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二番館2007年分  映画批評 映画評論

       
評価 照明 短評 監督、スタッフ、鑑賞日、その他
独裁者(1940ユナイト) 90 85 監督チャールズ・チャップリン

二度目の鑑賞

チャップリンは、ジョン・フォードやアルフレッド・ヒッチコックのように、「画面」そのものの優位から映画を構築してゆくという作家ではない。画面の法則よりも、より重要な法則がチャップリンには存在するのではないか。それは例えば「ハンガリー舞曲」に乗せながら客のひげを剃るシーンがワンショットの長回しで撮られていることに顕在しているだろう。チャップリンにとって大切なのは、同じ物語でも、あらすじ的物語ではなく、かと言って「画面の物語」でもなく、「チャップリン」という肉体そのものが露呈するところの「チャップリンの物語」なのだ。そして画面の中心にはいつも「チャップリン」が君臨している。チャップリンは決してキートンのように、巨大タンカーや巨大ビルディングの壁などといった大きな装置の中に迷い込み、その卑小さをロングショットで露呈されることはない。彼は常に画面の中心に、確固として存在し続ける「独裁者」なのである。

ラストの「演説」は、その言葉の「中身」というものが、決して物語を促進させるためのものではなく、チャップリンという「独裁者」の発する人格そのものの歴史的露呈であることが映画史の中で圧倒的に存在し、それまでは画面ではなかった画面を「画面」そのものへと遡及的に引き上げ、決定的な感動をもたらすそのイメージの記憶は、ジョン・ヒューストンの遺作であり傑作である「ザ・デッド/「ダブリン市民」より」(1987)にも似た、言葉の、言葉ならざる肉体の映画の摩訶不思議である。

言葉を発したキートンは映画から弾き出され、「言葉」を発したチャップリンは肉体として君臨し続けた。ここにもまた、チャップリン映画の持つ「肉体」という現象が、我々が常日頃口にしている「運動」とは、ややズレていることを感じられるのである。これは「人格運動」とでも言うべきものだろうか。

焼かれた床屋を屋根の上からゴダードと見つめる夜のシーンでは、チャップリンは「背中」のままであり続け、しばらくして画面が切り替わってから初めてこちらを向き、ゴダードと共に星を見つめる。照明や美術の関係からして決して最良とは思えないこういったシーンが、流れた瞬間「神話」になってしまうその「力」というものは、現在の映画論では評論不可といえるだろうか。
アパートの鍵貸します(1960the mirisch company) 70 85 監督ビリー・ワイルダー、美術アレクサンドル・トローネ撮影ジョセフ・ラシェル俳優ジャック・レモン、シャーリー・マクレーン、フレッド・マクマレー

二回目の鑑賞

アレクサンドル・トローネの装置とジョセフ・ラシェルの光との協働は、雨に濡れた舗道やオフィスの遠近法、そしてその天井に美しく垣間見られる。

だがこの映画は、基本的には「会話劇」であって、「会話の中身」を重視する撮り方=「A」の世界に埋没している。特にシネマスコープの横長画面を、ジャック・レモンとシャーリー・マクレーンのバストショットの長回しで撮ったいくつかの場面であるとか、中華料理屋でのフレッド・マクマレーとの会話によって主導され続ける切返しの数々は、会話の中身が画面を凌駕している。

1ショット22秒前後と言う超スローペースであることも、ヨーロッパ型の「長回し」ではなく、ハリウッドの「A」的作品特有の「長ばなし」としての重さを露呈している。

シャーリー・マクレーンが「真相」を知るのは、フレッド・マクマレーからの言葉である、という、その処理の仕方も、「熱砂の秘密」(1943)の終盤の台詞に基づく説明同様、「A」的な期待の中に埋没している。

決して悪くは無いものの、「映画史上の傑作」として扱われていることには大きな違和感を感じる。それは「物語」というものへの「画面」の従属を当然視することにもつながるのであり、現に映画史とはそうした「物語重視」の映画的危機の歴史でも或るからだ。
すべてが均質の時間と空間の中に、予め決められた「物語」をなぞって行くことが、果たして「映画」なのかという、その問いかけを、私はしてみたい。
地上より永遠に(1953.コロンビア) 80 85 監督フレッド・ジンネマン、撮影バーネット・ガフィ俳優バート・ランカスター、モンゴメリー・クリフト、フランク・シナトラ、ドナ・リード

二回目の鑑賞

映画史上に残る傑作とは、「駅馬車」(1939)だの「ゲームの規則」だのといった、「100点」などという数字で表す自分がほとほと馬鹿に見えてしまうような茫然自失のシロモノを刺すのであって、決してこうした物語優先型の映画をしていうのではない。もちろんこの「地上より永遠に」は駄作ではないだろうし、物語的細部において実に豊かな数々を含んだ作品であって、モンティが追悼ラッパを吹くシーンなどは思わず涙がこぼれ出てしまう。
モンティは何故死んだのか、それは、「止まれ!」と言われて「止まりたくなかった」から、そう思えてしまう細部は実にクールでありながら感動的で、少なくとも現代の凡百の脚本家の及ぶところではない。被写界深度は極めて深く、モノクロームの画面を装置と美術が「見ること」を突きつけて来る。

だが、スタンダードサイズの画面中央に「ドーン」と入って来る大きなクローズアップの数々は紛れもなく画面の持続を停滞させしているし、また、単調な切返しとそれに従属した会話の映画は、「A」という重さを告白し、息苦しい。

ラストの波と花輪は素晴らしいが。
2007.12.11更新
死なない脳(1959米) 80 80 監督ジョセフ・グリーン

少し物語を解説すると、おおよそこんな感じだろう。

死なない脳を発見した博士の恋人が事故に遭い、博士は恋人の首だけを生きたまま保管する。そして、その恋人につなぎ合わせる肉体を求めて街を彷徨う、、。

これだけでよい。この瞬間、私は思わず「なるほど、、、」と、その見事なB的センスの発想の偉大さに敬服してしまったのであるが、つまり、この映画は、それからはひたすら「女の首から下」の映画になる、ということなのだ。

出て来る女、出て来る女がみな「アニタ・エクバーグの下半身」のような、見事なボディコンの女たちで埋め尽くされ、その「下半身」を、博士が、見た目のショットなんかでひたすら品定めをして歩くのである。私は、「なるほどねぇ、、」と何度も呟きながら、この見事なるB的エロ精神の遊び心につくづく惚れ込むのだが、これだけエロチックな覗き見行為を露骨に描きながら、博士の「下半身物色行為」の動機はあくまで「人命救助」なのだ。、、、これが素晴しい!、恋人の生命はあと僅か、従ってこれは、少なくとも博士からすれば、「医学的行為」となるのである。これが「B」のワンクッションなのだ!

ヘイズコードという「検閲」を回避するために、当時のハリウッドの「エロ」は、特に、どうしても「エロ」を描かずにはいられない「B」のサービス精神は、日常的「エロ」を、創造的機知にとんだ「映画的エロ」へと転化させた。この映画は、ホラーであるが、先験的に「エロス」であり、従って見事な「コメディ」となり、遡って「ホラー」なのだ。

こうした精神は、「13日の金曜日」を典型とした現代のB級ホラー映画へと、その「エロ」部分だけを残骸として悲しく受け継がれている。現代のホラー映画は、検閲という「縛り」がないがために、エロの露出が自由となり、主題にワンクッション被せるという映画的ペーソスを、何処かへ置き忘れて来てしまったのだ。「限界」に働きかけることのない創作物の、悲しき末路といったところだろう。
その前夜(1939東宝) 80 95 監督萩原遼、原案山中貞雄、脚本梶原金八

山中貞雄原案、という先入観がなかったとしても、人々はこの作品に難なく「山中じるし」を見出すことになるだろう。それは前進座のあのメンバーの顔だとか、酒場の風情、など以上に、何よりも物語の語り口における「中心部分からのズレ」、というものなのだ。この作品における新撰組、夏祭り、という「中心」部分は、「周辺」を動かすマクガフィン程度のものとして配置されているに過ぎない。物語の中心部分を過大に描くことで、若年層の「涙」に期待するしか脳のない現代無能映画に接し続けて脳みそがクチャンクチャンになってしまった時に、この映画はオススメである。
魂萌え! 65 65 監督、脚本阪本順一、俳優風吹ジュン、

悪くはないし、映画は純粋で、不誠実な部分は感じない。だが、回想シーンの手持ちのブレなどに、視覚的限界が露呈している。そして人間の描き方が甘い。豊川の描き方など、どうしてこんなに甘いのだろう。

終盤、三田佳子の蕎麦屋の暖簾が風に揺れる、その「揺れ方」がまったくもって美しくない。「風」が「美しくない」。もう少し柔らかい繊維の暖簾を使ったらいかがだろう。
遠い太鼓(1951ワーナー・ブラザーズ) 90 90 監督ラオール・ウォルシュ、撮影シド・ヒコックス、音楽マックス・スタイナー、俳優ゲーリー・クーパー、リチャード・ウェッブ

1840年頃のアメリカ。海軍中尉のリチャード・ウェッブは、対インディアン戦争の助っ人として、フロリダの深い森林の沼地の奥で、インディアンと共同生活をしている奇妙な大尉、ゲーリー・クーパーを探しに森の奥深くへと小船で下ってゆく。ウェッブのナレーションと共に、彼は小船に乗って、森に囲まれた川をひたすら下ってゆく。森の中から突如ライオンが顔を出し、我々を驚かせる、、、こういうのはまさに、コッポラ「地獄の黙示録」である、と言ってしまって構わない。「コッポラ」とは「シネフィル」。
2007.9.17更新
破戒(1948松竹大船) 50 70 監督木下恵介、撮影楠田浩之、脚本久板栄二郎、原作島崎藤村、俳優池辺良、宇野重吉、桂木洋子、菅井一郎

批評家では、飯島正は否定し、井沢淳は肯定的に捉えた作品であるそうだが(「木下恵介の世界」54)、私の見たところでは、飯島正が正しそうだ。キャメラの無駄な動きが多く、構図、視点とも定まらず、役者はその演技、クローズアップとも心理的で、台詞も腹から出て来ていない。以前何処かで私は木下恵介作品をして「ぐらぐら」と称した事があるが、仮に成瀬巳喜男の映画を「ぴしゃり」とすれば、木下恵介の映画はまさに「ぐらぐら」なのである。だが、その「ぐらぐら」が、掴み所の無い無邪気さとして「映画」になってしまう事があるのもまた木下映画の面白いところ。木下恵介という監督は、映画を「映画」にしてしまう術というものを、先天的に知っている人なのである。例えば終盤、桂木洋子が「走る」。この「走る」だけで「活劇」となり「映画」としての帳尻が合ってしまう。

ちなみに木下恵介は、この「破戒」を、「原作を読まないでやったのはこれ一本だけ」と、原作を未読で撮っている(「木下恵介の世界」55)。

余談だが、脚本は、その感じからしてひょっとすると、「改訂本(俗に改悪本と言われている)」の方を基にして脚本が書かれたのでは、と思われたりもするのであるが、深入りはしない。ただ、惜しむらくは、島崎の原作の持つ、ある種の支離滅裂さ、或いは「怖さ」というものが、映画の方では逆に常識的な善良さにおける帳尻が合ってしまっていて、映画の発展を見事に阻害している。メディアとしては「逆」なのである。

余談だが、今、コンピューターで「エタ」と打っても「穢多」と変換されない。こういうところに私は、社会全体の薄気味の悪さを感じてしまう。
銀嶺の果て(1947東宝) 60 70 監督谷口千吉、脚本黒澤明、俳優志村喬、三船敏郎、若山セツ子、河野秋武
三船敏郎のデビュー作だが、まったくもって三船敏郎は三船敏郎であって、いつ見ても「三船敏郎」その人である。
脚本の黒澤明は、この三人組強盗団の白銀世界を見事な「西部劇」へと仕立て上げていて、あの日本的山小屋に、「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム」が何の違和感も無く聞こえて来てしまう、そのあっけらかんとしたアメリカ魂は、いかにもジョン・フォード狂の黒澤明らしさというべきで、だが国境などお構い無しにこれを出来てしまう黒澤明は、やっぱり「映画魂」を持っているなと、嬉しい気持ちにもなる。この映画は一見の価値がある。
この「河野秋武」という、まさに東宝争議の落とし子ともいうべき地味な俳優が、アイルランド民謡に乗せて、若山のせっちゃんと、我を忘れて無邪気に踊るシーンのあの初々しさもまた、子供のような心で映画を撮り続けた黒澤明の真骨頂というべき貴重なシーンであるだろう。もちろん監督は黒澤明ではなく谷口千吉なのだが、黒澤色が色濃く出た作品である。
嵐を呼ぶ18人(1963松竹) 95 95 監督吉田喜重、撮影成島東一郎、俳優早川保、香山美子、殿山泰司、三原葉子、浦辺粂子、根岸明美

造船所の社外労働者が呉から広島へ、そして呉へ戻り、18人は呉の駅から北九州行きの汽車に乗る、という映画である。広島から北九州へ。だが会話には「原爆」も出てこなければ「長崎」も出て来ない。描かれているのは紛れも無い「出来事」であって、心理でもなければ感傷でもない。香山美子がレイプされる怖ろしいシーンの照明の揺れは、場違いにして美しい、ただそれのみである。

この時期の吉田喜重は、構図が「切れ込んでいる」という感じの四角張った映画を撮っていて、最近のやや「丸み」を帯びた映画とは随分と違っている。カッティングにしても、古典的なカッティングは拒絶して、「カットはどうやったってつながるものさ」という感じにつないでいる。

それにしても、「心理」や「感傷」を描こうとしない映画が何故こうまで心を打つのだろう。18人が汽車に乗り、北九州へと運ばれて行く、その単なる、何の変哲もない出来事が、痛恨のエモーションを打ち立てている。これまた傑作。
さらば夏の光(1968日) 95 90 監督吉田喜重、俳優岡田茉莉子、横内正

「ナガサキ、、」という言葉が、異国的に響いて来ては消えて行く無国籍的な映画なのであるが、こうした「無国籍性」という時間と空間を彷徨い始めた二人の日本人が、ヨーロッパの「歴史」の中へと投げ込まれた時、ただ一言も発せられず、ただ二つのショットと周辺の出来事の告白のみによって暗示された「ゲンバク」というカタカナ言語が、我々の頭の中で安易に「原爆」となり「長崎」となることを禁じながら、それは少しずつ形作られ、普遍性へと流されてゆく。

横内正は、消えてしまう岡田茉莉子の中に自らのカテドラルを求めてリスボン→マドリード→パリ→ノルマンディ→スウェーデン→コペンハーゲン→アムステルダム、そしてローマという、歴史の中を彷徨い続けるのだが、フラフラと、亡霊のように彷徨い続ける二人をキャメラは「視点無き視点」によって、あらゆる角度から描写している。ともすれば、現代シネコン映画に偏在するこの「視点の不在」というものが、吉田喜重にあっては「視点の不在」という「視点」となって、「真実」の不在を暴露している。何処から撮っても、「真実」など浮かび上がってこない。少なくともこの映画の画面には、形而上学的で楽観的な「客観」なり「物自体」への信頼などといった無邪気さは不在であり、「物語」による神話なり意味なるものともまた無縁である。
消え去りそうな「存在」を、その都度立ち上げ現在の瞬間として更新しなおしながら、歴史の瞬間の中に放り込まれた「人間」という小さな存在の共通の位置を世界の中での関係において露呈させようとするような「画面の映画」である。ヌーベルバーグでありながら、ヌーベルバーグを突き抜けた紛れも無い傑作。
俺は待ってるぜ(1957日活) 70 95 監督蔵原惟繕、撮影高村倉太郎、照明大西美津夫、美術松山崇、俳優石原裕次郎、北原三枝、二谷英明、小杉勇、
藤原惟繕のデビュー作である。
映画自体、脚本の石原慎太郎のもって回った言い回しが今一つ説明調で面白くないが、モノクロフィルムの空間設計がとてつもなく素晴しく、ただそれだけに見とれてしまう。高村倉太郎等、スタッフの名を見れば、なるほど、と思えるほどの見事なメンバーなのだが、個々の照明の微妙なニュアンスというよりも、この硬質で、見事に黒の出たモノクロの空間設計が、装置への光の反射と、それによって達成されるグレーとの関係において、ただそれだけでノワールとしての暗い神話を作っている。
2007.8.21更新
噂の二人(1961米) 70 75 監督ウィリアム・ワイラー、撮影フランツ・プラナー、俳優オードリー・ヘップバーン、シャーリー・マクリーン、ジェームズ・ガーナー

「返って来ない視線を求めて走る」、、、これをやったのは1964成瀬巳喜男「乱れる」だが、ワイラーは同じ事を1961にやっている。この点については、次回の論文「成瀬巳喜男」で書く事になるだろうが、何故同じ「走る」が、この場合に限って「視線を求めて走る」になるのか、この差異が論点となるだろう。

その他、例えば子役のクローズアップの入り方、動かし方、階段の使い方等、凡庸というしかなく、露骨なパンフォーカスであるとか、ゴダール的なジャンプカットを見せたとしても、「映画」が「社会問題」に敗北している。結局のところ、ロジェ・レーナルトの政治によってアンドレ・バザンに支持されたワイラーは、その支持の理由を誤解したと言うしかなく、安易に「社会問題」という「外部」へと逃避してしまっている。この映画の一時間平均のショット率が「9.54」であることを見れば、相対的にではあるものの、ワイラーの「退行」を直感し得るであろう。
硝子のジョニー、野獣のように見えて(1962日活) 85 85 監督蔵原惟繕、俳優芦川いずみ、宍戸錠、アイ・ジョージ、桂木洋子、南田洋子

宍戸は競輪選手に逃げられ、競輪選手は駆け落ちした女に逃げられる。芦川いずみは、女に逃げられた過去を持つアイ・ジョージから逃げ出すが、そのアイ・ジョージもまた警察から逃げ出し、芦川いずみからも逃げ出してしまう。男たちに逃げられた芦川がやっとのことで辿り着いた海辺の実家はもぬけの殻で、母や兄弟はみな逃げ出したあとであった。「逃げ出すこと」と「逃げられる事」が、「善悪」ではなく、「出来事」として描かれている。ここには間違っても「心理的ほんとうらしさ」などという偽善的なものは露呈していない。

アイ・ジョージが病院でギターを弾く超長回しのシークエンスについて。
照明が少しずつ落ちながら、キャメラは合計二回、「ドア」を取り込んだ構図へと回り込む。最近の作家にはこれを忘れた者も数多く存在するが、映画によって「ドア」が後天的に構図に取り込まれた時、そこには決まって「人が出入りする」というのが映画史の視点としての鉄則である。この長回しの最中にも二度、人が入っては出て行くを繰り返す。新たな人物の出入りによってその都度、部屋の空気が変化する。だが、そしてこうした「場の変化」というものに貢献している最大のものこそ、芦川いずみの「白痴性」なのであって、頭の弱い女としての芦川いずみは、泣いていたかと思えば急に立ち直り、笑ったかと思えば急に笑い止むといったように、その表情を怖ろしいまでに変化させ続けている。それに促されるように人買いのアイ・ジョージが自らの過去を告白するという行動へと駆り立てられ、映画は一気に転換する。
持続した時間空間において、「変化する」という恐怖をただひたすら「変化する恐怖」として、人物とキャメラと照明とが一体となって露呈させている。心の変化がそのまま外部に露呈する、人間的にも物語的にも、怖ろしいまでの反社会的な「美」のすべてが、この「密室のシークエンス」に集約されている。

だからこそ、この映画は「受け容れ難きもの」として私の偽善の何かを捉えた「直視したくない」映画なのである。
空手バカ一代(1977東映) 75 85 監督山口和彦、撮影中島芳男、脚本掛札昌裕、俳優千葉真一、夏樹陽子、本郷功次郎、室田日出男

殴る、落ちる、飛ぶ、笑う、雨が降る、何をやっても「映画」になってしまう力がある。もちろんその「映画の力」とは、全体を支配するソフトなカラー映像と照明の力を抜きにしては考えられない「力」でもある。
ラストの「鏡の間」、あのあっけらかんとした模倣性には心底打ちのめされたが、それが果たして「ブルース・リー」に対するオマージュなのか、はたまたオーソン・ウェルズに対するそれなのか、それを思考することには何の意味もないだろうと確信させてしまう作品的連続性が、「プログラムピクチャー」という「ほんとうらしさを消し去る特権」によって露呈している。
せかいのおわり(2004日) 85 90 監督風間志織、撮影石井勲

序盤、店に「心が寒い、、」とかいうヘンな客がやって来たシーンの処理を見て、才能あり、と感じたが、ここで風間志織は空間を渋川の空間から長塚の空間へと転換し、応対に出た渋川清彦と客との会話は「オフの声」として、声だけを聞かせるという演出へと転換させている。ただでさえ滑稽な二人の会話が、オフの空間から「声だけ」として聞こえて来ることによって滑稽さが助長される。こういうのをして「映画的ギャグ」というのである。「音」と「空間」との関係に対する感覚が非常に優れている。

キャメラが引かれた瞬間の「引きの空間」の美しさが抜群な映画でもある。簡単に言って、視点と構図が優れている。

光に対する感覚。
例えばフィルムの「感光」という行為について言うならば、中盤、中村麻美が夜、田辺誠のマンションで、カーテンにくるまって泣いているシークエンスでの、画面左上の窓の外の「ほのぼのレイク」のネオンの光と、画面右端の窓の外の二つの光を光源として見事に感光させた光の技だとか、空間美として言うならば、スコップ片手に巡査から逃げ出した後の、画面左に等間隔に立ち並ぶライトによる夜の並木道の逆光の空間の素晴しさなど、枚挙に暇がない。
ガード下の轟音、水のしたたる音、おなら、そして不法投棄のソファーに座った中村麻美が一人取り残されたあとの、「静寂」を、かすかな音によって実現した音への感覚などもまた素晴しい。

ひたすら「出来事」を丹念に描くことで、映画を「過去」から「現在」へと引き戻す力を内包している。

最後の落とし穴へと向かう前の横移動の気配などは、実に素晴しいのだし、ただそれはそれとして、素晴しいのである。
2007.8.2更新
エドTV(1999米) 65 80 監督ロン・ハワード、
この映画の設定としては、「ドキュメンタリー番組」を「フィクション映画」で撮るのだから、「見られていることを知っている視線」という、ドキュメンタリー特有の要素を、いかにして「フィクション」の中に取り入れるのか、ここが腕の見せ所であり「リアリズム」の分かれ道となる。ドキュメンタリー映画の被写体は、撮られている事を知っているのだから、良くも悪くも「演じてしまう」ものであり、その「演じてしまう被写体」というものを、いかに繊細に画面に露呈させるかに映画の勝負はかかっているわけである。

ところがこの映画の中の人々たちは、時として撮られていることを忘れてしまう。例えば最初、マヒュー・マコノヒーとジェナ・エルフマンがキスをするシーンでは、終ったあと、二人はハッとキャメラに気付くという設定がとられている。すると「主題」自体も弱くなってしまわないか。この映画の最大の面白味は「テレビ」であり、「キャメラの威力」である。我々は、テレビキャメラに狙われた時、決してキャメラの存在を「忘れることができない」、これがキャメラの威力であり、そこからして、「演じること」を幼児期から叩き込まれたアメリカ社会の大きな特徴が導き出されもする。この「見られている」という感覚。これがこの映画のメディア論的な主題ではないだろうか。ところが、時として人物たちは話の筋を進めることの便宜から、「見られていること」を忘れてしまう。さきほどのキスのシーンの場合、仮に「見られていることを知っている二人によるキス」だとすると、そのキスが「演じられたキス」となり→「うそのキス」に近くなってしまう。だが、物語上、二人は本当に愛し合っていることにしておきたい。だからここでは「見られていることを知らない二人」でなければまずい。、、、こういう思考の流れである。すると「キャメラの力は強くない」ということになってしまわぬだろうか。だとしたら、「エドtv」という映画を撮る必要はないのである。
この映画を面白くするためには、「演じること」という「うそ」を、「まこと」へと発展させるようなマクガフィンを配置する以外にないのである。
決して悪くない映画だが、今一つ弱いと感じたのは、そのようなところからだろうか。
おかる勘平(1952東宝) 100 85 監督マキノ雅弘、撮影山崎一雄、俳優榎本健一、越路吹雪、岸井明、森健二、龍崎一郎、岡田茉莉子

エノケン一座のオペレッタの舞台裏をドキュメンタリー映画のように撮ったフィクション映画である。
このドキュメンタリー的な人々のしゃべり方であるとか、物語の本当らしさからの逸脱であるとか、声の調子であるとか、それらがフィクション的な照明やオペレッタによって押し戻されたとき、映画は「神秘」になる。

舞台へ出ている時、踊り子たちの給金が楽屋で盗まれてしまう。「財布を盗まれた女ほど美しいものは無い」と言ったのはハワード・ホークスであったが、まさに若い踊り子たちは、給料を盗まれてみながしおらしく泣くのである。
可哀想に、と座長のエノケンが借金をして、彼女たちの給金を肩代わりする。すると次の日、エノケンの楽屋に花が一輪活けてあるのである、、、踊り子たちは、もうエノケンさんに感謝感激で仕方が無い。だが相手は大スター、彼女たちは、エノケンの楽屋がある二階への階段の、踊り場あたりまで登って来て、エノケンの楽屋を見上げてキャッキャッはしゃいでいる。この「階段」の醸し出す距離感と、その距離を越えることなく、しかし若い娘らしいはつらつとした体現でもってスターに感謝する踊り子たちとの、場所的感覚が見事だ。

話は一つ前に戻って、エノケンの出したお金を森健二が、踊り子たちの楽屋へと持って行くシーンがまた素晴しい。森健二が札束を畳の上に置いて「どうする?、貰っちゃう?」、、と聞くと、踊り子たちは答えない。ハンカチで顔を覆っているだけで答えないのだ。重ねて森が聞く「どうしよっか?、、」、、そこで間が空き、森健二が「もらっちゃおうか、、ねっ、、もらっちゃおうよ、、」というと、踊り子たちが無言で「泣き出す」のである。「映画を撮るべき人」というのは、こういうことに対する感受性を画面に定着させることのできる人であるべきだとつくづく実感させられる。踊り子たちは薄給でお金がない(もちろんそれを言葉で説明などしない)。お金がないから「もらえません」とは言えない。かと言って「下さい」とも言うことが出来ない。この葛藤を、マキノ雅弘は、上のようにして描いた。天才である。ちなみにこのシーンのキャメラはひたすら俯瞰から引いて撮っている。

エノケンが飲み屋の二階で岸井明に喜劇論を展開するシーンがある。このシーンは最初は幾つかにカットを割られて撮られていたのだが、エノケンが「喜劇は淋しい人間が淋しい客を笑わせるものだ」と言い始めたあたりからキャメラは動かなくなる。エノケンが次第に熱くなり、もう到底フィクションとは言えないような空間が画面に露呈し始め、「淋しいから、笑わせるんだよ!」と、繰り返される時間を、マキノは長回しで提示した。カッティングインアクションで時間を分析しながら映画を撮るマキノが、ここに限ってカットを割らない。
すると次のシーンで、階下に、酔いつぶれ見事な千鳥足で越路吹雪が入って来る。越路に森健二が聞く「笑っているの?」越路吹雪「泣いているんだい」森健二「悲しいのかい?」越路「嬉しいンだい!」、、、この瞬間、階上、階下でこの映画は見事な「喜劇」となる。淋しいから人を笑わせ、笑いながら泣き、泣きながら笑う、まさに悲喜劇の、視覚的聴覚的露呈が、階上階下の弁証法によって見事に達成されるのだ。この映画は神懸かり的に凄い。
すっ飛び駕(1952大映京都) 85 85 監督マキノ雅弘、撮影宮川一夫、脚本伊藤大輔、俳優大河内伝次郎
所謂河内山宗俊ものであって、その醸し出す厭世観は、山中貞雄顔負けの暗さを露呈させている。当時の映画というものは、こうした「底知れぬ暗さ」というものを画面に定着させることの出来る特権的な空気を漂わせている。キャメラは宮川一夫。機会があれば、是非ご覧頂きたい。
カッティング・イン・アクションの見事なリズムは、我々の「カットに対する覚醒」を麻痺させると同時に、マキノが「職人監督」であることをも秘密裏に露呈させておきながら、人物配置と見事な視点の転換は、マキノが間違っても「職人監督」ではないことを断言している。
伊豆の踊子(1933松竹蒲田) 70 70 監督五所平之助、俳優田中絹代、大日方傅
映画としては、それほどのものでもないのだが、例えば橋の上で再会し、橋の下の丸太に腰掛けて、ふと川の流れを異方向の視線でみつめたりすると、それだけで「映画」になってしまうといった、所謂「映画術」というものを、この時期の人々は先天的に心得ている。
松竹蒲田の役者さんたちは、画面の中で大変和気藹々と仲が良くて、高松栄子など、楽屋の雰囲気そのままといった感じなのであるが、この「打ち解けかた」というものが、よい方へ出る時と、悪い方へ出る時と。この映画の場合、やや「打ち解けすぎている」感じが無きにしも非ず。
大阪物語(1957)大映 50 60 監督吉村公三郎、撮影杉山公平、照明岡本健一、脚本依田義賢、原作溝口健二、美術水谷浩、音楽伊福部昭
溝口死後、溝口の書いた原作を基にして作られた作品である。
スタッフを見ての通り、音楽の伊福部昭を除いてすべてが「溝口組」と言って良いメンバーでありながら、映画は5分でダメだと判る。確かに冒頭のいきなりの、第一ショットで映画を停滞させているクローズアップは「俺は溝口はやらない」という吉村の気概として判らないでもないし、長回しの代わりに切り返しやカッティングインアクションが多用されているからと言って、「溝口ではない!」とダダを捏ねるつもりもまたない。だが、この映画を見ると、いかに「ミゾグチ」とは「監督」であったかが良く判る。「監督がなぜ監督かというと、シナリオを含めてすべてを監督しているからなんです(溝口健二集成235)。こう溝口は豪語している。依田義賢の脚本は、「人間」よりも「すじ」によってぶつ切りに分断され、溝口が生きていたとしたら到底依田は生きては帰れないだろうし、杉山の画面は、冒頭の小屋のシーンで既に判るように、コントラストを欠き「黒」がシャープに出ていない。役者の演技は弛緩し、特に人物配置において凡庸である。一言で言うと、「人間」というものが、芯から描かれていないのである。
稲妻(1952東宝) 100 100 監督成瀬巳喜男、撮影蜂重義、照明安藤真之介、音楽斎藤一郎、俳優高峰秀子、香川京子、根上淳、小沢栄太郎、浦辺粂子、杉丘毬子、村田知英子
成瀬巳喜男というと、どうしても視線に目が行ってしまう。視線というよりも「視点」の「視線」であろうか。
例えば高峰秀子と根上淳とが出会う三度のシーンの「視線」と「視点」の問題である。一度目は、裏庭に現れた根上が家の中の高峰と見つめあうシーン。まず根上が、滝花を見ていた瞳を左に動かし高峰を確認する。これを私は「オフオフ」と名付けている瞳の動きで、これにかけては成瀬巳喜男は世界一と断言出来るのであるが、画面に映っているのは根上の顔であり、よって滝花も高峰もフレームの外「オフ)にいる。よって根上の左への瞳の動きは、オフ空間の滝花から同じくオフ空間の高峰へと移された事になる。よって「オフオフ」となる訳だが、この滝花から高峰へのオフからオフへの瞳の動きだけで、根上と高峰の「出会い(運命の)」が一発で描かれているのである。
二度目の出会いを見てみよう。今度は買い物帰りの路地で高峰がしゃがんでいる。そこへ根上が接近し、切り返しによって見つめあうシーンである。「上下」とは何か、と言えば、「上」と「下」なのだから、「ことさら」上を見上げ、「ことさら」下を向かなければ視線は「見つめあう」ことができない。これが「上下」の一つの意味であり、同時に「上と下」とでは「空気」が違う。
「乱れる」はまさにその「視線」の「視点」が最骨頂に高揚した傑作である。汽車の中で、遠くの座席に座った加山雄三と高峰秀子が、ひたから見つめ合ったシーンを覚えているだろう。二人はひたすら見つめ合った。高峰が見つめると、必ず加山の「視線」が呼応し、跳ね返って来た。ラスト、高峰秀子は走る。彼女が求めて走ったものは、果たして「加山」という存在なのか、それとも「視線」なのか。それまでは、向けると必ず帰って来たあの「視線」を求めて、女は「走った」のではないだろうか。それが「映画的メロドラマ」というものではないだろうか。
2007.7.10更新
プラトーン(1986米) 80 90 監督オリバー・ストーン撮影ロバート・リチャードソン

2、3回目の鑑賞

戦場における、この見事な照明による光空間が、戦争の「美しさ」を露呈させ、「戦争は怖ろしい」などという単純な二元論への逃避の道を我々から奪い去ってしまっている。
その男、凶暴につき(1989日) 90 95 監督北野武、撮影佐々木原保志、照明高屋齋

二度目の鑑賞

人が「歩く」という運動、その遠景から近景までをゆっくりと人が歩き続ける姿を、ここまで平然と、ためらいもなく、撮り続ける事の出来る映画はそうあるものではない。多くの作り手たちは、こうした描写をすることに対して不安を抱かずにはいられないものだ。何故ならば、彼らにとっては「物語を売る事」が重要視されるのだが、「歩くこと」とは彼らにとっては「物語」でもなければ「運動」ですらなく、ただ「無駄なこと」でしかないからである。そうして「物語」に侵された作家たちの多くは、人間のさり気ない仕草や事物、視線の中に隠された視覚的細部に対して鈍感である。

既にこの時点で、北野映画は「物語」に対する「運動」の優位を見事に実現している。北野が「映画に愛されている」監督である所以を、視覚的に露呈している。トイレでチンピラをひたすら殴り続けること、冷たく少年を殴ること、これ等がある種の「快感」として露呈する瞬間を、真正面から描き続ける北野映画の「バイオレンス」という「運動」は、少なくとも「映画」という観点からするならば、カント的ヒューマニズムにおける「悪」としてではなく、ホッブス的暴力としての、人間に(「映画」)本質的に内在する闇の部分の、倫理的、乃至は人間的的解放とでも言うべきものだろう。すべての映画は「暴力」なくして有り得ない。それをオブラートに包んだ映画を「倫理的」というか、露呈させた映画を「倫理的」というか、それはそれを受け取る人々の倫理観とも微妙に結びついているだろう。

序盤、刑事の北野が、浮浪者を暴行した少年の家へ向かう、あの夜の白い家を捉えた俯瞰気味のロングショットの構図だけで、この映画は既に「勝ち組」へと流れている。
動くことただそれだけで、人物の描写がされている。

カッティングのタイミングが何か「小津的」で、パッ、パッと繋がれてゆく。編集について、色々と揉めたそうだが、その割には、見事に決まっている。

この佐々木原保志というキャメラマンは、竹中直人の「無能の人」でもそうだったと記憶するが、夜の照明、特に路地における配光、感光の見事さが際立っている。
トラック野郎・爆走一番星(1975東映) 75 80 監督鈴木則文、俳優菅原文太、愛川欽也、あべ静江、加茂さくら、田中邦衛、なべおさみ 2007.6.3

「一発スローモーション」というのが効いている。

さて、鈴木監督の特徴としては、①「隊列」を組むのが好き②人物の周囲をキャメラが「めまい」のラブシーンのように回転移動するのが好き③看板が好き、等数々あるのだが、その中でも④ナメもの、というものが大きな特徴を為していて「女番長ブルース・牝蜂の逆襲」では池と渡辺の空き地の和解シーンでのひまわりが、「ドカベン」での噴水の水が、「パンツの穴」では遊園地のひまわりや、肥料撒きの花が、そして「まむしの兄弟・恐喝三億円」では、松方とセックスした翌朝、朝食のテーブルにつく堀越の手前の花ど、ここ、という美しいシーンで、手前の事物のピントをボカして「なめる」ことで、底知れぬ抒情めいたものを醸し出している。

この「爆走一番星」もまた例外ではない。なべおさみが警察に連行される時、彼を追いかけて来た加茂さくらの手前には、まるで額縁に飾られたようにして、数々の花が、ピントをボカされながら手前に「ナメられて」いたのである。以前鈴木監督は、「僕は、マドンナよりも、準主役の女優さんを綺麗に撮りたくなる」という趣旨のことを、金沢に来訪された折でのインタビューで答えられていたが、ここで「物語的な」マドンナはあべ静江であり、加茂さくらは、準主役に過ぎない。だが、「視覚的に」見た時には、どう見ても加茂さくらの方が、「優遇されている」と言わざるを得ないのである。こうした、「物語」と「視覚」との、ある種の「ズレ」というものは、D・W・グリフィスに始まり、ジョン・フォード、ハワード・ホークス、小津安二郎等超一流の作家たちに共通する「良質の物語からの映画的逸脱」に他ならない。
黒沢清が、「勝手にしやがれシリーズ」で、準主役どころか、殆ど「物語的」にはいなくても良いような洞口依子を、「無意味に」かつ「特権的に」振り向かせ続けたのもまた、「物語」と「視覚」とのある種のズレを求める作家の習性であるだろう。何故そのような「無意味な」ことをしたがるのか。それはまさに、映画というメディアを追い求めている人々が、映画の「視覚的物語」が「不可視の物語」に侵されることへの先天的拒絶、本能的反抗なのだと私は思っている。
2007.6.12更新
ハワイの夜(1952日) 90 95 監督松原宗恵・マキノ雅弘、撮影三村明、照明藤林甲、俳優鶴田浩二、岸恵子、三橋達也、小杉勇、2007.5.27

映画の不思議。
共同監督作で、マキノが撮ったのは室内のセット撮影のみらしいが(映画渡世地の巻335以下)、松原宗恵の撮ったハワイのロケーションも凄い。鶴田と岸がダンスを踊って、それを見事なトラッキングの長回しで撮って(室内シーンだから、撮ったのはマキノだろうか?、だがマキノはこのような長回しを撮るだろうか、、)、長回しの最後、二人は見事にも逆光のシルエットの中に消えて、突如岸恵子が家を飛び出し海へと走り出すと、鶴田が追って、夜のハワイの海岸での(ロケーションゆえ、松原が撮った?)、素晴しいシーンとあいなって、それまでは拙い台詞回しと「ハワイ」という慣れない土地での仕事に完全に弛緩していたフィルムが、突如静まり、一気に人々がしゃべることを止め、ひたすら運動へと身を任せた時、光線もまた信じられないような光線へと変化し、フィルムは二度と弛緩することなく、ラストへと驀進している。畸形的傑作である。

浜辺や木陰での岸恵子のクローズアップなど、はっきり言って「最良のジョン・フォード」にも劣らない物凄い亀裂のクローズアップの連続で、海中で戯れる二人をやや俯瞰気味から抑えて捉えたショットの、キラキラと水面が夕陽に輝く信じられない瞬間は、「リーフェンシュタール」よりも美しい。

「このシーンはロケーションゆえ撮ったのはマキノではないなのか、、松原宗恵という人は、こんなショットを撮れる人なのか、、」訳が判らず、すがり付くような気持ちでキャメラマンを調べ、「三村明」という名前を確認した時、もちろんこの「三村明」とは「ただの三村明」ではなく「人情紙風船の三村明」であったはずだと記憶が私に叫び始め、混乱して照明も調べると、これが「西鶴一代女の藤林甲」であったりするわけである。もうこうなると、この映画はいったい「誰が撮った」などとは言えなくなるシロモノで、当時は、鶴田浩二と岸恵子とは、実生活でも大恋愛の最中であった(日本映画俳優全史・男優編101、或いは同女優編132)こともまた、あの二人の怖ろしいまでのクローズアップへとなって現れているに違いない。

それにしても、「日本」と「アメリカ」で二極を作り、岸恵子を「日系二世」に設定することで、「二極」のあいだを揺れ動かせて発展させる、この見事にあっけらかんとした構成は、どこかの島国の「右」か「左」しか描けない「思想人」たちに対して、ひたすら「映画人」としての圧倒的優位に立っている。
暗いところで待ち合わせ(2006日) 60 80 監督、脚本天願大介、撮影古谷巧、照明今野健、俳優田中麗奈、チャン・ボーリン、井川遥、佐藤浩市 2007.5.26

冒頭の駅のホームと窓、その高低差から距離感への繋がりは「孤独な場所で」のように素晴しく、風に揺れるカーテンが映画の始まりを盛り上げている。物語の構造自体、どうやっても映画になる、というくらい素晴しい。照明、フィルムの肌触り共に良好である。

だがこれを「ミステリー」にしてしまうとは、、、。

セリフが少なく、静かで視覚的に見えはするものの、到る所で「損得勘定」を合わせた説明画面へと流れている。特に「回想」が、映画の現在性から来る運動感を、「説明」という「損得勘定」で相殺している。この映画を冷静に体験した時、多くの「回想」はどう見ても不要なのだ。

現在の運動だけで、十分に「ミステリー」であるも拘わらず、、何故に「ミステリー映画」なるジャンルは、わざわざ「ミステリーの理由」を「説明」してしまって「ミステリー」ではなくしてしまわなければ「ミステリーではない」と言い張るのだろうか。「ミステリー」映画とは、見終わった後、ちっとも「ミステリー」ではない感覚を味わいながら映画館を出る映画なのである。

ヒッチコックは違う。ヒッチコックにとって「ミステリー」なるのもは、「サスペンス」へと転化させる原因(マクガフィン)程度のものであって、決して「説明」されるべきものではない。ところがあらゆる監督、脚本家たちが、「ミステリー映画」をして論理的な辻褄合わせという、言語的要素へと集約してしまうため、運動が阻害され、凡庸へと陥るという無残な転落の歴史を繰り返している。「ミステリー」とは決して「損得勘定を合わせる」ことではないのである。

現代の日本人は、「損得勘定」の合わないものを受け容れることが出来ない。これは先日の論文でも書いたが、その時点で我々は「芸術(才能)」を放棄しているのであり、従って多くの「年間のベストテン」は、凡庸な映画から順番に選ばれる傾向にある。

「白」「階段による高低差」「ホームと窓との高低差」「音(オルゴール)」「点字」という、「ミステリー」にするには格好の視覚的聴覚的細部が周囲に満ち溢れていながら、今一つ、使い切れていない。

「盲人」という「見られていることを知らない人」がいる。これが如何に映画的運動の要素になるかはこれまで散々書いてきた。その「見られていることを知らない人」を「見る人」がいる。この二人の視線の関係性の描き方が弱くはないだろうか。田中が父の点字のカードを触る。それを男が見る。田中が暴れ買い物袋をぶちまける。それを男が「見る」。この「見ること」の描写が視覚的に、或いは構造的に弱いのである。

「悪人」の描き方が余りにも露骨で、最近の映画にありがちな、「他者の悪性」のみに敏感で、「自己の悪性」にはひたすら無神経、という単純な二元論が発展を阻害している。同時に「感傷病」の傾向あり。

ニコラス・レイの「孤独な場所で」は、二人の出会いの「高低的距離感」、二つの屋敷の「距離感」が視覚的に貫徹されている。だが、この映画は、二人の出会いの「高低的距離感」が、「見ること」と「見られること」との関係において今一つ主題的に貫徹されていないように思える。

だが、以上はあくまで私の理想。映画自体は決して悪くはなく、お勧めできる作品に仕上がっている。
孤独な場所で(1950サンタナプロ) 90 85 監督ニコラス・レイ撮影バーネット・ガフィ俳優ハンフリー・ボガード、グロリア・グレアム 2007.5.12

二度目の鑑賞

出会いのシーンは、持続した時間空間の終盤に「溝口健二的に」訪れる。
窓際へと場所を変えたボギーの向かいのアパートのドア付近に、女が現れる。この二人は、距離と高低差を携えながら、タテの構図で同一の画面内に配置される。ここでグロリア・グレアムは遠景に留められ、決して彼女のクローズアップは入らない。映画とは、ただこうした「視点の維持」だけで、「ミステリー」になるのだ(ミステリー論については「暗いところで待ち合わせ」へと続く)。

「99%の凡人」はここで女の近景を撮る。「1%のニコラス・レイ」はそれを撮らない。「物語的制約」が断固として存在するハリウッドの中において、ヌーベルバーグがアルフレッド・ヒッチコック、ハワード・ホークスを支持したのは、もちろん「物語の素晴しさ」ではなく「物語的制約からの一瞬の逸脱」の才能と豊かさに他ならない。

「99%のフラガール」が、「1%の百年恋歌」よりも優れているとする現代批評の一般的傾向は、映画批評におけるコペルニクス的転換を実践している。

二つのアパートを徹底して行き来するボギーとグレアム、この「行き来」というものの醸し出す「「距離感」というものこそが、「LOFT ロフト」で二つの屋敷を徹底して行き来した中谷美紀と、豊川悦史との「距離感」へと何かしらつながるのだろうか。
2007.5.28更新
街の野獣(1950米・英) 85 95 監督ジュールス・ダッシン撮影マックス・グリーン俳優リチャード・ウィドマーク、ジーン・ティアニー、グーギー・ウィザース2007.5.6

天井が大きく取り込まれていて、広角で畸形し、深度が深く、従ってフィルムがザラザラになり、ハイコントラストの暗黒の世界になる。
そうして作られたこの映画の「畸形的縦の構図」による意図的パンフォーカスの数々は、ヌーベルバーグやアンドレ・バザン以前のこの時代に、既に「オーソン・ウェルズ」という作家の存在が、大きな波となり、他の作家のフィルムに「畸形的構図と天井」を運んでいたのだという事実の証明となる。

レンズの選択から絞りから、深度から、フィルムの粒子から、照明から、何から何までが「暗黒の世界」へと突き進んでいる。「パンフォーカス」とは「暗黒」であり、「暗黒」とは「深度」であったというフィルムの神話の世界が、紛れもなく映画史において存在したのである。

ロンドンの街の、壁のレンガの一枚一枚に、夜光の反射との美的関係において入念に手が施されている。どのレンガに光を反射させてフィルムを感光させるかを、計算して装置を作っている。いやはや、美術とキャメラマンとの素晴しい共同関係の露呈、それだけでも「物語」として楽しめるではないか。
秘めたる情事(1958米) 85 90 監督脚本フィリップ・ダン撮影ジョー・マクドナルド音楽リー・ハーライン俳優ゲーリー・クーパー、スージン・パッカー、ジェラメディン・フィッツジェラルド2007.5.5

ライティングは素晴しいとしても、カッティング自体古典的な職人芸に過ぎないこの映画が、何故これほど泣けるのか良く判らない。

話の筋としては、街の名士(クーパー)が、奥さんに政治家になれと言われて立候補して、スキャンダルをもみ消すために娘をチンピラと無理矢理別れさせて、だがそれで娘を大きく傷つけてしまって、それをおとっつぁんは一生悔やんで、、、、この「悔やんで」というのが、何か物語を根底から引っ張っていて、それがおとっつぁんの行動の裏側に見え隠れしていて、折角掴んだ自分の幸せを許さない。それが所謂「逆方向の葛藤」どでも言うのか、物語を清清しく引き上げているような感じがするのだ。

このフィリップ・ダンという人はもとは脚本家で「わが谷は緑なりき」「幽霊と未亡人」などの傑作を書いている。ちなみに「幽霊と未亡人」はゴダールのお気に入りらしい。

ゲーリー・クーパーが余りにも「映画」であり過ぎて、あの声、あの子供のような声にひたすら吸い込まれてゆく。そして最後、あの「ルビー」をして全てを語り占める「ワンクッション」の心がひたすら美しいのだ。
「エロ事師たち」より 人類学入門(1966日) 50 75 監督今村昌平、撮影姫田真佐久、俳優小沢昭一、坂本スミ子

精神に異常を来たした坂本スミ子が、病院の窓格子越しに身を乗り出し、そのままシーンは、荒野の中で、牢の中へ取り残された坂本スミ子からキャメラが遠ざかってゆくというイメージシーンがある。

このシークエンスは、私流に言うなら、フィルムが「外」へ掛かっている。換言するなら、フィルムの難易度よりも、物語の難易度に寄り掛かっている。
「外側」のメッセージ色が強過ぎて、(それは多くの黒澤明作品と同じように)、「内」が「外」に負けてしまう瞬間の問題なのだ。

エイゼンシュタインも、当然ながら「外側」のメッセージ色の極めて強い作家である。だがエイゼンシュテインの凄さは、あれだけの強い外側のメッセージ性を帯びていながら、「内側」が「外側」に敗北するということが決して無かった才にある。これは実は怖ろしく凄いことなのだ。

今村昌平は、嫌いな作家という訳ではないし、この映画にしても、攻撃の対象になるような不誠実な映画という訳ではないだろう。だがともすれば彼の映画が「外っかわ」へと流れる傾向があることだけは、我々は感じながら、彼のフィルムと戯れるべきではないだろうか。
悲しき天使(2006日本) 75 75 監督大森一樹、撮影林淳一郎、俳優高岡早紀、岸辺一徳、筒井道隆、山本未來、河合美智子、2007.5.1

冒頭、車の中で監視をしていた岸辺と高岡が、通過する容疑者をやり過ごすためにキスを偽装するシーンがあるのだが、思わずこれは、「オレンジロード急行」で、パトカーをやり過ごすためにキスをして偽装した嵐寛寿郎と岡田嘉子のあの美しい逃亡者のシーンを想起せざるを得ないのだ。あの二人にキスをさせるには、まさにあれしかない。するとこの「悲しき天使」の二人にとっても、冒頭のキスが、何かしらのものとして見えてしまったりもするのである。

古き良きハリウッドフィルム・ノワール系映画の細部に、「カップルと検問」というものがある。追われている男と女がパトカーなり白バイに止められるシーンを我々は何度体験しただろう。大抵そこで主人公たちは、キスを偽装したり、「結婚式へ向かうところ」とか言って誤魔化したりするのである。するとパトカーが先導してくれたりなどする。この「悲しき天使」の冒頭のキスの偽装もまた、古く辿ればこうしたハリウッド映画の記憶から来るものであり、そこからして大森一樹という作家の性向も伺い知ることができるだろう。
ちなみにマイケル・マン「コラテラル」の検問では、男(トム・クルーズ)と男(ジェイミー・フォックス)ゆえキスで誤魔化すというわけにも行かず、ではマイケル・マンはどうしたかと言えば、警官に、より大きな事件が無線で舞い込み、難を逃れる、という、まぁ何ともあっけらかんとした処理によって検問をやり過ごしている。もう少しすれば、男同士がキスをしてやり過ごす時代になるだろう。ひょっとすると、既にそうしたシーンは誰かによって撮られているかも知れない。
この「検問」という細部は、それだけで大きな断片的サスペンスを醸し出すことが出来る細部なので、これからも作家たちは上手に使って、我々をハラハラさせて欲しい。
面白いところとしては、「風と共に去りぬ」での「クラーク・ゲーブルの浮気の偽装」での憲兵のやり過ごしは痛快だったし、確かドイツ占領時代を描いたオータン・ララの「パリ横断」では、フランス人の憲兵に職務質問されたジャン・ギャバンがドイツ語で答えてやり過ごすという、極めてペーソスに満ちた切り抜け方法で唸らせてくれたことを想い出す。

レインコートとは、「孤独と女性の貧弱の映画的しるし」であると、エドガール・モランは書いているが(「スター」48)、終始トレンチコートに身を包む、この薄化粧かつショートヘアの高岡早紀の「心の寒さ」というものが、作品の中で美しく視覚的に露呈している。「バタアシ金魚」のバカみたいな娘とは天と地の差である。

銃と女と、そして何よりもあのわざとらしい湯けむりがいい、、

終盤、「振り向くしかない」というタイミングと構図でもって、山本未來が、映画史の記憶を一身に背負いながら、美しく見事に振り向くと、そこで河合美智子が、これまた、「これしかない」という見事なタイミングでもって、「ごめんなさい!」と謝るのである、、、ここには驚いた、、、
これを見せてくれただけで、やや冗長な台詞や回想もすべて帳消しに出来てしまう。
この瞬間、この映画の「あらすじ」が大いなる寓意へと弾けてゆく。守ってくれた人と守ってもらった人がいて、守ってもらった人は、守ってくれた人を守るためにひたすら運動を繰り返す。そしてその両者の関係を、監視モニターを通じて「見ること」で驚き、何かを受け止める男と女がいる。、、、極めて現代的寓意に満ち溢れた素晴しい物語構造であることがそれとなく感じられる。

この「守ってくれた人」を、この映画の具体的な「松下那美」という女性ではなく、仮に「特攻隊員」でも何でもよい、我々を守ってくれた人、守ろうとして散って行った何か、とでも置き換えて、もう一度この映画見てみると、あの河合美智子の、やや大袈裟とも受け取れる「ごめんなさい!」という謝罪が、決して大袈裟ではない何かとして感じられて来る。この映画は、「何かを守るために散って行った人」に対するレクイエムなのだ。

それに対して我々は眼を背けず「監視」という「見ること」を通じて、眼に焼き付けて向き合ってゆく、、、、どうもこれは、またまた「どこかで見た構造だ」、、と言わざるを得ないのだ。何ともはや、お分かりのように、それは「デジャヴ」であり、「叫」とも「硫黄島からの手紙」とも「善き人のためのソナタ」とも一致する。矢張り今は、忘れ去られて散ったものを「見ること」を通じて向き合ってゆかなければ成らない時代なのだろうか。
そこで「監視」という「見ること」のテーマを作家たちはこぞって使っている。従ってこの映画は、「張込み」のリメイクとしての時代的正当性を見事に獲得している。

問題は、その「見られる対象(外側。例えばテロルや戦争、ガン、エイズ、特攻隊その他もろもろの社会問題)」をそのまま露骨に描く人と、ワンクッション入れて内側から寓意として視覚的に描く人との映画的才能の差である。
そうした時に、この「監視」という露骨な表現からさらにもうワンクッションおいて、「見られる対象」を、「幽霊」として語らしめた黒沢清の素晴しさに対して我々は何と言う言葉を贈るべきだろう。

大森は、映画の「内側」に徹しながら、見事な寓意で「外側」へと弾けている。聖書だの性器だの民族だのと、「外側」を露骨に描いて歓心を買っておきながら、「内側」の描写がまったくなっていない作品が批評家諸氏に賞賛されるこの社会の中で、大森の、ひたすら「映画の内」を「無知性」の内に提示する、その誠実な映画愛に、私はただ打たれるのみだ。

作家よ、世の批評家たちに、「知性が無い、」と言われる映画を撮ろう。すると大抵その映画は、良い映画なのである。
2007.5.7更新
人情紙風船(1937東宝) 100 100 監督山中貞雄、撮影三村明、俳優中村翫右衛門、河原崎長十郎、山岸しづえ
4回目の鑑賞 2007.4.15

論点が多岐に渉り過ぎるので、一点に絞ってみたい。
例えば河原崎の持っていた父の「手紙」が、ふと地面に落下する。或いは霧立のぼるの髪飾りが振り向き様に落下し、それを中村が踏み付ける。こうして人間の所有物が、所有者から「分離した」瞬間を、山中貞雄は生々しいクローズアップで捉えている

ラストは、河原崎、山岸夫婦の手元から「分離した紙風船」が、雨上がりのどぶ川をゆっくりと流れてゆく。
さらに、この紙風船を流した小川の「水」がまた面白い。
この「水」は、数日間断続的に降り続いた「雨」の残り水なのである。冒頭から間断的に降り続け、河原崎の体を打ち、中村の傘を打ち、祭りの恋人たちを閉じ込めた「雨」。そうして人間たちを打ち続けた「雨」が、最後に流れ流れてどぶ川へと流れ着いたものなのだ。
するとこのどぶ川の「水」もまた、実のところ、映画の中で生き抜いた人々に触れ、その情念に触れた水滴が、川まで流れ着いた「分離物」ということに成りかねないのである。
ラストの風船のシーンは、「人間から分離した紙風船」が、「人間から分離した水滴」によって流されている。

山中貞雄は、多くの「オフ空間」を使っている。質屋のくぐり戸の向こう川の会話、襖の向こう側の声、人形のクローズアップの外から聞こえる男女の声、さらには、会話の切り返しにおいても、多くの場合「ズリ下げ」という編集方法を用いて、声を「画面の外」に設定している。これ等は簡単に言えば、声の「分離」である。声を実体の描写から分離させ、声だけを聞かせている。
このような、視覚的、聴覚的「分離」の手法については以前、D・W・グリフィスに関する論文で、さらに山中貞雄「河内山宋俊」の批評でも書いたのだが、ここで山中貞雄は、例えば、折りたたんだショールを赤ん坊に見たてて揺らしてあやすような、グリフィス的感傷に支配された「分離」ではなく、ただ、ひたすら「分離」されたものを、ただ「分離されたもの」として、そのまま映し出している。小津安二郎は空間を人間から「分離」し、山中貞雄は小道具と音を人間から「分離」している。

こうしたある種の、一見冷たいまでの、心理を廃したリアリストとしての描写力が、「中ヌキ」などと並んで、山中貞雄の映画をして、出来事性へと解き放つ何かとなっているのかも知れない。
新学期操行ゼロ(1933仏) 100 100 映画批評「新学期操行ゼロ」2007.3.14
監督ジャン・ヴィゴ、撮影ボリス・カウフマン、音楽モーリス・ジョーベール
三度目の鑑賞。
見事に「断片」の集積で貫かれている。論理の鎖から解き放たれ、それぞれのシークエンスが生き生きと躍動している。クローズアップにしても、繋ぎの感覚など微塵もない。ぞくっとするような視点とタイミングで入って来る。
物語を語らないことで物語を語りしめる。この映画は、今年封切のあらゆる映画よりも新しい。
昨日は、パンフォーカスを確認するためエイゼンシュテインの「メキシコ万歳」を少しだけ再見し、思わず「この画面が1932年か、」と唸ってしまったのだが、それは何も「1932年にしては新しい」だの、「昔の映画にしては生々しい」だのと言った、映画を現在と過去に差別するような意味ではなく、単純に、当時の大多数の物語映画の画面と比較した時に、ただひたすら「画面が生きている」という感覚に圧倒される点に尽きている。エイゼンシュテインの画面もまた「断片性」を獲得し、ひたすら生きているのだ。

この「新学期操行ゼロ」は、最初から最後まで、ヴィゴが描きたいと思い描いたイメージの断片が羅列されているに過ぎない。映画的運動における、可視的に豊かな断片と言うものは、決して古びることはない。

ヒトラーが政権を握った1933年に製作されたこの「新学期操行ゼロ」は、子供たちの明るい笑顔とは裏腹に、怖ろしいまでの「暗さ」に支配されている。冒頭の汽車の中や、夜の教室の気配など只事ではなく、それはあの枕投げのスローモーションを含めて、人々の挙動そのものが、まるで「ゲームの規則」のように、或いは「人情紙風船」のように、終わりの運命へと静かに打ち進んでいるのである。
後にアメリカへ渡り、エリア・カザンなどの作品手がけることになるキャメラマンで、ジガ・ヴェルトフの弟であるという、信じられない血筋を有するボリス・カウフマンという人の、モノクロ映像の配光の見事さと、それによって醸し出される暗く明るい空間の生の息吹は、教室を俯瞰気味に捉えた艶の或る空間や、最小の光で最大を映し出す光の選択などを見れば一目瞭然だが、課外授業の帰り道の夜の、雨と、雨に濡れるアスファルトの素晴しさは、「12人の怒れる男」のラストシーンを美しく予告している。
憂鬱な楽園(1996台、日) 90 90 映画批評「憂鬱な楽園」2007.3.11
監督ホウ・シャオシエン、撮影リー・ピンピン、チェン・ホァイエン
映画が始まってからしばらくして、時間の感覚を失い始めた私は、この映画が今すぐにでも終わるのではないかという、恐怖にも似た感覚に襲われ始める。
リー・ピンピン、チェン・ホァイエンによる、この見事なフィルムの肌触りと、ホウ・シャオシエンの才能の提示するサスペンス空間に身を委ねた結果の必然としての、時間感覚喪失は、ただひたすら心地良い体験ではあるものの、だがこの「映画が終わって欲しくはない」という恐れにも似た感覚は、決して、起承転結の論理に支配された「A級映画」では味わえない、切羽詰った「B的」映画体験のみが与えてくれる時間快感である。

それにしても、ガオ・ジエの食うめしを、恨めしそうでもなく、かと言って、無心という訳でもなく、見つめ続けるあの「犬」の、自然な演技がとてつもなく素晴しい。あの犬は、ひょっとして「素人さん」なのか、、、
私は、その余りの不思議さに大爆笑してしまったのだが、この「犬の演技」は、例えば「ナイルの娘」で、宝くじを当てた祖父が、孫たちに小遣いをやる時のあの何ともいえない顔のように、そしてこの「憂鬱な楽園」では、バイクの進行につれ、生き生きと変化して行く若者たちの顔のように、とにかくこれは、ホウ・シャオシエンの魔法に違いないのだ。
或いは「中ヌキ」か、、、、、
2007.4.19更新
自由への闘い(1944米) 100 90 映画批評「自由への闘い」
監督ジャン・ルノワール脚本ダドリー・ニコルズ俳優チャールズ・ロートン、モーリン・オハラ
ジャン・ルノワールという人の心の豊かさ、広さと、いうものがあらゆる美となって画面に露呈している。この作品が、ルノワールが敬愛したチャップリン「独裁者」(1940)への、ある種の返答だと思われるは、終盤のチャールズ・ロートンの「演説」などに見て取れるのだが、何よりの美しさは、映画の冒頭で、あらゆるアングルから、「無名兵士の碑」を撮り続けたジャン・ルノワールの世界観に隠されている。「無名兵士への惜しみない賞賛」は、先日クリント・イーストウッドが「父親たちの星条旗」において見事にフィルムに定着させてくれたが、スターシステムの真っ只中にある「ハリウッド」において、「無名性」を描くことの困難さと美しさに立ち向かった作家がジョン・フォードであり、ジャン・ルノワールであったという事実を我々は忘れてはならないだろう。
だがそうした「無名性」が今、より具体的には「9.11以降」の我々にとって、大きな主題となっているのもまた事実だ。
クリント・イーストウッドは「父親たちの星条旗」において、黒沢清は「叫」において、トニー・スコットは「デジャヴ」において、「無名性」の中へと葬り去られた人間たちに対して、「向かい合うこと」、或いは彼らを「見ること」を要求している。もちろんその根底には「リバティバランスを撃った男」を始めとするジョン・フォードの「無名性」への賞賛を忘れてはならないだろう。
「芸術」というものは、「気付かなかった美」を我々に提示することの驚きがその素晴しさの一つだとするならば、「無名性の中に埋没した人々を露呈させる」という「無名性賞賛」ともいうべきこうした一連の現代型テーマは、あらゆる芸術の中においても、「見ること」で体験を綴ってゆく映画という視覚的メディアと極めて接近してはいまいか。そして何より感動的である。「デジャヴ」でトニー・スコットは何故「わざわざ」「モニター」なるものを我々の正面に据えたのだろうか。

この「自由への闘い」は、「階段」、「屋根」という造作の生々しさにおいて、そして、ここという時に「持続する」時間空間において、明らかにフランス時代のジャン・ルノワールのリアリストとしての大いなる側面を内包しながら、だがそれでいながら、ジャン・ルノワールが最後まで愛した「アメリカ」へと融合している。
紗を掛けたモーリン・オハラの「ハリウッド的クローズアップ」はひたすら美しい。
教室があり、悪ガキたちがいて、焚書の話が飛び交うこの作品は、露骨にも「フランソワ・トリュフォー」を予告しながら、だが「ヌーベルバーグの父」としての足跡などというものでは到底収まりきらない、とてつもなく大きな人格に包まれた紙一重の傑作である。
刺青(1966大映) 75 90 映画批評「刺青」
監督・増村保造撮影・宮川一夫、美術・西岡善信、照明・中岡源権、俳優・若尾文子、長谷川明男、山本学、須賀不二男、内田朝雄、木村玄

夜、須賀不二男が刺されるシーンの照明を見てみると、薄暗い部屋の襖が少し開けられ、外を流れる小川の表面に反射した月光が絶妙の光源となってフレームの空間を照らし出し、フィルムの感光を助けている。小川の照り返しが「照明」の代わりを為しているのである。今の映画には、このような光の発想など、技術的にも、精神的にも、求めるべくもない。「絶対に無理」だと断言できる。無理なものは無理。こうした「光」に対する思考回路自体を、現代映画は決定的に失っている。悔しかったらやって頂きたい。などと挑発したところで「絶対に無理」。
雨に濡れた屋根瓦の輝きの感じなども、素晴しいとしか言いようがない。
さて、だがしかし、肝心のセミヌードのシーンになると、若尾文子ではなく「吹き替え」となる。例えば同時代なら、ルイス・ブニュエルの「昼顔」(1967)などと対比すると、カトリーヌ・ドヌーブはセミヌードをすべて自分で演じていることからして、こうした数々の吹き替えの部分は決定的に映画の生々しさを減じている。
今になって、この「刺青」の時代の日本映画のヌードが吹き替えであると非難するのも、時代錯誤と言うか、ナンセンスのような気もするが、だがしかし、ここでは敢えて書いておきたい。
コード:アンノウン(20002フランス・ドイツ、ルーマニア) 50 70 映画批評「コード:アンノウン」2007.3.6
監督ミヒャエル・ハネケ俳優ジュリエット・ビノシュ

相変わらず、と言うのか。
一見散文的に、出来事的に、断片的に見えるものの、実はすべて計算され尽くされている。
画面の中には不可視の「意味なき意味」が大きく支配しており、機械であるところのキャメラが捉える瞬間の発見性において凡庸である。
画面の感じは悪くはないし、力もあるのだが、結局この人は、映画の可能性を余り信じていないのだろう。
「ピアニスト」のトイレのラブシーンにしても、「隠された記憶」の終わり方にしても、この映画の政治的スナップ写真にしても、アフレコのシーンにしても、映画の外側に寄りかかったショットを撮るような所が多々あって、この人は映画というメディアの内側ではなく、「政治」とか「社会問題」とか「物語上の驚き」という「外の力」を「直接」借りて映画を撮る人なのである。
例えば電車の中でビノシュが嫌がらせを受けるシーンがある。まさに迫真の演技というのか、見ていて思わず興奮せざるを得ないシーンである。
人間は、このシーンを支持する人種と支持しない人種とに2分されるだろう。私は支持しない人種である。将棋には「一目で、、」という言葉があるが、私にすればこのシーンは、「一目でダメ」なのだ。
おそらくその理由を探し出すとするならば、まず第一に「倫理」という言葉がスラスラと出て来るだろうし、それに加えて「限界」、「フィクション」、という言葉も付加えられるだろう。「やり過ぎている」という言葉でも良い。実のところ、あれは「迫真の演技」でもなければ「難しいショット」でも何でもない。あれは簡単なショットなのだ。簡単に「リアル感」なる、有りもしないものをでっち上げる小手先の技術に過ぎないのである。
色情めす市場(1974日活ロマンポルノ) 90 80 映画批評「色情めす市場」2007.3.4
監督田中登、撮影・安藤庄平・俳優芹明香、花柳幻舟

二極間が美しく揺れ動いている。絵画的光と自然的光とが、ドキュメンタリー性とフィクション性の戯れの中で使い分けられていて、そこにモノクロフィルムとカラーフィルムが対峙され、映画全体が、出来事性を羅列したような散文と、構成された韻文との、二極の間を彷徨い続けている。一部ハレーションや、露出アンダー気味ともとれる照明を、「失敗」の一言で片付けさせないだけの、大阪女の生の力が画面を支配している。
「廊下」の撮り方一つで、映画は大抵勝負を決してしまうものだ。
最初から最後まで同じワンピースで大阪の町を歩き続ける芹明香は、ワンピースをまくっては男たちを癒しながら、事が終わるとそのままワンピースを元に戻して大阪の街の中へ、通天閣へと融合を反復してゆく。この女の「歩く姿」はただそれだけで「露呈」しているのだ。
2007.4.12更新
黄昏(1981米) 70 70 映画批評「黄昏」
監督マーク・ライデル俳優キャサリン・ヘップバーン、ヘンリー・フォンダ、ジェーン・フォンダ
ジェーン・フォンダが画面の中に入って来た途端、何と言うか、それまで「ハリウッド」であった映画が、突如「ニューヨーク本社」へ行ってしまったような、そんな感じを禁じえないのである。
「透明な眼差し」とは対極にある所の、あのメソード流の「意味があり、いかにも、さもの表情」というものが、映画そのものを根底から破壊している。少なくともこの映画のジェーン・フォンダの顔は、まったくもって「映画」と整合していない。それが他の二人の「スター」によって、残酷にも露呈してしまっているのである。ヘンリー・フォンダを見れば判るように、顔に「意味」なるものを持たせなくとも映画は「映画」になるものを、ジェーン・フォンダただ一人だけが、「演技」という強迫観念から抜け出せていない。彼女が「演技」をする度に、映画は「映画のもの」から「役者のもの」へと奪い去られてゆく。
私は以前から「演技派」のキャサリン・ヘップバーンが余り好きではなかったが、こうしてジェーン・フォンダと並んでみると、つくづくキャサリン・ヘップバーンは「ハリウッドのスター」であることが、視覚的に痛感される。顔に意味を持たせなくては生きて行けない人、それは「スター」ではないのである。詳しくは論文「心理的ほんとうらしさと映画史」参。
それにしても、キャサリン・ヘップバーンが湖に飛び込んだだけで「映画」になってしまうのだから、映画は不思議だ。
叫びとささやき(1972スウェーデン) 50 85 映画批評「叫びとささやき」2007.3.30
監督イングマール・ベルイマン撮影スヴェン・ニクヴィスト
多分こうだろうと長年敬遠し、鑑賞を自粛し続けてきたのだが、思い切って見てみると、やっぱりこうだった。
クローズアップ、演技、ズーム、サイズ、そうしたものを見た時に、この映画は基本的に「心理主義」に基づいた作品であって、演劇には整合しても、映画というメディアには悉く反撥している。ニクヴィストの仕事は素晴しいが、ベルイマンの「構図と視点」、そして役者の心理的演技と叫び声が映画を停滞させている。
ヨーロッパ一九五一年(1952イタリア) 100 90 映画批評「ヨーロッパ一九五一年」2007.3.29
監督ロベルト・ロッセリーニ俳優イングリット・バーグマン、ジュリエッタ・マッシーナ
ゴダールは、「戦争が終わったあと人々は物語の語り方を発見する」と語っているが、この「ヨーロッパ一九五一年」も当然ながら「戦後」の映画である。
ここでバーグマンは、戦後イタリアの人々の貧しさを徹底的に見て、愕然とし、瞳を傷つけ、泣き、そして向き合ってゆく。ロッセリーニは、バーグマンの主観の長回しなどで病院の狂人たちその他イタリアの貧しい人々たちを「見ること」を露骨に要求している。
この映画の物語構造はまったくもって「硫黄島からの手紙」と同じである。そしてトニー・スコット「デジャヴ」と整合し、黒沢清「叫」と共通している。どの映画もが「見て」そして「向き合うこと」が視覚的に描かれている。そしてどの映画もが、それが第二次大戦であれ、テロルであれ、一つの大きな出来事を境に「~前」と「~後」に分け隔てられ、「~前」を消化できていない「~後」の世界の映画であるように見えるのである。
「前」と「後」とが分離し、一つになれない。「~前」は「~後」に忘れ去られ、見てももらえず、無視され、取り残されて来た。そんな中で、作家たちは、「~前」を「見ること」を要求し、「前」と「後」とに関係性を持たせ、第三の何かへと発展させようとしているように視覚的には受け取られる。「~前(過去)」を「見ること」の方法としてトニー・スコットは「監視とモニター」を、黒沢清は「幽霊」を、それぞれ方便として利用しているに過ぎないのだ。
詳しくは「デジャヴ」の映画批評コーナーで考えてみたい。
それにしてもイングリッド・バーグマンという人は、狂人にされてみたり、酔っ払いにされてみたり、あの2メートル前方あたりの何もない空間を彷徨う視線が、彼女をして狂わせてみたくなる要因なのかも知れない。
時折入る、明らかに「つなぎ」の感覚を拒絶したバーグマンの美しいクローズアップが「映画」を感じさせている。
アントニオーニがいて、フェリーニがいて、トリュフォーがいる。母のバーグマンの声が、ひたすら子供の耳には「オフの声」として聞こえてくる孤独感は、「大人は判ってくれない」での「オフの声での夫婦喧嘩」へと確かに受け継がれたことだろう。
この作品は、イタリアの批評家には「ネオ・リアリズムの退化」として否定されたのであるが、そもそも映画は「ネオ・リアリズム」でなければならない法はないし、それ以前にこの映画は見事な「ネオ・リアリズム」ではないか。詳しくは「イタリア映画を読む」264参
牧師と未亡人(1920スウェーデン) 100 90 映画批評「牧師の未亡人」2007.3.28
監督カール・ドライヤー
若者たちは、目の前にあるものの価値が判らない。そんな彼らは、口やかましい老婆が邪魔でならない。
逆に老婆は死を目前に悟り、自分の手で動物たちの体を何度も撫でたあと、家の中に入る前、もう一度振り向いて「大自然」に別れを告げる。こうして彼女は目の前にあるもののさり気ない美に別れを告げながら、静かに去ってゆく。価値を知っている老人と知らない若者たちが丹念に視覚的に対比されて描かれている。若者たちは老婆を失い、その価値に気付き、愕然とし、そこで初めて何かと向き合い、成長してゆく。老人から若者へ。この主題が、「牧師と未亡人」という物語を仮の姿として、見事に、視覚的に描かれている。
この物語構造、「デジャヴ」(2006)「叫」(2006)と同じではないだろうか。詳細は上、「ヨーロッパ一九五一年」の短評に続く。
2007.4.1更新
ロック・ハンターはそれを我慢できるか(1957米) 70 70 映画批評「ロック・ハンターはそれを我慢できるか」
監督フランク・タシュリン撮影ジョージ・マクドナルド俳優トニー・ランドール、ジェーン・マンスフィールド、ジョーン・ブロンデル
ハリウッドがその崩壊をひた隠しに隠し続けた1950年代、「スター」最後の10年間でもあるこの1950年代後半には、最早スターの「胸」や「唇」すら消費の対象に過ぎないことを、タシュリンは何やら悲しげに描いてはいまいか。コメディでありながら、この映画は何か非常に「暗い」のだ。
素晴しい哉人生(1924米) 100 90 映画批評「素晴らしい哉人生」2007.3.21
監督D・W・グリフィス撮影ヘンドリック・サートフ俳優キャロル・デンプスター、ニール・ハミルトン
いきなりニール・ハミルトンの「帰還」からグリフィス的に始まるこの美しき家族の映画は、「美」の存在を我々に気付かせてくれる「デジャブ」(2006)的映画でもある。
祖母がデンプスターの結婚に反対する。
「あなたにはお金もないし、家もない。結婚は無理よ」。
するとデンプスターは「私には毛布もあるし、椅子もある」と、毛布と椅子を大切そうに「撫でる」のである。
ニール・ハミルトンが、キャロル・デンプスターに、自分の作った小さな家を見せる。それを見たデンプスターは丸太の椅子にすがりつくように泣き崩れる。キャメラは二人に近付かず、倫理的な距離感でもって、二人の後方から、この美しいシーンを遠くから見つめている。
飢えがあって、しかし働いて、久方ぶりに家族みんなでご馳走を食べる。すると食後、彼らは踊り出すのである!、まるで「ジョン・フォード」のように!、晩年落ちぶれたグリフィスが死んだ時、死体安置所まで来た者は、セシル・B・デミル、メェ・マーシュ、そしてジョン・フォードである。
芋を盗まれ、うなだれ座り込む夫、それを妻は、まるで「近松物語」で落ち葉の上に座り込んだ、おさんと茂兵衛のように、地面に座り込み、すがりつき、励まし、そして二人で月を見る。「ISN'T LIFE WONDERFUL?
土があり、労働があり、人生がある。何処をどう見ても、いかなる瞬間もが「映画」である。
ブルーベルベット(1986米) 50 60 映画批評「ブルーベルベット」
監督デヴィッド・リンチ撮影フレデリック・エルムズ俳優カイル・マクラクラン、イザベラ=ロッセリーニ、デニス・ホッパー、ローラ・ダーン
デヴィッド・リンチは「難解な映画」というものを信じているのだろうか。
「ブロークン・フラワーズ」のフレデリック・エルムズの光とはにわかに信じられないような、照明とクローズアップの関係のまずさであるとか、古典的な切り返しであるとか、引く、寄る、の単調なカッティングであるとかからして、少なくともこの作品は「難解」でも「不条理」でもないところの何かではあるだろう。
夜よ、こんにちは(2003イタリア) 90 90 映画批評「夜よ、こんにちは」2007.3.18
監督マルコ・ベロッキオ撮影パスクァーレ・マリ
体験してもいない物語を「真実だ、真実だ」と吹聴したがる映画作家が多い中で、映画というフィクションとの戯れに進んで身を任せることのできる倫理の才こそ、ベロッキオの「視点」を可能にさせるところの豊かさなのかも知れない。
パスクァーレ・マリの素晴らしい光にも大いなる賞賛を送るべきだろう。まるで人間の魂を取り出したような光と影の戯れによって「現実」と「虚像」、「ドキュメンタリー」と「フィクション」とを映画的に衝突させ、主題的拡がりに貢献している。
そして何よりもこの映画には、美しい「黒」が出ている。コダックのフィルム(?)の肌触りが、食べてしまいたいほど美しいのだ。
「解放」シーンの、あの早朝の肌寒い空気の中を歩く男の、あの「歩きっぷり」は、まさに「解放感」を顔に貼って歩いているような見事な歩行である。
天使のはらわた・名美(1979日活ロマンポルノ) 55 55 映画批評「天使のはらわた・名美」2007.3.8
監督田中登、撮影森勝、俳優鹿沼えり、古尾屋雅人、地井武男
照明は今一つ。鹿沼えりはひたすら「濡れる女」を演じている。
ちなみにこの「台車移動」とでも言うのか、歩いていると設定されている人物が、台車に乗って進んで来るという手法は黒沢清も「叫」でやっていて、コッポラも「ドラキュラ」でやっていたように記憶するし、遡るとジャン・エプスタンの「アッシャー家の末裔」(1928)くらいまで行くのではないかと思うのだが、この「足がない」という浮遊感覚が不気味と美しい。仮に私が映画を撮る時には、借金取りを台車すべりで接近させてみたい。
2007.3.25更新
帽子箱を持った少女(1927ソ連) 100 85 映画批評「帽子箱を持った少女」
監督ボリス・バルネット俳優アンナ・ステン
紛れもない傑作であるだろう。
「脚」と言うより「足」の映画であって、男の大きな足が女の目の前に下りてきて、その「大きな足」で、ロシアの大地を踏み固める。「飢え」があって笑いがある。
まず小道具の使い方が、軽喜劇と言うか、チャップリン的と言うのか、例えばアンナ・ステン、この人は後にサミュエル・ゴールドウィンにスカウトされてハリウッドへ行ってちょっと失敗する娘さんなのだが、このアンナ・ステンの持っている「帽子箱」、この「帽子箱」自体はもちろんD・W・グリフィスの記憶の中にあるものだろうし、そう言えばこの映画には余りにも大くの「椅子」が使われていたりもするのでもあるが、さて、映画の題名にも使われた、アンナ・ステンが持っているこの「帽子箱」は、踏んづけられたり、宝くじをその中に入れられたり、重ねて積まれて崩れて落っことされたり、叩かれたり引っ掻かれたり、さらには、まるで「或る夜の出来事」(1934)でクラーク・ゲーブルとクローデット・コルベールを隔てたジェリコの壁のように、同室の男と女を隔てるものとして使われてみたりするだけで、決して「帽子箱」としては使われず、また男の持っている、紐でくくった本の束にしても、椅子や枕、果ては筋トレのダンベル代わりというように、「束」として使われることはあっとしても、決して読まれることに使われることはない。
アンナ・ステンの郊外の家の存在にしても、明らかにモスクワと郊外の家との間を走り抜けたいという運動的欲求から存在するに過ぎないのであって、こうした、小道具的、場所的な「効率化」というものは、極めて映画的で豊かな引き直しである。
老人が突き飛ばされて転ぶシーンは二度ともロングショットで処理されていて、ロングショットを喜劇的に使うセンスが抜群に冴えている。
「悲劇とはクローズアップでとらえられた人生であり、喜劇とはロングショットでとらえられた人生である」チャールズ・チャップリン、、、
インディ・ジョーンズ 最後の聖戦(1989) 75 70

映画批評「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」
監督スティーヴン・スピルバーグ撮影ダグラス・スローカム俳優ハリソン・フォード、ショーン・コネリー
45回目の鑑賞
「黒」は出ていないし、照明も今一つもさぁ~としていてピッチリ行っておらず、女が今一つ、だが、ちゃんと「活劇」になっている。この映画の脚本の書き方は、古典的ハリウッドの楽しみ精神に満ち溢れている。
映画序盤から、爆笑するくらいの「ヒッチコック・ホークス主義」で貫かれていて、「そこまでやるのかあなたは!」と、ニコニコして抗議しながら、いよいよオマージュは、「ヒッチコック・ホークス主義」の権化、フランソワ・トリュフォーへと向かい(焚書(「華氏451)、その余りの成金趣味にどうしたことかホロッとしてしまい、何十年振りかの久々の鑑賞に心地良い華を添える。
我々映画バカは何故か「フランソワ・トリュフォー」には免疫がないという弱点をスピルバーグはちゃんと心得ている。
例えばショーン・コネリーが「ココッ」っと傘で海鳥を羽ばたかせ、それがコックピットのフロントガラスに突き当たって割れたシーンなどはどう見てもハワード・ホークス「コンドル」しているし、序盤の少年時代の回想で、馬で逃げる少年を「ジープとトラックで捕獲しようと追いかける」シーンなどは、誰が何と言おうと「ハタリ!」であると断言できる。
女が男を椅子に縛ってキスをするシーンは「遊星よりの物体X」以外の何物であるわけもなく、その他はすべてが「アルフレッド・ヒッチコック」している!、、こんなことでいいのか?、イエース!、これが「ヒッチコック・ホークス主義」なのだ!、と、興奮したフリをして終わりにしたい。

映画女優(1987) 30 30

映画批評「映画女優」
監督・脚本市川崑・脚本新藤兼人・俳優吉永小百合、菅原文太、
映画のレベルとしては、商品になるかならないかのギリギリの線であって、既に第一ショットから照明を大失敗していて、しかもそれが最後まで「持続する」という、何とも憂鬱な映画である。
脚本も「説明ぜりふ」で終始していて、こうした方向性に安易さを禁じえない。「映画」から遠ざかることしかこの映画にはない。
脚本の新藤兼人は相変わらず、溝口健二を尊敬しているのか軽蔑しているのかサッパリ判らず、ゴシップ好きは人それぞれだが、溝口健二は超一流の大作家なのだから、もう少し「敬意」というものを払ってもよろしいのではないか。この映画が作られたのが例えば1930年代、というならまだしも、1987年に、「これをやってしまう」神経がまったく理解できない。
反対に黒澤明や木下恵介といった監督の扱いに対しては不相応なまでの敬意が払われていて、それを含めて、何と言うのか、もはや、これまで。
 吉永小百合だけが、健気に映画に取り組んでいる。


拳銃貸します
(1942パラマウント)
80 80

映画批評「拳銃貸します」 
監督フランク・タトル、撮影ジョン・F・サイツ俳優ヴェロニカ・レイク、ロバート・プレストン、アラン・ラッド、レアード・クリーガー
いきなり天井を大きく取り込んだローアングルで開始されるこの作品は、撮られた時代が「
1940年」以降であることを、視覚的斬新さとノワール的憂鬱さの中で如実に指し示してくれる。
「市民ケーン」(1940)に代表されるオーソン・ウェルズの「天井」とは、私にとっては畸形の憂鬱以外の何物でもなく、今、その「天井」を受け継いでいるのがブライアン・デ・パルマであるという事実もまた少しだけ憂鬱なのであるが、仮にフィルム・ノワールの歴史が1941年「マルタの鷹」から1958年「黒い罠」までの期間であるとするならば、この「拳銃貸します」の「天井」は、極めて先見性に満たされた憂鬱の記憶なのかも知れない。今後の研究課題。
アラン・ラッドの着ているトレンチ・コートとネコへの愛着が、寒々とした孤独感としてものの見事なノワールへと突き刺さっている。
それにしても、ヴェロニカ・レイクの「出のショット」(初めて出て来た時のショット)の、あの「手袋の手」の、手招きの構図というか、ファム・ファタルのノワールへのご招待というのか、ハリウッド全盛映画の凄さの一つは、紛れもなくこの「出のショット」にあるのだと、改めて痛感する。

2007.3.22更新
レイクサイド・マーダーケース(2004フジテレビ) 60 65 映画批評「レイクサイド・マーダーケース」2007.3.2
監督・脚本青山真治・撮影たまらまさき俳優役所広司、薬師丸ひろ子、柄本明
この映画はどうやら「ぼくは薬師丸ひろ子を守りたい」という映画らしい。明らかに薬師丸ひろ子一人が、光線の上でも、視点の上でも変質的に優遇されている。
そして何よりこの「レイクサイド・マーダーケース」は、上質のコメディでもあるだろう。あの「金八コンビ」が出て来た時点で既に青山真治は「笑って下さい」と我々に語りかけているようだし、豊川悦史が「貴方は私立出身ですね、お辞儀の仕方で判ります」と言った次のショットで場面は転換し、いびきをかいた役所広司の寝姿が出て来るあたりは、「この人は、私立ではありません」とモンタージュされているようで、おそらくここで劇場は大爆笑だったと想像するが、「アカルイミライ」と言い、この「レイクサイド・マーダーケース」と言い、暗いプロットの中で差し込まれる笑いとの衝突が、映画を発展させていて心地良い。
しかしクローズアップの入り方といい、柄本明等の説明調の台詞といい、やや「テレビ的」なサービスの多い映画だなと、思ったりもする。
やや映画のチカラが「外」へかかってはいまいか。もちろん、それが青山真治の特権だとしても。
アカルイミライ(2002日) 90 80 映画批評・黒沢清「アカルイミライ」デジタルハイビジョン撮影
監督、脚本、編集黒沢清・撮影柴主高秀・俳優オダギリジョー、浅野忠信、藤竜也、笹野高史、2007.3.1
二度目の鑑賞
テロル、というものを描いておきながら、結局のところ、大いなる寓意の物語として笑えて泣ける豊かさがある。視覚的にも、画面そのものの正体を把握されることを拒否しているような感じがある。
テロリストから託された、光を放つ物体が、増殖しながら、川を流れて海へと向かう物語。あのクラゲが、健気にも「光を放つ」という根性が極めて映画的だし、藤竜也はリサイクル店経営の「修理をする人」であるという寓意も、藤竜也とオダギリジョーとの視覚的関係性を豊かにしている。それにしても藤竜也は素晴らしい。
笹野高史が殺された時「やっぱり、、」と、笑えてしまうのは、あの「卓球鑑賞」が終わった時点での笹野高史の顔が、「私は殺されます」という「命運尽きた顔」をしており、その顔の視覚的記憶が、殺人現場の画面の上に痛切にかぶさって来た時に、悪いとは思っていながらも思わず笑ってしまう、これが豊かさであり、これが喜劇なのだと笑うしかないのである。
この映画は黒沢清自身が語るように、リチャード・フライシャーの「絞殺魔」を意識した画面分割が為されているが、それ以上に全体を指導する、引きずり込まれるような「白」の世界が、「絞殺魔」の「白い壁」と呼応している。
手持ちを多用していて、今回の「叫(さけび)」でも、予告編を見た限り、随分と派手に手持ちを利用しているようだったが、私はいつかゴダールが、派手に手持ちを揺らすのでは、などと予想していた矢先の出来事であったゆえに、その関係性に驚いている。いや、驚いたフリをしている。
レイダース/失われたアーク《聖櫃》(1981米) 70 60 映画批評「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」2007.2.28
監督スティーヴン・スピルバーグ撮影ダグラス・スローカム脚本ローレンス・ガスダン原作ジョージ・ルーカス、フィリップ・カウフマン俳優ハリソン・フォード、カレン・アレン、
3、4回目の鑑賞
この頃はスティーヴン・スピルバーグも、結構ヒッチコック的に分析して撮っていて、カット率も高く、なおかつちょっと下手くそである。画面は明る過ぎ、黒が出ておらず、また、明らかに照明が上手くいっていない。もさ~っとしている。
群衆がいて、ハワード・ホークスよりもかなりハデに群集が人々を取り囲んで、西部劇のように落ちて殴って上下を使って、光が強くて、従って「目を閉じる」。「目隠し」がなければ「目を閉じて」光を防御する、それが「太陽の帝国」のラストにおいても示されたところの、スティーヴン・スピルバーグの目と光の関係なのかも知れない。
最近の作品に比べると、やや「矩形の映画」という感じだ。
エターナル・サンシャイン(2004) 20 50 映画批評「エターナル・サンシャイン」
カメラを小刻みに揺らすカメラマンも大変だと思うが、この映画の特質は、「逸らす」ことであって、「画面」は存在しないか、限りなく「添え物」的要素へと格下げされ、映画の性質上、「画面」は隠し易く設定されている。
「画面を隠す」ことを論理的に正当化できてしまうプロットから映画は作られていることがどうやら問題なのであって、出発点から既に「非映画的」なのである。
2007.3.8更新
恋人たちの予感(1989) 50 60 監督ロブ・ライナー撮影バリー・ソネンフェルド俳優ビリー・クリスタル、メグ・ライアン
画面の構成は極めて凡庸だが、そして官僚的ですらあり、言語的で、クローズアップは映画を停滞させ、気の利いた画面が殆どない。だがメグ・ライアンは可愛くて、カメラマンはバリー・ソネンフェルドである。そういう映画だ。
コンドル(1939コロンビア) 100 90 映画批評「コンドル」
監督製作ハワード・ホークス撮影ジョセフ・ウォーカー脚本ジュールス・ファースマン音楽ディミトリ・ティオムキン俳優ケーリー・グラント、ジーン・アーサー、リタ・ヘイワース、リチャード・バーセルメス、トーマス・ミッチェル
三度目の鑑賞
「ハワード・ホークスの最高傑作は何か?」、、このような愚問は発したこともなければ聞かれたこともないし、聞くべきでもなければ答えるべきでもなく、例え私が答えないことで世界大戦争が引き起こされようとそのような愚問に答える積もりは毛頭ない。だが仮に、ナイフを突きつけられて「答えろ」と脅かされたなら、「コンドルです、」、と私は答えるだろう。そう、この「コンドル」である。
「ジーン・アーサー」が「ドアノブ」になり、「愛している。行かないでくれ」が「コイン」になる。フランソワ・トリュフォーフォーが決して「愛している」という台詞を自分の映画の中に入れなかったのも、彼の「ホークス主義」から来る「スリー・クッション」の精神からかも知れない。
ジュールス・ファースマンとハワード・ホークスによって練りに練られた脚本は、動機付けによる強い因果に支配されていながら、映画がちっとも「ほんとうらしさ」による言語的な停滞を生じていないのは、殆どの「プロット」が、ひたすら「アクションとスリークッション」によって語られていることに起因するのかも知れない。
無関心さの醸し出す最大級のエモーションが倫理と視点と美しく戯れている。
「ハワード・ホークスが面白くない」、というのは「病気」なのだから、それを「病気」と自覚して、素直に画面とのマンツーマン・リハビリテーションを楽しもう。
バタフライ・エフェクト
(2004米)
50 60 映画批評「バタフライ・エフェクト」
画面の外は難解だが、画面の内は気が利かない、こういう映画が良く受ける。
こういう作品を見た人々は「映画」を忘れ、「哲学」について語り始めてしまうものだ。だが何一つ「映画」を解決してはくれていない。
楽しめないことは決してない。だが、この映画で感じた「驚き」とは何か。いかなる種類の「驚き」なのか。ここを考えない限り、映画が地位を獲得することはないだろう。
それにしても、ここまで露骨に「ドラマ」でしか有り得ない根底には、「ドラマ」にしか感動できない危険な幼児性が漂っている。
恋におちたシェイクスピア(1998米)
50 65 映画批評「恋におちたシェイクスピア」
監督ジョン・マッデン俳優クウィネス・パルトロー、ジョセフ・ファインズ、ベン・アフレック
無意味な近景と凡庸な構図、切り返しで構成されている。一見美しそうだが、明らかに才能を欠いている。終盤、パルトローが舞台に登場するシーンの処理など余りにも下手糞で悲しくなる。
全体の趣旨として、被写界深度、カット率、フレームサイズ、視点などをもう二段階ほど変化させると「ロード・オブ・ザ・リング」と同じになる。
■追記 2024.7.23 しばらくあとに「ペイド・バック」(2010)を見てその素晴らしさにもう一度ジョン・マッデンを見直したのだがこの映画は悪くない。才能を欠いているのはお前(藤村隆史)だと言いたくなる。私が映画を「見ること」が出来るようになったのが2007年1月、そのぎりぎりに見た作品である。
人間の約束(1986日) 85 85 映画批評「人間の約束」
監督吉田喜重俳優三國連太郎、佐藤オリ江、河原崎長一郎、若山富三郎、村瀬幸子、田島令子、高橋長英
こうした映画が批評家に高く評価されたのは、老人問題とか、介護とか、安楽死、尊属殺、村瀬幸子のヌードだとか、そういった「映画の外」の事実であって、決して「病院」という殺風景な空間の廊下を、素晴らしい配光で撮ったなどという事実は含まれてはいないだろう。殺風景な病院の廊下を、これだけ見事な配光で撮った映画を久し振りに見た。
それ以前の切れ込むような構図の吉田喜重映画とは、明らかに一線を画した静かで激しい映画である。人はここまで変われるものか。
中でも私が興味をひかれたのは視覚的、聴覚的部分である。
「風」という一つの主題において、聴覚的に貫かれた「嵐が丘」、その「風の音」。その「風」を映画的の中で聴覚的に表すには、風そのものの「音」を聞かせるしかない。
しかしそれは「強風」に限られる。そよ風の音は聞こえない。そこで「ワンクッション」置くことになる。風鈴、鈴、といった小道具の鳴らす「音」への転換である。この「人間の約束」の、この静かな世界の中では、風鈴の音、鈴の音が、殊更強調されている。これ等の音は、「鈴の音」ではなく、「風の音」である。
では「風」を視覚的に描くにはどうしたら良いか。この「人間の約束」では、障子に影となって映っている表の木の枝が、ひたすら「揺れる」ことで表現されているだろうし、お遍路のロングショットでひたすら繰り返される霧の舞によっても表されているだろう。また墓を掘り起こした三國の背後で大きく揺れる木々でもあるだろう。
こうした「風」における、視覚的、聴覚的強調は、「風」を「音」で聞かせる聴覚的ワンクッション、「風」を「揺れ」なり「舞い」で見せる視覚的ワンクッションによって貫かれている。確かに鈴や揺れを使った映画は多々存在する。だが、ここまで繊細に、且つ主題論的な香りを携えながら、「風」を描く映画はそうあるものではない。
何故ここまで、吉田喜重は「風」というものに拘るのだろう。
ラフカディオ・ハーンは「この空気そのものの中にいる何か」と言った。それは、森羅万象に神が、魂が宿っている、という、多分に日本的、神道的感覚であるのだが、この「人間の約束」には、「風」の他にも、「土」(三國が墓を掘り起こすシーン)、水(村瀬が鏡として使う金だらい、小川、雨、霧)、といったものが美しく現れている。
「鏡の女たち」は、ひたすら人々が「横に並ぶ」映画なのだが、そこでは子供に戻った田中好子が遊ぶシーンが、障子越しの「影のみ」によって表されている。ここでも子供の姿は、「影」として「ワンクッション」置かれている。
「風」が他の物なり音なりに「ワンクッション」置かれて表現し直される。人間の実体が「影」としてワンクッション置かれて描写される。これ等は、「別のやり方」であり、「別のやり方」である以上、それは言葉の正しい意味は別として、ある意味での「化身」である。「風」や「人」が、そして「神」が、他の物体なり現象なりに「乗り移って」いる。この「乗り移っている」という事実それ自体が、ここから先は主観だが、極めて神道的な神秘を感じさせてはいないだろうか。「鈴」の微妙な音色は、「風」が動き、生きていること=魂を伝えて来る。だからこそ逆に、「壊れた共同体」の主題が浮き上がっても来る。
「人間の約束」における、「直接的描写部分」によって現れるのは老人問題、安楽死、尊属殺と言った厳しい主題であるかも知れない。だが、視覚的、聴覚的に「ワンクッション」置かれた美しい部分には、どのような主題が隠されているのだろう。こから先は多分に主観的な憶測となるので繰り返しては書くことを差し控えよう。だが、この「ワンクッション」の部分が豊かさが、この映画の素晴らしさの一つとして映画を支えている。
「ワンクッション」という間接的手法は、脚本の書き方、画面の構成、あらゆる場面で映画に登場する極めて映画的手法である。映画では視覚と聴覚しか表現できないのだから、必ずそこには、ある事物なり現象なりを、他の視覚的、聴覚的何かへと「化身」する「ワンクッション」の才能が必要となる。ハワード・ホークスはそれを「スリー・クッション」と呼び、D・W・グリフィスは「分離」によって、何かを「化身」させている。
この映画は、切実な家庭崩壊を社会問題として描いている。だがそこに、何かを含んだ「風」が通り抜ける。そういう映画なのだろう。
2007.2.28更新