅子らしく、どうやらこの映画には、少なくとも「椅子」に関する原点性は、私が見た限りではやや希薄であった。こうして私の映画体験は泥沼へと進化してゆく。 この映画について一つだけ挙げるなら、この当時としても、また、現在に比したとしても、とにかくキャメラの良く動く映画であって、それも見事に動く映画であって、クレーンやドリーを使って上下前後横縦と、まるで成瀬巳喜男映画の屋外移動撮影のように、「構図を壊さない」という趣旨から、動く被写体を最良の構図でもって見事に捉え続けている。今流行の、無意味なキャメラの動かしはここにはない。 |
100人の子供たちが列車を待っている(1988チリ) | 100 | 80 | 監督イグナシオ・アグエロ 2006.1.4 「子供の視線」といって思い出すのはフランソワ・トリュフォー「大人は判ってくれない」で人形劇を見ている子供たち、ビクトル・エリセ「ミツバチのささやき」で、「フランケン・シュタイン」を見つめる少女の視線、或いはD・W・グリフィス「イントレランス」のラストの子供たち、など、映画史において様々な「子供の視線」が思い出されるし、そのフランソワ・トリュフォーを愛したスティーヴン・スピルバーグの「フック」の冒頭の、劇を見つめる子供たちのあの目もまた、フランソワ・トリュフォーへの何かとして私の心を打つ。そしてこの「100人の子供たちが列車を待っている」の子供の視線もまた、映画史を彩る視線の中で、一際光り輝く視線として記憶されることだろう。子供たちのインタビューの最中、ふと、その子供の見た映画がインサートされる時、まるで私は、画面の中へ入ってゆくような、あの懐かしい感覚を突如として思い出す。 古ぼけた教室で、貧しい子供たちに映画を教えている女性教師が、ゾーイロープを子供たちに作らせ、見せ、トーマス・エジソンの発明したキネトスコープを子供たちに作らせ、見せ、そしてオーギュストとルイのリュミエール兄弟が、1895年12月28日、フランスのグラン・カフェで上映した内の一本「列車の到着」を見せている。そして教師は子供たちに言った。「この12月28日という日付を絶対に忘れないように」、、、ここで私は何故か震えるのだった。 誕生日を覚えておいてあげること、それが「愛すること」であり、この12月28日、という日付の言えない人は、映画を愛していると言う資格などない、、、などという、私が感じたのはそんな簡単に割り切れることではない。この12.28という日付は、もっと違ったところの何かであって、あらゆるものを背負い込んだ何かであって、愛するとか愛さないとかの話ではない。 彼女が子供たちにしているのは受験教育ではない。その彼女が何故「12.28」という日付を「暗記するように」言ったのだろうか。それは彼女が教育者だからだろう。あの教師は、つまり教師なのであって、よくよく考えるとそれは凄いことであって、彼女は子供たちに「映画」を「教育」しているのである。しかも彼女は「体験教育」という極めて映画的な教育をしている。 ラスト、子供たちが映画館で映画を初めて見る瞬間、画面は暗くなり、あの「列車の到着」の音だけが流れてくる。この見事な含みを持った終わり方は、癪に障るほど美しく、また嫉妬すら感じるのであるが、この「暗闇」と、それから上映されるであろうところの「列車の到着」は、映画館の中で瞳を輝かせている子供たちだけの体験であり、我々は、私は、決してその中に入ってゆくことの出来ない時間と空間の体験そのものなのである。この瞬間を「体験できなかった」という感覚こそが、映画に対する思いとなって我々を突き動かす、だからこそ、この「列車の到着」のシーンは、決して我々に見せてはならないのである。 「1895年12月28日という日付を絶対に忘れないように」、、何となく私はこの言葉に近付いてきたような感じがしている。 1895年当時の観客は、リュミエールの映画の「物語」ではなく、「風」そのものや「水」そのものに驚愕していたという記録がはっきりと且つ多数の証言として残されている。今の我々は、映画に風そのものを感じるだろうか。全国規模で一斉に封切られる同じ映画を見ている我々は、映画を「体験」していると言えるのだろうか。あの小さな映画館で、「列車の到着」を体験した子供たちと同等の体験をしていると、はっきりとそう言えるだろうか。 教師が子供たちにさせたことは、映画を「見ること」をさらに超え、「12.28」の観客がしたのと同じこと、それはつまり「映画に触ること(体験)」そのものであり。あの「1895年12月28日を忘れないで、、」という女性教師の言葉が私を捉えたのは、その言葉がまさに「映画」そのもののあらゆる歴史を突き刺す響きを持っていたからかもしれない。映画とは「体験」であり、「体験」とは、「1895.12.28の瞳」なのである。 |
2007.1.11更新 | |||
鴛鴦(おしどり)歌合戦(1939日活京都) | 90 | 90 | 映画批評「鴛鴦歌合戦」 監督マキノ雅弘・撮影宮川一夫・男優片岡知恵蔵・志村喬・女優市川春代 何度目かの鑑賞 ハイキーのソフトフォーカス。宮川一夫はその後溝口健二組でローキイ、シャープネスのキャメラマンと変貌したが、この当時はハイキーが主流であり、時にこうして被写界深度のやや浅い詩的な空間を構築している。詳しくは「宮川一夫の世界・映像を彫る」参照のこと。この本は、レンズの話、絞りの話、ローキイ・ハイキーの話などが実にわかり易く書かれていて、私の映画観を大きく助けてくれた一冊である。著者は渡辺浩。 マキノの自伝「映画渡世・天の巻」によると、知恵蔵の部分は僅か2時間で撮りあげたと、いかにもマキノらしいし調子で豪語しているが、殺陣から会話から歌からと、幾らなんでもあれだけ出ている片岡を「2時間で撮った」というのはどう見ても信じられない。 加藤泰の歴史的名著、「映画監督山中貞雄」には、山中貞雄がマキノプロに入社した時のいきさつについて、時と場所を異にして書かれたマキノ雅弘による「三通りの回顧録」といのが列挙してあって、つまり同じ出来事についてかかれたはずの三つの回顧録が三つとも全然違うのを加藤泰は面白おかしく書いているのであるが、その加藤泰が「私は三番が好きだ」と「好きだ」で締めくくっているのがもう大爆笑。事実として書かれている体裁のものに「好きだ」が笑わせる。 だが、これがまさに「マキノ」という人の映画人たる所以であって、彼の人生そのものが「脚色」というほかないくらい奇想天外、波乱万丈の大活劇なのである。この山中貞雄入社のいきさつの回顧録の中で一番面白いのはこの「映画渡世・天の巻」に書かれている「その一」バージョンで、マキノ監督は「~と父は言った。そして山中貞雄の顔を見て~、、」とか、「山中はキッとなって語気強く反撥した」とか、まるで映画の台本みたいに会話と地の文とを細かく分けて書かれていて、かつ物凄く詳しいのである。この「詳しい」というのが何とも笑えるであるが、加藤泰の検証によると、登場人物が明らかに間違っているにも拘わらず、マキノの記述は異常なまでに「詳しい」のである。 多分脚本を書いてる時と同じように、書き出したら止まらなくなったのだろう。だが、この「乗り出したら止まらない精神」、こそ活動屋の真骨頂であって、つまりマキノの人生そのものが、映画同様「うそかホントかまったく判らない」のである。 ちなみにこの本には「編集協力」として山田宏一と山根貞男両氏が怪しげに関わっているのだが、どうもこのお二人がマキノ監督を乗っけてしまったようなフシがあって、私としては「編集協力」ではなく、端的に「共犯者」とすべきだと思っている。 |
駅馬車(1939ウェンジャー・プロ) | 100 | 100 | 映画批評「駅馬車」 監督ジョン・フォード撮影バート・グレノン脚本ダドリー・ニコルズ俳優クレア・トレヴァー、ジョン・ウェイン、トーマス・ミッチェル、ジョン・キャラダイン、ルイーズ・プラット、ドナルド・ミーク 、バートン・チャーチル、アンディ・ディヴァイン 5回目くらいの鑑賞。 一見単純なハリウッドの古典的カッティングに拠っていると見せかけながら、全然違っていて、インディアン登場やライフル落下、危険なスタントなどが持続した時間の中で突発し、ダイアローグの一部はオフの空間において為されて画面と音とが分離している。それらが被写界深度の深い、一部パンフォーカスと言っても良い縦の構図で同時に画面の中へと挿入され、同一画面の中で複数の出来事や視覚的な細部が弾けるばかりに衝突を続けている。ここが非常に重要な点ではないだろうか。 さらにそこに「人物」の衝突が付け加わえられる。クレア・トレヴァー(娼婦)、ジョン・ウェイン(復讐者・囚人)、トーマス・ミッチェル(飲んだくれの医者)、ジョン・キャラダイン(紳士)、ルイーズ・プラット(淑女)、ドナルド・ミーク(気弱な酒屋)、ジョージ・バンクロフト(護送する人)彼らはみな、自らの「性向」というものに対してひたすら忠実であり、それぞれの性向が画面の中で衝突を演じ続けている。 例えば、ジョン・キャラダインが馬車の中でルイーズ・プラットに銃を向けるシーンの記憶こそは、「エルダー・ブッシュ渓谷の戦い」(1913)から「国民の創生」(1915)へと続くD・W・グリフィスの「高潔の死」の主題を、その弟子であるジョン・フォードが端的に告白したものに過ぎないのだが、ここでのキャラダインの行為は、恋心による私的かつ情緒的な行為ではなく、彼もまた「紳士」という、彼の性向(人物)に忠実に従ったまでの高潔な行為なのであり、そうした頑として動かぬ性向が、それぞれの人物間で見事に衝突し、映画が弁証法的に発展をしている。 「娼婦」と「囚人」という、極めて映画的な「負の力」が、見事なエモーションとして炸裂した歴史的映画でもある。 ローズバーグ到着後、小さな橋の向こうにあるクレア・トレヴァーの家を捉えた夜の全景ショットは、息を呑む美しさ、こういうのを「メガトン級の画面」という。。 ちなみにパンフォーカスについてだが、この「駅馬車」を40回見たというオーソン・ウェルズが、パンフォーカスの歴史を刻み込む「市民ケーン」を、ジョン・フォードのキャメラマン、グレッグ・トーランドを得て発表したのは二年後の1941年。この「駅馬車」のパンフォーカスを見たならば、映画史における「パンフォーカス」の位置づけは、これからの課題だとも言えるだろう。 蛇足だが、この「駅馬車」に出て来るコヨーテを、「性向」を描き続けるマイケル・マン「コラテラル」(2004)のコヨーテと結び付けて考えるのは、いくら何でもこじつけであろう、と私は言わない。絶対に関係があるに決まってる。いや、無理にでも「関係がある」と断言してしまうのが「映画史」の「性向」なのだ。 |
2007.1.4更新 | |||
ミッドナイト・クロス(1981米) | 70 | 70 | 映画批評「ミッドナイト・クロス」 監督ブライアン・デ・パルマ撮影ヴィルモス・ジグモンド ブライアン・デ・パルマという人は、見せたくて見せたくて仕方のない人であって、その性癖が災いし、多くの場合に「見せなくても良いもの」まで見せてしまうというサービス精神旺盛な作家でもある。 例えば「レイジング・ケイン」(1992)で一人3役を怪演し、我々を色々な意味で驚かせたあのジョン・リスゴーが、この「ミッドナイト・クロス」で、トイレで娼婦を殺すシーンなどを例に挙げてみると面白いのだが、ここでデ・パルマは、リスゴーの視点と娼婦の視点、二つの視点から画面を処理している。そうすると我々は「殺人の成功」と「殺人からの恐怖」という二つの相反する現象に感情移入しなければならないことになってしまい「サスペンス」が成立ちにくくなってしまうのだ。ここでのデ・パルマの心境は「見せること」であって、「見せないこと」で成立するサスペンスの真理からは逆のところで画面が処理されているのである。 とは言うものの、この「ミッドナイト・クロス」は、ノワール的な空気を巧みに出していて、例えば夜、ジョン・トラボルタが橋で音を拾っているシーンが凄く良い。ふくろうとトラボルタとの、物凄い無意味な、合成と思しきパンフォーカスがあったりもする。 そしてトラボルタの目の前で車が川の中へ転落する。この時、非常に不思議なのだが、この車の中に「女(運命の)」が乗っている、ということが何故か分かるのである。どうしてだ?、と聞かれてもこれには答えようがないのであるが、しかし間違いなく分かるのである。そうした雰囲気というものをこの映画は持っていて、ちなみにキャメラマンはあのジグモンドなのだが、そうした映画の記憶というものを醸し出せるところのデ・パルマを、どうしても私は嫌いになることが出来ない。 私がデ・パルマの好きなところは、最初は複雑な物語を語りたがっておきながら、映画後半に差し掛かかり、物語が難しすぎて語りきれないと見るや、一気に爆発とかスローモーションとかで驚かせて、そのまま終わってしまうところだ。これがたまらん。「フューリー」であのジョン・カサベテスが爆発していきなり終わった時には驚いた。 ちなみに私が好きなのは「スネーク・アイズ」。この映画、映画の前半は犯人が分からないミステリー、後半は犯人をバラしたサスペンスへと変化している。つまり、物語構造そのものによってヒッチコックの「めまい」にオマージュを捧げているようなところがある。「めまい」もまた中途で種明かしをした画期的な作品であったはずだ。映画というものは、その構造そのものからして「ミステリー」より「サスペンス」が本質的に優れているのであって、例えば同様に「フライト・プラン」がヒッチコック的である、というのは、「ミステリー」から「サスペンス」への潔い転換の映画的記憶にこそ見出されるべきものなのだ。 これからの時代、中途で種明かしをする映画に出会った時、我々は何かを感じることが出来るかもしれない。そうした意味で「スネーク・アイズ」はなかなか面白い作品であったし、逆に終盤一気に「謎解き」という、映画とは一番相性の悪い言語的行為へと転化してしまった「ブラック・ダリア」は、映画そのものを失速させ、自らをエモーションの袋小路へと追いやってしまっている。 |
モンキー・ビジネス(1952米) | 100 | 85 | 映画批評「モンキー・ビジネス」 監督ハワード・ホークス撮影ミルトン・クラスナー男優ケーリー・グラント女優マリリン・モンロー 二度目の鑑賞 猿がクスリを調合するところを静かに長回しで見せながら(このバカバカしさがなんともたまらない)、研究室の水、というアイテムが若返りへと視覚的に直結する。車、金魚、ダンス、赤ん坊、そして眼鏡という、すべては視覚的細部によるワンクッションによってコメディを表している。 特にケーリー・グラントとジンジャー・ロジャースが研究室で同時に若返るシーンは見事で、左側ではロジャースがコップをおでこに乗せてアクロバットを披露しているかと思えば、右側ではグラントが眼鏡を取り(これが若返りの視覚的細部)、電話を取り、ロジャースが椅子を引くと、グラントは悪がきの反射神経で転ぶことを回避する、といった複雑な細部が持続した長回しの中で行われてる。若返りを表しているのはすべてが視覚と音楽であるところがシビレル。 そして最後はいつものように、二段構造の寓意として映画を締めている。素晴らしい映画というものの多くは、映画が終わった時に、「あらすじ」ではなく、より抽象化、単純化された物語が伝わって来るものである。例えば私の大好きな「コンドル」の場合、「ああ、そうか。頑張った人たちだけが仲間になることができるんだ」、というその単純な感覚こそがとてつもないエモーションを引き起こすのだし、だからこそ、その橋渡しをして消えてゆくトーマス・ミッチェルが極端に際立つのであり、この「モンキー・ビジネス」の場合も、「ああ、そうか。若さって心なんだ、、」という、バカバカしいほど簡単な、だが心に染み渡る感覚が私を泣かせるのである。 |
孤独な声(1978ソ連) | 95 | 95 | 映画批評「孤独な声」 監督アレクサンドル・ソクーロフ 光線に関してすでに天才だというしかない。光の角度、色合い、場所、それをフィルムの上に乗せるところの感覚における非凡さは、80年代以降のゴダールに匹敵するほどの才であって、それをたかだか「大学」なるものの卒業制作でやってのけてしまうところが驚愕の賜物である。「実力の差を見せ付ける」とはまさにこういう画像を言うのであって、これを見た同級生たちの多くに、映画の道を断念させたであろうことは容易に想像がつくし、また映画というものはかくあるべきだ。もちろん、こういうフィルムを見たとしても、なお映画の道を志す図々しい輩でこの世界は満ちているのだが。 太陽から娘へと二度転換されるモンタージュが実に美しい。それにあの森に差す光の感じ、あの緑。太陽から靴へと流れ、オーバーラップで娘から男へと切り返される、このオーバーラップの使い方の美しさ。日常性と非日常性との詩的戯れによるフィルムそのものへの信頼と疑い。 こうした人たちの作り出すモンタージュというものは、「フィルム不足」という困難さを、いとも簡単に神話へと転換させてしまう神秘に包まれている。 |
ワイルドスピードX3TOKIO DRIFT(2006米) | 75 | 80 | 映画批評「ワイルドスピードX3TOKIO DRIFT」 監督ジャスティン・リン 女優北川景子 2006.12.26 日本人が日本人として腕組みをしながら見た時、このハチャメチャな構造におそらく怒りだすのかも知れないが、映画ファンが一本の映画として見た時には、この映画の醸し出す「B」の香りに歓喜の微笑を禁じえないだろう。この「説明しないことの豊かさ」と、テクニカラーの画面の豊かな色彩感覚と黒とのバランスに、まずこのチームの仕事が確かなものであることを確認しながら、的確な視点であり続けるモンタージュと、終始点でピタリと構図を決め続けるカメラの動きでもって、画面そのもののスピード感を体験出来てしまう。 チョコチョコと顔を出す北川景子が何とも面白く、このコをもう少し映画の中に入れた方が映画は引立つのにと思いつつ、だがこの映画は日本を形式的舞台にしただけの「ガイジン」映画なのだから、それもまた仕方ないかと思い直したりもする。小錦や千葉真一の使い方に、大いなるB的如何わしさが満ち満ちていて何とも楽しく愉快である。 さて、被写界深度が極めて深い、それがこの映画の色彩を始めとした画面そのものを作り上げている。私がベストテンに挙げた映画の9割以上が、「被写界深度の深い」映画に支配されている。それは「宇宙戦争」であれ、「ミュンヘン」であれ例外ではない。話はそれるが、こういう例で、「スティーヴン・スピルバーグ」を挙げると映画ファンは何故か納得してしまうようなところがある。「ゴダール」を例に挙げるよりも、「スピルバーグ」を挙げた方が遥かに効果的なのだ。映画研究塾がスピちゃんと仲直りした意味は案外大きく、私は今後大きなカードを手に入れたことにもなるのかも知れない。 さて、話は戻るが、もちろん映画は常に被写界深度が深くなければならないものではなく、ハリウッド映画には「ソフトフォーカス」という言葉があるように、特にハリウッド全盛時代の映画は、深度の浅い明るいレンズが主流であったと言っても良いであろう。グレタ・ガルボの空間をソフト・フォーカスでぼやかしながら、神秘の世界を作り上げたのはあのウィリアム・H・ダニエルズである。日本でも小津安二郎やマキノ正博、山中貞雄などが、ソフトな背景で美しい詩情を作り出している。 だが現代アメリカ大作における被写界深度の極端な浅さというものは、最早「神秘」でも「神話」でもなく、ひたすら細かいカッティングと組み合わせることで「画面を隠す」方向へと向けられている。そのような時代の中で、「宇宙戦争」であれ、クリント・イーストウッドの「硫黄島二部作」であれ、「ゴダール」であれ、その広角レンズによる深い深度は、我々にひたすら画面を「見る」ことを切望している。当然だろう。映画というものは「見てもらいたい」から撮るのであって、「隠したい」から撮るバカはいないのだから。だからこそ「極端に浅い被写界深度」の映画には「極端に浅いことの意味」が必要なのであり、そういった思考回路で考えていった時に、現代の「極端に浅い被写界深度」の映画に「浅さの意味」があるのかどうか、そんなことを我々は注意しながら見つめて行くことになる。 |
2007.1.1更新 | |||
宇宙戦争(2005米) | 85 | 85 | 映画批評「宇宙戦争」 監督スティーヴン・スピルバーグ 俳優トム・クルーズ 2006.12.25 二度目の鑑賞 ベストテンに転換したことへの臨時批評。 まずこの映画にはしっかりとした「黒」が出ている。これがまず非常に大きい。ガッツのある長回しもある。画面の感じは良い。そして「見ること」の映画でもある。 蓮實重彦が「未知との遭遇」において指摘したハワード・ホークス「遊星よりの物体X」のラスト「空を見上げろ!」の言いつけ通り、スピルバーグの映画の人々はひたすら同一方向の視線において空を見上げている。だが「未知との遭遇」や「ジュラシックパーク」とは異なり、この「宇宙戦争」では「見ること」によって瞳が傷つき、トム・クルーズは瞳から涙を流し、ダコタ・ファニングは「硫黄島からの手紙」の伊原剛のように、目隠しをして瞳を保護している。しかし最後には目をしっかりと見開き、目隠しを取り、脳みそを働かせながら彼らは「見ること」へと向き合ってゆくのだ。どうもこれは「硫黄島からの手紙」と似通った「見ること」の映画ではないだろうか。ダコタ・ファニングが川に流れる死体を「目撃する」、その描写の仕方などに露骨に「見ること」「見てしまったこと」への視点で撮られているし、その他数々の、見て、目撃し、呆然として、瞳を傷つけてゆく過程が映画として幾度も繰り返し視覚的に描かれている。 子供は成長し、父と子の関係が変化し、だがトム・クルーズは家の中には入れない、そういう現代的道行きの映画でもあるだろう。そもそも映画の「帰郷(家に帰るという行為)」とは、D・W・グリフィス「国民の創生」(1915)でヘンリー・B・ウォルソールが兵役から南部の家に帰還した時に既に決まっている。そこで母親であるジョセフィン・クロウェルは、ドアの陰から手だけを出し、息子を家の中へと引きずり込むようにして入れたのである。ここをグリフィスは何故、斜め横から、母の手だけしか見えない不自由な構図で撮ったのだろう。それは家の中へ「入る」という運動を的確に描きたかったからではないだろうか。「宇宙戦争」の、トム・クルーズと、玄関のドアとのあの距離は、その実際の距離以上に、映画史的に見た時には、途方もない隔たりとして画面を現代的に突き刺している。 この映画をワーストテンに入れたことをお詫びしたい。良い映画である。 |
マイアミ・バイス(2006米) | 65 | 80 | 映画批評「マイアミ・バイス」 監督マイケル・マン 2006.12.23 1.5回目の鑑賞。 この映画はマイケル・マンの労働の映画にしては「言語的」なのだと思う。 ワニが出て来ないとか(何故だ、痛恨の極み、)、ドン・ジョンソンの方が明らかに良いですとか、ジェイミー・フォックスの使い方が面白くないですだとか、色々と言いたい事はあるのだが、まず人物描写が甘い。何故だろう。それは「マイアミ・バイス」をみんながよく知っているからだ!「マイアミ・バイス」をみんながテレビで見ているからだ!甘くもなる。そういう映画なのだ。 マイケル・マンの映画にしては、ラブストーリーの側面が強く、その分「労働」というテーマと、「労働」へと向かわせる「性(サガ)」との戦わせ方が視覚的に今ひとつ弱くはないか。「ヒート」で何故デニーロは、わざわざ危険を冒してまでホテルに裏切り者を始末しに行ったのか。私はここで泣くわけだ。「行く必要はないだろう、デニーロ、逃げてしまえ」、だか彼は行く。それが「マイケル・マン」ではないのか。何故「コラテラル」で、トム・クルーズは殺し屋という労働を続けるのか、何故「ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー」でジェームズ・カーンは泥棒なのか、なぜ、モハメッド・アリは戦うのか、何故「インサイダー」のアル・パチーノは情報源を守り通すのか、、、マイケル・マンの映画というものは、この「何故」「どうして」の部分に対する返答を言葉ではなく労働、そして「性(サガ)」あるいは人間の「タチ」として見せるところの男の映画なのだ。その労働に対する葛藤と発展が、この「マイアミ・バイス」はやや弱いと見える。 もちろん、第三者にけなされれた場合は擁護するかも知れない。これは私なりのマイケル・マンとの関係なのである。 |
2006.12.23更新 | |||
コラテラル(COLLATERAL 2004米) | 90 | 85 | 映画批評「コラテラル」 監督マイケル・マン男優トム・クルーズ、ジェイミー・フォックス 12.20 二回目の鑑賞。しびれる。 ややこの映画から、画面の、と言うよりもレンズの質が変わっている。硬質で、微妙に深度も浅くなっている。壁一面の窓による見晴らしの良さはこの作品も不変であるが、何かが変わり始めているのではないか。 映画序盤、ジェイミー・フォックスのタクシーに検事のジェイダ・ピンケット・スミスが乗る。いつものように夜のハイウェイに乗って、どちらの道が早いか賭けをして、それをヘリコプターで真上から撮ったり、調子のいい音楽が流れてきたり、そうして、取り留めの無い会話を終えた後、女が車を降りて名刺を渡す。この「名刺を渡す」、という行為に、何かしらレイモンド・チャンドラー原作の探偵映画の名残を感じさせながらも、この時点にして、仮にここで映画が終わったとしても、ジム・ジャームッシュの一挿話に負けないだけの力をこの挿話は持っている。ここには特別なあらすじめいた物語もドラマも何もない。ただ女をタクシーで送っただけである。だが、こういう挿話を撮れる人が今のアメリカにほとんどいない。 それにしても「タクシーの運転手」というものは、大抵の映画を「映画」にしてしまう不思議なカードでもある。トム・クルーズも良いが、ジェイミー・フォックスがすこぶる良い。だからこそ、このジェイミー・フォックスの引き立たない「マイアミ・バイス」(2006)は、役者の点から見てもアンバランスなのだ。 監視、というのものがマイケル・マンの一つの主題だと以前書いたが、その「監視」とは、より大きな寓意における「見つめる」という行為の総称であり、それは「映画」であり、映画鑑賞とは「窃視(のぞき)」であり、つまり「裏窓」(1954)である。そもそもこの「コラテラル(COLLATERAL)」=巻き込まれる、という題名それ自体が既に巻き込まれる天才ヒッチコックへの目配せだと言わざるを得ないが、視覚的にはジェイミー・フォックスが、ジェイダ・ピンケット・スミスのオフィスビルの下から電話で警告を発する際の、あの「裏窓」的見取り図こそ、マイケル・マンが、ヒッチコックの陰の継承者であることの告白であり、それはあらゆるデ・パルマや、ガス・ヴァン・サント等による直接的模倣よりも、映画的で誇り高き視覚的細部なのだ。 |
世界を彼の腕に(1952米) | 70 | 75 | 映画批評「世界を彼の腕に」 監督ラオール・ウォルシュ 12.16 「殴る」という運動は「匿名の暗殺者」同様、ラオール・ウォルシュの一つの主題であると私は思っているのだが、ほとんど殴りあうことが遊戯と化し、自己目的化の境地まで達した時、人物たちは、その時々の細かな動機でなく、さらに深遠な人間そのものの性によって動き始める。この時代の映画の大きな豊かさの証はそういうところになかっただろうか。 ラストの、舵を取る二人のあの姿は、何故かジェームズ・キャメロン「タイタニック」(1997)へと受け継がれているように見えてならない。 |
パッション(1982仏) | 90 | 95 | 映画批評「パッション」 監督ジャン=リュック・ゴダール撮影ラウール・クタール女優ハンナ・シグラ 12.15 三度目の鑑賞 ハンナ・シグラを追いかけるミシェル・ピッコリの車のぎこちない間欠的運動が象徴するように、或いはピッコリの車を止めようとしながらズルズルと間の抜けた感じで後退する労働者たちの身振り、羊の前で大きく両手を広げながらも、まったく羊に無視され画面右へと消えて行った男に代表されるように、ここでの出来事は、どもり続けるイザベル・ユペールを身体運動化したようにして、吃音的物語活動を続けている。すべてはぎこちなく、スムーズさを欠き、結果を有効に達成しうるような効率的運動からかけ離れている。このようにして物語的運動が不器用に吃音化されることで、運動そのものが物語からの呪縛を解き放たれ検証されうる対象として投げかけられているようにも見れる。工場の警備員から逃げるイザベル・ユペールは決して逃げ切ろうとはしておらず、まるで「ゲームの規則」でジュリアン・カレットから逃げ回る小間使いリベットのように、運動そのものを運動そのものとして、ただ逃げることのみの時間の中でぎこちなく提示している。運動そのものが「逃げ切る」ことを求めていない。本当に逃げ切ろうとする人間が、追いかけて来る人間の方に向かって走ってゆくわけがない。ここは大いに笑っても良い場面なのである。こうした運動をまず運動そのものと見た時に、決してゴダールの意図通りに振舞うことの出来ない役者たちの表面的なテクストを、必死になって我々が読むことよりも、まずは彼ら、彼女たちの外面的運動の持つ映画的な投げ出しをそのまま受け取りたい。 ちなみに私は、ゴダールの映画のテクストは見ないし読まない。眺めるだけである。 無理にテクストを読むと、例えば「中国女」での会話の「中身」なるものを頭の中で論理的に思考し始めた瞬間、間違いなく私の頭の中は「映像」でなく「理屈」が支配し始めるのであり、その瞬間「画面」が頭から消えてしまう。ここが決定的に問題である。人は映像を読み始めると頭の中から「画面」が消えてしまうのである。頭の中は、訳の判らない「言葉」が支配し始め、それを理解できない自分に苛立ち、怒りの矛先はゴダールへと向けられることになる。人はそうやって「ゴダール」を大嫌いになるのである。逆に映像を見ていない映画音痴の哲学者たちが、映画を判ったと勘違いしてゴダールに論争を挑むなどと言う馬鹿馬鹿しいことが度々起こりうる。 だが映画において、大きな意味での「理解できない映像」など存在するだろうか。映像とは多かれ少なかれ現実の切り取りなのだから、たとえ「アンダルシアの犬」であれ「黄金時代」であれ、「映像」そのものが判らないということは絶対に有り得ないのであって、「難解」と言われていている「アンダルシアの犬」ですら、ピアノはピアノ、ロバはロバと、見ればハッキリ判るのであり、では何が「難解」なのかというと、それは「物語」であり「意味」なのであって、決して「映像」そのものではない。映画という視覚的メディアにおける「映像」というものは、「見るもの」であり、それを見ることが出来る以上、「映画が全然判らない」などということは、基本的にある訳がないのであって、逆に一時間1000ショット以上の高速でカッティングされクローズアップが多く被写界深度の極端に浅いピーター・ジャクソンの画面のほうが、映像的には遥かに「難解」なのである。「見えない」のだから。 人は「見えるゴダール」を「難解な映像」と感じ、「見えないジャクソン」を「判り易い映像」と感じてしまう、これこそが映画を「見ること」の逆転なのである。 ゴダールの「映像」は「難解」ではない。難解なのは「テクスト」である。ジャクソンの「映像」は「難解」である。だが「テクスト」は子供でも判る簡単なものである。では何故人は前者を「難解」と思い、後者を「判り易い」と思うのだろう。それは人々が、映像を「読んでいる」からである。 ゴダールの何が「難解」なのか、すべてとは言わないが、そのほとんどが「テクスト」なのである。あの訳の判らない哲学用語に頭の中がパニックになり、それがゴダールへの怒りへと転じる。 ゴダールは至る所で「見ろ見ろ、読むな読むな」と、映画を「見ること」を要求している。それなのに一方では、それとは正反対に、我々を惑わせるような「読ませるテクスト」を提示してくる。つまりゴダールという人は、逆、逆、を行くことで「両極を衝突させる」人なのである。「見ること」が大切だとゴダールが考えた時、彼は敢えて「見ること」とは対極にあるところの「読むこと」を対峙させる。そうすることで両極を衝突させ、その間の関係性に何かを見出そうとしているのかも知れない。 もちろんゴダールの作り出す映像は、他の意味においては極めて「難解」な何かであるのかも知れない。だがそれは、世間一般で言われているところの「ゴダールの難解さ」とは違った次元の議論ではないだろうか。 |
2006.12.23更新 | |||
インサイダー(1999米) | 85 | 80 | 映画批評「インサイダー」 監督マイケル・マン撮影ダンテ・スピノッティ男優アル・パチーノ2006.12.15 二度目の鑑賞 映画の中の人物たちのひたむきな労働が何かしらの寓意を感じさせた時、その映画は「愛の映画」となり、見ている者の胸を打つ。「守ること」、「譲れない事」。 マイケル・マンの映画では家庭の問題を抱えた男たちが海や高台の丘にそびえる家から辺りを見渡している。家の壁一面に張られた窓にはカーテンが無く、深い深度のレンズで外の風景が一望の下に見渡すことができる。人々は窓を通して外を見つめ続ける。海辺に佇み、地平線を見つめ続ける。この深い深度のレンズが、マイケル・マンの映画の「見晴らし」を支えている。 現代型の殺伐とした「隠す」画面に追従しているように見せかけながら、マイケル・マンはひたすら「見せる」ことをして家庭との関係に揺れる男たちを風景の中で戦わせている。そんなマイケル・マンが「見せる」ことから遠ざかったとしたら。映画版「マイアミ・バイス」の問題はそこにあるかも知れない。 アル・パチーノという役者は、いつも明らかにやり過ぎなのだが、だがそれがひとたび映画のコマとなり融合をし始めると、手に付けられない力を映画に与えてしまう危険な男でもある。 |
リチャード・ニクソン暗殺を企てた男(2004米) | 70 | 85 | 監督ニルス・ミュラー撮影エマニュエル・ルベツキ男優ショーン・ペン20606.12.13 全編良い「黒」が出ている。部屋の中の人物も多くは逆光のシルエット状で、これは監督というよりも、キャメラマンのエマニュエル・ルベツキの方式と言うべきだろう。このメキシコ人の作り出す画面の肌触りは、それだけで映画を映画にしてしまう力を持っている。彼をどう使うか。 映画としてはやや視覚的な細部に乏しいが、しかし最後まで緊迫を持続した佳作である。「タクシー・ドライバー」の現代版といったところだろうか。ショーン・ペンは相変わらず下手糞だが、この可愛そうな孤立男を熱演している。 |
13日の金曜日PART2(1981米) | 70 | 85 | 映画批評「13日の金曜日PARTⅡ」 監督・製作スティーヴ・マイナー 2006.12.11 こういう映画をしっかりと評価したい。確かにいきなりの脅かしだとか、ゾンビのように中々死なないジェイソンの引き伸ばし方など悪し兆候は見ての通りである。だがしかし、この映画は紛れもなく豊かさを露呈している。まず一目見て感じられるであろう所のフィルムの「黒」の見事さが全然違う。「グエムル」のようなテレビ的ペラペラ画面でなく、フィルムがコントラストと美術空間の中で美しすぎるほど美しく露呈している。「武士の一分」など足元にも及ばない。 持続の豊かさもまた忘れてはならない。例えば車が左の画面の端から走って来て、右の画面の隅へと消えて行く。これを見て何も感じなければ、その時点で既にその映画鑑賞は「失敗」と言ってもいいだろう。ここには時間の持続がある。持続すればそれだけで良いのではない。それが豊かだと感じられた時、その持続は意義を持つのだ。一時間440。1ショット平均8秒。これがこの映画のスピードである。ちなみに第一作目の「13日の金曜日」(1980)、この作品は断じてただの駄作なるものではないが、そこでは一時間375、ワンショット平均9.5秒とさらに持続を極めていて、小津安二郎と同程度のスピードである。「ロードオブザリング」シリーズは一時間1000ショット前後、1ショット3.6秒、「パイレーツオブカリビアン」(2003)は一時間に1200、1ショット3秒、「アルマゲドン」は一時間1470、1ショット2.5秒である。時代と共に映画は加速度を増している。その中で「持続の豊かさ」とは何なのだろう。少なくともこういう数字を目にした時、それを考えてもバチは当たらないだろう。 |
長い灰色の線(1954・米) | 100 | 80 | 映画批評「長い灰色の線」 監督ジョン・フォード・ジョン・フォード初のシネマスコープ2006.12.10 二度目の鑑賞。 クローズアップと言えるものが一つしかない。「トウモローワールド」の批評でも書いたが、シネマスコープというものは、ジョン・フォードすら迷わせたと言うべきか、行進のシーンなどには有効だが、全体のリズムとしては明らかに試行錯誤を重ねている。カッティングもいつもより遅い。 モーリン・オハラの最期のシーンでは、オハラのショールを取りに行ったタイロン・パワーがポーチの揺り椅子のオハラに擦り寄り、帽子を脱ぎ、「メアリー・オドネル」とフルネームで彼女を呼ぶ。この「フルネームで呼ぶ」という行為が何故こうまで美しいのだろう。ジョン・フォードはよくやるのだが、ここには矢張り「名前」というものの持つ風土的郷愁めいた何かがあり、また、人間を「個」として尊重するところの響きがある。 この一連の流れの中には「揺り椅子」「もたれる」「ショール」「帽子を脱ぐ」「フルネームで呼ぶ」そして「ドアを額縁のように切り取ったロングショットで処理する」というとてつもない細部が一瞬にして凝縮されている。 「揺り椅子」と「ショール」は紛れもなくグリフィスの名残であり、椅子に「もたれて」死ぬ、という「もたれて」というジョン・フォード的一つの主題も、矢張りこれはグリフィスの「椅子」からの発展系ではないかと思いを巡らし、それがイーストウッドの「寝そべる」という主題へと受け継がれているのではないかと仮定した時、すべてはグリフィスの「椅子」から発展したことになる。ちなみに私は、さらに進んで溝口健二にまで波及する「もたれる」主題についていつか詳しく書く予定である。 「硫黄島からの手紙」でもまた「寝そべる」→「光」という主題を踏襲したイーストウッドの頑なまでのの寝そべり方と、米兵の母からの手紙を読んでいる時「立ち上がる」ことで敬意を表する日本兵の行為のその細部とが、それぞれグリフィスの「椅子」、ジョン・フォードの「帽子を脱ぐ」という細部へと遡るように私には見えてならない。 |
2006.12.16更新 | |||
女教師狩り(1982・にっかつロマンポルノ) | 75 | 85 | 監督鈴木潤一撮影前田米造照明矢部一男2006.12.8 80年代ロマンポルノの照明を確認するための鑑賞。やや照明のレベルが落ちているのでは、との予想の下に見始めるが、冒頭のタイトルでキャメラマン前田米造、照明矢部一男と出た瞬間、作品の選択を誤ったかと少しだけ後悔する。私としては、照明のレベル低下を見たかったのだが、案の定この二人の作り出す光はとてつもなく素晴らしく、特に夜の照明は超ハイレベルで愕然とする。セックスの最中石山雄大の顔面に「ペタッ」と当たる、まるでお面を被せたような幻惑的な光は、石山の顔を骸骨のように抉り出し、その中に隠れた性の野獣そのものを炙り出す物凄い照明である。敢えて難点を挙げるなら昼の光か。 風祭ゆきは、ひたすら泳ぐ女。泳いですべてを洗い流してしまう水の女だ。 |
ALI アリ(2001米) | 75 | 85 | 監督マイケル・マン撮影エマニュエル・ルベツキ2006.12.3 「トゥモロー・ワールド」「ニュー・ワールド」「ALI アリ」「大いなる遺産」(1998)、この最近放たれた美しい光に包まれた4つの作品に共通する名前、それは「エマニュエル・ルベツキ」である。 このエマニュエル・ルベツキというメキシコ出身のキャメラマンは、アルフォンソ・キュアロンの傑作「トゥモロー・ワールド」や「大いなる遺産」テレンス・マリックのギリギリの佳作「ニュー・ワールド」では徹底して一瞬の太陽を出し入れし、その瞬間の光の美しさをフィルムに焼付けていたが、この「ALI アリ」でも「美と見晴らしの作家・マイケル・マン」の要求に応え、賞賛すべき者たちを一瞬の見事な光で抱擁して、深度の深いレンズで一瞬の見晴らしを実現している。 「大いなる遺産」を見たティム・バートンが「スリーピーホロウ」にルベツキを抜擢し、マジックアワーで伝説となったあの「天国の日々」の太陽の作家、テレンス・マリックがルベツキを「補導」したことから見れば、これからルベツキを巡る争奪戦はさらに激しさを増すことになるだろう。ウディ・アレン、クリント・イーストウッド、こういった作家などは当然ルベツキをマークしているとみたい。 さて、マルコムXの死の報を車中で聞いたシーンの、涙が伝うウィル・スミスの頬に当たる白い光、パン屋の娘との出会いにおける夢のような白光による賞賛、ジムの窓の外の白光、マイケル・マン賞賛の特徴は何よりも「ハワード・ホークス的さり気なさ」にあり、決して言葉や仕草で大っぴらに賞賛したりはしない映画的豊かさにある。 |
ヒート(1995米) | 85 | 85 | 映画批評「ヒート」 監督マイケル・マン撮影ダンテ・スピノッティ2006.12.2 鑑賞三度目 マイケル・マンとは何だろう。窓の外に海があって、テラスが好きで、電話も好きで、女たちが綺麗で、その女たちにハワード・ホークスのように一瞬美しい光で飾り立てることが大好きで、しかしハワード・ホークスのように結局は男の映画で、ハワード・ホークスのようにロマンティストで、ハワード・ホークスのように車と音楽がカッコよくて、ハワード・ホークスのようにさり気なく撮るのが好きで、しかしカッティングはハワード・ホークスの倍以上速くて、クローズアップはハワード・ホークスの100倍以上あって、しかし被写界深度はハワード・ホークスよりずっと深くて、見晴らしのよいショットが一瞬画面を横切ったりする。 「ヒート」は見晴らし良好の監視の映画である。それはこのロサンゼルスの夜の街を航空撮影で眺めまくる高みの見物に始まり、見晴らしの良い港のパチーノの写真を見晴らしの良い高みの見物で盗み撮りするデ・ニーロがいれば、逆にレストランから出て来たデ・ニーロたちを高みの見物で監視する警官もいる。窓の外には一面見晴らしのよい海が広がり、見晴らしのよいエイミ・ブレネマンの高台の家のテラスでロスの街を見下ろしながら、強盗団の作戦会議はファミリー・レストランや高級レストランといった衆人観衆の監視の中で堂々と行われ、ホテルの部屋はモニターで監視され、銀行強盗もモニターで監視され、ヴァン・サントの手下との取引も極めて見晴らしの良い空き地で為され、デニーロとパチーノの会話は衆人観衆の喫茶店で堂々始まり、アパートで監視された女アシュレイ・ジャッドは高見の上階から地上の夫バル・キルマーに「来るな」の合図を送り、銃撃戦は白昼堂々街中マシンガンで吹っ飛ばされる。「二人の時間」が訪れるのは最後の最後、夜の飛行場の瞬間であった。テレビ版「マイアミ・バイス」では潜入捜査と監視とが一つのテーマとなっていたように、マイケル・マンの映画はその深い被写界深度とあいまって、かなり見晴らしの良い映画なのである。 |
神の道化師・フランチェスコ(1950伊) | 95 | 95 | 監督脚本ロベルト・ロッセリーニ撮影オテッロ・マルテッリ脚本フェデリコ・フェリーニ 信者に豚足を食べさせてあげようと、僧侶は茂みの中に放牧されている豚の足を切り落とす。茂みから豚の足を持って出て来る僧侶。すると茂みの中から「ブヒー!ブヒー!」と叫び声。僧侶は振り向き「おお、兄弟も喜んでいる!」、、、これはフェリーニの仕業だろう。間違いなくここは「フェデリコ・フェリーニ」が書いたに違いない。、 一見高尚になりがちなこうした主題の映画を、ほぼ全編、見事なユーモアが包み込んでいる。宗教的主題から、知らず知らずのうちに人間的主題へと移行してゆく。現代映画でこの「無邪気さ」は許されないのだろうか。 画面は露出の操作によってか真っ白に輝いていて、特に昼間の画面は黒い部分、影になる部分を意図的に排除し、一面なだらかな斜面に支配された白光の世界に統一されている。 プロの役者が一人も出ていないらしいが、彼等の醸し出す無邪気さの記憶は、明らかにジャン・ルノワールの映画に出て来る無邪気な人物たちに共通する何かがあり、方法論において両者には微妙な差異はあるものの、その求める点は宗教でも布教でも信仰でもなく、ただひたすら「人間の一分」であるのだという点に、麗しき共通点を感じることの出来る傑作。「もう一度見るべき映画」の一つに入る。 |
フライトプラン | 80 | 80 | 映画批評「フライトプラン」 監督ロベルト・シュベンケ女優ジョディ・フォスター2006.12.1 二度目の鑑賞だが、初見時より評価が上がる。痛快なBだ。 この映画を最初に見た時、これは「ぶっ飛びの行動の映画だ」と直感し、よもやこのロベルト・シュベンケという人は探偵映画など撮ってはいまいかと、「タトゥー」というドイツ時代に撮った映画を探して見たところ、なんとノーブラの上にピチピチのセーターを着たブロンドが、まるで「私は運命の女でございます」と顔に紙を貼って歩いているような感じで出て来て、最後は素っ裸の上に着たトレンチコートが雨に濡れ、体が透けて見えるといった、それはもうとんでもなく徹底した「ファム・ファタル」のノワールであり、探偵映画であり、行動の映画であって、ひょっとしてこの人は黒沢清の「DOORⅢ」を見ているのではないかと思うほどの痛快な寓話であった。この「フライトプラン」もただひたすら行動の映画であり、同時に「見ること」のあやふやさを主題とした現代的作品でもあり、母親は、子供のためにあそこまで走れますか、という問いかけの映画でもある。 高級車の窓を叩き割り、怪しいと思った人間は差別だろうが何だろうが見境無く攻撃し、走り、登り、這いずり、駆け上がり、殴り、殴られ、軽蔑され、孤立する。ただの一人も協力者が存在しないという、かつてのハリウッド映画なら絶対に有り得ない孤立の状況が、「ミスティックリバー」や「ミュンヘン」同様、殺伐とした現代アメリカを象徴しており、不信の中で娘を守り通したジョディ・フォスターの母親像は、「守る」という一点においてひたすら感動的だ。ラストのアラブ人のへりくだった態度がすべてを象徴するように、彼らは「負けた」のであり、「母は勝った」のであり、この映画の痛快さは、差別された人間が「謝る」という、信じられない逆転の構図を、ただ「母は強し」という一点において現代的に投げかけた映画的構造の痛快さにあるのだと私は密かに思っている。 |
2006.12.9更新 | |||
ナイロビの蜂(2005英独) | 35 | 65 | 映画批評「ナイロビの蜂」 監督フェルナンド・メイレレス 2006.11.29 前作「シティオブゴッド」の悪い部分だけが露呈していて、この視覚的細部を放棄した余りにも古臭い画面に瞳が疲れ果てる。結局のところ、この人は「画面を動かす」と、映画はそれなりのスタイリュシュなものに見えてしまうことを知って「しまった」のであり、言わば「味をしめて」しまった作家のつまらなさだけが画面を覆い尽くしており、だがしかと画面を見た時に、この映画に限りなく「画面」は存在せず、忙しなさで画面を隠す点においてまったく凡庸なアメリカ大作と同質で、せいぜいスコセッシなりタランティーノなりトリアーなりの影響は感じさせたところで、決してそれ以上のものは露呈しない。後はひたすら、キャメラを小刻みに揺らし続けるキャメラマンの労働に対して同情を覚えるのみ。 |
風花(2000日本) | 100 | 80 | 映画批評「風花」 監督相米慎二 相米慎二の遺作である。 睡眠薬を飲み、雪山に倒れた小泉今日子を浅野忠信が抱き起こし、それまでは「お前」だの「うるせぇ」だのと敬遠して来た小泉を、ここで初めて「ゆり子さん!」と、「さん」を付けて呼び続ける。人間というものが、初めて他の人間を一つの「個」として感じた瞬間巻き起こるとてつもないエモーションと、だがその瞬間、その「個」が消え去ろうとしていることに愕然とうろたえる浅野の姿に、人間そのものがただそれだけで大切であることを画面に焼付けながら、相米慎二は去って行った。 |
ブロークン・フラワーズ(2005米) | 80 | 80 | 映画批評「ブロークン・フラワーズ」 監督ジム・ジャームッシュ撮影フレデリック・エルムズ女優シャロン・ストーン2006.11.27 プレイボーイの男のもとにピンクの封筒に赤い文字で書かれた昔の女からの手紙が来て、実は貴方の息子を20年前に産みました、、驚く男は友人の探偵もどきの協力で昔付き合った女たちを手当たり次第に訪ねて探りを入れるという、探偵ものロードムービィのコメディなのだが、この何の変哲もない物語がもう面白くて仕方がないのだ。まずもって、冒頭、郵便が配達されるキャメラ移動と、ロケーションの光をソフトに包み込んだフィルムの感じがもう素晴らしく、ビル・マーレイの家のブラウンのソファの色の出方だとか、BGMの選択だとか、開始五分で勝負は決まってしまっている。 買い物帰りのシャロン・ストーンが車から出て来て、ブルーの健康的なシャツ姿ではっとビル・マーレイの前に出現する、この健康感の醸し出す逆説的エロチックさと快活な無関心さがたまらないエモーションを引き起こしている。レストランの、黄色い柱を軸にした美術の感じだとか、車の疾走の爽快感だとか、訳も分からず時間が過ぎ去ってゆく。 |
ミスティック・リバー(2003米) | 100 | 100 | 映画批評「ミスティック・リバー」 監督・音楽クリント・イーストウッド撮影トム・スターン美術ヘンリー・バムステッド2006.11.26 二度目の鑑賞 テクニカラーの画面をまるでモノクロ映画のような繊細な配光で彩ったトム・スターンにせよ、それを陰で支えたバムステッドにせよ、イーストウッドのメロディにせよ、画面そのものの凄さにまず圧倒される。そういった点では、画面の映画というよりも「音」の映画である「父親たちの星条旗」とは違った感触で映画を体験できる。 画面には、いつものように人物の遠景バックに星条旗がはためていたり、十字架が何度も出てきたり、上手にしゃべれない人たちの背後の壁に涙のように流れる雨の影が当てられていたり、またそうした人たちが逆光で黒く塗られていたり、病院で少女が横たわっていたり、窓の外が露出オーバーで白光していたり、ポーチの階段や歩道に人々が座っていたり、だがそうした人たちの顔がやけに輝いていたり、出来事には動機が不在だったり、あやふやだったり、つまりそうした画面を見ていると、テーマなるものはよく分からないが、少なくともどうやらこの映画は、「そういう映画」なのかと感じるのである。マーシャ・ゲイ・ハーデンの必死に生きる顔などはおそらく一生忘れないであろうし、余り好きでないショーン・ペンにしても、また、口の利けないあの子供の顔すら未だに脳裏を離れることは無い。、 ミステリックな「荒野のストレンジャー」にすら、亡霊のようなガンマンには「復讐」という動機がドラマチックに隠されていたにも関わらず、「ミスティック・リバー」「父親たちの星条旗」へとイーストウッドは、「世間で言うところの」無動機、無ドラマへと流れつつある。 |
刑事グラハム/凍りついた欲情(1986米) | 75 | 80 | 映画批評「刑事グラハム/凍りついた欲情」 監督マイケル・マン 2006.11.25 マイケル・マンは「映画人」である。時代の中で映画を撮りながら、映画を映画にしてしまう力を持っている。これは所謂レクター博士の「レッドドラゴン」の原型で、「レッドドラゴン」(2002)よりもおそらく出来の良い映画であるのだが、精神への働きかけをイメージした「白」の映画でありながら、ラストのエンドロールの文字さえ「白」で統一されているという美的感覚は、この映画が「白」の映画であるのとそれ以上に、最後の海辺での家族のストップモーションを「黒」によって汚したくない、そうしたマイケル・マンの美への拘りではないのか、と、こうした推測が疑いなく成り立ってしまう映画に他ならない。夜の船着場で、輝くはずのないキム・グライスの後髪が、バックライトで光り輝いている、その、ありもしない美しさへの欲求が、マンの映画を映画たらしめている。序盤、被害者宅の捜査へ赴く前の夜の車の中の照明、これを見ただけで「凄い」ではないか。 |
ラスト・オブ・モヒカン(1992米) | 80 | 85 | 映画批評「ラスト・オブ・モヒカン」 監督マイケル・マン 2006.11.25 序盤、狩から帰ってきた男たちを女が迎える。このあたりの感覚からして何だか果てしなく「映画」なのだが、家の中に入り、ローソクと暖炉のオレンジの火に照らされた光の食卓となる。ここで、それまではクローズアップで分断されていた山小屋の中のこの空間が、突如、やや俯瞰気味から、テーブルについた全員を捉えた全景へと移行する。唐突にサッと入る。そしてすぐショットは次のシークエンスへと転換されてしまうのだが、この全景が入った瞬間、間違いなくこれが、「全員の集まる最後の食卓」であることが感じられる。どこにもそんな事は書いてないし、誰もそのような事は言いもしていない、一見何の変哲もないショットである。だがマイケル・マンはこの1秒ほどの全景で間違いなく「最後の食卓」を暗示している。映画とは、そう確信しうる瞬間と言うものがあるものだ。 わたしがマイケル・マンを面白いと思うのは、殺伐とした現代映画の画面の中へ、自らの身が惰性で流れ込んで行くに任せつつ、横長のシネコン画面にナタを持って切れ込んで行くような大胆さの中に、ふとした瞬間にポエジーを視覚的に挟み込みながら、だが自分は知らん顔を決め通し、といったハワード・ホークス的照れ屋男の美的記憶にあるのである。 それはルイスとマデリーン・ストーとが同一方向の視線で星を二人で眺めた瞬間、二人の運命が共有される、そんなショットでもいいし、或いはジョディ・メイが高潔さの中で自らの身を投げる、そのグリフィス的、メェ・マーシュ的のあの「国民の創生」の落下の記憶でもいい。マデリーン・ストーの栗色の髪をブロンドに染める自然光のバックライトでもいい。「美への欲求」が、マイケル・マンの画面を映画的に支えている。そうでなければ、わざわざいちいちあんなロングに引く訳がない。 |
アルファヴィル(1965仏) | 100 | 100 | 映画批評「アルファヴィル」 監督ゴダール 2006.11.24 二度目の鑑賞 いま、そこにいるはずの人物たちの実体が、5分すると疑わしく思えて来る、そういった感覚はどうしたって稀有のものだ。光を当てないと映画は何も映らない、見えない、その光を消せれる人というのはこれも稀有だ。消してから点ける、それを繰り返されると人はカントみたいなことを考えてしまう。クローズアップに全然繋ぎの感覚はなく、グサリとグリフィス的に入って来る。ちなみにゴダールの場合「照明」という技術的言葉よりも「映画の光」と書いた方が適切かも知れない。 ゴダールの「アクション」というものは、ヒッチコック同様、アクションの結果を求めてはいない。逃げる者はひたすら「逃げる」という純粋運動を志向するだけで決して「逃げ切ろう」とはしておらず、追いかける者はひたすら「追いかける」という純粋運動にのみ徹しているだけで、決して「捕まえよう」とはしていない。 「追いかける」という行為は「捕まえる」ことで「物語」となり、「論理」となる。「逃げる」という行為は「逃げ切る」ことで「物語」となり「論理」となる。可視的運動のメディアである映画が「不可視のあらすじ」へと近づいてゆく。 仮に「逃げた」あと「捕まった」という現象が映画の中にあったとしよう。ここで我々がその現象を「あらすじ」に書くとする。すると大部分の者は「逃げました」とは書かないだろう。「捕まりました」と書くはずだ。仮に「逃げました」と書いたとしても、そのあと絶対に「でも捕まりました」が書き加えられる。それが「あらすじ」というもので、そこでは「捕まりました」とだけ書かれる事は有り得ても「逃げました」とだけ書かれる事は絶対にない。だが映画の可視的な運動とその美しさは限りなく「逃げる」行為にあるのであり「捕まる」という結果には甚だ希薄だ。にも拘わらず「捕まえました」という結果を重視する「あらすじ」的思考は、限り無く映画を「見る」という行為から遠ざかる危険をはらんでいる。「映画を読む」というのはこのような思考回路をして言うのである。何故「逃げる」ことに主たる物語性を認めないのだろう。何故「フライトプラン」は、「子供のためにひたすら走る母」の物語であってはならないのだろう。「あらすじ」なるものはひたすら起承転結の不可視の筋立てを論理という不可視の思考で追いかけているに過ぎず、それは映画の物語を巧妙に避けたところの文学的思考に過ぎないのである。 ヒッチコック映画で、人が人を刺すシーンを見てみよう。決して「殺す」という「結果」に向けらた効率的な刺し方をしていない。それよりも「刺しています。今、刺しています」という感じで、我々に親切に「刺している」という行為を指し示しながら刺している。「結果」という「物語」よりも「過程」という「運動」を見せている。最近の映画は逆にプロの警官、プロの殺し屋に接近している。だが彼等にとって大切なことは「殺す」という「結果」であって、「殺し方」ではない。「リアル」なるものが必ずしも「映画」と親和的ではないことを、我々はもう一度考えるべきではないだろうか。 ゴダールの映画は、決して安易に結論などに到達しない。それは決して「難解」なことではないのだと思う。 |
2006.12.1更新 | |||
キートンの結婚狂(1929米) | 60 | 70 |
映画批評「キートンの結婚狂」 |
三人の女(1977・米) | 85 | 75 | 映画批評「三人の女」 監督ロバート・アルトマン 主演シェリー・デュヴァル 2006.11.23(執筆日) アルトマンの冥福を祈って番外で一本書いておきたい。 これは所謂巷で言うところの「傑作」ではない。決して美しくない近景が多く、ズームで近景に寄りたがる悪癖もいつもの通り。画面に「黒」が欠けていて、構図も今ひとつ。だが決定的に面白い! 最後、シシー・スペイシクが立ち上がり、ブランコがゆらゆら揺れる。このあらすじ的に見れば何の意味もないブランコの揺れを見た瞬間、私は何故か知れず「あっ、映画が終わる!」と感じ取り、動揺し、そのまま静かに映画は終わった。この感覚を言葉で説明することは不可能なのだが、こういう体験というものは、極めて映画的であり、感動的であり、この作品をして決して忘れることの出来ない作品たらしめている。貧弱な女、シェリー・デュバルを見ているだけでもう面白くて仕方がない。彼女が、山田宏一さん風に言うならば「挑発の色」であるところの「黄色いドレス」を着て男たちを誘惑し、完璧に無視されるシーンがもう何ともたまらないのである。この厳しさ、ひりひりと突き刺さる痛みの快感。これが映画だ! |
ドレミファ娘の血は騒ぐ(1985日本) | 85 | 80 | 映画批評「ドレミファ娘の血は騒ぐ」 監督黒沢清 撮影瓜生敏彦(うりゅうとしひこ)俳優洞口依子、伊丹十三 2006.11.22 鑑賞二回目 久々に再見したが、こんなことを言っていたのか、あんなことをやっていたのかと、大爆笑する。もちろんそれは洞口依子のヌードの場面でもなければゴダールの痕跡でも小津の痕跡でもなく、はたまたビデオの中での脚蹴り合戦でもなければ、テルオカ君と洞口依子との再会シーンでもない。それにしても伊丹の屋敷の夜の階段のシーンは何度見ても素晴らしい。この後の二人の裁判沙汰がウソのように、黒沢清と伊丹十三コンビは煌いている。ちなみにここにいる「よしおか君」はどう見ても松竹の遊び人、結城一郎にしか見えないのだがどうだろうか。結城一郎の破天荒な人生については自伝「実録・蒲田行進曲」参照。 |
哀愁の湖(1945・20世紀FOX) | 80 | 90 | 映画批評「哀愁の湖」 監督ジョン・M・スタール撮影レオン・シャムロイ 2006.11.19 ある種のサイコスリラーといった感じで、あのジーン・ティアニーが見事なファム・ファタルを演じるのであるが、何はともあれカラーの肌触りの素晴らしさは一見の価値どころか「必見」である。画面は寒色暖色それぞれに充実し、簡単なデクパージュでも丹念に撮れば映画になることを実証しながら見事な逆光のラストシーンで締めくくられている。列車の喫茶ルームでの出会いは「見知らぬ乗客」(1951)へ、湖での殺人は「陽のあたる場所」(1951)へと、何故か「1951」へ受け継がれてもいる。 |
黄色いリボン(1949) | 95 | 90 | 映画批評「黄色いリボン」 監督ジョン・フォード撮影ウィントン・C・ホック音楽リチャード・ヘイグマン俳優ジョン・ウェイン、ベン・ジョンソン、ジョン・エイガー、ジョン・ドルー、ハリー・ケリー・ジュニア、ヴィクター・マクラグレン 2006.11.18 3回目の鑑賞。 この映画もまた古き男と無名性との戯れの美学だ。ウェインたちが救出に向かった壊滅状態のキャンプのシークエンスが素晴らしい。兵士たちが駆け付けると、それまで見たこともない瀕死の老兵士がいきなり出て来て丸太にもたれかかる。彼はキャスト的にも役者的にも「無名」の兵士である。この無名の兵士が丸太に「もたれる」。この「もたれる」という行為に私は徹底的に打ちのめされる。勇敢さこそを美徳とするジョン・フォードの兵士が「疲れてもたれかかる」など許されるはずもない。少なくとも若い兵士ベン・ジョンソンが丸太にもたれかかることなど許されるはずもないのである。だからこそこの「もたれる」という逆説的行為が胸を突き刺す。ジョン・フォードはことさらこの老兵士の無名性を貫きながら、本来なら決して許されないところの「もたれる」という行為を彼に託すことで「戦士の休息」を暖かく賞賛している。それはアメリカ建国への貢献への敬意であり、さらに映画的に例えるならば、自分たちが今「在る」ことへの感謝とも言えるだろう。 ここで「ディクシー」がかかる。これが泣けるのだ。「ディクシー」は南軍のメロディであり、あの「風と共に去りぬ」で全編を貫かれたメロディといえばお分かり頂けるであろうか。西部劇には南軍用、北軍用の曲が分かれていて、例えば「リバフリック賛歌」は北軍の曲で、ジョン・フォードの映画でこの曲が流れてくると、決まって直後にリンカーンの肖像画が出てきたりする。逆に「ディクシー」は南軍のメロディ。この曲がかかることで、丸太にもたれている瀕死の老兵士が「元南軍兵」だったことが分かる。南軍という、「敗れた者(無名の者)」の力により今のアメリカが在る、、、無名兵士への賞賛と敬意を「丸太」と「ディクシー」で語らしめる、、、このジョン・フォードとはいったい何者なのだ。老兵は若い兵士ベン・ジョンソンの勇敢さを褒め称えて果ててゆく。古き者と新しき者がここでもはっきりと視覚的に刻み込まれてゆく。何気ないシーンだが、その何気なさの持つ美しさが画面をとてつもないエモーションで包み込んでいる。 その後のシーンもまた美しくて窒息しそうだ。バンドワゴン(幌馬車)のへりに座ったミルドレッド・ナットウィックが見事な夕陽に包まれながら、埋葬に使う騎兵隊の旗を縫い、ベン・ジョンソンに手渡す。ここでは「駅馬車」のあのメロディがゆったりとしたリズムで流れてゆく。「旗を縫う」という、何とも家庭的で私的な行為と、「兵士を埋葬する」という、極めて荘厳な公の行為とのコントラストが何物にも変えがたく自由と強さを感じさせる。旗を受け取る兵士たちが嬉しそうに帽子を取ってナットウィックに礼をする、その「帽子を取る」という行為もまた敬意のこもった素晴らしいエモーションを醸し出している。 |
2006.11.24更新 | |||
チェス狂(1925・ソ連) | 80 | 85 | 監督フセヴォロド・プドフキン・ニコライ・シピコフスキー 2006.11.15 投げる、転ぶ、しゃべる、走る、といった運動を徹底的に分析し、モンタージュによって嘘をつく。例えば冒頭のチェス大会の会場からして、競技者側と観客側とは決してフルショットなりロングショットで同一空間に提示されることはなく、ひたすら切り返しにより分断され、モンタージュされているのであって、明らかに、露骨なまでに「分断」されている。もちろんそれは、クレショフの実験工房の学生であったプドフキン等にとって当然のモンタージュ理論だとしても、こうした、嘘をつくことが楽しくて仕方がないという感じが実によく伝わる作品であり、カッティングインアクションの多用やアイリス、逆回し、二場面の平行モンタージュやクロスカッティング、バックライトに輝く女優の髪やラストのキスでのハッピーエンドを含めて、極めてハリウッド的なデクパージュに支配されている。エイゼンシュテインがあの「戦艦ポチョムキン」を発表した同年にプドフキン等が「これ」を作っていたという事実が極めて面白く、今回またしても勉強させて頂いた。 |
妻たちの性体験・夫の目の前で、今、、(1980・にっかつロマンポルノ) | 75 | 85 | 映画批評「妻たちの性体験・夫の目の前で、今、、」 監督小沼勝 撮影森勝 2006.11.14 風祭ゆきが鏡の前で、黒の下着姿で大胆なポーズを取りながら、キセルをふかしたあのシーンは、間違いなく映画史に残る見事に怖ろしい女の露呈だ。その風祭はじめこの映画では、沖合に停泊するボートの上から、人々が「ワンショットの持続した時間の中で」スタントなしに海へと飛び込み、泳ぎ始める。こうしたシーンが、実はヘナチョコ現代シネコンに出てくるような映画にはほぼ絶対に見られないことを我々は自覚すべき。持続の美、夕陽に輝く黄金色の波の美、日傘の美、これが本年封切なら、問題なくベストテン入りである。 |
無花果(いちじく)の葉(1926.フォックス) | 85 | 85 | 映画批評「無花果の葉」 監督ハワード・ホークス 撮影ジョセフ・オーガスト2006.11.14 アダムとイブを古代と現代に見立てて二組の夫婦を同一人物が演じるコメディである。冒頭、古代編でジョージ・オブライエンが槍でもって猿の怪物を突付いている。槍が突き刺さる。そこで悶絶する大猿のクローズアップ。だがそこでモンタージュされた猿の顔は、どう見てもそこらへんの動物園にいる小さなヘナチョコ猿の顔であって、決して巨大猿のそれではないどころか、かつその猿は苦しむどころかキャッキャッ笑ってはしゃいでいるようにしか見えないのである。この死にたくなるようなバカバカしさにいきなり大爆笑し、かつホークスの偉大さに恐れおののいたのであるが、明らかにハワード・ホークスはこのバカバカしさを楽しんでいるようなフシがあり、そんな感じて見続けてゆくと、古代の恐竜たちはすべてが完全なハリボテのヘナチョコたちで、これらをして本当らしく見せようなどという趣旨はハワード・ホークスにはサラサラないのであって、素晴らしいのは、ここまで堂々と「モンタージュ」という、本来なら「うそを本当らしく見せる」ための技法を「嘘をさらなるを嘘へと発展させコメディへと転化させる」技法へといとも簡単に変えてしまう逆転の発想であって、数々の映画作家たちを呪縛し縛り付けてきた「映画は本当らしくなければならない」という命題から、この「1926」という映画初期において、既にかくもあっけらかんと自由であったハワード・ホークスという天才を、現存するハワード・ホークス最古の傑作「無花果の葉」は見事に物語っている。 |
花芯の刺青(いれずみ)・濡れた壺(1976・日活ロマンポルノ) | 90 | 90 | 映画批評「花芯の刺青(いれずみ)・濡れた壺」 監督小沼勝 撮影森勝 照明川島晴雄 2006.11.11 冒頭、北川たか子がこちらへ歩いてくるシーンから既に画面の肌触りが「傑作」であることを告知している。撮影森勝、照明川島晴雄のトリオの傑作「生贄夫人」は見事なローキィの照明が画面を彩り飾っていたが、この作品は終盤、一気に抽象的光へと転換され、道成寺伝説・安珍清姫の「蛇の道」へと突き進んでゆく。歌舞伎と伝説、女と蛇、そのすべてが主題論的に光へと濾過され、清められている。傑作。ちなみにキャメラマン森勝には鈴木清順「悲愁物語」、曾根中生「博多っ子純情」といった傑作の数々がある。 |
三人の名付け親(1948・MGM) | 90 | 85 | 映画批評「三人の名付け親」 監督ジョン・フォード・撮影ウィントン・C・ホック 2006.11.11 鑑賞二度目。わざわざ椅子を馬車の外に出し、赤ん坊を抱いたウェインを椅子に座らせ赤ん坊をあやさせるあたりの感覚は紛れもなくグリフィスからの遺伝子だが、砂漠で赤ん坊、というテーマ自体が既にグリフィス「人類の女性」(1912)の焼き直しとも言えるだろうし、だがその「人類の女性」は、「砂漠」という舞台設定との関係からか、私の見たグリフィス映画の中で唯一「椅子」の出てこない映画であるにも拘わらず(論文「グリフィス・フレームと分離の法則」参照)、グリフィスの弟子であるジョン・フォードは、砂漠のど真ん中で惜しげもなく「椅子」を持ち出し、グリフィス的家族関係を砂漠という荒地でオアシス的に貫徹させている。こうしたジョン・フォードの「椅子」へのグリフィス的執着は、その後の「幌馬車」(1950)において、砂漠のど真ん中で、幌馬車の中のジョン・ドルーをわざわざ「椅子」に座らせ、ギターを弾かせた突拍子もない演出へと受け継がれているだろう。ちなみに「映画」には、砂漠で水筒の水がなくなると、水筒を遠くに投げ捨てなければならないという決まりがある。ここで、「次にもしオアシスに出会った時に水筒がなければ水を蓄えられずに困るではないか」、と尋ねてはならない。決してオアシスには出くわさないという映画の歴史を知っているからこそ彼らは水筒を投げ捨てるのであり、と同時に「投げる」という行為がそもそも映画的なのだ。この映画でジョン・ウェインは二度、水筒を忌々しげに投げ捨てている。帽子とは被る為ではなく、脱ぐためにあることを教えてくれる映画でもある。映画を当然のように神話にしてしまうジョン・フォードの、渇きを潤いへと発展させた見事なクリスマス映画だ。 |
2006.11.17更新 | |||
臨死(1989) | 90 | 80 | 映画批評「臨死」 監督フレデリック・ワイズマン 「法と秩序」「肉」などと比してワンシーンワンカットの長回しの趣旨がより強く出ており、10分一巻の長回しがザラにある。だがワイズマンは、被写体がキャメラを意識した部分はすべて編集でカットしてしまうので、その意味で「長回し」は一つの結果に過ぎないのかもしれない。暗い病院の中での、露出アンダーギリギリのモノクロームのトーンの閉塞した空気、この重苦しい空気をワイズマンは極めて意識的に利用すると同時に、そこからの解放というものに対しての心配りも只事ではなく、会話の最中に、まったく何の関係もない、夜の廊下を行き交う人物たちの美しいシルエットを突如挿入してみたり、徹底して夜のヘッドライトとネオンに拘ってみたりと、「美」に対する欲求を、「真実の時間」に逆行させるほどの意識でもって追い続けている。さらにこの映画の空気を和らげるのが「黒人の清掃人」であることは言うまでもない。おそらく彼は十数回画面に出現しただろうか、モップをかけたり、ゴミ袋を集めたり、落っことしたりして淡々と仕事をこなす彼の姿が画面を横切る度に映画の空気が変化する。例えば医師と看護婦とが廊下で議論していたシークエンスで、それを長回しで捉えた終盤に、黒人の清掃人がモップを持って画面を横切る場面があるのだが、賭けてもいい、ワイズマンはここで「してやったり」とニッコリ微笑んだはずだ。ワイズマンという男はそういう男なのである。そんなの映画には何の関係もないじゃないか、と言われそうだがさにあらず、映画とは「こういうことの集積」なのである。仮にこの場面での黒人の出現が偶然でなければ「演出」と見るべきであり、ワイズマンは「ちょっとそこ横切ってくれ」くらいのことは言っているかも知れない。どちらにせよ、ワイズマンの映画が「怪奇と幻想」なのは、決してこの映画の題名が「臨死」だからではなく、ワイズマンの映画自体が、映画というメディアそのものの嘘を露呈させるような、摩訶不思議にも真実と幻想との境界線を常に美しく浮遊しているからにほかならない。六時間があっという間に過ぎ去る傑作。 |
犬神の悪霊(たたり)(1977・東映) | 75 | 70 | 映画批評「犬神の悪霊」 監督伊藤俊也 シークエンスが変わると、それ以前のシークエンスの恐るべき出来事をすべて忘れたような顔をして出て来る大和田伸也が非常に愉快だ。山中貞雄や成瀬巳喜男が使ったとされる「中抜き」という撮影方法は聞いたことはあるが、この「シークエンス抜き」というのは聞いたことがない。どんな順序で撮ったのか是非聞いてみたい。ズームやスロー始め、随分と荒っぽく撮っていて、これは全然ダメだと思わせておきながら、見事に中盤以降逆転してしまう。犬神にとり憑かれ、失神した泉じゅんの体に、村の男たちがにぎりめしをこすり付けて悪霊を払うという、絶対に「何故?」と聞いてはならないエロチックなシーンがあるのだが、ここで夫の大和田伸也が「無念!」という心理的表情でにぎりめしを泉の体にいやらしくこすりつける。このシーンは一人で笑った。ここは笑うべきだ、、、ピンクに染まる夜桜をバックにした大和田の怒りの表情、山の斜面を走り降りるオートバイの疾走感、そして犬の首から下を土の中に埋め(この「犬を埋める」、というのも凄い。今ならおそらく自主規制で無理だろう)、嫌がるワンコの首を室田が日本刀で切り落とすシーンで、背景の木に雷が炸裂し、なぎ倒される、こんな迫力のある落雷はかつて見たこともない。終盤一つ、大サービスのパンフォーカス(合成か?)あり。心理的ほんとうらしさをぶっ飛ばし、ひたすら恐怖の運動へと駆り立てられる。 |
アクメッド王子の冒険(1926) | 監督ロッテ・ライニガー ここでもまた「接吻」と「ヌード」の主題が見事に貫かれている。動くことへの欲求そのものが幻想を生み出している。 |
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川本喜八郎・人形アニメ四本 | 90 | 90 | 監督川本喜八郎 これは凄い。まず何といっても照明が美しく、繊細で、些細なニュアンスまでを見事に光の力で表している。走る女が立ち止まり、はぁはぁと呼吸する、その胸の膨らみと収縮との運動の炸裂感が素晴らしい。ここで動きを与えられ息づく人形が、仮に今日、我々の家の枕元に置かれるとして、夜、目を凝らしてそれを見た時、必ずや我々はこの人形の「動き」を感じるはずだ。目を凝らせば凝らすほど感じるはずだ。そもそも「動き」とは、一こま一こまの集積からなる目の錯覚に過ぎないものだとすれば、一秒間24コマの写真を動きに見せる「映画」の24コマを、さらに抽象化するストップモーションアニメと言われる類のこうした運動こそ、極めて運動らしい運動であると言えるのであって、そうであるならば、これからのアニメは、これまでのような運動の快適さ、スムーズさを求めるのではなく、まずもって運動の抽象化、運動のぎこちなさを描く方向へと進むというのも一つの方策であるように思える。実写では無理でもアニメには可能な、運動という錯覚をより正面から捉える手法。どちらにせよ映画とはつくづく「怪奇と幻想」そのものなのだ。 |
くの一淫法・百花卍がらみ(1974・日活) | 70 | 65 | 監督曾根中生 体と体を摺り寄せからむ。グチャグチャになりながら、それでもまだゾンビのようにからんで来る体内の液、腸、、、我らが希望の黒沢清はこういう映画を沢山見てすくすくと育ったのだ。わかる、、、森の中の横移動の気配だとか、襖の裏と手前とを異次元の空間に仕立て上げた照明など見所は多いが、だが曽根中生と熊谷秀夫コンビの傑作「天使のはらわた・赤い教室」での、時間の変化を光で表したあの伝説的な旅館のシーンや、スナックのカウンターの水原の顔に当たる見事な光や、工事現場の壁を取り込んだ見事な空間を背景に水溜りの波紋で終えた凄まじい光の魔術を知っている者としては、この映画の照明は大いに物足りない。凄い部分もあるが、小さな部分に問題がある。 |
怪猫トルコ風呂(1975東映東京) | 映画批評「怪猫トルコ風呂」 監督山口和彦 上の階にある東急ホテルの宴会場のロックバンドの爆音のため映画鑑賞の環境整わず、評価不能。シネモンドさんは一回無料のサービス券を配り対応に苦慮される。もちろん私は受け取らない。ここの所、この東急ホテルによる騒音公害が凄まじく、映画を見られる環境ではないこともしばしば、憂鬱な日々が続く。シネモンドは東急と長きに亘り折衝中らしいが、東急としては対処する気はないらしい。お互い騒音を出す身としての言い分はあるだろうが、シネモンドは109の店子であって、東急109の中のシネモンドを利用している我々もまた東急の顧客なのだから、東急さんとしてもそういうところをもう少し文化的に考えて対処して頂きたいものだ。東急のホームページには、東急の存在理由についてこうある。「美しい生活環境を創造し、 調和ある社会と、一人ひとりの幸せを追求する」。 べつにこれを東急さんに突きつけて「どうだ」と勝ち誇る気はないが、何とか大企業の器量でもって、円満に解決して頂きたいものだ。 |
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アマゾン無宿・世紀の大魔王(1961・新東映) | 60 | 65 | 映画批評「アマゾン無宿・世紀の大魔王」 監督小沢茂弘俳優片岡千恵蔵 ちょび髭とモミアゲのガンマン、進藤英太郎が、独特の笑ったような泣いたようなへらへら声で「オッケー!?」とポーズをとった時、我々はこの進藤英太郎があの溝口健二の「祇園の姉妹」や「山椒大夫」の、あるいは「近松物語」の、あの進藤英太郎と同一人物であるという、あってはならない正しい思考に到達するまでひたすら宙吊りにされるのである。この時点でほぼ小沢茂弘は我々を掌にのっけたといって良い。久保菜穂子が美しく、「脱皮前」の三田佳子、梅宮辰夫は目元が現在とは別人のごとく初々しい。蝶とイモムシくらい違う。演歌を口ずさみ、さっそうと登場する青いテンガロンハットの早撃ちガンマン片岡千恵蔵、この「浮き方」はただ事ではない。だがこれだけの不自然さの中でただ一人、精神病院の患者、由利徹だけは何の違和感もない。 |
幽霊繁盛記(1960・東京映画・東宝) | 70 | 65 | 映画批評「幽霊繁盛記」 監督佐伯幸三 医者の娘香川京子と葬儀屋のフランキー堺の二人、月とスッポン医者と葬儀屋、当然ながら夫婦になることを許されず、思い余って橋の上、あの世で夫婦になりませう、飛び込もうとしたところ、死神ハタと現れて、二人には寿命が残っている、私が死にそうな人間を教えてやるから葬儀屋として頑張りなさい、、、といった感じの作品で、全体としてやはり非常に暗いトーンで進んでゆくので、いつ悲惨な出来事が起こっても不思議ではない感じが画面を包み込んでいるにも係わらず、実はこの映画は楽しい楽しい「人生賛歌」なのであった。このどんでん返しの感覚が大いに楽しく、全体のリズムも上々、程よい透明感で映画は進んでいる。こういう役柄はフランキー堺が実に良く似合っている。真っ暗な部屋に無数のローソクの立ち並ぶ「寿命の部屋」の薄気味悪さは只事ではない。 |
吸血鬼(1931) | 100 | 100 | 映画批評「吸血鬼」 監督カール・ドライヤー 今回三度目の鑑賞だが、映画館では初めて。どう見てもこれはまず「光」の映画であるだろう。「灰色がかった画面と白い光がこの映画の調子を作っている」(作家主義427)と言われている様に、「白」という色は、「奇跡」のラストの部屋の露出オーバーの真っ白の光や「裁かるるジャンヌ」のピンクに塗られた壁の「白」を始め、ドライヤー色であることは周知の事実だが、そこへあの映画史上初の心理描写としてのパブスト「心の不思議」(1926)の夢のシーンの白い背景やヒッチコック「白い恐怖」の雪山、フライシャー「絞殺魔」での白い壁、そしてゴダール「アルファビル」の白い世界が象徴するように、映画の「白」とは、その歴史において紛れもなく精神や心理に強烈に働きかけ我々を惑わせるところの「白」なのであり、「吸血鬼」の光の帯や白い壁、白い砂の「白」のイメージは、この現実とも幻想ともつかぬアランの心の不思議を見事に映し出している。キャメラマンはルドルフ・マテ。 |
マニラ 光る爪(1975) | 90 | 85 | 映画批評「マニラ 光る爪」 監督リノ・ブロッカ 美しさが距離となり青年の接近を妨害している。青年に目撃が許されるのは「髪をかき上げる娘」のシルエットにすぎず、夢でしかない。偽善の群集に追われて走る青年の姿は「自転車泥棒」よりも遥かに怖ろしく、女を探し続ける青年の目は「めまい」のように、実体を手に入れんともがきさまよう男性的視線である。 |
ここから上、2006.11.11更新分 |
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蛇娘と白髪魔(1966・大映) | 60 | 65 | 監督湯浅憲明 松井八知栄のモノローグが何とも可愛らしい。部屋が暗いと「部屋が暗いわ、、」誰かいると「誰かいるんだわ、、」と、見れば分かる出来事をすべて口頭で説明してくれる松井八知栄の健気な親切心に胸を打たれた。、、、階段、その他の上下空間を徹底的に支配し、運命の落下へと導いている。折角の映画祭、復刻でもいいから、こういう作品のパンフレットが欲しい。そうした情報面の充実がこれからの映画祭の課題ともなるだろう。昔、どこかで開催された映画祭のパンフレットがそのまま売られているというのは何とも寂しくもある。 |
奇跡(1954) | 100 | 100 | 映画批評「奇跡」 監督カール・ドライヤー パース→ウォーレンの類似・指標・象徴の三分法(「映画における記号と意味」142以下参照)など馬鹿らしくなってしまうような自由な自然体。この作品は紛れもなくコメディであり、それも極めてハリウッド的物語構造に支配されていながら、豊かさにおいてハリウッド的物語を決定的に凌駕したドラマチックで楽しい映画だ。「テレ」などという俗っぽいものからここまで自由で無邪気な映画を見たこともない。「空間を自分の意思で切り取る」という創作本来の抽象化作業に責任を持って完璧に従事している。演技、美術、装置、照明の素晴らしさゆえに長回しが成り立ち、その持続に時計や風の音、カメラワークが加わることで、この室内劇的小宇宙の外にあるオフ空間を完璧に支配している。風に揺れる真っ白な洗濯物が、この風と白の世界を見事に描き出してはいまいか。これは所謂「映画史上~、、」という、極めて選ばれた作品に違いない。未だに感動が持続している。 |
博徒七人(1966・東映) | 70 | 65 | 映画批評「博徒七人」 監督小沢茂弘・覆面上映 「博徒七人」というタイトルが出た瞬間、館内前方で拍手が巻き起こる。鶴田→片目、藤山→片腕、山本→片足、待田→めくら、小松→せむし、山城→おし・つんぼ、という呼称・状態が「覆面上映」の理由なのだろうか。世の中そのものが「怪奇」なのだ。大木実の墓地のシーンの、小高い丘のロングショットの逆光の美しさは只事ではない。被写界深度が非常に深く、まるで「イントレランス」のように、遠くの遠くでエキストラが具体的な行動をしていたり、手前で話す鶴田と桜町の奥の、ぼやけてどうでもいいような空間に、遠藤太津朗がまだ残って立ってゴソゴソしていたり、この映画の「怖さ」というものはそういうところにある。 |
楽日(2003)台湾 | 80 | 85 | 映画批評「楽日」 監督ツァイ・ミンリャン ガラガラの空間で人々がひたすら身を寄せ合って暖め合っている。がらがらの座席、トイレ、通路で人々は無理矢理体を寄せ合い、窮屈そうにしながら、過去の混み合った時間の中へと遡って行く。夜の雨に濡れた舗道の光、夜の廊下の地面に反射する光、壊れて点滅を繰り返す蛍光灯、館内で人工的に顔面に当てられるスクリーンからの反射を装う光線、、こうした繊細な「闇と光」との関係に何を思うか。テレビと異なり「暗闇の中でしか見られない映画」を「光を当てなければ感光しないフィルム」を用いて描くこと、それ自体が「怪奇と幻想」ではないか。 |
法と秩序(1969) | 85 | 80 | 映画批評「法と秩序」 監督フレデリック・ワイズマン カメラが二台あるとしか思えないのだが、、、、どうにも分からない。だが、この「カメラの不在感」はどうだろうか。警官たちは、黒人を殴ってやったとか平気で口にしているし、また黒人の売春婦の首を裸締めで思い切り絞めて脅す警官がいたり、そういうことをカメラの前で堂々とやっている。例えばオウム真理教のドキュメンタリーで「A」という森達也の撮った作品があるが、そこでは私服警官が、オウムの信者を挑発し、逃げようとする信者に後ろから抱きつき、そのまま自分から無理やり転んで「痛い痛い!」と悶絶し、倒された方の信者を公務執行妨害で逮捕するという、凄まじい場面がカメラの前で堂々と展開されているのだが、彼らにとって「カメラ」とは何なのだろう。ワイズマンの映画というものはいつもこのように、我々を「映画」そのものの思考へと駆り立ててくれるのだ。ちなみに「A」の信者は、結局森達也がそのフィルムを提出したことで無罪となっている。その葛藤と悩みについては森達也の名著「ドキュメンタリーは嘘をつく」に詳しく出ている。 |
ロッテ・ライニガーの影絵アニメ6作品 | 特に面白かったのは「ガラテア」という作品で、自ら作った彫刻の女に恋をするというお話である。その彫刻が生命を得て動き出す瞬間、つまり、彫刻が実体を持った瞬間、それまで光が当てられていた彫刻が「影絵」へと変換される。この世界では通常の世界とは明と暗とが逆転し「実体」は「影」となる。これだけでも見た価値があろうというものだ。女はそのまま町へと飛び出すが、彼女はヌード像であったのだから、当然何も身に着けていないのであり、言わば素っ裸で街を歩いていることになる。だがすべてはシルエットの影なのだから、我々はただ歓喜する街中の男たちと、激怒する女たちのコントラストを楽しみながら「想像する」しかないのであり、光の芸術では検閲によって許されない「全裸」という人間の姿を、影の世界で見事に「見せて」くれたこの作品こそ、影絵という分野の真骨頂を堪能できた面白い作品であった。すべての作品のテーマとも言える「接吻」という行為も、影で成されることで精神が露呈しているように見えてしまう。 館内には子供連れの親の姿が見当たらず、その点からは随分と寂しい「文化祭」であった。 |
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気違い部落(1957・松竹) | 85 | 85 | 映画批評「気違い部落」 監督渋谷実 今回は「覆面上映」として、タイトルを隠して上映される。 ワイズマンの「肉」にしても本多の「獣人雪男」にしてもそうだが、ジャンルとしてではなく、映画の空気そのものが「怪奇と幻想」であり、そういう映画の選び方をした主催者は実に素晴らしい。これもまた極めて暗い映画である。物語は明らかに松竹のコードから逸脱し、照明は見事なローキイの感光を貫き、黛敏郎の音楽もまた画面と衝突を続けている。「差別用語」を使っているから「暗い」のではなく、映画そのものの香りが暗いのであり、その暗さは尋常ではない。ラスト、村を捨てた石浜朗の山裾のバスからカメラは大きくパンし、持続したまま山頂の伊藤と淡島を捉える。こうした言わば「生命力礼讃」を持続したカメラワークで表す演出は、ジャン・ルノワール「トニ」のラストの記憶をまざまざと呼び覚ましている。これは傑作と言うしかない。 |
獣人雪男(1955・東宝) | 65 | 65 | 監督本多猪四郎 現実と幻想を迷わせる円谷の特撮を堪能する。駅の待合室の回想から始まる、その待合室の空気自体がすこぶる「暗い」。 |
肉(1976) | 90 | 90 | 監督フレデリック・ワイズマン トラックやカウボーイの通行に伴って、朝日が出たり消えたりする。この執拗な美への執着。ナレーション、BGMなし、インタビューなし、説明なし、見ることへの執着。切り返しがあり、音声が持続しているが、マルチカメラとも思えない。するとモンタージュ色の強い映画ということになり、逆にマルチカメラなら、モンタージュ色はやや弱まるか。どちらにしても、ドキュメンタリーという嘘の、「嘘」の付き方が極めて映画的でマジックのようだ。牛が解体され、白いシーツにくるまれ冷凍室に吊るされた姿は、紛れもなく「怪奇と幻想」である。作業中誰一人として笑っていない。お国柄なのか。「アウシュビッツ」を連想した者が必ずやいるはず。好むと好まざるとに関わらずそれを連想させる空気をこの映画は持っている。そこに嫌らしいほど美しい朝日のきらめきが入ってくる。こうした「画面の中の二つの空気」はヒッチコック的ですらあるだろう。 |
以下は金沢21世紀美術館「怪奇と幻想の世界」での上映作品・2006.11.06新設分 |
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