映画批評・二番館
2008年度分
評価 | 照明 | 短評 監督、スタッフ、鑑賞日、その他 | |
永遠の戦場(1936米) | 100 | 100 | 監督ハワード・ホークス撮影グレッグ・トーランド脚本フォークナー、ジョエル・セア 「キューブリックはこの映画を見てるな」、、、そう感じながら、もうシューベルトのあのシーンあたりから涙が止まらず、号泣で泣きはらして見ていたのだが、今回WOWWOWでハワード・ホークス特集をやると聞いた時、必ずや「ハタリ!」を凌ぐような大傑作が出て来るに違いない!と確信し、未見の二本を今か今かと待ち焦がれる日々が続いていた。そして、あった、やっぱり存在した!、という感動に、そうだ、やっぱりお前は存在した、というエモーションに溺れ溺れて身を持ち崩した。それくらい待ち焦がれたホークスは、それはあたかも、溝口のサイレント映画が出て来たならば、まず間違いなく「らりっている」に違いないレベルの凄さであるものが出て来るに違いないと確信できると同質の予期そのものだ。 話の流れは、第一次大戦のフランス人をアメリカ人が演じながら、1933年に撮られたホークス「今日限りの命」のリメイクっぽい感じで進むのだが、この細部、例えば照明弾がまるで人だまのようにゆらゆらと夜の戦場を漂うシーンは、同じくフランス人をアメリカ人が演じた第一次大戦のキューブリック「突撃」そのものであり、さらにまた、負傷した兵士を助けに行こうとする兵士達が、悉く、こちらからは死角のポジションに位置するスナイパーに狙撃されるあの恐怖は紛れもなく「フルメタルジャケット」のあのおぞまじいシーンへと繋がっている。私はキューブリック関係の書籍を一冊も読んでいないが、おそらくこうした趣旨のことは書かれているだろう。 ホークス=「リオ・ブラボー」という、泣きたくなるほど貧相な世相のポジションに身を寄せながらひたすらやり過ごすしかない私としては、この「永遠の戦場」が「この永遠の戦場」としてあること、それだけにこれからの映画人生を賭けてもいい。 |
8/10更新 | |||
ダイアリー・オブ・ザ・デッド(2007米) | 80 | 85 | 監督ジョージ・A・ロメロ撮影アダム・スウィカ この映画を大いに楽しんでいる自分に驚いたのだが、ドキュメンタリー番組として撮られた体裁のこの映画は、「クローバーフィールド」のような主観のショットでキャメラを「見事に」揺らした「ドキュメンタリータッチ」として撮られており、しばらくすると主観のキャメラが二台になり、その二台のキャメラが構図=逆構図によって「切返され」る。ここで「見ること」が「見られること」と混在し始めるのだが、そんなことよりもこの瞬間この映画は遡って映画的なコメディ=パロディなのだと呆れ果てる。この映画はそうしたマクガフィン的思考回路によって撮られているのであって、例えば終盤、ジープに乗った兵士達に銃や食料やガソリンを奪われるシーンは、ただひたすら主人公達をピンチに陥れ、動きを取れなくさせるための「マクガフィン」以外の何物でもなく、あっけらかんと撮られている。「どうして、なんて聞いてくれるなよ」という感じに撮られているのだ。ゾンビに向って「カット!」と叫ぶシーンには笑ったが、撮っている者自身、この映画がコメディなのかホラーなのか、ドキュメンタリーなのかフィクションなのか、決めていない、考えていない、そんなことよりも、どうしたら「映画」になるのかを、ひたすら逆算的に考えて撮っている。その点が、物語の順番どおりに撮ってしまう「サスペリア・テルザ・最後の魔女」(2007)のアルジェントとは違う。 |
「ホウ・シャオシェンのレッドバルーン LE VOYAGE DU BALLON ROUGE」(2007仏) | 100 | 100 | 監督侯孝賢、撮影リー・ピンビン俳優ジュリエット・ビノシュ、ソン・ファン この作品は生憎DVDでしか見られなかったのだが、思わず二回続けて見てしまうという、久々の体験をしてしまった。私は元来家で映画を見るのがあまり好きではなく、ふと気付くと映画館の椅子に深々と身を沈めている自分に驚くという体験を反復しながらも、それにも拘らず、現代を生きるも者としてDVDなりビデオなりでの鑑賞は必要不可欠なものとして取り入れている。もちろんだからといってメモを取るわけでもなく、限りなく映画館と同様の環境を精神的に作出しながらの鑑賞となるわけであるものの、同じ映画を家で二回続けてみる、という体験は殆どなく、想起すると山中貞雄の「人情紙風船」、チョン・ジェウンの「子猫をお願い」など、数本しか記憶がない。(当然なのでこれまで一度も触れたことはないが、私は映画館でもメモは取らない。そもそもメモには音が出るし、その書き留める手の動きが周囲の観客の鑑賞のリズムを壊すという迷惑行為にも成り得る危険なものであるし、それ以前にメモは映画を見るという体験を妨害する。) 列車で出張に行くシーンでは、行きの列車の通路の窓には、反対側の窓がまるでワイドスクリーンのような横長となって反射している。この映画には、事物が窓や金属に「反射」するショットが非常に多く出て来るのだが、例えば序盤の鉄道のトンネルの中では、反対からやって来る列車の車体にこちらの列車の車体がものの見事に反射している。ホウ・シャオシェンは、どうしてそれを知っているのだろう。つまりこのショットは、この時間に列車に乗ってここで列車とすれ違うと、こうして美しく反射します、ということを知っている人間のショットでしか在り得ないのである。「憂鬱な楽園」(1996)において映画開始後、汽車の中を捉えたショットの後、通過する駅を列車から捉えたショットへと場面が転換した時の、心臓が止まりそうなあの驚くべき風景についても、それを知っている者のみに許されるはずのショットであるはずなのだが、ホウ・シャオシェンの場合、そうとは思わせない凄さを持っているのだ。この人は霊媒師か何かではないのか。 窓の汚れ方一つにしても、列車の窓、天窓、多くの窓が見事に汚れているのだが、これは偶然なのだろうか。 操られる人形を、やや後方から、次に前方から捉えたショットでは、人形師の手によって舞う人形の衣装の襞が、光を反射したり吸収したりしながら刻々と色合いを変化させ、生成し、変化を遂げる。 ベビー・シッターが少年と西日の強く差し込んだアパートメントへ帰ってくると、下の部屋の賃借人たちが、おたくの台所でシチューを作らせて欲しいとやってくる。仕事の初日で彼らと面識のないベビー・シッターの娘は、家主のビノシュに電話をして了解をもらう。このベビー・シッターを演じている娘(ソン・ファン)が実に良いのだが、こうした些細なサスペンスを長回しで散りばめながら、ホウ・シャオシェンはこの、少し人見知りするしっかり者である娘の性格を見事に露呈させながら、その長回しを支えているキャメラマン、リー・ピンビンの圧倒的な存在感がそれを可能にしていることは言うまでもないが、西日を受けながら光っているカーテンと、ランプシェードから霧のように拡散する光と、テーブルの上や奥の台所で揺れ続ける電球、そうしたものを背後に混沌と配置しながら、その空間で繰り広げられる人物たちの行動や表情、そしてそれに対する反応が、その都度サスペンスとして反射し、変化をし、生成をし、素晴らしいとしか形容できない緊張を持続せしめているのだ。机の上から、おそらく予定にはないハプニングとして突然荷物が落下しても、ホウ・シャオシェンはその矛盾をそのまま撮り続けている。この図々しさこそ「B」である。 遊園地のメリーゴーランドで子供たちが輪っかに棒を差し入れるゲームを撮ったシーンはジャック・ベッケル「偽れる装い」(1945)の記憶そのものだが、これを台湾の監督がやっている。これを見たフランス人の若い監督が何を思うか。 どうしてこんなものが映画になってしまうのか。8ミリをDVDに落とした経費をビノシュが娘に払おうとし、娘がその金を受け取ることを拒み続けるシーンのやり取りは思わず私はどうしていいか分からず部屋の中で一人もだえながら大爆笑してしまったのだが、これが「映画」になってしまうことを知っているホウ・シャオシェンをつねってやりたい。 「赤い風船」を今、パリでやること、それは紛れもない「時代錯誤」である。だかその「時代錯誤」性をあっけらかんとして引き受けたこの映画は、未だパリに一歩も足を踏み入れたことのない者たちをして、パスポート無しで「現在のパリ」へと連れて行ってくれる。パリには「男」がいない。「父親」も不在である。魅力的に撮られた男たちといえば、アパートメントの階段をピアノを運んでくる労働者であり、盲目の調律師くらいなもので、彼らはうそとしか言いようのない見事な運動でもって画面の中に溶け込んでいるものの、それ以外の男たちは、亡霊のように確かさを欠いている。その盲目の調律師に「ちゃんと来られましたか?」とビノシュが聞き、調律師が「迎えに来てもらいましたから」と言い、それを受けてビノシュがベビーシッターの娘に「迎えに行ってくれたのね、」と言うシーンなどもう呆れるほど良い。ただそれだけのことでありながら、決してただそれだけのことではないものとして弾けているのだ。小津小津と言うのならば、こういうのが「小津っぽい」のである。 パリっ子たちは「赤い風船」(1956)の時代ように風船を追いかけはしない。彼らはもう走らない。今、赤い風船を肉眼で捉えることのできる人物は、少年と、北京で映画作りをしていたという少年のベビー・シッターの娘、ソン・ファンの二人しかいない。まるで少年は現代に生まれたキリストのように、大切に育てられ、デジタルカメラの中に収められてゆく。 それでも何か大きな希望めいたものが画面を包み込んで終わっている。侯孝賢の映画とは、過去と未来とが現在の画面に厚みとして乗りかかってくる映画なのだ。そして赤い風船が彷徨う空の画面にどこからか女の声で歌が聞こえて来る。「チンチン(乾杯)、、、」。あらゆる否定的なものを撮っているようでありながら、ホウ・シャオシェンはひたすら肯定している。物語は否定的でも人間は肯定されている。中国で生まれ台湾へ移住した外省人監督がフランスで中国人をベビーシッターに仕立て上げて映画を撮る、幾重にも混ざり合った矛盾と変化の混沌の中で、新しいパリは目覚めてゆくのだ。 憎たらしいとしか言いようがない圧倒的な傑作である。 |
6/29更新 | |||
アキレスと亀(2008日) | 80 | 80 | 監督北野武、音楽梶浦由記 ドラマとしての持続と、ギャグとしての弛緩が交互に襲って来て、画面は共感と異化の運動を継起してゆくのだが、それを「映画」として貫通させているのが、少年が画家からもらったあのベレー帽というお約束のオブジェの存在にほかならない。何故柳憂怜が20年するとビートたけしになるのか、柳憂怜あの骨格が、どこをどう突付けば20年でビートたけしのあの骨格になるのか、そうした我々の疑念や怒りや憎しみを、すべてあの真紅の「ベレー帽」が統一してしまう事で逆に亀裂を生じさせている。三人の、余りにも異なる風貌や骨格が、ベレー帽一つに統一されてしまうということそのものの驚きが、人間という生物の持つ不可解な「情動」を現している。 序盤の少年時代の叙情性は、あの枯れ木の見事さや風の吹き方、そして梶浦由記の「泣きなさい」というメロディに乗せられて思わず泣いてしまったのだが、そうした泣いてしまった事実を北野は自分自身で壊しにかかっているふりをしているものの、北野としては、あの少年時代の叙情性については一片の「うそ」もついてはいない。 手を振りながら追いかけてくる女中を走り去るバスの窓から捉えた見事なショットは、まさにあの画面の力通りのものとして北野は撮ったのであって、それは我々を騙すショットではない。中年期の、ペンキを壁にぶつけるビートたけしのショットもまた、少年期の叙情的なショットとは、量的には大きく異なっていても、質的には持続している。それを可能にしているのがあの「赤いベレー帽」という不思議な小道具なのである。どう見ても我々には「違う」としか見えないものを「同じである」と断じて止まないあの「赤のベレー帽」こそ、北野の怒りであり、そしてまた、「映画」というメディアの持つフィクションとしての大いなる可能性でもある。 |
ぐるりのこと(2008日) | 40 | 70 | 監督橋口亮輔 「私はジョン・フォードもジャック・ベッケルも小津も山中もシーゲルも知りません」という映画であって、映画が「映画」でなくとも構わない者たちには受けるだろうが、映画が「映画」でなくてはイヤだという者たちには受けない。当たり前のようにしてワースト入り。 |
9.2/27更新 | |||
夜の河(1956大映) | 85 | 95 | 監督吉村公三郎、撮影宮川一夫、照明岡本健一、俳優山本富士子、上原謙 なにかこう、「カラー映画の品評会」という感じの圧倒的なカラー映画であり、そのフィルムの肌触り、しっとり感などというものは、オープニングの堀川の橋の石を捉えたショットの艶からして既に「勝った、、」という感じで私を打ちのめす。ただ、イーストマンだからか、やや変色している。 学者の上原謙が、研究室でショウジョウバエを顕微鏡で覗いて「いい赤が出た、、」とか言って、真っ赤なショウジョウバエが画面に映り、大学の研究員たちがみんなでその「赤」を讃えたりするシーンは、どう見ても宮川一夫ほか、「撮影スタッフ」に対する賞賛にしか見えず、思わず爆笑してしまったのだが、いやしかし、こういうイタズラをするのだなと、感心する。 山本富士子は、ちょっと目の演技が過剰になってしまっていて、どうしたのかな、などと思いながら、しかし吉村公三郎は「成瀬目線」を何度も使ったり、そもそもオフの空間に対する視線の動かし方が、非常に成瀬的であることは書いておきたい。最近の若い作家たちは、オフ空間に対する目線の動きに関して想像力を欠いている。 |
パラノイド・パーク(2007仏米) | 75 | 80 | 監督ガス・ヴァン・サント 不遜な言い方をするならば、この映画なら、私にも撮れる。現実として撮れるかどうかは別として「私にも撮れるのでは」と感じさせてくれる。社会問題を勉強して、「美的」センスを磨き、カメラマンやラボと話し合って画面の肌触りに気をつけて、アンドレ・バザンが喜びそうなことをやってゆけば、この映画は撮れてしまうのでは、という感覚が不遜にも私に対して訪れるのである。もちろんこの作品は悪い映画ではないだろうし、良い映画の部類に入るのだろうが、例えばニコラス・レイやサュエル・フラーの映画を見た時などに感じる「お前、この映画、撮れない」という絶望的な囁きのようなものが、ガス・ヴァン・サントの映画には響いて来ないのである。 例えば、父親の姿をずっとボカしたまま長回しで撮り続けるシーンなどは、加藤泰ならすぐにショットを父親に切返して撮ってしまうだろう、という、別にそれは加藤泰でなくともよろしいのだが、「画面の力」というものによって映画を撮っている人たちならば、あそこで父親の姿をボカしたまま撮る、ということをしないのではないか、という直感のようなものが、働いたりするのである。そういうショットは「読めてしまう」から。映画の力、ショットの力で映画を撮っている人々は、「読める」ショットを撮らない。というよりも本能的にそういうものに「頼らない」という傾向があるようである。 「読めるショット」を好むのは「知識人」という人種である。彼らはここで「父の顔の不在」という「物語」を「読む」事で、映画を「社会問題化」するのが好きな人たちである。そうした人々たちが、「モンタージュの作家」としてのエイゼンシュテインを重宝し、「読むこと」に没頭したというのは、まさにエイゼンシュテインの映画が、彼らの「知性」を満足させてくれたからではないだろうか。そうした「誤解」によって、つまりエイゼンシュテインは「モンタージュの作家である」という「誤解」によって、或いはD・W・グリフィスは「クロスカッティングの作家である」という「誤解」によって、映画批評は100年遅れることになる。D・W・グリフィス、エイゼンシュテイン、どちらもが紛れも無く、「まず、ショットの作家」なのである。もちろん、これからの作家たちが、そうした「ショットの映画」を何処まで追求できるのか、出来ないのか、すべきなのかどうなのか、という話は出て来るだろう。だがしかし、まずショットから始まる、という感覚は、変わらないのではないだろうか。 腕に刺青をした父の袖が半袖である、というのも、何かこう、らしく読めてしまうのであって、つまり鈴木清順ならこれは長袖にするだろうと、意味も無く考えたりしてしまうのであるが、ガールフレンドと別れる時の会話も、声の音を消していて、別にこれが悪いとは言わないが、いちいちごもっとも、という感じがする。微妙な感覚だが。ガス・ヴァン・サントは頭が良過ぎるのである。 結局の所、ガス・ヴァン・サントという人は「ほんとうです」という「外向きのショット」抜きにして映画を撮ることのできないようなところがある。この作品で言うならば、手持ちのザラザラ画面のやや揺れを意識した隠し撮り(?)で、警官がスケボーの少年たちを取り締まっているショットなどが「ほんとうです」という類の「政治的ショット」であって、決して悪くは無いものの、どうしてもこういうものを入れてしまうのかな、と私は思ったりするのである。 ガス・ヴァン・サントが嫌い、というよりも、彼を取り巻く「知的環境」が好きではない。実際この作品は、凝縮した良い映画である。 |
彼女はゴースト(1941米) | 90 | 85 | 監督ロイ・デイ・ルイス製作ハル・ローチ俳優ジョーン・ブロンデル、ロバート・ヤング この映画の怖ろしさというのはいったい何なのだろう。黒人の運転手が三度、井戸の中へと落下するシーンの、ただそれだけの怖ろしさとは、どいういうことなのか。この作品が例えば1931、とかいう年代に撮られたならまだ判らなくもない。だがこれが「1941」という時代に撮られた背景は、探ってみる面白さがありそうである。このような、古典的なデクパージュで撮られた作品が、何故このように時として剥き出しとなってしまうのか。物語的な効率性で映画を撮っている筈が、どこかでショットが亀裂して、「サイレント」へ舞い戻ってしまっているような瞬間がある。ハル・ローチという、サイレント映画でならしたプロデューサーの力なのか。 次の日、このロイ・デイ・ルイスという監督の、「踊るブロードウェイ」(1935)という、エレノア・パウエル主演のミュージカルを見てみたのだが、どうもこの監督さんは、特撮がお好きなようだ。今度は「恐怖のワニ人間」を見よう。 |
遊星よりの物体X(1951RKO) | 100 | 100 | 監督ハワード・ホークス脚本チャールズ・レデラー撮影ラッセル・ハーラン俳優マーガレット・シェリダン、ケネス・トービー ハワード・ホークスの映画であって、クリスチャン・ナイビーの映画ではないことは、5分でも画面を見れば余りにも一目瞭然なので言わないが、成瀬論文が終わるまでホークスは決して見ない、と自粛した傍らで、大方論文の第一稿もやっとめどが立ち、あと数日で出せると安心し、ふと気付くと、知らず知らずの内にホークスを見直していてニッコリしている自分がいてびっくりしたところの作品であるこの「遊星よりの物体X」は、「一瞬たりとも弛緩しない」という、ハワード・ホークスのいつもの映画なのだと言ってしまっては元も子もないので言わない。今や「ホークス」を無邪気に語ることにある種の危険を感じている私は、ひたすら「驚くこと」の素振りによってアマチュアに徹しよう。 北極の氷の中へと墜落し、埋没した宇宙船の痕跡が光線によってキラキラ光ることで俄然ヒートアップするこの作品は、「持続する」ことの恐ろしさをショットの力で知らしめる傑作であり、その「持続」とは、長々とした時間ではなく、ほんの「一瞬」であってよろしい、という、天才的な宣言でもある。この映画で怪物が出現するシーンを見てみると、すべて「持続」している。そしてそれは「一瞬」の出来事であるがゆえに、ショットして私を驚かせる。今のホラー作家たちに最大限欠けているものとは、この「一瞬の持続」であるかも知れない。持続とは一瞬で「持続」足りうる。そしてそれが「才能」というものなのだ。 ちなみにここでも、マイクだのスピーカーだのから機械的に引き直された人間の声なりブザーなりが響き渡っていることは言うまでもないので矢張り言うのをよそう。ホークスは「機械音」が好きなのだろう、とも言わない。 マーガレット・シェリダンは、ケネス・トービーに「再会」するなり、過去の出来事について、ああだったこうだったと言い始め、見ている我々をして「チーム」から除外するのもまた、封切館の「スカイ・クロラ」で書いたのでここでは書かない。 |
ミスト(2007米) | 30 | 75 | 監督脚本フランク・ダラボン 人物や主題ではなく、演出の手法自体が宗教がかっていて、我々をしてある一定の方向へ「駆り立てて」しまおうとするところの力が、心理的香りと共にあちらこちらに漂っている。トリアー的宗教、とでもいうべきもの。だがトリアーは、実はこれとはちょっと違う。 「悪い時のアル・パチーノ」を露骨に真似たがる宗教女は、役者という人種のちょっとしたお下品さを表現していて驚いてしまうのだが、結局の所、現代の多くの映画人たちには「リアリズム神話」というものが依然としてあって、別に言葉の使い方自体はどうでもよいとして、どうやらその「リアリズム神話」というものが、「リアルに撮ろう」とすることではなく「リアルに見せよう」とするところからくる、言わば「宗教的誤解」のようなものによる自己欺瞞としてある、ということが、この「ミスト」に見られるような「過剰演技」だの、「カメラの技術」だの「サプライズ」だのによって「リアル感」なるものを安易に擬制してしまう性向へと向わせている。つまりこれは「バカ」とか「頭が悪い」と言う以前の、システムの問題にまで到達しているということである。 すべてを「ショットの力」だけで映画を撮るなど無理なのだろう。だが必ずや「ショット」というものが存在し、それらの葛藤によって画面が連鎖した時、そこに「ショットの涙」が生ずる。それをどう折り合って強弱を付けてゆくかであって、そもそもショットの存在しない画面に「リアル」なるものがある訳がない。 例えば成瀬巳喜男のサイレント映画の大傑作「君と別れて」(1933)の序盤、小さな橋の上で水久保澄子と磯野秋雄が鉢合わせして、磯野秋雄がナイフを落とすシークエンスは、まさに「ショット」というものと、そのショット同士の「葛藤」というものが、「ショットの涙」となって、見る者をして打ちのめすのである。 フランク・ダラボンという人は、もうちょっとマシな映画を撮る人ではなかったかと記憶しているが、そんな彼が、こういう撮り方をすること自体が、予想の範囲内とはいえ、「またか、」という憂鬱に襲われる。 |
11/3更新 | |||
艦隊を追って(1936ラジオ・ピクチャーズ) | 100 | 80 | 監督マーク・サンドリッチ製作パンドロ・S・バーマン作曲アーヴィング・バーリン俳優フレッド・アステア、ジンジャ・ロジャース どうしてこの映画が弛緩しないで持続するのか、ここ数日は「ココナッツ」のサイレント論に加えてそんなことばかり考えていたのであるが、おそらくこの映画は①セリフが少ない②物語の濃度が希薄である③舟の乗り降り、という上下の運動が、「水兵」という浮気性の人物的主題と「セーラー服」という視覚的主題とを際立たせている④踊り出す、というエモーションが見事としか言えない⑤曲が見事としか言えない⑥ほんとうらしくない、、、などとなる。 ⑥について言えば、そもそもフレッド・アステアなどという、「筋トレをし損なったポパイ」のようなみすぼらしいヤサ男が、「女垂らしの不良兵士」であるという設定自体が思わず笑ってしまうのだが、そんな男にジーン・ロジャースのような美しい女が惚れてしまい、その不在を淋しがり「アイ・ミス・ユー」などというセリフを吐くに至っては「うそだ、うそだ、そんなことはない」と私の心は騒ぎ出し、「そもそも映画というものはうそではないのか」というもう一人の理性的な私の声を「いや、ここまでほんとうらしくない映画はない」と跳ね返しながら、その「奇形児アステア」が、アーヴィング・バーリンのおっとろしく素晴らしいナンバーに乗せて不意に甲板でロジャースと踊り出した時、一人の奇形児が星となる信じ難き瞬間に囚われた私は、あとはもう「切れるはずだ、切れるはずだ、切れてくれ、これが切れなかったら大変なことになる」、と恐れながら見ていたラストの船上のダンスが、いつまで経っても切れることはなく、まるでルノワールのような美しい再フレーミングを何度も繰り返しながら、二分半にも及ぶダンスが「ワンショット」で終結したのかと、「今のはワンショットだったのか、、」と、確信も無くただ放心状態で誰もいない空間に独り呟いている私に向って、船の上からジンジャ・ロジャースが唐突に手を振った時、ああ、だから船なのか、、、「船」という物体が決して物語的論理ではなく、「高見の空間から手を振る」物体として現われたマクガフィン的感動に打ちひしがれるながら、あとはひたすら「映画が終わった」という、この「ああ、映画が、終わる」という瞬間の、ハリウッド全盛の力に感涙するのみである。 |
太陽がいっぱい(1959仏) | 95 | 100 | 監督脚本ルネ・クレマン製作ロベール・アキム、レイモン・アキム撮影アンリ・ドカ音楽ニーノ・ロータ脚本ポール・ジェコーフ原作パトリシア・ハイスミスミ俳優アラン・ドロン、モーリス・ロネ トリュフォー絡みで映画への道を志した者としては、どうしてもこういう映画を否定しがちになってしまう性癖から逃れられず、「クレマン」だの「ララ」だのいった名前を聞くと、即座に身構えてしまう自分がいたりするのであるが、久々に見直したこの「太陽がいっぱい」は、紛れもない傑作であると言うしかない。 トリフォーがこの映画をどう評価していたのかは知らないし、「禁じられた遊び」を「脚本家の映画だ!」とあれだけこき下ろしたトリュフォーも、実はクレマンをして「意欲的な監督」と評していた事は事実であるって、そもそも「太陽がいっぱい」のスタッフをひと目見ただけで、コレはどう見ても「ヌーベルヴァーグ」であると言うしかない。 従ってトリュフォーとしてもこの作品を否定しようが無いのでは、と思ったりもするのであるが、それにしても、ここまで露骨に「ヌーベルヴァーグ取り」するとは、クレマンも実に隅に置けない。まさに「意欲的」ということになるのだろう。 ナポリの市場をドロンが散策する場面などは、スナップ・ショット的に撮られていてまさに「ヌーベルヴァーグ」であるし、二度めの殺人の後、通りに車を取りに行ったドロンが警官に呼び止められるところをロングショットで撮ったシーンなどは、どうみても「ほんとう」にしか見えない。つまり、『ほんとうにドロンはほんものの警官に呼び止められた』というような感じが出ているのであって、つまりそれは、映画としては「ほんとうらしくない」ということなのだ。 それにしても、アンリ・ドカのこのフィルムの感じの素晴らしさはどういうのだろう。おそらくこれは、フィルムの肌触りと変色の具合からしてテクニカラーではないと思われるのだが、イーストマンだろうか、照明の微妙なニュアンスと言うよりも、画面全体で映画を撮っている。撮り方は透明で、「良質」ではあるものの、だからこそ完成度、という言葉が出て来やすい作品である。 1959と言えばヌーベヴァーグの年であって、ゴダール「勝手にしやがれ」トリュフォー「大人は判ってくれない」などが出た物凄い年なのだが、日本ではチャップリンの「独裁者」(1940)が遅ればせながらが封切られた年でもあり、この年のキネマ旬報ベストテンの第一位は「独裁者」二位「甘い生活」三位「太陽がいっぱい」という順序になっていて「勝手にしやがれ」は第八位、大人は判ってくれない」は五位となっている。ちなみに、「勝手にしやがれ」を第一位に選んだ批評家はただ一人、鶴見俊輔しかいない。後光が差しているかと思いきや、その鶴見も「『「独裁者」』は今年のベストテンに入れないようにして考えてみました。「独裁者」を加えるとすれば、これが第一でしょう」と、痛恨の一言をコメント欄で付け加えてしまっている(「キネマ旬報1960年2月特別号」。 |
ココナッツ(1929パラマウント) | 80 | 75 | 監督ロベール・フローレ、ジョセフ・サントリー製作ウォルター・ウェンジャー ヴォードヴィルから映画へと進出したマルクス兄弟第一作であり、マルクス兄弟だからして、「当然」トーキーである。 と言いつつも、私はどうしてもマルクス兄弟のサイレント映画を勝手に想像してみてしまう悪癖があって、案外映画になるのではないか、などと考えたりするのである。 そもそもハーポはしゃべらないし、チコだって何を言ってるのかサッパリ判らず、グルーチョにしても、あの「大股潜行歩き」を始めとして、その独特の身体的運動で笑いを取っていた者でもあったはずである。 トーキー映画としてのマルクス兄弟の作品の多くは、グルーチョがしゃべっている最中は殆どが長回しで撮られていて、確かにそれが「運動」を招聘するシーンは無きにしも非ずではあるものの、その多くはともすれば舞台的な驚きへと収束することしばしであるし、ミュージカルシーンにしても、歌の内容そのものでなく、「ココナッツ」でも露呈していたように、ラインダンスを上から撮った幾何学模様などの視覚的効果に訴えることも可能なのであり、そこには何が何でも「音」が入り込まなくてはならない訳でもない。 マルクス兄弟はトーキーの申し子である、と言われるが、私としては、サイレントから入っていた方が、マスクス兄弟にとって幸福であったと確信している。 マルクス兄弟の文献としてはポール・D・シンマーマン「マルクス兄弟のおかしな世界」がお勧めである。 |
9/10更新 | |||
ノーカントリー(2007米) | 70 | 90 | 監督コーエン兄弟、撮影ロジャー・ディーキンス俳優ジョシュ・ブローリン、ハビエル・バルテム、トミー・リー・ジョーンズ アカデミー作品、監督賞、助演男優賞。 非常に悪くない作品であって、画面から伝わる肌触りは、間違いなくアカデミー賞の権威を復活させるに違いない見事なそれだが、この作品は「イエス」か「ノー」か、どちらかを選べと言われれば、「ノー」を選択するだろう。活劇になりそうで、決して活劇になれないところの何かがある。 会話の少ない静かな映画の中で、札、紙袋、銃、風、等の剥き出しの音たちが、ロジャー・ディーキンスの見事なカメラと饗宴を楽しみながら画面を作り、安ホテルの薄暗い部屋のシルエットの中で、フロントにかけた電話の音が、遠くから時間差で鳴り響き続けることそのものを剥き出しのサスペンスとして醸し出し、近づきながら次第にその間を詰めてくる殺し屋の発信機の音が剥き出しの緊張として襲い掛かってくる。夜の街、薄暮に包まれたハイウェイ、細部における光線や音においてカメラのロジャー・ディーキンスや録音技師の仕事こそ、アカデミー賞に相応しい。 それなのに、何故か映画は「ゆれ」ようとはしない。ラストシーンの終わり方などは「ある種の人々」をさぞ喜ばせたことだろう。 コーエン兄弟の作品は、お気に入りの「オー・ブラザー」を始めとして、いつも私をそれなりに楽しませてはくれるのだが、決して80点以上の映画を撮らない人たちでもある。 例えば助演男優賞を取ったハビエル・バルテムは知能犯なのか、それとも「バカ」なのか。その違いは以前、「デス・プルーフ・イン・グラインドハウス」の批評に書いたが、例えばマイケル・マン「コラテラル」のトム・クルーズや「ヒート」のデニーロのような「行動する男」としての側面はどうなのだろう。 仮に「ノーカントリー」で選択された幾つかの大きな「省略」という手法を見てみた時に、確かに「省略」という方法は、見せなくても良いものを我々に見せるのではなく、逆に想像力に委ねる事で我々の参加を可能にする映画的手法ではあるだろう。だがその使い方いかんによっては、「見せるべきものを隠す」ことにもなる。そうした時それは、「運動」という持続ではなく「運動の軌跡」という空間的な痕跡に過ぎなくなる。 確かに探知機を使ってしつこく尾行したり、撃たれた足を自分で手術したり、雑貨屋の店主を「それらしく」からかったりというように、ハビエル・バルテムの「行動」は描かれているのだが、どうもそれらの行動が「知的」なのだ。それはまさに「デス・プルーフ・イン・グラインドハウス」のジョシュ・ブローリンの行動のように、である。知的であることとは、映画の力が画面の力から画面の外側の力へと逃げてゆくことでもある。この「ノーカントリー」が「B」となり得ないのは、122と言う大き目の数字より何より、そうした理知的さに拠るところが大きいのではないか。雑貨屋の店主を「それらしく」からかったりというようなシーンはまさに、「知的」に過ぎるのだ。 |
勇者たちの戦場(2006米) | 70 | 80 | 監督アーウィン・ウィンクラー撮影トニー・ピアース=ロバーツ俳優ケヴィン・クライン、アシュレイ・ジャット、ジョナサン・プライス 「五線譜のラブレター」や「海辺の家」で、イヤというほど泣かせてくれたこのアーウィン・ウィンクラーという監督は、ジュールス・ダッシンの傑作「街の野獣」を果敢にリメイクした失敗作「ナイト・アンド・ザ・シティ」や、ヒッチコック型八方塞りサスペンスのそれなりの佳作「ザ・インターネット」など、まさに映画史の中で生きている「映画人」である。 イラク戦争の帰還兵のその後を描いたこの「勇者たちの戦場」は、「シネコンになど乗らなくてもよろしい」という気概で撮られたがうかは判らないが、「五線譜のラブレター」や「海辺の家」で見事な肌触りの画面を作っていたカメラのトニー・ピアース=ロバーツのテクニカラーの画面が豊かな「黒」を出し、誰しもが「ない」と言い張るものを「ある」と言うただそれだけのことを、剥き出しの苦痛として露呈させ、間違っても「反イラク戦争映画」などというつまらないジャンルに押し込まれることなく、ひたすら画面の中の葛藤をそれとして露呈させている。 イラクの路地での襲撃の瞬間、建物の二階の窓から、誰の主観ともなしに俯瞰で撮られた空舞台の恐ろしさこそが、ウィンクラーの才能を顕わしめている。 |
妄想少女オタク系(2007日) | 30 | 50 | 監督堀禎一 新聞の批評欄で評判が良いらしいのでチョイと見てみたのだが、セリフは少女アニメの声優のように画一的で芯が無く、人物たちはみな老人化した「イイコちゃん」と化し、撮り方もまた非常に古典的でおとなしい。セリフは理屈っぽく、生成と消滅の危険を欠いて善良である。 |
ライフ・アクアティック(2005米) | 90 | 90 | 監督ウェス・アンダーソン撮影ロバート・B・イエーマン まずキャメラマンのロバート・B・イェーマンが「イエーイ」と言うほど素晴らしい。、、、 この監督とのコンビでは「アンソニーのハッピー・モーテル」「天才マックスの世界」「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」などにおいて、このロバート・B・イェーマンの画面は、ひたすら夏の乾いた太陽光線をオレンジ色に彩りながら、その抜群の色彩感覚と透明感によって我々を晴れやかな気分へと導いてくれていた。 映画が始まっても何が何だか判らず、ただひたすら「画面」だけが豊かに進行してゆくウェス・アンダーソンの「ライフ・アクアティック」の世界は、まるでルノワールの「ゲームの規則」のように本当らしくない。人の死という悲劇さえも、前進、といってよいかどうかさえ判らない人の歩みに向けての栄養素にされてしまうのであり、気球に乗るシーンなどは、「どうして」と尋ねたがる者たちをして一瞬にしてして奈落の底へ突き落としてしまうだけの大いなる幻影でもある。 彼の映画にはよく「チーム」を統率する中年や老人たちがいて、「アンソニーのハッピー・モーテル」のジェームズ・カーン、「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」におけるジーン・ハックマン、そして「ライフ・アクアティック」におけるビル・マーレイなどが、血縁があったりなかったりの、「規則を欠く集団」のリーダーになってゆき、人々は、まるで「サッド ヴァケイション」の人々のように意味も無く彼らの周りに集まり始めるのだが、しかしそれはおよそ「まとめる」などという理性的言葉を使った者たちが恥ずかしくなってしまうほどの不器用な仕草や行動で進行してゆくしかなく、そうこうしているうちに、アンダーソンは、遺産が遺産としてもはや通用しないことを重々承知していながら、まるでジョン・フォードの「リバティバランスを撃った男」のように、遺産を遺産として現在化してしまうのである。 私が見たアンダーソンの映画の中ではこれが最高。どうしてこうまで泣けるのだろう、それはまったく理解不能だ。 |
第十一号監房の暴動、殺人捜査線、グランド・キャニオンの対決、中国決死行 | 監督ドン・シーゲル 今回WOWWOWのドン・シーゲル特集に、成瀬論文も忘れてひたすら酔いしれる。 「中国決死行」がややどうかな、という感じではあったものの、すべてに「B」の甘き香りが施され、我々をして「決してシネコンへ行ってはならない」と誘いかけて已まないやっかいなシロモノであった。 こういう映画たちを家で見てしまう、コレ即ち「堕落」という現象になるのだが、「フレンチ・コネクション」の遥か先を行く「殺人捜査線」の、スクリーン・プロセスでのカーアクションや、車椅子のボスがスケートリンクに車椅子ごとスローモーションのようなワンショットの持続で落ちてゆくシーンの恐ろしさ、はたまた高速道路がまるで人生の消去点へ向けての如くに次第に狭くなり、果ては行き止まりを迎える見事な場所選択を見てしまっては、「堕落するな」というのが大変な無理なお話であって、ひたすら「女の尻を追いかけてしまった」という視覚的寓意が罠となって襲い掛かる「グランド・キャニオンの対決」におけるコーネル・ワイルドの落下への恐怖は「史上最大のショウ」におけるそれとは比較不能な速度でもって我々に襲い掛かり、CGによって弛緩し続ける現代型アクション映画を哀れにも「チョボイ」と感じさせてしまう一発である。 「第十一号監房の暴動」においては、矢張り先ず第一に、プロデューサーのウォルター・ウェンジャーの係わり合いが、この映画をして得体の知れぬシロウトらしさへと陥れていながら、だからといってウォルター・ウェンジャーの関わりは、決して「社会派」だの「リアリズム」だのといった紋切り型に停滞することはなく、ラッセル・ハーランのキリキリと乾いたカメラは、ラストシーンに照らされたように、時に見事なシルエットでもって、「フィクション映画」としての人物たちを「B」の中へと放り込んで来るのだ。 看守たちが催涙弾を放ちながらが前進し、囚人たちが後退する。前進し、後退するの運動が、ナマモノとして露呈してしまうその恐ろしさは、鳴り響く電話に出るために、一直線の圧縮された空間をこちらへと爆走して来る囚人たちの、走っても走っても接近できない距離感の破裂となって再び襲い掛かる。その瞬間私は、この映画が「ゴーガン的である」などというくだらないことを言って恥をかくことを免れながら、「リアリズム」なるものはたかだかシチュエーションに過ぎず、その根底にあるものは紛れも無く「ショットの力」であることをまたしても悟るのである。そこには「均質性」も「同質性」もなく、ひたすら我々の瞳を驚きへ突き刺す過剰なる剥き出しそのものが怪しく潜んでいるのだ。 そもそも「リアリズム」などいう言葉は現代において、その本来の意味を大きく離れ、映画なり演劇なりを、原作や戯曲や実話の「再現」=「コピー」として扱いたがり、より「コピー」に近ければそれを「傑作」と看做したがる「知的人種」によって使い古された戯言である。 それにしても、人類の骨格は、どうしてこうまで変わってしまったのか。出て来る人々たちがみな「映画的骨格」をしているではないか。 この「第十一号監房の暴動」を良く「聞いて」みると、やたらとブザーの「ブー!」という機械音とまた、それと共に、電話なり無線の中から、機械的に変容された人間の声が事も無げに聞こえて来るのであり、その素振りなどは、紛れもなくドン・シーゲルが、ハワード・ホークスの「何かしらのそれ」であるのでは、という事実を、シーゲルがホークスの「ヨーク軍曹」の第二班監督をしていたという「知識的に」ではなく、いま、ここに、聴覚的に露呈していることをして、感動してみたい。 試しにハワード・ホークスの「無限の青空」だの「コンドル」だの「空軍」だの「三つ数えろ」だのといった傑作を「聞いて」みると良い。そこには必ず、やや間の抜けたブザー音を伴って、無機質な人間の声が、電話口だの無線だのラジオだのといった機械の中から聞こえてくることだろう。 星条旗が、「第十一号監房の暴動」ではエミール・メイヤーの執務室に、「殺人捜査線」では街路や建物に、そして「グランド・キャニオンの対決」でも裁判所に掲げられ、それはシーゲルの弟子であるクリント・イーストウッドへと受け継がれていくことになるのだが、星条旗があるべき戦争映画「中国決死行」において、星条旗を認めることはできなかった。見落としかもしれないが、仮にそうだとするならば、こんな面白いことも無いだろう。 「殺人捜査線」における場所的感覚の見事さ。空港、オペラハウス、ホテル、サウナ、水族館、カモメの飛び交うサンフランシスコの港、博物館、スケートリンク、高速道路、、すべての場所が、想い出のように瞳に焼き付いている。 映画の効率性とは何か、それを感じたければドン・シーゲルへ向うべき。。 |
||
9/1更新 | |||
陽気な中尉さん(1931パラマウント) | 100 | 100 | 監督エルンスト・ルビッチ撮影ジョージ・J・フォルシー俳優モーリス・シュバリエ、クローデット・コルベール、ミリアム・ホプキンス、ジョージ・バービア 二回鑑賞 原題は「THE SMILING LIEUTENANT」=「笑う中尉さん」であって、映画はまさに「笑うこと」によって物語が転回してゆくのだがら、これは「笑う中尉さん」でなければならない。 笑うこと、笑い顔、泣くこと、泣く声、それとドアを100回ほど開け閉めすれば映画は撮れる、とルビッチが言ったかどうかは知らないが、まさにそう言わんばかりの映画である。トボケているのだ。そう、ルビッチはひたすらトボケているのだ。 最近の我々を馬鹿にした映画は引っ叩きたくなるようなものばかりだが、ルビッチだのホークスだのヒッチコックだのといったスーパーヒーローたちは、観客をバカにしながら、我々をして「バカにして下さって有難うございました!」、と言わせてしまうだけの洗練された都会的ユーモアを持ち合わせている。 そう、この映画はまさに「都会的」ユーモアでもって、「田舎者」を徹底的に笑い飛ばした痛快な作品なのだ。こう言うとまた、「それでは田舎者さんたちが可哀想です、、、取り消してください、、傷つきました」などという、ちょっと変わった面白い人たちが出て来るからこそ人生は愉快痛快。 ■母の不在について この作品では、王女には父親の国王しかおらず、母は不在で、その不在の理由について何の説明もない。こうした手触りは、例えばジョン・フォードの「静かなる男」、ワイルダーの「昼下がりの情事」などにおいて同様に見受けられる。 「静かなる男」において、モーリン・オハラとビクター・マクラグレンの兄妹には両親がいない。だが映画の中では、両親の不在について一言の言及もない。 「昼下がりの情事」においても同様で、モーリス・シュバリエとオードリ・ヘップバーンの父娘がひたすら描かれるのだが、母の不在についてはまったく触れられていない。おそらく幼くして母と死に別れたのだろう。だが映画は決してそれを説明しようとはしないのだ。残された男たちは「母親代わり」としての「約束」を、密かに自己に課し生きている。だがそのような話を彼らは世間様に対して聞かせたりはしない。それは「身内の約束」であり、露呈させるような類のものではないのである。 だからこそ彼らは、まるで母たちの遺言に忠実であるかのごとき愚直さでもってひたすら娘たちを「守る」のである。「母」としての繊細さも乳房も持ち合わせていないところの無骨な男たちが、ひたすら「約束」によって娘たちを守ってゆく。そこには「守ることの説明」などは一切必要とはされない。「守ること」「守られること」の歴史は、幾多の試練に貫かれた家族だけの歴史であり、決して外部へと露呈させ同情を引き寄せるような類のものではないのである。ビクター・マクラグレンも、モーリス・シュバリエも、妹や娘たちにとっての「母代わり」なのだから。 ここでジョン・フォードが偉大なのは、そして素晴らしいのは、妹を「守る」マクラグレンを、徹底的に「悪者」として描いたことである。早くして両親を亡くしたこの兄妹は、手と手を取り合って生きて来たに違いないのだ。この二人には、外部の人間たちには決して判らないところの「二人だけの歴史」があったに違いないのだ。それにも拘らずフォードは、兄を嫌というほど「悪者」として扱い、嫌われ者として撮り続けている。「家族の約束」はあくまで家族の内部へと押し留め、決して映画の中でそれを外部へとセンチメンタルに露呈させるような下品な真似はしない。それがために映画は力を蓄え、感傷ではなく抒情へと導かれ、最後に素晴らしい瞬間を迎えることになる。 黒沢清は、「勝手にしやがれ 逆転計画」でこれをやっている。 タバコ屋の奥から父親の河原崎健三が、店番をしている娘の仁藤優子に向って「おーい、先に昼めしを食ってるぞ」といった類の言葉を投げかけられた時、この娘には「母」が不在であることがそれとなく暗示される。母の不在は、眼を凝らして探せばやっと視界に入る程度の、居間にかかっている母の小さな遺影によってそれとなく視覚的に暗示されるに過ぎない。 こうして「顕示されない母の不在」による父と娘の絆がいかに強いかは、父は大の競馬狂い、そして娘の仁藤優子の名前が「さつき」である事から推し量って余りあるというものだ。もちろん「さつき」とは「五月」でなく「皐月」と読むのが、楽しい映画法(競馬法)というものである。。 父娘の繋がりは岩よりも強いのであり、だからこそあれだけ真面目な娘の仁藤優子が、突如として競馬狂いなってしまう理由はちゃんと配置されているのである。もちろんその「理由」とは、節度と倫理とに裏打ちされたところの「理由」である。 今のテレビを、映画を、そして世間を見てみよう。どれだけ「家族の約束」を世間様に感傷的に語りたがる人々の多いことか。結婚式での両親への花束贈呈、などという、テレビによって煽動された田舎臭い儀式こそ、まさに「家族の問題」を「世間様」に知らしめなければ気の済まない無粋な行為に他ならない。だが、やってしまった人たちはもう遅いので、「静かなる男」を見て自己に渇をいれるべし。人生はやり直しがきくのだから。 ■ドアが、、 ドアが何回開閉しただろう、、、開けて締めてまた開けて、、、その回数を数えてやる、というのが、蓮實重彦の立教での授業であったらしい。 |
五線譜のラブレター(2004米) | 95 | 90 | 監督アーウィン・ウィンクラー音楽コール・ポーター撮影トニー・ピアース=ロバーツ俳優ケヴィン・クライン、アシュレイ・ジャット 「過去」という、現在とは質的に異なる時間を、記憶の中から想い出として「現在」へと呼び出すには、弛まぬ想像力と豊かな才能がなければならない、という美学的な真実を嫌味なく教えてくれている。一年分の涙を搾り取られるような素晴らしい傑作である。 いったい現在と言う時間に何故「コール・ポーター」なのか。 コール・ポーターに扮したケヴィン・クラインによって成される舞台とスクリーンと女の想起によって現在へと呼び戻された過去たちが、もう一枚のスクリーンを通じて我々の現在を支配して離さないのは、コダックのフィルムをしっとりと「黒」で染め上げ見事な光に包まれた、円形の滑らかなトラッキングによって夢のように現われるスクリーン上の構図の中で、次々と現われては消えて行く過去たちが、感傷に浸る暇などないとばかりに容赦なく消え去ってゆく潔いスピードでもって濃密さを増して行き、時としてスローモーションまでもが時間の凝縮に貢献しながら、女の顔や、男の手が、求める視線が、そしてシガレットケースが、スクリーンの上にただそのものとして露呈し始めた時、我々はスクリーンを通してコール・ポーターの「想い出」に立会い、恋をしながら、音楽は消えて行き、静まりのなかで、我々の歴史が書き換えられてゆく。 最後に残ったものと言えば、ただひたすら「映画は映画である」という、想い出と現在との切ない戯れに他ならない。ダニエル・シュミットの美しい「デジャヴ」のように過去が現在の中で跳梁し、クリント・イーストウッドの「ミスティック・リバー」にような漆黒の「黒」で飾られ、ヒッチコックの「めまい」のように円形に回転するカメラが過去をと現在とを不確かでありながら濃密な持続へと導きながら、決して「プロデューサーズ」(2006)や「ドリームガールズ」(2007)のような余りにも下品な懐古趣味に終わることなく、ひたすら「映画」の中で始まり、「映画」として終わるだけの節度と情熱を持ち合わせた傑作である。 |
吸血鬼ゴケミドロ(1968松竹) | 75 | 70 | 監督佐藤肇 最初はどうなるかとヒヤヒヤしたが、。 今度アテネ・フランセでこの佐藤肇監督の特集があるらしい。 それにしても、この「気散じ」的とでもいうのだろうか、少なくとも「思考的」とか、「知性的」という現象では収まりの付かない「触覚的」とでも言うべき「B」のアウラを醸し出し、その全身でもって消費社会における「複製」を完璧に拒絶している。石井克人は「按摩と女」ではなく、この「吸血鬼ゴケミドロ」を「複製」すべきだったのだ。そうすれば、巷では「映画の修復」などと言われている同デクパージュによる模倣の行為が、いかに「複製」から遠い出来事かがハッキリと判るだろう。 シナリオが突如破戒され、を何度も繰り返されることに立ち会う我々は「まさか本気なのか、、」と、この亀裂するシナリオと躍動する運動との間で宙吊りにされたまま、最後まで「答え」の与えられない奴隷となり、カタルシスに浸るというわけだ。 墜落した飛行機の中で、「やだ、俺は行かない!」と外へ出ることを拒絶して粘る悪徳政治家。彼の宣言には悲壮なる決意が滲み出ている。 次の瞬間、女が「一緒に行きましょう!」というと「よし、行こう!」と、政治家はまるで10年前から決意していた意見を反復しているかの如き強い態度で応答する。 この、「180度の態度変更」なるものを、何の恥じらいも無く一瞬のヒラメキでやってのける映画など、そうザラにあるものではない。「心理的に本当らしくなさすぎる」のである。ハワード・ホークスどころの騒ぎではないのだ、、、、 序盤、飛行機墜落後の機内で乗客たちが揉めている。キャメラが何気なく切り返されると、手前で外国人の女が給水機をいじってピチャピチャ何かやっている。 しばらくして乗客が「水だ!、水はどこだ?!」と叫ぶとその外国女「スイマセーン、ワタシ、ゼンブツカッテツマイマシタ、、」、、、、 こういうシーンには、そうザラに出会えるものでもない。我々の日頃抱いている「常識」なるものが、ひょっとして間違っていたのでは、、という気にさせてくれる瞬間である。 この映画に露呈しているのは、ひたすら「我々はこれを撮る」ということ以外の何ものでもない。 高英夫の割れた額に「挿入」されるように侵入してゆくゴケミドロのシーンが視覚的に示しているように、こうした作品というものは、あくまでもその表層に、信じたくないような「政治的」画面を「密かに」露呈させているのであり、だが往々にして「知識人」たちは、映画の「主題」の「安っぽさ」を真に受けてしまい、表層に現に露呈している数々のシーンを「知性がない」という理由で亡きものとしてしまうのである。 |
左利きの女(1977西ドイツ) | 85 | 95 | 監督ペーター・ハントケ撮影ロビー・ミューラー やけに電車が「ガタン・ゴトン」言いづけているので、まさかと思って見ていると、映画内映画で小津の「東京の合唱」における、岡田時彦と八雲千恵子のあの「せっせっせ」のシーンが延々と上映され続けるというわけである。「というわけである」というのはつまり、そういうわけなのである。 それにしてもキャメラマン、ロビー・ミューラーの出すカラーの色合いと肌触りの美味しさとは、これいかに。 |
7/10更新 | |||
續・丹下左膳(1953大映) | 100 | 100 | 監督マキノ雅弘、撮影竹村康和、照明西川鶴三、脚本伊藤大輔、俳優大河内傳次郎、水戸光子、山本富士子、三田隆 前編の「丹下左膳」も凄いが、これはもっと凄い。そしてこんな凄い映画が、マキノの自伝「映画渡世・地の巻」によると、本人によって「インスタント映画」のような語られ方で処理されているのである。これまた断然に凄い。「人情紙風船」に匹敵する「インスタント映画」など、見たことも聞いたこともない。 何と書いたら良いのか、まさに「批評」を無力化してしまうような大傑作なのであるが、一言で書くと「恐い」ということだろうか。間違っても「娯楽時代劇」などという楽天的なジャンルに収まりの付くような作品ではないだろうし、しかし本人としては「娯楽時代劇」として撮っているのであるが、水戸光子の「女ぶり」などというものは、その存在そのものが既に「空(くう)」という現象であって存在ではなく、しばらくすると、消え去ってしまう実体の不確かさを怖ろしいまでの美しさでもって振りまいている。 「御用だ!御用だ!」といって、夜道を大勢のおかっ引が提灯を差し出しながら、瀕死の水戸光子を取り囲む。だがおかっ引たちは決して水戸光子を捕まえようとはせず、「御用だ!御用だ!」と取り囲んではズリズリと後退し、また近寄っては後退するを繰り返しながら、水戸光子はとうとう丹下左膳のいる滝の側の小屋へとたどり付く すると今度は丹下左膳が、自分を裏切った殿様の屋敷へと向うのだが、その回りをまた、おかっ引たちが「御用だ!御用だ!」と取り囲むのだ。だがそれもまたさきほどと同じように、近寄っては後退しを繰り返し、決して捕まえることも切りかかることもない。そうしている内にも馬上の大岡越前(大河内伝次郎二役)が「丹下左膳を通してやれ!」と命令すると、提灯を持っている大勢のおかっ引たちがサーッと割れて、その中を丹下左膳が一人歩いてやってくるのだ。 ああ、これは「花道」なのだと。 おかっ引たちは主人公たちの進む「道」を作ってやっていたのだと。そう見えて来るのである。夜道を大勢のおかっ引たちが提灯で「照明」を照らしながら、見事な「花道」を提供しているのだ。だからこそ彼らは決して主人公たちに飛び掛っては行かない。この作品の脚本を書いた伊藤大輔の「忠治旅日記」(1927)のラストでは、病床の大河内伝次郎の回りをおかっ引たちが「御用だ!」と付かず離れず取り囲んでいたし、その殺陣はマキノの「殺陣師段平」(1950)で、花道から舞台の中へ飛び込んでいった月丘千秋が市川右太衛門に教えた「国定忠治」の殺陣へと受け継がれている。 結局の所映画というものは、「ニワトリが先か、タマゴが先か」と同じように「物語が先か、視覚が先か」の不断の魔こそが「映画」を形づくってゆくのだと。 『水戸光子は鉄砲を持っていた、だからおかっ引たちが、か弱い女の水戸光子に近づけなかった』。と感じるのか、それとも、『おかっ引たちを水戸光子に近づけさせたくなかった。だから水戸光子は鉄砲を持っていた』。と感じるのか。前者は「物語的」な解釈、後者は「物語から解き放つ」直感である。 ヒッチコックが言っている「マクガフィン」というものは、こうした思考回路の話であって、それはまさに、映画というものの製作の流れというものが、「ニワトリが先のように見えて実はタマゴが先」であり、逆に、「たまごが先のように見えて実はニワトリが先にしか見えない」、ということの繰り返しからくる豊かさなのである。ところが多くの批評家たちは、こうした「ニワトリとタマゴ」の順番を、制度的な思考回路によって固定せずにはいられない。映画をつまらなく語る、というのは、そういうことを言うのである。それは映画を「文学」や「舞台」の奴隷としてしか扱うことの出来ない映画を「見下した」批評態度である。憂慮すべきは批評の内容ではない。「態度」なのだ。 |
深夜復讐便(1949フォックス) | 85 | 90 | 監督ジュールス・ダッシン、撮影ノーバート・ブロダイン俳優リチャード・コンテ、ヴァレンティナ・コルテーゼ、リー・J・コッブ、ミラード・ミッチェル、ジャック・オーキー 1947年、トルーマンの発した「反共宣言」の空気の持続と加速の中で撮られたこの作品は、冒頭の明るさが悲劇の伝達による暗さへと一転し、画面は次第にローキイの漆黒へと移行して、夜のトラック運転手とヘッドライトの誘惑、トレンチコートの女が酒場に現われ男を惑わせ、夜のアスファルトが逆光の「黒」で覆われた時、「ノワール」へと突入してゆく。 主人公のトラック野郎、リチャード・コンテの相棒は、ミラード・ミッチェルの悪漢で、農民からピンハネを搾り取るような信用ならない男なのだが、この男はコンティがトラックの下に下敷きになると迷う事無く救出してしまうような、正体不明の男でもある。 そしてそのミラード・ミッチェルからさらに残り物を搾り取ろうとするハイエナのような2人組のトラック野郎たちもまた、そのミラード・ミッチェルのトラックが、りんごをばら撒きながら坂道を横転し炎上すると、考える間もなく救出へと向うという「不確かぶり」をさらけだすのだ。「善」と「悪」とがコロコロ変化してゆくのである。 ところがよくよく考えてみると、この映画に出て来る酒場の男たちはみな、気の良い連中ばかりであり、最後まで「悪」として描かれているのは「資本家」とその手下たちであることからすれば、なるほどこれは、してみると、結局の所、「労働者はみな善人です」という「善人映画」としても成り立ってしまうという、実に見事な「不確かさ」の中を巧みに揺れ動く「確かな脚本」なのである。 |
刑事マディガン | 90 | 85 | 監督ドン・シーゲル撮影ラッセル・メティ俳優リチャード・ウィドマーク、ヘンリー・フォンダ 例えばフライシャーの「絞殺魔」などにも感じた、捜査の「分断性」というものについて考えてみたい。 この作品の、元ボクシングチャンプという経歴のアル中の男の通報による酒場のシークエンスなどは、「ミステリー」としての謎解きから分裂し、だからこそ、そのシークエンスが「物語の奴隷」から解放され、生き生きとした生成で我々の記憶を刺激してくる。シークエンスを、ひたすら「物語の奴隷」としてでしか撮ることの出来ない映画を仮に「A」とするならば、「刑事マディガン」は「B」、紛う事なきピカピカの「B」である。 「絞殺魔」における、超能力者のシークエンスの圧倒的見事さにおいて露呈された面白さとは、空港の自動販売機におけるナマモノのフードの購入から、遅刻した刑事の「遅刻の動機」を暴露するシーンへ至るまの、徹頭徹尾、物語からは「何の関係もない」運動における、「解き放たれた生成」以外の何ものでもなく、同様に、結婚詐欺の男をオトリ捜査で逮捕するシークエンスの孤立したエピソードもまた、画面をして生き生きと物語の奴隷から解き放っているのである。 構図の素晴らしさは、トラッキングとの関係においても露呈している。クリント・イーストウッド監督作品の構図の素晴らしさは、師匠であるシーゲルのトラッキングによる趣旨と一致している。警察署で、ボスのオフィスへと向うイーストウッドを延々とトラッキングで追い続ける数々のシーンなどがそれである。 最近のスピルバーグ映画、「マイノリティリポート」や「宇宙戦争」等におけるトラッキングは、「構図」へと向けられているが故に、それ以前のスピルバーグ映画における「パン」による人物把握に比べると格段に美しいのだ。例えば「アミスタッド」の法廷シーンにおいて人物を「パン」で捉えた構図の、どうしようもない喪失感と比べてみるのもよい。成瀬巳喜男が屋外の移動撮影を徹底して軸を動かすトラッキングで処理しているのは紛れもなく「構図」を美しいままに維持したいからに他ならないし、ルイス・ブニュエルのカメラの動きも、「軸」と関係する時は、必ずと言って良いほど「構図の維持」が関係している。。 |
アスファルトジャングル(1950米) | 55 | 80 | 監督ジョン・ヒューストン撮影ハロルド・ロッソン俳優スターリング・ヘイドン、マリリン・モンロー、ジェームズ・ホイットモア 画面を瞬間として切り取る時にはひたすら「B」でありながら、持続として体験した時にはひたすら「A」となる。 |
6/6更新 | |||
按摩と女(1938松竹大船) | 100 | 100 | 監督清水宏、俳優徳大寺伸、高峰三枝子 ラスト、雨の中、高峰三枝子を乗せた馬車が温泉街から去って行く。それを按摩の徳大寺伸が「見送る」わけだが、カメラはロングショットで高峰三枝子の馬車「だけ」を捉えながら、ゆっくりと右へ移動し、去って行く馬車を追い続けている。 このラストショットは「見た目のショット」ではないだろうか。私のこれまでの映画体験からするならば、これは被写体の捉え方、カメラの動き、そしてショットのつなぎ方において、按摩の徳大寺伸の「見た目のショット(主観ショット)」にしか見えないのである。 俗な言い方をするならば、『按摩は最後に、心の目でもって、去って行く惚れた女を見つめ続けた、、』と。というか、これ以外には在りえないはずだが、、、 |
明治侠客伝・三代目襲名(1965東映) | 100 | 95 | 監督加藤泰、撮影わし尾元也、俳優鶴田浩二、藤純子、大木実 二度目の鑑賞 加藤泰の映画を見る時に、「ピントの合っていない部分だけ」を見てみると言うのも非常に楽しい。「ピントの合っていない部分」の殆どに「意味」があるからである。「ロードオブザリング」と見比べてみると一発で判るだろうが、「ロードオブザリング」の場合、「ピントのあっていない部分」には何もないし、何の苦心も施されていない。何故ならば、苦心しなくても済むように、ピントを合わせないような撮り方をしているからだ。対してこの作品は「ピントのあっていない部分」のほぼ100%に、何かしらの「仕事」が施されている。とんでもない映画なのである。 |
プラネット・テラーinグラインドハウス(2007) | 80 | 85 | 監督製作撮影脚本編集ロバート・ロドリゲス俳優ローズ・マッゴーワン これもまたただひたすら「ゴーゴーガール」の映画である(ブレーキを踏まない映画)、といってしまえばただそれだけで「映画批評」は完成してしまいそうなところの、ひたすら「GO!GO!」の映画である点において「デス・プルーフinグラインドハウス」と軽快に歩調を合わせながら、「知識人」なら涙を流して飛びつくであろうところの「挿入」だの「精液」だの「犬のションベン」だのといった隠喩だとか、「ジェンダー」だのといった主題論を軽くすっ飛ばし、ローズ・マッゴーワンがタランティーノの右目に「挿入」した物質は「フロイト」だの「ラカン」だの「ファルス」だのといった知識以前にまず、義足としての「椅子の足」という過剰なまでの物質そのものであり、ひたすらゾンビたちを撃ち殺すのは「ジェンダー」としての女である以前に、ひたすら映画史を彩り続けた「理由なき狂人」たちであることにおいて、この映画は見事に「映画の記憶」=「現在の体験」であり続けている。映画における「知識」とは、過去との単なる辻褄合わせではなく、過去を抱擁したところの「現在」への甘い誘いに他ならない。 映画の「理由」の部分、→『フレディ・ロドリゲスの正体は何ぞや』、という肝心要のこの部分を、グラインドハウスという「B」級映画専門映画館でしばし起こった「一巻(リール)喪失」という事件の記憶を確信犯的に利用することで爽快にすっ飛ばし、「ほんとうらしさ」の「A」的知性を高々とあざ笑っている。 映画とは、一巻欠けても「映画」になる、だが「欠けている一巻」は「運動」ではなく「意味」でなくてはならない。 「ハタリ!」のエリザ・マルティネッリとレッド・バトンズのジャムセッションの部分をカットして上映した者は映画史に残る愚か者だが、仮に已むに已まれず映画をカットする時の「カットの規則」というものを「グラインドハウス」そのもので体現して見せたロドリゲスの精神こそ「断片」としての「B」的運動精神そのものであることは、敢えて付け加えるまでもあるまい。 「ほんとうらしい部分」からまず削ってしまってしまえばそれでよいのである。 ラストの「あれ」を見せたさに引っ張るだけ引っ張って運動を停滞させてしまった「デス・プルーフinグラインドハウス」の冗長さと比較した時、「B」と言うならこちらが圧倒的に「B」である。 ロドリゲス、タランティーノ共に、キャメラマンとして身を立てた方がよろしいのではないか。確かに機械的な乱暴さをしたためてはいるものの、両作品とも光の感覚において多大の心を砕いていることは見ての通りである。今、いかにアメリカにまともなキャメラマンが不在かをこの二人の「キャメラマン」が語りたそうにしている。 |
5/13更新 | |||
今宵、フィッツジェラルド劇場で(2006米) | 85 | 60 | 監督ロバート・アルトマン俳優メリル・ストリープ 序盤は何か退屈で、照明も人物の動きを敢えて度外視したようなところもあって、中々映画に入って行けなかったのだが、「雨に濡れた舗道」が、今一つの輝きで在りながらも妙に映画になっていたり、真っ白なトレンチコートを着たファム・ファタル天使が何の変哲もなく出て来たり、L・Q・ジョーンズが何の変哲もなく消えていったりしている内に、何か知らない間に「映画」が開始されていたことにハタと気付き、黒人の女が歌い始めた辺りで完全に「映画」になっていて、遂にあろうことかメリル・ストリープに泣いてしまい、、、現代人の神経症をメソッドで包み込んでまんじゅうにして食ったような「あのメリル・ストリープに泣く」という怪現象はほとほと私を打ちのめし、あとはひたすら「泣くしかない」という、、、この感覚は「魔」の映画、ジョン・ヒュートンの遺作『ザ・デッド/ダブリン市民」より』を思い出さずにはいられない。もう「これが最後」だとアルトマンは知っていたとしか思えない画面がひたすら静かに持続してゆく。極めて静かに進んでゆくのだ。この静けさはひたすら「映画」における静けさである。 最後は、アルトマンが中々映画を終われないのが伝わって来て、もう終わっているのに終われない、そんなアルトマンの何かを感じながら、それでも最後は「何の変哲もない楽団員」で終わる辺りの「ハワード・ホークス的記憶」の中で、静かにアルトマンは幕を降ろした。 照明などぶっ飛ばす、とはこういう映画のこと。決してこれは「クソガキ」には撮ることの出来ない「映画の筋金の物語」である。 |
パラダイス・ナウ(2005パレスチナ、ほか) | 75 | 80 | 監督ハニ・アブ・アサド撮影アントワーヌ・エベレル 車の中で男と女がキスをする瞬間、キャメラを薄汚れたガラスの外側へサッと引くあたりの感じが実に面白い。このハニ・アブ・アサドという監督は、何処で映画の勉強をしたのだろう。ずり上げ、下げの切返しの軽快な会話の感じなどは、相当洗練されているし、ヒッチコック的にサスペンスを視線で盛り上げたりもしている。画面やカッティングにおいてなにか「パレスチナ」という感じはしないのだが、キャメラマンがフランスのアントワーヌ・エベレルというもの関係しているのだろうか。光に対する神経のやり方などは相当にはっきりしているし、フィルム自体の肌触りも悪くない。 ベストテン入り |
母を恋はずや(1934松竹蒲田) | 100 | 100 | 監督小津安二郎、撮影青木勇、俳優、大日方伝、吉川満子、飯田蝶子、逢初夢子 見終わった瞬間、『成瀬とは次元が違う、、おそらく「浮雲」(1955)より上だろう、』と呟く。最初と最後の二巻のフィルムが抜けているこの作品は、しかし、それにも拘らずショットの力において華々しく亀裂を生じており、例えば、通常の作家なら、壊すか逆さまにでもしない限り決してその「機能」を破壊させることのできない「椅子」という理性の道具の属性を、小津はただそのままの常態において剥ぎ取り「モノ化」してしまうのだ。 成瀬のサイレント作品の中では「君と別れて」(1933)が非常に優れていると感じているが、そうした次元ではでは到底太刀打ちできない恐さを小津は持っている。 ちなみに「視線論」について言えば、成瀬巳喜男と非常に似通った部分があり、その点については次回の成瀬論文で書いてみたい。 それにしても、掃除婦の飯田蝶子が、実に何の変哲もなく出て来ては、消えて行く、その「放っておける」という大胆さが異常なまでに豊かで仕方がない。 例えば木村拓也などを、画面の奥のテーブルあたりにずっと「放っておく」、或いは吉永小百合あたりを、50メートルくらい先の駅の待合室か何かに「放っておく」。この「放っておく」ことの出来る作家なり監督なりが出てきた時、私は「おおっっ」と密かに驚いて、その人の名前を脳に焼き付けるだろう。 |
2/22更新 | |||
救命艇(194420世紀フォックス) | 100 | 90 | 監督アルフレッド・ヒッチコック 久々に見返してみた。 まずもってこのような題材を撮ってしまう事自体が狂気の沙汰なのであるが、もちろん「このような題材」とは、「ナチ」だの「戦争」だのといったところの、読むことで我々を「安心させてくれる物語」ではなく、ただ単に「密室劇」である、という意味であることは言うまでも無い。簡単な想像力さえあるならば、そもそもこのような「狭い映画」を「撮りましょう」などという物好きはいないはずである。 さて、オープニングのショットを除いて全編を、小さなボートの中だけにキャメラを置いて撮る、という「制約」を受け容れた時、私の興味を引くのは、どうやってヒッチコックはこの「狭い」空間で「広さ」を描くのだろうという一点に絞られる。もちろん「広さ」とは「物理的広さ」であろう訳がない。ボートの大きさは決まっているのだから、当然それは「想像力によって拡張された広さ」の問題である。 ヒッチコックは「寄る」のである。そう、よくよく考えてみればこれしかない。「寄る」しかないのである。いや、実際には他の手法もあるかも知れない。だが「寄る」というのは実に単純で理に適っている。広げるために狭める。寄ることで狭まるのはフレームの中の空間であり、広がるのはフレームの外の空間である。「内を狭める」リスクを敢えて犯すことで「外」への想像力を掻き立てる。 「ボーン・アルティメイタム」に代表されるみすぼらしいシネコン作品群との「寄る」における似て非なる現象は、空間は「狭まるのみ」なのか、その「狭まるのみ」を「美しく狭まるのみ」にするか、或いは同時に「狭めつつ広げること」へと赴くかにあるだろう。 |
ゼイリブ(1988米) | 85 | 85 | 監督ジョン・カーペンター 「神童」が、今ひとつ「制度化」という思考を免れていない作品であるとするならば、この「ゼイリブ」は逆にその「制度」に亀裂を走らせ、我々の「見ること」を不意打ちする表層的な映画であるだろう。 「高度消費社会」という社会現象そのものを、あろうことか「エイリアン」という「怪物」に例えて映画を撮ってしまう、その形振りかまわぬあっけらかんとしたポストモダン的図々しさが、文化的盲目からの心地よい覚醒を味あわせ「見ること」へと引き込んでくる。 紛れもない「画面の映画」であるこの「ゼイリブ」は、教会やテレビ局といった、我々が慣れ親しんだ「善良な」空間を、「危険は今、あなたのすぐ側で起りつつある」というヒッチコック的覗きの視点によってぶち壊しながら、さり気ない「壁」や、「路地」といった空間を事件として露呈させ、ひたすら「見ること」の現在を投げかけてくる。 「見ること」を知ってしまった男が、「見ること」を拒絶する男をひたすら殴る。二人は壁に包囲されたビルの裏路地で延々と殴り合い、それでも男は「見ること」を受け容れようとはしない。さらに二人は殴り合い、映画史上類を見ない長時間の殴り合いのあと、初めて男は「見ること」を受け容れる。「見ること」とは最早、言語や話し合いや買収などといった友好的な方法では決して他人と共有することの出来ない「暴力」としてこの映画では見事に露呈しているのだ。消費社会において「見ること」とは、かくも過剰で瞳の痛みをともなう体験なのだろうか。このシーンはまったくもって過剰なのである。 消費社会という怪物を、見事な寓意で露呈させた過剰なる傑作。 |
神童(2006) | 60 | 80 | 監督荻生田宏治、撮影池内義浩、照明舟橋正夫、録音菊池信之 大部分の画面を光から構成するこの作品は、最近の日本映画の中でも突出して「画面」から入って来る映画であって、だからこそここで紹介したいという欲求に駆られたのだが、例えばバスの中の成海に街路樹の影が断続的に通過する、もちろんこれは、その場所を計算してわざわざ撮ったものと推測されるが、こうしたさり気ない細部への拘りが、全体へと発展をし、そういう連鎖でもって次のシークエンスを見た時に、ピアノ教室の部屋の窓の外のライトグリーンの光線が、部屋の中の手塚里美のライトグリーンのカーディガンと呼応する時、それは偶然ではなく、「仕事」の結果であると確信できる所の諸々の「光の細部」をこの映画は紛れもなく顕在化させている。 撮影池内義浩、照明舟橋正夫 主人公の娘の名が「成瀬」であって、その「成瀬」が、出窓の敷居に腰掛けたりする姿を見た時に、どうしても「成瀬」と「成瀬」を結び付けてしまうのは私の悪い癖だとしても、それは高峰秀子がオフ空間からのピアノの音に導かれた「稲妻」のように、私の記憶を不意に打ち抜くしかない。カップラーメンをすする音だとか、鼻をかむ音などにおいて、「ちょっと音出して食べてみて、」という感じの現場の熱い雰囲気がそれとなく伝わる映画でもある。 録音菊池信之 しかしどうもこの映画は「勝ち組」の映画であって、何ともいえない「冷たさ」に支配されてはいまいか。娘は何もせずとも勝手にチャンスを与えられ、成功し、喝采を浴び、最後は級友を「踏み台」にして華々しくラストを迎える。それが悪い、というのではない。あの「踏み台」も一つの視覚的露呈としての「神童」なり「勝ち組」なのかも知れない。しかし。 「勝ち組」とは、親も裕福な特権階級である(三浦展「下流社会」) それが何故「八百屋の息子」と「貧乏少女」の物語になるのだろう。どうしてもここらあたりが引っ掛かる。私なら思い切って「大富豪の娘」にしてみたいところだ。つまり、私が言いたいのは、誰も「八百屋の息子」と「貧乏少女」には見えないということなのである。それが「冷たさ」となって露呈してしまっているのだ。 演奏後、静まり返った館内に拍手がポツポツと鳴り始め、それが次第に大きくなって大歓声になる、などといった、「恥ずかしい」としか言いようの無い官僚的な演出が、現在の生々しさに対する驚きを根こそぎ「善良」という物語へと転化し、「見ること」を妨害せしめている。こうした「予定調和」へと容易く流れてしまうことに対する危機感の欠乏というものに、極めて保守化した、「シムソンズ的」とも言うべき善良な盲目が口を開けて潜んでいる。 序盤、金属バットの乱闘の時、八百屋の二階から娘の弾くピアノの音が聞こえて来て、みなが二階を見上げるのだが、その時の下から上をローアングルで捉えたあの何もない構図はいったい何なのだろう。二階の「窓」を撮るとか、少なくとも「音」というものの「発信源」への想像力と驚きが、視覚的に露呈しているとは到底言い難い、何かしら「妥協」めいた構図なのだ。 「装置」との相談が足りていないのではないか。 結局の所これは「八百屋の息子」と「貧乏少女」という、「失われた空白部分」を、文化的思考と善良さに基づいてひたすら「埋めなおす」ことで「健康さ」を取り戻すという物語に見えてしまうのだが。 テンポがやや緩慢で、15分ほど映画が長い。 |
2008.1.20更新 |
映画研究塾