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映画批評

「それでもボクはやってない」(2007)周防正行 「真実」と「映画」について 2007.1.31

●はじめに

最初見た時は、
150分が瞬く間に過ぎ去る感じの感触であったのだが、しかし決して良い映画にも思えず、今一つ割り切れない部分があったので、雹の降り注ぐ嵐の中をもう一度シネコンへと足を運び冷静に見直し、こうして書いているところである。

この映画の最大の問題点は、後に譲る。ここではまず、「第二の問題点」から先に論ずることにしたい。

●第二の問題点

第二の問題点。それはこの映画の「真実らしさ」である。

この作品は「裁判」という「ネタ」を前面に押し出す「HOW TOもの」として、我々素人の知らない様々な刑事手続上の「真実」を教えてくれる。

この映画には、数々の「真実らしき」瞬間が我々を捉えている。そしてそれらの出来事は、実際にあったか、取材して実際にあったと聞いた出来事だと推測される。

周防監督自身も、雑誌やメディア、パンフレット等を通じて、この映画は「現実です」と語っている。

刑事大森南朋の威圧的な態度から始まり、差し入れ出来るものと出来ないものとを教えてくれる刑務官・徳井優、刑事事件と民事事件の差異を教えてくれる弁護士・益岡徹、「公開が原則なのに、、」と、間接的に裁判公開の原則を教えてくれる傍聴人おたく・山本浩司、その他色々な人物が、刑事裁判制度について、実に丁寧に教えてくれる。

これらの親切なセリフは、映画的に見たならば、明らかにマイナスであるところの「説明ゼリフ」であり、映画の持続を破壊するところの要素ではあるものの、ここに語られているのはほとんどが「真実」らしきものであり、これが即、不誠実なりなんなりと言った話へと流れて行くわけではない。

また書記官にしても、裁判官にしても、司法修習生にしても、その仕草と言い、しゃべり方といい、物腰といい、思わず「本当らしい、」と唸らざるを得ない。こうした点の周防正行の才能については疑う余地はないだろう。

裁判日程に関して役所広司の「差し支えです!」という奇妙な言葉も、その言葉の違和感ゆえ余計に「真実らしく」感じるし、傍聴人の人数制限にしても、裁判を見たことがない人々ですらおそらく「真実らしい」と感じてしまう演出だろう。裁判官が居眠りするなどということも、実際には多く在るのかも知れない。性犯罪傍聴おたくだとか、冤罪を訴えて戦っている人々も実際にいる。

●これは「真実」なのか

問題なのは、これらの「真実」の多くのものが、ただの「真実らしきもの」として投げ出されているのではなく、多くの場合、第三の意味(心証)を支持するために存在することにある。

周防監督は、ご自身で、「これが現実の法廷である」(「キネマ旬報20072月上旬号」)と述べられている。ならばここで周防監督に一つ聞きたい。

それなら何故、被害者の少女の家族が傍聴人席にいないのかと。
通常なら私は、映画に対してこのような「物語的な突っ込みを入れる」ことは決してしない。何故ならそれは作り手の「視点」の問題であり、ましてやこれは確固たる視点であり、そういった視点に対しては、通常は他の映画論において評価をなしうるものだからである。

しかし周防監督が、ここまで強行に、「真実だ」、「真実だ」、というショットを並べ、ご自身でもまた「現実だ」、「本物だ」と言われるのであれば、では、被害者の家族が、母親などが傍聴人席にいて、ハンカチで頬を拭っていたほうが「真実らしく」はないだろうか、とも言いたくなるのである。

この映画には、被害者側の傍聴人は一人も出て来ない。傍聴人は、一部の第三者を除いてすべて加瀬の支持者である。これは「現実」なのだろうか。
仮に人権上の問題があって、被害者側の家族が傍聴席に座りづらい事実があるのなら、それを描くのが「真実」ではないだろうか。せめて法廷の廊下なり控え室くらいで、娘を励ます家族のショットを入れてはどうだろうか。仮にこの映画が「真実」ならば。
しかし傍聴人席で、ハンカチで頬をぬぐっているのは、加瀬の母親のもたいまさこであって、被害者の家族らしき人物はそこにはいない。

●真実の組み合わせとモンタージュ

「真実」は、組み合わされることで、「モンタージュ」という、第三の意味へと転化されてゆく。そうなったとき、果たして「モンタージュ」を形成した結果、我々が感じたところの意味なり心証なりまでもを「真実である」と断言して良いものだろうか。

●第三の意味

「モンタージュ」によって形成された「心証」とは、「被告人の無罪」である。或いは被告人への共感と言っても良いし、刑事裁判手続きへの疑念といっても良い。

この映画の「視点」は、先ほどの傍聴人席の例を始めとして、人相学的にも、台詞的にも、心理的にも、「加瀬無罪」の観点から撮られている。その「視点」については後にさらに詳しく検証するが、それをするまでもなく、ラストの加瀬自身によるモノローグ(内心の独白)によって、嘘発見器以上の強度を以って加瀬亮の無罪が裏付けられている。そもそも題名が「それでもボクはやってない」である。当然我々は、加瀬に感情移入して映画を体験することになり、もちろん周防監督の狙いもそこにある。

周防監督は、試写会で映画が終わった後、「加瀬は有罪か無罪か」のアンケートを取ったという話を聞いたが、それはおかしくないだろうか。映画はその「視点」によって、明らかに「加瀬無罪」一点のみを刺しているのだから。

●モンタージュの例

仮に傍聴人席で、被害者の両親が肩を抱き合いながら泣いていたとしたらどうだろう。そんな光景は実際の法廷でもある「真実」である。だが周防監督はそうしたショットを挿入せず、代わりにハンカチで頬をぬぐっている、加瀬の母である、もたいまさこの姿だけを挿入している。これは「モンタージュ」ではないだろうか。

裁判官が交代し、新任の裁判官は反被告的態度を取り続ける。これもまた、「裁判官交代」という実際にある「真実」を積み重ね、他の「心証(意味)」へと転化させた「モンタージュ」であるだろうし、唯野未歩子が、「でも、目が合って、すみません、と謝った人が、そのあと痴漢するなんて、心理的にありえませんよね」という、誰しもが納得してしまう証言をした時、エキストラと思しき30代後半くらいの女性が、傍聴席の最前列やや右の目に付きやすい場所で二度「うん、うん、」と深々とうなずくショットなどもまた、その場所関係と配列によって被告人への同情を誘う「モンタージュ」となるだろう。

「裁判官の居眠り」にしても、実際あの場面であのタイミングですべての裁判官が寝るわけではあるまい。取材をして、そういうことがある、と聞いたところの「居眠り」という「真実」を、あのタイミングで挿入すれば、それは最早「真実」などではなく、れっきとした「モンタージュ」となり、「許せない居眠り」へと変化するのである。同じ「居眠り」が「許せない居眠り」に変化する。すると最早「居眠り」は、「居眠り」という「真実」のもつ意味を明らかに超えてしまうことになる。


●一つの極へ

田中哲司が瀬戸朝香に、示談を加瀬に勧めた理由を告白する時に、確か「通勤帰りの猥褻事件なのに、300万もの保釈金を請求されて、、」とかいうくだりがあって、どうも流れから言うと、周防監督はその被疑者のことも「無罪」と決めているような話し方であって、それは「通勤帰りの猥褻事件なのに、、」というセリフにもさり気なく表れているのであるが、そうした「決め付け」的なものがこの映画には非常に強く作用している。

瀬戸朝香は、一応最初は「被害者寄り」であったのだが、その「被害者寄り」の「寄り方」が余りにも薄っぺらで、例えば加瀬の持っていた痴漢モノのDVDを面会で持って来て加瀬に見せ「これは何?」と聞くなどというのは、余りにもヒステリックな「被害者寄り」であって、そのような行為を見たならば、今時ほとんどの人間が「じゃあ、アダルトビデオを見た人間はそれで痴漢なのか」という反論を意識し「それはおかしい」と熱くなるに決まっているのであって、まったくもって瀬戸朝香の存在は、「反対側」にいた時点では加瀬への同情を引き立てる存在としてしか描かれていない。
その後、瀬戸朝香は「無罪なのに」、「やってもないのに揚げ足ばかり取って」と、加瀬亮の無罪を信じる立場へと変化するが、それは「信じた」というよりも、どちらかと言えば「改心した」という状況に近い。
こういう「対極」の描き方、つまり「反対側の人間は、すべてがまともではない人たち」であり「余りにも信じられないことを言う人たち」であるという描き方は、典型的に「宣伝映画」の手法である。

これ等は氷山の一角に過ぎない。この映画で挿入される多くの「真実」は、「被告人」という一つの極
を支持するものとしてのみ機能し、決して対極の方向を支持するものとして機能していないのである。

●「取捨選択」という主観的行為

結局のところ、周防監督は、取材によって得たあらゆる「真実」の中から「取捨選択」をし、加瀬が無罪に見えるために役立つ「真実」を「真実です」と、優先して入れているに過ぎない。

良いのである。それが「映画」なのだから。それが「視点」というものなのだから。映画とは誰でもない「自分の視点」なのだから、主観的になって当然なのである。

だがしかし、本質的に「視点という取捨選択を不可避的に内在することで主観的にならざるを得ない映画」というメディアを利用しておきながら、それを殊更「真実だ、真実だ」と、その「客観性」に拘り、また、メディアを通じて「これは現実です」と宣伝するのは、倫理上大きな問題がありはしないか。

「真実」も、組み合わせれば「モンタージュ」になり、それは「真実」とは違った「第三の意味」を持ち始める。周防監督がこの映画に差し入れた「真実」は、「取捨選択された真実」であり、「取捨選択された」真実は、その「取」の配列や「捨」によって、「モンタージュ」という「主観」となる。

傍聴人席に「いる人」は「真実」かも知れない。だが「いるべき人」を除外するのは「真実」ではない。

そうなった時に、「これは真実です」と言われるのは極めて後味が悪い。つまり私は「誘導されている」わけだ。

●「ドキュメンタリーとフィクション」

そもそも映画とは、カメラという機械による切り取りによる現実の断片たる客観性と、あくまで「視点」に基づく抽象化作用であるという主観性とを同時に秘めた、摩訶不思議のメディアである。このような、映画の持つメディアそのものの特性として、「真実」なるものをそのまま「これこそが真実である」と提示する事は極めて危険な振る舞いだと私は思っている。映画の「物語」の真実性を前提に大衆に働きかけるのは、極めて危険なプロパガンダに成りうることくらい、周防監督が分からないわけがない。

 だからこそ、「真実」の提示であると思われている「ドキュメンタリー映画」であれ、例えば森達也の書いた「ドキュメンタリーは嘘をつく」という本の題名そのものがいみじくも語るように、本質的に映画は「嘘」を内包する主観的作用であることを当然の前提としながら、「嘘」を「嘘」として真摯に認め、その「嘘」の中から「真」を炙り出すような心持ちでもって映画を撮っているのである。

それはフィクション映画であれドキュメンタリー映画であれ関係なく、映画そのものの持つサガのようなものだ。

「真実の提示」と思われている「ドキュメンタリー」の作家ですら、映画の「嘘」と向き合い、悩み、その中から何かの答えを見つけようともがいている。

この「それでもボクはやってない」は、プロの役者と脚本と演出に基づく「フィクション」である。もちろん「フィクション」はすべてが「嘘」ではない。だがそれでも「フィクション」であることに変わりはない。その「フィクション」であるところの「それでもボクはやってない」において、「これは現実です」と強行に主張し続けることは、「映画」という観点から極めて危険な行為であると私は思う。

●ジャン=リュック・ゴダール

余程周防監督は、痴漢における刑事手続きの杜撰さに怒られたのだろう。それが判らぬわけではない。行動に出た周防監督の方が、行動に出なかった私などよりずっと真摯だ。だが、それでも言わせて頂きたい。こうした傾向的な映画の作り方は、果たして「反対側の極にいる人々」の心を開くのだろうか。あるいは、本当に裁判制度の本質的矛盾を付いていると言えるだろうか。「映画」とは、果たしてそういうこと、つまり「物語の内容の真実性」を訴える時に利用されるに相応しいメディアなのだろうか。

私はポール・グリーングラスの「ユナイテッド93」批評でも、ジャン=リュック・ゴダールの「私はいつも真実を伝えようとしてきたが、それは言われた事柄の真実よりはむしろ、言われた瞬間が真実なものであると思われようとしてきた(ゴダール映画史Ⅱ254)」という言葉を引用しながら同じ事を書いた。

映画と言うものは、「言われた事柄(物語の内容)の真実」を主張し始めたとき、それは「映画」というメディアそのものから離れ、自己矛盾へと陥ってしまうのではないだろうか。

●映画とインテリ

映画というものは、常に他の分野の「インテリ」たちに利用されてきた歴史がある。それによって、映画は「映画」と離れた議論を余儀なくされ、例えば「硫黄島からの手紙」において人々はひたすら「戦争」を語ることで一本の傑作を無残にも消費し、この「それでもボクはやってない」においても人々は「映画」でなく、「裁判」を語るだけ語り、映画を利用するだけ利用した後、再びいつものように映画から離れて行くだろう。この「それでもボクはやってない」は、人々が「映画を利用する」という傾向を、さらに助長することになる危険を大いに秘めている。

だが仮に、この映画を見て「裁判」ではなく、「映画」を考えてみよう、とする人々が多く出て来たとしたならば、私のこの批評など、どぶにでも棄てて頂きたい。

●映画と裁判

私が「それでもボクはやってない」を見て第一に感じたことは、「裁判」と「映画」とは、実に良く似ているなぁ、ということであった。

「映画」も「裁判」も、初めに「真実」ありきの場ではない。どちらも「真」と「嘘」、「ドキュメンタリー」と「フィクション」とが摩訶不思議に戯れ、戦いを生じる、不可解な空間である。

だがこの「それでもボクはやってない」は、「極」を予め決めてしまった上で、この映画は「真実です」と語りかけてくるところに、釈然としないものが残される。「映画」の本質からも、「裁判」の本質からも遊離しているのではないかと。

●映画を見て熱くなったのは何故か

この映画を初めて見た時、私の胸は熱くなり、かーっとして、時間を忘れて映画に没頭した。だがその原因は、私がいつも素晴らしい「映画」に感じるところの感動とは少し違った、物語的なものであった。

この映画を見て我々が感じるのは、怒りであり、憎しみである。映画を見た悦びとは程遠いところの、ある種の「居心地の悪さ」である。

●私ならどうする?

私がプロデューサーなら、どこか一つの極を反対側に動かしてみたい。

例えば裁判官を役所光司にし、検事を瀬戸朝香、弁護人を尾美としのり、そして被告人を加瀬でなく、あの傍聴人おたくを演じた山本光司にしてみてはどうか。この配役転換だけで、この映画はまったく違ったものになると確信する。

●人相学

お分かりだろう。この映画の特徴の一つは「人相学」なのだ。「人相」が陰で相当に映画をコントロールしている。

検察側の証人である「刑事・大森南朋」、「電車の中の目撃者・田口浩正」、そして「駅員・石井洋祐」、この三人と、弁護側証人である「OL・唯野未歩子」とを見比べてみよう。「人相学的に」見て、誰が「嘘つき」で「いい加減」か、一発で判るようにできている。
そして「人相学」もまた、「無罪」という心証に加担するものである。

周防監督が、「物語的なもの」を絶対に譲れないのであれば、せめてこの「人相学」だけでも他方の極へ譲って頂きたかった。それだけで、映画は二つの極の衝突へと豊かな発展を遂げたのではないだろうか。

もちろんそのようなことをすれば、周防監督は「それでは意味がない」と反論されることだろう。だがその「意味」とは、何の意味なのか。

●絶対にダメなのか

では、こういう一方通行の映画が「絶対にダメ」なのかと聞かれたとしたら、私は「判らない」と答えるしかない。こういう手段が必要な時と言うもの在るのかもしれない。それは議論すべき問題だし、私も「ドキュメンタリーとフィクション」というこの問題は、生涯考え続けてゆくべきところの大きなテーマであると確信している。

ただ、こういう映画は、映画と言うメディアの可能性を縮めていると私は思う。

以上は、冒頭でも指摘したところの「第二の問題点」である。

●最大の問題点とは

では、大変遅ればせながら、この映画の「最大の問題点」について言及したい。

それはもちろん「画面」である。この映画の「画面」はすべて「それなりの」ものでしかない。気の利いたショットが極めて少ないのである。実は、それこそが「映画論」としては一番大切なことであって、本当なら、この映画は「画面が凡庸である。だからダメだ」で良いのだと思う。もちろんその「凡庸さ」の中には、前述の「衝突を欠いた一方的な画面」も当然ながら含まれるだろう。

「戦艦ポチョムキン」の監督、セルゲイ・エイゼンシュテインの映画も「煽動」であり「人相学」である。だが、エイゼンシュテインの「煽動」とは「衝突」であり、「感情」であり、「エモーション」でもある。「画面」そのものが大爆発を遂げ、画面そのものが「映画」となる。

だからこそエイゼンシュテインは映画史の中を燦然と未だ生き残っているのであって、仮に彼の作り出した映画の「画面」が凡庸であれば、彼が映画史に名を残すことなど有り得ない。

●映画は二度見よう

さて、「それでもボクはやってない」を一度目に見た時には、物語上の興味からして集中して見ることが出来た。はっきり言って私も「煽動」されていたのかも知れない。

しかし二度目の鑑賞の時には、私の瞳は30分で退屈を始めた。良い映画と言うものは例外なく、一度目よりも二度目の方が面白い。素晴らしい映画の「画面」は驚きの泉だからだ。だがこの「それでもボクはやってない」の二度目は極めて退屈である。「見るもの」が存在しないからだ。

キャメラは、まったく関係のない視点(地点)から関係のある視点までの無駄な動きを最初から最後まで続けている。これは、この映画が必然的に「裁判制度を我々に説明する」という、「説明映画」ゆえに「言語的」にならざるを得ないことから来る「退屈感」を、キャメラの動きによって解放するためのものに過ぎず、その動き自体に何らかの「視点」が存在するとは到底思えない。

面会室に瀬戸が来た時の俯瞰にしても、ラストの事実認定を読んでいる時の回転移動にしても、「手持ち無沙汰」なのであって「視点」ではない。照明と装置の関係についても、「テレビ」とまでは言わないが、「見ること」の喜びに著しく欠けている。

●照明

この映画の「照明」について語る人間は世界で私一人だろう。私はこういうことが一番大切だと確信しているので当然書く。

例えば加瀬が最初未決房に入った時の、本田博太郎が出て来るシークエンスだとか、取調室の加瀬に当たる光、検事室の北見敏之の顔に当たる光など、間違っても「良い」ものではないし、全体的に見て、「見ること」に耐えうる照明は、瀬戸朝香が田中哲司に「証言をして」と迫ったあとの、田中哲司のクローズアップの照明と、加瀬の保釈後の居酒屋のシークエンスの肌触りくらいのもので、それ以外は余りにも常識的な光に終始している。加えて画面には、映画的な「黒」がまったく出ていない。

この映画の照明は、周防正行が、作家である小津安二郎を一気に通り越し、批評家である蓮實重彦の「監督小津安二郎」という書物に直接オマージュを捧げてしまったところのあの「変態家族 兄貴の嫁さん」 (1984)の、あの「晩春」の夜の日本間に捧げた素晴らしい照明の足元にも及ばない。

「そもそもこの映画はそうした絵画的なショットを狙ったものではない」、という反論があるかも知れない。これは「リアリズム」に基づく照明なのだと。出来る限り「自然」に近づけたのだと。
だがそういう反論に対して私は「そんな淋しいことを言ってくれるな」と言いたい。映画とは「光の芸術」ではなかったのか。

「絵画的」であれ、「自然的」であれ、より素晴らしいものを求めてゆくのが創作活動というものであって、「ショボイ」ものが「現実的だ」などという、最近の日本映画の、あるいは世界の映画に共通する、「自然主義」=「照明はそこそこでよい」という逃避型の貧乏主義を受け入れることは到底出来ない。論外である。

「照明力の低下」という事実は、仮に映画がドキュメンタリータッチであれフィクションであれ、映画として好ましくない事実であることだけは付け加えておきたい。

●最後に

周防監督がこの批評をお読みになられたら、おそらく怒り心頭、となることだろう。傍観者的、偽善者的と感じられるかもしれない。だが私は、周防正行が痴漢冤罪の被害者を守ろうとされるのと同じように「映画」を守りたい、それだけである。

映画研究塾 20071月31日