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2023年4月26再提出 この論文は2014年12月26日20時23分に出された論文に一部加筆、修正したものです。大きな趣旨は変わりませんでしたがジョン・フォードの作品などを追加しています。

藤村隆史論文『ヒッチコック・ホークス主義~ヒッチコックは「駅馬車」を撮ることができない』

第一章

■カナダ人旅行者

ヒッチコックがイギリス時代に撮った●「三十九夜」(1935)はイングランドの国家機密漏えい事件に巻き込まれて殺人容疑をかけられたカナダ人旅行者ロバート・ドーナットがロンドンからスコットランド、そしてまたロンドンへと逃避行を続けながら事件を解決してゆく作品だが、ここで何故ロバート・ドーナットは「カナダ人旅行者」なのか。何故ロバート・ドーナットはイングランドの警察官や諜報部員ではなく、カナダ人旅行者なのか。

★巻き込まれ型と職業

●「三十九夜」はヒッチコック映画においてよく言及されるところの「巻き込まれ型」の作品であり、犯していない殺人の罪を着せられた主人公が警察の手を逃れて逃亡を続けながらその過程で巡り合った女性と共に事件を解決してゆくパターンのストーリーのことだが、ヒッチコックは●「三十九夜」のあとにも●「第3逃亡者」(1937)●「逃走迷路」(1942)●「北北西に進路を取れ」(1959)によってこの「巻き込まれ型」の作品を反復させている。その最初の作品であるこの●「三十九夜」で殺人事件の容疑者として追われるロバート・ドーナットはロンドンから列車に乗りスコットランドの農家を経由して敵スパイの邸宅へ向かい、途中で知り合った若い女(マデリーン・キャロル)と手と手を手錠で繋がれながら逃避行とも調査ともいえない運動を続けてゆくことになるのだが、彼はカナダから休暇でロンドンへやって来てアパートを借りているただの旅行者に過ぎずイギリスの国家機密を守ったり調査活動をしたりするのに適した人物ではない。だからこそ彼は事件に「巻き込まれた」のであって、仮に彼がイギリスの諜報員その他政府関係者等で国家機密を守る法的義務のある人間であるならば彼の状況は「巻き込まれた」のではなく「職務の遂行」であり、彼の運動は彼の専門知識や経験、人脈等によって合理的に為されてゆくことになり、仮にそれによって彼自身が疑われ職務停止になったり休職になってしまったとしても彼の能力、情報網、人脈等は国家機密漏洩事件を解決するスキルにおいて明らかに「カナダからの旅行者」よりも優れている。スキルを有する彼は受動的に巻き込まれるのではなく事件を追求し解決してゆく積極的・能動的な主体なのだ。だが●「三十九夜」のロバート・ドーナットはそもそもイギリス人でもなければ諜報部員でもない。事件に関して何の専門的知識も経験も人脈も有していない彼の運動は職務の遂行とはかけ離れている。実際になされる運動と、職務とが分離しているのだ。殺人の容疑者として指名手配をされて協力者もなしにあちこちを逃げ回り、道中、ひょんなことから一緒に手錠に繋がれてしまったマデリーン・キャロルにも容疑を疑われて四面楚歌に陥ってしまった彼がこうした流れに逆らいみずからの意志によって事件を解決してゆくための持ち札は余りにも手薄である。職業からかけ離れた運動を強いられる彼は、運動における「主体性」を剥ぎ取られてひたすら巻き込まれるしかない。小説家であるデリック・デ・マーニーがスコットランドの海岸で偶然知人の女の死体を発見したことから容疑者として疑われ逃避行を続けてゆく●「第3逃亡者」は●「三十九夜」に続く「巻き込まれ型」の作品であるが、主人公のデリック・デ・マーニーは小説家であって殺人捜査においてはただの素人であり小説家としての能力は何ら事件に役立つことはない。●「逃走迷路」でカリフォルニアの飛行機工場への破壊活動の容疑者として疑われ逃亡するロバート・カミングスにしても兵器工場の労働者であって破壊活動や捜査機関とは何の関係もない民間人に過ぎない。アメリカ側のスパイと間違われて敵側に拉致されたあげくに国連ビルで殺人の汚名を着せられ一目散に逃げ出した●「北北西に進路を取れ」のケーリー・グラントは広告会社のエージェントであって諜報員とは何の関係もない民間人であり、彼は諜報部員のレオ・G・キャロルから捜査への協力を頼まれた際『僕は広告業者でプロのスパイじゃない。』ときっぱり断っているように「巻き込まれ型」の主人公たちは自分たちの持っている小説家、兵器工場の労働者、広告業界、といった職業のスキルをまったく生かすことができないからこそ巻き込まれるのであって、その中でも●「三十九夜」のロバート・ドーナットは「カナダからの旅行者」という断片的な情報はあるものの彼はカナダで何をしているのか、スコットランドの農家の主人に『私は車の修理工だが何か仕事はないか』と尋ねてはいるものの果たしてそれが彼の職業なのかそれとも情報を探るための方便なのか、そもそも彼は何に関するスキルを有しているのか映画の中ではまったく語られておらず撮られてもいない。

★土地勘

ロバート・ドーナットがカナダ人旅行者であるという事実は彼が国家機密の漏えいを専門知識として対処できないのみならずイングランドの土地勘においてもスキルを有していないことを意味している。ロンドン→スコットランド→そしてまたロンドンへと流されてゆく彼は逃亡の過程で立ち寄ったスコットランドの農家の妻ペギー・アシュクロフトに『エジンバラやロンドンのことなら知っている』と言ってはいるもののそれはあくまでもカナダからの旅行者として知っているレヴェルでありスコットランドの土地勘についてはまったく有していない。●「北北西に進路を取れ」でケーリー・グラントがインディアナポリス行きのバスに乗りプレアリー(大平原)という名のバス停で降りたあと農薬散布機に襲われてトウモロコシ畑に逃げ込んだシークエンスは、見知らぬ農道に放り込まれたケーリー・グラントの右も左も分からないという土地勘の不在がサスペンスの重要な要素を成している。こうしてケーリー・グラントもまたニューヨーク→シカゴ→プレアリー(大平原)のバス停→シカゴ→北ミシガンのオークション場→サウスダコタのラビットシティのラシュモア山へと次々に流されて行くのだがそれらの土地における彼の土地勘は何一つ示されていない。●「第3逃亡者」のデリック・デ・マーニーにしても、トムの帽子(ドライブイン)→ノヴァ・ピルビームの叔母の誕生パーティ→ノビーの木賃宿→炭鉱→ミュージックホールといった見知らぬ場所を転々とさせられてゆくのであり、●「逃走迷路」のロバート・カミングスにしても、カリフォルニアからディープ・スプリング→ソーダ・シティニューヨークへと流されて行くのだが「巻き込まれ型」の主人公たちは何よりもまず未知の土地へと放り込まれることによって主体性を喪失しさらなる強度によって巻き込まれてゆくのである。

★軽薄さ

主人公の軽薄さもまた「巻き込まれ型」作品の主人公に共通する資質としてある。無実の罪を着せられ官憲から追われているにもかかわらず逃走の過程で巡り会った女たちに何の屈託もなく入れ込んでしまう彼らの軽薄さは運動をその中心から絶えず周辺へとずらすことで為すべき運動から主体性を剥ぎ取りより巻き込まれやすい身体性をもたらすことになる。●「三十九夜」のロバート・ドーナットは刑事に追われてやむなく飛び込んだ列車のコンパートメントに座っていたマデリーン・キャロルになんのためらいもなくキスをして恋人を偽装してしまうことができるほどの女たらしであり、政治集会での演説後には警官を装った敵国のスパイたちによって逮捕され連行されてしまっているにもかかわらず観衆の声援に対して何の屈託もない笑顔で手を振って応える軽薄さを併せ有しているし●「第3逃亡者」のデリック・デ・マーニーは殺人の容疑で連行中であるにも関わらず出会った娘ノヴァ・ピルビームに軽口を叩いてからかい、自分の置かれている状況に関する深刻な言動は微塵も見せてはいない。こうしていとも簡単に任務を忘れて他の何かに没頭してしまうことのできる「柔らかさ」こそヒッチコック的巻き込まれ運動への適性にほかならずこの度合いが頂点に達したのが●「北北西に進路を取れ」のケーリー・グラントであり、彼は殺人の容疑者として指名手配されているにもかかわらず列車で誘惑された見知らぬ女(エヴァ・マリー・セイント)との色恋沙汰に何のためらいもなくのめり込み、自分が追われていることそっちのけで彼女を追い続けてしまう。「巻き込まれ型」において男性が主人公の場合、彼が軽薄な女たらしであることは「巻き込まれる」という運動の質から来る単純な帰結としてあり、真面目な労働者で女たらしでもない●「逃走迷路」のロバート・カミングスがその巻き込まれ方において窮屈さを露呈させることになるのもまた運動の質からきている。軽薄さはその者の意識をして任務に対する主体性を剥ぎ取るばかりか人間としての信頼を喪失させることで協力者をも遠ざけてしまい主人公を孤立無援の状況へと追い込みながら事件の渦中へと巻き込んでゆく重要な細部なのだ。

★「海外特派員」(1940)

ここからはいわゆる「巻き込まれ型」以外の作品にも範囲を広げて検討を進めたい。時は第二次大戦前夜、ニューヨークの新聞社の社主であるハリー・ダヴェンポートは戦争が起こるのか否かのカギを握るオランダ人ヴァン・メアという人物を取材できるガッツのある男を探していた。そこで白羽の矢が立ったのが警官を殴って首になりかけていた熱血記者ジョエル・マックリーであり、アメリカ人の彼は海外特派員としてニューヨークからロンドンへ派遣され、さらにアムステルダムへと場所を移す過程でヴァン・メア誘拐事件へと遭遇することになるのだが、ここでまず社主であるハリー・ダヴェンポートとジョエル・マックリーとの問答を見てみたい。

●→ハリー・ダヴェンポート★→ジョエル・マックリー。

●『結婚は?』★『してない』。

●『ヨーロッパへ行ったことは?』★『ない』。

●『君はヨーロッパの危機について知っているかね?』★『危機って?』

●『戦争の危機のことだよ』★『正直言って考えたことありませんね』

●『君、外信を見てないな?』★『くびにするなら早いとこ頼みますよ!』と、タンカを切って部屋を出て行こうとするマックリーに●『クビにはせん』と、ここでハリー・ダヴェンポートは「合格」を告げてジョエル・マックリーを驚かせる。その後★『本を読んでヨーロッパについて勉強します』と言うマックリーに対してダヴェンポートは●『いやいや、そのままでいい。新鮮さと初心(unused mind)が武器なんだ』と答えている。

ヨーロッパへ行ったこともなく、世界情勢について何も知らない。通常ならここで海外特派員としてアウトである。ところが『危機って?』とジョエル・マックリーが答えた瞬間ダヴェンポートは我が意を得たりとニヤリと笑い、一連の物語的文脈とはまったく逆に彼を特派員に任命している。土地勘もなく情勢からもまったく疎いこと、それが彼の「適性」であり、加えてジョエル・マックリーはロンドンの会議の席で出会った女性運動家ラレイン・デイに一目ぼれしてしまい会議の席でラブレターを送り続けてラレイン・デイのスピーチを台無しにしてしまうような軽薄な男として撮られている。B級映画の伝説的プロデューサ、ウォルター・ウェンジャーが製作しストーリーの大筋もまた彼によるとされているこの作品は、ゲーリー・クーパーにオファーを出して断れたという経緯があり(「映画術」122)、このラブレターを送るシーンなどは何となくクーパーを念頭に置いて書かれたようでもあり、果たしてこの女たらしの人物をジョエル・マックリーが上手に演じたかどうかは議論の余地のあるところではあるものの、この作品のジョエル・マックリーは土地勘の不在、情報の欠如、そして軽薄な女たらしという細部において「巻き込まれ型」の主人公と共通した「柔らかさ」(巻き込まれるのに適した身体性)を有している。確かに●「海外特派員」のジョエル・マックリーは海外特派員であり、海外特派員が特派員活動をするのだから彼のする運動は「巻き込まれ型」の主人公たちとは違って職業との「ずれ」を生じておらず、その為す運動=任務は主体性に主導されているようにも見えるものの、ハリー・ダヴェンポートとの問答が指示するように彼はそもそも海外特派員としての経験(スキル)などまるで有していないばかりか、実際の彼のなす運動は「外交官誘拐事件の解決」という特派員の任務を大きくはみ出た運動へと逸脱しており彼は「巻き込まれ型」の主人公と同じようにスキルを喪失することで事件に巻き込まれている。ヒッチコック的巻き込まれ運動において重要なのは職業と運動とが形式的にずれていることではなく実質的に乖離していることであり、ハリー・ダヴェンポートによる適性試験は●「海外特派員」という作品における物語的な適性試験としてだけあるのではなくヒッチコック的巻き込まれ運動の適性試験そのものとしてある。ヒッチコック映画の主人公の適性として要求されるのは『新鮮さと初心(unused mind)』=柔らかさ・素直さ=であり、それによって専門人ではなく無知の者たちが土地勘や情勢から見放されて巻き込まれることでヒッチコック的運動が起動するのである

★飲んだくれ~ケーリー・グラント

●「北北西に進路を取れ」のケーリー・グラントはアメリカのスパイと間違われて敵スパイに拉致され、無理矢理酒を飲まされて車の運転席に乗せられ、飲酒運転による事故に見せかけて殺されそうになった時、運よくパトカーに捕まり難を逃れるのだが、その後警察でぐでんぐでんに酔っぱらいながら『力づくで酒を一瓶飲まされた』と主張するケーリー・グラントの主張は警官どころか母親にさえ信じてもらえず、それどころか日頃から飲んだくれの彼が『無理やり飲まされた』状況を詳細に説明すればするほど周囲は笑いに包まれてゆく。こうして広告会社のエージェントのケーリー・グラントが知りもしない国家機密事件へと巻き込まれてゆくその一つの要因としてあるのが「飲んだくれ」という彼の素行であり、それによって彼の記憶はあやふやになり信頼という極めて大きな社会的武器を喪失するばかりか、そこに彼の軽薄さというもうひとつの信頼喪失が加わり孤立無援となった彼の主体性は極限まで剥ぎ落されその巻き込まれ適性は頂点に達することになる。

★「バルカン超特急」(1938)

それは●「バルカン超特急」のマーガレット・ロックウッドに良く似ている。ヨーロッパの架空の国バンドリカから列車に乗り込んだイギリス人の娘マーガレット・ロックウッドが列車内で消えた夫人ディム・メイ・ウィッティを探す過程でイングランドの国家秘密情報の漏えい事件に巻き込まれてゆくこの作品は、のちにオットー・プレミンジャー●「バニー・レークは行方不明」(1965)、ロベルト・シュベンケ●「フライトプラン」(2005)によってリメイクされたことでも知られる作品だが、ここで主人公のマーガレット・ロックウッドはバンドリカ駅のホームで列車に乗る前にホテルの二階から落ちてきた植木鉢に頭をコツンと打たれて脳震盪を起こし、その記憶のあやふやさから後の彼女の目撃した事実は誰にも信じてもらえなくなってしまう。彼女と一緒に列車に乗ったはずのディム・メイ・ウィッティが消えてしまった。ディム・メイ・ウィッティはどうしたの?、マーガレット・ロックウッドが聞いても乗客たちはみなそんな夫人は知らないと取り合ってもらえない。あんた、頭を打ったから幻想を見たんだと言われてマーガレット・ロックウッドはそんなはずはない、確かに私は見た。そこで彼女は必死になってディム・メイ・ウィッティを探そうとするのだが、、、この「コツン!」とマーガレット・ロックウッドの脳天に当たる植木鉢は●「北北西に進路を取れ」におけるケーリー・グラントの「飲んだくれ」と同じように彼女に巻き込まれ適性を付与するための方便(マクガフィン)であり、マーガレット・ロックウッドはロンドンで待つフィアンセと結婚式を挙げるためにやってきた民間人であって探偵でもなければイギリスの諜報部員でもなくスパイ事件を解決するスキルなどまるで有していないところへきて「コツン!」とその脳天に植木鉢の直撃を食らって「ふらふら」になってしまい事件解決のスキルどころか信頼までも喪失し以降彼女は背中を押されるようなムチ打ち運動へと巻き込まれることになる(ふらふらになっているからこそその身体は柔らかになって「むち打ち」になるのであり、身構えた硬い身体は「むち打ち」にはならず巻き込まれることはない。以降、巻き込まれやすい身体を「柔らかさ」として表現し、ゆるぎない自我に満ちていて巻き込まれにくい身体を「主体的」なるものとして表現する)

★身分違いの恋

●「レベッカ」(1940)で意地悪な有閑マダム(フローレンス・ベイツ)のコンパニオンとして南仏にやってきたジョーン・フォンテインはそこで知り合った貴族ローレンス・オリヴィエと恋におちて結婚しイングランドの大きな屋敷で新婚生活をすることになるのだが、一度フォンテインが『住む世界が違いすぎます』とオリヴィエの求婚を断っているように、生活様式も慣習もちがう土地勘のない世界に入り込んだフォンテインは夫のオリヴィエをまったく理解できず周囲の協力も得られずに孤立し、挙句の果てに召使のジュディス・アンダーソンに殺されかけてしまう。●「断崖」(1941)においてもジョーン・フォンテインは、「親泣かせの道楽者」で「名うての女たらし」と噂のプレイボーイのケーリー・グラントと婚期を逸する焦りからろくに知りもしないで結婚してしまい、新婚旅行から帰ってきた新居で初めて彼が無一文と知らされてボー然とし、その後も慣習や性格の違いから彼が何を考えているのかさっぱり分からず、ついには彼が自分を殺そうとしているのではという疑念に囚われ放心状態になってしまうのだが、どちらの作品においてもジョーン・フォンテインはろくに知りもしない相手とスピード結婚することで情報から遮断され孤立無援となって結婚生活に巻き込まれていくことで共通している。

★失業・未成年・貧困・犯罪

ヒッチコック映画において主人公の運動から主体性を取り去って巻き込まれ易い身体を作り出してゆくための細部は単体としてあるのではなくスキルの不在、情報の不在、軽薄さ、女たらしといった性格、さらに多くの出来事が絡み合って成り立っている。殺人の容疑をかけられた元バーテンの男が逃げ回ることになる●「フレンジー」(1972)はいわゆる「巻き込まれ型」と同列に語るべき作品だが、ここで主人公のジョン・フィンチが映画開始当初、酒のただ飲みを店主バーナード・クリヴィンスに咎められてバーテンをクビになるのは、酒→失業という社会的信用を失墜させる出来事によって彼をして「巻き込まれ型」作品における主人公たちと同質の身体へと和らげてゆくための第一歩であり、無一文の彼は別れた妻バーバラ・リー=ハントに金を借りに行くのだが、そこで密かに彼女によってポケットの中に入れられた金が仇となり妻殺害の容疑をかけられて逃げ回ることになるのであり、こうした細部は彼の怒りっぽい性格による信頼性の喪失と相まってヒッチコック的巻き込まれ運動の身体的適性を獲得させることになる。●「疑惑の影」(1943)のテレサ・ライトはサンタローザという小さな街に住む少女であり高校の弁論大会で優勝した経験を持つらしいものの未成年であって社会的信用や人脈などあるはずもなく、ニューヨークからやってきた大好きな叔父さん(ジョセフ・コットン)が未亡人連続絞殺事件の犯人ではないかとの疑念が生まれてもそれを解決するスキルを何一つ有していない。貧困、失業、怒りやすい、未成年、、こうした細部を積み重ねることによって主人公の巻き込まれ適正は加速していく。

★「サイコ」(1960)

小さな不動産会社に勤務しているジャネット・リーは貧困の恋人ジョン・ギャヴィンと結婚するために会社の金を持ち逃げしカリフォルニアに住んでいる彼の元へと車を飛ばすのだが、車で街から逃走する途中で会社の社長に目撃され、夜のヘッドライトで目がかすみ疲れ果てて仮眠したところをパトカーの検問に引っ掛かり、やっとのことで解放されて中古車センターで車を買い替えて痕跡を消そうとしたものの買い急いでセールスマンに怪しまれたばかりかその様子をパトカーの警官に見張られてしまい、逃げるようにバイパスへ出ると夜になり、大雨とヘッドライトに祟られて前も見えず、気が付くと裏街道へと迷い込みベイツモテルへとたどり着く、、、、そこでジャネット・リーがサンドイッチを食べながらベイツモテルの主人アンソニー・パーキンスに『私は罠に引っかかったのよ』と語ったように、みずからの意志で主体的に犯罪を実行し主体的に逃亡を図っているように見える彼女は、犯罪者としてのスキルを欠くばかりか、貧困、結婚願望、成金の見せびらかす大金、高温多湿の気候、そして頭痛といった細部によって犯罪へと巻き込まれているのであり、パトカー、中古車センターの警官、雨、夜、ヘッドライト、といったさらなる細部によって今度はベイツモテルへと巻き込まれてゆく。こうした細部こそマクガフィンであり、実に多くのマクガフィンによってジャネット・リーはベイツモテルへと「追い込まれて」いる。マクガフィンについては第二章で検討する。

2つのヒッチコック

ヒッチコック的巻き込まれ運動において第一に重要なのはスキル喪失であり、それは多くの場合主人公の職業と映画の中で実際になされる運動との分離によってもたらされる。だが職業と運動とが分離していてもスキルによって展開していく作品をヒッチコックは撮っている。●「泥棒成金」(1955)のケーリー・グラントは元泥棒であり既に泥棒の足を洗っている彼の任務はかつての自分の手口を真似た模倣犯を探し出すことでみずからにかけられた嫌疑を晴らすことにあり、そこにあるのは元泥棒が探偵をすることであって職業と任務とは形式的には重なり合っていない。だがケーリー・グラントはかつてのレジスタンスの同志であるシャルル・ヴァネルに『俺はこの15年間泥棒はしていない』と主張しているものの『私なら捕まえられる。敵の動きを読めるから先回りして現場を押さえてやる。』と豪語している。アメリカのサーカスで曲芸をやっていたが破産したので才能を生かして泥棒になりその後逮捕され服役するが刑務所が戦争で爆撃されて脱獄し罪滅ぼしに地下組織に加わり英雄になったという経歴の持ち主であるケーリー・グラントは、保険屋のジョン・ウィリアムズとの会話によると『72人、敵を殺した』強者で、泥棒のみならず数多くのスキルに長けていて、実際彼は、映画開始直後踏み込んできた警官をライフルの銃声で攪乱しながら車で逃走し中途でバスに乗り換えまんまと追っ手を振り切ったあと、模倣犯の被害者になりそうな富豪(ジェシー・ロイス・ランディス・グレース・ケリー母娘)の情報を保険屋のジョン・ウィリアムズから入手すると、カジノで女性客の胸の谷間にチップを落として1万ドルをかすめ取り、それを見ていたジェシー・ロイス・ランディスの歓心を買うことで懇意になるという極めて知的で回りくどい方法で任務を成功させたばかりか、最後は仮装パーティの屋敷の屋根の上で真犯人を待ち伏せし先回りして現場を押さえている。すべては計画通りであり「予期」「土地勘」「先回り」といったことを前提になされる彼の運動は常にみずからの理性・知性に基づく自発的意志によって能動的になされている。グレース・ケリーとの恋愛にしても同じくケーリー・グラントの演じた●「汚名」(1946)、●「北北西に進路を取れ」のように愛に対して疑心暗鬼になり自己制御すら危うくなった男たちがやみくもに女に向かっていくというのではなく、あるいは●「めまい」(1958)のジェームズ・スチュワートのように散々キム・ノヴァクの神秘性に振り回されて「柔らかく」なるというわけでもなく、●「泥棒成金」のケーリー・グラントの恋愛はそもそもグレース・ケリーとの出会いが計画的であったように知的で理性的なそれとして撮られており、計画性のカケラもなく女たちと出会っては巻き込まれてゆくスキル喪失型運動における軽薄な女たらしたちとはまったく違っている。こうして主人公が計画的に事を進めてゆくというという現象は、学生が殺人を犯す●「ロープ」(1948)と、元テニスプレイヤーで現在はスポーツ用品を販売している男が妻の殺人を第三者に委託する●「ダイヤルMを廻せ!」(1954)における「計画殺人」という現象においても同様にひき起こされている。彼らのなす殺人という運動は形式的には学生、元テニスプレイヤーという職業なり社会的地位なりからずれているものの実質的には計画を立てることにおいて獲得したスキルによってなされるスキル運動にほかならず、●「ロープ」の犯罪者たちは計画的に殺した友人の死体を道具箱に入れたままその死体のある現場に大勢の客を呼んでパーティを開くことで完全犯罪を証明するという実に回りくどい知的さに満たされており●「ダイヤルMを廻せ!」のレイ・ミランドの殺人計画にしても車を買うと偽って素行の悪かった学生時代の友人アンソニー・ドーソンを犯人に仕立て上げるために呼び出し前もって調べ上げていた友人の犯歴で脅しながら妻の殺人に協力させるというこれまた途方もなく回りくどい計画を立てながら自らの意志によって主体的になされている。彼らの犯罪は同じ犯罪者でも計画性もスキルもまったくない●「サイコ」のジャネット・リーが突発的犯罪によって状況に巻き込まれたのとはまったく異なっている。こうして●「泥棒成金」のケーリー・グラントは冷静沈着に事を進め泥棒としてのスキルを存分に発揮しつつ最後は屋根の上で真犯人を雨どいの宙づり状態へと追いつめて罪状を自白させるという極めて強い主体性を発揮している。そもそも高所や危険地帯におけるヒッチコック的運動は●「三十九夜」のロバート・ドーナット、●「バルカン超特急」のマイケル・レッドグレーヴ、●「海外特派員」のジョエル・マックリー、●「北北西に進路を取れ」のケーリー・グラントといった軽業のスキルのない素人たちが、列車や高層ホテルの外壁伝いに命からがら隣のコンパートメントや客室へと逃亡し、また●「裏窓」(1954)のグレース・ケリーが向かいのアパートメントのバルコニーから二階へとよじ上り殺人事件の調査に果敢に挑んでいるように、スキルを有しない不慣れで危険な運動がハラハラのサスペンスを生み出すことによって遂行されている反面、アメリカのサーカスで曲芸をやっていたが潰れたので才能を生かして泥棒になったという●「泥棒成金」のケーリー・グラントは彼の「猫」という異名が示すように落下へのサスペンスなど微塵も感じさせずにスーパーマンさながらの軽快なスキルによって屋根の上を飛び回り真犯人を雨どいの宙吊り状態へと追いつめながら冷静沈着に自白をさせている。こうしてヒッチコック映画の運動には「巻き込まれ型」を典型とする、スキルを喪失した主人公たちが巻き込まれてゆく受動的運動と、●「泥棒成金」●「ロープ」●「ダイヤルMを廻せ!」のようにスキルを積極的に利用しながら知的にことを進めてゆく能動的(主体的)運動の二種類があることになる。

★役を演じること~「舞台恐怖症」(1950)「ファミリープロット」(1976)

舞台女優のジェーン・ワイマンがみずからの素性を隠してマレーネ・デートリッヒの秘書になって潜入する●「舞台恐怖症」と、役者志望のタクシー運転手ブルース・ダーンが弁護士に扮してある資産家の相続人探しをする●「ファミリープロット」とは、どちらも役者(あるいは役者志望)が役を演じることの映画である。●「舞台恐怖症」のジェーン・ワイマンは、殺人の嫌疑をかけられた演劇学校の同僚リチャード・トッドを助けることをみずからの意志によって理性的に決意し、まず刑事のマイケル・ワイルディングを尾行して単身酒場に乗り込み、めまいを演じて彼から情報を仕入れる傍ら、新聞記者を装ってマレーネ・デートリッヒのメイド、ケイ・ウォルシュに近づき、金で買収してメイドに成り代わってマレーネ・デートリッヒの秘書となって秘密を探り、失神を演じて刑事に追われているリチャード・トッドを逃がしたりと、極めて主体的に役を演じ続けており、こうした計画性=知的さは、咄嗟の判断でポーターになりすますという「役を演じて」刑事をまいた●「北北西に進路を取れ」のケーリー・グラントの幼稚な運動とは質的に異なっている。父親のアラステア・シムに言わせると『優秀な女優』であるところのワイマンは、老眼鏡をかけて変装した姿を母のシビル・ソーンダイクにアッサリ見破られたり、劇場のガーデンパーティの舞台では刑事のワイルディングに正体を見破られたりするものの、標的のデートリッヒに対しては最後まで正体を隠して役を演じ続け、遂に盗聴器のしかけられた密室にデートリッヒをおびきだすと、自分から正体を堂々と明かした上で証拠の血のドレスの存在でデートリッヒを脅迫してまんまと真相を告白させてしまったばかりか、親友のリチャード・トッドが実は真犯人だったと知るや今度はトッドを逃がすふりを演じて刑事のいる場所へおびき出し劇場の幕の下敷にさせて死に至らせてしまっている。こうして見事に役を演じ続けたジェーン・ワイマンは父親のアラステア・シムにその名演技を拍手でもって称えられることになる。街の中で本物の舞台の幕が上昇して始まりリチャード・トッドが幕に押しつぶされて終わるこの●「舞台恐怖症」は「役者が役者のスキルを駆使して役を演じること」の映画として撮られておりジェーン・ワイマンは巻き込まれているのではなく計画的・主体的に事件を解決している。こうした運動は●「殺人!」(1930) において劇作家兼俳優であるハーバート・マーシャルがみずからのスキルを利用しながら舞台にかこつけて真犯人を追いつめてゆく運動と重複しており、劇作家兼俳優が殺人事件の捜査をするという点で職業と運動とのずれを生じているものの『舞台のテクニックを実生活に応用する』と彼が語るように「サー」であるハーバート・マーシャルがその社会的な信用を利用して秘書、弁護士、そして劇団の役者などの協力者を駆使しながら真犯人を追いつめていくスキル運動であり、服役している女優ノア・ベアリングへの思いに揺さぶられつつも最後まで理性的で知的な運動を続けている点において●「舞台恐怖症」のジェーン・ワイマン、●「泥棒成金」のケーリー・グラント等と通底する知的な人間として撮られている。これに対して役者志望のブルース・ダーンが弁護士に扮して調査を始める●「ファミリープロット」はブルース・ダーンが情報を得るために寄ったガソリンスタンドにガソリン満タンで入って行って経営者のエド・ローターに怪しまれ車のナンバーを調べられたあげくに宝石商のボス(ウィリアム・ディヴェイン)への報告で『奴はアマチュアだ』と言われる始末で、結局ブルース・ダーンは難なく身元を突き止められてしまったばかりか車のブレーキに細工をされて恋人のバーバラ・ハリス共々殺されそうになるのであり、まったくスキルの裏付けを欠く彼の「演じること」は悉く失敗し、だからこそブルース・ダーンは知らないうちに誘拐事件へと巻き込まれてゆく。同じ「役を演じること」の映画でもスキルを有するジェーン・ワイマンは巻き込まれずに能動的にことを進め、スキルのかけらもないブルース・ダーンは受動的に巻き込まれてゆく。

★「引き裂かれたカーテン」(1966)のスキル運動

アメリカ人の物理学者でアメリカ宇宙委員会委員でもあるポール・ニューマンが自分では解けない迎撃ミサイルの数式を探るためにアメリカ政府には内密に単身現地のレジスタンスと連絡を取り合って東ドイツへ二重スパイとして亡命し、ドイツの教授ルドヴィヒ・ドナトから数式の情報を盗み出すというこの作品は物理学者のポール・ニューマンがスパイ活動をするという点において職業と任務の「ずれ」を生じており、加えて「アメリカ人が東ドイツへ侵入する」のだからそこには土地勘の不在もまた生じ得ることからこの作品はスキル不在の主人公が未知な土地で巻き込まれて行く運動のようにも見える。だがポール・ニューマンは異国の地で戸惑うどころかドイツのスパイ(ヴォルフガング・キーリング)の尾行を美術館を利用して難なく巻いたどころか、レジスタンスの農家へと直行して情報を入手したあとそのスパイをみずからの手で殺害するという、巻き込まれ運動の主人公であればあり得ない主体性を発揮しているばかりか、ポール・ニューマンの行く先々には、農家、大学、バスそして街路にすら、必ずや彼を待ち構えている協力者たちがいて、中でもレジスタンスの協力者たちはスパイ活動に関して強力なスキルを有しているばかりかニューマンの事情を知り尽くしており、至る所で先回りしてニューマンを待ち受けては協力をしてくれる彼らによってニューマンのスキル不足はすべて補われている。映画中盤、レジスタンスの女医が大学の階段を歩いているニューマンを足で引っ掛けて怪我をさせ医務室に運びこんで情報を伝えるというシーンの回りくどいまでの計画性はヒッチコック的スキル運動のあらゆる細部が知的なものへと流れていくことを指し示している。

★精神分析~「白い恐怖」(1945)と「マーニー」(1964)

精神分析医のイングリッド・バーグマンが、精神を病んでしまったあげくに殺人の嫌疑をかけられたグレゴリー・ペックを助けて事件の謎を解いてゆく●「白い恐怖」と、会社社長であるショーン・コネリーが窃盗癖を有する妻ティッピ・ヘドレンの精神分析をしながら謎を解いてゆく●「マーニー」は、それぞれバーグマンとコネリーを主人公と考えた場合、各々「精神分析医が殺人事件の謎を解く」「会社社長が精神分析をする」ことから形式的には職業と運動とが分離しておりスキル不在の巻き込まれ運動のようにも見える。だが●「白い恐怖」のバーグマンは探偵ではなく精神分析をすることで事件を解決に導いており、また●「マーニー」のコネリーもまた動物学者であり、動物本能の研究を、特にメスの犯罪についての論文を書いた経歴を有しており、どちらもが「精神分析のスキルを有する者が精神分析をしながら事件を解決する」というスキルの映画として共通している。●「白い恐怖」のバーグマンは謎の男グレゴリー・ペックを愛してしまうがそれによって「柔らかく」なるどころかヴァーモント州の病院からニューヨークのエンパイアステートホテルを経由してロチェスターの恩師マイケル・チェーホフの家、そしてガブリエル天使の谷と、土地勘の喪失に驚かされることなどまるでなくペックをまるで母親のように保護しながら精神分析のスキルを冷静に発揮してペックの過去へと遡って行くのであり彼女の運動は巻き込まれているのでなく自らの意志とスキルで進路を決定し打開してゆく極めて主体的なものとして現れている。●「マーニー」のショーン・コネリーもまた謎の女ティッピ・ヘドレンを愛してしまうがそれによって「柔らかく」になるのではなく、泥棒としてのヘドレンの正体を見破りながら泳がせ、土地勘に優れた彼は金を盗んだヘドレンの先回りをして待ち伏せ、盗まれた金は予め金庫に戻しておいてヘドレンに嫌疑がかからないようにしておくという、泳がせ、待ち伏せ、予め、といった計画性=主体性を発揮しながらヘドレンの窃盗癖の弱みを握って上位に立ち(上から目線)、結婚を強要し、まるで父親のように保護しながら積極的に精神分析を引き受けそれによって過去にさかのぼり彼女の窃盗癖の原因を突き止めるという主体的な運動を推し進めている。ここでもまたヒッチコック的スキル運動における人物は主体性、知的さに包まれている。

■職業と運動の関係

ここでヒッチコック作品の職業と運動の関係についての表を提示する(ヒッチコック職業・運動表参照)。題名の色で分けているが、黒と青はスキルに乏しい作品でヒッチコック的巻き込まれ映画はここに含まれる。赤とピンクはスキル運動である。ここからはヒッチコックの撮ったスキル運動の作品についてさらに考察する。

★「トパーズ」(1969)

ソ連の軍事パレードの実写が入った後、KGBの高官がアメリカに亡命するところから始まるこの作品は、“トパーズ”という国家機密に関する暗号をもとにフランスのエージェントであるフレデリック・スタフォードがニューヨークからキューバそしてフランスへと移動しながらソ連に情報を流していたフランス人のスパイを探してゆく作品である。ここでフランスの諜報員であるフレデリック・スタフォードは『あなたはフランス人よ、冷戦に巻き込まれないで』という妻の反対にもかかわらず『アメリカはキューバとの接点をピッグス湾事件でなくしている。キューバの現状を放っておけない』とパリの本部の了承も取らずにみずからの強い意志で主体的にキューバへ向かい、キューバでは愛人のカレン・ドールと情事を重ねつつ諜報員としてのスキルを十分に発揮して任務を遂行し敵のスパイを突き止めている。スパイがスパイ活動をするこの作品はスキルへと向けられた職業的運動であり、だからこそフレデリック・スタフォードをアメリカのフランス大使館の上官にスタフォードを評させると『彼はここ(アメリカ)に何年もいる。親しさは力だ。西半球一の情報網を持っている。エキスパートであり仕事に献身的だ。』となり、それがために上官はフレデリック・スタフォードの適性を肯定している。ヒッチコックの企画でなく原作からキャスティングまですべて押し付けられて撮ったとされるこの●「トパーズ」のシナリオは●「海外特派員」における主人公の『新鮮さと初心(unused mind)』が適性なのとはまったく逆に『親しさは力だ』と書かれている。キューバにやってきたフレデリック・スタフォードを待ち受けていたのは彼の愛人(恋人)であり地下レジスタンス組織の指導者でもあるカレン・ドールと組織の協力者たちであり、彼らは銃殺されたり拷問されたりしながらもスタフォードをアメリカへ無事脱出させるという途方もなくスキルフルな協力をしている。だが戦争映画であれ刑事ものであれミュージカルであれこうしたスパイものであれ、スキルへと向けられた職業的運動において熟練したスキルを持つことが主人公の適正とされているのは当然であり、ここでスタフォードがスパイのスキルに恵まれアメリカでの土地勘に長けまたキューバにおいてもレジスタンスの多くの協力者によって土地勘を付与されているのは運動の流れとしては当然であり、それはジョン・フォード、ハワード・ホークス等他の監督たちの撮ったスキル運動についても共通する資質としてある。問題はそのスキル人間の在り方にある。

★公務員とスキル

「ヒッチコック職業・運動表」においてスキル運動として撮られた作品(赤、ピンク)には公務員が主人公の作品が(●「第十七番」(1932)→刑事●「間諜最後の日」(1936)→スパイ●「汚名」→スパイ●「引き裂かれたカーテン」→アメリカ宇宙委員会委員●「トパーズ」→スパイ、と15本中5本存在するのに対してスキルを喪失した巻き込まれ運動(無色、青)には公務員を主人公にした作品が一本も存在しない。スキル喪失型運動はすべて民間人を主人公にした運動に限定されており、例えば「刑事が殺人の嫌疑をかけられ逃亡しながら嫌疑を晴らす」というような、あっても良さそうな巻き込まれ映画が一本も存在しない。運動の性質によってここまで極端に差が出るのは端的にスキルの問題として見ることができる。公務員であれば権力を利用することができ公務員同士のネットワークによって人脈も広くインテリ層が多いので広い分野におけるスキルに長けていることからスキル運動を撮るならばスキルに満たされた公務員は格好の主人公となる反面、スキル喪失型巻き込まれ運動の場合には公務員はそのスキルの豊富さから巻き込まれづらくなり巻き込まれ運動における主人公としての適性=「柔らかさ」を欠くのである。

★空の英雄~「間諜最後の日」(1936)と●「フレンジー」(1972)

小説家でイギリスの空軍大尉であるジョン・ギールグッドが英諜報機関の任命を受けてスパイとなり、同じくスパイの命を受けたマデリーン・キャロル、ピーター・ローレと協力しながらドイツのスパイであるロバート・ヤングのアラブ入りを阻止するためにイギリスからスイスの教会→カジノ→アルプス→チョコレート工場を転々とし、最後はコンスタンチノープル行の列車へと行き着く●「間諜最後の日」においてもまた陸軍大尉でスパイという公的な職業がジョン・ギールグッド等に人脈等幅広いスキルを与えており、チョコレート工場で情報を探り出すシークエンスにしてもジョン・ギールグッドはそこを最初から敵スパイの連絡所と知った上で味方となる内通者に話をつけて訪れており、転々と各地を移動する運動においても土地勘の不在による戸惑いは見られていない。また偽装の葬式によって死者にされたジョン・ギールグッドは愛国心から任務を積極的に引き受けているし、マデリーン・キャロルも『周囲の反対を押し切ってここまで来たのよ』と極めて主体的に任務を引き受けており、公務員という職種の有するスキルフルな性質がここでもまたヒッチコック的スキル運動における人物の主体性となって現れている。同じ空の英雄でも●「フレンジー」のジョン・フィンチは●「間諜最後の日」のジョン・ギールグッドと違って「かつての英雄(元公務員)」であり、元海軍少佐で空の英雄でありながら今やバーテンに身をやつし店長のバーナード・クリヴィンスにタダ酒を飲んだといちゃもんをつけられ首になったあげくに別れた妻を殺した嫌疑をかけられ逃げ回る彼に社会的信用などあるはずもなく、うらぶれた私人に過ぎない現在の彼の信頼できる人脈はバーのウエイトレスのアンナ・マッシーと連続絞殺魔バリー・フォスターしかいない。戦友の夫婦(クライヴ・スウィフトとビリー・ホワイトロウ)にはアッサリ裏切られ、挙句の果てにはバリー・フォスターの陰謀にはめられて逮捕され死刑判決を受けてしまっている彼の苦難は公務を離れることのわびしさをひしひしと教えてくれる。だがこうして現在の彼から肩書きの力を極限まで剥ぎ取ることでジョン・フィンチは巻き込まれることの「柔らかい」身体性を加速させてゆくのであり、それは現役公務員の肩書きとスキルを簡単に利用できてしまう●「間諜最後の日」の主人公たちの運動とは質的に異なっている。

★元公務員と「めまい」(1958)~スキルを周到に消すこと

元刑事(元公務員)のジェームズ・スチュワートが大学時代の友人トム・ヘルモアにその妻キム・ノヴァクの尾行を依頼され、追跡してゆくうちに彼女の魅力の虜になってしまうというこの作品は「元空の英雄が殺人事件に巻き込まれる」のとは違い元刑事の「尾行する」というスキルが退職後もそのまま継続して利用されているようにも見える。だがトム・ヘルモアに『君にやって欲しい』と依頼された際スチュワートは『それは俺の専門(line)ではない』と、「尾行すること」という彼のなすべき探偵行為が彼の元刑事としての経験のスキルの範囲外の運動であることをはっきりさせて依頼を断っている。確かにスチュワートはキム・ノヴァクの宿泊している宿屋の受付で刑事の身分証を見せたりしているが、それは刑事の証明であり「尾行すること」のスキルを裏付けるものではない。一見スキル運動のようでありながら●「めまい」の元刑事というスキルは周到に消されており、だからこそ精神に支障をきたしたとされるキム・ノヴァクを尾行して花屋、教会、墓地、そして海の中へと引きずり込まれてゆく彼の運動は●「泥棒成金」のようなスキルへとめがけられた運動ではなく、およそ土地勘、計画性といった主体的な契機とは対極にあるところの巻き込まれ運動へと周到に準備されている。

★探偵映画

所謂「巻き込まれ型」の4本に加えてこれまでに検討した●「バルカン超特急」●「レベッカ」●「断崖」●「海外特派員」●「疑惑の影」●「めまい」●「フレンジー」●「ファミリープロット」等といった巻き込まれ運動の主人公たちが謎を解くために容疑者を尾行したり、聞き込みをしたり、調べ物をしたりという探偵行動は職業としての探偵「である者」が探偵を「すること」ではない。だからこそヒッチコック的巻き込まれ運動には刑事やスパイといった公務員どころか私立探偵の主人公も存在せず、ジョン・ヒューストン●「マルタの鷹」(1941)、ハワード・ホークス●「三つ数えろ」(1946)のように、私立探偵が主人公となり探偵活動をしながら事件を解決へと導いてゆく「探偵映画」といわれるジャンルをヒッチコックはその巻き込まれ映画において一本も撮っていない。ヒッチコック的巻き込まれ映画における「探偵」とは、探偵「である者」ではなく探偵ではない者が探偵行為を「すること」の映画であり職業運動としての探偵映画ではない。探偵は公務員ではないもののいわゆる何でも屋であり人脈も豊富であらゆる出来事に対処できるスキルを有していることから、仮に職業から運動を形式的に分離させたところであらゆる運動にはそれなりのスキルが付着することになり巻き込まれ適正において支障をきたすことになる。ヒッチコック的巻き込まれ映画の主人公に公務員も探偵も存在しないのは運動の質からして当然の帰結となる。

★「私は告白する」(1952)

カナダを舞台に撮られたこの作品は殺人事件の真犯人の懺悔を聞いてしまったカトリックの神父モンゴメリー・クリフトが神父としての守秘義務を守り通すことで真相を警察に話すことができず犯人と疑われて裁判にかけられ危うく死刑になりかけてしまうという物語である。神父がスキルの及ばない殺人事件の容疑者とされたのだからこれは巻き込まれ運動となってゆくはずの運動であるように見えながら、モンゴメリー・クリフトは「守秘義務を守ること」という神父としてのスキル運動をみずからの意志によって積極的に選択し、昔の恋人で今は他の男(ロジャー・ダン)と結婚しているアン・バクスターに『結婚して7年経った今もあなたを愛しているわ』と迫られても『私は自分で聖職者の道を選んだのだ。現実を受け容れなさい』と諭して一向に動じず、逃走可能でありながらみずからすすんで刑事のカール・マルデンの元へ出頭して裁判にかけられるという「巻き込まれ型」主人公の軽薄な女たらしたちとはまったく違った主体性を維持し続けるばかりか、死刑になりそうになっても命を懸けて守秘義務を守り通し、最後には真犯人O・E・ハッセの銃で脅かされつつも彼が神に召されることを願って説得に駆けつけ赦しを施すという極めて真面目で神経質な主人公を演じていて、ここでもまたヒッチコック的スキル運動の主人公における主体性、生真面目さが現れている。

★軽薄な女たらし

スキルへと向けられた職業的運動を撮った作品における主人公は、スキル、土地勘を有していること以外にも、以下の点において共通している。

  任務をみずからの自発的な意志において理性的に引き受ける(例外はまず大まかな任務を引き受けたあと「敵スパイの屋敷に潜入する」という具体的な任務を知らされて苦悩する●「汚名」のバーグマンとケーリー・グラントしかいない)

  計画的・知的に行動する●「ロープ」●「ダイヤルMを廻せ!」●「泥棒成金」、精神分析をする●「白い恐怖」「マーニー」、弁護活動をする●「パラダイン夫人の恋」、神父が守秘義務の遵守する●「私は告白する」等、なされる職務運動が計画的であり知的である。

  軽薄な女()たらしがいない。

ヒッチコック的スキル運動における主人公たちの知的傾向は他の監督たちの撮るスキル運動の主人公たちとも大きく違っている。余りに多いのでここでは1作品を紹介するに留めるが、探偵が探偵をするハワード・ホークス●「三つ数えろ」でメガネをはずした本屋の女ドロシー・マローンに『ハッロー!』とジョークを飛ばしたハンフリー・ボガードのような、いい女と見たらお構いなしに声をかけて軽薄な行動に出たりジョークを交えて口説いてしまうような男たちはヒッチコック的スキル映画にはただのひとりも存在しない。ヒッチコック「ヒッチコック職業・運動表の赤とピンクの主人公たちを見てみると、そこにいるのは極めて真面目で知的で道徳的、理性的な堅物たちであることが分かる。「軽薄な女たらし』とは反心理的人間のひとつの象徴でありみずからの置かれた環境に関して主体的になることなくすぐに脇道へ逸れてしまうような柔軟な身体性であり、スキル運動の中で唯一それに近そうな●「泥棒成金」のケーリー・グラントにしても既に検討したように知的で理性的な運動を反復させているし、スパイがスパイ活動をする●「汚名」のケーリー・グラントにしてもリオに到着した直後のカフェで『昔から女が怖かった』とバーグマンに告白したように堅物の仕事人間として撮られていて同じケーリー・グラントでも●「北北西に進路を取れ」の軽薄な女たらしのケーリー・グラントとはまったく違った硬質の人物像になっている。●「間違えられた男」(1957)のヘンリー・フォンダは無実の罪で投獄されたあと仮釈放され嫌疑を晴らすための調査を開始するのだが本来であればヒッチコック的巻き込まれ映画になるはずのこの作品は、実話の映画化という点から主人公のヘンリー・フォンダを「軽薄な女たらし」として撮ることはできず対極の真面目で硬い人物として撮られているためヒッチコック的巻き込まれ映画とは異質の主体的な作品となっている。

★アクターズ・スタジオ

ヒッチコックは●「引き裂かれたカーテン」において『ポール・ニューマンは何も表現しない中性のまなざしで見る演技をいやがった』(映画術321)とニューマンの演技を否定的に回顧しているがこれはアクターズ・スタジオ出身のポール・ニューマンの運動が心理的であることを意味している。エリア・カザン等の創設したアクターズ・スタジオは俳優の心理的な面を重視する演技を指導する俳優養成所だが、ひとつひとつの眼差しに意味を込めずにはいられない演技派と言われる彼等は心理的な演技によって運動に意味を付着させてしまうがために主人公は環境に振り回されることがなく、いくらマクガフィンによって弾いても既に主体的に確立された人格はびくともしない。これはヒッチコック、成瀬巳喜男のようにマクガフィンで運動を次から次へ弾いてゆく映画にとっては致命的な事態となって跳ね返ってくる。『何も表現しない中性のまなざしで見る演技をいやがった』ポール・ニューマンの運動は常に主体的に意味づけられることから「引き裂かれる」ことはない。●「私は告白する」のモンゴメリー・クリフトもまたアクターズ・スタジオ出身だが、ヒッチコックはすべてのシーンについてクリフトが予め考えてきた「アクターズ・スタジオ流の心理的な演技」とヒッチコック的な「演技をしない反心理的な演技」の二通りを撮って後者を映画に使ったという信じがたい話が残っており、映画の中のモンゴメリー・クリフトのただでさえ心理的な表情を見ていると「アクターズ・スタジオ流の心理的な演技」はどのようなものであったのか想像を超えている。

★ヒッチコック的俳優~「パラダイン夫人の恋」(1947)と「白昼の決闘」(1946)

『これは「パラダイン夫人の恋」の場合についても同じことが言えるのですが、グレゴリー・ペックという俳優のよわさです。イングリッド・バーグマンは文句なしにあなたの映画にふさわしい完璧な女優ですが、グレゴリー・ペックのほうはまったくヒッチコック的な男優ではないと思うのです。人間的にまったく深みのない俳優だし、とくに目の表情がまったくない』「映画術」157頁。これはヒッチコックとの対談におけるトリュフォーの言葉である。グレゴリー・ペックはアクターズ・スタジオ出身ではないものの彼の演技はポール・ニューマン、モンゴメリー・クリフトといった俳優同様「深み」があり、とくに目の表情があり過ぎる。この点でトリュフォーは言葉の使い方を逆転させているように見えるが、●「パラダイン夫人の恋」のグレゴリー・ペックはみずからの意志によって積極的にアリダ・ヴァリの事件の弁護を引き受けたばかりか、苦悩を表情によって表現し最後の法廷のシーンでは大きく顔をしかめ、額に汗をし、心理的な演技に終始している。彼は依頼人のアリダ・ヴァリに恋をしているもののそれは極めて理性的、道徳的で真面目なものであり、同じグレゴリー・ペックでもキング・ヴィダー●「白昼の決闘」でインディアンとの混血で情熱的なジェニファー・ジョーンズを我が物とするために彼女を襲い抵抗に遭っても薄ら笑いすら浮かべながらことを成し遂げてしまった女たらしのグレゴリー・ペックとはまったく違った人物として撮られている。確かにグレゴリー・ペックはケーリー・グラント、ゲーリー・クーパー、ジェームズ・スチュワートといった特権的スターとは違った理性的、道徳的イメージが付きまとい、それはトリュフォーのいうように彼の持っている俳優としての資質の問題ではあるものの、モンゴメリー・クリフトですらハワード・ホークスが撮れば●「赤い河」(1948)のような心理から程遠い人物として撮られるのであることからしてこれは俳優だけの問題ではなくヒッチコックの問題として捉えるべき出来事としてある。ヒッチコックはスキルへとめがけられた運動を撮る時、決まって堅物で理性的、道徳的で知的な人物を撮ってしまい、巻き込まれ運動では撮ることのできる「軽薄な女たらし」を撮ることができなくなってしまうのである。

■協力者~「三十九夜」(1935)

ヒッチコック作品には主人公たちの運動を助けたり補助したりする協力者が数多く登場するが主体性が積極的に喪失された「柔らかい」協力者が登場したのは●「三十九夜」が初めてである。劇場で出会ったエージェントの女ルシー・マンハイムがアパートの自室で謎の死を遂げた後、アパートから脱出しようとしたロバート・ドーナットはスパイと思しき二人の男に出口を見張られていることを知る。そこで彼はちょうどやってきた牛乳配達人に成りすまして脱出しようとするのだが、そこでいくら彼が『殺人事件に巻き込まれて敵国のスパイに追われているからその服を貸してくれ』と説明しても牛乳配達の男フレデリック・パイパーはまるで信じようともせず取り合ってくれない。ところが『実は人妻と一夜を過ごしたが女の亭主と兄貴がおもてで見張ってね、、』と嘘の説明をした途端に『それを早く言いなよ』と牛乳配達の男は進んで協力している。牛乳配達の男は真相を知って協力したのではなくそれとはまったく違ったでまかせを起因としてロバート・ドーナットに協力をしている。映画後半、敵スパイに追われたロバート・ドーナットとマデリーン・キャロルが逃げ込んだ宿屋の夫婦にしても真相を知ってではなく2人を駆け落ちした恋人たちと勘違いして協力しているのであり「親族たちから二人を匿った」のであって決して「スパイから匿った」のではない。それによってロバート・ドーナットの運動に「真相(事情)を知っている者による協力」という主体的な運動が付着することが回避されるばかりか、まったく関係のない動機に基づく運動が主人公の運動に付与されることにより運動が非主体性を維持したまま加速してゆく。ロバート・ドーナットと手錠でつながれ逃避行に巻き込まれたマデリーン・キャロルにしてもロバート・ドーナットがどれだけ真相を話しても協力しなかったのに『俺は殺人犯だ。協力しないと殺すぞ』とポケットの中のパイプを拳銃のように突きつけて初めて協力したのであって、そこにはマデリーン・キャロルが真相を知って積極的に協力をするという主体性が欠けているばかりかようやく彼女が宿屋で真相を知ってロバート・ドーナットを信頼したあとはすぐに二人は別行動を取り最後のシークエンスで再び一緒になるまではなればなれになってしまうことで、真相を知ったマデリーン・キャロルの協力、という主体的な出来事が周到に排除されている。●「三十九夜」においては「事情(真相)を知らない」という属性によって協力者の主体的な協力が極限まで排除されているのだ。

★協力者の起源~「暗殺者の家」(1934)

●「三十九夜」以前の作品でおぼろげながらも協力者という存在が登場したのは●「ゆすり」(1929)であり、そこでは自分をレイプしようとした画家を正当防衛で殺してしまったアニー・オンドラの恋人の刑事ジョン・ロングデンが終始アニー・オンドラに付き添い、アニー・オンドラをゆすってきた男を逆に警察権力というスキルを利用し罪に陥れて死に導いてしまうのだが、この時点においてヒッチコック映画は協力者の刑事ジョン・ロングデンの主体性を排除する細部は何ら施してはいない。加えてそもそもこの作品のアニー・オンドラには一貫した任務が与えられておらず、彼女はジョン・ロングデンの協力やゆすり男の登場にただオロオロするばかりで、ゆすり男が大英博物館に追いつめられているその時にもただ自室でオロオロしているだけで何らの任務も遂行していない。「巻き込まれ型」とは違って実際に殺人を犯してしまっている彼女には「無実の罪を晴らす」というような明確な運動が見当たらないのである。連続ブロンド殺人事件で殺された妹の仇を討つために真犯人を求めてとある下宿にやってきた●「下宿人」(1926)のアイヴァ・ノヴェロに至って初めて「真犯人を探す」という任務が与えられてはいるものの彼は映画の中では謎の男として撮られているために彼の運動は明確に撮られておらず、従ってそれに協力する宿屋の娘、ジューンの協力もまた不明瞭なものとなっている。ヒッチコックで協力者の存在が初めてそれとして現れてきたのは●「殺人!」であり、そこでは殺人事件の調査という任務を与えられた劇作家兼俳優のハーバート・マーシャルに舞台監督のエドワード・チャップマンと女優のフィリス・コンスタムの夫婦が終始協力することで事件を解決に導いている。この作品は初めてヒッチコック映画において一貫した任務を遂行する主人公に対する協力者の出現した作品であり主人公のハーバート・マーシャルに「殺人事件を解決する」という任務が与えられているからこそそれに協力するという協力者の存在もまたクローズアップされてくる。しかしこの作品は●「舞台恐怖症」と同様に舞台と現実社会とをリンクさせ舞台のスキルで事件を解決してゆくという主題を携えた作品でもあり、そうした点からハーバート・マーシャルの運動は主体的なものであることを検討したが、彼に協力する劇団員の夫婦もまたハーバート・マーシャルや●「舞台恐怖症」のジェーン・ワイマンと同様に「役を演じる」点において事件解決のスキルを有しておりヒッチコック的スキル運動における主人公同様にその協力は理性的・知的なものとして露呈することになる。ヒッチコック映画においてスキルを欠く協力者が登場したのは●「暗殺者の家」であり、娘を誘拐された夫婦が犯人グループに篇弄されてゆくこの作品こそヒッチコック的巻き込まれ運動の原点とも言うべき作品だが、ここで娘(ノヴァ・ピルビーム)を誘拐された父親レスリー・バンクスの「娘を探す」という任務に帯同して歯医者や教会に出向いて行った親友のヒュー・ウェイクフィールドもまたスキルを欠く協力者の原点であり、誘拐の事情を知ってはいるものの、鉄道模型が趣味であること、レスリー・バンクスの親友であること以外映画の中ではなにひとつ語られていない彼は、調査に出向いて行った教会で敵スパイの催眠術にまんまと引っ掛かって熟睡してしまっているように事件解決のスキルなどまるでなく、探偵のスキルなどまるで有していない両親がスキルの乏しい協力者と共に娘を取り戻すという一貫した任務を与えられたこの作品こそヒッチコック的巻き込まれ運動の原点としてあり、それをさらに進めて極めて積極的なあり方で協力者の主体性を排除したのが直後に撮られたヒッチコック初の「巻き込まれ型」の●「三十九夜」であることからして、ヒッチコック的巻き込まれ映画とはスキルの乏しい協力者とスキルの乏しい主人公の織り成す「柔らかさ」によって成り立っている運動であると言える。ここでヒッチコック映画における協力者の系譜を見てみたい。

★協力者のレヴェル

協力者の主体性の有無を左右するのが「事情を知っているか否か」「運動のスキルを有しているか否か」であり、おぼろげながら「協力すること」という運動が芽生え始めた●「ゆすり」以降の作品に限定して一覧を提示する(ヒッチコック協力者表参照)

レヴェルの数字が大きくなるにつれて協力者の主体性は強くなる。ヒッチコック映画とスキルとの関係は主人公のみならず協力者においてもほぼそのまま妥当し、レヴェル12の協力者はすべてスキル喪失型映画の協力者であり、レヴェル3において初めてスキル運動の主人公に協力する者たちが出現しはするものの16本中13本の協力者は依然としてスキル喪失型の作品に集中している。ところがレヴェル4に至ると逆に22本中12本がスキル運動を行う主人公の協力者であり、スキル運動の協力者に限れば15本中12本がレヴェル4に集中している。ただスキル型運動の場合そもそも主人公がスキルに満ちた運動をするのだからその協力者がスキル人間であっても主人公の運動を停滞させることはなく、従って巻き込まれ運動と違ってスキル運動において協力者のレヴェルはそれだけでは主人公の運動に停滞をもたらす材料とはならない。●ハワード・ホークス「リオ・ブラボー」(1959)の保安官ジョン・ウェインを窮地から救出するギャンブラーのアンジー・ディキンソンはレヴェル3の協力者として鉢植えで窓ガラスを割り敵の気を逸らして貢献し、ガンマンのリッキー・ネルソンはレヴェル4の協力者としてウェインにライフルを投げその隙に敵を一人撃ち殺して協力したように、多くの映画ではこうしたスキル人間の快活な集団が撮られているのであるが、ヒッチコックがスキル運動を撮る場合、主人公と同様に協力者もまた主体的で知的な人物として撮られる傾向が顕著に見られている。スキルが問題なのではない。主体的、知的、心理的であることが問題となる。ヒッチコック的巻き込まれ映画において、事情も知らず、かつスキルも存在しないレヴェル1の協力者の起源は●「三十九夜」における牛乳配達の男と宿屋の夫婦であり、ここにヒッチコック的巻き込まれ映画は主人公の主体性と協力者の主体性という二つの主体性を剥ぎ取った究極の巻き込まれ運動に到達することになる。映画の途中で主人公と行動を共にすることになるヒロインにしても、政治記者のマデリーン・キャロルはロバート・ドーナットが逃亡犯であることは知っていても無実であるという彼の言い分についてはまったく信用してはおらず、特技と言えば手錠を見事にすり抜ける芸当くらいでスパイ事件解決のスキルなど皆無に等しく、こうしたヒロインの傾向はその後反復される「巻き込まれ型」作品にも継承されることになる。逃亡犯に恋をしてしまい協力をすることになる●「第3逃亡者」のノヴァ・ピルビームは父親が警察長官でありながらそのスキルを利用するどころか恋をした逃亡犯と逃避行を演じて危うく父親を辞職に追い込んでいるし、ハイウェイの広告モデルで逃亡犯に巻き込まれた●「逃走迷路」のプリシラ・レインもまた逃亡犯ロバート・カミングスの言い分などまったく信じず、かつスパイ事件解決のスキルなどまるで有していない。だがこうした「巻き込まれ型」のヒロインたちもまた映画中盤に主人公の無実を信じてレヴェル3の協力者へ転化してゆくように、その後のヒッチコック的巻き込まれ映画の協力者の傾向は原理主義的なレヴェル1を離れて2、そして3へと接近してゆく。2の場合●「裏窓」の刑事ウエンデル・コリーのように事件の存在そのものを疑っている「事情を知らない協力者」は刑事のスキルを有していても事件そのものの存在を信じていないのだからまったく役に立つことはなく巻き込まれ運動の主人公にスキルを付与することはないばかりか、却ってスキルを有するはずの刑事の非協力性によって主人公が心理的孤立の度合いを強めてゆくことになるのであり、さらに巻き込まれ運動の協力者の主流とも言えるレヴェル3の場合「事情を知っていながらスキルに乏しいので何もできない」という無力感が主人公の運動に付着しサスペンスを加速させることになる。無実の罪で追われている主人公に協力する●「第3逃亡者」の浮浪者エドワード・リグビー、●「フレンジー」のウエイトレスのアンナ・マッシーにしても、殺人捜査に関して何のスキルも有さない彼らの協力は役に立たないからこそサスペンスを加速させるのであり、●「バルカン超特急」でマーガレット・ロックウッドに協力するマイケル・レッドグレーヴにしても民謡舞踏を研究している音楽家であってイングランドの国家機密とは何の関係もなく、せいぜい彼の有するスキルとは通訳を買って出たり音楽家として歌のコードを記憶したりすることくらいで、その記憶したメロディにしてもマーガレット・ロックウッドとの結婚が決まった嬉しさで忘れてしまって何の役にも立っておらず、敵から逃げるために機関車を操縦するときにも『ミニチュア機関車の運転ならやったことがある』と英国紳士のノートン・ウェインに話しているようにほどよいスキルの欠如が却って巻き込まれ運動を勢いづけている。●「裏窓」で向かいのアパートを覗き見しているジェームズ・スチュワートのアパートに幾度も出入りし次第に事件の存在を信じて協力をするセルマ・リッターとグレース・ケリーにしてもそれぞれ家政婦とモデルであり、その協力は殺人事件の解決に向けては常に非決定的で満たされていないがゆえに巻き込まれ運動にサスペンスを生じさせている。面白いのは●「鳥」(1963)のロッド・テイラーで、彼は弁護士という広範なスキルに満ち溢れたインテリとして映画序盤のバードショップからティッピ・ヘドレンを翻弄し彼女をやりこめて楽しむような極めて主体的・知的・計画的な運動を展開していながらも、いざ鳥が攻めてくるやまったく彼のスキルは通用しなくなり、電気コードで窓の取っ手を縛り付けたり鏡台をドアに打ち付けてバリケードにしたり鳥に手を噛まれて血だらけになったりと翻弄され続けている。レヴェル1における協力者たちが原理主義者だとするならばレヴェル3の協力者たちはより不確実性の加味された中庸主義者であり主人公の巻き込まれ運動に幅を持たせることで時に●「三十九夜」のスコットランドの農夫の妻ペギー・アシュクロフトのように途方もない抒情を醸し出すことになる。年の離れた厳格なクリスチャンで嫉妬深い夫(ジョン・ローリー)と田舎で2人で暮らす若い彼女は都会から逃げてきたロバート・ドーナットに切ない恋心を抱きつつ新聞に掲載された彼の写真から彼が殺人犯として追われている事情を密かに知るも、彼を逃がすスキルなどあるはずのない彼女にできる協力といえばロバート・ドーナットを密かに裏口から送り出し寒さから彼を守るためにレインコートを羽織らせることくらいでしかない。だがこうしたか弱く非主体的な協力がことあるごとに物語という中心へと収束してやまない運動に再び活力を与え、別れの間際に戸口でロバート・ドーナットから名前を聞かれた彼女の口から発せられた『マーガレット!』という生々しい振動が映画史の画面を揺らすことになる(そんな彼女の存在自体もポケットに聖書の入ったレインコートをロバート・ドーナットに着させるためのマクガフィンに過ぎない)それとは逆に怪盗事件解決のスキルを有していないにも関わらず仮想舞踏会でケーリー・グラントとジョン・ウィリアムズとを計画的にすり替えて刑事をだしぬくという極めて主体的で知的な協力をした●「泥棒成金」のジェシー・ロイス・ランディスとグレース・ケリーの母娘は保険会社のジョン・ウィリアムズ共々スキル運動を展開する主人公のケーリー・グラントの主体的な運動を知的に後押ししているが、同じレヴェル3のジェシー・ロイス・ランディスでもスキル喪失運動の協力者である●「北北西に進路を取れ」のジェシー・ロイス・ランディスは飲んだくれで軽薄な女たらしの息子ケーリー・グラントの『無理やり酒を飲まされた』という言い分をまったく信用せず何の役にも立たないことで彼をさらなる孤立状態へと追い込むという理想的な母親ぶりを演じている。巻き込まれ運動にとって危険なのはレヴェル4の協力者たちであり彼らは主人公の事情を知りかつスキルに長けている点で巻き込まれ運動の主人公たちの「柔らかい」運動を主体化させる危険に満ちている。●「バルカン超特急」で終盤出現する尼僧に変装した女スパイグージー・ウィザーズは自身イギリス人であることから同じイギリス人を殺すことはできないと、敵のスパイでありながら主人公に協力をするのだが、主人公たちを眠らせるための薬をブランデーの中に入れなかったり、汽車から飛び降り銃弾をかいくぐって線路のポイントを変更したりとスパイのスキルを有するレヴェル4の彼女の協力は極めて主体的であり、そうした協力運動が終盤の銃撃戦を含めてスキル喪失型の巻き込まれ運動であるはずの●「バルカン超特急」をやや硬いものにしている。

★恋人たち~★「見知らぬ乗客」(1951)

●「見知らぬ乗客」はテニスプレイヤーのファーリー・グレンジャーが列車内の喫茶室で偶然一緒になった男ロバート・ウォーカーに交換殺人の申し出をされジョークと思って軽く話に付き合ったところが本当に妻を殺されてしまって殺人の嫌疑をかけられるという作品であり、これもまた「テニスプレイヤーが殺人事件に巻き込まれる」というスキル喪失型の巻き込まれ運動であるが、ここでファーリー・グレンジャーを助け協力するレヴェル3の協力者である恋人のルース・ローマンは最初から彼の潔白を信じているばかりか、のちにファーリー・グレンジャーから交換殺人の真相を聞かされたあと犯人のロバート・ウォーカー宅に自らの意志で単身乗り込んで彼とその母親に説得を試みるという途方もない主体性を発揮し、その説得にも失敗すると極めて心理的な表情(しかめっ面)で泣き崩れている。ヒッチコック的巻き込まれ運動の中でもロバート・ウォーカーという極めて印象深い悪役を配してトリュフォーのお気に入りでもあるこの作品ではそのトリュフォー自身『この映画の配役の唯一の欠点は、思うに、ヒロインを演じているルース・ローマンでしょう』とヒッチコックとのインタビューで語っているように(「映画術」199)、恋人という一見抒情的に見える存在もその出現の時期や方法を間違えると巻き込まれ作品の運動を失速させることになる。ここでは協力者という存在が登場した●「殺人!」以降における恋人という協力者について検討する。

題名を赤で書いた作品がスキル運動の作品。

★元恋人

「私は告白する」(1952)アン・バクスター レヴェル3

「めまい」(1958)バーバラ・ベル・ゲデス  レヴェル3

★恋人

「見知らぬ乗客」(1951)ルース・ローマン レヴェル3

「ダイヤルMを廻せ!」(1954)ロバート・カミングス レヴェル4

「裏窓」(1954)グレース・ケリー レヴェル3

「トパーズ」(1969) カレン・ドール レヴェル4

「フレンジー」(1972)アンナ・マッシー レヴェル3

「ファミリープロット」(1976)バーバラ・ハリスとブルース・ダーン 恋人同士 

元恋人、婚約者を含めた恋人の協力者はスキル型運動に4人、スキル喪失型に5人と均等に割り当てられており●「ダイヤルMを廻せ!」のロバート・カミングス●「トパーズ」におけるカレン・ドールのレヴェル4以外はすべてレヴェル3の協力者たちで彼らは主人公を助ける運動に関する具体的なスキルを有していない者たちであることからその協力される主人公がスキル型であれヒッチコック的巻き込まれ映画であれ主人公の運動を主体化させる危険のない者たちのように見える

★最初から信じる恋人たち

だが恋人というキャラクターには人公を知っているという主体性付着している。●「私は告白する」のアン・バクスター●「ダイヤルMを廻せ!」のロバート・カミングス、●「トパーズ」のカレン・ドール、そして●「見知らぬ乗客」のルース・ローマン等恋人たちは恋人「であること」から直ちに主人公の言動を信じていてそのうち3本がスキル型の作品に集中している。神父モンゴメリー・クリフトの元恋人である●「私は告白する」のアン・バクスターは、今は議員のロジャー・ダンと結婚しているものの『結婚して7年経った今もあなたを愛しているわ』と本人が告白するようにクリフトのことを昔から愛していて、殺人の罪で投獄された彼の潔白を信じているばかりか彼のアリバイとなる時刻に一緒に居合わせていたことから警察からの任意の呼び出しにも主体的に応じて出頭しクリフトのアリバイを証言している。●「ダイヤルMを廻せ!」のロバート・カミングス、そして●「トパーズ」のカレン・ドールといったレヴェル4の恋人たちもまた、グレース・ケリーやフレデリック・スタフォードといった主人公たちを当初から信じ切っていて、それぞれ推理作家やレジスタンスといったスキルを最大限に利用しながら主人公を主体的にサポートし、ロバート・カミングスに至っては極めて難解な事件をみずからの知的な推理によってほぼ正確に解いてしまっている。スキル型運動の協力者はヒッチコック的巻き込まれ映画の協力者とは違ってスキルを有していることは却って主人公の運動を加速させることになるはずだが、ヒッチコックがスキル運動を撮る場合、主人公のみならず協力者までもが主体的で知的になるという傾向が顕著に現れる。それが恋人のケースなら、当初から主人公のことを知っている恋人や元恋人たちの協力は「知っていること」=恋人「であること」という過去から持続する身分をそのまま持続させて主人公を信じるという傾向となって現れている。

★あとから信じる恋人たち

●「引き裂かれたカーテン」のジュリー・アンドリュース●「裏窓」のグレース・ケリー●「フレンジー」のアンナ・マッシーは主人公の恋人でありながら映画開始後に主人公の言い分や行動に疑念を差し挟み、その後に信頼し始める「あとから信じる恋人たち」であり、それまではよく知っていたはずの恋人やその言動を一旦信じられなくなってしまう彼女たちの運動は、それ以前の主人公に対する「知っていること」という過去のスキルがそのまま現在では通用しなくなることで知性から解き放たれる。しかしそんな彼女たちの運動が再び過去の「知っていること」へと接近する危険は主人公を信じるときにやってくる。

★見ることvs読むこと

恋人からさらに進んで婚約者である●「引き裂かれたカーテン」のジュリー・アンドリュースはスキル運動をする主人公の協力者であり、映画開始と同時にこれまでのヒッチコック映画では見ることのできないベッドシーンを婚約者のポール・ニューマンと繰り広げるような親密な恋人であったのがその後アメリカから東ドイツに亡命をしたポール・ニューマンの行動に疑念を抱くことで「信じること」のできない恋人へと変貌している。重要なのはその後ポール・ニューマンがジュリー・アンドリュースに真相を告白するシーンである。それは東ドイツの小高い丘の上でポール・ニューマンが、自分は実はアメリカを裏切ったのではなく東ドイツに二重スパイとして潜入したのだとアンドリュースに告白するというシーンであり、最初は丘の下にいる東ドイツの教授ギュンター・ストラックからの見た目のロングショットで撮られていてニューマンの話し声は映画を見ている我々からも聞こえないことからこれはいわゆる「聞かせない演出」になっている。「聞かせない演出」についてヒッチコックはイギリス時代に撮った最後のサイレント映画●「マンクスマン」(1928)で恋人(アニー・オンドラ)の父親(ランドル・エイルトン)に結婚を切り出す勇気がない男(カール・ブリッソン)が、代役に頼んだ親友(マルコム・キーン)と父親との会話を2人のいる部屋の外からガラス戸を挟んで見つめている主観ショットによって撮られた「聞こえない」映像によって撮り続けている。そもそも音の出ないサイレント映画において「聞かせない演出」をすることそれ自体が才能の現れだが、ここでヒッチコックは父親が果たして結婚を承諾したのかしなかったのか、外から「見ること」だけによっては分からないようにハラハラさせながら、回答は父親が部屋の中から出てきてカール・ブリッソンに直接言葉を発するまで不確かにすることでサスペンスを醸造している。●「三十九夜」においてもスコットランドの農家のシークエンスで妻とロバート・ドーナットとの仲を疑った農夫が窓の外から2人を盗み見するというシーンがあるが、ここでも2人の会話は最後まで聞こえないまま夫は「見ること」だけによって嫉妬心を募らせてゆくという演出がなされているし、●「見知らぬ乗客」でもまたファーリー・グレンジャーがレコード店のガラス張りの試聴室の中で妻のローラ・エリオットと口論している姿を店主が外から「見ること」によって実際とは違ったグレンジャーの暴力性を店主に想像させるように撮られている。また●「めまい」のジェームズ・スチュワートはキム・ノヴァクが海に飛び込んだあと実際に彼女と会話を始めるまではすべて彼女を盗み見ること=「見ることだけ」によってキム・ノヴァクのイメージを膨らませているのであって、彼の視点から映画を見ている我々と共に画面はひたすら「見ること」の複雑性におけるサスペンスに支配されることになる。その頂点に達したのが●「裏窓」であり、足を骨折して動けないジェームズ・スチュワートが向かいのアパートを覗き見することで殺人事件の推理を進めてゆくこの作品は、向かいのアパートの住人の会話はほとんど聞こえずほぼ全編ジェームズ・スチュワートの「見ることだけ」によって撮られていることから最後の最後まで実際に殺人事件があったのかは良くわからないように撮られている。ヒッチコック映画が高揚する時、決まってセリフが消えるかあっても意味をなさなくなることで画面は「見ること」へと一気に集約されてゆく。「見ること」とは本質的に不確実な出来事であり「読むこと」からかけ離れた不確実性に満たされた領域として分節化を拒絶しながら我々の瞳を捉えることでサスペンスを生み出すのであり、ヒッチコック的サスペンスにおいて「聞かせない演出」とは「見ること」に委ねる演出であり、ヒッチコックは我々の奥底に潜んでいる「見ることの不確かさ」に対する恐怖をサスペンスにして撮っている。ところが●「引き裂かれたカーテン」の丘の上のシーンの場合、最初は敵ドイツの教授ギュンター・ストラックからの「見ること」に委ねられていた撮影が、その後キャメラが丘の上の2人の近景に寄ることで分節化され、映し出されるジュリー・アンドリュースのあまりに見え透いた心理的な演技と表情によってポール・ニューマンが二重スパイとして東ドイツに潜入したことを彼女に告白しそれを聞いた彼女が感激していることが誰でも分かるように「読める」ばかりか、音楽もまた実に感傷的なメロディによって画面に映し出されている出来事を分節化して「読める」ように盛り上げられ、さらにその後の2人の会話を観客に聞かせてしまうことで「見ること」に委ねる複雑性のサスペンスは完全に消え去っている。

★「トパーズ」(1969)~読むこと~「ダイヤルMを廻せ」(1954)

同じくスキル運動型の●「トパーズ」ではアメリカ側の黒人スパイのロスコー・リーがキューバの高官ジョン・ヴァーノンの秘書を買収する様子を大通りを隔てて諜報員のフレデリック・スタフォードがじっと見つめているという非常に長いシーンが撮られており、これも一見「聞かせない演出」のように見えるものの、遠くで交渉している者たちの様子が余りに分節化されていることから見ている者にも買収が成功したことを「読むこと」ができてしまい「見ること」の複雑性が放棄されている。また●「ダイヤルMを廻せ」もまたレイ・ミランドによる計画殺人というスキル運動の作品であり、終盤、警察からもらってきた鍵が合わないことから引き返しアパートの外へ出てきたレイ・ミランドの様子を部屋のカーテンの影から刑事のジョン・ウィリアムズが盗み見しているシーンが撮られており、これは会話を「聞かせない」のではなくレイ・ミランドの行動を「見ること」によって分析するシーンだが、ここでジョン・ウィリアムズはレイ・ミランドの一挙手一投足を『あきらめたようだ、、帰ってしまう、、失敗だ、、、ん?、まてよ、、気づいたみたいだ、、戻って来るぞ』とその外的行動のみならず心理までもを分節化して解説しているばかりか、ここで撮られているレイ・ミランドの演技は仮にジョン・ウィリアムズの解説がなくとも画面を見るだけで「読むこと」のできるくらい分かり易く心理的に分節化されていることから●「引き裂かれたカーテン」●「トパーズ」と同じ「読むこと」のできる画面の範疇に属しており、殺人計画の回りくどいほどの知的さとそれを知的に解いてゆく恋人(ロバート・カミングス)のグレース・ケリーに対する全幅の信頼、そして犯人を罠にかけるという回りくどい方法で追いつめてゆく知的な刑事ジョン・ウィリアムズ、さらに夫に対する信頼といった過去へと流れてゆくこの作品はあらゆる細部が主体的に連動し「読むこと」へと向けられている。同じように目の前で展開されている出来事を言葉で解説するシーンとして●「パラダイン夫人の恋」の法廷シーンがあり、ここでは傍聴席のジョーン・テッツェルが横に座っているグレゴリー・ペックの妻アン・トッドに向かって『見事な冒頭陳述だわ』、『自殺に持っていきたいのね』、『不利になったわ』『ラトゥール(ルイ・ジュールダン)は何か隠しているわ』と悉く解説し、一度目の公判が終わると『トニー(グレゴリー・ペック)の勝ちね』と念を入れ二度目の公判でもまた『結婚前は貧しかったです』と証言するアリダ・ヴァリをしてアン・トッドが『正直ね』と言った後、ジョーン・テッツェルが『賢いわね、検察側は突っ込めないわ』と後押ししている。そのほかにも『美人ね』『無実だわ』『善人ね』『ご主人を愛していたのですね。目を見ればわかります』といった「であること」の領域を指示する言葉が多発するこの作品は、面会室で過去について尋ねるグレゴリー・ペックに対してアリダ・ヴァリが『どこまで遡るの?』と答えたようにあらゆるところで過去=「であること」へと遡る作品であり、そのひとつとしてこの法廷シーンでの解説があり、これはそもそも分節化されている法廷のシーンによって語り切れていない分節化された出来事を傍聴席のジョーン・テッツェルやアン・トッドがさらに「読むこと」で補強しているのであり「見ること」における不確実性に任せたショットはどこにも存在していない(アリダ・ヴァリとルイ・ジュールダンを前後に捉えたパンフォーカスくらいか)ヒッチコックは初期のサイレント映画●「ふしだらな女」(1927)において電話交換手の女性の表情の推移からロビン・アーヴィンのイザベル・ジーンズに対するプロポーズが承諾されたことがわかるというまさに「読める」演出をしている。成瀬巳喜男の作品が戦時中主体性を帯び始めた時、それまでは「盗み見」という「見ること」であったコミュニケーションの多くが「盗み聞き」という「読むこと」へと変化し、しかし●「めし」(1951)以降再び「見ること」の映画へと回帰していったことを検討したが(「論文成瀬巳喜男第二部」後日投稿)、ヒッチコックの場合●「三十九夜」が「見ること」への大きな転換の契機になってはいるものの(最初はロバート・ドーナットが潔白を言葉で訴えてもまったく取り合わなかったマデリーン・キャロルは深夜の宿屋の2階から階下の敵スパイの会話を「盗み見ること」によって初めてロバート・ドーナットの無実を信じ始めているが、階下の者たちの会話の内容も彼女に聞こえていることからこのシーンは未だ「読むこと」の傾向が残っている)それ以降においても映画の性質が主体性を帯びてくる●「引き裂かれたカーテン」●「トパーズ」といったスキル運動の撮られた作品においては成瀬巳喜男における●「鰯雲」(1958)●「女の中にいる他人」(1966)といった主体的な作品と同じように画面が「見ること」ではなく「読むこと」へと移行してしまうという現象が起こされている。

★「裏窓」(1954)~見ることと信じること。

スキル喪失型のヒッチコック的巻き込まれ運動の協力者である●「裏窓」のグレース・ケリーは向かいのアパートで殺人事件が起きているという恋人のジェームズ・スチュワートの言い分を「あとから信じた恋人」であり、その態様は恋人でありながら映画中盤までポール・ニューマンを疑った●「引き裂かれたカーテン」のジュリー・アンドリュースと同じように見える。だがグレース・ケリーが信じたのは恋人のジェームズ・スチュワートではなく「事件」であり、いくらジェームズ・スチュワートが言葉で語っても信じなかった彼女が事件を信じ始めたのは向かいのアパートのセールスマン、レイモンド・バーが大きなトランクの荷造りをしているのを彼女が自分自身で目撃してから以降である。彼女はジェームズ・スチュワートの言い分を「読むこと」によって信じたのではなく『自分で見ること』という現在の運動を「すること」によって初めて事件の存在を信じ始めたのであり●「引き裂かれたカーテン」のジュリー・アンドリュースのように恋人「であること」という過去の身分による信頼性を「読むこと」でそのままスチュワートの言い分を信じたのではなく、かつグレース・ケリーは直感的に事件の存在を信じただけで事件の客観的・具体的全貌が彼女の「見ること」によって明らかになっているわけではない。レイモンド・バーが大きなトランクの荷造りをしていることは社会通念上「妻を殺したこと」とには直結せず、従ってここでのグレース・ケリーの「見ること」は真実、善悪からかけ離れた極めて曖昧で不確かな直感的なものとしてあり、事実グレース・ケリーが目撃した大きなトランクの中には死体ではなく夫人の衣服が入っていたことが後に刑事のウエンデル・コリーの調査で判明するに至った時、グレース・ケリーは自分の「見たこと」を疑い事件の存在についても確信を喪失している。●「裏窓」には看護師のセルマ・リッターが向かいのアパートのミス・ロンリーハートの様子を見て自殺するのだと思いジェームズ・スチュワートに警察への通報を要請し、しかしその後ミス・ロンリーハートがピアノの演奏に聞き入るのを見たセルマ・リッターが『ピアノの演奏を聴いて自殺を思いとどまったんだわ』とその心理を解説する発言をしているシーンがある。だがミス・ロンリーハートの様子は最初、望遠レンズによって近景から見ることができるもののテーブルの上に置かれた瓶のラベルは見えないのでそれが睡眠薬である証拠はどこにもなく、またその後窓にはブラインドが掛けられロングショットに引かれてしまうので画面を見ただけでは彼女が今から自殺をすることが誰の目にも「読める」わけではなく、また彼女がピアノ演奏に聞き入ったように見えるシーンにしてもそれが自殺を思いとどまったように「読める」わけではまったくない。分節化されていない複雑な画面をセルマ・リッターが「見ること」によって無理やり「読んで」いるこのあり方は「見ること」によって事件を信じたグレース・ケリーがその後「信じること」があやふやになったのと同じように、登場人物が「見ること」の複雑性を敢えて読む」とき本来分節化させる現象であるはずの「読むこと」すら不確かになってしまい画面を複雑化させることになる。それは●「ダイヤルMを廻せ!」●「引き裂かれたカーテン」●「トパーズ」の誰が見ても読める画面とは違っているし●「パラダイン夫人の恋」の「読める画面を同じ観点から補強する」のとも違っている。●「裏窓」の作品の証拠すべてが決定力を欠いているのはそれが「見ること」という不確実な出来事によってもたらされているからであり、だからこそ●「裏窓」は最後まで豊饒なサスペンスを醸造し続けることができるのである。

「フレンジー」(1972)

同じくスキル喪失型のヒッチコック的巻き込まれ運動の主人公の協力者で恋人の●「フレンジー」のウエイトレスのアンナ・マッシーは、殺人の罪で逃亡している恋人のジョン・フィンチと一夜を共にしたその後、彼に元妻を殺した嫌疑がかかっていることを知って執拗に彼をなじり彼の言い分などちっとも信じようとはしない。精根尽き果てたジョン・フィンチに『俺があんな変質者に見えるか?』と聞かれた彼女は彼をまじまじと見つめた後、安宿で宿泊したという彼のアリバイ主張に対してシラミの付いた服の匂いを思い出し『そういえば少し匂ったわね』といって初めて彼を信じ始めている。言葉で何を言っても信じてもらえなかったジョン・フィンチが最後に頼ったのは「見つめる=視覚」「匂う=臭覚」という五感であり、「見つめる」「匂う」という現在の感覚が彼女をして彼の無実を信じさせた大きな要因となっているのであって、決して彼女は恋人「であること」という過去の身分によって彼を信じたのでもなければ「読むこと」という分節化された出来事によって彼を信じたのでもない。加えて『おれがあんな変質者に見えるか?』と尋ねるジョン・フィンチはその服装から性格から行動からどう見ても変質者にしか見えないように撮られており、ここでもアンナ・マッシーの信頼は真実、理性といった社会通念からかい離した「見ること」、「嗅ぐこと」によって感じられる不確実な現在の直感でしかない。だがそんなアンナ・マッシーですら彼を信じた直後にあっさりと絞殺魔に殺されてしまうことからすれば、極めて主体的なあり方でポール・ニューマンを信じた●「引き裂かれたカーテン」のジュリー・アンドリュースが協力者として最後まで彼に同行するというシナリオは両作品の運動の質的相違を指し示している。音声についても●「フレンジー」には元妻バーバラ・リー=ハントの結婚相談所でジョン・フィンチが机を叩いた音を隣室で聞いていた秘書のジーン・マーシュがバーバラ・リー=ハントを殴った音だと勘違いして警察に報告するという出来事が撮られているが、ここでジーン・マーシュが聞いたのは分節化された言語的音声ではなく聞き分けることの困難な打撃音であり、ここは聞こえた音声を「読むこと」ではなく「聞くこと」という五感の不確実性に画面は委ねられていて●「引き裂かれたカーテン」の「読める」演出とは大きく異なっている。ヒッチコック的巻き込まれ運動とはとことん主体性を引き剥がした「すること」のそれであり●「裏窓」●「フレンジー」では一旦恋人たちの「知っていること」をシャッフルし、その後は「見ること」や「嗅ぐこと」「触ること」「聞くこと」といった五感の複雑性に「信じること」を委ねることで映画を過去から現在へと引き戻しサスペンスを加速させている(●「裏窓」の巻き込まれ性については後に検討する)。対してスキル型運動の●「引き裂かれたカーテン」●「トパーズ」における「聞かせない演出」は「読ませる演出」であり、恋人「であること」という過去の不動の地位がそのまま現在の運動に流れ込んで主人公に及ぶことから主人公の運動は複雑性をそぎ落とされてしまうのであり、それは●「裏窓」で向かいのアパートの部屋の中にマイクを入れて住民たちの会話をすべて「読ませて」しまうほどバカげている。「読むこと」とは「であること」の領域における真実、善悪といった分節化された出来事の白黒をつけることでありそれは「見ること」における不確実性の醸し出すサスペンスという出来事とは異質の領域としてある。

★後発的恋人と信じること

ヒッチコック的巻き込まれ運動の原型ともいえる「巻き込まれ型」の4本の作品において主人公の協力者となるヒロインたちがすべて映画開始後にめぐり会う未知の女たちであり過去からの恋人ではないという事実は偶然ではない。●「三十九夜」●「第3逃亡者」●「逃走迷路」で主人公の男たちと巡り合った女たちは男たちをまったく知らないことから彼女たち自身の巻き込まれ度をも加速させ、彼女たちに疑われることで主人公たちもまた孤立して巻き込まれ度を加速させる。そんな彼女たちは当初はみな主人公の事情を知らないレヴェル1の協力者としてあるものの、のちに主人公の無実を信頼してレヴェル3へと移行するや主人公から引き離されるという現象が幾度も起こっている。●「三十九夜」のマデリーン・キャロルは宿屋でロバート・ドーナットの無実を確信したあとすぐ別行動へ移行しているし●「逃走迷路」のプリシラ・レインもサーカス団に匿われた時点でロバート・カミングスを信頼し始めると次のシークエンスの廃墟の街で引き離されその後2人は再び敵スパイの屋敷に監禁されて合流し、そこでプリシラ・レインは再びロバート・カミングスに対する疑念を生じさせるもののそれが払拭されて再び彼を信頼し始めるやすぐまた引き離されている。これに対して同じ「巻き込まれ型」でも●「北北西に進路を取れ」のエヴァ・マリー・セイントは当初からレヴェル4の協力者でありケーリー・グラントの事情を知っているばかりかスパイのスキルを有している彼女は特急20世紀号の中でケーリー・グラントを警察の追跡から匿い一夜を共にするとすぐに引き離され、その後幾度か合流しケーリー・グラントを空砲で撃って協力したりするもすぐにまた敵組織へ潜入してしまい決してケーリー・グラントの運動を持続して促進する協力はしていない(空砲を撃って敵を出し抜くという行為については知的である)。彼女たちに共通しているのは主人公たちの事情を知ったあと主人公から引き離されるという事態であり、最初からケーリー・グラントの正体を知っている●「北北西に進路を取れ」でスキルフルのエヴァ・マリー・セイントが終始ケーリー・グラントから引き離されていることは決して偶然ではなく、それは主人公たちの主体性を喪失させることで巻き込まれてゆく巻き込まれ運動の運動論的帰結としてある。ただ同じ『巻き込まれ型』でも他の主人公たちは国家機密事件に巻き込まれているのに対して●「北北西に進路を取れ」のケーリー・グラントはエヴァ・マリー・セイントという女性そのものに「巻き込まれて」ゆくのであり、だからこそ謎めいた彼女はケーリー・グラントの協力者というよりも彼が追い求める謎の女であり、ケーリー・グラントがイングリッド・バーグマンを追い求めつつも引き離される●「汚名」、ジェームズ・スチュワートがキム・ノヴァクに引き込まれながらも引き離される●「めまい」のように、女たちによって巻き込まれた男たちが彼女たちを追い求めることのサスペンスを撮った作品であることにおいて通底している。

★「第3逃亡者」(1937)と「バルカン超特急」(1938)

●「第3逃亡者」ノヴァ・ピルビームと●「バルカン超特急」のマイケル・レッドグレーヴはスキル喪失型主人公と行動を共にするスキル喪失型協力者の後発的恋人であるが、彼らは主人公を信じる前に既に主人公を愛してしまっているがゆえに「信じること」という真実系から自由な場所にいる協力者として長時間主人公との同行を許されている。●「第3逃亡者」のノヴァ・ピルビームは2人きりの水車小屋でデリック・デ・マーニーを見つめ、声を聴き、接することによって彼に恋をしてしまっていることから彼女の協力は彼の無実という真実・善悪によって左右されない愛に基づく献身としてありドライブインでの聞き込みによってデリック・デ・マーニーの言い分がほぼ裏付けられ彼の無実が客観的に明らかになりつつあるに至ってもまだ彼女は彼と行動を共にすることを許されており、その後浮浪者から証拠のコートを回収したあと警察官に保護された彼女は他の「巻き込まれ型」のヒロイン同様主人公と別行動へと移行しているが、そのまた後、寝室に忍び込んできたデリック・デ・マーニーと抱擁し合い再び彼の指示によって事件解決へと協力しているその有り方は、●「三十九夜」のマデリーン・キャロル、●「逃走迷路」のプリシラ・レインとは異なり●「バルカン超特急」のマイケル・レッドグレーヴと通底している。列車の中で女が消えたと主張するマーガレット・ロックウッドに恋をして協力を開始するマイケル・レッドグレーヴの行動は、愛するゆえにマーガレット・ロックウッドの主張の真実・善悪によって左右されないことから行動を共にしても彼女に主体性を付与することはなく、だからこそ彼は彼女の主張を信じていない時も信じたあとも一貫して彼女に協力している。こうして●「第3逃亡者」●「バルカン超特急」のように主人公に一目惚れをした協力者は信じたあとにも主人公と行動を共にする傾向があり●「三十九夜」や●「逃走迷路」のように主人公に一目惚れをしない協力者は信じた瞬間引き離される傾向があるのはヒッチコック的巻き込まれ運動が主体的なるものを忌避しながら進められてゆくことを示唆している。ヒッチコック映画において愛とはあらゆる主体性を打ち破る細部であり、愛に巻き込まれて背中を押されるように弾かれ運動を起動させてゆく人物たちは主人公であれ協力者であれヒッチコック映画の運動を加速させることになる。●「三十九夜」のスコットランドの農家の妻ペギー・アシュクロフトは片田舎で年の離れた厳格なカトリックの夫と暮らす彼女の境遇そのものが、都会からやってきたハンサムで洗練されたロバート・ドーナットに対する恋心へと結びつき善悪を超えた恋心の領域が彼女をして「協力」という本能的運動へと駆り立てたのであって決してそれはロバート・ドーナットが信頼できる人間であるからという理性的な判断によってなされてはおらずそれが「事情を知っているがスキルの乏しい協力者」という彼女の運動とミックスして巻き込まれ運動に愛のエモーションを醸し出している。このスコットランドの農家のシークエンスは世界中のどの短編映画祭に出品してもグランプリをかっさらうほどの極上の断片としてある。

★「ハリーの災難」(1956)と「白い恐怖」(1945)

後発的恋人であれば万事が上手くいくということでもない。森に転がっていた死体を自分が殺したものだと考えて埋めたり掘り出したりを繰り返す●「ハリーの災難」は船長のエドマンド・グウェインと未亡人のミルドレッド・ナットウィック、そして画家のジョン・フォーサイスと未亡人のシャーリー・マクレーンという2組の後発的恋人を形作りながら死体処理に関してなんらのスキルも有していないスキル喪失型の彼らが死体というマクガフィンに巻き込まれていくように見えながら、ことあるごとに死体の起源=誰が殺したかという過去についての詳細な検討を始めてしまう。マクガフィンとは運動を起動させるきっかけでありそれ自体意味がないのだから、マクガフィンの意味へと遡るとき運動は危険に晒される。●「白い恐怖」のバーグマンもまたグレゴリー・ペックと映画開始後に恋愛関係になる後発的恋人であり、彼女は殺人の罪で追われているグレゴリー・ペックを終始信じ続けているが、彼女の「信じること」は●「第3逃亡者」のノヴァ・ピルビーム●「バルカン超特急」のマイケル・レッドグレーヴのように善悪・真実を超えたところにある現在の恋人をそのまま肯定しているのではなく精神分析によって過去という分節化された地点をめがけて遡ってゆくのであり(精神分析については後に検討する)「見ること」でなく「読むこと」の領域へたどり着く傾向が顕著となる。既に検討したようにバーグマンが自らの意志とスキルで進路を決定し打開してゆく極めて主体性な協力者(あるいは主人公)であることはこの作品の持つ主体的な傾向と密接に関係している。過去=起源へと遡ってゆく恋人たちは、見ること、聞くことによる不確実なサスペンスの過程ではなく真実という不動で主体的なミステリーの中へと埋没してゆくのである。

★結婚していること

恋人が危険なら夫婦はもっと危険になる。結婚という出来事は「愛すること」が制度としてあるために恋人たちよりもより強固に「信じること」が形成される危険があることからまずそれを解体しなければならない。非主体的な協力者の存在が明るみになり且つ「巻き込まれ型」の原形となった●「暗殺者の家」(1934)以降の作品に限定すると、映画開始時点で主人公が既婚者の作品は●「暗殺者の家」●「サボタージュ」(1936)「スミス夫妻」(1941)「パラダイン夫人の恋」「山羊座のもとに」(1949)「ダイヤルMを廻せ!」●「間違えられた男」●「知りすぎていた男」(1956)●「トパーズ」9であり題名を赤で書いたスキル運動4スキル喪失型が4本と均等に割り当てられている。

★スキル運動の夫婦たち

『私はあなたを知り尽くしている』と夫のグレゴリー・ペックに語った●「パラダイン夫人の恋」のアン・トッドは他の女(アリダ・ヴァリ)を愛してしまった夫をなおも信じ続けラストシーンにおいて極めて主体的なお説教を彼にして励ましている。●「ダイヤルMを廻せ!」のグレース・ケリーは自分を殺そうとした夫のレイ・ミランドを信じ続けたものの最後に彼が犯人であることを知って愕然し●「山羊座のもとに」のイングリッド・バーグマンとジョセフ・コットンはコットンがバーグマンのために人を殺したという過去の因縁が現在の夫婦の行動に重くのしかかり夫婦は極めて硬質な堅物として撮られていて●「トパーズ」のフレデリック・スタフォードとダニー・ロバンもまた相互に浮気をしておりお互いのあいだに信じることは存在しないもののまったく硬質な夫婦として撮られている。

★スキル喪失運動の夫婦たち

●「間違えられた男」は無実の罪で投獄された夫のヘンリー・フォンダを妻のヴェラ・マイルズと弁護士のアンソニー・クエイルが協力者となって助けてゆくのだが協力者としてのスキルに乏しい妻のヴェラ・マイルズは貧困家庭の稼ぎ手を失う危機も相まって当初から夫の無実を信じており、しかもみずからの親知らずの治療費が原因で夫を保険会社に行かせたことで夫が犯人に間違われたことに罪の意識を感じて精神に異常をきたして入院してしまうのだが、彼女もまた夫のヘンリー・フォンダ同様極めて硬質の堅物として撮られていて、スキル運動のみならずひとたび硬質の題材を撮る時、その硬質さが主人公、協力者等、あらゆるところへ波及するヒッチコック的傾向がここでも見られている。真面目な人物を主人公として撮ることが問題なのではない。真面目な主人公を主体化させることが問題である。唯一夫婦間に距離を保っているのは●「サボタージュ」のシルヴィア・シドニーであり、彼女は夫のオスカー・ホモルカと共にアメリカからロンドンに逆移民としてやって来て2人で映画館を経営するも不況のあおりでうまくいかず借金を重ねたあげくに破壊活動の組織に取り込まれていった夫のオスカー・ホモルカを「信じること」が少しずつ「信じられないこと」へと変化してゆくそのあり方は、叔父と姪の関係にある●「疑惑の影」における「信じること」が「信じられないこと」へと移行してゆくサスペンスの過程と似ていて、後に検討をする刑事のジョン・ロダーの主体的な協力を抜きにすれば●「サボタージュ」は他の夫婦ものに比べてしなやかさをしたためている(●「サボタージュ」はシルヴィア・シドニーの巻き込まれ運動であるが、夫のオスカー・ホモルカがしているのは破壊工作のスキル運動である)。●「暗殺者の家」、そしてそのリメイクである●「知りすぎていた男」にしても夫婦は子供の誘拐事件に巻き込まれてはいるものの夫婦のあいだの信頼関係は揺らいでおらず、夫婦は幾度も引き離されて単独行動に移行させられることになるものの、主人公を決定的に信じる者の存在する「信じることの共同体」は巻き込まれサスペンスの高揚を邪魔することはあっても促進させることはなく、一見サスペンスを引き起こすように見える誘拐という出来事も誘拐された自分たちの子供を探す親たちには誰よりも愛情という人間的スキルがあることからスキル喪失型の巻き込まれ運動ではなく映画は必然的に人間的スキル運動へと変貌を遂げてゆくことになり、スキル運動を撮ると多くの場合主体的な映画を撮ってしまうヒッチコックはこの作品においても警察の協力を自発的に仰ぐという主体的な作品へ変貌させている(刑事の協力者については後述)。彼らはお互いを「知り過ぎている」のだ。●「知りすぎていた男」には中盤、多くの友人たちがアパートに詰めかけてきて夫婦の活動を妨害しているようにも見えるが、彼らはドリス・デイのために教会の電話番号を探したりしている協力者でもあり、事情も知らず誘拐事件を解決するスキルも存在しないレヴェル1の協力者であるのだが、運動の流れの中で出てきた協力者ではなく、取ってつけたようにいきなりアパートにやってきて最後まで居座っている彼らは孤立度の足りない主人公夫婦を事情を知らない協力者たちの渦中に置くことで孤立度を強めるためのマクガフィンと見るべきであるが、後に検討するように●「疑惑の影」でテレサ・ライトを見事に孤立させたしなやかな演出の厚みからは程遠く「夫婦もの」「誘拐もの」という映画の設定から来る主体性を消し去ってはいない。ヒッチコック映画の中で唯一主題歌なるものを想起できるこの作品は見事な撮影によって彩られた映画だとしてもヒッチコック的サスペンスからすると主体的に流されている。

★恩師・父親・幼なじみ・叔父と姪

こうして見てくると恩師や父親、幼なじみといった協力者の主体性も見えてくる。●「白い恐怖」で精神分析医バーグマンの恩師であるマイケル・チェーホフは愛弟子という過去の関係をもとにしたバーグマンの説得を信じてお尋ね者のグレゴリー・ペックを匿ったばかりかバーグマンと共に精神分析医としてのスキルを発揮し事件を主体的に解決へと導いている。●「舞台恐怖症」におけるジェーン・ワイマンの父親のアラステア・シムはデートリッヒのドレスに付着した血痕を誰かが故意につけたものだと見破ったばかりか、娘のジェーン・ワイマンがデートリッヒのところへ乗り込むのに「先回りして」車の中に助言のメモを残し、劇場のガーデンパーティの射的場では気の弱そうな小男を選りすぐって彼から懸賞品の人形を強奪し、みずからの手をナイフで切って出した血を人形になすりつけて子供に渡し、舞台のデートリッヒに見せに行かせてその反応を探るというとてつもなく主体的・計画的・知的な協力をしている。●「山羊座のもとに」のマイケル・ワイルディングもまた幼なじみのバーグマンを信じて支え続けその後バーグマンの夫ジョセフ・コットンの暴発した銃によって深手を負いながらもなおバーグマンを援助し続けるという不動の信頼を維持しており、スキル運動におけるこうした協力者たちの醸し出す理知的な雰囲気とスキル喪失運動における●「三十九夜」の牛乳屋、●「第3逃亡者」の浮浪者等の幼稚さとは余りにも違いすぎる。この点しばらくぶりに会う叔父と姪を撮った●「疑惑の影」は、親族でありながらしばらくぶりに合った叔父と姪というはなればなれの関係が親密さの中に微妙な距離を生じさせ叔父さんの裏の顔をただ一人知ってしまった姪のテレサ・ライトが家族や多くの者たちとのあいだで孤立するという繊細なサスペンスを作り出している。

★あとから結婚すること。

主人公が結婚している作品でも映画の開始後に結婚をする●「快楽の園」(1925)●「ふしだらな女」●「リング」(1927)●「マンクスマン」●「レベッカ」●「断崖」●「汚名」(バーグマンとクロード・レインズ)●「マーニー」といった作品は、映画開始前に既に結婚している夫婦とは打って変わってその多くが結婚後に相手に対する不信が芽生え夫婦の少なくともどちらかが巻き込まれやすい身体(柔らかさ)を形成している。●「快楽の園」のヴァージニア・ヴァリは結婚後初めて夫のマイルズ・マンダーが女たらしの浮気者であることを知った挙句に殺されそうになっているし●「ふしだらな女」のロビン・アーヴィンは結婚して初めて妻のイザベル・ジーンズが離婚経験のある「ふしだらな女」だと知り家族中が大騒ぎになってしまっている。●「リング」のボクサー、カール・ブリッソンは結婚後、妻のリリアン・ホール=デイヴィスがライバルボクサーのイアン・ハンターと付き合っていたことを知らされて愕然としているし●「マンクスマン」のカール・ブリッソンはアニー・オンドラとの結婚後生まれた子供が実はアニー・オンドラと親友のマルコム・キーンとのあいだにできた子供であることを知らされ大ショックの挙句に離婚し、●「レベッカ」でコンパニオンのジョーン・フォンテインは滞在先のホテルで殆ど知りもしない貴族のローレンス・オリヴィエに一方的ともいえる強引さで結婚を決められその後マンダレーの屋敷でとことん痛めつけられたあげくにメイドのジュディス・アンダーソンに殺されそうになっているし●「断崖」のジョーン・フォンテインもまたオールドミスで結婚を逃したくないという焦りからろくに知りもしない遊び人のケーリー・グラントと早々に結婚してしまってとんでもない目に遭わされている(ジョーン・フォンテインが主演した●「レベッカ」と●「断崖」には何故か協力者そのものが存在せずそれが彼女のひ弱そうなカーディガン、物腰と相まって彼女の「柔らかさ」)を倍増させている)。これらはヒッチコックにとって「相手を知らない」ということがサスペンスを醸成させるためにいかに重要なことかを指し示しているが「映画開始後に結婚する」という出来事はヒッチコック的サスペンスと非常に相性が良い。従って結婚を導き出す細部→●「断崖」ならジョーン・フォンテインが婚期を逃したオールドミスであるという設定等はマクガフィンとなり、結婚そのものも結婚した者たちを巻き込むためのマクガフィンなのだから必要なのは結婚させることであって結婚式ではなく、従ってヒッチコック映画において映画開始後結婚した主人公の結婚式という儀式が撮られたのは●「リング」一本しかなく、撮られたとしてもせいぜいが●「マンクスマン」の水車小屋でなされた結婚パーティか●「レベッカ」●「断崖」における結婚登記所の外景だけであり、また新婚旅行が撮られたのも処女作の●「快楽の園」●「レベッカ」●「マーニー」しかなく、その●「レベッカ」にしても2人の姿が8ミリフィルムによって映し出されているだけでそのフィルムはすぐに切れてしまいそれがまた別の事件を継起させるためのマクガフィン化されているのであり●「断崖」に至っては大きな旅行バッグに貼られた数々のホテルのチケットがオーヴァーラップされるだけで新婚旅行の描写は済まされている。成瀬巳喜男論文第二部でも検討したように、成瀬映画において「結婚すること」とは家を出るためのマクガフィンに過ぎず「結婚すること」の撮られている●「限りなき舗道」(1934)「女人哀愁」(1937)●「雪崩」(1937)回想●「薔薇合戦」●「禍福・後編」(1937)●「お國と五平」(1952)●「あらくれ」(1957)●「杏っ子」(1958)●「放浪記」(1962)●「女の歴史」(1963)8本の内結婚式の撮られた作品は●「女の歴史」一本しか存在しないのと同じように、ヒッチコック映画においても「結婚すること」とは見知らぬ者同士を一緒にさせ巻き込まれ易い身体(柔らかさ)を作出するためのマクガフィンに過ぎないのだから「結婚すること」の撮られたこれまた8本のうち結婚式が撮られたのはこれまた一本しか存在しないということでヒッチコックと成瀬己喜男は歩調を合わせることになる。

★「疑惑の影」(1943)と喪服

話しはそれるが●「疑惑の影」の終盤、汽車で街を出てゆくジョセフ・コットンを見送りに来ているテレサ・ライトが降り遅れてジョセフ・コットンに殺されそうになり逆にコットンが転落死するシーンが撮られているが、この時テレサ・ライトは黒系の服を着ている。ところがラストシーンのジョセフ・コットンの葬儀のシークエンスでは彼女は明るい色合いの服を着ている。モノクロ映画なので具体的な色までは特定できないが実際にジョセフ・コットンが死ぬ瞬間には「喪服」が着られ儀式としての葬式では明るい色の服が着られている。ヒッチコック的儀式とは儀式そのものではなく運動に付随するのであり「死ぬ」という運動=「すること」の瞬間に「喪服」を身に着けること、それが運動から撮られた映画のひとつの現れとしてある。

★出会い

協力者ではないもののヒッチコックは処女作●「快楽の園」で床に這いつくばって犬と戯れているジョン・スチュアートに走って来たヴァージニア・ヴァリがつまずいて尻もちをついた拍子に彼と向き合い床の上に座った者同士がきょとんと顔を合わせて笑い出すという素晴らしい出会いのシーンを撮っているが、●「三十九夜」で刑事に追われているロバート・ドーナットが汽車のコンパートメントに逃げ込み偶然そこにいた見知らぬ女のマデリーン・キャロルとキスを偽装することで追っ手を巻くという巻き込まれ型の出会いを撮って以降、ヒッチコックはその映画史において決して忘れ得ない男と女の出会いのシーンを幾度もフィルムに焼き続けている。●「第3逃亡者」では取調室で失神したデリック・デ・マーニーをノヴァ・ピルビームが介抱し彼が目を覚ました瞬間が2人の出会いとなり、●「バルカン超特急」では民謡を踊る階上のマイケル・レッドグレーヴと階下のマーガレット・ロックウッドの騒音をめぐる喧嘩が2人を引き合わせ、●「レベッカ」の海辺の断崖、●「断崖」の汽車の個室、●「汚名」のパーティでのケーリー・グラントの影に包まれた後ろ姿、●「めまい」のレストランアニー、●「北北西に進路を取れ」では列車の狭い通路を右、左、とお互い譲り合ってすれ違えないケーリー・グラントとエヴァ・マリー・セイントが撮られ、●「サイコ」の雨のベイツホテル、●「鳥」のバードショップ等、ヒッチコックは実に入念なショットの積み重ねによって出会いのシーンを撮り続けている。それが頂点に達したのはあろうことか男と男が列車の喫茶ルームで靴を触れ合い不意に出会った●「見知らぬ乗客」であり、ここでヒッチコックは駅でタクシーを降りホームへと歩いていって列車に乗り込み喫茶ルームの椅子に座った2人の男の靴と靴とをふとした拍子に触れ合わせることで転換する運命の端緒をフィルムに焼き付けている。これらの出会いのシーンに共通しているのは相手に対する距離であり、相手を知らないこと、そこにいるとは思っていない場所に相手が立っていたり座っていたりすること、そうした状況の中で男や女たちはふと出会ってしまった相手に知らない内に巻き込まれていく、、こうした反主体性(突発性・意外性)がヒッチコック的出会いのサスペンスとしてあり、逆に映画開始後に初めて出会う者たちでもそこをうまく撮れていない作品は停滞することの危険と隣り合わせとなる。ジョン・ギールグッドがマデリーン・キャロルの正体を知ったうえでホテルの部屋で初めて出会う●「間諜最後の日」、ケーリー・グラントが保険会社のジョン・ウィリアムズから情報を予め仕入れたうえでグレース・ケリーとその母親に接近する●「泥棒成金」、ショーン・コネリーが以前見た女ではないかと目星をつけてティッピ・ヘドレンの面接をする●「マーニー」といった作品は、初めて出会う相手の正体を既に下調べや経験によって予め知っているという主体性が出会いのサスペンスを弱めている。パーティで何の変哲もなく画面には入って来て英語のできない男と話し始めた●「海外特派員」のラレイン・デイとジョエル・マックリー、叔父の家に訪問したところをたまたま逃げ込んでいたロバート・カミングスと出会った●「逃走迷路」のプリシラ・レインといった作品もまた出会いにおける巻き込まれ度において弱さを露呈させている(●「海外特派員」のマックリーとラレイン・デイの出会いのシーンを想起できる映画ファンはまずいないだろう)。こうして後発的恋人たちですら多くの場合において出会いのシーンを撮るのは難しいのだから、いわんや既に恋人たちである2人の出会いのショットなど面白いはずがないと思いきや、たった1本だけ●「裏窓」という例外がある。グレース・ケリーの影が眠っているジェームズ・スチュワートの顔に落ちるという到底恋人同士の再会とは見えないミステリアスな照明とスローモーションよって始まるこのシーンの撮影は優雅さと幼稚さとを併せ持つグレース・ケリーの揺れ動く魅力の中にジェームズ・スチュワートが殺人事件共々巻き込まれてゆくサスペンスの予告として君臨している。

★刑事の協力

トリュフォーがヒッチコックとの対談の中で●「疑惑の影」のマクドナルド・ケリーをはじめヒッチコック映画における刑事たちをしきりにけなしているが(「映画術」97頁等)ヒッチコック映画において刑事が主人公の作品は●「第十七番」(1932)ただ一本しか存在せず、従ってトリュフォーのけなしているヒッチコック映画における刑事とは主人公ではなく協力者としての刑事ということになるのだが、そうして彼らを見てみると●「下宿人」のマルコム・キーン、●「ゆすり」のジョン・ロングデン、●「サボタージュ」のジョン・ロダー、●「巌窟の野獣」のロバート・ニュートン、●「疑惑の影」のマクドナルド・ケリー、●「舞台恐怖症」のマイケル・ワイルディング等、総じて主体的でお堅い人物が占めており「軽薄な女たらし」は一人もいない。幼少時代にヒッチコックが父親に警察の留置場に入れられて罰を与えられたことから警察嫌いになり(「映画術」23)、そのせいでヒッチコックの撮る警官には魅力がないというのもひとつの答えかも知れないが、これもまたスキル人間をヒッチコックが撮る場合に決まって硬質な人物を撮ってしまうという運動論から見るべきである。レヴェル4の協力者は●「ゆすり」の刑事ジョン・ロングデン●「サボタージュ」刑事ジョン・ロダー●「巌窟の野獣」刑事ロバート・ニュートン●「疑惑の影」刑事マクドナルド・ケリー●「舞台恐怖症」刑事マイケル・ワイルディング●「汚名」のケーリー・グラント(バーグマンから見た場合)とルイス・カルハーンらFBIの仲間たち●「ダイヤルMを廻せ!」刑事ジョン・ウィリアムズ(グレース・ケリーから見た時)●「知りすぎていた男」の警部ラルフ・トルーマン●「北北西に進路を取れ」アメリカ側のスパイ・エヴァ・マリー・セイントとFBIのレオ・G・キャロルと、、レヴェル4の協力者の存在する22本中9本が刑事ないしFBIであり●「サイコ」の探偵バルサムを入れると10本となる。逆にレヴェル1~レヴェル3までの協力者の中で刑事なり探偵はレヴェル2の刑事ウエンデル・コリーたった一人しかおらず、いかに刑事という職業がヒッチコック映画においては当該事件についてスキルに満たされているだけでなく事情通であるかの証左でもある。トーキー第一作目の●「ゆすり」において厳つい顔つきをしたジョン・ロングデンはアニー・オンドラの恋人かつ刑事であり、彼はアニー・オンドラが犯した殺人事件の担当刑事としてのスキルを活用し無実の者を罪に陥れて結果としてその命を奪ってしまうというとてつもなく主体的で知的な協力を遂行しており、スキル喪失型の主人公として事件に巻き込まれているはずのアニー・オンドラの「柔らかい」身体を積極的に支えてしまうことで主体性をもたらしている。●「サボタージュ」のジョン・ロダーもまた夫のオスカー・ホモルカを殺したシルヴィア・シドニーをみずからの権力を利用して放免するという極めて主体的な協力をし●「巌窟の野獣」の刑事ロバート・ニュートンもまた潜入捜査がばれて殺されそうになったところを主人公のモーリン・オハラに助けられて以降スキルを利用して職務を執行しモーリン・オハラを陰ひなた助けるというように、折角スキルを喪失して巻き込まれているはずの主人公たちにスキルを補強することで主体化させ巻き込まれ運動を停止させている。彼らは例外なく真面目な堅物であり「軽薄な女たらし」は一人も存在しない。●「ゆすり」以降、映画開始当初から主人公の恋人でありかつ刑事という「知り過ぎていた」協力者は姿を消しているものの、ヒッチコック映画においてスキル人間の刑事を主人公に接近させるときには細心の注意を払わなければならない。

★「疑惑の影」(1943)

●「疑惑の影」のテレサ・ライトはサンタローザという小さな街に住むただの思春期の少女で人脈も信用もなく、ニューヨークからやってきた大好きな叔父さんジョセフ・コットンが未亡人連続絞殺殺人の犯人であることをたったひとりで突き止めてしまうと、善良さだけが取り柄の家族に真相を告げることもできず孤立状態に陥ってしまう。そんな彼女の前に国政調査員を装った刑事のマクドナルド・ケリーが現れる。この作品が周到に練られているのはマクドナルド・ケリーがジョセフ・コットンを犯人だと疑っている時にはテレサ・ライトはジョセフ・コットンを信じており、テレサ・ライトがジョセフ・コットンを犯人ではないかと疑い始めると今度は「真犯人」が東部で逮捕されてジョセフ・コットンの容疑が晴れマクドナルド・ケリーが捜査を終了するというように、テレサ・ライトとマクドナルド・ケリーとの間に主体的な協力関係が生まれないようにずらされていることだ。さらにまた国勢調査を装いライトの家に潜入していたマクドナルド・ケリーがテレサ・ライトに刑事の身分を明かした時点では未だジョセフ・コットンの容疑がはっきりしとしていないがために、マクドナルド・ケリーが表立った協力ができずテレサ・ライトが孤立する状況を維持させているばかりか、テレサ・ライトの家族や隣人たちをこれでもかと善良かつ無力に描くことでライトは身内が殺人犯であると暴いて彼らを傷つけることができず孤独に運動を続けて行かなければない状況に追い込まれることになり、それは同じように刑事の身分を隠して潜入捜査をした●「サボタージュ」のジョン・ロダー、●「巌窟の野獣」のロバート・ニュートンが早々に身分を見破られたあと権力を利用して表立った捜査を続けているのとはまったく異なっている。ヒッチコックがスキル人間を撮る時それが主人公のみならず協力者の場合でも主体的で知的な堅物を撮ってしまうのだから刑事というスキル人間を協力者とする場合、特にそれがスキル喪失型運動の場合決して刑事に主体的な働きをさせてはならず、その点について●「疑惑の影」以外、●「北北西に進路を取れ」ではFBIエヴァ・マリー・セイントが常に主人公のケーリー・グラントから遠ざけられ、同じくFBIのレオ・G・キャロルに保護されたケーリー・グラントは彼の協力を得て空砲で敵スパイを欺いたりしているもののその後監禁された高層ホテルの壁を伝って逃げているし、●「サイコ」の探偵マーチン・バルサムは副次的主人公であるヴェラ・マイルズ、ジョン・ギャヴィンに協力する前にさっさと殺され主体的な協力をすることなく終わっており(むしろ彼は殺されるために存在するマクガフィンとしてある)、●「汚名」の上司ルイス・カルハーンはバーグマンやグラントの運動を後方から支援するだけで現場では何も補助してはおらず部下のケーリー・グラントもまた身分を隠すことで表立った協力を禁ぜられているばかりか恋人のバーグマンが敵スパイの屋敷に単身潜入することで協力は限定的なものになりさらにバーグマンの愛に対する疑念を生じているために増々主体的な協力から遠ざかるという理想的な環境に置かれている。この作品のケーリー・グラントとバーグマンは映画開始後に出会った後発的恋人たちであり加えてお互いがお互いの愛に疑念を抱いて「柔らかく」になっているがゆえにあらゆる運動が主体性から遠ざかりしなやかさを維持して進められている(ちなみに●「三十九夜」では終盤マデリーン・キャロルが自ら進んでロンドン警察に協力を仰ぎに行っているがこれは「国家機密の情報は盗まれていない』という刑事の話を聞くことでミスターメモリーが情報を記憶しているのではないかというヒントを主人公たちに与えるためのマクガフィンに過ぎずだからこそマデリーン・キャロルは刑事たちに協力を断られている)。●「裏窓」は実によくできていて、刑事というスキルに満ちた自信満々の公人(ウエンデル・コリー)には事件そのものを信用させないことでスキルを有しているはずのレヴェル4の刑事をレヴェル2へ引き下げてその主体的な協力を無化させながら、グレース・ケリー・セルマ・リッターといった殺人事件のスキルを有しない私人だけが事件を信じることでスキルを有しない者たちによる協力という極めて私的なサスペンスを生み出している。向かいのアパートのセールスマンの部屋に侵入したグレース・ケリーが危機に瀕した時ジェームズ・スチュワートは警察へ通報しているがそこに駆け付けた警官たちもまた事情をまったく知らずにグレース・ケリーを逮捕するだけで帰ってしまい主人公たちに協力することはない。ひたすら巻き込まれでゆくヒッチコック的スリラーにおけるスキル喪失運動とは極めて私的な領域において生まれる出来事であり、だからこそスキル喪失運動における協力者の刑事(探偵)たちは●「疑惑の影」●「裏窓」●「北北西に進路を取れ」●「サイコ」等において主体性を主人公に波及させないような手段が講じられているのに対して、スキル運動の協力者において主体性を解消するのに成功している作品は刑事以外の協力者を含めて●「汚名」一本しか存在しない。そもそもスキルへと向けられた運動の場合主人公がスキルに満たされていることから協力者がスキル人間であることは運動を弱めることにはならない。弱めるのはあくまでも協力者の主体性=「心理的ほんとうらしさ」であり●「汚名」以外のスキル運動の作品の協力者は(主人公にしても)みな知的な主体性に満ちた人物であり●「汚名」のケーリー・グラントのように愛に引き裂かれて自信を喪失し「柔らかく(ふらふらに)」なっている協力者は一人も存在しない。

★敵対する刑事

ヒッチコック映画において登場する刑事は協力者ばかりではない。協力者とはある程度主人公と持続して行動しながら主人公の任務を補助する者たちをいい、だからこそ彼らはそれなりに名の通った役者が演じることになりその効果が主人公の運動にどう関わってくるかが問題となるのだが、ヒッチコック映画に登場する刑事や警官の大部分は協力者ではなく名もない敵対者として登場してくる。●「三十九夜」●「第3逃亡者」●「逃走迷路」●「北北西に進路を取れ」いった「巻き込まれ型」の多くには主人公を列車の中で追跡したり検問で尋問したりする警官が登場するが、彼らの行動が我々の記憶に名前として残ることはないのは彼らが主人公を追いかけるためのマクガフィンだからであり、マクガフィンに意味はないのだから彼らは刑事であって刑事ではなく、人間であって人間ではなく、主人公を弾き飛ばす存在そのものに集約されることから彼らに魅力的な人物云々の話は出てこない。その究極が●「サイコ」でジャネット・リーに職務質問をしたパトカー警官モート・ミルズであり(何かと●「サイコ」との共通点を挙げられるオーソン・ウェルズ●「黒い罠」(1957)でラストシーンにレコーダーを肩から掛けていたあの刑事がミルズである)、彼はそもそもジャネット・リーをベイツモテルへと追い込むためのマクガフィンに過ぎず、だからこそパトカーと制服、サングラスによって極限まで名前を削がれステレオタイプと化した彼の存在は、スピルバーグ●「激突!」(1971)のタンクローリーのように剥き出しの運動=「すること」となって主人公を弾き飛ばしてしまう。こうして背景=「であること」を削ぎ落とされた剥き出しの存在=「すること」であるがゆえに●「サイコ」のあのパトカーの警官は警官であって警官ではなく、従って黒沢清●「トウキョウソナタ」(2008)の役所広司のようにそれ以降ぶつりと消えて出てこなくなっても物語上は何の影響もない。ヒッチコック映画における理想的な警官とは名前を削がれた敵対者たちであり●「見知らぬ乗客」の二人組の刑事のように帯同しつつ黒子のように目立たず、主人公を遊園地へと追い込んでゆくためのマクガフィンとしての役割を終えてしまえば即消えてゆくような警官こそヒッチコック的運動を促進する反面●「間違えられた男」のハロルド・J・ストーンのように極めて主体的な厳めしさで主人公に関わり続ける敵対者は主人公の運動を停止させることになる。●「私は告白する」●「間違えられた男」といった作品はどちらの主人公もが自首をしたり逮捕されたりすることで積極的に刑事に接近してしまい、そこに出現したカール・マルデン、ハロルド・J・ストーンといった厳めしい道徳的な刑事たちとそこから続いてゆく法廷という主体的な場所とを二重にもたらし硬直化させてしまう。

★「フレンジー」(1972)

魅力的な刑事として撮られているのはおそらく●「フレンジー」のアレック・マッコウェンくらいかも知れない。彼が魅力的なのは彼自身が極めて柔軟で非主体的な身体の持ち主であり『我々は間違っていたのかも知れない、、』と素直にみずからの捜査の間違いについて思考し直すばかりか、そんな彼に対して『「我々」ではありません。間違っていたのはあなただけです』と突っ込んでくる妻(ヴィヴィアン・マーチャント)を持つ恐妻家であることで、変化する状況に刻々と反応するしなやかな身体性がヒッチコック的運動にフィットしている。加えてアレック・マッコウェンは主人公のジョン・フィンチを逮捕した時以外に主人公の運動に何ら関わってはおらず、真相に近づきつつある映画の後半においてもあくまでも離れた場所にいながら間接的に協力しているに過ぎない。ヒッチコックは遺作の●「ファミリープロット」(1976)において厄介な存在である「恋人」という存在を2人とも主人公にして巻き込まれ映画を撮り、その一本前の73歳で撮った●「フレンジー」ではこれまた厄介な存在である刑事という存在を「柔らかく」撮ることで主人公の巻き込まれ度を加速させることに成功している。

★おおやけ対私的

ヒッチコックの撮るスキル運動の協力者たちがひたすら善悪、道徳、真実などへと向けられた「おおやけ」の運動を進めていくのに対してスキル喪失型の人物たちは●「三十九夜」でロバート・ドーナットに制服を貸した牛乳屋、あるいは彼を逃がした農家の妻、また●「逃走迷路」で警官に嘘を教えてロバート・カミングスを逃がしたトラックの運転手等にあるのは人命救助、道徳といった理性的な「おおやけ」ではなく好奇心、恋心、警官嫌いといった極めて私的な感情=「すること」としてあり●「裏窓」のグレース・ケリーのように道徳からは程遠い私的好奇心に満たされている。

★私的

マクガフィンによって弾き飛ばされながら繰り広げられるヒッチコック的巻き込まれ運動は人物たちの社会的な地位からかけ離れた極めて私的な運動としてあり、諜報員や公務員=「であること」からまったき解放された彼らは極めて私的な運動=「すること」を繰り広げてゆく。●「バルカン超特急」におけるマーガレット・ロックウッドの「消えた女性フロイ(ディム・メイ・ウィッティ)を探す」という運動において、ドクターのポール・ルーカスとの初対面の通路で『フロイがいないのなら列車を止めるわ!』とまでマーガレット・ロックウッドに宣言せしめたのは未だ彼女が国家的陰謀を知るずっと前の出来事であったように、彼女のしていることは国家機密を守ることでもなければナチスの一団を叩き潰すことでもなく『私は確かに見た』を証明するための極めて私的な運動にほかならない。「失踪した人間を探す」という点に人命救助的な「おおやけ」の動機を見出すことは可能だとしても、そもそもマーガレット・ロックウッドの捜索運動は落下した植木鉢に頭を直撃されて「柔らかく(ふらふらに)」なっている彼女の前からフロイが失踪した後『私のお友達はどこ?』と尋ねたロックウッドに対してイタリア人奇術師セルマ・バズ・ディアスに『あんた、頭を打ったから忘れたんだろう』と言われて『失礼ね!』と烈火のごとく怒って席を立ったところから開始されたのであり、その後様々な人物から『あなたは頭を打ったから』と言われるたびに不機嫌になっていく彼女にあるのは勝気な娘のプライドを賭けた私的闘争であって人命救助ではない。だからこそ彼女はしばらくして不倫カップルの女に『私もフロイを見たわ』と言われた途端、未だフロイが見つかっていないにも関わらず特上の笑顔で『ほらね!』と勝ち誇っているし、その後、偽フロイの出現で再び彼女の証言が疑われた後も、ドクターから『あの女は実はフロイだ』と打ち明けられるとこれまた飛びっ切りの笑顔でマイケル・レッドグレーヴと握手をしており、この時点でフロイがミイラのように包帯でぐるぐる巻きにされて生死の有無すら不明であることをすっかり忘れて喜んでいて「結婚するためにロンドンへと向かう金持ちの娘」というマーガレット・ロックウッドの人物像とも呼応して彼女の運動は「みずからの体験を証明する」という極めて私的な地点へと集約されていくことになる。この作品についての批評ではよく、クリケットのことしか頭にない英国紳士二人組や不倫をしている平和主義者など政治に無関心な者たちをヒトラーを放置するイングランドの平和主義者(チェンバレン等)になぞらえてあざ笑いつつ戦争を示唆した映画であるという指摘がなされているが、そもそも彼らがクリケット以外のことには無関心であるからこそ主人公を孤立させることが可能となるのであり、それをして「批判」と捉える批評は主人公のマーガレット・ロックウッドですら政治のためではなくみずからの私的な駆り立てを満たすために運動をしているという事実を見逃している。●「海外特派員」におけるアムステルダムの風車小屋で見た光景を誰にも信じてもらえなかったジョエル・マックリーの運動が『私は確かに見た』という極めて私的なものから開始しているように●「三十九夜」のロバート・ドーナット●「第3逃亡者」のデリック・デ・マーニー●「北北西に進路を取れ」のケーリー・グラント、さらには●「見知らぬ乗客」のファーリー・グレンジャー、●「間違えられた男」のヘンリー・フォンダ、●「フレンジー」のジョン・フィンチ等刑法上の嫌疑をかけられた主人公たちの運動は、国家機密の保持や犯人逮捕という公的=「おおやけ」の目的ではなく、ひたすらみずからの潔白の証明なり復讐なりといったプライベートな領域へと向けられているのであり、だからこそ彼らは犯罪の嫌疑をかけられていると言うべきなのだが、国家機密の保持や真犯人の逮捕は私的になされ続ける運動の結果的な出来事として「あと」からもたらされるマクガフィンに過ぎない。諜報部員のレオ・G・キャロルから国家機密漏洩阻止への協力を頼まれた時『僕は広告業者でプロのスパイじゃない』ときっぱり断っている●「北北西に進路を取れ」のケーリー・グラントが国家機密の保持という「おおやけ」の任務に協力したのは敵側にスパイとして潜入しているエヴァ・マリー・セイントを救出するという私的な恋心からにほかならず、泥沼の愛と殺人事件へと巻き込まれていった●「めまい」のジェームズ・スチュワートもまた彼の望む洋服を着ることを拒むキム・ノヴァクに対して『俺のためにやってくれ!』とその私的欲望を露わにし、映画の終盤では殺人事件の真相を暴くべくキム・ノヴァクを従え教会の階段を上りながら『やった、やった!(I Made It)』と、みずからのめまい症が治癒したことを実に素直に喜んでおり殺人の犠牲となったトム・ヘルモアの妻の存在など完全に忘れている。こうしてヒッチコックは巻き込まれ運動を撮る場合には極めて私的な運動を繰り広げているが、スキル運動の中では唯一●「汚名」だけが私的な領域に留まることが運動論的に練られている。イングリッド・バーグマンはFBIのケーリー・グラントからスパイとして勧誘される際、『君にも愛国心があるんだろう?』と聞かれて『愛国心なんて聞いただけで胸が悪くなるわ。ノーサンキューよ』と答え、父親との会話を盗聴されたたレコードに録音されている『愛国心が私にはあるわ』というみずからの言葉を聞かされた後もなお『警察の手先になんかならないわ』と任務を引き受けることを拒絶しており、少なくともこうした展開は●「間諜最後の日」で上官に『君に愛国心はあるのか?』と聞かれたジョン・ギールグッドが『ある』と即答したのとは大きく異なり、バーグマンがスパイになることを承諾したのは父親の汚名の償いに、あるいは飲んだくれの彼女が自分もできるというアイデンティティを確保するため、あるいはケーリー・グラントへの愛によって生まれ変わるため、どちらにしても実際なされる彼女の運動に「おおやけ」へと向けられた傾向を見出すことは困難であり、極めて繊細な細部の積み重ねによってバーグマンから「おおやけ」という主体性を剥ぎ取っている。

★「ファミリープロット」(1976)

遺作の●「ファミリープロット」は占い師(霊媒師)のバーバラ・ハリスとタクシー運転手のブルース・ダーンがある老婆に依頼されて老婆の相続人を探すという作品だが、社会的信用などゼロに等しい占い師とタクシーの運転手のカップルが遺産相続人を探す報酬として得られる1万ドルを得るためになりふり構わずターゲットを探し続け、その結果警察が手も足も出なかった連続誘拐事件の犯人をまんまと捕まえてしまったにもかかわらず、まるでゴダール●「女は女である」(1961)のラストシーンのアンナ・カリーナのようにキャメラに向かってニッコリ微笑みウインクをして見せたバーバラ・ハリスのその笑顔こそ『ほらっ!わたしの超能力ってほんものだったでしょ』といわんばかりの極めて私的な出来事を私的に証明し終わった女の極めて私的な笑顔にほかならず、連続誘拐事件解決の喜びなど微塵も見せない瑞々しいその面影は数々の私的な出来事を私的に証明し続けたヒッチコック映画のそれまでの登場人物たちを集約しながら●「カリフォルニア・ドールズ」(1981ロバート・アルドリッチ)●「ジンクス」(1982ドン・シーゲル)といった私的な運動をフィルムに焼き付け逝ったB級映画の監督の遺作たちをも私的に呼び寄せている。彼らはあくまで私的に運動をし続けた結果、思いもよらない「凶悪誘拐犯逮捕」という「おおやけ」が「あと」からやって来たのにすぎない。

★失速~「汚名」(1946)だけが、、、

ヒッチコック的スキル運動は多くの場合「おおやけ」へと接近していく。●「パラダイン夫人の恋」のグレゴリー・ペックは一方的に思いを寄せるアリダ・ヴァリへの愛を裁判における無罪という「おおやけ」の手続きにおいて勝ち取ることに執着し続け●「舞台恐怖症」のジェーン・ワイマンはほのかに恋心を抱いていたリチャード・トッドの逃亡を助けるために役を演じて奔走するが、刑事のマイケル・ワイルディングへの恋心が芽生えたあとも『無実の人を罪に陥れることはできないわ』という「おおやけ」の道徳感から事件の捜査に協力している。殺人を告白された●「私は告白する」の神父モンゴメリー・クリフトは「守秘義務を貫く」という極めて理性的で利他的な「おおやけ」を貫くことで罪を着せられ命を落としかけているし●「トパーズ」のフレデリック・スタフォードは『アメリカはキューバとの接点をヒッグス湾事件でなくしている。キューバの現状を放っておけない』と献身的な「おおやけ」の動機でスパイとしてキューバへ侵入している。これらの救出運動は他人を助けるという「おおやけ」の動機が「さき」にありその結果として運動が「あと」から起動しているのに対し●「汚名」でケーリー・グラントがバーグマンをクロード・レインズの屋敷から救出したように、愛によって「柔らかく」なった者たちの自分のための私的な運動は他人のためという「おおやけ(スパイ事件解決)」という動機を「あと」から呼び寄せるにすぎない。ワード・ホークス●「脱出」(1944)のハンフリー・ボガードが常に政治的には中立を貫きレジスタンスの夫婦を救出するにもあくまで「宿泊費を返すため」という私的な動機がわざわざ付け加えられていたのは、運動とは本来的に理性から遠ざけられた私的な出来事であることの証左としてあり、同じハンフリー・ボガードでもマイケル・カーチス●「カサブランカ」(1942)のボガードが、カジノで負けた夫婦をまったき「おおやけ」の動機から助け、またバーグマンとの恋愛についても「おおやけ」の感情からみずから身を引いたのとはまったく違った運動の流れとしてある。

★「巌窟の野獣」(1939)

母が死にたった一人の身寄りの叔母(マリー・ネイ)を頼ってアイルランドからイギリスのとある港のうらぶれた一軒宿ジャマイカ・インやってきた娘モーリン・オハラが叔母の夫(レスリー・バンクス)と彼を背後で操る領主チャールズ・ロートンの画策する盗賊団の集団殺人事件に巻き込まれ一味に潜伏していた捜査官のロバート・ニュートンと協力しながら事件を解決してゆくこの作品は、一味にリンチされ吊るされそうになっている見知らぬロバート・ニュートンをモーリン・オハラが人命救助の精神から助けるという「おおやけ」の運動から始まり、一味の実態を知ってしまったことによって追われる身になったモーリン・オハラは一旦宿屋からの脱出に成功したにもかかわらず、盗賊団のボスの妻である姉マリー・ネイが処罰を受けないようにという「おおやけ」の動機からわざわざ危険な宿屋に舞い戻ったばかりか、その後岸壁を駆け上がり盗賊団の見張りと格闘して灯台に灯りをともし難破船を救助するという人命救助に精を出し、その姉のマリー・ネイもまた難破船の船員が皆殺しに遭ってはならないという「おおやけ」の動機から椅子に縛られた捜査官のロバート・ニュートンを逃がしており、そのロバート・ニュートンもまた最後まで「おおやけ」の職務を執行し続けるというように、探偵のスキルを欠くモーリン・オハラを主人公にしながらもこの作品はその運動が徹頭徹尾「おおやけ」へと志向されることでモーリン・オハラの巻き込まれ運動が硬直化している。

★「知りすぎていた男」(1956)と「暗殺者の家」(1934)

夫婦ものとしての弱さを内包するこの二つの作品にも「おおやけ」の影が忍び寄っている。余りにも見事な演出のため忘れてしまいがちであるが、あのアルバートホールでエドナ・ベスト(ドリス・デイ)がみずからの悲鳴によって助けたのは某国の首相であって誘拐された娘(息子)ではない。彼女はアルバートホールで暗殺団のテロの対象がコンサートを見に来ていた某国首相であることを察知しとっさに悲鳴を上げて首相を助けているが、首相を助けることと誘拐された子供が助かることとは因果的に直結していないばかりか、首相を助けると却って余計な邪魔をしてくれたと子供の命を危険にさらすことにもなりかねない。このあたりの演出をヒッチコックはまったき「おおやけ」にならないようそれがドリス・デイの衝動的運動に見えるよう苦心して撮っているし、そもそも100%私的な運動など存在しないにしても、他者の命の危険を察し涙を流して悲鳴を上げた彼女たちの運動は「おおやけ」からくる人命救助に極めて近いものとして露呈している。●「知りすぎていた男」ではむその後夫婦は自らの意志で主体的に警察の協力を仰いでおり、その点においてはオリジナルの●「暗殺者の家」以上に「おおやけ」への接近度は加速している。

★「裏窓」(1954)と通報

●「裏窓」においてジェームズ・スチュワートは向かいのアパートの一室に住むミス・ロンリーハートの自殺未遂を目撃して警察へ通報しており、それは人命救助という「おおやけ」へ向けられた行動であるように見えながら、ミス・ロンリーハートは自殺を思いとどまって通報は結局意味をなさず、その通報は第三章で検討をするように向かいのアパートに侵入したグレース・ケリーの危機を救うための通報へと転換されており、ミス・ロンリーハートの自殺未遂という行動とそれに伴う通報は恋人のグレース・ケリーを救うためのマクガフィンであってそれ自体「おおやけ」としての意味はなく私的な運動の過程へと解消されている。ここでは、グレース・ケリーを助けるために直接通報するという「おおやけ」が周到に忌避されていることを見逃してはならい。凄まじく綿密な脚本である。

★「海外特派員」(1940)と「逃走迷路」(1942)

再び●「海外特派員」を今度は「おおやけ」という観点から●「逃走迷路」と共に検討してみたい。第二次大戦の開戦を挟んで撮られているこの二つの作品は「おおやけ」へと向けられた細部がいくつか露呈している。ちょうど撮影中に真珠湾攻撃を受けたアメリカが戦争へと突入していく真っ只中で撮られた●「逃走迷路」は、カリフォルニアの飛行機工場に対する破壊活動によって引き起こされた殺人事件の容疑者とされたロバート・カミングスが西海岸から東海岸までを逃走する「巻き込まれ型」の一本である。ここで逃亡犯のロバート・カミングスは逃走途中の森の中の一軒家に逃げ込み盲人ボウハン・グレイザーに助けられることになるのだが、ヒロインのプリシラ・レインの叔父である彼はロバート・カミングスが逃亡中で手錠をかけられていることを何故かすぐに見破ったばかりか、彼を警察に突き出すのが国民の義務だと主張する姪のプリシラ・レインに推定無罪の法則でやり返し『私には真実が見える、彼が無実の罪だと私にはわかる』と制止してロバート・カミングスに協力するようにプリシラ・レインを説得し、手錠を切るために友人の鍛冶屋まで紹介している。●「三十九夜」の農家の妻、ペギー・アシュクロフトもまた新聞でロバート・ドーナットが逃亡犯であることを知りつつ何のためらいもなく彼を信じその逃亡の手助けをしている点で●「逃走迷路」のボウハン・グレイザーと同じようにも見えるが、それは片田舎で年の離れた厳格なカトリックの夫と暮らす彼女が都会からやってきたハンサムで洗練されたロバート・ドーナットに抱いた恋心がそうさせたのであって決してロバート・ドーナットが「信頼できる人間」だからという理性的な判断によってなされてはいない。●「裏窓」のグレース・ケリーや●「フレンジー」のアンナ・マッシーといった「後発的恋人たち」の「信じること」が五感の感覚による極めて不確かで周辺的なものによってなされたように、ボウハン・グレイザーの「信じること」もまた盲人による研ぎ澄まされた感覚による声の振動や身体の鼓動を感じ取ったものであるとしても、そこから出てくる彼の自信満々で理性的な言動は「見ること」や「聞くこと」の複雑性や不確実性からかけ離れた画一性へと運動を限定させているばかりか、そのボウハン・グレイザーの道徳的態度に諭されてロバート・カミングスと行動を共にすることに至る姪のプリシラ・レインの有り様は主人公に巻き込まれるようにして協力することを余儀なくされる●「三十九夜」のマデリーン・キャロル●「第3逃亡者」のノヴァ・ピルビームと打って変わった「真実」に基づく主体性に支配されている。さらにその後ロバート・カミングスとプリシラ・レインが紛れ込んだサーカス団の団長ペドロ・デ・コルドバにしても、ロバート・カミングスの手錠を見て彼が逃亡犯であることを知りながらわざわざ多数決という極めて民主的で理性的な採決を提案して彼を助けるかどうかを団員たちに尋ね、それに反対する団員を『ファシスト!』と罵り『傍観者になってはならない』『困っている人を助けなければ』と二人を賛成多数で匿うという極めて主体的な決断をしている。ヒッチコックのドキュメンタリー番組に出演していたノーマン・ロイドによるとペドロ・デ・コルドバはシェイクスピア作品によく出ていた俳優らしく、持って回った言い回しや発音は盲人を演じたボウハン・グレイザー同様ヒッチコックの巻き込まれ運動の典型としてある幼稚な人物像からはかけ離れた主体性に支配されているし(自由の女神から落下したノーマン・ロイドの方がヒッチコック的である)、協力者のプリシラ・レインにしてもサーカス団の女の『私が感動したのはこの娘が彼に寄り添っているところ。何も言わずにひたすら彼をかばっている。これを見て思ったの。人が困っている時に助けるのがいい人なんだって』という「おおやけ」の言葉を聞いて感動しロバート・カミングスをアッサリ信じているが、それは●「裏窓」のグレース・ケリーの「見ること」や●「フレンジー」のアンナ・マッシーのようなシラミの匂いを「嗅ぐこと」という突拍子もない複雑性においてなされたものではなく、あるいは●「第3逃亡者」のノヴァ・ピルビームがデリック・デ・マーニーに対して「柔らかく」なってゆくためになされた繊細な演出のようなものもここにはなく、ひたすらサーカス団の女の言葉を「読むこと」によっていきなりロバート・カミングスを信じてしまっているその態様は、他の「巻き込まれ型」作品とは明らかに違った主体性に包まれている。さらにまたフランク・スキナーの音楽も非常に感傷的で善悪を想起させるスコアとなっているのに加えてロバート・カミングスは破壊活動の首謀者であるオットー・クルーガーの『大衆はバカだ。民主主義は効率が悪い』という言葉に対して『大衆はバカではない。アメリカはひとつになってお前たちと戦うんだ』という「おおやけ」のことを述べているばかりか、ニューヨークでは犯人逮捕のために積極的に警察に協力したあげくにあろうことか自由の女神に宙づりになった破壊工作者のノーマン・ロイドに手を差し伸べ人命救助をしている。これは一見何の変哲もない出来事のように見えるものの、ヒッチコックの主人公に人命救助などという「おおやけ」の運動がふと画面に出現した時、途方もなくぎこちない運動として私を驚かせてしまう。●「第3逃亡者」の廃坑に転落しそうになっているノヴァ・ピルビームに手を差し伸べたデリック・デ・マーニーにしても●「北北西に進路を取れ」のラシュモア山から落下寸前のエヴァ・マリー・セイントを救い出したケーリー・グラントにしても●「めまい」で海に飛び込んでキム・ノヴァクを助けたジェームズ・スチュワートにしても人命救助などという「おおやけ」の動機は微塵も存在せず、彼らは極めて私的で本能的な反射運動として愛する者に手を差し伸べているのであり、それは「すること」という私的な領域へと巻き込まれてゆくヒッチコック的運動のエモーションとしてある。成瀬巳喜男の論文において、日本の戦争が過熱してゆくにしたがって登場人物たちが主体的になっていき二枚目によって運動をしてゆく成瀬映画にある種の停滞をもたらしたことについて検討したが、ヒッチコックにおいても戦争という出来事は人物を主体的にさせる要因になっているように見える(「バルカン超特急」という非常に私的な運動を捉えたフィルムにすら銃撃戦という、それ以降のヒッチコック映画において二度と見ることのできない主体的な出来事が挿入されている。こうした戦争による主体性は●「海外特派員」(1940)にもあり、アメリカが参戦(1941.12.8)する以前に撮られたこの作品は、映画後半あたりから協力者であり記者でもあるジョージ・サンダースの主体的な協力が画面を支配し始め、同じ記者仲間のロバート・ベンチリーに言わせると『地獄耳で何でも知っている』男であるジョージ・サンダースは、ジョエル・マックリーが私立探偵のエドマンド・グウェインに寺院の展望台から突き落とされそうになった後のシークエンスで、エドマンド・グウェインが実は殺し屋であること、ハーバート・マーシャルがスパイであることなどをすべて知っていて、その詳細な情報をジョエル・マックリーに教えているばかりか、その後ラレイン・デイを計画的に誘拐して父親のハーバート・マーシャルを脅し情報を得ようと画策したあと、誘拐組織のアジトに単身乗り込み、大立ち回りを演じてアルバート・バッサーマン救出に一役買っている。こうして計画的、合理的、主体的なジョージ・サンダースの協力を得たジョエル・マックリーの運動はその影響をつぶさに受けて『新鮮さと初心(unused mind)を失ってゆきながら「であること」=「おおやけ」へと接近してゆくことになる。終盤ジョエル・マックリーは逃亡を試みるハーバート・マーシャルと娘のラレイン・デイの乗ったアメリカ行きの飛行機に乗り込むことになるのだが、ジョエル・マックリーはラレイン・デイを助けるためではなく敵スパイのハーバート・マーシャルを追跡するという「おおやけ」の任務から飛行機に乗り込んでいて、その後飛行機がドイツの駆逐艦に攻撃されて結果として溺れそうになったラレイン・デイを助けたりしてはいるものの、海の中に沈んだハーバート・マーシャルを助けるために自らの意志で海に飛び込み人命救助を試みてもいるのであり、『新鮮さと初心(unused mind)』=「すること」オンリーで起動した筈のヒッチコック的巻き込まれ運動はロンドン空爆の空襲警報が鳴り響くさなかラジオのマイクに向かってジョエル・マックリーがアメリカの参戦を訴えるという「おおやけ」によって終わっている。ヒロインの在り方にしても、ラレイン・デイはホテルの壁を伝って入って来たジョエル・マックリーが自分を信じてもらえないことに意気消沈し同情を引くような(くさい)演技で部屋を出ようとしたのを「見ること」でも「嗅ぐこと」でもない「読むこと」に接近した流れによってそのまま信じており、その後マックリーが「ホテルで別の部屋を取った」という些細なことで再び信じなくなって父親ハーバート・マーシャルとの同行を優先する彼女の行動は一度信じたロバート・カミングスをその後あっさりと信じなくなってしまった●「逃走迷路」のプリシラ・レインと同じように善悪の基準によって信じたり信じなくなったりするのであり、それは父親のパーシー・マーモントを辞職の危機にまで追い込みながら最後までデリック・デ・マーニーへの愛を貫き通した●「第3逃亡者」のノヴァ・ピルビームとは明らかに違った「おおやけ」が見て取れる。戦争は主人公があられもなく「柔らかく」なることを禁止し父親との同行、真実の探求といった「おおやけ」による主体的な運動を要請する。多くの細部を配置してマックリーを「すること」の運動に巻き込もうとしても、ふとしたところから「おおやけ」の亡霊が顔を出す。ヒッチコックが戦争期に撮った作品の中で戦争から逃避したプライベートな領域での「すること」の運動を成功させているのは●「疑惑の影」(1943)しかない。ヒッチコック映画とは実に繊細で壊れやすい精密機械のようなものですべての細部が完全に呼応した完璧な作品は存在せず多くは危険な細部との融合によって綱渡り的に形作られている。

■過去

ここまでヒッチコック的スキル運動における主人公と協力者における「主体的」身体性について検討した。巻き込まれ易い「柔らかい」身体に対して「主体的」な身体には真実、善悪、理性、道徳、知的、読むこと、分節化、客観性、知っていること、おおやけ、、といった現象が付着しており、そこにはすべて「過去」という出来事がしがみついている。過去の関係、過去の体験、過去の知識、過去に獲得した免許、過去に築いた信頼、家庭、愛情、、そして教育や遺伝子によって過去から受け継がれた「おおやけ」に関連する道徳、倫理、善悪、といった出来事がヒッチコック的スキル運動には付着している。人間には過去があり現在の人間は多かれ少なかれ過去に支配されていることからするならばヒッチコック的スキル運動とは極めて人間的なそれであり、そうした人間的な出来事が映画に出現するとヒッチコック的スキル運動は主体化・心理化してしまうという現象が惹き起こされている。

★家畜

それに対して人間的なるものを極限まで取り去って撮られているのがスキル喪失の巻き込まれ運動=「すること」であり●「三十九夜」における、職業も過去も何もかも不詳のカナダ人旅行者こそ人間的なるもの=過去を取り去られ現在のみに突き動かされ動物的運動=「すること」の極致としてある。『俳優は家畜だ』とヒッチコックが言ったという逸話はその具体的な意味合いもあとから解釈されたようなところがあり一概には言えないが(「映画術」127頁以下)みずからの意志も主体性もなくまるで駒やピンボールのように弾き飛ばされてゆくヒッチコック的巻き込まれ運動の俳優たちは心理的でリアルな人間ではなく物質的でほんとうらしくない動物としてあり、それを家で飼えば「家畜」となるのだから『俳優は家畜』というヒッチコックのその言葉はそれなりに遠い意味合いではなかったのかも知れない。

★回想

ヒッチコック作品において回想が挿入された作品は以下の通りである(ヒッチコック回想表参照)

★過去の回想

サイレント期では●「下宿人」でアイヴァ・ノヴェロの妹が殺されるシーン等の長い回想が入り●「ふしだらな女」では裁判が事件の回想形式で進められたりしているが、ヒッチコック映画が巻き込まれ運動を撮り始めた●「暗殺者の家」以降、回想と呼べるような過去の出来事の長い回想シーンの挿入される作品は●「舞台恐怖症」●「私は告白する」●「マーニー」の3本であり、映画開始以前の出来事の非常に長い回想が入るこれらの作品はみなスキル運動の撮られた主体的な作品であることで共通している。それ以外でも●「白い恐怖」のように回想と同視できる夢分析のシーンを挿入しながら主人公の精神分析をして過去へと遡ったり●「山羊座のもとに」のように回想は入らないものの「過去の自分たちを取り戻す」といった作品、あるいはグレース・ケリーの過去の浮気が起点となって手紙の盗難から脅迫まで過去になされた出来事を延々と説明していく●「ダイヤルMを廻せ!」のように、スキル運動の撮られた作品には過去や過去の真実へと向けられた出来事が頻繁に撮られる傾向があるのに対してスキル喪失型巻き込まれ運動の場合、同じく過去の犯罪の有無が重要となる●「疑惑の影」においては所々に挿入される「メリーウィドウ」のメロディをバックにした未亡人とのダンスシーンによってジョセフ・コットンの殺人事件が間接的に暗示されるにすぎず、殺人の動機にしても姉のパトリシア・コリンジによってジョセフ・コットンが幼少時に起こした自転車事故によって病的になったと説明されはするものの●「白い恐怖」や●「マーニー」のようにジョセフ・コットンを精神分析によって過去へ遡らせることで理路整然とした答えに辿り着くのではなくジョセフ・コットンは現在の運動をそのままし続けているのであ (精神分析と運動との関係、また犯罪者と過去との関係については後述する)それが思春期の少女テレサ・ライトの現在の危機と相俟って運動は徹頭徹尾現在へと集約されている。巻き込まれ運動とは動物的な「すること」であり動物に過去は存在しないのだから映画が過去にさかのぼることなど基本的にあるわけもなく●「第3逃亡者」の被害者の女が昔、主人公デリック・デ・マーニーのパトロンだったことが彼の容疑を強めるためのマクガフィンに過ぎないように、また●「めまい」におけるキム・ノヴァクの過去の曾祖母の逸話がジェームズ・スチュワートを騙すためのマクガフィンであったように、また●「ファミリープロット」における過去の霊の意志もまた探偵行為を惹き起こすマクガフィンに過ぎずそれ自体が重要なわけではないように、あるいは●「フレンジー」において殺人容疑で逃亡するジョン・フィンチが被害者である前妻との離婚裁判の際暴力をふるったことにして離婚を早めたことが彼の容疑を強めることになる等、「すること」へと接近する巻き込まれ型の作品において映画開始以前の過去は多くの場合主人公の容疑を強めたり運動を起動させたりするマクガフィンとして映画に顔を出す程度であって決してそれ自体へめがけられるものではなく、運動そのものを起動させたあとそれらの過去は役割を終えてどこへともなく消え去ってしまっている。それに対して●「舞台恐怖症」●「私は告白する」●「マーニー」●「白い恐怖」●「山羊座のもとに」といったスキル運動の作品は運動が過去の真実そのものへとめがけられてしまうために「~であること」への急接近を許しスキル運動は危険に瀕することになるのであり、これはハワード・ホークスの職業的スキル運動が徹頭徹尾現在へ向けられているのとは異なっている(ホークスについては後述)。スキル喪失の巻き込まれ運動の中で映画が過去の真実をめがけて遡ってゆく作品は●「レベッカ」1本であり、映画の最初と最後がジョーン・フォンテインによる回想の形式で始まるこの作品は、終盤ローレンス・オリヴィエが妻のレベッカを殺したかどうかという過去へと方向転換されて以降、「起源」を想起したローレンス・オリヴィエの運動は主体化を帯びてゆく。