「封切館」2008年度(2024年7月31日再出)
闘茶(2008台、日) | 20 | 50 | 監督ワン・イェメン 「エドワード・ヤンの意志を継ぐ」監督である、とコピーに出ていたので、まさかと思って慌てて見に行ったが、今の時代に「まさか」などという現象が、少なくとも映画の世界において、そうそうあるものではない、という事実を忘れていた。私はすぐそういうことを忘れてしまう。 国際映画であることの混乱のためなのか、それともこれがこの監督の才能なのか、今ひとつ定かではないが、それにしても、ここまで凡庸であって良いものかと、淋しげに帰宅する。 |
地球が静止した日(2008米) | 70 | 80 | 監督スコット・デルクリン クリスマスイヴに見に行き、余りにも面白くて二回続けて見てしまったのだが、1951年版よりも、こちらのほうが「B」としてのスピードを備えいている。まさかシネコンからクリスマスプレゼントを贈られるとは夢にも思わず、どうせだめだろうと思って見に行ったのだが、今、「B」を撮る事の困難な時代の中で、こうして「B」を撮っている、という途方も無い事実に改めて驚きを禁じえない。 まさか「エミリーローズ」の監督が、これを撮ってしまうのかと、未だに信じられない気持ちなのだが、最初のシークエンスは一つの台詞もなかったように、通常のシネコンに乗ってくる映画の二分の一か、おそらく三分の一くらいの台詞に削っていて、よくぞこれだけ台詞を削ったなと、こんなことをすれば、批評家にボロクソにけなされることは明々白々でありながら、台詞の大部分が物語の進行とは何の関係も無い、という、台詞がプロットに引っかからない、という豊かさへの逃亡、これは、今の日本人がもっとも苦手とするタイプの映画である。 眩しい光に何度も襲われて、それでも人々は、瞳を痛めながらも目を開けて、光を見つめている。「目を逸らさずに光を見つめること」、という物語に対して「何故?」と聞かずにはいられない人材を出し続けること、それが現代教育の貧しさである。 |
僕らのミライへの逆回転(2008米) | 50 | 75 | 監督ミシェル・ゴンドリー 映画史とは、このように善良な空間であってよい訳がない。ビデオ屋の美術とか、光線とか、実に良い感じで撮られているし、決して見られない作品ではないのだが、それ以上の何かになることを、監督の映画史に対する甘い認識が阻害している。 |
宮廷画家ゴヤは見た(2006) | 40 | 50 | 監督ミロス・フォアマン こうやって撮ることは判っていたのだが、いざ実際にこうやって撮られてみると、どうしてこうしか撮れないのだと怒ってみたくもなるのだが、外へ頼る作家というものは、生涯外の力に頼らずにはいられない。才能の欠如と言ってしまえばそれまでだが、余りにも外に寄りかかっている。 |
ブタがいた教室(2008日) | 70 | 80 | 監督前田哲、撮影葛西誉仁、照明守利賢一 子供の顔が凄く良くて、もうそれだけで映画の中へ入っていってしまえるのだが、ブタの檻をみんなで作って、これがまた、ほんとうにみんなで檻を作りました、という顔をしていて、檻を作るのに勝手に科学室か何かの木を使ってしまって先生の池田成志に怒られる時の、子供たちの顔、というものは、まさに全員で作りました、勘弁して下さい、という顔をしていて、ぞっとするくらい瑞々しい。檻を作るシーンなどは、望遠で遠くから撮っていて、教室のショットにしても、子供が変に意識をしないようにと、望遠が多く使われた感じはあるものの、最後のディベートの頃になると、望遠でも標準でも関係のないような、いかなるレンズで撮っても撮れてしまうような雰囲気を漂わせている。 前田哲の映画では「パコダテ人」が好きだが、この監督さんは、見ての通り、非常にリズミカルな古典的デクパージュのカッティング・イン・アクションでもって映画を撮る人であって、仮にカメラを複数使ったとしても、それを見事なリズムで音声につなぎ合わせてしまう力を持っている。物語映画の撮り手として実に洗練されている。 心理的な演技がいかに映画を壊すかも良く知っているし、光に対する感覚も非凡である。 甘利はるなが、ブタを赤いバッグに入れて散歩に連れ出した林を俯瞰で捉えたショットから、それを上から見つめる妻夫木聡を、逆光気味に捉えたショットの、妻夫木聡の顔への影の落ち方など、さり気ないながらも的確であり、それは最後、校庭で、みずからの決定を生徒たちに告げるときの、妻夫木聡の逆光気味の顔に落とされた影などにもさり気なく反映している。ここは必ずや逆光で撮らなければならないという、映画的な身体を、この前田哲、という監督は持っている。 雨が降り、雷が鳴り、それまでは集団で行動していた生徒たちが家の中で孤立して、初めて一人になった時、銘々自宅の部屋の中で、ブタについて思いを寄せる、すると歌曲がバックから流れて来て、一人一人の少年少女に対して、一人一人が命なのだと言わんばかりに、一人一人に、美しすぎるほど美しい照明を当ててしまうあたりの「性向」というものは、まさに見ていて「これが映画だ」と呟やかざるを得ないのだが、中でもちょっとお転婆で、感情を外に出しがちではあるものの笑い上戸の、明るい少女を演じた桜あずきの頬に当てられた光線は、「まさか、惚れたのか、、」と思わせてしまうくらいの見事な光線であった。 校長の原田美枝子がブタの檻を掃除して出て来るとき、しゃがんでいる原田を立ったままチラリと見つめる妻夫木聡の視線であるとか、終盤の屋上で、柵にもたれながら、みずからの決定について語る妻夫木聡を、後ろからチラリと盗み見する田畑智子の視線であるとか、さり気ない視線の動きによって、見ることの運動を豊かにしながら、また、オフの空間に対する視線の使い方にしても、例えば序盤、校長室かどこかで、向いに座っている原田美枝子と大杉漣から切返され、ブタを飼う件について説明してい時の妻夫木聡の視線の動きは、オフの見えない空間にいる原田と大杉とのあいだを行ったり来たりしていて、こうしたリズムと空間に対する想像力が、豊かさというものを随時に映画に与えている。それを見ていないのは「批評家」だけである。 電車待ち、ならぬ新幹線待ち、というのも四回ほど成されていて、中でも、右から走って来た新幹線をカメラに捉えてパンしながら、そのまま教室へと対象を変化させるあたりの根性というか、こういうのはルプシャンスキーが好きでよくやるのだが、おそらく助監督あたりが「来ました!」とか大声で合図しながら、タイミングを合わせてカメラをパンさせながら撮ったと推測されるその労働は、新幹線という、高速で過ぎ去ってゆく物体を、動いているカメラのフレームの中にピッタリ入れて撮るのだ、という、はっきり言えば、何の意味も無い、「意地」としか言いようのない拘りが、何故か弛みない運動として画面際立たせる、映画とはそういうものなのだ。 大杉漣や、田畑智子といった大人たちがもっとしゃしゃり出て来て、映画をかき回すべき。一見「子供たちに考えさせる事で教育を」と見せて、大人たちが逃げている。そういう、根本的な弱さというものが、物語の根底に潜んでいて、だからこそこの映画は、一見恐ろしい映画のように見えながら、実はシネコンという、二重の検閲装置を通過した場所にちゃんとかかってしまう。大人たちが安心して見る事ができるからである。大人たちの「逃げ場」がちゃんと用意されている。 最後、ブタにトマトを食わせてトラックの荷台を汚していたが、私ならこういうシーンは絶対に撮らない。感動的なシーンを撮ろうと先走り、労働者の仕事を増やしていることに想像力が働かない。感動をすることに一生懸命で他人への配慮を忘れてしまう。こういう細部にこそ人格というものは出てしまうものなのだから、もう少し大事に撮って欲しかった。 |
トウキョウソナタ(2008日) | 100 | 90 | 監督黒沢清、撮影芦澤明子、照明市川徳充、美術丸尾和行、松本知恵、録音岩倉雅之、音楽橋本和昌、衣装宮本まさ江 批評あり 役所広司は「マクガフィン」であって、マクガフィンには中身はない訳だから、さぞや黒沢監督は、役所広司の「人物像」に苦労したことだろう。マクガフィが、カバンなどの事物であれば、マクガフィンとしての役割さえ終わってしまえばポイと棄ててしまえばよろしいのだし、マクガフィンが人間の場合、多くは無名の役者に演じさせ、すぐ死んでもらうか、どこかへ消えてもらえばよろしいのだが、マクガフィンがスターである場合は、そういう訳には行かなくなる。「マクガフィンの中身」を描かざるを得なくなるからである。だが、何故役所広司は小泉今日子の家に強盗に入り、外へ連れ出し、一人で買い物にやらせ、海へ行くことを許したか、、そんな「何故」などある訳がない。マクガフィンなのだから。彼はひたすら小泉今日子を外へ連れ出し、ショッピングモールで買い物をさせて香川照之と引き合わせ、海へ連れてゆくためにだけ存在している。従ってこの映画の役所広司の行動がほとんど支離滅裂であって、人格のようなものがどこにも感じられないのは、至極映画的な事実であって、決して反映画的な事実ではない。 ちなみにベストテンは上から四番目に入れたが、それは「トウキョウソナタ」を「誰でもかまわない」の上に置いても黒沢清は喜ばないだろうと勝手に想像したからであって、順位にさしたる意味は無い。今年は「接吻」を超える映画が出てくる事はあるまい、と思っていたが、「トウキョウソナタ」の視覚的聴覚的細部の豊かさは驚愕のレベルにまで達しており、無駄な瞬間が一瞬たりとも来ない。照明、装置、美術、小道具、衣装、音楽、音、場所、レンズの選択、時間、カメラワーク、台詞、、すべての瞬間に何かが起こっている。 「崖の上のポニョ」を語りたがる者は大勢いるが、「接吻」や「トウキョウソナタ」を必死で見て語ろうとする者はほとんどいない。決して悪くは無いものの、多くの瞬間を弛緩した画面が流れてゆく「おくりびと」が賞賛を受け続ける中で、何故「接吻」や「トウキョウソナタ」は無視されるのか、両者の順位を逆転させて並べてしまう貧しい批評世界の中に我々がいるということは、覚えておいたほうがよい。 我々は「トウキョウソナタ」を、「ドビュッシーの『月の光』のトウキョウソナタ」にしては決してならない。かと言って我々は「トウキョウソナタ」を「浅田真央の月の光のトウキョウソナタ」にしてはもっとならない。ちなみに「我々」とは誰だ、というお怒りのご質問には、そう思った方は「我々」には入っていない、そういう意味においてのみ「我々」という言葉は意味を持つ、そう言っておきたい。どちらにしても我々は、「我々」が、5人以上存在するとは思ってはいない。 それにしても、あの大きく窓の開け放たれた井川遥のピアノ教室の解放感と、あの吸い込まれるような広さを前にして、井之脇海が立ち止まるという、至極当然でありながら、圧倒的瞬間に、何か途方もない「トウキョウ」というものが包み込まれている。 批評には書ききれなかったが、自宅の中へ入ってくる電車の音は、もう少し詳しく分析することが可能である。力不足を痛感したが、その他にも、「イラク」だの「アメリカが正しいとは限らない」などといった、黒沢清の映画としては耳を疑うようなセリフが幾つも出て来たことは、非常に大きな驚きである。つまりこの映画は、やや「外」へ掛けたフリをしている。つまりそうなると、どこかの映画雑誌のベストテンに入ったりするのであり、それは取りも直さず「トウキョウソナタ」が「ドビュッシーの『月の光』のトウキョウソナタ」として評価されるされることと限りなく同義なのだが、「トウキョウソナタ」は「ツィゴイネルワイゼン」と同様に「外」へ掛かっていながら「内」の力がまったく弱まってはいない。この映画で意欲的に撮られた「盗み見」という、視線の動きによる演出は、成瀬巳喜男と何かしら通じていると密かに思っているが、それは取りも直さず、ショットの強度を分散することでもあるだろう。こうした傾向は「クリント・イーストウッド型」とでも言うか、イーストウッドの「硫黄島からの手紙」が多くの雑誌でベストワンに選ばれたのも、批評家が映画の「外」に反応したからにほかならなず、クリント・イーストウッドは、最近やや映画を「外」へ掛けることで、批評家に勘違いされてアカデミー賞がもらえるようになり、世界的な大ヒットを生むような「A」的監督になったフリをしているのであるが、そうした点で黒沢清の今後の動向は極めて興味深い。 |
8.12.31更新 | |||
落下の王国(2006米) | ? | ? | 1時間20分ほどで外へ避難する。 この作品は多くのショットを、人物をビスタサイズの画面の真ん中に置いて、それを真正面から撮っている。映画というものは、そうやって撮ると、大概が「映画」にはならない。照明を含めて、そうした点に余りにも無関心、無頓着、「映画は誰でも撮れる」と言いたげな自由な画面に耐えられず、退出。 |
きみの友だち(2008日) | 30 | 50 | 監督廣木隆一 石橋杏奈がフィアンセの福士誠治を連れて、田口トモロヲと宮崎美子夫婦の、階段の上にある小さな家へ挨拶に行くシークエンスで、ソファに座っている田口トモロヲの口から出た「もし、変な男なら俺が許さない、」といった趣旨の言葉からして、この場面が、「~の代わりに」という、この石橋杏奈を「娘だと思って」という思いが込められていることがそれとなく判るのであって、つまり、そういうようにわざわざ演出しているにも拘らず、従ってそこから我々は「或る出来事」を推測することができるにも拘らず、それをわざわざもう一度回想で全部視覚的に説明し直してしまうことの凡庸さというものに対して憤りの気持ちを抑えながら、死んだあともまた、時系列で生き返り、また泣く、という、この「泣きなさい」という日本的凡庸さの中への感傷的逃避は、ひたすらショットの力を失わせることでしかない。「なかむらや」の前での音声の遠近法のこととか、暖簾を揺らす風のこととか、サッカーの挿話の話とか、色々と書きたいこともあったが、今回はやめておく。 |
コドモのコドモ(2008日) | 20 | 80 | 監督萩生田宏治、撮影池内義浩 この監督さんは、ポルノ映画というものを見たことがないのかも知れない。「猥褻」という現象に関する感性が余りにも幼稚である。 祖母が倒れて、カメラはそのままに窓の外の雪を捉える。そこでピントを窓の外の雪に合わせる、というのが何ともはやなのだが、次に窓の外から切返して、倒れている祖母を見せてしまうというショットを見たとき、その凡庸さに心の底からがっかりしてしまうのだが、みずからが折角作り出した抒情というものを、みずからの手で壊すことはない。 30分の短編になれば十分であろうと思われる物語を、ここまで引き伸ばして、明らかに無駄なショットで満ち溢れているにも拘らず、120という数字にしてしまう。「神童」に続いて、この映画の人物には人間のハートが欠けている。 ハイキーにしては、ほんのちょっとしたニュアンスでもって光が当たっていて、カラーの感じが良く、日本間の外から畳に反射して部屋の下部を照らす外光などは、その上部の暗さが日本間の照明として生きている。カメラマンの池内義浩は「神童」でも際立っていたが、今回も良い感じで撮れているようだ。 |
闇の子供たち(2008日) | 70 | 70 | 監督脚本阪本順治 妻夫木聡は、相手の瞳を直視することのできないキャメラマンであり、被写体に見つめられると萎縮してしまって撮ることができない。従っていつも「盗撮」という行為に逃げてしまい、タイの警察に捕まったりしている。彼は「盗み見る」という、一方的な視線においてしか、事態を見つめることが出来ない。 こうした妻夫木聡の瞳を、この映画はひとつの普遍的な瞳として提示している。妻夫木聡は、江口洋介に依頼され、ドナーとして病院に売られてゆく少女を隠し撮りでキャメラに収めることになるのだが、その時、妻夫木聡の視線に気付いた少女は、その瞳でもって、つまりその「瞳」とは、第一の普遍的な瞳とは別の「瞳」なのだが、その瞳でもって、妻夫木聡を見つめ返してしまう。驚いた妻夫木聡は、車のダッシュボードにうずくまり、呆然としている。この映画は、こういう映画なのである。瞳に見つめられた時、その瞳をしっかりと見つめ返すことができない卑怯な瞳を、この映画は告発している。 「見ること」へと向けられているが故に、この映画は「見ること」を逃げてきた人々にとって痛々しい体験となる。 |
2008.12.5更新 | |||
TOKIO!(2008日仏韓独) | 監督ミシェル・ゴンドリー「インテリア・デザイン」70-70 基本的に三本ともSFという感じで撮られていて、この短編は、居場所を失った娘が椅子になる。椅子になるのである。だが椅子が、逆様にはならなかった。 ポルノ映画を上映中の映画館で、映画の中の煙に合わせるようにスモークが流れて来て、その発想に観客が驚き拍手する、という感性がすでにSFなのであるが、ポルノ、レッカー移動、菓子の包装、狭いアパートで蒲団を敷いて雑魚寝する、こうした日本的なものがすべて「SF」になる。やけのヤンパチ日焼けのナスビ、みたいな映画である。 監督レオス・カラックス「メルド」75ー75 今回、この作品の上映に合わせて「汚れた血」「ポンヌフの恋人」二本を見直してみたのだが、そのどちらの作品もが、あらゆる瞬間が弛緩することなく持続してゆく紛れも無い傑作である、と確信した時、以前「汚れた血」を見た時に感じた「怒り」というものが一瞬たりとも脳裏をよぎらず、それどころか、その怒り狂った場面で、今回は涙が止まらなくなるという、異常なまでの逆転現象が生じたことに対して、近い将来、私の映画体験の変貌の本質を踏まえて書くことにしたい。もちろん今回は、おそらくこういうことになるだろうという予想の元に再見したわけであるが、結局の所、私の映画体験の「強み」とは、「弱み」を前提にせずして一時たりともあり得ない、という点に、良くも悪くも尽きている。 さて、この「メルド」であるが、SFであり、コメディであり、パロディである、というような、一筋縄では行かない空気を画面に漂わせていて、相当楽しメルド。 冒頭の「糞」という漢字や、テレビニュースの「雲」という漢字、おそらくこの「漢字」というものの視覚的感覚にカラックスは面白がった、という感じがしないでもない。映画開始後、マンホールの「丸い穴」へ向ってズームする時のアイリスの「丸」というかたち、ラストシーンの死刑台の首輪という「丸」と、通風孔の「丸」のかたち、そんなかたちに妙に轢き付けられる。 ジャン=フランソワ・バルメールがドゥニ・ラヴァンの意味不明の言語を通訳するシーンがあるが、ここでバルメールは唾を吐いたり、体操選手のように右足を跳ね上げたり(それも不気味に笑いながら)、奇奇怪怪と大声でしゃべり続け、終わったあと「何を話したのか?」という質問に、「やつの名前を聞いた」と答えるのだが、そんなわけないのであって、つまり質問における運動が「名前を聞くこと」にはどう見ても見えないのであり、その食い違いというものが、質問時の運動と彼の答えとがまったく噛み合っていない差異が、とてつもなく笑いになり、パロディーになる。 「日本人が一番嫌いだからやって来た」というドゥニ・ラヴァンの証言は、というよりもジャン=フランソワ・バルメールの「通訳」は、紛れも無く誰かさんがまじめにそう思っていることを決して誰も否定は出来ないであろう、という真剣さといい加減さとがまったく分割不可能に露呈していて、見事なこれまたパロディーである。 画面の分割は、「絞殺魔」のような「視点を変化させる」という真面目な感じよりも「カメラが複数あります」というモニター感覚としてテレビ的に露呈している。これまたパロディーだ。ちょっとカラックスは怒っているのではないか。 監督ポン・ジュノ「シェイキング東京」65-80 最近こうやって「ゆれる」を体験した映画は黒沢清「叫(さけび)」なのだが、この「シェイキング東京」の揺れはSFのそれである。すると「叫(さけび)」の揺れもまたSFだと見えたりもする。いや、ただ「揺れ」さえすればそれでいいのだ。ちなみに照明は「叫(さけび)」の市川徳充。 この監督、蒼井優に惚れたな、という画面を撮っている。香川照之の部屋の、廊下などに反射する光の感じなどが素晴らしい。撮影は福本淳。この人は、「ワイルド・スピードX3TOKYO DRIFT」の日本編セカンドユニットで撮っている。どの部分を撮ったのか非常に興味がある。美術は厚田満生。 |
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ランジェ公爵夫人(2006仏伊) | 50 | 50 | 監督ジャック・リヴェット撮影ウィリアム・ルプチャンスキー 時間の経つのが非常に遅い。どうも上手く行っていない。「言語の映画」であり、サスペンスに欠ける。言葉の意味の強度が強い。役者の感じが今ひとつよろしくない。 予告編を見た時に、照明と装置の関係がだめなのを見て躊躇したのだが、人物の輪郭というものをぼやかして撮ろうとしているのだろうか。上手くいっているようには見えない。 |
ブーリン家の姉妹(2008米) | 30 | 75 | 監督ジャスティン・チャドウィック 凡庸さにも「許せないレベル」というのがあって、却って黒い部分などの照明とかに凝っているだけに、逆に「凡庸さ」というものが際立ってしまうような、そういう、恥ずかしさ、ある面での豊かさが、貧しさを炙り出している。結局の所、どんなに「美しい光景」なるものを撮ったところで「ショットの力」は強まるものでもなく、逆に弱まることさえあることを覚悟すべきである、ということを、この作家は知らない。字幕を消して見てしまうと、この作品は、「物語」というものを、まったく画面によって処理できていないという事実に我々はハタと気付くことだろう。 「うん」とも「スン」とも言わない。 |
たみおのしあわせ(2007日) | 70 | 監督若松了、撮影山崎裕 一時間チョイで出たので、その一時間限定の批評になるが、どうにも遅い。この映画は二時間近くになるらしいが、こういう映画を二時間で撮ることは、私の理解を超えている。 一つ挙げると、囲碁センターのシークエンスなどは、ただ「名詞を渡す」という「物語」によって画面負けしている。画面が物語に従属している。「物語」から「運動」へと向う思考回路が多くの場合に見えている。 |
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俺たちダンクシューター(2008米) | 65 | 75 | 監督ケルト・オルターマン ウィル・フェレルというコメディアンは、どうにもアメリカという「地方限定」の田舎臭さが鼻につき、世界共通語としての映画の洗練さに欠けていて、これまで面白いと思ったことはあまりなかったのだが、この「俺たちダンクシューター」は、「ギャグの中身」ではなく「顔」そのものが露呈しているところの「映画」であって、確かに「ギャグの中身」にローカル的に走っている部分も目に付くが、映画としての運動がぴしぴしチャピチャピしていて嬉しい。 ウィル・フェレルがチームの解散のスピーチをするシーンなどはちょっと泣いてしまったのだが、矢張りそこに、「チアガール」という仲間たちが同席したことが、何かしらチームとしての映画的感動と結び付いている。90分という上映時間も「助かる」。2時間の映画を二本続けてみるのは、現代映画においては甚だ苦痛だが、90分の映画なら三本続けて見ても疲れない、そんなことも、あったりする。 |
11/4更新 | |||
しあわせのかおり(2008金沢市) | 25 | 60 | 監督脚本三原光尋 映画の中に出てきた一本の日本の橋と、三本(四本?)の中国の橋とを見て『水と橋の映画である』、と書き、厨房に差しかける「西日」と、厨房の窓を通して縦の構図で見えるところのやや露出オーバー気味に飛ばされた「橋」をして、或いは箸を落とした通訳の女性をして、何がしかのことを書こうとはしたものの、筆は進まない。この映画は私が書くことを求めていない。だから書けない。そしてそれは私の問題ではない。 私という人間は、修行不足故に、自分が判り切っている事実をして「お前は判っていないだろう」という類のことを言われたりするのが我慢ならない。おそらくこの映画の作者も同じように、この私の書いたものを見て、我慢ならない思いをしていることだろう。だがそれは、結局の所、私の問題ではない。「映画」とは、「アナタの問題」を「ワタシの問題」に突きつけるところのある種の暴力なのだ。だが私がこの映画に感じた「暴力」とは、そうした暴力とは質的に異なる。「善良な」映画を撮りさえすれば、人は傷つかないだろう、などというのは、ひたすら無神経な人種の思い上がり以外の何ものでもない。 |
東南角部屋二階の女(2008) | 70 | 80 | 監督池田千鶴、撮影たむらまさき、照明平井元、美術三ツ松けいこ、脚本大石三知子俳優西島秀俊、加瀬亮、竹花梓、香川京子、高橋昌也、塩見三省 上映開始前に、スクリーンがスタンダード・サイズへ縮まって行くこの感覚に「ゴダールだ、、、」と呟きながら、今時、どこのバカが、劇映画を「スタンダード・サイズ」で撮っているのかと、アドレナリンが沸き溢れる。加えて映画はまるで「真昼の決闘」のような超ザラザラ粒子のフィルムで画面を覆い尽くし、「いったいこれはどこから紛れ込んで来た映画なのだ」と、頭の中が混乱し、つまりそうさせること自体が池田千鶴の勝ちなのだが、こうした「豊かさ」というものは、例えばアパートの前の路地をロングショットの中で右から左へ横切ってゆく香川京子の「出のショット」にも露呈している。通常これだけの大女優を、新人の監督が、こういう出し方をするなどということは常識では考えられない。まるで「縦の棒」が画面を横切っているような、一本の「線」として香川京子は処理されているのである。私は心の中で「よっぽどのバカか天才か、、」と呟きながら、この映画が、「映画である」という歴史的事実に集約されて行く時、思わず感涙の粒を伝わらせてしまうことを防御できなかった。それは例えば、この人たち、つまり西島秀俊、加瀬亮、竹花梓、香川京子、高橋昌也、塩見三省といった、何の変哲もない、しかし紛れもなく「映画的人物たち」は、あるいは「たむらまさき」などという怪しげなカメラマンは、いったい幾らのギャラを貰っているのだろう、などといった類の素朴な疑問に他ならぬものが「画面」そのものに露呈している、ということなのである。ただこの人たちは、この映画が「映画であること」のためにのみ出演し或いはカメラを回しているとしか思えない、そういう力が、画面の上を支配している。それだけで見に行った価値がある。 だからこそ私は、この映画が「文化庁支援」であってくれるな、と、祈るようにエンドロールを見つめたのだが、最後の最後に「支援・文化庁」と出た時に、ちょっとだけため息をついてしまった。別に支援が悪いことだと言うのではない。ただ「あってくれるな」と、何故か念じたに過ぎない。 どうも最近、女性の新人監督で「小津」というイメージを勝手に想像したくなってしまう作家が何人も出て来るのは錯覚だろうか。もちろんこの映画は「小津」ではない。西島秀俊が勝手に「小津の人」しているだけである。だがどこかで「小津」なのだ。と、すぐに結び付けるのも悪い癖だが、その癖を「直せ」と言われるとおそらく喧嘩になる。 塩見三省の娘が帰宅し、店に入ってきて、「いい男、、」と男たちを見つめるシーンの「ものほしさの視線」の瑞々しさはショックだった。この「物語上、ほとんど何の関係もない部分における過剰」というものは、「才能」であることを、誰それとなく、覚えておいて欲しい。 女将の香川京子が枡酒に二杯ピッタリ酒を注ぐシーンは泣いた。こういうのは流石に「女優」である。 昔、よく「家を建てるなら東南の角地にしなさい」と言われたものだ。その「風通し」というもの、「光線」というものが、視覚的に主題と絡んでいたら、もっと素晴らしくなったのではないだろうか。例えば香川京子が振袖を見てボーゼンと立ち尽くすシーンでは、振袖を「東南の風」で揺らしてくれたら、、。もちろんその直後の高橋昌也と二階の香川京子の見つめ合いは素晴らしかった。 もっと大胆に撮っても文句を言う者はいない。私は言わない。 |
ハンコック(2008米) | 70 | 80 | 監督ピーター・バーグ撮影トビウス・シュリッスラー俳優ウィル・スミス、シャーリーズ・セロン 読みようによってはいくらでも深読みできそうな、現代のアメリカにマッチした主題が深層に隠されているこの映画は、「92」という魅惑的上映時間にしても、「説明しない」という「B」的センスにしても、「シネコン映画」としては、いかにも「シネコン映画」らしくない。 カメラが多少チャカついていても映画にはなり得る、という証拠にもなりそうな軽快なリズムと的確なショットの連なりに加えた、「ヒーローがバカ」という設定の追い討ちに笑い転げる。強盗団が「車の屋根を弁償しろ!」で爆笑し、「ケツの穴事件」の余りにもくだらなさに不意打ちを食らう。そしてそれは、紛れもなく「ショットの力」なのだ。刑務所の面会室でジェイソン・ベイトマンが「グッド・ジョブ」の「グ、、」の発音を連呼し教授するシーンの比類なきバカバカしさこそ私の好み。前半は笑い通し。それこそは「ショットの力」なのだ(ほんまかいな)。 だが終盤にかけて、映画が「バカ」でなくなる。「会話による説明」という、あってはならない余計な顛末が付きまとい、「持続」が停止し、手持ちの揺れがただの「揺れ」として露呈し始める。どうして「説明」してしまうのだろう。そうすることでいったい誰が利するとでも言うのだろう。 それまでは「視線」や「約束」という細部によって力を得ていたショットの力が、「説明」と、その後の力技としての幼稚なカットバックによって弱められてゆく。歴史を超えたラブストーリーの神話が、「種明かし」としての物語へと下降してゆくのだ。 カメラマンのトビウス・シュリッスラーの照明は的確。コダックのフィルム(?)とDELUXEによるプリントの関係も良好で、メーキャップや装置との関係も上々、ショットの力を押し上げている。こういうのが非常に大切なのだが、言ってもまったく通じないので言わないフリをしておく。 ここのところ「おくりびと」に続けてこの「ハンコック」で=「シネコンで泣く」という、あってはならない現象に快感を覚えてみたりもしている。どこで泣いた?、、、それを聞いては始まらない。 |
シークレット・サンシャイン(2007韓国) | 60 | 50 | 監督イ・チャンドン俳優チョン・ドヨン、ソン・ガンホ 決して酷い映画というわけでもなく、見ようと思えばいくらでも見れてしまう作品ではありながら、「外」へかかってゆく性向というものは、変わらないものだ。 前作「オアシス」もまた決して嫌いではないのだが、部屋の中へ子馬が入ってきて人々たちが踊り出すというイメージシーン等では、ショットが「外」へかかり、内なるショットの力が失われていた性向がここでも見出されている。どうしてもこの監督さんは、パゾリーニやケン・ローチと同じように、「外」というものの力を借りないと映画を撮れないようなところがある。だが映画とは、外の力を借りた瞬間、「ツィゴイネルワイゼン」や「硫黄島からの手紙」等僅かな稀有な例外を除いて、決まってショットの力を喪失する歴史の繰り返しなのだ。 同じような意味においてこの作品は「役者の映画」として露呈している。例えば、まずチョン・ドヨンをクローズアップで撮って、そのままカメラが下へパンして、もう一度持続した時間の中でチョン・ドヨンを捉えた瞬間、ドヨンの頬に涙が伝うなどという演出は、「泣きました」という役者の作為をただ物語的に指示するだけで、何らショットの力を誇示するものではない。 ラストの終わり方も、さももったいぶっていて、誰を喜ばそうとしているのだろう。 確かに全編を通じて「意味」なり「ほんとうらしさ」の不在というものが感じられるようにも見られる。だが、「意味」なり「ほんとうらしさ」の不在とは、それを「意図的に」不在にした瞬間、「いかにも」、「さも」といった、もったいぶった「存在そのもの」=スノッブ受けする芸術映画へと堕ちてしまう。そうした点が、ホークスや小津、黒沢清等における「結果的な難解さ」とは質的に異なる。という簡単な事実を多くの批評家がまったく理解していない。彼らはそうした映画をして「意図的に」難解にしているのだと勘違いしている。だから「バカ」なのである。つくづく「バカ」なのだ。私はそういう「バカ」が嫌いである。 フィルムのしなやかさに欠けていて、画面が刺々しい。もちろんそれは「主題」とは関係のない、カメラマンなりラボなりの問題であるだろう。 ショットの力を持っているはずの監督であるが故に、わざわざ外へと逃げてゆく性向が、キム・ギドク同様、もったいなくも感じられる。 |
10/7更新 | |||
アイアンマン(2008米) | 40 | 40 | 監督ジョン・ファヴロー やっと映画が終わったか、と思いきや「エンドクレジットのあとに続きがあります」という字幕が即座に入って、これだけ凡庸な画面を長々と見せ続けておきながら、エンドクレジットまでもを強制的に見せてやろうという、極めて制度的で観客を小ばかにした商売精神にニガ笑をしながら、そういうことなら、と、いつもなら、使われたカラーフィルムのメーカーを確認するために絶対に最後まで見るエンドクレジットとオサラバし、速やかに席を立つ。すると、いつもなら「もう映画は終わったからいいでしょ」という感じで身をかがめることもせずにエンドクレジットの前を堂々とを遮り携帯の灯りを撒き散らしながら退場して行く者たちが、ただの一人も席を立たず、「これは立ち会わねばなるまい、、、」といった神妙な雰囲気でもって、バカでも撮れる凡庸な映画に最後まで立ち会っている姿を見た時に、一刻も早くこの全体主義的空気とオサラバしたい感情に突き動かされると同程度に、「誘導」によって簡単に成立してしまう制度的共同体の恐ろしさに鳥肌が立つ。だからこそ逆に「力」を持った人間たちというものは「誘導」に対して自制的であるべきではないのか。 しかし同様のことは「硫黄島からの手紙」でもやっていて、仮にそれがイーストウッドの仕業でないにしても(するとスピルバーグの仕業ということになってしまうが)、随分と下種なことをするものだと、結構傷ついたりしたものだが、どうして人間というものは、かくも人間たちを「操作」することに対して無神経なのだろう。昨今の、犯罪的に長たらしいエンドロールはそれだけで客をバカにしているにも関わらず、それをすべて見せてしまおうという態度とはいったい何なのだろう。まさかそのような態度が「面白い」とでも思っているのか。 最初の30分で眠くなり、仕方なく人物の背景ばかりを見つめていたのだが、ピントのボヤけた画面の背景には装置、色彩、照明において何の工夫も施されていない「カラ画面」ばかりで再び睡魔が襲う。 映画の製作地は「ハリウッド」でなく「金沢市野々市町17丁目」あたりだろう。見に行けばよかった、。 |
おくりびと(2008日) | 75 | 60 | 監督滝田洋二郎、脚本小山薫堂、音楽久石譲、俳優本木雅弘、広末涼子、山崎努、 シネコンでこれだけ泣かされたのは「硫黄島からの手紙」以来だろうか。 さて、私の涙は、「外」によるものか否か。 画面そのものの持っている力ではなく、「外」の力、即ち、死や死者を送り出す肉親たちの悲しみの視線や言葉が私の過去のある種の「記憶」を呼び覚ますことで生まれたものではないのか。 そこで何よりもこの作品の「ショットの力」そのものが検討の対象となる訳だが、まずもってこの作品は、実はまったくもって心理的ではないのである。 確かに葬式における人々の涙や怒りや悲しみは、仮に「感傷的」と言えば感傷的ということになるのだろうが、だがそれがただの感傷で終わらないのは、人物たちが決して「死」という感傷そのものを我々に対して誘導するのではなく、「死」という儀式に立ち会う本木雅弘の淡々とした「仕事」に対する運動でもって「生」を露呈させ続けているからである。この映画はまさに「生きる」ことの映画である。 それを見事に露呈している例を一つ挙げるとするならば、「納棺」という「穢れた」仕事に不信を持つ妻の広末涼子が、仕事に集中している夫、本木雅弘の姿をじっと見つめているショットの数々を挙げてみたい。 妻は、吉行和子に死化粧を施す夫の姿をじっと正面から見つめている。彼が彼の父の死体を清めている時にも、妻が見つめ続けているのは決して義父の死体ではない。父に淡々と死化粧を整えている夫の横顔なのだ。それは「死」そのものを「感傷」としてグロテスクなまでに何度も露呈させ、「死ぬことそれ自体」を「感動」として我々を泣かそうと企む日本製シネコン映画の程度の低い商売根性とはまったく違ったところの「生きること」を見つめ続ける生きている人間たちの「生きる力」を醸し出すショットの力の美しさなのだ。 それはこの映画における「食べること」「吐くこと」「SEXすること」という、数々の「生のサガ」を露呈させたショットを見た時にも感じられる。 この映画は、ショットの力そのものによって「生」を露呈させているのだ。 「穢れ」という、死に対する神道的な忌避意識を有する日本人が、「穢れ」を「美」として向き合うこの作品は、極めて反制度的な側面を恐ろしく露呈させおり、私の感覚では「靖国」などよりよっぽど「アブナイ」作品であるにも拘らず、難なく「シネコン」に乗っかってしまうというその影の力には、ヘイズコードを逆手にとって中産階級の道徳とやらを笑い続けたハリウッドの一級の作家たちの面影を感じたりもする。 制度にひたすらなびく事しか知らない「シネコン」映画に吹き抜けた一片の美しい風穴である。 |
ウォンテッド(2008米) | 60 | 85 | 監督ティムール・ベクマンベトフ俳優ジェームズ・マカヴォイ、アンジェリーナ・ジョリー撮影ミッチェル・アムンドセン カザフスタンの人間がアメリカ映画を撮らなくても良いとは言わないが、カザフスタン出身の人間が「アメリカ流シネコン映画」を撮る必要はないのではないか、とは言ってみたくもなる。 とは言うもののこの作品は、所謂当方が常日頃言うところの「シネコン映画」とはやや一線を画していて、それは撮影監督ミッチェル・アムンドセンの醸し出す画面の「黒」に拠るところが大きい。ミッチェル・アムンドセンとは、もちろん「トランス・フォーマー」のミッチェル・アムンドセンであるのだが、この「ウォンテッド」もまたバカバカしいほど不必要に早いカッティングの作品でありながら、その背景のちょっとした地面、ちょっとした壁、その濡れ方、電車の存在感などを見た時に、決して「画面を隠す」趣旨で撮られていないことは一目瞭然であるだろう。それにも関わらず、監督は、或いは編集者は、或いは製作者かも知れないし、プロデューサーかも知れないが、或いはそれよりもっと大きな力かもしれないが、そうした力たちが、隠す必要の無い画面をして「隠さねば」という力学でもって押し潰さんともくろむそのバカバカしさにこそ、「自堕落」という言葉が相応しいのである。 画面がローキイ気味で「黒」が出ている。そもそも映画に「黒」が出なくなった原因は、映画のテレビ放送が主流となり、小さなテレビ画面に暗い画面(黒)は見えないからだと、蓮實重彦がどこかで書いていたが、薄型大型テレビが主流になりつつある昨今の情勢からして、今後は「黒」の出た映画が増えてゆくのかも知れない。もちろんそのためには画面のサイズだけでなく、照明や美術の技術もまた大きくしてゆく必要があるだろう。 アンジェリーナ・ジョリーの「のけぞり方」は、それなりに美しいのであり、紡績工場という空間を設定することの映画的したたかさも感じるが、映画における「エロ」とは、「弾(ダン)」ではなく「弾痕(ダンコン)」であることに、彼らが気付いていただろうか。 |
2008.10/1更新 | |||
スカイ・クロラ(2008日) | 50 | 80 | 監督押井守 オタクっぽい感じを受けるのだが、、、 それはそれとして、例えば航空戦にしても、ウェルマンの「つばさ」(1927)とか、ハワード・ヒューズの「地獄の天使」(1930)を見てしまっている者としては、大いにモノ足りず、と言っても、比較の対象でないと言われればそれまでなのだが、だがしかし、映画としての画面から受ける情動の差異においてそれは決して見過ごすことのできない差異ではある。 CGを駆使した重量感ある立体的映像と、二次元的なアニメの平面的映像とは、ただそれだけでは対立の情動を生み出すものではなく、矢張りそこには、視覚的なり聴覚的なりの「細部」というものがあってしかるべきなのだが、この作品には、それを見出すことは甚だ困難である。 設定自体がやたらと理屈っぽく、確かに「主張の中身」それ自体は拝聴に値するにしても、その「描き方」については「映画」としてどうなのだろう。 男が女に煙草の火を付けるシーンで、瞬間サッと俯瞰に引いて撮った、ああいうのが映画だと思うのだが。 仮に宮崎駿の場合、画面から過剰とも言えるメッセージを読み取れてしまい、それがよろしい事なのかよろしくない事なのか、ここでは言及はしないけれど、宮崎駿の映画の場合、それは「画面から」であって、この「スカイ・クロラ」や「時をかける少女」におけるように「画面の外から」ではない。 「オタク」の定義と言うものについて私は詳しいわけでは無いが、少なくとも宮崎駿の劇場映画にこのような「オタク」感覚を直接おぼえた経験は無く、それはおそらく宮崎駿の映画が「画面の映画」であることと何かしら関係していると思われるのだが、だかこの「スカイ・クロラ」の画面に露呈しているものと言えば「精密さ」と「憧れ」という、ともすれば映画の「外部」に位置する要素であって、それは「画面」というものによってもたらされる驚きとは少々異なる。それは「露呈」していないのだがら、見ている者たちが、勝手に設定し直すことが可能であるところのものであり、仮にそれが驚きだとしても、それは画面からの時間差を通じての驚きもどきなのだ。そのような部分に私は「オタク」というものを直感してしまう。 例えばハワード・ホークスの多くの映画の場合、「スカイ・クロラ」と同じように、映画が開始した時点で「既に始まっている」。ハワード・ホークスの人物たちは、多くの場合、既に過去においてある種の「因縁」めいた関係をもっていて、映画が始まってからいきなりそうした因縁について、我々そっちのけでああでもない、こうでもない、と喧嘩さながらしゃべりまくるのだが、その過去が回想で我々に示されることは絶対にない。それは見ている我々までもが、決して「立ち入るべきではない外部」をハワード・ホークスが設定しているからに他ならない。ホークスの映画が「チームの映画」であると感じる理由の一つは、そうした設定がもたらすものなのだ。その「設定」を、私はハワード・ホークスの『倫理』と名付けたい気持ちで一杯なのだが、それは「外部」の設定では在るものの、決して我々が「読み替える」ことの出来ない「現在」として、画面そのものが紛れもなく露呈させているのである。だからこそハワード・ホークスの映画は「ハワード・ホークスの映画」なのである。 |
おいしいコーヒーの真実(2006英米) | 65 | 60 | 監督マーク・フランシス、ニック・フランシス エチオピアのコーヒー農園が、価格破壊によって欧米諸国に搾取されている実情を扱ったドキュメンタリーである。 「パレスチナ1948・NAKUBA(ナクバ)」(7/15更新作品参照)と同じように、ここでもまた、デジタルに映し出された人々の「顔」は、さも「我々は被害者である」という顔をちっともしていないのがひたすら不思議なのだが、ともすれば、「北の湖やめろ!」と叫んでいる我々の方が、よっぽど被害者「らしい顔」をしているのであって、だがその「らしい顔」というものが、時としてグロテスクな偽善を露呈させることもあるのだと、映画は教えてくれたりもするのでコワイ。 農民たちを救済するために走り回っている役員が、痩せこけた農民たちに比べて一人だけ太っていたりする、そういう事を含めて、映画とは残酷なまでに露呈であり、そういう事を含めて、映画とは、見事なまでに「映画」なのである。 |
痛いほどきみが好きなのに(2006米) | 50 | 75 | 監督イーサン・ホーク 映画には「俳優の映画」とそれ以外の映画とがある。 演技について考えた場合、「ほんとうらしい演技」とは、戯曲なり原作なり実在なりモデルなり脚本なりに存在する人物の「再現」にほかならず、それは「再現」なのだがら、それは過去にあったことの模倣であり、我々がスクリーンなり劇場なりで立ち会う瞬間に生成するものではなく、なんとも古臭い過去の燃え滓が「より少ないもの」として再現されるに過ぎない。 アクターズ・スタジオの俳優たちの演技が時としてとてつもなく「古い」と感じられるのは、彼らが「実在の人物」なり「主人公」なりの「ロボット」と化し、人間としての生々しい現在を生きることを忘れているからにほかならない。 だが映画終盤、父のイーサン・ホークと再会するシーンが何となく良く、そのあと、休憩中の酒場のテーブルに逆さまに載せられた椅子の足を逆光でフル活用したことで何となく映画になっている。 |
イースタン・プロミス(2007) | 60 | 60 | 監督デーヴィッド・クローネンバーグ俳優 例えば「喉をかっ裂く」にしても、「どうかっ裂く」のかが、ショットの力を決定するのであり、オチンチンを出すにしても、「どう出す」のかが、ショット力を決めることになるのだが、この作品は、その「裂き方」、「出し方」が、外部の驚きに従属していて、そこにあるとされるところの「リアル感」なるものは、外部の力に寄りかかり、ショットとしての悦びに欠けている。 私には、登場人物がどれもみな同じ人間にしか見えない。 ナオミ・ワッツの大型オートバイの乗り方ひとつとっても、いかにもおっかなびっくり乗っていて、問題なのは、それが「ほんとうらしくなく見える」のでなく、「準備不足」に見えてしまうところの悲しさにあるのだ。 照明とメイクの関係がよろしくない。夜の舗道をほとんど濡らす雨の力が弱い。 結局の所、すべてひっくるめて、視覚的な細部が乏しいということなのだが。 最初の床屋の看板のショットが圧巻である。 シネコンに乗る映画としては、画面の力において上等の部類に属するが、一見過激でありながら、物語的には実に善良であって、おとなしい。 |
9/10更新 | |||
ダークナイト(2008米) | 20 | 50 | 監督脚本原作クリストファー・ノーラン 何故ここまで凡庸なのか、と考えながら見ていたのだが、結局の所、この人の映画の撮り方は映画的な撮り方とはまったく逆であって、まず最初に物語があって、それを画面に当てはめてゆく、だからこそ、こうまで犯罪的に凡庸でくだらないショットが長々と続く映画を150という無神経な数字でもって撮れてしまうのであって、視覚的細部の驚くべき乏しさをしても、ノーランにとって「画面」とは、瞬間瞬間に消費されては消えて行く物語を語るための添え物に過ぎない。 まともなショットと言えば、巨大タンカーの横を二台の車が通過するショットと幾つかの航空撮影のみ。 呆れ果てるほど凡庸である。つまり「バカウケ」する、ということだ。 |
片腕マシンガール(2007日米) | 65 | 70 | 監督脚本井口昇、俳優、八代みなせ、亜紗美、島津健太郎 「ダークナイト」にマシンガンの爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。 会話のシーンなどはやたらと少女趣味的で感傷的、どうなるのか、とヒヤヒヤしながら見ていたが、新人の八代みなせも徐々に画面に慣れてきて、さらにアクションになると映画の人格が豹変し、三人組の忍者に襲われるシーンなど、見た瞬間「あ、違う」と感じるほど、モンタージュによる分析とスピードが「活劇」になっていて、「同じ監督なのか」、、、と思えるくらいカッコ良く、特に八代みなせの振り向き様に、二度ほど寄るカッティング・イン・アクションの感覚や、手裏剣をよけてのけぞった亜紗美を俯瞰から撮ったショットは「カッチョイイ」としか言いようが無い。 アクションの分析というものが、監督自身の身体に浸透していて、体が勝手に動いて撮っているという感じで、クリストファー・ノーランの「ダークナイト」のように、大金を使っても泣きたくなるほど凡庸なアクションしか撮れない作品が存在する反面、まさに井口昇はプロフェッショナルとしての貴重なアクションを堪能させてくれる。好きな人にはたまらない。思わずパンフレットを買ってしまった。値打ちが出るんじゃないかと思って。 |
歩いても歩いても(2007日) | 50 | 60 | 監督是枝裕和 映画というものとそれなりに付き合っていると「リアリズム」という言葉は何となく使えなくなるものだが、おそらくはそれは「リアリズム」という言葉なり現象が、「ほんとうらしさ」という「外部」への逃避として使われる傾向をしての躊躇のように感じられる。 この「歩いても歩いても」は、「こういうことがありますね」「ああいうこともありますね」の「ね」をひたすら我々に投げかけてくる。それは「共感」であり、我々の反応としての「ある、ある」であるだろう。 そうした「ある、ある」傾向というものは、「クイズ100人に聞きました」という番組が代表するように、「共感」という心理現象をもって作品の価値を計らしめんとする傾向の一つであるだろう。 だが何度も書いているように「共感」とは「納得」であり、共感した作品とは「自分と同程度の作品」ということに他ならない。だが、たかだか自分程度のものを「芸術」なり「作品」として見に行くのは、馬鹿馬鹿しさの極みである。芸術なり作品なり創作というものは、見た者たちをして「変化」をもたらしてこそあるのだ。 その「共感」を醸し出す一つの作法として「リアリズム」というものがある。 仮に「夏」という季節のリアリズムについてなら、例えばこの作品における『砂浜へ打ち寄せる波を望遠レンズで撮る、』というショットは、紋切り型のショットに終始し、ショットそのものの力が弱められている。まるで「津軽じょんがら節」である。それは「夏、海、押し寄せる波、」という、映画の「外部としての季節」というものの我々の記憶に対して共感を求めるショットだからに他ならない。そうした傾向のショット、即ち外部に寄りかかったショットというものは、ショットそのものの力を放棄するのだ。 例えば『ブルーライトヨコハマ」というリアリズムもそうだろう。樹木希林が阿部寛に「ブルーライトヨコハマ」のレコードをかけてもらうこのシークエンスでは、さらにショットの力が弱められていることに多くの者たちは瞬時にして気付くはずである。ものの見事に映画が「外部」へと逃避している。そしてそれは「ブルーライトヨコハマ」という過去の記憶を有する者のみの共感に過ぎず、映画を見る者をして驚きへと導くものではない。太宰か三平か、これもまた同様である。 誰へ向けてこの映画を撮っているのだろう、、、そんなことを考えながらの鑑賞となってしまったのは、この作品が、ある特定の層のありきたりの共感を得るためのものとして作られているような気がしてならないからである。 樹木希林の表情が、まるで「殯(もがり)の森」のうだしげきのようにして、我々見ている者をして一定の「方向」へと駆り立てる。特に蝶々を追いかけている時の樹木希林の表情は、まさに「共感」というものを見ている者に強要して来る居心地の悪さに包まれているのであって、そうしたことも含めて、どうもこの映画は上手く行っていない。原田芳雄にしても、ああいう使い方しか出来ないのだろうか。 何かしら、小津的とも見えるショットも散在し、また、「ダークナイト」のように見るに耐えない作品でもなく、見ようと思えば見れてしまう映画ではあるのだが、余りにも外部へと偏りすぎている。 |
接吻(2008日) | 100 | 90 | 監督万田邦敏、録音臼井勝、撮影渡部真、照明和田雄二、美術清水剛、プロデューサー仙頭武則、俳優小池栄子、豊川悦司、仲村トオル、篠田三郎、菅原大吉(記者)、平栗里美(OL)、 批評あり こういう光の在り方もあるのではないかと思えてくる。 批評では「らしくなさ」について書いたが、「らしさ」について書けば、頬を赤らめ、暑苦しく乱れた前髪を垂らして仲村トオルに付きまとう新聞記者の菅原大吉は、この映画で唯一「暑さ」を感じさせる現象であり、また、小池栄子に残業を押し付けるOLの平栗里美や、「取っとけよ、、」と夕刊を取って家に入る大西武志もまた、妙に「らしい」のであるが、彼らが制度の内側の人間たちであることからするならば、それもまた頷けるというものだ。 「暑さ」と言えば、エンジ色の服を着て初めて豊川に面会へ行った小池栄子の、最初のややローアングルのバックから捉えたショットのアゴのあたりに、うっすらと汗らしきものが滲んでいたような感じがあった。 小池栄子は必ずや何処かで賞をもらうだろうが、豊川悦司も凄い。豊川悦司という人は、非常に映画を尊敬している役者さんで、私のお気に入りの一人なのだが、この映画は、ブレッソンですら不思議に思うであろうところの、役者の凄さを露呈させている。役者という人種は、ほっといたら何をしでかすか判らないやりたがり屋の人種である反面、時としてとんでもない力を画面に焼き付けてしまう不可解極まりない者たちでもある。仲村トオルもしっかり抑えているし、篠田三郎の「声」も、耳について離れないくらいだ。 脚本というものは共同で書いて、書き手の人格が齟齬するくらいのものがちょうどよろしいのかも知れない。 非常によくしゃべる映画であって、通常、ここまでしゃべる映画というのは、中々映画になりにくいものだが、何故それが映画になってしまうのか、矢張りそこには「小津」に通じる映画の「ゆれ」というものがあるのではないか。今回書いた批評の「ゆれ」とは、まさに小津映画における人々の会話のように、コミュニケーションの「内容=メッセージ」を超えた、顔や声そのものが剥き出しに露呈することそのものがコミュニケーション足りうるような、そんな感じを持ちながら書いた言葉であったのだが、「接吻」のしゃべりもまた、声そのもの、顔そのものが露呈してしまっている凄い映画である。 |
譜めくりの女(2006仏) | 70 | 80 | 監督ドゥニ・デルクール撮影ジェローム・ペルブラン 潜入型の復讐劇だが、85分という上映時間の魅力を裏打ちするだけのものをカメラマンが見せてくれている。今時、こんな終わり方でいいの?、というくらいの潔い終わり方は、結果(サプライズ)よりもその過程(サスペンス)を見て欲しいという作り手の「B」的精神の現われだろうし、そもそもが、試験演奏中のほんの些細な、だが決定的な無神経をしてここまでの復讐劇を撮ってしまう大胆さが楽しい。 |
8/20更新 | |||
崖の上のポニョ(2008スタジオジブリ) | 85 | 90 | 監督宮崎駿 何故にこれまで、宮崎駿は日本で評価されてきたのか、それはごく簡単な「宮崎駿の勘違い」に他ならない。そもそもが「一流のホークス」であった宮崎駿を、「二流のワイルダー」と勘違いしてしまったことが喜劇の始まりなのだが、それを今になって『「もののけ姫」以降の宮崎駿はちっともワイルダーではない、、、』と嘆いたところで「ホークス」が「ワイルダー」になる訳もなく、ただそれは、そう嘆く批評家が「一流」ではなく「三流」であったことを証明したことに過ぎない。 一流の作家に「二流であること」を要求し、さもなければ「堕落した」と攻撃する、バカとしか言いようのない低レベルの批評家が、映画を食い散らし、「先生」となる。 「探求」を怠り、俗物同士が紋切り型の絆でもって日々のほほんと馴れ合っている事態がこういった「失態」を無神経にも日常的且つ確信犯的にしでかす原因になる。 そもそも「ハワード・ホークスがちっとも判らない日本人」が、何故に宮崎駿へと殺到したのか、そうした簡単な映画の流れについて、キチッと分析して言える批評家が皆無なのもまた喜劇の始まりなのだろう。 雷が鳴って、大雨が降って、停電になって、子供はこういうことすら遊びに変えてしまうから、嬉しくて、家の中を走り回って、そんな走り回るポニョを待ち伏せて、リサがバスタオルでサッとポニョを捕まえて、くるんで濡れたカラダをふいてあげる。、、、 宮崎駿は「親と子」という関係を、「言葉」ではなく、「運動」で現している。ひまわりの家で大雨が降った時、リサは宗介を「運転席側から」車に乗せた。少しでも濡れないようにという「母の運動」である。 宗助の家族とは、「運動の家族」であり「理屈の家族」ではない。「お母さん」と呼んだから「母と子」の関係が形づくられる、そんな家族を宮崎駿はそもそも描こうとしていない。 言葉ではなく、態度でもって、実行でもって「親と子の関係」を作り上げていく。それが宮崎駿が描いた家族なのだ。だからこそ宮崎駿の描いた家族は「宗助!」「リサ!」と名前で呼び合う。血の繋がりをすべてチャラにして、一から親と子の関係を今、作り上げてゆく、そんな家族だからこそ彼らは、ポニョという「移民」を、苦もなく受け容れることができたのである。だからこそこの映画は、シビレルほど「現代的」なのだ。 終盤海底で、リサとグランマンマーレ(ポニョの生みの母)とが会話している姿を「ロングショット」で捉えたシーンが泣きたくなるほど感動的だ。もちろんそこに露呈しているのは、血のつながりのある子供を認知するという「確認的行為」ではない。血のつながりのない子供を母として「引き受ける」という、決意としての創設的行為の醸し出す感動に他ならない。それをロングショットで処理する感覚がたまらなく倫理的なのだ。この映画は徹底的に「覚悟を決めて新しく引き受ける」映画である。それを宮崎駿はただ「ほんとうらしくなく」描いたに過ぎない。 すると案の定、PTA会長のような道徳的批評家がしかめっ面で出て来て「親を呼び捨てにするのはいかがなものか、、」、、と来る。泣きたくなるほどこういう輩は後を絶たない。 私が極めて不愉快なのは、こういう連中の、検閲官の如き「映画を見下した視線」である。現に露呈している作り手の趣旨など推し量ろうともせず(と言ってもこういう連中は画面などまったく見ていない)、自分の気に入らないものは認めない。したがって彼らにとっての「傑作」とは、彼らの気に入った作品=彼らと同程度の作品=ということになり、駄作とは、彼らに理解できない作品=彼らの上をゆく作品=ということになる。だからこそこういった連中は、ダメな映画から順番にベストテンを選ぶのである。そうでなければ「フラガール」などといった愚作がベストワンになどなる訳がない。「フラガール」とは、彼らの「程度」の象徴である。 どちらにせよ、こういう連中のしていることは「批評」ではない。「駄々」である。「駄々イズム」。 「見下げる視線」よりも「見上げる視線」の方が断じて美しい、そんなことをポニョは我々にさり気なく露呈している。 |
ハプニング(2007米) | 70 | 60 | 監督ナイト・シャマラン 「ギリギリシネコンに乗っかった」、といった作品であって、それはもちろん「褒め言葉」なのだが、だからこそ、こういった作品は早々に「打ち切り」という運命にあるだろう。黒沢清の「叫(さけび)」など、気付いた時にはシネコンから消えてなくなっていた。めでたし、めでたし。 「世界観」なる言葉は余り使ったことはなく、好きな言葉でもないのだが、この監督ほど「世界観」と聞いてピッタリ来てしまう人もいない。おおよそ「一台の大型扇風機」でホラー映画を撮ってしまった世界で初めての映画ではないだろうか。 明らかに「持続」というものを蹴散らしかねないこの作品のクローズアップの数々をして私は敬意を表して「滅びのクローズアップ」と名付けてみるのだが、まさに「滅ぶこと」を承知で滅びの中に入って行くナイト・シャマランは、映画の人物たち以上に「suicide.」している。ひょっとしてこの映画はナイト・シャマランの遺言なのか、、、、(と驚いてみせる)。 今の時代、持続した時間の中で「農耕機に轢かれる、」とか、車が「コツン、」と木に衝突するとか、を、恐怖として描ける人はシャマランか黒沢清くらいしかいない。 それにしても、多くの「死」の瞬間を、オフの空間から聞こえて来る音のみによる想像力に任せ続けるこの愚直なまでの「映画主義」というものは何なのだろう。もちろんこれは、日常生活における道徳なるものとは質的に異なるところの映画的倫理以外の何物でもないのであるが、何か、寒々とするくらい倫理に忠実なその様は、何に対する怒りなのだろう。 それにしても、、、と、それにしてもが続くが、それにしても、こういうラストは、何と言うか「サンゲリア」のようなラストなのだが、嫌いではない。妊娠した妻が、通りで待っている感じなども、いかにもアメリカ映画の記憶が入っていて嫌いではない。 |
愛おしき隣人(2007スウェーデンほか) | 85 | 90 | 監督脚本ロイ・アンダーソン撮影グスタフ・ダニエルソン 第一のショットで、やや露出アンダーともとれるような薄暗い部屋が映し出されるのだが、カーテンの開け放たれた窓の外の景色が、その薄緑がかったフィルムの上で余りにも美しく、次第に眼も慣れてくると、これは露出アンダーどころか、ギリギリの線における見事なフィルムなのだと確信し、眠気も吹っ飛び、「これはイーストマンか?、、」と心の中で呟きながら見ていると、次のショットでベンチに座って愚痴をこね回していた女のセリフのリズムが、何やらバックから流れて来るサウンドトラックのBGMのリズムに呼応し始め、そのまま女が何とセリフのまま歌い始めた時、「これは傑作に違いない、、」と、心がダメを押して呟くのだ。 さらに見続けていくと、「窓」「窓」「窓」、、と、ひたすら透明な「窓」ガラスの内との外とがその通風性を保ち始め、「ガラスの映画だ、、、」と心が呟き始めた時、映画はまさに「窓」という「窓」によって埋め尽くされ、人々はひたすら窓を通して雷の鳴り続ける窓の外を見つめ続け、電気椅子にくくりつけられる男をガラス越しに凝視し、そして遂には疾走する新婚旅行の汽車の窓ガラスの外が、トンネルの中から外へと解放されながら、長回しの持続の中で、左から右へと切れ続ける景色の中から遂に駅が現われ、新婚の二人を見送る群衆たちがものの見事に出現した時、その現実感となって我々を宙吊りにした光景が、娘の儚い「夢」だと判っているがその故に、映画は美しすぎる苦悩の中で、楽天を自らに禁じながら、切なくも堂々とした足取りで進行していくのだ。娘の「夢」に立ち会ったバーテンが、ハンカチで目頭を押さえたのは、まさに「ラストオーダー」の醸し出す切なさと孤独を知り尽くした者のみに分かち合える見事な共感である。 誰にも判ってもらえなず、孤独に傷ついた人々を描いたこの映画は、外との境界であり、常に透明であり続けるガラスの開放感が、希望として露呈し続けている。 この作品で、窓ガラスにカーテンが引かれ外界から遮断されていた空間は、スリの男が行った洋服屋、ただ一箇所だけであって、その他の多くの空間は、仮に窓のない部屋であってもドアが開け放たれ、又は誰かの手によってドアが開けられる、といった通風性を露呈させているのである。 同時上映された「スウェーディッシュ・ラブ・ストーリー」(1969)より、こっちの方がずっと良い。 |
リボルバー(2005英仏) | 40 | 80 | 監督ガイ・リッチー 映画史を一からやり直そうというのだろうか。どうもラリッている。、、、 |
非現実の王国で・ヘンリー・ダーガーの謎(2005米) | 40 | 70 | 監督ジェシカ・ユー 一つひとつの「絵」そのものは悪くはないが、「映画」になっていかない。 |
8/4更新 | |||
スピード・レーサー(2008米) | 30 | 60 | 監督アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー 映画監督は大きく二つの人種に分かれる。 一台の中古車と一台のカメラがあれば、「疾走」というエモーションをショット化できる監督たちと、五台のカメラと最新のコンピューター技術と戦闘機があったとしても一瞬の「疾走」たりとも撮れない監督と。前者にはニコラス・レイ、ドン・シーゲル等少数の天才たちが、後者は大多数の作り手たちによって大入り満員御礼札止めである。 映画において「疾走」とは、瞳によって捉えられた地面と物体との差異の醸し出す滑走の運動を我々の身体ごと「乗っけて」ゆく体験であって、決して瞳の動きのみによって走っている物体を「追っかける」ことではない。 後者は「見つめる瞳」をただ疲弊させるに過ぎない。 この映画における「走ること」とは、分析による分断によって物語化された画面による「走っていること」という物質的で弛緩したところの個体を「見世物=意味の説明」として呈示しているだけに過ぎず、決して「疾走すること」という開放感としての運動そのものを解き放って已まないところの持続ではない。簡単に言うならば、このウォシャウスキー兄弟は、「地面」という不動の物体が存在しなければ我々は「疾走」も「滑走」もできないという事実に関して余りにも映画的に無知なのである。 こうした凡庸さというものは、こうした作品を「135」という数字で撮ってしまうところにも露呈しているのだが、ひたすら「映画」を志向しているように見せながら、あらゆる瞬間が映画の「外部」へと流れ出してしまうこの作品は、「マトリックス」を崇拝する知識人たちを一人残らず乗せて、映画の「外部」へと飛んでゆけ~。 |
幻影師アイゼンハイム(2006米、チェコ) | 75 | 85 | 監督脚本ニール・バーガー撮影ディック・ポープ俳優エドワード・ノートン シナリオの知性を画面の無知性が破壊しながら、ショットの力で気持ちよく進んでゆく。カメラマンがディック・ポープである、というのが鑑賞の一つの動機だが、はじめて見るこのニール・バーガーという監督は、このかなり複雑な題材を、ディック・ポープの作り出す「黒」の力と、的確な構図に任せながら、嘘をひたすら「嘘」として撮ってしまうだけの図々しさを持ち合わせている。 だがラストシーンでは結局の所「ショット」をひたすら「説明」の道具として使用しているのであって、それまでは「ショット」の連なりでもって進んで来たものを、最後にまとめて「ショット」を「筋立て」の添え物に利用してしまっている。 現代版「STING」といったところだろうが、この映画はおもしろい。ベストテン入りギリギリのところで悩ましいが、ひとまずは「次点」。 |
ファーストフード・ネイション(2006米、英) | 60 | 60 | 監督リチャード・リンクレイター俳優グレッド・キニア、ポール・ダノ、ブルース・ウィルス、イーサン・ホーク 題材の誠実さと、人物たちのガッツとが、ともすれば凡庸に陥りかねない画面の持続を促進させながら、決してシネコンやシネプレックスでは上映されないことの覚悟において、移民たちや少年少女たちから搾取することで成り立っているアメリカ資本主義を、真正面から叩いてしまっている。 屠殺のシーンがあるかないかが、ひとつの分かれ目だと思って見ていたのだが、意外にもある。 題材が画面へとストレートに反映し過ぎている憾みはあるが、ガッツはある。怒っている。私はもう贅沢は言わない。「怒っている映画」はすべて許す。 |
ハーフェズ ペルシャの詩(2007日イラン) | 40 | 60 | 監督・脚本:アボルファズル・ジャリリ俳優麻生久美子 よく判らない映画で困った。人が走って、それを「パン」で捉える。何度も何度も走ってはパンで捉える。せめて「軸」というものを動かして欲しい。麻生久美子は大好きだが、しかしどうにもこれは、乗って行けない。 |
パレスチナ1948・NAKUBA(ナクバ) | 70 | 70 | 監督・撮影・写真:広河隆一。ドキュメンタリー映画 パレスチナの娘たちや子供たちの顔、ああいう「顔」というものは、「実録・連合赤軍・あさま山荘への道程」とはまた異質のところの驚きであって、どうしてこういう状況で、ああいう「顔」なのか、ひたすらカメラに好奇心を示す子供たち、広河隆一を、まるで恋人を見つめるような眼差しでもって見つめる娘たち、ともすれば、我々がステレオタイプの中に見出すところの「被害者」なり「加害者」なりといった「顔」とは到底異質のところの「顔」たちが、あちらこちらに露呈している。 自らの生家としての「土地」を追い出された人々たちを、広河隆一はひたすら探し続けている。彼らはイスラエル北部だの、レバノンの難民キャンプだのといったところに異邦人として住み続ける老人たちや、占領下のヨルダン川西岸で、イスラエル兵に石を投げて抵抗している子供たちなのだが、この映画が紛れもなく「土地」の映画であり、「土地」の映画以外では決してありえない事は、力によって土地を支配している「アメリカ」だの「イギリス」だのといった「外部」が、徹底的に画面の中から視覚的に排除されているが故に却って生々しく露呈しているのだ。 |
コントロール(2007英米豪日) | 65 | 70 | 監督 「こういうときには、こう」であり「ああいうときには、ああ」である、という映画であって、非常に計画的に撮られていて、分析的であり、心理を判りやすくショット化している。つまり理屈っぽい。 こうしてキッチリと計画通りに撮ったとしても、ヒッチコックのように「カオス」を生じさせてしまう天才もいるのだから、問題は他にあるのだろう。 |
告発のとき | 70 | 70 | 監督脚本ポール・ハギス俳優トミー・リー・ジョーンズ アメリカの底辺で国を支えている人々の力と何度も現われる星条旗、、、何かイーストウッドが撮っているような感じの映画の流れで、その律儀なまでにショットの力に頼った撮り方は、少なくともシネコン映画としての撮り方の枠からははずれている。 構図に気を付け、それとの関係でトラッキングを使い、夜に限ってだが「黒」がしっかりと出ている。微妙なニュアンスになると照明の力が落ちたりするが、物語映画としての「脚本」の力が問われるような撮り方をしている。前作「クラッシュ」は、その知的に過ぎる脚本が映画を邪魔して好きにはなれなかったが、この作品は、実話ということもあってか、脚本に制御が利いていて、前作よりは好きだ。 ちょっと上品。 「視覚的な見せ場」を解き放つような無軌道さが欠けていて、どうしても、脚本家としての「物語的な驚き」の方へと流れてしまう傾向がある。その点は「幻影師アイゼンハイム」もまた同様の危険を秘めてはいるのだが。 潔癖症のトミー・リー・ジョーンズを、もう少し神経症的に撮っても面白かったと思うが。 |
7/15更新 | |||
JUNO/ジュノ(2007、米) | 40 | 70 | 監督ジェイソン・ライトマン 映画の撮り方を知らない。アメリカ人映画の撮り方を忘れたのだろう。 なるほどキャメラマンや現像に関しては何かしらの興味をそそる画面を作ってはいるものの、撮り方として「サスペンス」というものを見事に忘れ去り、ひたすら役者の固定したパフォーマンスと我々の「善意」とに頼りっぱなしのこの画面に露呈しているものといえば、まさに「弛緩したアメリカ」以外の何ものでもなく、だからこそこの映画がシネコンに乗る運命に在る所以でもある。 ■演技について 相手と話している時、主演女優を始めとして、多くの役者が「目を逸らす」。 相手と会話をしている最中、わざとまったく違う方向へ目をやって空(くう)を凝視しながら、再び相手の瞳を見つめ、また目を逸らして何もない空間を見つめてからまた瞳を見つめる。今ではアル・パチーノやデニーロ始め、多くの役者たちがやっているこの「目を逸らす」という行為が流行り始めたのはいつからだろう。私は、60~70年代あたりの映画を見る時には良く注意して見ているのだが、おそらくダイアン・キートンあたりからでないだろうか。或いはもう少し遡るだろうか。 私も役者の身になって、よくこの「目を逸らす」という演技を自分でやってみるのだが、結局の所「目を逸らす」という行為は「間」というものをもたせ易く、さらに演技がそれなりのものとして演じ易く、かっこよくも見え、或いは「気を逸らす」という行為に何かしらの気散じの優越めいた効果があるのではないか。 つまりこの「目を逸らす」という演技は「役者のためのもの」なのである。ただひたすら役者の自己満足のために成せる技であって、映画のためではない。 ■育ちについて 優等生的であり、若松孝二の100分の一のガッツもなく、ひたすら体系的な完成度へと映画が志向されている点は前作の「サンキュースモーキング」同様であり、極めて映画が老成化している。映画の力が常に器の小さい完成度なるものへと収束され、検閲され、抑圧されて、生成変化することを禁じられ、制度の中へ取り込まれている。 結局の所、ウディ・アレンを見て育つか、ジョン・フォードを見て育つか、といった「育ち」の問題である。 ■アカデミー脚本賞 「おしっこをすると賞を貰える法則」はここでも顕在である。 「ウンともスンとも言わない脚本」であるが。 |
実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(2007日) | 100 | 70 | 監督若松孝二俳優坂井真紀 批評あり ■役者 私はこの作品を見ながら、ひたすら「役者」というものについて立ち会わされていた。若松監督は、役者を怒鳴りながら撮っていたらしいが、しかし怒鳴ったところで、黒澤映画の役者のように、ひたすら役者が萎縮してしまい「顔」が我々に対してでなく監督に対して向いてしまう例はいくらでもある。 この映画の「顔」というものは、ただ「怒鳴った」り「威圧した」りすればから出るというものではない。そこにこそ映画の、そして若松孝二の人間が在る。 ■若松孝二監督の映画で印象に残っているのは、モノクロ映画の「白」のイメージである。「犯された白衣」はもちろんのこと、「ゆけゆけ二度目の処女」にしても「壁の中の秘め事」にしても、「処女ゲバゲバ」にしても、モノクロ画面を露出オーバーで飛ばしたような、真っ白な壁や光が映画を包み込んでいた。 「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」においては、浅間山荘の窓の外が、露出オーバーの真っ白な光で覆われている。それは若松映画特有の「白」でもあり、「お金がありません」という舞台裏でもある。映画は掴み所のない複数の物語を交錯させる事で生きものとしての新たな運動を生成せしめている。 今の映画が失ったあらゆるものを、この映画は露呈させている。文化庁に援助を拒絶されたらしいが、そもそも文化庁に援助を申し出ること自体が若松孝二のやり場のない怒りを露呈させている。 ディズニー映画に何度も子供たちを連れて行き、少しずつバカになって帰って来る子供たちに家庭サービスの喜びを感じている親たちは、こういう作品こそ見せてやり、一生に一瞬くらいは親の威厳を保つというのも、いとおかし。 |
シューテム・アップ(2007米) | 50 | 65 | 監督脚本マイケル・デイヴィス撮影ピーター・パウ上映時間86分俳優クライヴ・オーウェン、モニカ・ベルッチ、ポール・ジアマッティ 上映時間の「86」という誘惑を禁じえず、せっせと見に行くのだが、シネコンである、ということを忘れていた。意外とおじさんのフリー客が多い。 即物的というのか、非常に因果関係が物質的な作品である。 「道具」が「用途」から切り離されて「モノ化」するに従い、人間も「モノ化(アイテム化」され、因果の一員として消費されてゆく。死体が射撃の「土台」になったり、同じく死体がドアの「重し」に転化したり、血が「ワックス」と化してみたり。「指」は指紋整合のために切断され、SEXの「体位」すら銃撃戦の射程として利用されている。「用途を転用する」。にんじんも決して「にんじん」そのものとしては利用されず、それはかじる時の異様な「音」を出し、敵の瞳に「挿入」され、或いは「引き金」として転用される。 こうして道具たちが知性から解き放たれ、ひたすら「モノ」としてのカオスを産み出すようでありながら、ちっともカオスを露呈しないのは、その記憶のルーツが「映画」ではなく「ゲーム」に近いからではないか。少なくともこの映画の画面は解き放たれてはいない。理屈っぽい。 |
2008.7.1更新 | |||
ザ・マジックアワー(2008日) | 60 | 50 | 監督三谷幸喜、俳優佐藤浩市、妻夫木聡、深津絵里、西田敏行、綾瀬はるか、寺島進 泣ける場面が一つあって、それを含めて結局最後まで時間を忘れて楽しめてしまう。少なくとも前作の「THE 有頂天ホテル」よりは圧倒的にこちらの方が良い。 笑える場面が多くあって、それが「映画の笑い」なのか「テレビの笑い」なのかは難しいところだが、笑えることは笑えるのである。例えば唐沢寿明の相手役の「スター誕生」のバカバカしいシーンの後半を縦の構図のロングショットで撮ったこと、これは笑える。チャップリンの言うように、あらゆる喜劇とはロングショットなのだ。 そもそも映画で「マジックアワー」(用語辞典参照)と来れば、キャメラマン・ネストール・アルメンドロスが「天国の日々」で撮った、あの見事なマジックアワーを思い浮かべてしまう我が習性からして、この作品の書割によるマジック・アワーは地味で質素で味気なく、作品の中で引用的にオマージュを捧げられている数々の作品(「STING」「コロンボ・野望の果て」ヒッチコック「三十九夜」?等等)の持ち込み方にしても余りに露骨で正直すぎ、「映画」に対する距離感というものを禁じえず、それは例えば中田秀夫が傑作「ラストシーン」で、雷から始まって、雨、風、雪、、そして最後は「照明」という、映画そのものの記憶でもって「映画」にオマージュを捧げた作品等を一方に置いた時、明らかに見劣りせざるを得ない「テレビ的」な空気が充満している。 照明、というよりも「光」というものの「置き方」というものがまったく「テレビ的」であって、それは例えば「自然光」の中での第一テイクのシーンにおいて、光線の強弱を達成しただけで得られるものではなく、また、夜の雨に濡れた舗道に対する光線の当て方と、装置そのものの起伏の設計において、「テレビ」か「映画」かという議論以前に端的に画面が美しくなく、この「地面」というものに対する配慮の欠如というものは、前作「THE 有頂天ホテル」における、ギターで歌う香取慎吾からクーレーン上昇した時の白い床に撒かれた水の画面の見苦しさそのままに引きずられている。 ただ、あの映画館で、佐藤浩市が自らのフィルムを恍惚と見るシーンこそが見事に「映画」であり、それは、ただそれだけで全体を「映画」にしてしまうほどの「映画的」なシーンであって、今回は、前作と違って、稚拙ながらも「映画」であることへと向けられた何かが露呈していたし、佐藤浩市の顔が実に良かった。ただ、ラストの波止場のシーンでの、佐藤浩市のトレンチコート姿の見事な「なで肩」は、せめてパットか何かで補強して頂きたかった(それとも意図的ですか?)。綾瀬はるかが撃たれるシーンの噴出す血の「赤」という色も、しっかり出して欲しい。あのオーバーコートでは「赤」がまったく引き立たないのである。 もっと短くして、もっと断片的に撮ってしまえば、もっと良くなったのにと、言っても始まらないので言わない。 |
アイム・ノット・ゼア(2007米) | 30 | 70 | 監督トッド・ヘインズ 90分で退出。 見事に面白くないはずだが、、、ただ、カラーの色合いは良かった。 |
山のあなた 徳市の恋(2008日) | 60 | 70 | 監督石井克人、撮影町田博、照明木村太郎、俳優草彅剛、マイコ、加瀬亮 この「按摩と女」の「カヴァーバージョン」を見るにあたって、清水宏特有の、「家屋内斜め移動」というとんでもないトラッキングに出会ったとしても、また、ロケーションの「美」そのものに出会ったしとても、それはそれとして、それはそれとして感動をするとしても、特に私が、今回この作品を見るにあたっての決定的に楽しみにしていたシーンは他にある。マイコが序盤、温泉街の路地で、草彅剛から逃げるように振り向いては去って行くシーンがそれである。 重要なのは背景の「ボヤけ方」である。 「按摩と女」で序盤、温泉街で高峰三枝子が徳大寺伸から逃げるように振り向いては去って行く、あのシーンの「背景のボヤケ方」というものこそ、まさに「驚愕」という以外に言いようのない、見事な「カオス」の露呈した瞬間であって、ああした「背景の適度なボヤけ方」というものは、まさに日本映画全盛時代の背景のボヤけ方なのだ それを石井克人はものの見事に「再現」しているではないか。 もちろんそこには、町田博は、木村太郎、そして都築雄二等様々なスタッフの力が絡んでいるのだろうが、あの「ぼやけ方」というものは、仮にそれがミニチュアと合成によるショットであるにしても、それを意識し、受け入れ、実行しない限り決して「再現」など出来ない素晴らしいショットなのである。旅館の二階からの外の風景の「ボヤけ方」もまた素晴らしい。 先日加藤泰「明治侠客伝・三代目襲名」の「二番館2008年度」の批評でも書いたが、この「ボヤけているバック」というものが、殆ど全ショットにおいて意味を持つ、という事実こそ「~映画全盛」の、紛れもない証左であるだろう。 もちろんそのぼやけているシーンと言うものは、クローズアップを中心としたショットなのだから、望遠であって、従ってボヤけていて当然ではないのか、などということを言ってはならない。あの「ぼやけかた」というものは、そのような「機械」のみの結論によって納得しうるほど、優しい現象ではない。 「日本映画全盛」の峠を越した60年代成瀬巳喜男映画の大きな一つの欠点は、すべてではないにしても、その多くは、シネスコ画面と併用された、余りにも深度の深すぎる広角の画面による「鮮明さ=ボヤけないバック」にある。 旅館の女中たちが暖簾の手前で窃盗事件の噂話をしていて三浦友和に叱られるシーンの照明などは よろしくない。「~全盛」の峠を越えた映画の多くは、こうした細かい部分になるとすぐにアラが出る。 洞口依子が、何の意味もなく「一人ホラー」の不気味な感じを出しているのが面白い。 やや長い。 ■主観ショットについて 私は先日、『「按摩と女」のラストのショットは徳大寺伸の「見た目のショットである』と、「二番館2008年度」で断言したが、石井克人は、これが見た目のショットであることを知っていたのか。 オリジナルの「按摩と女」のラストシーンは当然手持ちではないが、「カヴァーバージョン」もおそらく手持ちではないだろう。画面は地面との接着点を保ちながら、微妙に揺れているからである。そして、二つの映画の中で、画面がこのように「揺れる」シーンはここしかない。 このラストシーンは、「徳市の見た目の主観ショット」=目の開いたイメージショットである。最後の最後で清水宏は、去って行く女を必死に追いかける按摩の目を映画的に開かせた。露骨にではなく、極めて洗練されたさり気ない映画の技法によって。石井は、清水の台本を見て、ここだけキャメラが揺れることは当然知っている訳であって、従ってこれが徳市の「見た目のショット」であることを気付いていたと思われるのだが、その感覚を是非とも聞いてみたいものだ。 ちなみに「カヴァーバージョン」では、オリジナルとは違って冒頭に4つほど、空舞台のショットが入っていて、特に最初の二つのショットは「見た目のショット」ととれなくもないショットだが、その点について、どういう考えなのだろう。「見た目のショット」の趣旨で入れたのだろうか。 この「マイコ」という新人女優が今後、シネコン映画の餌食となって汚されないことを、ただひたすら祈ったところでどうにもならないので祈らないことにする。 ■複製について 今、「過去の名作」なるものを、そのまま「再現」出来る「技術」がまず存在しない。それ以前にそもそも、まったく同じデクパージュで撮れば「同じ映画」が撮れる訳ではない。当たり前である。「同じ映画」であるわけがない。それにも関わらず 「どんな名作でも古びた映像を見るのはきつく、焼き直しを図った作家の気持ちはわかる」(キネマ旬報6月下旬、内海陽子) 「『古い名作映画を見た時に誰もが感じる「これで音や画質が綺麗だったら、どんなに楽しめるだろう』というごく当たり前の欲望から「カヴぁー」との発想を生み出した(同誌森直人) 『「懐古体映画」ごっこ』(同誌寺脇研) という発想、つまりこれが「同じ映画=カヴァー」だという印象が出てくるのは、石井本人がこの作品を「名画の修復作業」と呼んでいることと関連があるのかも知れないが、仮にその不謹慎極まりない発言が真実であったとしても、それを鵜呑みにして「画面」そのものの持つ「非同一性」について無神経であるへきではない。 映画とは「複製技術」であって、限りなくその「一回性」というものが希薄なメディアであっても、「模倣」という行為は機械による「複製技術」とは違い、極めて儀式がかった原始的な行為であり、それだけで対象の「アウラ」を消滅させてしまうような機械的複製ではない。だからこそ、作品を模倣する行為自体が「自滅」に陥りかねず、現にこの「山のあなた 徳市の恋」は自滅に瀕した作品かもしれないのである。そうした「模倣」行為をあたかも、「アウラ」を消滅させる=機械的複製のような議論へと回収してしまうのは、「模倣」という行為の持つ有意義性を「揶揄」というシニシズムによって萎縮させかねない危険を孕んでいると同時に「機械」というものに対する過信も含まれているように思える。 ■背景について 現代映画はすべて「中心」へと向けて極めて強い力で吸引してくる。クローズアップとめまぐるしく展開されるショットとキャメラの動きによって我々は、いつでも何処でも「中心」へと吸引されている。それは「テレビ」も「広告」も「小説」も同様であるだろう。 そうした時に、みずからの空間を持ちえず、常に与えられた空間でしか勝負を賭けることのできない我々は、一つの「戦術」として、時に視線を「中心から逸らして」見る。ピントのボヤけた部分だけを見る。そういった実践によって「抵抗」しながら「楽しむ」ことも、また可能である。 そうすれば、「背景」というものにまで気を使って撮っている人たちと、まったく気を使わないでいい加減に撮っている人たちと、という「区別」がそれとなく、見えてくるものだ。 追伸 批評家たるもの「名作の古びた映像」だの「古い名作映画」だのといった言葉を使ってくれるな。 |
6.14更新 | |||
アフタースクール(2008日) | 30 | 65 | 監督内田けんじ 多分こうなるであろう事は十分に予想の範囲内であり、今更この「シネコン映画」が、シネコンの「均質性」という「検閲」に見事に犯され、せいぜい喜ばすことが出来るのは「均質性」を「傑作性」と勘違いした制度的批評家諸氏程度のものであるだろう事は、改めて言ったところで始まらないので言わない。 会話のリズムの犯罪的スローぶりは、瀧本智之「犯人に告ぐ」と同様の、「シネコンのリズム」としての、今「説明しています」と言う「オコチャマ向けの説明ぜりふ」に他ならず、さらに悪く言えば「観客はバカだから」ということにもなりかねないのだが、それと同時に日本映画の場合、字幕を読むことでまさに「読むことの出来る」外国映画と異なり、字幕が出ないために「意味」を聞き逃し、そこから往々にして「日本映画は聞きづらい」などという、反映画的な苦情を述べてしまう観客がいることもまた、シネコン日本映画の「スローぶり」に拍車をかけているのだろう。 ギャグは、ひたすら「間」と「内容」とに甘えきった「テレビギャグ」であることは、付け加えるまでもないので付け加えない。 瀧本智之、そしてこの内田けんじ共々、前作は悪くなかっただけに、こうした「シネコン映画」の決定論的な幽閉の中で、「遊ぶ」ことすら出来ず、ただひたすら餌食にされてしまうことの意味を、もう一度考えてみるべき。堅固なシステムから「逃げる」のでなく、システムの中でシステムを「チャカす」だの「逸らす」だの、「~のフリをする」だの、違った「演じ方」をするべき時期へ、そろそろ来ているのではないか。 あらゆる「均質性」への無残な寄り添いぶりは、「シネコン」という空間が、まさに「二重の検閲空間」であることを、丁寧に露呈させてくれている。 ちなみに「シネコン映画」とは、「シネコン用に作られた映画」とか、「結果としてシネコンにかかるような映画」とか、色々あるだろうが、結局は同じことである。 |
靖国 YASUKUNI(2007日、中) | 70 | 60 | 監督李纓 批評あり デジタル、という感じで始まる画面にやや違和感を感じながらも、冒頭の刀匠の作業場のブルーがかかった空間の美しさに引き込まれてゆく。 |
アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生(2007米) | 60 | 60 | 監督バーバラ・リーボヴィッツ 人は「字幕」と「画像」との二者選択を強いられた時、果たしてどちらを選ぶのだろう。 この作品はインタビューが多く、それに伴う字幕の多さに、何となくそんな事を考えながら、字幕と画面とを眺めていたのだが、おそらく現代型人間たちは「字幕を読む」という傾向を指し示すのではないだろうか。 アニー・リーボヴィッツ の年輪を刻み込んだ「顔」がいい。「迷子の警察音楽隊」にしても「顔」というものが映画を映画として在らしめていたし、オノ・ヨーコのインタビューなどでは思わず泣けてしまうようなシーンもあって、それも何か「顔」の力のように思えなくもない。何故だろう。分からない。 「写真」を「持続で撮る」と、写真が動いているように見える時間が出現する。写真の中の人物が、「まばたき」をしているとしか見えないようなシーンがあったりするのである。 |
迷子の警察音楽隊(2007イスラエル、フランス) | 60 | 60 | 監督エラン・コリリン 悪くはないのだが、モサァ~っとしている。素朴に撮ろうというのは伝わって来るのだが、私としてはもっと動いて欲しい。 ローラースケートのシークエンスは泣かされるし、女の出し方などは悪くはないのだが、今ひとつ辛気臭いというか、弾けてこない。 |
6/3更新 | |||
大いなる陰謀 | 30 | 40 | 監督ロバート・レッドフォード 一時間で退席。よって評価は一時間分。 しゃべる→切返す→しゃべる→切返す、、、この反復だけで映画を仮に撮れるとすれば、それは凄いことだろう。 |
隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS | 10 | 40 | 監督樋口真嗣 一時間で退席。よって評価は一時間分。 音楽は「深刻」と「感傷」をひたすら煽り立てるが、それは見る者たちをして、誘導の対象として下等視していることに繋がりはしまいか。人物たちは、すべてが同じ言葉をしゃべり、そして同じ顔をしている。映画と舞台との質的差異をひたすら無視しながら「顔を作る」という演技に逃避している。 |
紀元前1万年 | 10 | 40 | 監督ローランド・エメリッヒ 一時間で退席。よって評価は一時間分。 見るに絶えない。魂も情熱も売り渡した者たちの悲しき末路。 |
4ヵ月、3週と2日(2007ルーマニア) | 80 | 85 | 監督クリスティアン・ムンジウ撮影・製作オレグ・ムトゥ いきなり薄暗い部屋の中を揺れた手持ちキャメラで捉えた画面で始まり、「またか、、」とイヤな予感に包まれながら、だが10分経っても20分経っても、手持ちの揺れに甘える人間たちに共通する無神経さは露呈せず、それどころかまるでフリッツ・ラングのサイレント映画の着色画面を直感させるような、ホテルの個室の壁のライトブルーの色調画面に文化的衝撃を受けながら、ひたすら痛々しく露呈される「人間」へと引き込まれてゆく。画調がそれだけで事件になっている。 「人間」というものを、こうまでして傷め付けてよいものか、その痛めつけ方が、極めて「豊か」であるだけに、些細な感性の豊かな人間が撮っているだけに、痛々しさが画面全体へと充満している。恋人の家族のパーティへ呼ばれ、まずトイレに入って水を流して音を消し、一人になる。画面全体が「一人になりたい」と叫びながら、だが「決して一人にさせてくれない管理社会」の中で、夜、バッグにルームメイトの胎児を忍ばせながら、薄暗い廃墟や街角を、ほんの少しの光源を頼りに、いよいよ「一人」になって、ひたすら彷徨い続ける娘を執拗に追い続けるカメラの眼差しは、まさに「手持ちの暴力」としか言いようのない暴露の力を我々へと突き返して来る。ここは「手持ちでなければならない」という、背負い込んだ倫理との葛藤がある。「手持ち」とは「暴力」であり、それを映画の中で「隠蔽」するのではなく主題論的に「露呈」させている。 手持ちの暴力を「隠蔽」しながら「リアル感」なるものを醸し出せると信じている無邪気な者たちと、手持ちの暴力を露呈させることで「画面」そのものに暴力を露呈させる者との、一見小さそうでありながら大いなる「差異」。この差異とはもちろん、決して踏み越えることの出来ない「質的な差異」に他ならない。 ホテルの青白い壁の、上部の薄暗さが、まるで懐かしき日本映画の日本家屋の照明の如くに「光」そのものの色を捉えている。 カンヌの審査員の良心に安堵しながら、最後に一言、「日本アカデミー賞よ、恥を知れ」、そう付け加えて終わりにしたい。 |
8.5/21更新 | |||
クローバーフィールド | 0 | 70 | 批評あり こういう撮り方の映画がこれからも増え続けることが間違いないということをみんなが知っている。 私はただ、ひっそりと、こういう映画を否定しておこう。 200年後くらいになってこのホームページを発掘した物好きな誰かが「偉いやつがいたもんだ、、」と万が一思ってくれる可能性が無くもないから。 |
人のセックスを笑うな(2007) | 70 | 65 | 監督井口奈巳 ■映画が長い 「原作は未読だが、、」などとくだらない前置きで始めるのは憚られるので中止して、以前私は映画日記で「137分は長過ぎる」と書いたが、見終わってみて、やや伸びているという感じがするし、仮にこの作品の出来がそれなりに良かったとしても、それでも批評家たるもの「長い」と一言いっておきたい。この映画は39分長い。私はそう書いておく。 ■照明 光の世界が今ひとつ時間を充実させてくれていない。画面の持続に感じられるある種の「余裕」という弛緩の状態が、私をしてやや居心地の悪い時間を体験させた。 ■小津 時としてそれ自体として聞き取りにくいセリフにしても、或いは授業の奥の空間の温水洋一の講義と手前で成された松山けんいちと忍成修吾の会話との、縦の構図における二重発話にしても、少なくとも井口監督は我々をして「会話の中身(ラング)」そのものを聞かせることから自由な位置でもって演出をしており、それよりも、「声」という音そのものの持つ身体それ自体のフィジカル的響き(ランガージュ)をして我々に現前させている。こうして「言葉の内容による物語(理屈)」ではなく、仕草や声の響きそのものの醸し出す「非言語的」な、「メタレベル」のコミュニケーションを信じることができるということが、なるほど前作「犬猫」の小津調のタイトルバックを想起した時に「なるほど、こいつは小津だ、」と、いうことにならないこともないわけである。 イマジナリーラインの破戒だとか、ローポジションのカメラだと、ステレオタイプの理屈っぽい「小津」ではなく、コミュニケーションレベルにおける「小津」を何気なく感じさてくれる。 ★追記 上の「メタレヴェル」は「オブジェクトレベル」のことですか?、、、と昔の自分に聞いてみたい。2024.7.30 ■図々しい オープニングの薄暮のシーンは、その光の程度には賛否両論あるとしても、画面の左半分の坂道と、右半分の下り坂という「二つの高低差」をさり気なく「V字型」で配置しながら、うっすらとした薄暮と、画面右の四、五軒の民家の灯りだけを光源とした、その見えるか見えないかの光でもって図々しくもオープニングショットを固定画面の長回しで悠々と提示しながら、その終盤には、「何の意味も無く」一匹の白い犬が画面の右から入って来て左へと消えて行くという、まさか小津「麦秋」のオープニングの鎌倉の海岸のショットでもあるまいが、これは私が「ここに幸あり」で書いたところの「長回し終盤における難度の高い演出」そのものであって、つまりこの図々しさというものは断じて「シネフィル」のそれなのであるが、それはそれとして、問題なのは、仮にこの「白い犬」が気まぐれを生じ、例えば画面中央で立ち止まり、片足を挙げてションベンでもしでかせば、井口奈巳はおそらくそれをそのまま採用したのではないかと思われてもしまう図々しさもまた露呈させているのであって、つまりそうなると、この犬のシーンは、犬がどうあっても「OK」なのだから「難易度の高い長回し」ではなくなるというわけで、つまるところ、このような、錯綜した疑念とバカバカしさとを一瞬で我々に想起させてしまうことそれ自体が既に我々の負けなのである。 松山ケンイチの衣服を永作博美が一枚一枚脱がせて行く(ように指図する)シーン等しても、見ている我々は、いったい松山に、どこまで事前に知らせて本番に入ったのかと思わせてしまうことそれ自体が既に豊かさにおける図々しさの紛れもない証である。 永作博美と松山けんいちが自転車に二人乗りするロケーションのV字路もまた、「犬猫」におけるバイト先への迷い道同様、同一空間において「二つの空気」を「何の意味も無く」作り出すところの図々しさであるだろうし、終盤、永作博美が帰宅するシーンにおいて、夫のあがた森魚の画面右半分の書斎と、左半分の玄関との、これまた「V字型」の美しい光と装置の配置に包まれた空間において、突如としてヘッドライトの輝きに反映した木の影が玄関のガラス戸に大きく反映されては消えて行くその素晴らしさをもって、「一瞬」のものとして終わらせてしまうのもまた図々しい。 ■おかしい ギャラリーの長椅子で蒼井優が、お菓子を我が物とせんがため、椅子の上を左から右へと「滑る」のであるが、この「滑り方」がどうみても怪しい。つまり、あんなに見事に滑れるわけはない、間違いなく「何か」があるはずだ、と、ある訳もないのに「あるはずだ」と思って見ていると、今度は終盤、焼き鳥屋で酔いつぶれた松山ケンイチのカラダを、華奢な蒼井優がホテルの廊下の見事な光の空間で「引きずる」ではないか。いくら松山ケンイチが細身だからといって、あんなに見事に引きずれるはずはあるまいと、必ずやワックスなり何なりの仕掛けがあるはずだと私は見事に推測し勝利宣言をしたのであるが、つまり悔しいわけだが、蒼井優のでん部と、松山ケンイチの背中が、飛び抜けて「滑りやすい天性の資質」を持っていない限り、矢張りあんなによく滑るわけはないのであって、そうすると、忍成修吾が蒼井優に不意にキスをするシーンもなにか「おかしい」のであり、松山ケンイチが永作博美の鼻の下に付いた「青い絵の具」をハンカチで拭き取るシーンもおかしくなり、松山ケンイチが手の平に永作博美の住所を「書き切れない」シーンもまた明らかに「人を食っている(おかしい)」ことに帰結し、トラックの忍成修吾が、延々とバックしながら蒼井優と話し続けるのは最早「完全におかしい」ことになる。「おかしい」というのは、我々の負けであり、つまりそこには何かしらの「見る価値」がある。 そうなるってくると、焼き鳥屋の女主人の差し出したエサに死にそうな形相で食らいつく「3日くらい餌をやってないとしか思えない猫」に対する動物愛護協会の鋭敏な動きがあってもいいだろうと思えるし、「サヨナラ」のマーロン・ブランドや「黒船」のジョン・ウェインのように、鴨居に頭をぶつけた松山ケンイチは、その奇妙なカタカナ名からして異邦人以外の何者でもない「おかしさ」を露呈させている。 こうして一つの「おかしい」が、幾重にも交錯しながら遡って映画全体を「おかしい」に仕立て上げる、これは紛れもなく「豊かさ」というものである。 ■ベッドで 人は蒼井優がベッドで跳ねるのを良いと言うが、私はあんなのはちっとも良いと思わない。 |
モンゴル(2007モンゴル他) | 40 | 70 | 監督セルゲイ・ボドロフ俳優浅野忠信 何を書いてもステレオタイプに終始しそうな気がするが、浅野忠信は「入って行っていない」のではないだろうか。 効果音の使い方であるとか、なんとも「憂鬱」なアメリカ調であって、クローズアップの入り方にしても、凡庸である、としか言いようがない。 語彙を失わせる映画である。書けば書けるが、書けぬとなるとひたすら書けぬ。 |
2008.5.6更新 | |||
潜水服は蝶の夢を見る(2007仏米) | 40 | 50 | 監督ジュリアン・シュナーベル撮影ヤヌス・カミンスキー俳優マチュー・アマルリック カミンスキーも、こんな画面でヨロシイのかなと、首をかしげたところで腹の足しになるわけでもないが、このような「ほんとうらしい画面」もまた「魔法にかけられて」のあのショボ画面同様、今や「リアリズム」なのかなと、推察してみたところで誰も私を褒めはしない。 女優の脚の毛深さとノーメイクの肌荒れを露呈させることで「賞」が貰える時代らしい、と皮肉を言ったところで保守にトンカチで頭を殴られ一巻の終わり、映画の世界はああ、おそろしや、だ。 『社会的なテーマを下品のスパイスで味付けすると賞が頂けちゃうの鉄則』をそのまま素直に実行している。偉い。 最高のショットの直後に決まって最悪のショットが来る。こういうのは「なに弁証法」というのだろう。 例えば序盤、病院の帰りに駅で汽車を待つ女の俯瞰気味のロングショットと、その次に入るクローズアップとの関係がそれである。 「封書を開封する」という行為が、これほど汚らしく露呈している映画はない。 映画の世界では、知性と反知性とが見事に逆転している。もちろん、より多くの賞賛に浸れるのはいつだって「外部」の力をそのまま借りる後者である。 |
魔法にかけられて(2007米) | 50 | 50 | 監督ケヴィン・リマ 画面の抑制が効いていない。明るくてモサァ~もさぁ~の「ポストモダン画面」である。 メイクと肌と光との関係が悪い。 例えばラストシーンでガラスの(?)靴を履く女の、かかとの小じわのシワシワの見苦しさだとか、胸を開いたドレスの女の乳房に露呈する牛のような血管だとか、せめてそうしたものは、ファンタジー映画として「隠す」くらいのサービスをされてもよろしいのではないだろうか。 白人女性は、30過ぎると肌荒れで大変なのだから、それに伴ってメイクも進歩しないと、これからもとんでもないものを見せられることになるだろう。もちろん「リアリズム」という言葉も、好きではないにしても知らないでもないが、「このファンタジー映画」で「肌荒れ」はないと思う。勘弁して欲しい。「無防備都市」(1945)ですら、ここまで「無防備」に見せはしない。。 |
マイ・ブルーベリー・ナイツ(2007香港・フランス) | 70 | 80 | 監督ウォン・カーウァイ撮影ダリウス・コンジ俳優ノラ・ジョーンズ、ジュード・ロウ、デイヴィッド・ストラザーン、レイチェル・ワイズ、ナタリー・ポートマン ザラザラした粒子のフィルムが、顔のクローズアップでスローモーションになる時、粒子の流れが時間として露呈しながら、「顔」が粒子としての時間の中へと埋没してゆく。 「眠れない女」というアメリカの一つの神経症がいて、その女が唯一、眠ることのできる場所を後にして、どこへともなく去って行く。 彼女が出会う人々には、必ず誰かを愛する人たちがいて、だが神経症のアメリカ社会に愛を確かめ合う術はなく、いつしか男たちは逝き、二人の女たちが「遺される」。 一人は昔、男に「拾われた」アバズレ女で、もう一人は父親に「車を遺された」娘である。ある時、女たちの嫌悪していた男たちが不意に逝く。 アバズレは、逝った夫の「遺した」伝票を壁に貼ってくれと頼んで街を去って行き、街の人々は男の「墓標」を作る。父に逝かれた娘は父の「遺した」車を手渡すことをやめ、自分が「遺産を受け継ぐ」ことを決意する。 「遺児」と「遺産」の物語を「見ること」を体験した「眠れない女」は、一年後、自分を待っている男の「眠れる場所」へと帰ってゆき、静かに目を閉じ、「見ること」で痛んだ瞳を休めて眠る。 この映画を視覚的に、そして断片的に見て行くと、こんな感じに見えなくもない。主人公の女は、ひたすら「見ること」を寓意として実行しているかのようなのだ。 これはある部分では「遺児」と「遺産」の物語なのだが、大きく見ると、中盤、デイヴィッド・ストラザーンの車の事故現場にたむけられた花やローソクの光が美しく露呈していたように「墓標」の映画でもあるだろう。葬り去られた人たち。ディヴィッド・ストラザーンはボロボロになって消えて行き、ナタリー・ポトマンの父親に在っては画面の中にただの一度すら登場せずに消えてゆく。 だがこの作品は、男たちに冷たく接した女たちを「悪」としてデジタル的二元論で否定する画面でもない。 何故か女たちは、男たちの「遺した物」を決して棄てず、旅立ってゆくのだ。 黒沢清「叫(さけび)」の役所広司は、葬り去られた女の「骨を拾い」旅立ってゆく。トニー・スコット「デジャヴ」のデンゼル・ワシントンは、葬り去られた女に恋をしてしまい、何とタイムマシンで女に会いに行ってしまう。 これらの映画に共通するのは、ある決定的な出来事の「前と後」とに時間が分断され、「あと」に「遺された遺児」たちが、葬り去られた「まえ」と向き合い、或いは会いに行き、或いは骨を拾い、その「遺産」を背負って旅立つ、という寓意が、「幽霊」や「監視システム」、そして「眠れない女」という「見る人」を通じて、「見ることの痛み」を伴いながらも目を逸らさず「見ること」を綴ることで露呈させてゆくことではないだろうか。 「硫黄島からの手紙」でクリント・イーストウッドが、二宮和也をして、露骨なまでに「見る人」として設定していたのもまたある意味での「遺児」と「遺産」たちの「見ること」への決意の露呈でもあるだろう。そのイーストウッドは、二宮和也の「見る人」を、最後は担架の上で休ませている。カーウェイもまた、「見る人」を「瞳を閉じて眠らせる」ことでその瞳に休息を与えている。スピルバーグは「宇宙戦争」で、「見ること」(例えば川に流れる死体)で瞳を傷つけた娘に「目隠し」をさせている。これは、到底偶然とは思えない。ジョン・カーペンター「ゼイリブ」では、消費社会において「見ること」とは、いかに痛みを伴う行為であるかを、瞳を保護するサングラスや、「見ること」を巡って演じられる映画史上類を見ない長時間の殴り合いによって見事に露呈させていた(「マトリックス」の主題論的凡庸さは、「見ること」における視覚的無知にある)。 「恋する惑星」を見て、その下品さにこの監督と一定の距離を置いた私だが、こういう作品を見せられるとまた考えてしまう。 これからの映画は「妊婦」「遺児」「孤児」「養子」「遺産」といった主題へ加速を強めてゆくだろう。 ちなみに「サッドヴァケイション」もまた、良く見れば「養子」の映画であった。 |
ジャンパー(2007米) | 50 | 55 | 監督ダグ・リーマン 上映時間が90分を切る、というその一点のみで見てみはしたが、確かに序盤の20分くらいは悪くなく、「水晶玉」という、無理矢理ウェルズにこじつけられもしなくはないシネフィルアイテムに唸ったフリをしながら、次第次第に脚本のアラが目につき始め、結局「画面」というもので物語を処理できなくなると、いつものような「シネコン」映画の力技に頼るしかなく、結局の所「悪くはない」という悲しき地点へと行き着く。 それにしても、こういう女優しかアメリカに残ってはいないのだろうか。 アメリカも、中国から毒の効いた女優を輸入した方がよい。 ちなみにこの作品では開店間際の酒場で、机の上に逆さに乗せられた椅子を一つずつ降ろしてゆく、という、「ここに幸あり」(封切館の二つ前の作品参照)とは逆のモーションのシーンが撮られている。かたや乗せてゆくシネフィルと、かたや降ろしてゆくシネフィルと。 |
やわらかい手(2007英仏独ベルギー、ルクセンブルク | 65 | 65 | 監督サム・カルバルスキ プレミアリーグのチーム名を叫びながら“イク”男など、それがオフの空間から聞こえて来るが故に完璧に笑えるなのだが、致命的なのは、肝心要の「やわらかい手」というものを、検閲による禁止コードに当たって視覚的に撮ることができない、という痛恨のやるせなさにある。 メイクが今ひとつ、光との関係についても良い部分と悪い部分との差がはっきりしている。クローズアップも多過ぎて画面の停滞を招いている。 悪くはないが、映画という創作物に対する「同情」を禁じている身として、否定的に捉えたい。 |
2008.4.6更新 | |||
ここに幸あり(2006フランス・イタリア・ロシア) | 70 | 70 | 監督オタール・イオセリアーニ撮影ウィリアム・ルプシャンスキー 予告編の画面が今ひとつだったので、それほどの期待は寄せずに見に行ったのだが、矢張り画面そのものはモサーっとしていて、光の面白味が欠けていることは大いに残念、だが、あの「窓の女」と、ピッコリの使い方だけで許せてしまう。どこをどう突付けばああいう発想が出て来るのか、、、 オタール・イオセリアーニは映画狂である。 主人公がローラースケートで街を浮遊し、ふと地面に書かれた壁画に立ち止まり、その後、何人かの通行人と交錯し、車に轢かれそうになる。その後半部分をイオセリアーニは長回しで撮りあげている。こういう長回しをして私は「難易度の高い長回し」と勝手に名付けていて、その意義は、「長回しの後半部分で、NGとなり兼ねない難しい運動をすること」なのだが、例えば溝口健二「宮本武蔵」(1944)のとあるシーンで、長回しの後半部分、中村翫右衛門が、ローソクの灯を居合い抜きで消すシーンなどがそれである。ローソクに細工が成されているかどうかは別にして、通常の監督たちは、このような、NGになる危険の高い運動を、長回しの終盤に持って来たがらないものだ。長回し終盤のNGは、それだけで、それまでの長い時間のすべてがオジャンになってしまうからである。それを敢えてやるイオセリアーニには、シネフィルの血が流れている。シネフィルという人種は「そういうこと」をやりたがる人たちなのである。 そんなシネフィルの撮ったこの映画では、酒場が閉店すると、酒場の主人が、店の中のすべての椅子を、一つ一つテーブルの上に逆さまにして、乗せてゆくのである、、、見事なまでにやっているではないか!、、その意味は、映画研究塾の日記をお読みの方なら、お解かり頂けるだろう。 「だからどうした?」と言われても困るのだが、結局の所こうしたものは、D・W・グリフィスの映画の背景をあたかも装置そのもののようにして常に彩り続けた「風に揺れる木々」だとか、ジャン・ルノワールの「窓」だとか、ジョン・フォードの「エプロン」だとかと同じような、映画の記憶そのではないだろうか。 この映画のラストは、まるでそうした「映画の記憶」に吸い寄せられるように、風に揺れる森の木々のショットで閉じられている。 |
エンジェル(2007フランス・イギリス・ベルギー) | 50 | 60 | 監督フランソワ・オゾン モサーっとしている。何を撮りたいのか。スカーレット・オハラの現代版なのか。嘘をつくこと、田舎者であること、そして成金へ。どうも良く判らない。この程度の照明で、装置で、風で、女優で、映画を撮るのなら、せめて脚本くらいで楽しませくれなくては金は払えない。 「現代映画」に一番足りず、難儀しているのは、照明でも美術でも女優でもなく、「脚本」である。「ホン」というものを書ける脚本家が何処にもいない。 馬車や砂漠のスクリーン・プロセスが妙に迫力あって面白い。 顔に青い光が反映したベッドの二人を俯瞰から撮ったショットは美しかったが、その程度が今の「フランス映画」の限界だろう。 |
L change the world(2008日) |
40 | 70 | 監督中田秀夫、撮影喜久村徳章、照明中村裕樹、 序盤の20分までは最高、その後はいつもの「シネコン映画」へと急降下する。予定通りとは言うものの、ここまで見事に「シネコン化」するものかと、拍手でもしたくなる雰囲気の中での鑑賞であった。 見て聞いて判るように、人物の心理と筋立ての大部分が言葉で説明されている。瀕死の人物(鶴見)までが、ちゃんと筋立てを説明してから丁寧に死んでゆく。「判り易く」ということだろう。つまり観客は「アホ」だから、こうでもして細かく言葉で説明しないことには訳が判らず混乱に陥り、最悪の場合発作でも起こされてシネコンに火でも付けられたら困っちゃう、というわけだ。それは困るだろう。 画面の感じは悪くなく、喜久村徳章、中村裕樹両氏の仕事は評価しうるが、この脚本ではどうやったって映画にはならない。仮にジョン・フォードが撮ってもこの脚本のままではどうにもならない。 「女優霊」とか「ラストシーン」とか、ああいった「映画の映画」をこの人に今後期待するのはもう無理なのか。 |
3/17更新 | |||
母べえ(2007日) | 50 | 60 | 監督山田洋次 「浅野忠信」という人物がいる。この人物は、片方の耳が不自由で、強度の近眼であり、兵役にも就けない「弱い者」である。その浅野忠信が「溺れる」という演出について考えてみたい。 山田洋次は、耳が不自由で、強度の近眼であり、「泳ぐことも出来ない弱い者」が、撃沈された船で溺れ死ぬ、それによって、あの戦争で「弱者」が犠牲になったことを描いている。 問題なのは、「戦争」ではなく「映画」である。仮にこの映画が「戦争そのもの」なら、これでよいのかもしれない。だが「映画」であると仮定する時、「まず頭の中に弱者ありき」の「物語的な」思考回路は、「画面」を「物語」の「添え物」へと引き下げる危険を常に孕んでいる。事実、浅野忠信が海で溺れるシーンの演出は、ちっとも美しくなく、怖ろしくもなく、逆に極めて判り易く、物語的で、且つ理性的ですらある。 それは山田洋次という監督の思考回路がまずもって、「伝えるべき不可視の思想ありき」で形づくられ、決して「可視的な過剰の露呈」ではないところから来る必然的な帰結であるだろう。「弱者」を「視覚」ではなく「思想」によって描こうとする時、画面は常に「思想」の添え物となり、メッセージなる不可視の思考が画面を覆い隠し、それがさも視覚であるかの如き装いをまとって表層へと上昇し、我々をして「見ている」という「錯覚」を引き起こさせる。 駐在との会話のあとに「よく言うよ」という浅野忠信の台詞、笹野の露骨な悪役ぶり、婦人会による贅沢禁止のシークエンス、教え子の検事による恫喝、食器にたかるハエという、「意味のある」出来事の数々は、その「画面」と「物語」とを天秤にかけて見た時、感じられるのは予定調和としての「物語(弱者と強者の二元論)」を際立たせるものとしての「思想の優位」である。 浅野忠信が正座で痺れてコケルシーンであるとか、窓の外をいつも豊かに彩る風の揺れ、そして「武士の一分」では問題を指摘したカッティングやクローズアップなども全体として解消され、鶴べえと母べえの掛け合わせ、面会時のシャッターの降りるタイミングのバカバカしい見事さなど、今回、楽しみどころは色々とあった。 |
ヒトラーの贋札(2006ドイツ・オーストリア) | 50 | 50 | アカデミ賞ー外国映画賞受賞。 悪くはないのだが、何かが足りない、という、この足りない感じ。は何から来るのか。 例えば贋札を作る、の「創ること」という行為の露呈であるとか、或いは人間としての「~する人」という人間の露呈であるとか、この映画を振り返ってみて、「~すること」や「~する人」が、思い浮かばない。人物と運動の撮り方が甘いのではないかと。 ラストの「さも」という浜辺のダンス、おしっこを顔にかけるという演出、そして「ホロコースト」という高尚なテーマ。この「高尚」さと「下品さ」との弁証法の果てに、「~賞」への道が開けくる、そう見えるのは、もはや錯覚ではあるまい。 |
onceダブリンの街角で(2006アイルランド) | 70 | 50 | 監督ジョン・カーニー 2007.2.18 光については、「リアルを求めたから」では済まない問題が多々ある。知恵を使えばいくらでも解決できる問題を「リアリズム」なる言葉にすり替えてはならないと私は思うのだが。 部分的には素晴らしい光に支配されていたりもする。女が子供を寝かしつけるところ、女が公衆電話で電話をしていて男が手前の路上に座って待っているところ、録音後の控え室で一つの電球に照らされた二人のシーン。ラストの窓など。 結局の所、監督が、好きでやっているのが伝わって来る、それが何より。 |
ラスト・コーション(2007中国) | 40 | 50 | 監督アン・リー 2007.2.14俳優トニー・レオン ベネチア映画祭グランプリ これは「芸術」なのか「低俗」なのか。 所謂「濡れ場」そのものを脇に置いて見たとして、確かにこの映画は「視線」においてそれなりの働きを獲得してはいるものの、例えば回想のシーンでトニー・レオンがアジトの屋敷に入るかどうかのサスペンスの処理の下手糞さなど眼も当てられず、集団で男を殺すシーンの処理にしても凡庸以外の何物でもなく、全体を通じて持続を停滞し続けるクローズアップと、細部の照明の失敗等を見た時に、私の体験は甚だやっかいなものとならざるを得ない。 上映中の映画館の中でスパイの男と女がドアの付近でヒソヒソ話をするシーンがある。 映画館とは「暗闇の空間」であり、従って「身を隠す」ためには最適であっても、同時に映画館は「聞き耳の空間」でもあるのだから、「音を隠す」空間としては最悪の空間でもある。ここでアン・リーは、スパイ同士の会話という「聞かれてはならない会話」を「映画館」という「聞き耳の空間」で演出している。これは「視覚と聴覚の勘違い」ではないだろうか。こういう演出を見ると一発で白けてしまう。 スパイ同士が、アジトという「聞かれてはならない空間」で「窓を全開にして大声で喧嘩する」、というのも、なんというのか、取り様によっては「このスパイたちはバカだから捕まりました」とも受け取れかねない。 抗日活動という「高尚」な主題と、ひたすら繰り返される「下品な」セックスとの弁証法の果てに、「~賞」が笑顔で待ち受けている。「ブロークバック・マウンテン」と構造は同じである。 おそらくこの映画は、来年度の某映画雑誌二月下旬ベストテン号の上位を華々しく飾ることだろう。そういう要素を多々含んでいる。 ベネチア映画祭は、どこかの島国のアカデミー賞のように「賞を貰うことが恥」というレベルまでは到達してはおらず、アメリカのアカデミー賞にしても、たまに去年のように神経症の発作に襲われることはあるにしても、15年に1度くらいはちゃんと本気になってまともな映画を選んでいるし、カンヌにしても、猿がボタンを押して受賞作を決めているとしか思えない某島国のアカデミー賞とは違って、ちゃんと人間が審査している感じがある。その幸せな状態の内に、何とか。 |
3/3更新 | |||
スウィニー・トッド フリート街の悪夢の理髪師(2007米) | 30 | 50 | 監督ティム・バートン俳優ジョニー・デップ 2008.2.4 ①光について DELUXEのフィルムをローキィに乗せた全篇の肌触りそれ自体は悪くはないものの、キャメラが動き始め、画面が始動を始めると「いい加減な光」が画面を覆い尽くし始める。「パイレーツオブカリビアン」という、子供騙しですらない「ディズニーの」シリーズに関わったキャメラマンにとってその「クセ」を抜くのは現実として困難だとしても、こうした照明を、はっきりと「ダメである」と断言できる批評家を今後育て上げることは、一つの大きな課題となるだろう。 ②ティム・バートンについて 「カリビアンの顔面神経痛」は生涯修理できないジャック・ニコルソン的災難となった。 ③「怖さ」なり「狂気」について 思考的な物語空間をそのまま視覚へと転化させたとするならば、この映画は「狂気」を描いた映画となるだろう。だが、映画をただひたすら素直に視覚的に眺めたときには、この作品は表彰したくなるほど「善良」であり「健康的」であり、同時にまた「理性的」であるだろう。 ④「ミュージカル」について もはや時代は、歌を「歌」として享受出来ず、歌は「あらすじ」を進めてゆくための一つの「便法」に過ぎない。 この映画の「歌」は、大部分が「筋立ての説明」であり、筋立てを進めてゆくための「制度」以上の何ものでもない。歌は歌われた瞬間、我々をして「あらすじを追う」ための不可視の「思考」へと働きかける道具と成り下がり、視覚的な「画面」を消し去る便法となる。 結局の所それは、「クローズアップ」や「動き回るキャメラ」と同等の「隠す」役割を、現代映画によって果たすところの、「制度」である。 考えると、人は「見ること」が出来なくなる。人は映像を見ながら考え事をすると「画面が消える」。今日の「考えさせる」映画の大部分は、「考えさせる」ことで「画面」を消し去り、映画を「可視」から「不可視」へと貶め、それによって画面の凡庸さを覆い隠せんと企むことで見事なまでに共通している。 |
パンズ・ラビリンス(2006メキシコ、スペイン、アメリカ) | 40 | 75 | 撮影ギレルモ・ナヴァロ 2008.1.11 照明空間は悪くないが、官僚的な「風景」の数々は許し難き凡庸さに支配されている。メキシコでもスペインでもなく、ひたすら「アメリカ」の現代型低俗さと日本的感傷の中へと逃避した、「いつものような」作品である。 |
8.2.12更新 | |||
アイ・アム・レジェンド(2007米) | 55 | 70 | 監督フランシス・ローレンス撮影アンドリュー・レスニー ドラマの撮影ユニットと、アクションの撮影ユニットの画面に余りにも差があり過ぎる。 アンドリュー・レスニーは「ロードオブザリング」などよりもよっぽど楽しそうにコントラストを出しているし、最良ではないにしても、序盤の静かな展開は物語をアクションから語りしめようとする精神と相まって中々楽しめたりもする。 たが、、、、 アクションシーンの「ウギャー!」という、突然身体へと向けた無知能無差別攻撃の数々にビックリ仰天、「このピックリは作家の才能なのか、、」と椅子から飛び落ちそうになりながら、大音響の機械的効果音と共にいきなり怪物が「フンギャァ~!!」と出て来る度にビックリ仰天する。 この余りにも空しく安直なゲテモノ精神は、おそらく一部のマニアからの熱狂的な支持の元に成り立っているのかと勘ぐりたくもなってしまうが、アクションの演出が、ドラマの部分の寡黙な演出の人格と、余りにも齟齬を生じ過ぎ、それはエンドロールを見ると「アクション・ユニット」が「ドラマ・ユニットとは別であることで判るのだが、果たしてどこまでを「分業」して撮ったのか、具体的な部分は不明だが、問題なのは、ドラマの部分はそれなりに「作り手の人格」というものが露呈していたにも関わらず、アクションになると完全に「映画学校で教わったままに撮りました」というせっかちな画面に豹変してしまうことの大いなる寂しさなのであって、才能を露呈させるどころか、そもそも才能など露呈させようの無いシステムが映画全体を支配していることが絶望感を増幅させる。決して「見られない」映画ではないが、それ以上の何物でもない。典型的な「リミッター付き映画(用語辞典参照)」である。 |
長江哀歌(2006中国) | 80 | 85 | 監督ジャ・ジャンクー 二度鑑賞 ジャンルを無理やり決めろ、と仮に言われたならおそらく「コメディ」か「SF」となるのだが、結局のところ、ドキュメンタリー風な映画を期待される傾向の或るこうした主題と接した時に、美しい作家というものは、多くの場合映画の画面が「現在」で在らしめるようなものを撮ることについて共通している。 最近ではガレルの「恋人たちの失われた革命」、昨年のベロッキオ「夜よこんにちは」、クリント・イーストウッド二部作、そして何よりもホウ・シャオシエン「珈琲時光」などがその典型であるだろう。 彼らは「過去」を扱った作品において、これが「過去に起きた出来事の真実の物語です」という撮り方をしないものだ。例えば「珈琲時光」について言えば、決して「これが小津の撮り方でした」などというオマージュではなく、ひたすら「現在の小津」を探し求める作家の愛が画面に充満している。彼は「過去の小津の真実」など一瞬たりとも発する気はないのである。 漁師たちが狭い空間にギュウギュウ詰めになってうどんを食うシーンなどは、何かマルクス兄弟をこじつけたくなってしまうような「時間」を感じさせてくれるし(「オペラは踊る」)、終盤の乾杯のシーンでは、主人公が自分のたばこを仲間全てに分けてやって、その一本を左奥の、画面の外にいる人物へ投げたのだが、その画面外の人物が私は妙に気になっていて、でもしばらくすると、まるで私のその好奇心を察したかのように、キャメラはゆっくりゆっくりと左へパンして、その左隅でたばこを吸っている「何の変哲もない」労働者をフレームの左に捉えた。最近は、「エキストラなどどう撮ってもかまわないだろう」、という感じの、冷たい構図を作る作品が多い中で、まったくの無名の役者に対して、かくも「時間」を裂いて静かに露呈させるこの映画はいったい何なのだろう。 時間を隔てた家族を探しに町へとやって来た男と女が、3000年の時間の中へと消えて行く都市の中で彷徨い続けている。彼等は何の変哲もなく、ただ確かなのは一回限りの時間の中で存在した一回限りの歴史的事実である。その時間には均質性も連続性もなく、従っておそらくは普遍的時間の中へと埋没させられる運命にある人々の「いま、確かに存在している」時間そのものである。あの画面の左隅の労働者もまた、「いま、確かに存在している」。ジャ・ジャンクーは、この街で現実に在った出来事が、「歴史」という普遍的な物語の中へと回収されてしまうことを、断固拒否している。 |
2008/1/8更新 |
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