映画研究塾トップページへ

藤村隆史論文『ヒッチコック~分断の映画史・第一部』202355再提出

この論文は2015429日に出されている。今回は加筆修正を最小限にとどめ、極力そのままの形で再提出する。

■プロローグ~「白い恐怖」(1945)から

病院に新任の医者であるグレゴリー・ペックがやってきて女医のイングリッド・バーグマンと出会い、二人でピクニックに行って帰って来た晩、寝付けないバーグマンは白いナイトガウンを羽織って椅子に座り、立ち上がって部屋を出て、階段を上り、ドアの下から光りの漏れ差しているグレゴリー・ペックの部屋をやり過ごして右隣の図書室に入ってグレゴリー・ペックの書いた本を取り、図書室を出て帰ろうとして、ふとグレゴリー・ペックの部屋のドアの下から光りが差し込んでいるのを再認し、まだ起きているのかとをドアを開け中へ入る。

    グレゴリー・ペックの部屋へ白いナイトガウンを羽織ったイングリッド・バーグマンが入ってくるシークエンス。

キャメラはランプシェードに薄暗く照らされた居間を通ってゆくバーグマンをフレームに収めながら、画面の左端にグレゴリー・ペックの寝室を捉えてゆく。バーグマンを手前に取り込んだ縦の構図で捉えられたベックの寝室にペックの姿は見えない。キャメラはバーグマンの見た目のショットでソファーで居眠りをしているペックを捉える。その後キャメラは眠りから覚めたグレゴリー・ペックと寝室の外のバーグマンとの間を5回切り返しされ、そこで初めてバーグマンは「もう遅いわ、」と声を発し、ペックは頷いてソファから立ち上がると、バーグマンはここへ来た理由をしどろもどろに語り始め、それに対してペックが静かに答えながら、少しずつバーグマンの方へと歩いてくる。その間キャメラはふたりのあいだ幾度も切り返しながら、次第に二人の距離は縮まってゆく。寝室の影の中から応接間へ出て来たグレゴリー・ペックがクローズアップで突如キャメラの正面を見つめて「二人に何かが起こったからだ」という。それまでもキャメラはふたりをほぼ正面の構図から捉えていたが、視線はそれぞれキャメラの隅へと向けられており、人物がキャメラを真っ直ぐに見つめたのはここでのペックが(この作品の中でも)初めてである。キャメラは次にバーグマンの大きなクローズアップへと切り返されるが、バーグマンは依然、画面の左側を見つめている(画面の隅を見つめているバーグマンと正面を見つめているペックとのイマジナリーラインがずれ始める)。キャメラは再びキャメラを正面に見つめたペックへと切り返されると、そのままペックがキャメラに向かってクローズアップになるまで歩いてくる(持続した時間の中で人物のロングショットからクローズアップへと移行するこうした現象を以降『ショット内モンタージュ』と名付けることにする)。次に切り返されたバーグマンの大きなクローズアップにおいて彼女は依然、キャメラの左側を見つめている。次にペックの両目へクローズアップされると彼はキャメラを正面にではなく、やや下方のバーグマンのいるであろう位置へと視線を戻している(イマジナリーラインは回復されている)。キャメラは閉じられてゆくバーグマンの目へと切り返されるが、ここでもバーグマンの視線は画面の左側を見つめている。バーグマンが目を閉じると画面が開かれてゆく白いドアへとめくるめくオーヴァーラップしてゆき、二人はキスをする。

ここまでバーグマンとグレゴリー・ペックとのあいだには24回の切り返しがなされている。バーグマンからペックへ、ペックからバーグマンへとキャメラは24回、構図=逆構図によって切り返されている。

その24回の切り返しはすべて『内から』なされている。

『内から切り返される』というのはすなわち、二人は同一の画面に収まっていないということを示唆している。外側から切り返されれば、手前に縦の構図で人物の横顔なり後頭部なりが映し出されるので、二人は同一の空間に同時に存在していることが証拠立てられている(完全ではない場合もあるが)。しかし『内側からの切り返し』の場合、二人は同一の空間に同時に存在することをそれだけでは証拠づけることはできない。内側から切り返されるということは、2人の人物の間でキャメラが切れ返されるときショットの内部には一人の人間しか映っていないということであり、そこに2人の人間が存在することを証拠立てようとするならば、そのほかに、二人を同時の画面の中に映し出すところのフルショットなりロングショットが撮られなければならない。だがこのシークエンスにおいてバーグマンがペックの部屋に入って来てから26ショット、そして両者のあいだをキャメラが切り返されてから24ものショットにおいて延々と2人は『内側からの切り返し』によって『分断』され続け、両者が同一の空間に同時に存在することを映画的に証拠立てられていない。やっと二人が同一の画面の中入ってきたのはこのシークエンスが始まってから27番目のショットであり、そこで二人は熱烈なキスシーンを演じている。

患者であるノーマン・ロイドの手術に立ち会い発作を起こしたペックをバーグマンが看病するシークエンス。

まず眠っているグレゴリー・ペックと看病するバーグマンとを同時にフルショットで捉えたキャメラはその後バーグマンの膝の上に置かれたグレゴリー・ペックの著書へと接近し、ペックの筆跡がエドワーズ博士のそれと違うことを指し示す。その後、ベックが「自分が殺したんだ」と告白するまでキャメラはバーグマンとペックとのあいだで6回切り返されているが、そのすべてが『内側からの切り返し』であり、そのままシークエンスは二人を同時に画面に捉えることなく終わっている。

駅の切符売り場で(ジョージア州の)ローマ行の切符を買うシークエンス。

記憶喪失に冒されているペックはかつてみずからの行った場所が思い出せず、バーグマンに『切符売場へ行けば思い出すわ』と促されて二人で切符売り場へ向かう。ここではバーグマンとペックを二人一組として、窓口の係員と二人とのあいだの切り返しに注目したい。(従ってバーグマンとペックとのあいだの関係は無視する)。ここでキャメラはバーグマン+ペックの二人と係員との間で合計14回切り返されている。過去を想い出せないペックは次第に貧血気味となり、バーグマンに励まされながらやっとのことで「ローマ、、」と絞り出すのだがそこまでの14回の切り返しはすべて『内側からの切り返し』によってなされている。その後15回目のショットでベックが貧血で倒れたところでキャメラはフルショットに引かれ、バーグマン、ペック、係員の三人を初めて同時に画面の中に収めることになる。

ローマ行の汽車の中のシークエンス。

向かい合った席に座ったバーグマンとペックが雑談を交わすところをキャメラは横から2人同時に捉えている(『正常な同一画面』)。ところが、話がペックの左手の火傷とニュージャージのローマのことになると、それまでずっと横から二人を同一の画面のフルショットで捉え続けていたキャメラが突如、バーグマンとペックのあいだをクローズアップで切り返し始め、そのままふたりの会話が終わるまで、都合20回切り返されたキャメラはすべて『内側からの切り返し』に終始し、このシークエンスはその後『正常な同一画面』が撮られることなくそのまま終わってしまう。(ここで『正常な同一画面』とは、仮にバーグマンとグレゴリー・ペックの2人が同一画面に入ることを問題にする場合、誰が見てもバーグマンとペックとが同一の画面に入っていることが確認できるという状態であり、ショットの前後のつながり(モンタージュ)、あるいは持続によってそう「推測される」画面は除外される)

バーグマンの恩師の博士、マイクル・チェコフの屋敷へバーグマンと二人で行ったグレゴリー・ペックが夜、剃刀を右手に持って階段を降りてくるシークエンス

1キャメラは二階から降りてくるペックの右手に持っている剃刀がクローズアップになるまでをワンショットで撮り続けた後(ショット内モンタージュ)、奥のデスクに座っているチェコフのロングショットへと一度切り返される。立ち上がったチェコフがキャメラへ向かって歩いてくると、ペックの右手に持たれた剃刀がクローズアップで画面の中に入ってくる。そのままチェコフはベックの右手の剃刀をかすめるようにして奥の台所へ入って行き、戻り際またペックの剃刀の脇を通り、奥のデスクへと戻ってゆく。

2ミルクを入れたチェコフがキャメラへと再び近づいてきて、ペックにカップを渡す。

3その後キャメラの正面やや上を見つめたペックのクローズアップが映し出され、次に、ミルクを飲むベックのグラスの底を通しての主観ショットでペックの左手とキャメラに向かって乾杯するマイクル・チェコフの姿が映し出される。この一連のショットにおいて、

1では、同一画面に映し出されているのはペックの右手とチェコフの全体像であり、ペックとチェコフの全体像は同一の画面には映し出されていない。

2では、コップを渡すマイクル・チェコフの右手とそれを受け取るペックの左手しか同一画面に映し出されていない。

3ではペックの左手とチェコフの全景が同一画面に撮られている。

このシークエンスにおいてペックの顔ないし全体像とマイクル・チェコフの顔ないし全体像とが同一画面に収まることは一度もない。

おかしい。ハリウッド映画の基本的な編集として、同一の空間に複数の人物が存在する場合、まずはその人物たちが同一の空間に存在することを証拠立てるショットを提示しなければならない。①であれば、ペックとバーグマンの目が合ったあたりで一度、バーグマンの背後あたりにキャメラを引いて縦の構図で二人を同時に画面の中に映し出すことで二人が同一の空間に存在していることを観客にそれとなく提示しなければならず、⑤ならば、ペックとマイクル・チェコフがすれ違ったあたりで二人がその同一性を確認できるような全身のショットが同一の画面の中に一度挿入されていなければならない。今、二人の人物は同一の空間に存在し、話し、運動をしている。そうであるならば、それをキッチリと目に見える形で紹介するのがハリウッド映画の規則であり、マナーである。ところがヒッチコックのキャメラはそれをしない。②と④の場合はシークエンスの冒頭において、①と③においてはシークエンス最後において、存在する2(③の切符売り場なら3)は同一の画面に収められているのだから、百歩譲ってこうした不自然さは偶然であると見做すことができなくもない。だが⑤となると最早偶然と見ることはできない。ヒッチコックは明らかにペックとマイクル・チェコフという二人をそれと確認できる形で同一画面に収めることを意図的に拒絶している。それどころかこのシークエンスは「ペックの手とマイクル・チェコフの全身、あるいは手」を同一画面に収めるための奇形の構図が積極的に作られている。そうすることで、間接的にグレゴリー・ペックとマイクル・チェコフを『正常な同一画面』に収めることを拒絶している。

そもそも①にしたところで、シークエンスが始まってから24回もの切り返しがなされているにも拘わらず未だ二人を同一の画面に収めないのは明らかに異質であり、それは駅の窓口における④においても反覆されている。まだシークエンスの最初に二人を同一の画面に収めた②と④はそれなりに説明がつくとしても、シークエンスの開始時点において登場人物を同一の画面に入れて状況を説明しようとしない①と③、さらに⑤は明らかにおかしい。通常のハリウッド的なデクパージュからは決して説明がつかない「違法性」に満たされている。

だがそうした「違法性」は、アバンギャルド映画や前衛映画などの「明確な違法性」と比べるとそれもまた異質である。①から⑤までを見ていた我々はその間、登場する人物たちが同一の画面の中に納まることが拒絶されている傾向にあることに気づきはしないだろう。ましてや①から④には、シークエンスの最初か最後に二人の姿が同一の画面に収まるショットが撮られており、その「違法性」はより巧妙に隠されている。

ラストシーンを見てみたい。

ペック逮捕後、バーグマンが院長のレオ・G・キャロルのオフィスに入って来るシークエンス。

出迎えたレオ・G・キャロルとバーグマンはフルショットで同一の画面の中に収められる。ここまではハリウッド映画の法則通りに撮られている。挨拶が済んだ後バーグマンは椅子に掛け、グレゴリー・ペックの夢分析の話しを始める。キャメラはレオ・G・キャロルへと内側から切り返され、再びバーグマンへと内側から切り返される。椅子から立ち上って、デスクに腰かけるレオ・G・キャロル。キャメラは幾度か二人のあいだを内側から切り返して、デスクから離れて左へ左へと回ってゆくレオ・G・キャロルとバーグマンの姿を捕えてゆく。3分ほど経過した後、ほぼ空間を一周したレオ・G・キャロルがバーグマンの背後をかすめるように通り過ぎ、元いた椅子に腰かける。遂に真相が明らかになり、レオ・G・キャロルはバーグマンへと銃を向ける。ゆっくりと席を立ち、キャメラを正面に見つめた後、出口へと歩いて行くバーグマンの全体像と、銃を握ったレオ・G・キャロルの「手」が縦の構図で同一画面に収められる。

時間にして6分。42回にも亘る切り返しのうち、41回が『内側からの切り返し』であり、外側から切り返されたのはラストショット1ショットしかない。『外側からの切り返し』とは、人物を二人同時に画面の中に収めながら切り返されることであり、通常2人の人物を、仮にこの場面ならバーグマンとレオ・G・キャロルをその人物と特定することのできる『正常な同一画面』の場合もあれば、一人の人物の後頭部しか画面に映らず彼をその人物と特定することのできない『奇妙な同一画面』として撮られることもある。この「白い恐怖」のラストショットにおいて画面の奥にバーグマン、そして手前にはレオ・G・キャロルの姿を同時に収めている。従ってこれは『外側からの切り返し』のようにも見えるが、ここでバーグマンの全身と同時に収まっているのはレオ・G・キャロルの『手だけ』であり、レオ・G・キャロルの『手だけ』がバーグマンの全身と同一の画面の中に収められているに過ぎず、その『手だけ』を見たところでそれがレオ・G・キャロルの手であることは誰にも特定することはできない。これが『奇妙な同一画面』であり、そこにはレオ・G・キャロルの全身と、バーグマンの全身とを、誰でもそれと分かる体裁の同一の画面の中に収めてはならないという力が働いている。

この⑥のシークエンスにはもうひとつ奇妙な出来事がある。デスクの椅子から立ち上がり部屋の中を左へ回ってクルリと一周したレオ・G・キャロルが椅子に座っているバーグマンの横をスルリとすり抜けてゆくシーンがそれだ。キャメラは手前のバーグマンとその横を歩いてゆくレオ・G・キャロルを同時に捉え、それによって二人は零コンマ何秒ほどの瞬間同一画面の中に収まるのだが、その画面に収まっているのはレオ・G・キャロルの全身でも顔でもなく「胴体だけ」であり(『奇妙な同一画面』)、その後フィルムは持続したままバーグマンの横を歩き去ったレオ・G・キャロルのバストショットへと移行するのだが、この時点ですでにバーグマンは画面の右外部へと消えてしまっている。これは極めて奇妙な瞬間である。もしヒッチコックがここでハリウッド映画的な規則を想い出し、二人を同一の画面に収めようとしたのなら、キッチリと持続したフルショットやロングショットによってバーグマンとレオ・G・キャロルの二人を誰が見てもそれ=レオ・G・キャロルとバーグマンであるとわかるような体裁でもって同一の画面に収めたはずである。ところが実際は、ほんの一瞬しか二人は同一の画面の中に収まってはおらず、その画面にしても『正常な同一画面』が撮られる代わりに一方の人物は『胴体だけ』が撮られるという『奇妙な同一画面』が撮られている。

それはあたかも⑤において、マイクル・チェコフと同一の画面に入ったのはペックの『手だけ』であった事実と奇妙に似ている。⑤においての『手』と、⑥における一瞬の通過行為は、そのどちらもが『正常な同一存在』の不在と『奇妙な同一存在』の存在において共通している。『手』や『胴体』という『奇妙な同一画面』が『正常な同一画面』に代置されている。ある不完全な出来事が画面の中に殊更配置されることで他の完全な出来事が隠蔽されている。

■キャメラを見つめること

「白い恐怖」の①にはグレゴリー・ペックがキャメラを真っ直ぐ見据えて近づいてくるショットがある。そもそも『古典的デクパージュ』においてキャメラは客観的第三者として超越しており、人々はまるでキャメラなど存在しないかのように振る舞うことでキャメラは存在を消された不在としての地点から物語を客観的に見つめながらフレームの中に収めてゆく。そもそも現実の我々の生活の中にはキャメラもキャメラマンも存在していないのだから、物語を「ほんとうらしく」撮るためにはキャメラの存在は消されなければならない。

1950年代の後半、フランスで興ったヌーベルヴァーグという運動がある。ヌーベルヴァーグとは「新しい波」であり、彼らはフランスの『良質の伝統』に基づく心理的・舞台的な映画を否定することで映画に新しい力を与えようとした。そこで撮られた映画がフランソワ・トリュフォーの●「大人は判ってくれない」(1959)とゴダールの●「勝手にしやがれ」(1959)等であり、そのどちらのラストシーンでもジャン=ピエール・レオ とジーン・セバーグとがキャメラを真っ直ぐに見据えて終っている。映画の中で展開される物語はフィクションでありキャメラの存在は消さなければならない。人物がキャメラを見つめた時、キャメラそのものが透明な存在ではない何者かへと露呈してしまい、観客は物語から逸脱してしまう。もちろんそれ以前の映画にも、ベルイマンの●「不良少女モニカ」(1952)、オットー・プレミンジャーの●「悲しみよこんにちは」(1957)のように主人公がキャメラを見つめるシーンを撮った「前衛的」作品は存在しており●「大人は判ってくれない」●「勝手にしやがれ」は彼らを尊敬するヌーベルヴァーグが撮った映画であるという点で通底している。

撮り方にも左右されるが仮に人物Bのキャメラ目線のショットが人物Aの主観のショットの体裁で撮られた場合、キャメラを見つめる主体Bは他の主体Aの見た目の状態(主観ショット)として物語上は逸脱を生じてはいない。だが●「大人は判ってくれない」の砂浜にはジャン=ピエール・レオ以外の人物は存在せず、●「勝手にしやがれ」のジーン・セバーグが見つめているジャン=ポール・ベルモンドは既に息絶えているのであり、これらのショットが相手側からの主観ショットである可能性はまったくない。これらは極めて奇妙なショットであり、とりわけ物語からの逸脱を加速させている。さすがにヒッチコックの場合、少なくとも体裁上は物語映画として撮られている以上、あからさまにキャメラそのものを凝視するショットを撮ることはできないようにも思える。だが●「白い恐怖」の①で紹介したシークエンスでグレゴリー・ペックはキャメラの正面を見つめ、切り返されたバーグマンはキャメラの隅を見つめているという場合、ペックのキャメラ目線のショットはバーグマンの見た目の主観ショットであるとは感じられない。グレゴリー・ペックの真正面にキャメラを見つめるショットだけが物語の連結から解かれて露呈しているからだ。端的にヒッチコック●「サイコ」(1960)のラストシーンを挙げてもいい。毛布をかぶったアンソニー・パーキンスはキャメラを抉るように見つめているが、そこにはパーキンス以外の誰もいない。彼はキャメラを物的に凝視しているのだ。映画の人物と同化し物語に浸り切っている観客の目を現実へと惹き戻してしまうこと、これこそハリウッド映画のプロデューサたちが恐れた出来事にほかならない。それがどういうわけか存在してしまう。ドナルド・スポトーはその著書「アート・オブ・ヒッチコック」の中で●「裏窓」(1954)のグレース・ケリーが向かいのアパートで、こちらのアパートから監視をしているジェームズ・スチュワートに後ろ手で指輪を見せた時、それに気づいたレイモンド・バーがキャメラをじっと見つめる瞬間をして『この映画でもっとも背筋の寒くなる瞬間である(『裏窓』を上映すると、ここで観客が一様にざわめく)(アート・オブ・ヒッチコック283頁下段)と書き、山田宏一と和田誠「ヒッチコックに進路を取れ」では同じ●「裏窓」のシーンをして和田誠『レイモンド・バーがこちら側のスチュワートに気づくなんて、瞬間よくできてるなぁ』山田宏一『観客もスチュワートも一緒に思わず「しまった!」と身を引きたくなるものね』和田『カメラ目線になるでしょう。映画では普通あり得ないんだけど、この場合はスチュワートのカメラのファインダーの中という設定だから、まったく自然なんだ』。(ヒッチコックに進路を取れ298)と批評している。

ここで和田誠は

『カメラ目線になるでしょう。映画では普通あり得ないんだけど、この場合はスチュワートのカメラのファインダーの中という設定だから、まったく自然なんだ』

と言っている。この場合、レイモンド・バーはスチュワートの覗いているカメラのファインダーの中という設定であり、それはスチュワートの主観ショットであることによって『スチュワートの見た目』という『物語の範囲内』に収まることになり、だからレイモンド・バーがキャメラを見ることは「自然なんだ」と和田誠は語っているのであり、だからこそ観客たちは「しまった!」と身を引きたくなる。「しまった!」とはあくまでもみずからを映画内人物であるところのジェームズ・スチュワートに同化させた物語的な反応に内包される出来事であり、物語を逸脱した奇妙な出来事に対して観客は「しまった!」と反応するのではない。それに対して●「白い恐怖」のグレゴリー・ペックのカメラ目線は物語的な意味を削ぎ落とされてひたすら見つめている。だがこれがバーグマンの主観ショットだとするならば、物語的な意味を付与されていることになる。バーグマンの見た目という物語がそれだ。この点についてはこのシーンだけで判断を下すことはできない。ヒッチコックの映画史を辿ることで、カメラ目線の問題を相対的に炙り出すことはできないだろうか。

■立ったり座ったりすること

●「白い恐怖」の中で人々は105回、立ったり座ったりしている(何をもって立つ、座るとするのか。椅子の存在を前提とするか否か等、映画的には一義的に決まる問題ではない。ここではじかに床に座っている状態を含めた広い意味での「立つ」「座る」として検討している)。映画が始まると、トランプゲームをしていたロンダ・フレミングが事務員に呼び出されて立ち上がり、ドアから廊下へと出てゆき、その後バーグマンの執務室に入ってきてドアの傍の椅子の肘掛に軽く座り、キャメラが切り返されると、バーグマンがデスクから立ち上がり、ロンダ・フレミングの傍まで歩いて行って椅子に座り、続いてロンダ・フレミングもバーグマンの横の椅子に座る、、、といった具合に、実にスムーズに立つこと、座ることが流れており、人が立ったり座ったりする時にフィルムがカットされていない。キャメラは立ったり座ったりする人々をそのままパンニングやトラッキングでなめらかに追いかけている。こういう出来事は常態なのか変態なのか。小津安二郎や成瀬巳喜男は多くの場合、人々が立ったり座ったりする時にカットを割って、立つ時は引きのポジションからもう一度、座る時には寄りのポジションからもう一度、人物の運動を撮っている。それをあとから編集でつなげてゆくのだが、こうしたカッティング・イン・アクションで立つ・座るという運動を撮る映画とこの「白い恐怖」は対極にある。なにしろ105回人々が立ったり座ったりする中で、カットが割られたのはただの一度しかない。それはバーグマンとペックの二人が恩師のマイケル・チェーホフの家に泊まり、ペックのナイフ事件のあった翌朝、弟子のバーグマンがマイケル・チェーホフを説得し協力にこぎつけたあと、バーグマンが立ち上がる時だ。これひとつしか存在しない。あとはすべて持続している。こういった現象が「正常」なのか「異常」なのか、小津安二郎が「異常」なのかヒッチコックが「異常」なのか、ただこれまでの私の経験からするならば、基本的にハリウッド映画は多くの場合、50回ほど人が立ったり座ったりしたならば、5回か6回ほどカットを割ってカッティング・イン・アクションで撮るものであり、1051という現象は、暫定的ながら「異常」であると判断しておくことにしたい。

■「白い恐怖」(1945)

1945年に撮られた「白い恐怖」は、イギリスからハリウッドへとやってきたヒッチコックによって撮られた八本目のハリウッド映画であり、ヘイズコードという倫理規定によって検閲を受け、古典的デクパージュによって撮られた商業映画である。ヘイズコードが撤廃されたのは1969年であることからすれば、ヒッチコックが映画を撮っていた当時の倫理的傾向は現在よりも遥かに厳しい状況であり、ハリウッド映画の中で撮ることの出来る題材も今に比べて限られていた。そんな中で撮られた「白い恐怖」は異質な出来事を露呈させ続けている。

■①~⑥

ここで再び『奇妙な同一画面』と『正常な同一画面』の検討に戻りたい。「白い恐怖」には見ている者が目を背けたなくなるショットが存在する訳ではない。また物語の不在によって見ている者を不安に陥れることもない。時として本来撮られているべき『正常な同一画面』のショットが存在していないか或いはそれに代えて『奇妙な同一画面』が存在するだけである。そうすることで『正常な同一存在』が隠されている。だがこうした撮り方は物語を観客に分かり易いように分節化しながら進められてゆく古典的デクパージュに反している。ヒッチコックに伝説的インタビューを試みたトリュフォーは「映画術」の中で「あなたは、いつも、ひとつのシーンが最もドラマチックに高揚する瞬間まで、決してセットの全景を見せない」と聞いている(「映画術」223)。トリュフォーがここで語っているのは●「裏窓」の向かいのアパートの夫婦の愛犬が何者かに殺されたシークエンスについてであり、それについてトリュフォーは「それに、ここだけがこの映画の視点が変わるところですね。キャメラがジェームズ・スチュワートのアパートから離れて中庭に出る。このシーンだけが客観的にとらえられる」。そこで先の「あなたは、いつも、ひとつのシーンが最もドラマチックに高揚する瞬間まで、決してセットの全景を見せない」という発言に続くのだが、さらに続けて「たとえば●『パラダイン夫人の恋』(1947)において、弁護士のグレゴリー・ペックが、敗北して、屈辱にまみれて法廷を去ってゆく瞬間に、はじめて法廷の全景をロングでとらえて見せるわけですが、そこに至るまで、すでに五十分の法廷シーンがある。●『裏窓』でも、中庭の全景をはじめて見せるのは、夫婦の愛犬が殺されて、その妻が悲鳴をあげ、それに驚いてアパートの住人たちが窓から顔をだすというドラマチックな絶頂に達した瞬間なわけです」。としている。対するヒッチコックはトリュフォーに同調するように、「フル・ショットはシーンがドラマチックに高揚した時にこそ効果的だ。ここで無駄遣いすることはあるまい」と答えている。残念ながらこの話題に関する二人の会話はここだけで終わってしまい、他の箇所ではこのテーマについての言及はない。「白い恐怖」における『奇妙な同一画面』は偶然の産物なのか。

■「裏窓」(1954)

「裏窓」のオープニングのショットを見てみよう。これがどういう映画なのかは前回の論文(『ヒッチコック・ホークス主義』)を読んで理解して欲しい。

A タイトルの後、キャメラは俯瞰で猫を追いかけながらゆっくりと左へパンして向かいのアパートを映し出しながら、車いすに汗だくで眠っているジェームズ・スチュワートのクローズアップを捉える。これは1ショットで撮られた長回しである。おかしくないだろうか。

B この直後、もう一度キャメラは向かいのアパートからずっと左へぐるりとパンをして、そのままアパートで眠っているスチュワートを持続して捉えている。

一見何の変哲もないショットだが、はっきりとした特徴を有している。向かいのアパートと手前のアパートのジェームズ・スチュワートとが同一画面に入っていない。このふたつの持続したパンニングによる冒頭の2つのショットは、そのキャメラのポジションからして、向かいのアパートと手前のジェームズ・スチュワートとが縦の構図で同一画面に入らないようにセットされている。これは偶然か。成瀬論文で何度も書いた覚えのあるセリフである。「偶然なのか、、」。それを確かめるためには、この映画の中で、手前のアパートの人物と、向かいのアパートないしその住人たちとが縦の構図で同一画面に収まっている(あるいはそれ以外でも収まっているように見える)ショットをすべてここに羅列してみるという手がある。

C 初めてグレース・ケリーが部屋に入って来て見事な夕陽の窓際に座ってシャンペングラスを持ちながらジェームズ・スチュワートと会話をする時、ケリーやスチュワートの背景に、向かいのアパートとその部屋の中で踊子が何かをしている様子がぼやけて映っている。

D その直後、グレース・ケリーに3度キャメラは切り返され、その都度ケリーの背景に向かいのアパートの一部が映るが人影はなく、また非常にぼやけている。

E その後、ベッドに寝そべっていたケリーが立ち上がり、怒ってアパートを出て行こうとして身支度をしている時、切り返されたスチュワートの背後に8回、向かいのアパートが縦のショットで捉えられるが、捉えられたのはアパートのほんの一部で人影もなく、夜でぼやけてほとんど見えない

CからEにおいて、手前のジェームズ・スチュワートと向かいのアパートやダンサーが縦の構図で同一画面の中に映し出されている。だがその同一画面は、それらの建物や人物が「同一の空間に存在する」ことを指し示すには甚だ不完全で不親切な体裁で撮られている。わざわざ不完全な同一画面が撮られているのだ。これは最初に検討した●「白い恐怖」における『奇妙な同一画面』と似通っている。「白い恐怖」においては2人の人物の『手だけ』が同一画面に映し出される『奇妙な同一画面』ともいうべきショットが幾つか存在していたが、それと「裏窓」のこのピンボケの縦の構図は『正常な同一画面』の欠如において似ている。

F 雨が上がった後、眠っているスチュワートからキャメラは大きく向かいのアパートに右へとパンをして怪しい男(レイモンド・バー)とその妻らしき女をロングショットで捉え、そのまま左へパンして眠っているスチュワートを再び捉える。

これはABとよく似ている。長回しで持続した画面の中でジェームズ・スチュワートと向かいのアパートやその住人たちが次々と捉えられているのだが、よく見ると、ジェームズ・スチュワートと向かいのアパートとは同一の画面に同時に映し出されてはいない。だが見ている者たちは持続による残像によってそれらが同一画面に収められたかのように見えてしまう。これは●「白い恐怖」⑥においてバーグマンの横を通過するレオ・G・キャロルの「胴体だけ」がバーグマンと同一画面に映されながら見ている者たちはその後の持続する画面に映し出されるレオ・G・キャロルの全景からキャロルとバーグマンが『正常な同一画面』に収められたかのように見えてしまうのと通底している。これを『持続による同一存在の錯覚』として以下進む。

G 向かいのアパートの3階からロープでつながれたバスケットで地面まで降ろされた子犬を捉えたキャメラはそのまま大きく手前のアパートへ引かれ、セルマ・リッターにマッサージをされているジェームズ・スチュワートを捉える。その瞬間、縦の構図で向かいのアパートのダンサーが同一画面に入ってくる。

これは非常に興味深いショットとしてある。まずバスケットで中庭へ降ろされて中から飛び出す犬をキャメラは捉えながらその運動性そのままに手前のジェームズ・スチュワートのアパートの中へと引かれてしまう。これはABFと似ている。持続による残像によって一見犬とジェームズ・スチュワートとが同一画面に収められたように見えながら、よく見ると犬とジェームズ・スチュワートとは間一髪、同一画面に入っているかどうかのギリギリのところで撮られており少なくとも『正常な同一画面』とは程遠い出来事としてスチュワートと犬との関係は撮られている(『持続による同一存在の錯覚』)。次に画面はそのままダンサーの部屋との縦の構図を捉えるが、ダンサーはボヤけているばかりかこの縦の構図は2秒ほどで終わってしまう。これはCDE型である(『奇妙な同一画面』)

H 夜、バスケットに入って持ち上げられる犬を捉えたキャメラがそのまま左に大きくパンしてアパートの住人たちを映し出しながら、キスをしているジェームズ・スチュワートとグレース・ケリーを捉える。アパートの住人とスチュワートとは同時には画面の中に収められていない。これはABFGと同じ『持続による同一存在の錯覚』

I 「死体をバラバラにするのは大変だろうな、、」と言ったジェームズ・スチュワートから切り返された窓際のグレース・ケリーのバックに向かいのアパートでピアノを弾いているピアニストが縦の構図で3ショット入る。だが背景のピアニストの姿はここでもまたボヤけていて「彼」として特定することはできない(他のピアニストかも知れない(『奇妙な同一画面』)

J 夜、ケリーが新婚のアパートを指して「あの窓の裏の方が何をしているかわかったもんじゃないわ」といったあと、振り向いたスチュワートと向かいのアパートの窓とが縦の構図で入る。新婚夫婦の部屋の窓は閉ざされていて中の薄ら明かりと窓がほんの一瞬映し出されただけの『奇妙な同一画面』。

K 刑事のウエンデル・コリーが初めてアパートにやって来ての最初のショットが、向かいのアパートと手前のアパートの部屋とを縦の構図で鮮明に捉えた初めてのショットである。しかし向かいのアパートに人影はなく具体的な描写(運動)はなにもない。その後、ウエンデル・コリーの背後に向かいのアパートが縦の構図で3ショット入ってくるが、窮屈な構図の上に画面左上のアパートの階上に誰かが映し出されたものの何をしているのか運動がまったく特定できない。これまた奇妙である(『奇妙な同一画面』)

L ミス・ロンリーハートが男を追い出した後、グレース・ケリーが部屋の窓のブラインドを降ろそうとする時に向かいのアパートが縦の構図で入るが、そこには誰も映っておらず、またすぐに簾が降ろされることで見えなくなってしまう。実に奇妙である(『奇妙な同一画面』。

M 唯一この映画において、手前のアパートとの縦の構図ではっきりと向かいのアパートの住人の特定できる運動が撮られたのは、グレース・ケリーがLでブラインドを降ろした後、向かいのアパートから女の悲鳴が聞こえたのでグレース・ケリーがブラインドを上げた瞬間のショットであり、そこではその叫んでいる女の「泣き叫んでいる」という運動がこれまでのようなボヤけたショットではなく、くっきり鮮明な縦のショットで手前と同一の画面に収められて撮られている。手前との完全なパンフォーカスではないものの、具体的なサスペンスとしてのアクションが縦の構図で撮られたのはこのショットが初めてであり、結局のところ、縦の構図で手前のジェームズ・スチュワートと奥のアパートとの運動が同一画面に収まったショットは、このショットひとつしか存在しない。だがこのショットは僅か2秒ほどで転換されてしまう。

トリュフォーが「映画術」で指摘したのはこのシークエンスである。ここで縦の構図を撮ったあと、キャメラが初めて中庭へ出る。具体的には、柱にもたれたダンサーと、上を見上げるミス・ロンリーハートのバストショットがそれぞれ入る。こうした向かいのアパートの住人の近景がここで初めて撮られたことから、トリュフォーか指摘したかったのはこういうショットがここで初めて入るということなのか、それともこのシークエンスの冒頭の縦の構図のことなのかがはっきりと読み取れない。

N 次のシークエンスの冒頭、アパートを見つめているスチュワート、ケリー、リッターの三人後ろ姿と向かいのアパートとが縦の構図にパンフォーカス気味にクッキリと収まっているが日が落ちていて人影もなく、また隠されるようにあっと言う間に次のショットに転換されてしまう(『奇妙な同一画面』。

Oラストシーン キャメラは向かいのアパートの住人たちのその後をゆっくりと見渡しながら左へパンし、車いすで眠っているスチュワートを捉える。これはオープニングのA同様、持続していながら同時存在をしていないショットである(『持続による同一存在の錯覚』)

以上が「裏窓」における、手前のアパートの人物と向かいのアパートやその住人とが同一画面(持続を含む)に収められたショットのすべてである。たったの15箇所しかない。縦の構図ないしそのように感じられるショットがAからOまで15箇所しか存在せず、なおかつその15箇所のすべてにおいて、縦の構図で手前と奥との分かり易い運動を提示することを拒絶している。Mにおける僅か『2秒の同一画面』の提示は『2秒』という極めて短い時間性によって存在そのものが『奇妙』となり、それはあたかも『手だけ』が画面の中に存在する不完全さと呼応しながら『奇妙な同一画面』へと接近していく。

「裏窓」には手前のアパートと向かいのアパートとの『正常な同一画面』などどこにも存在しない。存在するのは『持続による同一存在の錯覚』(ABFGHO)『奇妙な同一画面』(CDEGIJKLMN)だけである。

★『持続による同一存在の錯覚』

『持続による同一存在の錯覚』の場合、「持続」という連続によって時間的には「1ショットの中での同一画面」を保証しておきながら、実はその「同一画面」は時間という残像によってもたらされた虚像にすぎず、実際ABFGHOどこの画面を見ても、手前のアパートの人物と向かいのアパートやその人物たちとは決して同時に「同一画面」の中に入って来ることはない。パンによる撮影ゆえにこれは当然のようにも見えるものの、パンであっても縦の構図で手前と奥とを同一画面の中に『正常に』収めることは可能でありながらここでは周到にキャメラの位置とその動きを計算することで意図的に『正常な同一画面』が撮られることを拒絶している。

★『奇妙な同一画面』

『奇妙な同一画面』は、手前のアパートと向かいのアパートとを縦の構図の同一画面に収めておきながら、映し出された向かいのアパートには人影もなくピンともボヤけていたり(DEKLN)、人影があったとしてもピントがボヤけていたり(CGJ)、あるいは捉えられた縦の構図のショットがすくさま消滅してしまったり(GLMN)している。この映画で唯一奥のアパートに人物が存在しなおかつその人物が鮮明に映し出されかつ具体的な演技をしているMのショットが即座に消えてしまうというのは決して偶然ではない。

『持続による同一存在の錯覚』であれ『奇妙な同一画面』であれ、その演出は非常に細かい。このように小さく細かい演出をわざわざ意図的にやるものなのか。この疑問は私が成瀬巳喜男の論文を書いた時にイヤというほど味わった不思議である。成瀬巳喜男の映画では人物の踏み出す一歩にすら演出上の重大かつ繊細な意味が込められていた。それは成瀬巳喜男の映画の主題を決定的に左右するまったき細部であり、そこには意識的であれ無意識的であれ、ある種の作為というものが潜んでいる。

■パンフォーカス 

パンフォーカスとは縦の構図における画面の手前と奥との両方にピントを合わせる撮影方法だが、ハリウッドにおいてオーソン・ウェルズ●「市民ケーン」(1941)がパンフォーカスで有名になったのは、基本的にハリウッド映画はソフトフォーカス(奥がぼやけている)で撮られることの裏返しであり、従って●「裏窓」の縦の構図も奥のアパートがぼやけていて当然との解釈も成立しないことはない。しかしヒッチコックは基本的にディープフォーカスを好む監督であり、以下のケースにおいてパンフォーカスが撮られている。

●「下り坂」(1927) ①序盤の大学のディナーで大きなテーブルに並んで座る人々を縦の構図の深い深度で撮っている。②アイヴァ・ノヴェロが舞台の上で女優(イザベル・ジーンズ)の煙草入れを盗んでそれを女優の楽屋に届けに行って交際のきっかけとするシークエンスで、椅子に座った女優のパトロン(イアン・ハンター)がソーダ水の栓をひねるとき、手前のソーダ水と奥に映ったアイヴァ・ノヴェロと女優とが奇形なまでの完璧なパンフォーカスによって撮られている。

●「白い恐怖」 ①グレゴリー・ペックが置手紙をして病院から消えた後、彼の後を追うために荷造りをしている奥の寝室のバーグマンと手前のラジオ・時計とがパンフォーカスで撮られている。時計とラジオを極端な手前に置き、バーグマンが奥の部屋に移動しても時計の時間がはっきり読み取れるように撮られている。②バーグマンの恩師(マイケル・チェーホフ)の家でグレゴリー・ペックの精神分析をしている時、手前のバーグマン達と窓の外で雪の中スキーをしている子供たちとが縦の構図で撮られている。

●「パラダイン夫人の恋」(1947) 証人として法廷に入って来るルイ・ジュールダンと被告人席のアリダ・ヴァリとが合成による奇形的なパンフォーカスで撮られている。

●「見知らぬ乗客」(1951) 犯人のロバート・ウォーカーの家で、手前で電話をしているウォーカーと奥の父母(息子は精神がおかしいと話している)とがまったきパンフォーカスで撮られている。

●「鳥」(1963) 教師のスザンヌ・プレシェットの家で手前のソファに座っているプレシェットと奥で電話をしているティッピ・ヘドレンとがパンフォーカスによって撮られている。

ヒッチコックにパンフォーカスについて尋ねたインタビューが存在しないので意図は不明だが、●「市民ケーン」において自殺未遂をした手前のベッドの上のドロシー・カミンゴアとドアを開けて入って来るオーソン・ウェルズとを縦の構図でとらえたパンフォーカスが合成によって撮られた極めて奇形的なものであるように、ヒッチコックもまた●「パラダイン夫人の恋」において合成における奇形的なパンフォーカスを撮り、●「白い恐怖」の②などは●「市民ケーン」において手前のアグネス・ムーアヘッド等と窓の外でソリで遊んでいる子供を縦の構図でとらえたあの有名なパンフォーカスを意識して撮られているようでもあり、その他のパンフォーカスにおいても非常に意図的=奇形的で極端な態様で撮られている。ヒッチコックは●「ロープ」(1948)において全編を体裁上の1ショットで撮るという離れ業を演じているように、一見古典的デクパージュの物語の語り部のように見えながら極めて「前衛的な」試みをし続けている。そんなヒッチコックのことだから、仮に●「裏窓」で手前のジェームズ・スチュワートと奥のアパートなりその住人の物語なりを同一画面に撮ろうと思えば、いとも簡単にやってのけたであろうことは想像に難くない。●「裏窓」における『奇妙な同一画面』・『持続による同一存在の錯覚』における撮影は意図的な分断として撮られているのである。

■「めまい」(1958)

民家の屋根の上を伝って犯人を追跡中に落下しそうになって以来めまい症に苛まれて退職を余儀なくされた刑事のジェームズ・スチュワートが、昔の友人(トム・ヘルモア)から最近妻(キム・ノヴァク)の様子がおかしいので尾行してほしいとの依頼を受けて以来、延々と彼女のあとを尾行し続けるこの作品において、キム・ノヴァクとジェームズ・スチュワートとが「アニー」というレストランで初めて出会って以来、どういう形で2人が画面の中に捉えられているかをここに提示する。

  レストラン「アニー」での出会い

レストランのカウンターからクレーンで奥のテーブルのキム・ノヴァク夫妻へゆっくりとパンしながらキャメラは近づいてゆき、そこからカウンターに座っているジェームズ・スチュワートと夫婦の間を数回キャメラは切り返される。その後テーブルを立ったキム・ノヴァクがキャメラにクローズアップになるまで近づいてきて(ショット内モンタージュ)、スチュワートとキム・ノヴァクは接近遭遇した状態でキャメラはスチュワートに切り返される。何度か二人の間でキャメラが切り返された後、キム・ノヴァクはスチュワートの背後を通り過ぎ、店を出てゆく。この間、最初のショットは持続しているものの両者が同時に画面に収まることはなく(『持続による同一存在の錯覚』)、その後の13に及ぶ切り返しショットはすべて『内側からの切り返し』であることから2人はこの出会いにおける全部で14ショットのシークエンスのあいだ一度も同一画面の中に撮られていない。

  車での追跡→花屋へ

A翌日からジェームズ・スチュワートによる車での追跡が始まる。その間、前を行くキム・ノヴァクの車の全景と手前のスチュワートの車のボンネットとが縦の構図で同一画面に入ることはあるが、それによって特定できるのは『車と車とが同一画面の中に映し出されたこと』のみであり、前を行く車の中にほんとうにキム・ノヴァクが存在しているのかを証拠立てるショットはひとつもなく、またその車と同一画面に映し出される手前の車のボンネットにしてもそれは『ボンネットだけ』でありその車に乗っているのがスチュワートと特定できるようなショットは撮られていない (『奇妙な同一画面』。

B裏路地で降りたキム・ノヴァクを追ってスチュワートは、狭い通路を通って花屋の裏のドアを開ける。花屋の壁の鏡に映るキム・ノヴァクと戸口から顔を出したスチュワートとが初めてここで同一の画面に映し出される。尾行を始めてからこれが36ショット目。レストランから合計すると50ショット目で初めて二人は同一の画面内に映し出されることになる。しかしこの同一画面は同一空間に存在する二人を撮ったショットではなく、スチュワートの横に見えているのは『鏡に映されたキム・ノヴァク』であり(『奇妙な同一画面』)、そこではスチュワートの視線はこちらへ、キム・ノヴァクの視線はあちらへと、途方もなくずれているのであり、こうして撮られた『奇妙な同一画面』は、撮られることで却ってそのあまりの奇妙さゆえに二人の距離を遠ざけることになる。

教会~墓地、画廊

A再び車での追跡が始まり、教会を抜けて墓地へたどり着いたノヴァクの運動がスチュワートの見た目の主観ショットによって彼の瞳に刻み込まれてゆく。再び車での追跡が始まり、画廊に入って奥の長椅子に座って絵を見ているキム・ノヴァクと入口付近で立って様子を見ているスチュワートとが縦の構図で同一画面に収められる。花屋のショットから数えて56ショット目で再び二人は同一画面に収まっているが、手前のスチュワートは後ろ姿で逆光のシルエットに包まれ、それが『ジェームズ・スチュワートである』とはっきりとは特定することはできず、ベンチに座ったキム・ノヴァクもまたその余りの遠さから彼女が『キム・ノヴァクである』と特定できない(『奇妙な同一画面』)

Bその後スチュワートは展示室の中へと入ってゆき、そこに飾られた女の絵と、後ろ姿のキム・ノヴァクの花や巻き毛とを交互に主観ショットによって見比べてゆくのだが、ノヴァクとは決して同一画面に収まることはない。

Cその後スチュワートは再び出口付近まで遠ざかり、係員を呼んで話をするのだが、画廊での最初の『奇妙な同一画面』から17ショット目に撮られたこのショットでは手前の係員とスチュワートが奥のノヴァクと縦の構図で同一画面に収まっているが、手前のスチュワートは彼が『ジェームズ・スチュワートである』とはっきり特定できるものの奥のキム・ノヴァクはこれまた超ロングショットで『キム・ノヴァクである』と特定することはできない(『奇妙な同一画面』)

ホテルで見失う

A画廊から出た直後、二人の車が縦の構図で同一の画面に映し出されるが、手前の車の運転手がそのシルエットから『ジェームズ・スチュワートである』と特定できるにしても(これも微妙だが)、ロングショットで撮られたノヴァクの車の中に存在するのが『キム・ノヴァクである』と特定することはできない(『奇妙な同一画面』)

B再び車での追跡が始まり、ホテルに入ったノヴァクを見失うまで54ショット、この間2人のあいだには『奇妙な同一画面』や『内側からの切り返し』が存在するだけで2人は一度も同一画面の中に撮られてはいない。ここで一日目の追跡は終わる。

2日目 画廊

A翌日、車での追跡を再開してから3ショット目で、画廊へ入るキム・ノヴァクの超ロングショットが入り、ノヴァクが画面の左から消えた後スチュワートが同じくロングショットで画面の右から入ってくる。超ロングショットであることからふたりをそれぞれキム・ノヴァク、ジェームズ・スチュワート、と特定することが困難なばかりか、ノヴァクが画面の左外へ出てからスチュワートが右から入って来るという手の込んだ『持続による同一存在の錯覚』の演出が採られている。

B次の画廊内部のショットでは、入口付近に立っているスチュワートの後姿と奥のキム・ノヴァクのロングショットが縦の構図で同一画面に撮られており、手前のスチュワートは1日目とは違って『ジェームズ・スチュワートである』と特定できるような体裁で撮られているが恩のノヴァクはロングショットで彼女が『キム・ノヴァクである』と特定することは到底できない(『奇妙な同一画面』)

Cだがそのキム・ノヴァクが長椅子から立ち上がり画面手前に近づいてきてかろうじて彼女は『キム・ノヴァクである』と特定できるかできないかの瞬間に際かかった時、ジェームズ・スチュワートは逃げるように画面の右へ消えてしまい(『持続による同一存在の錯覚』)、 『正常な同一画面』へと2人が収まることを拒絶している。ここまで4ショット

海へ

A海へと向けて走行を続ける2人の車が幾度か縦のショットやロングショットで同一画面に収められるが、運転席に座っているのが『キム・ノヴァクである』、あるいは『ジェームズ・スチュワートである』と特定することはできない(『奇妙な同一画面』)

B 海に到着し車から降りた2人をキャメラは幾度が『内側からの切り返し』によって捉えたあと、キム・ノヴァクがいきなりサンフランシスコ湾へ飛び込み、それを見たスチュワートも続いて海へ飛び込み、浮かんでいるキム・ノヴァクを助けるために泳いで接近する。ここまで25ショット、合計256ショット、時間にして43分。初めて2人は『正常な同一画面』によって画面の中に映し出されることになる。さらにそこから車の中にキム・ノヴァクを乗せるまで続けて3ショットが立て続けに『正常な同一画面』によって撮られている。

■他の人物

ここまでの流れの中で、スチュワートがキム・ノヴァク以外の人物と接触した時の画面について検討する。①ジェームズ・スチュワートとホテルの管理人の女とは、管理人がスチュワートと同一空間に入って来てからの23ショット中12ショットが『正常な同一画面』によって撮られている。②バーバラ・ベル・ゲデスの家では13ショット中12ショットが内側からの切り返しだが、残りの1ショットが最初のショットで、そこでスチュワートとゲデスは『正常な同一画面』に収まっている。③調査に行った本屋における14ショットにおいても大部分が『正常な同一画面』であり④クラブで夫のトム・ヘルモアと会った時の11ショットにしても大部分は『外側からの切り返し』であり「異常性」はまったく見られていない。

ジェームズ・スチュワートとキム・ノヴァクとの関係においてだけ、2人は『奇妙な同一画面』、『持続による同一存在の錯覚』、『内側からの切り返し』という手法によって分断されていくのである。

スチュワートの家へ 

A暖炉の部屋のスチュワートからキャメラはパンしてベッドで眠っているキム・ノヴァクを捕える(『持続による同一存在の錯覚』)。しばらくしてベッドルームの電話が鳴ってスチュワートがキム・ノヴァクの夫と話した後(『内側からの切り返し』)12ショット目で、二人が『正常な同一画面』に映し出される。

Bその後、赤いガウンを羽織って居間に入り暖炉の前に座ったキム・ノヴァクとスチュワートとの会話がショットのスピードを増しながら続いてゆくが、再びここでも『内側からの切り返し』が続き、二人が再び同一画面に収まったのはAにおける『正常な同一画面』から37ショット目、しかしそれは『正常な同一画面』ではなく、コーヒーカップを持つスチュワートの『手だけ』がキム・ノヴァクと同一の画面に入ってくる『奇妙な同一画面』として撮られている。

Cその後ヘアピンを持ってきたスチュワートとノヴァクとが横からの『正常な同一画面』に収まるまでさらに16ショットを要している。

D自己紹介をした後、ソファーに腰かけたスチュワートと手前のキム・ノヴァクが『正常な同一画面』に収まるまで10ショット

Eそこからまた『内側からの切り返し』が続きソファに座っているスチュワートの手がキム・ノヴァクの手に触れて2人が『正常な同一画面』に映し出されるまで10ショット。結局スチュワートの家のこのシークエンスにおいては85ショットの内、たったの5ショットしか二人は同一画面に収まってはおらず、その中の一つは『奇妙な同一画面』として撮られており(-B)、依然として二人のあいだの分断は続いている。ただしそれ以前の徹底した分断に比べると、曲がりなりにも4つのショットにおいて『正常な同一画面』が撮られていることからして両者の分断の強度は次第に弱まっている。

キム・ノヴァクはその後スチュワートがトム・ヘルモアからの電話に出ているあいだに姿をくらましてしまい、再び尾行が開始される。

尾行→スチュワートの家へ再び

A翌日、再び車での追跡が始まる。『内側からの切り返し』や『奇妙な同一画面』が撮られながら迷路のよう道路を右に左に曲がりくねり、車から降りた2人がスチュワートの自宅の前で『正常な同一画面』に収まるまで36ショット要している。

Bしかしその後、スチュワートの家の戸口の前で2人は話し込むのだが、ここから一気に画面は『外側からの切り返し』が主となり、38ショット中、21のショットにおいて二人は『正常な同一画面』に収まるようになる。このあたりから2人は急激に接近し始め、それまでの分断された画面から『正常な同一画面』へと関係は移行していく。

9公園へ

樹齢数百年の巨木のある公園へ向かう時、2人は車の中で横並びの『正常な同一画面』によって撮られており、公園でも25ショット中、12ショットにおいて『正常な同一画面』に収まっている。

10海岸

夢の話になり、教会や塔の話しになると『内側からの切り返し』になるものの、あとはすべて『外側からの切り返し』であり。36ショットの内13ショットで『正常な同一画面』に収まっている。

11キム・ノヴァクが夜スチュワートの家へやって来て修道院を想い出すシークエンスは25ショットのうち8ショットが『正常な同一画面』。

12修道院へ 

修道院へ行き、階段を上ってめまい症を発症し、その後「女」が尖塔から飛び降りてシークエンスが終わるまでの50ショットのうち17ショットが『正常な同一画面』として撮られている。

ここで映画の前半が終了し、スチュワートとノヴァクとの親密な関係もまた終了する。

13再会 

町の花屋の前のスチュワートが、歩道を歩いてくるキム・ノヴァクを見つけるシーンでは、2人のあいだはずっと『内側からの切り返し』によって撮られ、11番目のショットでロングショットのキム・ノヴァクの後姿と手前のスチュワートの後姿とが『奇妙な同一画面』において収まる。そこからさらにキム・ノヴァクをホテルまで追いかけてゆき、ドアをノックして出て来たキム・ノヴァクと12番目のショットで『正常な同一画面』に収まるですべて『内側からの切り返し』のよって2人は分断されている。

14ホテルの戸口から部屋の中へ

戸口での2人の会話はすべて『外側からの切り返し』。その後の会話で僅かに内側へ移行するものの、48ショットのうち、22ショットで2人は『正常な同一画面』に収められている。

15ディナー 

キャメラが左へとゆっくりパンしながら、すぐに二人が『正常な同一画面』に収められる。7つのショットのうち1つが『正常な同一画面』。

16キム・ノヴァクのホテルへ帰宅 

Aその後ふたりはレストランを出て車でホテルに着き、廊下を歩いて部屋に入るまでの4つのショットのうち3で『正常な同一画面』に収まる。

Bしかしその後「私が君の面倒を見よう」とスチュワートが切り出し、ベッドの上に座ったキム・ノヴァクがバックの緑色のネオンの光でシルエットとなると、高揚するメロディと共に両者は分断され、そのままスチュワートが部屋を出てゆくまでの15のショットはすべて『内側からの切り返し』によって撮られ、そのままシークエンスは終わってしまう。

17大聖堂から洋服屋に入るまで

その後、大聖堂の遺跡から花屋へ行き、洋服屋に入るまでの9つのショットのうち8が『正常な同一画面』。

18洋服屋と靴屋 

20のうち11のショットが『正常な同一画面』。

19ホテルへ帰る

ここでは13のショットのうち6つのショットが『正常な同一画面』。最初分断されていても持続の中で同一の画面に入って来て『正常な同一画面』となる。持続した画面において無理矢理『持続による同一存在の錯覚』を撮っていた前半とは趣旨が逆転している。

20美容院で髪をブロンドに染めて帰った来たキム・ノヴァク

Aエレベーターから降りて来て廊下の角から出てくるキム・ノヴァクとスチュワートとは5回目のショットで『正常な同一画面』に収まる。

B髪を渦巻き状に上げさせる 

スチュワートはソファーの肘掛けに座り、バスルームの鍵の音(オフ)を聞き立ち上がる。キャメラはバスルームから出てくるキム・ノヴァクへと切り返され、その後キャメラに少しずつ近づいて来て次第にクローズアップへとなってゆくキム・ノヴァクとスチュワートのクローズアップが8回続けて『内側からの切り返し』によって撮られ、9ショット目で初めて『正常な同一画面』に2人は収められる。その後キャメラは左へと延々とまわり続け、バックではスクリーンプロセスで教会の納屋が映し出されている。

21翌朝、ホテルの部屋 

部屋の中での15のショットうち3つで2人は『正常な同一画面』に映し出される。

22修道院、ふたたび

車で修道院に到着し、ふたりで塔の上まで上がるまで21のショットのうち14のショットが『正常な同一画面』によって撮られている。その他のショットは景色や階段の「めまいショット」などで、実際二人が同一画面に収まることのできる可能性のあるショットにおいてはほぼ全ショット、両者は『正常な同一画面』に収まり続けている。

23教会の塔の上 

ラストシーン、教会の尖塔に登りつめた2人のあいだをキャメラは18切り返されてゆくが、18回目で初めて『正常な同一画面』に映し出されるまでの17ショットはすべて『内側からの切り返し』によって分断されている、

■分断

①から⑧の4に至るまで、ジェームズ・スチュワートとキム・ノヴァクのあいだの空間はひたすら分断され続けている。特に⑥のBに至るまでの分断は単に2人を別々の画面に分け撮るだけではなく、『手だけ』『胴体だけ』『ぼやけた背景』等、わざわざ『同一画面』を『奇妙に』提示することによって両者の分断性を加速させ、また1ショットの持続するフィルムによって2人をそれぞれ画面の中に収めながら、綿密な構図と人物、キャメラの動き等でもって決して2人が『同時存在』しないように撮るという離れ業を一度ならず何度も何度も反復させている。

その後⑧のB以降、両者は次第に『正常な同一画面』によって接近するが、教会での事件が起きてスチュワートが入院し、ノヴァクと再会するシークエンス13、ホテルの部屋でスチュワートがノヴァクに『私が君の面倒を見よう』と切り出した直後の16-B、そしてキム・ノヴァクが髪を渦巻き状に束ねてバスルームから出てきた直後の20-B、そしてラストシーンの教会の尖塔のシークエンスの23、、というように、ドラマが高揚し始めた途端=サスペンスが生じる瞬間=スチュワートとノヴァクは再び分断される。

■古典的デクパージュ

古典的デクパージュにおいて『正常な同一画面』が要請されるのは、見ている者たちをして適正な状況判断を授けるためにほかならない。画面に切り取られている同一空間中に誰と誰が存在しているかがまず『正常な同一画面』によって提示され、その後、仮に『内側からの切り返し』によって人と人とが分断されたとしても、最後にもう一度『正常な同一画面』を提示することで客観的な状況を観客に指し示す。『正常な同一画面』は空間的な状況=安心を観客に把握させ、観客をして惑わすことなく主体的な=超越的な=ポジションに置くことを導いてくれる。とするならば、『正常な同一画面』の不在はこの客観性に攻撃を仕掛けることになる。全体を指し示すショットの不在は観客をして全体を把握させることを停止させる。これはヒッチコック映画の人物たちが土地勘の不在な場所へと巻き込まれてゆく様と良く似ている。みずからの職業的運動から切りはなされた人物たちはまるで弾けたピンボールのようにあちこちの土地を彷徨いながら「すること」の運動の中へと巻き込まれてゆく。こうした「めまい」を惹き起こすような現象と同質の出来事が『正常な同一画面』の不在によって主人公ではなく我々観客の側にも同時に惹き起こされている。

■デビュー

●「快楽の園」(1925)

「快楽の園」のオープニングのシーンを検討する。

周囲が暗く切り取られた空間の中で浮き立つように露呈するらせん階段をぐるぐると回りながら駆け下りてくる踊子たちと、それを見つめる最前列の客席の男たちのあいだをキャメラは観客席の男の主観ショットを交えつつ12切り返されている。その切り返しはすべて『内側からの切り返し』によってなされている。さらにまた映画終盤の南の島で、亡霊になって出てきた島の娘と彼女を殺したマイルズ・マンダーとは5回ほど切り返されているがすべて『内側からの切り返し』でありそのまま二人の関係は『正常な同一画面』の不在のまま終了する。

★内側から

「裏窓」においては手前の人物と奥の人物ないしアパートとが同一画面に入らないという視点から検討したが、それは『内側からの切り返し』と同じことを言っている。内側から切り返されるということは、2人の人間の間でキャメラが切れ返されるときショットの内部には一人の人間しか映っていないということであり、それは「裏窓」において、手前のジェームズ・スチュワートと奥のアパートとが縦の構図で撮られていないことと「同一画面の拒絶」において同じである。ただ「快楽の園」の『内側からの切り返し』をどう見るかについてはこれだけで判断はし難い。●「白い恐怖」●「裏窓」において見出された「同一画面」を拒絶するための明らかな作為のようなものまでは「快楽の園」には見出すことはできないからである。

■立つことと座ること

論文DW・グリフィス フレームと分離の法則」(今後投稿されるかも知れません)において、DW・グリフィスの「分離」という手法における視覚的細部として、人間が座ったり立ち上がったりする椅子が人間と人間との関係を提示することについて検討をした。だが今回はカッティングについての検討である。「快楽の園」においては人が53回前後立ったり座ったりし、そのうち8箇所においてカットが割れている。

■キャメラを見つめること

●「快楽の園」において映画が開始してしばらくすると、劇場の入り口で財布をすられたカメリータ・ゲラーティがヴァージニア・ヴァリに連れられて劇場を出る時、男たちに向かって振り向き、キャメラを見つめてニッコリと笑っている。これが仮に男たちの主観ショットの体裁であるとしても随分と大胆なショットが撮られている。わざわざ振り向いて、なおかつキャメラを真っ直ぐ見つめて微笑んでいる。トリュフォーやゴダールが映画史への挑戦として殊更力を入れて「犯した」行為をヒッチコックは主観ショットのオブラートに包み込むことで回避しているもののその後のヒッチコックのサイレント映画において『キャメラを見つめること』は著しく加速していく。ヒッチコック立つ・座る等データ参照」。このデータはヒッチコック映画において『立つ・座る回数とカットの回数』、『人物がキャメラを正面に見つめた回数』『主観ショットの数』『ショット数』等のデータである。これらの出来事を調べたのは、これらが『分断の映画史』と同じように「やばいこと」の範疇に属するのではという推論からだが、ヒッチコックを基に調べたところ『人物がキャメラを正面に見つめた回数』『主観ショットの数』『ショット数』においてサイレント期の後期に頂点に到達し、トーキーへの移行によって激減していることが見えてきた。映画が音と声を得て「すること」の映画から「であること」の物語映画へと急速に転回した時期にこれらの細部が激減しているのは『内側からの切り返し』を含めてこうした細部が「やばいこと」だからにほかならず、今後は『分断の映画史』がいかなる「起源」を有しているのか、ヒッチコック以外の作品にも広げながら、さらなる論文に委ねることにしたい。

■予告編~ゴダール「勝手にしやがれ」(1959)

1オープニングの男と女。

グラビア誌を見ているジャン=ポール・ベルモンドが共犯の女と合図を交わしながら盗もうとする車に乗り込むまで12ショット。そこで初めて2人は『正常な同一画面』によって映し出されるが、その間、ベルモンドと女が撮られた11ショットはすべて『内側からの切り返し』によって分断されている。ベルモンドと車の持ち主・警官との間も分断されている。イマジナリーラインもそもそも存在しないかのようにずれている。

2ラストシーン 

ギャングに撃たれてふらふらと路地を彷徨い歩いてゆくジャン=ポール・ベルモンドをジーン・セバーグが走って追いかけ始めてから、ジーン・セバーグがキャメラを見つめて終わるラストショットまで、9つのショットが撮られている。その中でベルモンドとセバーグとが『同一画面』に収まるのは4番目のショット一つであり、そこでは路上に倒れているジャン=ポール・ベルモンドと、駆け寄ってきたジーン・セバーグの白いハイヒールの『足だけ』が同一画面に撮られている(『奇妙な同一画面』)。それ以外の8つのショットはすべて『内側からの切り返し』によって分断されている。ただひとつの『正常な同一画面』も撮られることもなく「勝手にしやがれ」はそのまま終わっている。このラストシーンのロケーションの撮影現場にジャン=ポール・ベルモンドとジーン・セバーグが2人同時に居合わせたという証拠はどこにもない。

つづく、、